タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

2023年に見た作品を振り返る(アニメ旅の完走から傑作・凡作・駄作まで)

去年は総括みたいなことが出来なかったので、今年は総括として2023年に視聴したアニメ・ドラマ・映画の振り返りをしようと思う。

 

アニメ旅の完走

まず最初に今年の6月に企画した「夏のアニメ旅」を完走したことを宣言しておく。

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まさか「ゾン100」が12月まで延期になるとは思っていなかったから当初の予定から大きく外れた"長旅"になったけど、1クールの間に三本の連続アニメを視聴してレビューを書くというこれまでやったことのない試みをしたことは自分にとっても、そして私のブログを読んでくださった方々にも良い刺激になったのではないかと思う。

 

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「アンファル」と「ダークギャザリング」の感想・解説は以上にまとめているが、「ゾン100」はそんなに大したことは書いてないからカテゴリーとしてまとめるのはやめた。とはいえ、「ゾン100」は以上の2作と比べると、専門知識に基づく感想・解説ではなく、私自身の経験や価値観が反映された感想になっていると思うので、私タリホーがどんな思想の持ち主か気になるという物好きな方は読んでみても良いかもしれない。

 

で、この3作を同時期に視聴して思ったけど、「アンファル」は19世紀末のヨーロッパという過去を舞台に描き、「ダークギャザリング」は幽霊という過去の存在を通した現在が描かれた作品だ。そして「ゾン100」は、これからの私たち日本人がどのようにして幸福を求めていくのかという未来を考えさせる一作だった。何の偶然かこの3作を通じて私は過去・現在・未来という時間の流れを感じながらそれぞれの作品を堪能し、この世界はどのような過程を経て今の形に落ち着いたのかが何となくわかったような気がする。そういう点でもこの「アニメ旅」は実に有意義な企画だった。

 

「犬神家」関連の作品が充実していた

有意義と言えばもう一つ、今年は面白いことに「犬神家の一族」関連の作品が充実していたということにも触れておきたい。

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まずは4月にNHKで放送された吉岡版「犬神家の一族」。前後編の3時間という尺で描かれた本作は特に最後の結末の改変で賛否両論となった。Twitter での私のフォロワーさんの評価を見ている感じだとほとんどは「賛」の意見だったと思うし私も本作を評価している。前作の「八つ墓村」が散漫な印象だったから、今回の結末の改変は高く評価したいし、「あんな激戦地を生き抜いて出征前と性格が変わらない原作の彼の方がおかしいのでは…?」と考えさせられる部分もあった。(その分ミステリとしてモヤモヤが生じた部分もあったのは否めないけどね)

 

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そして9月に公開された映画「ミステリと言う勿れ」では、遺産相続絡みの事件を描いた「犬神家」を彷彿とさせる作品だった。この映画では「犬神家」でも描かれた親世代が私たち子世代に振りかけてくる呪いを描いており、それを次の世代へと受け継がないために久能や狩集家の人々が奮闘する作品だ。原作に忠実な映画化としてもよく出来たクオリティだったと思う。原作は絵のタッチがマイルドなので鬼畜の所業に感じなかった部分も、映画だと生身の人物によって演じられていることもあって、予想以上にとある人物のえげつなさが表現されていて、そこも映画ならではの良さがあったね。ED曲の「硝子窓」も物語の余韻を後押ししていてグッドだった。

(連ドラのED曲「カメレオン」はお涙頂戴的演出のせいでイマイチ好きになれなかった)

 

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それから今現在も口コミで興行収入を更新し続けているまごうことなき大ヒット作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も、当主の死を発端とした連続殺人という点では「犬神家」につながる作品だ。上の感想記事ではインテリぶった感想になっちゃったけど、本当は「すっげぇ面白かったぞコレ!!」という語彙力皆無の興奮を伝えたかったんだよね。でも結局それが出来なかったので代わりにこちらのレビューを紹介するわ。(私も黄泉平坂まで行って水木大先生に感謝したいよ)

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先日注文していた映画のパンフレットが届いたので読んでみたけど、隠れミッキーならぬ「隠れ妖怪」がいると知って俄然2回目も観に行きたくなったよ。鬼太郎なんてほとんど見たことがないという映画レビュワーも次々と絶賛しているし、これほど鬼太郎を推していて鼻が高いと思ったことはないくらいに嬉しさがこみ上げている。それだけ制作陣がこだわりを持って作ったことが評価されているという証拠でもあるのだが、こだわりと言えば、YouTube で公開されている水木が夜行列車に乗っている場面。この場面だけでもこだわりを感じられるよね。

 

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列車内の場面一つとっても、タバコの煙が充満した車内、床に散らばったゴミ、咳き込む少女とそれを介抱する母親、二人を見つめる異様な視線と、様々な情報が押し寄せて来るし、水木がタバコをトントンとする行為にも上で紹介したホッカイロレン氏によるとちゃんと意味があるみたいで、ホントに感心させられるよね。動画の15秒辺りで水木の後ろに座っている客があくびをするけどさ、こんなのアニメーションにする手間を考えたら別にカットしても良いのにそこもアニメとして乗客の動きを見せているのだから、世界観の構築に手抜きが一切見られない。そりゃヒットするし何度も観に行きたくなるよね。

 

今年の凡作・駄作について

さて、傑作・名作だけでなく凡作や駄作についても言及しておかなければならない。

 

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ここ最近大ヒット作が出ていないどころか、何かと批判され炎上しているディズニー映画。「ホーンテッドマンション」も例によって初週こそ動員数1位を記録したもののそれ以降は伸び悩んで世間の評価は凡作止まりとなっている。ただ個人的には面白い映画だったと思うし、生と死という旧作以上に普遍的なテーマを扱った物語としては時代や流行に囚われない、いつ見ても楽しめる作品になっていたと思う。鬼太郎映画がマニア向けに作られたにもかかわらずヒットしたことを思うと、この「ホーンテッドマンション」は大衆向け作品として作られたけど中身はマニア向けの作品だと思うし、アトラクションを知っていればいるほど面白い映画だと評価している。物語の舞台となるニューオーリンズの知識もないと劇中で描かれたことの意味もピンと来ないだろうから、そりゃ凡作にしか映らないのも無理はない。

 

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ポアロの映画はミステリ映画としては間違いなく駄作だけど、ストーリーはクリスティらしさがあって駄作になりきらずに済んだという感じだろうか。前2作が映像化の定番である「オリエント急行」や「ナイル」だったのに対し、『ハロウィーン・パーティ』というマイナー作品をチョイスした辺り、ブラナーにとっては意欲作であり挑戦作だったのかもしれないが、結果的にブラナーのクリスティ作品を監督する上での長所と短所が明確になった。そういう点では興味深い作品だったかもしれない。

 

さて、ここからはブログで言及していない凡作・駄作の話に移るが、実は先ほど紹介した「アニメ旅」の3本以外にも「鴨乃橋ロンの禁断推理」というミステリ漫画原作のアニメを今期は視聴していた。

鴨乃橋ロンの禁断推理 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

一応原作を途中まで読んでからアニメを見たのだけど、まぁ~ミステリとしても凡庸だしキャラクターも魅力に欠けるしで、結局アニメは6話で視聴を打ち切っちゃったんだよね。ミステリ作品にあまり触れたことがない人にとっては入門としておススメ出来る作品だとは思うけど、私みたいなすれっからしのミステリマニアには全然響くものがない。天才の描き方にしてもとりあえず変人・偏食にしておけば良いという安直さが透けて見えるようなキャラ設定でそこも鼻につくというか何というか。ワトソン役の刑事のツッコミも無駄に長いしキレが悪いしな…。

まぁ、ミステリとしては決して出来が悪い作品ではないので、あくまでも私のセンスに合わなかったという話だ。(そもそも私ホームズよりもポアロ派だし、ホームズをリスペクトした本作が合わないのもある意味当然か)

 

あ、センスに関して一件言っておきたいことがあるけど、本作は「探偵学園Q」みたいな探偵養成学校があって、「密室」とか「変装術」といった各分野に精通するプロの教官が在籍している。その中で「時刻表学」担当の教官がいるのだけどさ、いや、そこは「アリバイ」でしょうよ!?

時刻表トリックなんて分単位で列車やバスを運行出来る日本だから通用するトリックだぞ!世界レベルの探偵を養成する学校でそんなニッチな学問教えてどーするんだ!と思ったし、これだけでも「あ~私この作者とセンス合わない…」って感じた。

 

そんな退屈な「鴨乃橋ロン」を凌駕し、今年私が視聴した映像作品で最も酷かった駄作として認定したのが、7月にフジテレビで放送されたドラマ「真夏のシンデレラ」だ。

真夏のシンデレラ

当初は主演の森さんや間宮さんをはじめとするキャスト陣の顔ぶれを見て「これは良い群像劇になるんじゃないか」と期待していたが、まぁ~恋愛ドラマに無知な私が見ても脚本もキャラ設定も全てが無茶苦茶で、登場人物の誰一人として感情移入も共感も出来ないという正真正銘の駄作だ!

 

湘南で飲食店の経営とサップのインストラクターをする女性・蒼井夏海、東京の大手建築会社のエリートサラリーマン・水島健人、住む世界の違うこの二人が恋に落ちるという王道のラブストーリーなのだが、この「住む世界が違う」ということを強調したいがために健人の同級生である佐々木修がやたらに夏海とその友人を見下す発言をするし、夏海の幼馴染みである大工の牧野匠が健人につっかかってくる。テーマありきで物語や登場人物を動かしているのだから、匠と修なんか5話までの段階だとマジで洒落にならないレベルのクズ野郎だし、修に関しては人格障害を疑うレベルの暴言のオンパレードだったからね。

まぁ百歩譲ってキャラ設定はこれで良いとしてもよ?せめて修が暴言メーカーになった原因や背景となる描写が入れられていたら、まだ作品として成立したと思うんだよね。教育熱心な上にエリート至上主義な親に育てられたせいで人格が歪んだという、この情報だけでも入っていたら修という人物に厚みが生まれたと思うのだ。でもドラマはそんな背景を描かずに、滝川愛梨の「修くんは根は優しい」という一言で片づけている。だから全ての登場人物が記号的であり、奥行きがない。メインである夏海と健人の恋愛模様にしても、お互い良い人というだけで相手に対する期待だったり自分のエゴがあまり出て来ないから、そこも実につまらない。

要は、メインの二人を単なる良い人として描いた結果、物語を大きく進展させられなくなったため、周りをとんでもない人格破綻者にすることで物語を動かしているのがこの「真夏のシンデレラ」の暴力的とも言えるストーリー運びの正体なのだ。

 

だから「真夏のシンデレラ」は実の所群像劇ではない。夏海と健人の二人の恋を進展させるために、周囲に人の心が欠如したクズ野郎を配置したドラマと称した方が正確だと私は思う。

5話で夏海の弟が同級生の女子生徒を妊娠させてしまったエピソードとか、7話で家に戻って来た夏海の母親が借金返済のため店の金を着服するエピソードとかマジでいらなかったし、妊娠騒動に関しては5話以降一切触れられないんだからね?言っておくけど未成年妊娠なんてちょっとした修羅場を盛り上げるために挿入するような類のエピソードじゃないし、何ならそのテーマだけで1本連ドラ作れるんだぞ!日テレで放送された14才の母を知らないのかここのスタッフたちは!

