タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

吉岡版「犬神家の一族」は横溝正史の皮をかぶった麻耶雄嵩だった

金田一耕助ファイル5 犬神家の一族 (角川文庫)

はい、後編を見終えましたが、いや予想外過ぎてちょっとどこから語ろうかと軽く脳がフリーズを起こしてます。

 

放送直前のPR番組では脚本の小林靖子氏が「松子夫人にスポットライトをあてた」とか言っていたので、事件自体は大きく改変せず人物描写の方を深掘りするものとてっきり思っていたし、特に前編では佐兵衛翁の過去に一切触れていなかったのでその辺りを掘るのかな~と思ってたら、まさかミステリとしての骨組みも改変してくるとは。しかも大団円としてではなくカタストロフィ(破局としてだからそりゃビックリしますよ。

 

(以下、原作・過去作を含めたドラマのネタバレあり)

※前編の段階での感想はこちら(↓)

tariho10281.hatenablog.com

 

※「斧(よき)」に関する感想を加筆しました。(2023.05.01)

 

改変ポイント(後編)について

後編は原作の「唐櫃の中」以降の展開を映像化したが、第三の殺人となる佐智殺しの現場・状況は原作と異なっており、

場所:豊畑村の空き屋敷→青沼菊乃がかつて住んでいた別宅の屋根裏部屋

状況:上半身裸で荒縄で縛られていた→服を着た状態で梁に吊るされていた

という形で改変されている。とはいえ、原作におけるアリバイの問題に関してはこの改変で破綻してはいないし、「琴」の見立てで何故犯人は佐智に服を着せたのか?という謎が追加されたことで、原作とは一味違うトリック解明のヒントになっているのが面白いポイントだろう。

 

さて、ここまではまだ従来の映像作品における「犬神家」とさほどレベルとしては変わらない改変だったが、金田一による解決パートに入るとその様相は一変する。

 

まずは若林殺害と珠世を襲った「三度の奇禍」について。原作ではどちらも松子夫人の仕業だったが、今回の吉岡版では若林の場合は確実的な殺害方法なのに対し、珠世の場合は確実性に欠ける稚拙な方法だと殺害計画としての質の差を指摘、珠世を狙ったのは小夜子だと推理する。

この推理に関しては、前編の段階で佐智が珠世にもアプローチをかけていたことを(物語序盤の)幸吉の発言や通夜の席での一幕などで描いておりその三角関係(?)から小夜子がやったことだと推理するのは決して不可能ではないだろう。

 

そして青沼静馬に関してだが、従来の映像作品における静馬は犬神家への復讐目的佐清に成りすましていた。特に映像作品においては「珠世も遺産も全部俺のものだぜ!」というスタンスでいるのだが、今回の吉岡版における静馬は単純に母親(母性)を求めていたというのが独自の味付けとなっており、そこが過去作とは違う悲劇の物語として設定されている。

過去作ではビルマ戦線の地獄のような状況下を、静馬は犬神家に対する恨みを軸に乗り越え復員して来たが、今回においてはビルマ戦線の過酷な環境が静馬の毒気を抜いてしまったという風に描かれていると私は感じた。たとえ相手が自分の母親を虐待し家から追い出した仇だとしても、蛆虫を食って生き延びねばならないビルマの地獄を思えば母親という存在がいる家の方がずっとマシだという具合に転換したと予測が立つし、そのために前編の始めでビルマ戦線の過酷な様子を描写したのかと納得がいった。しかし、地獄よりマシと思って飛び込んだ犬神家はビルマ戦線とはまた別の地獄であり、結局その渦に飲み込まれて死ぬ羽目になったのだから、原作とはまた別の意味で悲劇的なオチになっていたと思う。

 

これは松子夫人にしても同様で、この先息子のいないままあの犬神家で孤独に暮らすことを考えると、偽者でも息子がいると考えた方が彼女にとっては天国だったのかもしれない。特に大竹さん演じる松子夫人は佐清以外の人間に対して敵愾心があると私は前編の感想で言及していたから、やはり松子にとって佐清だけが自分の素をさらけ出せる存在だったことは想像に難くない。