こういうトラブルとか修羅場って登場人物の本音だったり普段は見せない一面が見えるから、それを引き出す目的で挿入されるのだけど、じゃあ挿入された所で夏海と健人の意外な一面が露わになったかと言うと全然そんなことはない!結局引き出されたことと言えば、夏海が献身的なまでに家族を大切にしていることや、健人が優しいということぐらいで、そんなのとっくに視聴者も知っていることだからクソつまらないし「結局あの騒動は何だったのだ?」という感想しか出て来ない。「良い人」という情報しか引き出されていないのだから、何も心が動かされないんだよね。

 

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参考までに修を演じた萩原さんが出演していたBLドラマ「美しい彼」を比較として紹介するが、この「美しい彼」では萩原さん演じる平良一成の特殊性が引き出されているのが素晴らしいポイントの一つだ。一見すると地味で凡庸な陰キャの平良が清居奏という絶対的な王と出会ったことで、平良が内に秘めていた情熱・独特な思想や価値観が表に引きずり出されていく。そして清居を汚し貶める者に対しては狂気とも言える怒りを解き放ち、人殺しさえも厭わないというヤバさも抱えている。普段は社会や人に怯えながら生きている平良が清居のこととなると恐れ知らずの無法者になる。その異常なまでの純愛を描いているからこそ名作BLとして君臨したのだ。「真夏のシンデレラ」にはこのような狂おしいまでの執念とも言えるような愛が全くない。だから心に響かないと私は言いたいのだ。

 

「真夏のシンデレラ」はハッキリ言おう、もはやドラマとして成立していない。夏に海辺で出会った男女の恋愛模様を断片的につなぎ合わせたプロモーションビデオを毎週見せられたようなものだ。実際に湘南の砂浜でドラマチックな恋愛をした人には何かしら響く要素はあったのかもしれないが、海とは無縁な内陸出身の私には何にも面白くなかった。まぁ前半は修や匠のクズっぷりにツッコみまくっていたから、そういう粗探し的な面白さはあったと言えるのかもしれないけど、後半は特別大きな盛り上がりもなく終わったから本当にこのドラマの制作陣は「夏らしい恋愛ドラマ」が作りたかっただけなのだろう。せめてエンタメとして面白みがあれば良かったのだがそれすらもなかった。

 

恐らくだが、これは単に脚本家がどうしようもないまでの下手くそな新人作家だからこんな出来栄えになったとは思っていない。年配のプロデューサーが往年の、それも明石家さんまさんや大竹しのぶさんが出演していたような「男女7人夏物語」的なものを作ろうと言い出して、それで「この場面を入れてくれ」とか「こういう展開にしたらエモくない?」みたいな要望を全部受け入れた結果こんな酷い出来になったのではないかと邪推してしまう。

何か間宮さんもクランクアップの時のコメントで「今回のドラマの撮影で色々と口出しした」って言ってたから、見ている私たちですらこれだけツッコミが生じたのに演じている当人はそりゃ言いたくなることがあって当然だよなと同情せずにはいられなかったよ。本当に間宮さんを含めた役者の皆さんはこんな駄作を最後までやり遂げて偉いと思うよ。悲しいけどこれも人気俳優になったら避けては通れないことだからね。

 

さいごに(来年の予定)

ということで2023年の視聴作品の振り返りは以上となる。今回言及しなかったけど「ノッキンオン・ロックドドア」とか「パリピ孔明」も最高のドラマ化だったと当ブログの別記事で評価しているし、全体的に見たら今年は傑作・良作に恵まれた年だったと思う。特に下半期の充実ぶりたるや、2017年の「貴族探偵」のドラマ化以来の盛り上がりだったと個人的には思うよ。心残りがあるとすれば間宮さんが声優として出演している映画「BLUE GIANT」と、高橋一生さん主演の岸辺露伴の映画を見なかったことかな。どちらもなかなか評判が良かったらしいからちょっと後悔している。

 

そんな訳で来年も引き続き当ブログは作品レビューをメインにしていくが、一応予定をここで言っておくと、来年の1月期は特に気になるアニメもドラマもないので読書感想をメインにしていこうかと思う。幸か不幸か積読はわんさかあるし、横溝正史金田一シリーズも全然読めてないから、それを消化していきたい。

それと録画していてまだ見ていないBBC制作のドラマ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」は原作を読んでからレビューしたいと思う。あとこれはだいぶ先の話になるが来年の10月期に放送されるアニメで面白そうなものを発見したので、これもいずれは当ブログで感想をレビューしたいなと思う。

 

それでは、皆さま良いお年を!

戦後日本のパンドラの箱――我々は何と戦わねばならないのか?【映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」】(後半ネタバレあり)

映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」ティザービジュアル (c)映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会

やっと…やっと観て来ましたよ…!

公開から10日も経っているため入場特典とやらもゲット出来ず、パンフレットも唯一この鬼太郎の映画のやつだけ完売状態という様子から見ても、作り手側も予想していなかった好発進でこの映画の公開がスタートしたというのは間違いないと思うが、映画を既に観た人の感想(重大なネタバレなし)では「救いがない」とか「胸糞悪い話」「人間の闇を描いた物語」といった感想が多く、その容赦ない描写と内容にかなりの人が絶賛している印象を受けた。

 

そんな前知識・先入観をインプットされた状態で私は映画を観たのだけど、いやぁ…本当にエゲツない話でしたね…ww。

感想をツイートしている人でネタバレに配慮してつぶやいている人もいたけど、うっすら「あぁこの人死ぬのだろうな」みたいな、匂わせ的ツイートをしている人もいたから本編を観た時に最低限誰が死ぬのかは察しがついた。知っていたけど、それでもやはりこの惨劇に対して悲しく思う部分はあったし、知らなければ普通に泣いてたんじゃないかと思うぐらい目頭が熱くなるような場面もあったよ。

 

ネタバレなし感想(鬼太郎作品と意識しない方が良い)

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まずは一応ネタバレなしで今回の映画の感想について語っていこうと思う。

今回の映画は原作者の水木しげる先生の生誕100周年を記念して制作された映画で、世界観としては6期の続編的位置づけとなる。これまでの鬼太郎の映画と言えば、南方妖怪や中国妖怪、邪神ヤトノカミといった強大な敵とのバトルを描いた「妖怪大戦争」的な物語だったのに対し、本作は鬼太郎のルーツを描いたこれまでとはかなり質の異なる作品だ。鬼太郎のルーツ、すなわち鬼太郎の父である目玉おやじと鬼太郎の育ての親・水木がとある僻地の山村で出会い、その村で起こった惨劇について70年経った現在の目玉おやじが語るというのが本作の大まかなあらすじだ。

 

個人的に水木先生の生誕100周年で制作スタッフが鬼太郎のルーツとなる物語を描こうとしたというこの時点で既に私は100点満点中50点はつけても良いのではないかと思っていたのだ。というのも、水木先生は晩年に本名の「武良」という名は隠岐の島の武良郷にそのルーツがあるのではないかという推察を立てて、隠岐へフィールドワークの旅に出たことがあるし、2012年には水木しげるの古代出雲』という本を出している。古代出雲と言えば日本の原点とでも言うべき時代の物語であり、水木先生は夢枕に立つ古代出雲の神の嘆きと、時の大和朝廷が記していない史実を漫画にしてくれという要請を受けて、古代出雲の物語を漫画にしたそうである。※1それだけ水木先生の晩年は自分や日本のルーツに対する関心とそれを後世に語り継ぐ使命感が色濃かったのだ。

 

ここで言うルーツとは、言い換えるなら「血の歴史」である。我々の身体に流れる血はどこからやって来て、誰がその始まりなのか。その流れの間に一体どのような出来事があったのか。そういったことを考えて時代を遡っていくのが歴史というものに対する一つのアプローチの仕方だと私は思うが、本作はその中でも流れ出た血の歴史、つまりは血が途絶えて語られなくなった者たちの恨み・苦しみ・嘆きを鬼太郎の父たちを通して描いた作品であり、そこに本作の凄まじさと美点が凝縮されていると言えよう。戦後という時代を肌で体感したことがない私でも、今回の物語からはかつての日本人が何を犠牲にし、何を後世に引き継ごうとしたのか、そういった当時の光と闇の部分をうかがい知ることが出来たのではないかと思っている。

 

「『ゲゲゲの鬼太郎』を知らないなら見ても面白くないのではないか?」と思う人もいるかもしれないのでその辺りのことも触れておくと、確かに本作は原作の「鬼太郎の誕生」というエピソードを読んでいないと最後のエンディングで描かれたことがイマイチピンとこないというか、感動を呼び起こす場面にはならないだろう。とはいえ最低限予習するとしてもそのくらいで、読まなかったとしても全然問題はないので予習なしで観に行っても大丈夫だよ!

むしろ、本作を鬼太郎作品として意識しない方があまり不満が少なく観られるのではないかと私は思っている。鬼太郎と聞くとどうしても妖怪の出る物語だとイメージするし、本作でも妖怪は何体も出て来るのだけど、正直妖怪の活躍みたいなものを期待すると「コレジャナイ感」が強くなってしまう。これは6期の作風にも言えるけど、本作は妖怪を通して妖怪以上におぞましい人間の所業を描いた作品なので、そこは事前に把握しておいた方が良いだろう。

 

※1:『別冊 怪 追悼・水木しげる 世界妖怪協会 全仕事』を参照。

 

(以下、映画本編と一部6期の内容についてネタバレあり)

 

ネタバレあり感想

・戦後日本の「パンドラの箱」、哭倉村

今回の物語の舞台となった哭倉村を一言で評するなら、戦後日本の「パンドラの箱」である。戦後の高度経済成長、その豊かさと大いなる発展の裏には龍賀一族が経営する龍賀製薬の血液製剤「M」が関わっており、その薬を投与された者は飲食・睡眠をとらずとも活動することが出来るとして経済成長に大きな貢献を果たしていた。しかしそれは幽霊族の血を利用し、非道な人体実験※2の末に生み出された狂気の薬であった…というのが本作の事件の真相の一つだ。

この描写は正に戦後の高度経済成長の豊かさの裏で犠牲となった人々を風刺的に描いた部分だと思うが、本作では戦後でありながら戦中における人の使い捨てが受け継がれているという恐怖を描いており、そのために戦時中に一兵卒として扱われた水木青年の過去が挿入されているのが素晴らしい。

 

総員玉砕せよ! 新装完全版 (講談社文庫)

水木青年のエピソードは原作者自身の体験に基づく漫画『総員玉砕せよ!』そのものである。本来最も大事にすべき人間の生命を「お国のため」に捨てなさいという到底信じられない命令が、かつての日本で昭和天皇の名の下に行われていたという衝撃的な話だ。戦後、天皇玉音放送で敗戦を国民に伝え、1946年に人間宣言をしたというのは有名な話だけど、それで私たち日本人の殉国精神が抜けきったかというとそんなことは全然なく、むしろその殉国精神を悪用して自分たちの私利私欲を満たそうとする輩が現れ出した。それこそが本作で描かれた龍賀一族なのだ。

 

・底なしの穴と底なしの

哭倉村を読み解く上で重要となるのは、湖に浮かぶ浮島にあった大きな穴。結界によって内部にたまったあるモノを封じ込め外に出さないようにしているこの穴、これを見て思い出したのが星新一ショートショートの一作「おーい でてこーい」だ。

おーいでてこーい ショートショート傑作選 (講談社青い鳥文庫)

この話は1992年に「世にも奇妙な物語」でいかりや長介さん主演で「穴」というタイトルでドラマ化しているから知っている人も多いと思うが、この「おーい でてこーい」は底なしの穴を発見した人間たちが、そこに日常生活で出るゴミだったり産業廃棄物、闇に葬りたい死体、機密文書といったあらゆるものを捨ててしまうが実は…というお話で、ざっくり言うと因果応報を描いた物語だ。

そしてこの物語には「臭い物に蓋をする」という人間の普遍的な心理や、穴にゴミを捨てれば地上はキレイになるという短絡的な思考、そして穴を利用してゴミ処理場を作ろうとする人の欲などが描かれており、シンプルでありながら人間のダークな心理を描いた傑作ショートショートである。今回の映画でもこの「穴」が龍賀一族の底なしの欲を象徴するものとして効果的に用いられており、地上の繁栄とは逆に地下では打ち捨てられた怨念、すなわち犠牲となった幽霊族や怨霊と化した狂骨の巣窟になっていたというのが本作のホラーとしての凄まじいポイントだ。

 

これだけでも十分恐い話だけど、龍賀一族や裏鬼道の連中はそんな人間の怨念すらも支配下に置いて利用しているというのがね…。普通は忌むべきものとして祓うものさえも自分たちの利益として使う。血の一滴まで無駄にしないという合理的狂気、「富も名誉も怨念もオレのもの」という究極のジャイアニズムがあの村の底で渦巻いていたと言えるだろう。

 

・もう一人のぬらりひょん、龍賀時貞

本作のラスボス的存在、龍賀時貞の終盤のあの歪な姿を見て思い出したのは、6期の最終章で鬼太郎の前に立ちはだかったぬらりひょんだ。

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最終回の感想記事で私は6期ぬらりひょん「昭和的悪の権化」と評したが、本作における時貞もまた大義の名の下に多くの人を犠牲にしてきたという点では6期ぬらりひょんと共通している。が、6期ぬらりひょんはまだその大義に私利私欲みたいなのが見えなかったからカッコイイ悪として眺めることが出来たのに対し、時貞はその大義の下にグロテスクな私利私欲があるからよりおぞましく醜悪であって、6期のシリーズ構成の大野木氏が生み出したぬらりひょん以上にこの時貞は「昭和的悪の権化」だったなと今思い返しても少しゾッとする。「今の若者はダメでオレみたいなやつがいないとダメだ」みたいなことを言ってたけど、こういうある種の優性思想を抱えた人っていまだにいるからね。

 

・我々が戦わなければならない敵の正体

今回の物語は人命や子供の未来を喰い物にする龍賀一族と、その富にあぐらをかき犠牲に見て見ぬフリをした村人たちが報いを受ける話だ。一時は名誉や権力を得るために弱者を踏み台にしようとした水木青年もそのおぞましさ・グロテスクさを知って歪んだ龍賀一族を崩壊させる方に力を貸した訳だが、改めて言うと本作は「継承」の物語であり、我々が未来に向けて何を受け継ぎ、何を滅ぼしたのか。その過程でどのような葛藤が生じ、何を犠牲にしてきたのかを語り継がなければならない。それこそが歴史の闇に葬られた語られざる者たちの鎮魂・供養となるのは、狂骨と化した時弥少年がそれを物語っている。

そして本作には今の日本人が正面きって立ち向かわねばならない敵の正体を読み取ることが出来る。それは単に昭和ボケしたおっさんや政治家という風に解釈するのも別に構わないけど、もっと根源的な意味で戦わないといけない敵は我々を豊かにしたのと同時に不幸にしたもの、すなわち「論理」なんじゃないかな?と私は思っているのだ。

 

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これは私が特別そう思っているとかではなく、かのチャップリンが映画「独裁者」の中で端的に述べていることだけど、知識や思想は相対的なものであって、それは状況によっていとも容易くひっくり返されてしまう。戦争になれば本来等しく尊い命に優劣がつけられ、大義名分をかざして相手の国を侵略する。これも全ては「論理」というものがあるから為せる業であり、どんなに非人道的に見える行為も「論理」が成立していれば私たちは簡単に納得し、その行為を容認してしまう。もうこれは既に第二次世界大戦で我々人類が証明してしまっているのだから否定のしようがないのだ。

 

私たち人間はあらゆることに論理を立て、それを駆使してここまでの豊かな生活と思想を手に入れた。しかし、論理は同時に人を不幸にするし論理の正しさによって人はいとも簡単に支配されてしまう。例えば24時間営業のコンビニや年中無休のスーパーなんかを思い浮かべると良い。本来それは生物の営みとしては不自然だけど、その便利さとコンビニやスーパーがもたらす利益の前では24時間営業や年中無休を私たちは受け入れているし、深夜でも働く人がいることに何の疑念も違和感も覚えない人だっているだろう。かように私たちの生活というものは論理(理屈)によっていとも容易く支配されてしまうし、それで犠牲が生じても「仕方ない」と簡単に割り切ってしまえるのだ。

 

今回の映画にもそんな歪んだ論理による災いが描かれており、大義名分の名の下に幽霊族や村人を犠牲にした龍賀一族は当然ながら、一族と手を組む裏鬼道の連中も本来の流派から外れた論理によって霊を支配している。妖怪も幽霊も人間が生み出した「論理」の術の前では支配されてしまうし、人間はこの自然界を「論理」によって操り支配したからこそ地上の支配者となれたのだ。

 

・身体的感覚が我々の希望

では、私たち人類を豊かにすると同時に支配してきた「論理」に対して我々はどう立ち向かうべきか。そのヒントとして現れるのが妖怪である。妖怪は論理とは真逆の「感覚」によって我々にその存在を訴えかけて来たものたちであり、これは鬼太郎にも当てはまることだ。原作の鬼太郎は原作者本人が「鬼太郎はバカ」だと明言するほど、人助けに見返りを求めないし、助けることそのものに明確な理由がある訳ではない。半妖怪のねずみ男にしてみれば、それは非論理的で何の得にもならないことだと言うかもしれないが、こういった理由はわからないけど困っている人を見ると助けたくなるとか、理屈は通っているけどやる気が起こらないといった身体的感覚にこそ、我々が幸福になれるヒントが隠されているのだ。

 

この身体的感覚の話は水木先生の話にも通じる。水木先生は終戦直前(左腕を失った頃)ニューギニアラバウルで原住民と共に生活していた時期があるのだが、その原住民の生活は非常に牧歌的で、のんびりとした時間の流れと自然の美しさに心惹かれ、原住民も水木先生を歓迎し畑や住む場所を用意したという。ここが天国だと思った水木先生は一時は永住を決意するものの上官の説得によって帰国したと、まぁこんなエピソードがある※3のだけど、水木先生も戦争体験とラバウルでの原住民との生活を通じて「論理」というもののいい加減さを身を以て知る羽目になったし、身体的感覚、すなわち寝たい時に寝て食べたい時に食べるという感覚を優先する原住民の生活こそが幸福なのだと悟ったはずだ。日本に帰れば時間や論理でがんじがらめになるのは大体予測がつくし、身体的感覚に従う生活というのは日本人にとっては「怠け」とみなされる

 

戦後日本は個人個人の身体的感覚を犠牲にし、人々を論理と時間の下僕にすることで経済・文化を発展させた。これが極端な話、資本主義経済を成立させており今の社会もこの流れを継承している。水木先生の名言の一つに「なまけ者になりなさい」という言葉があるが、私はこの言葉には二つの意味があるのではないかと思っている。一つは「なまけ者になる努力をせよ」、つまりゆったりとした生活を送るために頭を使いお金を稼ぐ努力をしなさいという意味。そしてもう一つは「自分の身体の声に耳を傾けなさい」という意味だ。水木先生は仕事中毒としての面もあったが、睡眠と食事は絶対にケチらなかったことから見ても、どれだけ忙しくなっても身体が求めるものには忠実だったことがうかがえるのではないだろうか?

 

映画の話から逸れたので話を元に戻そう。先ほど哭倉村は「戦後日本のパンドラの箱」だと称したが、村の地底には狂骨の怨念が渦巻き、世に放たれれば国を滅ぼすほどそれは強い災いをもたらすものだった。正にそれはパンドラの箱の中に仕舞い込まれた「災厄」である。しかし、パンドラの箱の底には「希望」があった。そう、他ならぬゲゲゲの鬼太郎である。99%が絶望的な状況を描いたこの物語における唯一の光明が鬼太郎の誕生であり、鬼太郎が人間や妖怪の理屈を超越するほどの神通力を持った持ち主であることは原作やこれまでのアニメで描かれてきたことを見て明らかである。鬼太郎自身が人間が支配する「論理」を超越した存在だからこそ、「論理」によって支配・使役される人間や妖怪を救い出せるのであり、その希望の糸が途絶えなかったのも身体的感覚が大きく関わっているのだ。

エンディングロールの後、記憶を失った水木青年は墓から生まれた鬼太郎を忌まわしき怪物として殺そうとした。論理的に考えれば鬼太郎の存在は確かに人間にとって忌まわしきものとして映ってしまう。しかし、水木青年が哭倉村で体験したことは脳ではなく身体全体が記憶していたことであり、この身体的記憶によって鬼太郎は殺されずに済んだ。私が身体的感覚こそが希望と論じたのも、この場面が印象に残っていたからである。

 

※2:ここは731部隊を連想せずにはいられなかったですね…。

※3:『火の鳥人物文庫3 水木しげる 鬼太郎と妖怪たちの世界』を参照。

 

さいごに

予告編を見た段階では水木作品と横溝正史ミステリの融合という印象しか受けなかった今回の映画は、映画を観た後だとあまり横溝要素は感じにくかった。確かに『犬神家の一族』『八つ墓村』を連想させるプロットやアイテムはあったけど、あくまでもそれは表層的な所であって、物語全体のテイストは某ホラーアドベンチャーゲーム※4を彷彿とさせるものだったね。横溝正史もミステリというジャンルを通して第二次世界大戦を痛烈に批判し、戦争によって生じた悲劇を描いてはいたけど、まだ希望のパーセンテージは2割・3割くらいは残されていたし、今回の映画みたいな9割9分絶望的な物語は流石に書いてなかったんじゃないかな…?