 

さて、以上の真相を踏まえた上で前編の描写を振り返ると、偽者と半ば覚悟していたとはいえ、本物の佐清とは違う振る舞いに違和感・気持ち悪さを覚え声を荒げてしまった松子、手形が一致して欲しいと祈る松子、一致して安堵する松子という感じで心情の乱高下がより明確になっているのは映像作品として良いと思うし、それだけに後編でそれが偽者、しかもよりにもよって憎むべき菊乃の子供だったのだから、正に原作でいう所の「恐ろしい偶然」の悲劇だったという訳だ。

 

ちなみに、松子夫人が「仮面の男=静馬」だと気付いたのは、原作では大山神主による暴露が切っ掛けだったが、今回の吉岡版では焼け火箸による火傷の痕が静馬だと気付く切っ掛けになっている。これは原作の「噫無残!」の章で梅子が赤ん坊の静馬の尻に焼け火箸をあてがったと記述してあるので、そこから採用されたのだろう。正直視聴した時は「火傷の痕で静馬だと決めつけるのは早計過ぎではないか…?」と思ったけど、出征時に撮影された佐清・松子の2ショット写真を手に入れられた人物なのだから、佐清と何かしら深い関わりがあった人物と推測するのは当然だと思うし、裸を見られた際の静馬の様子から直感的に悟った可能性もゼロではない。

 

劇中で金田一が言及したように、偽者でも生かしておかないと佐清経由で遺産が入ってこないのに、そんな計算も出来なくなるほどの衝動的な怒りがあったと思われるのだが、過去作と違いその静馬殺害の瞬間を描いていないのも吉岡版の特異なポイントの一つだ。有名な石坂版にしろ他の過去作にしても、やはりこの静馬発覚・殺害の場面は作中における山場の一つなのに、そこを映像化しなかったのは何故かと思ったが、実はこれがこの後で展開される金田一「もう一つの推理」に関わっている。

 

嵐の後の残骸としての「斧(よき)」

www.nhk.jp

犬神家の一族』の代名詞である湖から突き出した足は、今回の吉岡版では原作通り氷の張った湖に突き立てられた死体となっており、原作の風景を再現出来たことを放送前のPR番組ではアピールしていたが、「斧(よき)」の見立ての扱い自体は原作と全く異なっている。

原作では死体を逆さに突き立てたことにもちゃんと判じ物として意味があるし、「斧」の見立てが「琴」「菊」の見立てとは成立の意味が違うという点にも触れられている。ただし今回は「斧」の見立てをミステリ、つまり事件の謎として描くことを完全に放棄している。本来なら犯人が明らかになる前に見せるべきなのに、犯人の松子夫人が死亡後に「斧」が視聴者にさらされることになった。だから今回の「斧」には判じ物という意味はないし、見立て自体に深い意味合いもない。そういう点では改悪と言えるだろう。

 

しかし私はそこまで改悪だと感じなかった。というのも、この吉岡版における「斧」は嵐が過ぎ去った後の残骸という、事件の終焉を意味するような悲壮感ただよう幕切れとしての象徴として機能していたからだ。解決パートでの松子夫人の静馬に対する「化け物」発言や、静馬が純粋に母を求めていたことを知った後であの死体がさらされるからこそ、一層静馬の悲劇が強調されるのだ。

正直静馬に関しては、過去の映像作品が復讐目的の潜入として描いているから彼の死にさほど感情が動かされなかった。と言うよりも、見立てのアイデアを持ち出した静馬自身が皮肉にも見立ての最後を完成させてしまうという点にミステリとしての面白さがあったのだが、今回の静馬の死には皮肉さとか物語としての面白みはない。むしろ哀しさを感じるし、その哀しさは歴代でもトップクラスだと思うよ。あの「斧」の見立てを見てまさか物悲しいと感じる日が来ると思わなかったもの。