 

さて、内容が内容なだけに私は正直言って今回の映画は子供にはおススメしにくいシロモノだと思っているが、まぁ仮に本作のおぞましさが理解出来ず「何となく恐ろしい話」程度の記憶しか子供にとって残らなかったとしても、大事なのはその感覚であって、「論理」だけで物事を判断するのではなく身体全体で感じたことを大事にする。そのセンスを磨くことの重要さも今回の物語には込められていたと私は考えている。

そういや今回の映画の脚本を担当した吉野弘幸氏は6期で妖花の回を担当していたが、妖花のエピソードも戦争をテーマにした物語で、6期では島の精霊たちが戦争の悲劇をとして鬼太郎たちに訴えかけていた。これもまた、理屈ではなく身体感覚で戦争の悲劇を伝えているし、論理や理屈だけで全てを知った気になると私たちはまた同じ過ちを繰り返すことになるという警鐘も鳴らされていたのではないかと思った次第である。

 

※4:「バイオハザード ヴィレッジ」です。

 

※二回目鑑賞して来ました!(2024.03.01 追記)

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※三度目の感想・解説を書きました!(2024.05.03 追記)

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最近プレイしたゲームの話(恐怖の世界、和階堂真の事件簿)

社会人になってから読書量がガックリと減っている。積読は一杯あるのだけど、限られた休みの中で長編を一冊読むとなると時間を大幅に消費する上に内容を理解するのに頭を使ってしまうということで、手を出すのをためらってしまう。実際は一度読み始めたら割とスラスラと読めちゃう時の方が多いのだが、ハマってしまうため途中で「切り時」を見失ってしまい、有効に時間が使えなかったなという後悔を残してしまうことも。

 

そういう事情からここ最近の娯楽はアニメとかゲームといった、ある程度所要時間が把握出来るものを選択することが多い。特に先月と今月は何本かゲームソフトを購入、ダウンロードしており、そのうちの二本を今回は紹介しようと思う。

 

「恐怖の世界」

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「恐怖の世界」はポーランド人の歯科医が本業の合間に制作したインディーズゲーム。1980年代の日本の港町「塩川町」を舞台に、その町で起こる数々の怪事件を調査しながら、旧き神の復活と世界の終わりを阻止するコズミックホラーRPGだ。

このゲームはニンテンドーダイレクトでその名を知ったのだが、映像を見た瞬間にこれは絶対にプレイしてみたいと思った一作である。本作のゲームシステムであるTRPG要素は YouTube のディズムさんのチャンネル※1でそういう遊びがあることを知っていたし、コズミックホラーというジャンルがあることは以前NHKで放送されたダークサイドミステリーのラヴクラフト特集を見ていたので、一度こういうジャンルのホラーゲームはやっておきたいなと思っていた。

 

一応TRPGが何なのか知らない人のために簡単に説明しておくと、TRPGとはテーブルトークロールプレイングゲームの略称で、紙・鉛筆・サイコロを使い、ルールブックに記載されたシナリオ・ルールに従ってプレイヤー同士が対話しながらゲームを進めていく。

product.kadokawa.co.jp

特に本作「恐怖の世界」はTRPGの中でもクトゥルフ神話TRPGというジャンルに基づくゲームシステムとなっており、ホラー作家のラヴクラフトが発案した架空の神話「クトゥルフ神話※2をベースとした古代の神々の復活を阻止するべく、プレイヤーはゲーム内で奔走しなければならない。

 

(調査する怪事件は病院内での集団昏睡事件、人々を魅惑するラーメン屋の謎、都市伝説系の怪異を扱った事件など、どの事件もバリエーション豊かでおぞましいものばかり)

 

基本的にストーリーは5つの怪事件(一番簡単な難易度だと4つ)を調査して特定のアイテムを集め、最後にとある場所へと赴き旧き神の復活を止めるという内容で、ストーリー自体は特別深いドラマがある訳ではない。とはいえ調査する事件はプレイする度にランダムで変更されるし、事件のエンディングも複数用意されている。事件を調査する順番もゲームのクリアを左右してくるから、やり込み要素には事欠かない。

通常のRPGと同様、プレイヤーはスタミナ(体力)と理性(精神力)の数値をゼロにしないよう事件を調査し、現れた異形の敵を倒していかないといけないが、このゲーム特有のシステムとして破滅値というものがある。これは事件を調査していくと少しずつ上がっていく数値でこれが100%に達すると旧き神が完全復活してしまいゲームオーバーとなる。だからスタミナと理性だけでなく破滅値にも注意してゲームを進めていく必要があるのが、このゲームの特性である。

 

もう既に私は何回かゲームをプレイしているが、同じ難易度でもプレイごとに難しさが変化するのが面白いポイントだなと思う。というのも本作は結構運に左右される要素もあって、調査の中で起こるイベントで同じ行動をとっても成功してアイテムや経験値をゲットしたり、或いは逆に失敗して理性やスタミナを減らしてしまうということが起こるのだ。これはプレイヤーが操作するキャラクターに設定された能力値が大きく関係しており、筋力や敏捷性、知力にカリスマ性といった能力の値の違いによってゲームの展開も容易になったと思ったら逆にハードモードへと変わるという感じで、余裕でクリア出来ないからこそ、その都度選択には注意を払わなければならない。

 

元々RPG系のジャンルはあまりやってこなかったので最初は何度もゲームオーバーになりながらプレイを進める羽目になったが、ある程度ゲームシステムを理解すれば難しいながらもゲームをクリアするコツみたいなものが掴めてきた。例えば、本作では通常のRPGと同様に仲間を手に入れることが出来るのだが、調査する事件によってはゲームクリアのために仲間を犠牲にするという選択肢も必要となる。プレイヤーが操作するキャラクターもゲームを進めていく中で怪我を負ったり呪いをかけられ状態異常になるし、事件の調査を進めれば進めるほど、塩川町はどんどん災害や暴動等のイベントによってゲームクリアの助けとなるアイテムショップや回復行為にまで制限がかけられてしまう。そういった数々の「縛り」をどう乗り越えていくかを考えるのも、このゲームの楽しみ方と言えるだろう。

 

ちなみに、本作に登場するキャラクターや怪異のデザインはホラー漫画家の伊藤潤二氏の作品をリスペクトして作られたもの※3だそうであり、あいにく私は伊藤氏の作品と言えば「首吊り気球」くらいしかちゃんと読んだことがないニワカのホラー好きなのでその辺りの出来については詳しく言えないが、感じとしてはただ怖い・グロテスクというキャラデザインばかりでなく、どこかユーモアのある敵もいて、そこは伊藤氏の作風をうまい具合にゲーム内に落とし込んでいたなと私は思った。

 

※1:ディズム - YouTube

※2:クトゥルフ神話 - Wikipedia

※3:『恐怖の世界』開発者パヴェウ氏×ホラー漫画家 伊藤潤二氏 特別対談。強い影響を受けたラヴクラフトへの想いや、ふたりの次回作のヒントも……!? | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

 

「和階堂真の事件簿」

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「和階堂真の事件簿」は2020年にリリースされたインディーズゲームで墓場文庫という制作チームによって開発されている。今年の10月に Steam やニンテンドースイッチでもプレイ出来るようになったのだが、リリースされた四作のうち、二作目に横溝正史の『八つ墓村』を彷彿とさせるようなキャラが映っていたので、気になって購入した次第である。

 

内容はタイトル通り和階堂真が主人公として謎解きをする推理アドベンチャーゲームで、一つのエピソードが約1時間ほどでクリア出来るというお手軽なミステリという感じだ(実際はプレイしながらアレコレ考えていたので私の場合は1時間半くらいはかかっただろうか)。ゲームシステムとしては事件が発生し和階堂が事件関係者に聞き込みを行う。聞き込みをして必要な情報が集まったら現段階での事件の整理をする「推理パート」へと移行し、そしてまた新たな聞き込み・調査をするという実にシンプルな操作とシステムになっている。最後は事件の犯人やトリックを推理することになるが、選択を間違ってもゲームオーバーにはならないので、ミステリ初心者にも易しい安心設計になっているのもありがたい。

 

Twitter の方で簡単に四作品をプレイした感想を述べているが改めてそれぞれのエピソードについて言及しようと思う。

まず一作目「処刑人の楔」は首無し死体が電柱に逆さ吊りにされるという猟奇的連続殺人を扱ったエピソード。「殉教者の光」というカルト宗教が事件の背後にある内容で、犯人とその動機がわかったな…と思った所で終盤にまさかの展開が待ち受ける。事件のトリック自体はミステリにおいては定番なことをしているものの、別の所に仕掛けたサプライズによって上手く目くらましが効いていると評価した。

 

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続いて二作目「隠し神の森」は、田舎の山村で起こった神隠し絡みの連続殺人事件を描いている。これが当初私が気になっていた作品であり、実際プレイしてみると確かに横溝正史ミステリ的要素はいくつか発見した。

 

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(『八つ墓村』の濃茶の尼らしき人物も登場する)

 

横溝ミステリを意識した内容ではあるが、1時間ほどでクリア出来る作品なので複雑な家系図は出て来ないし、真相やトリックに関しても一作目と比べるとオーソドックスな感じで特別意外性はなかったと思う。それでも、徐々に村で何が起こっているのか明らかになるのはワクワクするし、終盤の謎解きにおける演出はなかなか不気味で良かった。

 

三作目「影法師の足」は主人公の和階堂が殺人の容疑者として追われる、金田一少年でもあったある種王道とも言える展開を描いた作品。被害者が人身売買組織のリーダーということもあって、物語はハードボイルド小説さながらの世界観で展開していき、和階堂も一時的な記憶喪失状態で捜査をするため、サスペンス性に関しては四作の中で一番かもしれない。

一作目と同様にこちらもゲームの特性を利用したサプライズを仕掛けてはいるが、個人的にサプライズとしてはちょっと弱さを感じたというのが正直な所で、序盤で伏線は張っていたものの、これをシリーズものとして考えるとあの程度の伏線ではミステリとしては弱いかなと私は思った。

 