 

新本格ミステリ的どんでん返し

松子夫人の自殺という原作通りの結末を迎えたかに思えたが、最後の10分ほどの尺で吉岡版は佐清が事件の黒幕であり、珠世が自分に好意を持っていること、母親の松子夫人が静馬を佐清として連れて帰って来たことを利用して、佐清が相続候補者を排除し遺産と珠世を独り占めしたのではないか?という推理が展開される。

 

その推理の切っ掛けとなったのが子供経由で警察に届いた手紙金田一は、本当に青沼静馬に成り代わって焼身自殺するつもりなら、手紙が遅れて届いた方が確実に目的が達成されるのに、郵便ではなくわざわざ子供に届けさせたという点を突き、わざと警察に阻止されることを目的とした手紙だったと推理している。

この佐清黒幕説こそ、先ほど述べた静馬殺害の瞬間が描かれていない件と関わる。実は金田一が語った疑問以外にも違和感を覚えた所があって、それは松子夫人が自殺する直前に言った台詞にある。

松子「犬神家は誰にも渡しません。ましてや、あの菊乃の子供には絶対に!」

普通に考えれば菊乃とその子供・静馬に対する激烈な怒りを示す台詞だな~と思ってしまうが、もし松子夫人が静馬を殺害したのだとするとこの台詞はちょっとおかしい。渡すも何も静馬は自分の手で殺しているのだから、あの段階で「渡しません」と言う必要がないし目的はほぼ達成されているのだから怒りを示すこともないのだ。

 

この松子夫人の発言と、先ほどの静馬殺害の瞬間が描かれなかったことを合わせて考えると、実は静馬の殺害は佐清がやったのではないか?という推理が成り立ちはしないだろうか。

だとすると、松子夫人の自殺にしても原作とは意味合いが異なり、今回の事件で唯一殺さなかった、というより殺せなかった静馬を息子が殺したので、その罪を被って死んだと解釈出来る。自分が殺せなかったから未だに憎悪・怒りの念が残っていたと考えられるし、それを金田一や他の面々にアピールすることで佐清は静馬殺害の嫌疑を免れ、事後共犯の罪だけで裁かれる。それを見越して松子夫人はあのように劇的な最期を遂げたのではないだろうか。※1

 

勿論これは心理的な矛盾に過ぎないし物的な証拠はないから、佐清が手紙を郵便にしなかったのもたまたまで、松子夫人があのような発言をしたのも、静馬を殺してもなお怒りが消えなかったからだと捉えることだって出来る。とはいえ、実は原作で語られる真相自体が松子夫人と佐清の二人の独白という非常に主観的な真相であり、それを裏付ける客観的事実は正直そんなになかったと思う。事実として認められるのは松子夫人が殺人犯であり、佐清が事後共犯者だったという程度で、それ以外の静馬に脅迫されて見立てをした云々は全て佐清の自白で語られており、それが本当だったかどうかは検証のしようがないのだからね。

そこに着目してこのような新本格ミステリ的どんでん返し、それも麻耶雄嵩氏の作品でよく見られるようなカタストロフィを生み出したのだから、噂に違わぬ小林脚本の凄まじさを体感した次第である。これは原作を批判的に見ない事には生み出せない改変だ。

 

※1:ただ、映像を見ると佐清が別宅で自殺を図ろうとした場面の直後に松子夫人と静馬は犬神家にいたので、あの場面転換が時系列通りならば、佐清に静馬を殺害することは不可能だけど…。

 

さて、ここからは原作を中心とした感想・考察を進めていきたい。

 

敢えて事件を整理しなかった?