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そして最新作である四作目の「指切館の殺人」は、嵐の山荘というミステリではお馴染みの舞台を題材にした事件。幽霊が出ると噂されている井戸が屋内にあるというシチュエーションは2017年に放送された麻耶雄嵩原作のドラマ「貴族探偵」の1話を彷彿とさせるし、宿泊客の中に変なことを口走る客がいるというのも、ベタなミステリドラマを見ているようだった。

割と早い段階で事件の背後に「アレ」が関係しているなということがわかったし、そこから怪しい人物も大体搾り込むことは出来たが、この「指切館の殺人」はフーダニットよりもホワットダニット、つまり館内で何が起こってこのような状況になったのか?をプレイヤーに問う作品としてよく出来たミステリであり、関係者の思惑をキチンと把握しておかないと、正しい推理を導くのは難しいだろう。

 

このように、四作品それぞれが趣の異なるミステリとして描かれた「和階堂真の事件簿」は、ゲームとしてもミステリとしても丁度良いシリーズであり、本格ミステリを読み漁っていた大学生の頃の私には物足りなかったかもしれないが、普段仕事をしていてじっくりミステリ小説を読むヒマと余裕がない今の私にはうってつけのゲームだったかなと思う。

最後に四作品のネタバレ感想を伏せ字で以下に記録しておく。

 

(ここからネタバレ感想)

処刑人の楔:事件自体は被害者と加害者の入れ替わりという「顔のない死体」を扱ったミステリにおける定番のトリックが使われていたものの、探偵役を誤認させるという一作目ならではの手法でベタなトリックが活きるようにしているのが巧い所。祖父が嘘をついていた手がかりとなった「教祖の首飾り」にしても、それが作中の台詞ではなくアイテム名としてゲームでは表示されるため、それが祖父の嘘ではなく小説で言う所の「地の文」としてプレイヤーが受け取ってしまうように仕組まれているのも巧妙だと評価したい。

 

隠し神の森:犯人についてはミスリードとして犯人が現場に残した髪飾りからニオイがしたという時点でほとんどの人はわかったのではないだろうか。だから意外性はそこまでないし、鍵のかかった蔵から面と蓑を持ち出すトリックにしても、果たしてそんなに上手く出来るのかやや疑問は残る。とはいえ、死体にお面を被せるというこれまでの神隠し事件とは違う現場の状況に犯人なりの告発――これまでの神隠し事件は被害者が行ったもの――が秘められていたのは物語として趣を感じる所だし、連続殺人ではなく不連続殺人事件というオチは良かったと思う。

 

影法師の足:一作目が「被害者と加害者の入れ替わり」がメイントリックだとすると、三作目は「探偵役の入れ替わり」をトリックとして扱っている。普通こういったトリックは小説では通用するがゲームといった映像媒体の作品では通用しない。しかし本作はシンプルなドット絵でキャラが描かれており顔が映らないため、本来なら映像作品で不可能な入れ替わりトリックが可能になっているのが面白いと感じたポイントである。

ただ、これをやるのだったら入れ替わりの相手役である探偵の安泉の存在を少なくとも二作目の時点でもっと押し出していた方がサプライズとして効果的だったのではないかと私は思っていて、一応序盤に安泉が変装・潜入を得意とする探偵であることは言及されていたからフェアなのはフェアだけど、存在感や活躍があまりなかった人物が重要なトリックを担っていたという所が、個人的には釈然としないというか何というか…。

 

指切館の殺人:早い段階で事件の裏に麻薬が絡んでいたこと、そして館のオーナーがそれに関係していることは大体わかったのだけど、それと最初の被害者が指を切られたこととどう結びつくのかがわからなくて結構悩まされた。途中で一作目に出て来た新興宗教「殉教者の光」がこの事件にも絡み出したのには驚いたが、そこから明らかとなる悪意なき悪意にはやはりゾッとしたね。前三作はシリーズとしてのつながりがあまりなかったけど、四作目ではシリーズものだからこそ入れられるネタだったり、効果的なオチが用意されていて、個人的にはシリーズとしてまた続編が出て欲しいなと思える最新作だった。

(ネタバレ感想ここまで)

「名探偵津田」シリーズ、エンタメとしての可能性とミステリとしての限界・希望

どうも、タリホーです。

先日「水曜日のダウンタウン」で放送された名探偵津田の第二弾を見ました。

ざっくりとした感想は Twitter の方で述べたし面白かったのは間違いないけど、「あ~面白かったな」だけで終わらせずにもっと語っておきたいことがあるので、ここに記録として残しておこうかと思う。

 

一応知らない人のために説明するが、「名探偵津田」という企画は今年の1月に同番組内で放送された「犯人を見つけるまでミステリードラマの世界から抜け出せないドッキリ、めちゃしんどい説」から生まれたものであり、お笑い芸人のダイアンの津田さんが何も知らない状態でロケ撮影に参加。そのロケの途中で殺人事件(もちろんフィクション)が発生し、ここで津田さんはこのロケがドッキリ企画だと悟る。

普通ならここでドッキリが終わる所を、この企画では津田さんが探偵役として殺人犯を見つけるまで終わらないようになっており、事前に知らされない状態でいきなり謎解きをさせられる津田さんの一挙手一投足がこのドッキリ企画の見所となる。

 

1月に放送されたドッキリ企画は蓼科のペンションを舞台にしたかまいたちの夜」テイストの連続殺人事件で、(実際は何も起こってないのに)外部と連絡がとれなくなり洪水でペンションの外に出られなくなった、クローズドサークル下での謎解きを津田さんは行うのだけど、最初は「何でオレが犯人探さなアカンの?」みたいな感じで渋々謎解きをさせられていたのに、徐々に手がかりが集まっていくと推理を嫌がるどころかむしろ前のめりになっていてその様子が本当に面白かったし、最後はノリノリで「犯人はあなただ!」って言っていたのが印象的だった。

 

この企画は、元々謎解きミステリに全然興味がなく、それほど頭が切れる人ではない津田さんを探偵役に配置しているというのが絶妙なポイントで、仕掛け人である登場人物(事件関係者)はミステリドラマでは定番の言動をとるのに対し、津田さんは何も知らないゲームのプレイヤーとしてドッキリに参加しているため、ミステリ経験値がないからこそのリアクションだったりツッコミが私としては新鮮かつ笑撃的で「これは続編見たいな!」と1月の時点で思っていた。

そんな視聴者の期待が届いたのか、今月11月に第二弾が発表され、引き続き探偵役を津田さんがすることとなった。まだ見てない方はTVerで配信されている(11月22日まで)ので是非見てもらいたい。

 

(以下、第二弾の事件のネタバレあり)

 

第二弾を見てわかった「ミステリ的な問題点」と「希望あるサブ探偵」

今回放送された第二弾は、長野県の山村を舞台に村に伝わる手毬唄になぞらえて村人が殺されていくという横溝正史の『悪魔の手毬唄』さながらの事件となっており、第一弾は30分程度の放送だったのに対し、今回は二週にわたって放送されるという質量共にスケールアップした見応えのある企画となった。

 

まず今回の事件はプロットが第一弾よりも練られているなと前編を見て思う。前編は「村に到着→第一の事件(村長殺し)→手毬唄を聞く→第二の事件(長男殺し)→第二の探偵・みなみかわの登場→東京の事件(次男殺し)」という流れで進むのだが、第二の事件が起こる前に手毬唄を視聴者にも提示させておくことで、第二の事件が起こった際に違和感を生み出しているのが巧妙。

手毬唄の二番では二匹の子狸が毒を盛られて死ぬ」という歌詞なのに対し、毒殺されたのは村長の長男一人だけだった。「見立てにするなら二人死んでないとおかしいのに…?」とこの時私は思ったのだけど、その後でみなみかわさんが第二の探偵として投入された上に、別場所で村長の次男が毒殺されていたという形でこの違和感が回収された時の驚きとカタルシスたるや!ここは物語の構成として抜群に巧いなと評価したよ。

 

また今回の事件のメイントリックとなる村長殺しのアリバイトリックも本作がドッキリ企画であるという点を有効に活かしているのが秀逸だなと思っていて、ドッキリ企画の中にもう一つ別のドッキリ企画が隠されていたというメタ的な騙しを仕込むというトリックとしての面白さだけでなく、そのトリックのせいで今自分がどの世界線にいるのかわからなくなって発狂しかける津田さんが見られたのもホント面白かったな(本人は笑いごとではなかっただろうけど…ww)。

 

で、全体的にはクオリティもスケールもアップしていて確かに面白かったのだけど、一方でスケールアップしたからこそ浮き彫りになった企画としての問題点、特にミステリとしての問題点についてここからは語っていくが、やはりこの企画はドラマではなくドッキリなので、当然ながら津田さんに謎を解かせないといけないし、あまり込み入ったトリックだったり専門的な知識を使えないというのがネックである。まぁ今回の毒キノコの伏線みたいに事前に津田さんに知識をインプットさせる手段はあるかもしれないけど、果たしてそれをちゃんと記憶していて思い出せるかとなるとそこは賭けになってしまうから、その辺りの仕込みだったり誘導がシリーズを続けていく上での課題点になっていくと思う。

 

このトリックを複雑に出来ないという問題点は今回の事件では解決パートで如実に表れているのだが、犯人を推理する手がかりとなったのはメイントリックとなる村長殺しと次男が言っていた「じいさんに気を付けろ」というこの二点だけで、それ以外の出来事、特に第二の事件の毒殺は、そもそも長男が飲んだお吸い物のお椀にどうやって毒キノコを入れたのかが全然解き明かされていない。席順は偶然なのか予め指定されていたのか不明だし、全部のお椀に毒を仕込んだら無関係な人まで死んで見立てが成立しなくなるのだから、この謎がうやむやなままスルーされているのは、津田さんがそれを推理して解決パートでキチンと説明出来ないとスタッフが判断したからスルーしたのかなと個人的には思った(もしかしたら尺の都合でカットされただけで謎解きはあったのかもしれないけど)。

あと村長殺しのアリバイトリックに関することだけど、実際の殺害現場が村長宅ならば村内放送を行った電柱に付いていた血痕(血だまり)は犯人がいつ付けて、死体からどうやって血を採取したのかという謎も放置されている。後で警察が捜査するのだからまさか動物の血で偽装したとは考えられないし、あれだけの血が付いていたのだから血を採取する容器はどうしたのかとか、そこもミステリ好きとしては凄く気になる部分なのだ。

 

じゃあ結局探偵役が津田さんだからあまりミステリ面を凝った作りに出来ない、詰めの甘い作品にせざるを得ないのかというと、私は必ずしもそうではないと思っていて、これはこのドッキリの企画より前、普段ミステリ小説を読んでいた時から考えていたことなのだが、名探偵を成立させるためには名犯人が必要、つまりは犯人役の役割も結構重要になるのだ。

特に解決パートにおける探偵役との応酬が出来ないと探偵役である津田さんも順序立った推理が披露出来ないと思うし、「私には〇〇の時間にアリバイがあるんですよ!」とか「でもこの現場には□□という証拠があったじゃないですか?」「では何か私がやったという証拠があるのですか?」という感じで次に探偵役がどのような推理を展開させ、何を言えば良いのか誘導していけるような台詞を決め、犯人役がそれを言えるように事前に準備しておかないといけないのではないだろうか。

これは津田さんやみなみかわさんの推理・捜査をサポートしていたADの女性と同じくらい役割としては重要だと思っているし、それだけに事件の流れやトリックを把握しておかないといけないという点で難役だ。しかもドラマと違い撮り直し・やり直しは無理なので、記憶力と即興性が求められる。今回の犯人役の方は「マイタケに似た毒キノコ」「猛毒に似たマイタケ」と言い間違えてたけど、これを間違えるようでは犯人役としてはちょっとな…って、そこはスラっと言えないとダメでしょうに。

 

まぁこんな感じでバラエティ番組なのでどうしてもミステリ面では勿体ないと感じる部分はあったし、医者の誤診オチ※1もこれが本格ミステリならば完全にアンフェアになるため本当はマイナスポイントとして挙げても良かったのだけど、それでも先月の10月に日テレで放送された「THE MYSTERY DAY」※2に比べればかなり高度なことをこの番組はやっていた。ミステリとしても圧倒的にこちらの方が面白い出来になっていたので私は「名探偵津田」シリーズはこれからも続いて欲しい企画として応援したい。

それに、今回は問題点も浮き彫りになった一方でそれをクリア出来る希望となる存在も出て来ている。それが他ならぬサブ探偵のみなみかわさんだ。これはメインの探偵として謎を解く必要がないという気楽さがあったという事情もあるのだろうが、みなみかわさんは津田さんと比べて飲み込み・理解力も早い方だし、犯人役の台詞間違いにもいち早く気づいた人だから、このサブ探偵の存在をもっと有効活用すればトリックを難しくしても企画としては問題なくやれるのではないだろうか?

例えば、今年の7月~9月にかけてテレ朝系列で放送されたドラマ「ノッキンオン・ロックドドア」みたいに、探偵を分業体制にする。つまり、一人の探偵に事件の全てを解決させるのではなく、津田さんは事件の大枠部分を説明し、みなみかわさんがトリックだったり証拠といった細かいポイントを押さえた説明をするという形で負担を分散させれば、企画として探偵役が行き詰まる可能性は低くなるし、ミステリとしてより質の高いものを作れるのでは…?と考えている。

 

※1:医者の誤診オチについてはディレクターの藤井健太郎氏が「面白さが優先」と述べている。

誤診オチを回避させようと思ったら脇にゴムボールを挟んで脈を止めるというトリックがあるので、村長がそれを使って死を偽装したという筋書きにしても良いのだが、専門的知識な上にそれを津田さんに推理させるのはかなり難しいので、誤診オチにしたのは妥当と言った所だろうか。

※2:日テレの犯人当てミステリー「THE MYSTERY DAY」にうんざり&ガッカリした理由 - タリホーです。

 

さいごに(次はどんな「名探偵津田」が見たいか)

Twitter の方で既に言及したけど第三弾があるとしたら、ベタに孤島を舞台にした事件や「金田一少年の殺人」みたいに津田さん自身が殺人事件の容疑者として追われるドッキリ、何かしらの事情で部屋から出られず現場に行かないで推理する「安楽椅子探偵」形式のドッキリなんかが面白そう。(「水曜日のダウンタウン」、結構監禁系の企画あるからね)

あと「古畑任三郎」みたいに倒叙ミステリ形式の「名探偵津田」があっても良いと思う。津田さんはそのままいつも通り探偵役をやって、犯人役は芸人の誰かが番組側が用意したトリックを実行して、その後はアドリブで津田さんの推理を妨害したり、犯行を隠蔽する行動をとる。これだったら犯人役がポンコツでもバラエティとしては面白くなりそうだし、賞金を懸けて対決形式(津田 VS 犯人〇〇)にすればそれはそれで別の新たな企画として生まれ変わる予感がする。

人は知らず知らずのうちに呪われ、祝福されている【映画「ミステリと言う勿れ」感想】

タリホーです。映画「ミステリと言う勿れ」、先月末に観ておきながら感想を後回しにしていたので、遅まきながら感想を残しておこうと思いました。

 

公開から一ヶ月経ったとはいえ、週末動員ランキングで5週連続1位というヒットを記録。ということで間違いなく今年度の邦画の中でヒット作として評価されるのは間違いないが、ではどういう点でこの「ミステリと言う勿れ」が人気を集めたのか。それを私なりの言葉で語っていきたい。

 

横溝正史オマージュの遺産相続ミステリ

ミステリと言う勿れ(3) (フラワーコミックスα)

映画のエピソードは原作2巻から4巻にわたって描かれており、ファンの間では「広島編」と称されている人気エピソードだ。

 

広島の美術展を見終えて道すがら観光していた時、久能整はいきなり狩集汐路という女子高生から遺産相続絡みのバイトを持ちかけられる。狩集家は当主の遺言に従い、遺言に記されたお題をクリアした者が遺産を相続することになるが、その遺産相続で狩集家は過去に死者が何人も出ており、汐路は今度の遺産相続でも死者が出ることを恐れて久能に協力要請を依頼してきたのだ。こうして久能は狩集家の面々と会うことになるが、久能の介入によって、これまでの事件が単なる遺産争いが原因ではないものであり、狩集家に隠された恐るべき闇が徐々に明らかとなっていく。これが本作のあらすじとなる。

 

あらすじからわかるようにこの「広島編」は『犬神家の一族』『獄門島』『女王蜂』といった横溝正史の諸作品をオマージュした物語となっており、表層的な面だけではなく真相もかなり横溝的な仕上がりとなっている。本作の犯人の犯行動機は戦前や戦後の日本ならまだしも現代だと時代錯誤に感じられるきらいもあるが、それを敢えて現代を舞台に描いた所に原作者である田村由美氏の挑戦心が感じられたと個人的には思った。

 

映画を観た当日にツイートで簡単に感想は述べたけど、カットされた人物というのは新音の妹・万音(まお)と真壁税理士の孫・絹代。それに伴い理紀之助と新音の背景描写も一部カットされてしまったが、それほど本筋の事件に関わってくる部分ではないのでここは妥当なカットと言った所だろうか。蛇足と述べた最後の刑事パートもED後なので物語の邪魔をしていないし、その点はマイナスとはいえ大きな減点にはならなかったかな。

 

映画の予告を見た段階で今回のロケ地が、今年4月に放送された吉岡秀隆版「犬神家の一族と同じ、倉敷の旧野崎家住宅であると知ったので吉岡版のイメージからコンパクトな世界観で物語が展開されるのかなと当初は思っていたが、本作はさすが映画というだけあって屋敷の居間や台所、四つの蔵などセットを組んだ撮影が行われており、原作の設定に劣らない広大なお屋敷としての狩集家がちゃんと映像で表現されていて、そこも映画を評価したポイントの一つである。

 

※吉岡版「犬神家」の感想はこちら(↓)。ただしネタバレありの感想です。

吉岡版「犬神家の一族」(前編)、現時点での感想 - タリホーです。

吉岡版「犬神家の一族」は横溝正史の皮をかぶった麻耶雄嵩だった - タリホーです。

 

(以下、直接的なネタバレはないが、事件につながる要素・物語のテーマ等についての言及あり)

 

「呪いを解く物語」としての秀逸さ

ここから映画本編についてより詳しい感想を述べていく。

主演の菅田将暉さんは今回の「広島編」は「『ミステリと言う勿れ』という作品の良さが詰まっているお話」だと述べているが、確かにこの「広島編」はシリーズ全体を通して描かれている「呪いとその解除」をより明確に表した内容となっており、ボリュームも2~4巻にまたがって描かれる長大さで、真相もなかなかハードで闇深いから映画にするだけの重みのある作品であることは間違いない。

 

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ドラマ最終回の感想で私はこの「ミステリと言う勿れ」が「狂人・マイノリティーに花束を送るような物語」と評した。これは今でも間違った評価ではないと自負しているのだが、本シリーズで描かれる狂人もマイノリティーも、よくよく考えるとある種の呪いにかけられた人々だと読み解くことが出来る。

映画の中で幼少時の精神状態を「乾く前のセメント」と表現する場面があった。子供の頃に受けた影響は生涯消えることのないものとして残り続けることをうまく表した言葉だが、これがポジティブなもの・良い影響を及ぼすものが「祝い」であり、ネガティブなもの・悪影響を及ぼすものを「呪い」と呼ぶのだろう。

 

そしてその「祝い」「呪い」は両親や親戚・学校の先生・会社の上司、或いは近所のおばさんやおじいさん・お世話になった人々といった先人たちによって与えられる。別にこういった人々全てが悪意を以て「呪い」を振りかけることはあまりないけど、結果的に「呪い」になってしまうケースは日常に散らばっている。そして「呪い」をかけられた本人もそれが「呪い」だと気づいておらず、結果自分に原因があると思って不幸になったり、そのまま狂人と化してしまう。この「ミステリと言う勿れ」ではそこを見事に描いており、多くの人がこのシリーズを支持するのも、こういった私たちの日常に隠された「呪い」を明らかにしているからだと私は思っている。

特にこの「広島編」はその呪いの部分が負の遺産という形で表現されているのが注目ポイントで、本来背負い込む必要がないものを背負い込んでしまい、それを使命として受け取ってしまったがゆえの歪みを描いているから、そこにゾッとさせられるし、映画は漫画と比べてよりその歪みが生々しく描写されていて原作を読んで真相を知っていても戦慄する場面があった。

 

狩集家の闇が呪いとなって加害者にも被害者にも悪影響を及ぼし、その呪いを久能整が解くという所に本作の物語としてのカタルシスがあるのは映画を観れば一目瞭然であり、これは別に映画だけでなくシリーズ全体を通して言えることなのだけど、作中の登場人物だけでなく私たちも久能のような呪いを解いてくれる存在を求めている。でなかったらこのシリーズがここまでのヒットに至ることはなかったと思うし、今の時代が先人たちによって生み出された呪いを解除する時代であることをこの作品が伝えているような気がしてならない。

その「呪い」にしても、漠然としていて正体が不明なものもあれば、明確にこれが悪いと断定出来るものもあって、人それぞれ呪いの形は異なるが、いずれの場合も何が問題なのか言語化出来ていなかったり、どこを改善したら好転していくのかが見えないから私たちは「呪い」を抱えたまま病んでいくという事態に陥ってしまう。そこを久能はキチンと言語化出来るから呪いを解くことが出来るし人を救えるのであって、そういったことを見逃さない(というより見逃せないと言った方が正確かな?)性格だから出来る芸当だと思うのだ。

 

かつて「犬神家の一族」を映画化した市川崑監督は、金田一を名探偵ではなく天使と表現した。石坂浩二さん演じる金田一は結果的には事件の犯人を暴き謎を解いてはいるが、その捜査の過程をよく見ると、「犯人は誰か?」という道筋から外れた所ばかりを調べている。でもそれが事件の底にあった犬神家全体の呪いを解くことになっており、金田一の探偵としての魅力とセンス・勘の良さを裏付けているのだ。「犬神家」が単なる謎解きミステリではなく文学として評価されるのも、こういった探偵の描き方も大きく関係していると思うし、本作の久能も同様に単なる謎解き役ではない、呪いの解除者として作用している所に本作の魅力がある。

 

今回の映画では先人からの「呪い」が物語の軸となっていたが、「呪い」だけでなく「祝い」、つまりは親からの祝福といった面も描かれており、それのおかげで物語は後味良い形で締めくくられている。その祝福も呪いと同様、目に見えないものであり汐路をはじめとする狩集家の人々は気づかずスルーしていた。そう考えると、久能は呪いを解くだけでなく迷える子羊を「祝い」へと導く役目も果たしたと言えるのではないだろうか?

日テレの犯人当てミステリー「THE MYSTERY DAY」にうんざり&ガッカリした理由

昨日、日本テレビが開局70周年特別番組として「THE MYSTERY DAY」という視聴者参加型の犯人当てミステリードラマを放送した。

 

総額1000万円の賞金が懸けられた犯人当て企画、こういった賞金付きの推理ドラマはかつて朝日放送でシリーズ化した安楽椅子探偵という前例があり、今回のドラマも「安楽椅子探偵」ほどではないにせよ、懸賞金が付いてくるのだからまぁそれなりにちゃんとした犯人当てミステリーなのだろうと(あまり期待はせずに)視聴した。

 

ストーリーは、将来総理大臣として有望視されている政治家の夏目恭輔(小栗旬)が何者かに誘拐される所から始まる。犯人は監禁動画をネットに流し、2週間後に彼を殺すと予告。この誘拐事件をエリートだが刑事としては無能の戸隠九十九(ユースケ・サンタマリア)と猪突猛進型の警察官・安藤花恵(川栄李奈)が捜査するというお話。

都内で同時期に起こっていた通り魔殺人カサブランカ X」事件有名人の連続失踪事件が絡んだ複雑な物語としてドラマは展開していき、番組ではこの一連の事件における黒幕は誰か、ドラマ放送中に視聴者に投票を促していた。

 

「犯人」ではなく「黒幕」という表現をしているのが何かクサいな~と思い、この「黒幕」というのは夏目を誘拐した実行犯とは限らない、つまりは夏目自身が黒幕であっても別におかしくはないと思い、私は小栗さん演じる夏目を黒幕として疑っていたのだが、ではこのドラマの真相はどうだったのか。それについては以下の文でネタバレありで感想を述べていくが、今回のドラマは犯人がどうとか黒幕がどうとかそれ以前の問題としてちょっと言及したいことがあるので、単純に今回のドラマが面白かった・楽しかったと思った人は、ここから先の文は読まない方が良いかもしれない。記事タイトルにもあるように、マイナスな意見・批判的な意見を書くのでね。

 

(以下、ドラマのネタバレあり)

 

ミステリーをプロパガンダの道具として使われた感

まず結論から言うと、当初の予想通り誘拐事件の黒幕は誘拐された夏目自身であり、「カサブランカ X」事件の犯人を偶然目撃しさらわれ、犯人の動機を聞いて逆にそれを利用して誘拐事件をでっち上げたというのが真相だ。そこに模倣犯だったり事件に関する誹謗中傷を真に受けた人物による殺人などが絡まったことで複雑な事件となった訳だが、犯人当てミステリーとして放送した割に黒幕が全然意外でもないし、黒幕につながるヒントも全くない。何より、さらわれたのは偶然なのだからヒントなど出しようがないのだ。

 

もうこの時点で謎解き・犯人当てミステリーとして完全に破綻しており単なる博打ドラマになっているのが不満ポイントの一つだが、これ以上に私がうんざりしたのは本作の事件の犯行動機がネットの誹謗中傷による二次被害という点だ。この誹謗中傷をネタにしたドラマは、今年だとTBSで4~6月期に放送された「ラストマン-全盲の捜査官-」で誹謗中傷が原因のバスジャック事件を描いていたし、日本テレビでも2019年にドラマ「3年A組 -今から皆さんは、人質です-」で既に誹謗中傷ネタのサスペンスをやっていたのだ。10年前ならまだしも、4年前に同局のドラマでやったネタを70周年の開局記念の特別番組でまたやっているのだから、二番煎じも甚だしいしそこにうんざりとさせられたのだ。

 

一応断っておくと誹謗中傷による自殺や殺人は社会問題として取り上げられるのは今の時代だと当然であり、そういったデマや根拠のない憶測を拡散したユーザーは罰せられるべきだと思うし、そういうメッセージ自体を否定するつもりは全くない。問題はその扱い方なのだ。

今回の場合、犯人当てミステリーとして題した以上、まずは犯人当て・謎解きミステリーとしての面白さを重視して欲しかった。エンタメとして犯人特定の伏線や手がかりを張った上で誹謗中傷が原因の殺人だと明かす内容であれば、私も文句は言わなかったし素直に「面白かった!」と言えたのだ。しかし、今回のドラマではメッセージありきでドラマが作られたという印象が拭えないし、1000万円の賞金を付けたのも普段こういったドラマを見ない人に金をチラつかせてこのメッセ―ジを届けるという下品な思惑が感じられる。

 

要は、ミステリーという物語のジャンルを「誹謗中傷はダメ」というメッセージを伝えるための道具、それもプロパガンダ的な形で利用されたということに私はもの凄い不快感というかムカつきを覚えたのだよね。誹謗中傷が良くないことを伝えたいのであれば、ドキュメンタリーとか別の報道番組とか方法はいくらでもあるし、ミステリーとして題したのであれば、まずは前提として謎解き・犯人当てとしての面白さを優先させる。そこを達成しないでメッセージありきのドラマを作るというのは、いくらそのメッセージ性が倫理的・社会的に正しくとも、それは所詮程度の低いプロパガンダに過ぎないと、敢えて辛辣な言い方をするがそうハッキリと断言しておく。

 

作品にメッセージを込めるのは大事なことだけど、それはあくまでも作品としての面白さが前提としてあるからそのメッセージ性が後々視聴者に響く訳であって、最初からそういう物語として描くと貧相になってしまう。かの巨匠チャップリンの映画「独裁者」や「モダン・タイムス」も喜劇として物語が描かれているからこそ、その下地にあるメッセージが見終わった後に視聴者に響くのであって、メインとなる喜劇要素をいい加減に作っていたら恐らくあれほどの傑作・名作にはなっていなかったのではないかと思う。

まずはメッセージの力ではなくエンターテインメントの力で視聴者の心をつかむ。そこをいい加減に作ったドラマ・映画は単なる演説・プロパガンダの動画に成り下がってしまうというのが今回の「THE MYSTERY DAY」に対する個人的な意見だ。

 

ちょうどこのドラマが放送された10月7日はエドガー・アラン・ポー の亡くなった日であり、ミステリー記念日として謎解きの面白さ、ミステリとしての意外性を大切にしたドラマを放送してもらいたかったと、正直そう思った次第である。

ミステリだけど評価すべき点はミステリ以外の所にあり!【映画「名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊」】(後半ネタバレあり)

どうもタリホーです。ケネス・ブラナーポアロの第三作目「名探偵ポアロベネチアの亡霊」を観に行きましたので、早速レビューします。

既に映画を観た方のレビューをネタバレを避けて見たのですが、すごく高評価している人と、逆に酷評している人がいて評価は正に賛否両論。その評価を分ける者とは何か?アガサ・クリスティの一ファンとして確かめて来ました。

 

作品概要

舞台は1947年のイタリア。水上都市として栄えたベネチアの街で一人隠遁生活を送るポアロだったが、ある日友人で推理作家のアリアドニ・オリヴァから、ハロウィーンの夜に開かれる降霊会に参加してほしいと誘いを受ける。降霊会が開かれるその屋敷では、ロウィーナ・ドレイク夫人主催で子供たちを集めたハロウィーン・パーティが開かれており、パーティの後に降霊会のため霊媒ジョイス・レイノルズ夫人が呼ばれていた。ロウィーナは最愛の娘アリシアを事故で亡くしており、今夜の降霊会ではアリシアの霊との交信を望んでいた。霊の存在を否定するポアロは、レイノルズ夫人のペテンを暴こうとするが、降霊会の夜に殺人事件が起こり大雨の影響で招待客は屋敷から出られなくなる。果たして、この殺人は人間の仕業か、それともこの館でかつて亡くなった孤児の亡霊たちの仕業か…?

 

以上が本作のあらすじとなる。原作はクリスティの長編ハロウィーン・パーティ』であり、イギリスの街からイタリアのベネチアへと舞台や登場人物を大幅に変更している。そのため予告を見た時は「これのどこに『ハロウィーン・パーティ』要素があるのだ…?」と困惑させられたし、オリエント急行・ナイルと来て三作目にこんなマイナーな原作をチョイスしたというのも困惑の理由の一つだ。

登場人物についておさらいすると、まず探偵のポアロと推理作家のオリヴァ夫人は原作通りのレギュラーメンバーだが、それ以外の人物は以下の通り。

ジョイス・レイノルズ霊媒

ロウィーナ・ドレイク:屋敷の女主人。元オペラ歌手。

アリシア・ドレイク:ロウィーナの娘。故人。

オルガ・セミノフ:ドレイク家の家政婦。

ドクター・フィリエ:戦争による精神疾患を抱えた医師。

レオポルド・フィリエ:ドクターの息子。

デズデモーナ・ホランド:レイノルズ夫人の助手。

ニコラス・ホランド:デズデモーナの弟。レイノルズ夫人の助手。

マキシム・ジェラード:シェフ。アリシアの元婚約者。

ヴィターレポルトフォリオポアロボディガード。元イタリア警察警部。

以上、ポアロとオリヴァ夫人も合わせた12名が本作の登場人物となるが、原作既読の方ならおわかりの通り、ドレイク夫人を除いた9人が改変もしくはオリジナルの登場人物で、特に注目すべきは原作で13歳の少女だったジョイスが本作では妙齢の霊媒師として登場する点だ。原作ではこのジョイス「殺人を見たことがある」という一言で事件が幕を開けるのだが、本作のジョイス殺人の告発という点では原作のジョイスと同じ役割を果たす。

 

本作は先ほどのあらすじにもあるように「人の犯行か幽霊による仕業か?」という事件の様相が注目ポイントの一つで、原作と比べるとかなりオカルト色やホラー要素が濃い物語になっている。クリスティ作品では『蒼ざめた馬』や『死の猟犬』といった怪奇現象・オカルトを扱った作品はあるものの、基本的にポアロシリーズを始めとするクリスティの代表作はオカルトと無縁で、どちらかと言うとこのオカルト色強めの作風はジョン・ディクスン・カーの作風に近い。映画のパンフレットを読むと本作は『ハロウィーン・パーティ』だけでなく「最後の降霊会」(『死の猟犬』所収)も参考にしたと記されており、合理的に解決出来るミステリと非合理的な亡霊というオカルトを掛け合わせたサスペンス・ホラーとして描かれている。

基本的に原作のポアロはオカルト要素の絡んだ事件とガッツリ取り組んではいないので、本作は「もしポアロがオカルト色濃いめの事件に関わったらどうなるか?」といった実験的な試みが為された作品として私は受け止めた。従来のポアロにはない亡霊の存在に対する疑念や困惑・怯え、そういったものを監督で主演のブラナーは描いてみたかったのだろうなと思う。そして前二作と違いより閉鎖的なクローズドサークル内での事件という圧迫感・閉塞感がポアロや関係者の心を蝕んでいく。

 

ホラーとしては音でビックリさせるジャンプスケア系の演出が目立つのでそういうのが苦手な人にはおススメしないが、では今回の改変におけるホラー要素とミステリ要素の絡み方はどうなのかという点に関して述べると、正直な所この両者は本作ではあまりうまく絡んでいたとは言い難い。やはり本作のホラー要素は原作で描かれなかった「怪異の存在に困惑し怯えるポアロを描きたいというブラナーの思いが反映されたというだけで、ミステリとの相乗効果にまでは至っていない。そもそもミステリ自体もかなり不満ポイントがあって、情報の出し方にアンフェアな部分があったり、心理的にそんなことをするか?というモヤモヤポイントもあったのでミステリに関しては原作の『ハロウィーン・パーティ』と同様、そんなに大したことがない作品だと評価した。

とはいえ、褒める部分がゼロという訳でもなく、事件の真相や犯人の動機といった面はちゃんとクリスティ作品らしい改変になっていたし、ブラナー自身シェイクスピア俳優としての経歴があるから、原作の諸要素をイタリアを舞台にした物語として置き換えるセンスは素晴らしいと思う。クリスティの曾孫であるジェームズ・プリチャード氏が本作のストーリーを承認したのも納得である。

 

さて、ここからは原作及び映画のネタバレありの感想に移るので、映画を観てない方はここで引き返すことを強くおススメする。

 

(以下、原作を含めた映画のネタバレあり)

 

ネタバレ解説

ネタバレ解説をする上で、今回はYouTubeで映画評論をしている沖田遊戯氏の動画をベースにして解説していく。

 

www.youtube.com

まず、動画の6分20秒辺りで沖田氏は序盤の子供たちによる「ハロウィーン・パーティ」はいらないだろとツッコミを入れていたが、個人的にプロットとしては序盤のあのパーティ描写は蛇足ではなかったかなと思う

本作の舞台となる屋敷は元孤児院であり、かつてペスト(黒死病)が流行した際看護婦や医者は職務を放棄して子供を屋敷に閉じ込め逃げた。この屋敷はそんな大人に見捨てられ病で苦しみながら死んだ子供たちの霊がいて、看護婦や医者に恨みを持っているということが序盤のパーティの場面で語られる。この怪談話から今回の事件をオカルトの仕業として解釈すると、看護婦や医者に恨みのある子供たちの霊が、元従軍看護婦であるレイノルズ夫人とフィリエ医師を殺したということになり、その霊はパーティに集まった子供の生きた魂に触発されて眠りから目を覚ましたのだ…という風に解釈出来る。それに、ハロウィーンは死んだ人の魂が戻って来る行事だから、その点から見ても今回の事件のオカルト要素としてハロウィーンやパーティの描写は必要だったと思うし、事件をオカルトめいた因縁話としてミスリードさせる効果もあったと言いたいのだ。

 

本作では過去のアリシアの事故死、レイノルズ夫人の殺害、フィリエ医師の殺害と3つの事件が描かれており、特に3つ目のフィリエ医師殺害は現場が鍵のかかった密室であったためポアロシリーズには珍しい不可能犯罪が謎として提示されているのが注目ポイントだが、結論から言うとこの3件の事件はミステリとしては難アリな部分が多い

アリシアの事件の場合はバルコニーからの転落による溺死ではなくシャクナゲの花から採れた蜂蜜による中毒死であり、アリシアポアロが見た亡霊もこの蜂蜜を口にしたことによる幻覚症状だと劇中で結論付けられている。一応養蜂をしていたことは劇中で語られていたものの、シャクナゲの花が育てられていたことは解決パートまで伏せられていたし、そもそも検死をしたのが精神的に不安定でドレイク夫人に好意を抱いていたフィリエ医師なので、謎解きとしては視聴者に対してかなりアンフェアだと言って良いだろう。

レイノルズ夫人殺害のトリックは音楽室が防音になっていることを利用し、時計の針をズラして家政婦のセミノフを証人にすることでアリバイ偽装したというもの。このレイノルズ夫人殺害のトリックは特に問題はないが、次のフィリエ医師の密室トリックが心理的な面でツッコミ所がある。フィリエ医師殺害のトリックは他殺に見せかけた自殺であり、犯人が「従わなければ息子を殺す」と医師を脅迫し、壁に剣を突き立て背中から刺されに行ったという、これまた古典的なトリックだが、いくら精神的に不安定で後ろ暗いことをしていたとはいえ、「息子に何のメッセージも残さずに言われるがまま自殺をする父親がいるだろうか…?」ということが引っかかってスッゴいモヤモヤした。特に本作は親子が物語のテーマの一つとして絡んで来るだけに、この部分が雑なトリックとして流されていたのが一番の不満になった。

 

あと沖田氏の動画の中で氏が最もキレながら酷評をしていたのがオリヴァ夫人がレイノルズ夫人の共犯だったという点だ。原作におけるオリヴァ夫人はキュートな婦人としてポアロと共に捜査をする役どころで一種のムードメーカー的存在であったにもかかわらず、本作ではそんな彼女を裏切り者として描いているのだ。だから確かに沖田氏がキレ散らかすのも無理はないなと思うし、どうせそんな改変をするのだったらトリックとしても必然性が欲しかったと思うのだけど、今回の物語においては容疑者の幅を広げる以上の効果はなかったので、改変としてはイマイチだったかなと思う。

まぁ私はそんなにオリヴァ夫人に思い入れがないのでそこまでキレなかったけど、ポアロに対して「あなたに友人はいないのよ」って言ったのを見た時はポアロが可哀そう過ぎて「それはやめたげてよ…」ってオリヴァ夫人を止めたくはなったけどね。

 

ただ、今回オリヴァ夫人を裏切り者として描いたのはもしかすると二つの目的があったのではないかと実は思っていて、その一つがオリヴァ夫人が原作者であるクリスティの分身的存在だという点だ。生前クリスティはミステリを書く上でエルキュール・ポアロの存在が物語に制約をつけてしまう、つまりはミステリとしての幅を狭めるという点で疎ましく思っていたことを述懐しており、出版社や編集者の要請に応えて仕方なくポアロを物語に入れていたと言われている。だからポアロはクリスティにとって生涯離れ難き友であった一方、すごく鬱陶しい存在だったことは多分間違いないだろうし、恐らく今回の脚本ではクリスティのポアロに対する矛盾した感情をオリヴァ夫人に反映させたから、あんなキャラになったのではないだろうか?

もう一つの目的というのはポアロを孤独にさせるという目的だ。本作でポアロは『アクロイド殺し』のように隠遁生活を送る、つまりは自ら進んで孤独になった訳だが、そこには彼の信念である「秩序と方法」に揺らぎが生じたからであり、劇中でもポアロはそれについて語っている。揺らぎが生じたとはいえ一方でそれはポアロアイデンティティでもあるのだから、心の奥ではそれを証明し自分の足元を固めておきたいと思っている。しかし今回挑んだ事件は超自然的な亡霊が絡む殺人事件で、これまで関わったどの事件よりもポワロの信条を根底から覆すかのような、混沌に満ちた事件である。そんな事件に対するポアロの心の焦燥・不安・怯えを描くためには、ポアロを支えるヘイスティングス大尉やオリヴァ夫人、ミス・レモンにジャップ警部といった従来のレギュラーメンバーは却って邪魔になってしまう。ポアロの焦りを描く上では彼には心理的に孤独になってもらわないといけない。だからオリヴァ夫人はポアロを支える存在ではなく裏切り者になる必要があったのだと、こうも考えられるのだ。

 

謎解きミステリとしては大いに不満があるものの、トリックに毒殺が用いられたことやクリスティのトリックにおいて最も重要と言える人間関係の欺瞞が描かれていたので、オカルト要素が強くてもちゃんとクリスティの作品だったなと思ってこの映画を観終えることが出来たし、何よりドレイク母子とフィリエ父子が対比的に描かれていたのが物語として美しい構図だったと評価したい。良き母親を演じるため子供を犠牲にする親と、子供を守るため自らの命を投げ出す親が対照的に描かれていたから、本作がミステリとして駄作でも、クライム・サスペンスとしては上質な物語として着地することが出来たと思うのだ。

 

「ポアロにうんざり」だったアガサ・クリスティ、孫が明かす 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

さいごに

ということで「名探偵ポアロベネチアの亡霊」の感想・解説でした。前作の「ナイル殺人事件」はまだ見ていないので、三作を通じてブラナー版ポアロはこうだ!ということはまだ断言は出来ないけど、やはりブラナーも脚本のマイケル・グリーンもこのポアロシリーズを本格謎解きミステリとして描くつもりはあまりなく、原作や従来の作品で描かれなかったポアロの感情にスポットライトを当てることに意識を向けているといった感じだろうか。だからミステリとしては超絶駄作なのだけどクリスティ作品として見ると上質という凄くちぐはぐな感想にならざるを得ないのだ。

これまでは視聴者と容疑者が右往左往する中でポアロは一人だけ真実に向かってズンズン進むといった描かれ方をした作品が多いし、だからこそ彼は名探偵として周囲にもてはやされる存在だったのだけど、ブラナー版ポアロでは「オリエント急行」でポアロにもある種の弱みがあることが判明し、そして今回の「ベネチアの亡霊」では自身のこれまでの信条を揺るがすような超自然的な存在(亡霊)が現れる。事件の謎そのものに悩むのではなく、もっと人の心の奥底にある問題を、ブラナー版ポアロでは自分ごととして捉えている。物語の最後でポアロは隠遁生活をやめ探偵として復活するが、それはこの世界の混沌に対する名探偵の再挑戦として私は解釈することにした。