原作『犬神家の一族』は、角川で映画化されるまではミステリとしてそれほど高く評価された作品ではなかった。ミステリにおけるフーダニット・ハウダニットホワイダニットのうち、ハウダニットについては特に不可能犯罪を扱った作品でもないし、ホワイダニットについては言うまでもなく遺産絡みの殺人なので動機の意外性もない。そもそも、意中の相手に財産を相続させるための殺人自体、横溝は『犬神家』を発表する前に既に別作品で描いてしまっているから、当時リアルタイムで雑誌を購入して読んでいた読者からしたら、今回の犯人が松子夫人であるというフーダニットに関しても意外だと思わなかっただろう。

 

これはTwitterで他の方が指摘していたことの受け売りになるが、『犬神家の一族』は本作のトリック――犯人の知らない事後共犯者による見立て・偽装工作――を十全に活かした作品になっていない。つまり他作品における「密室殺人」だの「容疑者全員にアリバイ」といった明確な謎が提示されていないし事件も整理されてないから、それぞれの殺人において金田一が何に引っかかって、どこで行き詰まっているのかがイマイチ読者に伝わりにくい形になっている。一応「奇怪な判じ物」の章で時系列に沿って事件の重要事項を振り返ってはいるが、ほとんど起こったことを羅列しているだけで疑問点を列挙している訳ではないから、それもトリックが明かされた時のカタルシスを弱めているように思う。

 

ただ、これは恐らくだが横溝は敢えて事件整理を避けたのではないかと思われる。というのも、この犬神家の事件って遺産相続が動機なのは間違いないのだから、容疑者は当然犬神家の人間に搾られる。そのうち相続に直接関係する佐清・佐武・佐智・珠世・静馬は、殺人を犯したことが発覚した場合相続人として法律的に排除されてしまうのだから危険を冒して他の相続候補者を殺すというのは余りにもリスキーだし、そう考えれば遺言状に名は載っていなくとも、間接的に利益を得られる三姉妹とその一家の中に犯人がいると推理は進められる。斧琴菊の見立てにしても青沼菊乃、或いは静馬が犯人だとミスリードさせるためにやったのではないかと推理すれば、三姉妹の誰かが犯人ではないか?と思い至るのは決して難しくない。

要は、犬神家の一族』は事件を整理すればするほど犯人が浮かび上がる作品であり、だから横溝は敢えて事件整理に筆を割かず、物語を展開させていくことで真犯人を紛れさせたのではないだろうか?

 

犬神佐兵衛の復讐とジレンマ、名付けの意味

犬神家の一族』は生首の乗った菊人形や仮面の佐清、湖から足を出した死体といった強烈なビジュアルと、遺産を巡る各人物のせめぎ合いが見所となっているが、それはあくまでも表面的な見所であって、一番物語を牽引しているのは犬神佐兵衛の遺言状である。この遺言状が殺人事件とは異なるホワイダニット、つまり何故佐兵衛翁は珠世・静馬を優遇し、直接の子供である三姉妹には冷酷だったのかという謎として読者の前に常に立ち続けるのだ。これは原作だと「奇怪な判じ物」の章でその動機がようやく明かされるのだが、過去の映像作品ではこの辺りの動機が微妙に改変されている。

例えば石坂版では、晴世に対する愛というのは原作と同じながらも妾を三人も囲っていた点については行き場のなくなった愛情が反動となって金や女という、この世のありとあらゆるものを征服しようとする欲望へと転化していったという形で説明されている。つまり、原作のように特定の女性に愛情が向かうことを恐れて妾を複数持っていたのではなかったという訳だが、では今回の吉岡版はどうだっただろう。

 

「欲望のはけ口」として妾を複数持っていた点については石坂版を含めた過去作と大体同じではあるが、今回引っかかったのは野々宮大弐の描かれ方である。原作や過去作を含めて大弐は佐兵衛にとっての大恩人である。しかし今回の吉岡版における大弐からは恩人としての人柄が伝わってこない。むしろ、晴世が妊娠し佐兵衛が晴世との結婚を申し込んだ際には、無情にも引きはがすような形で晴世と佐兵衛の間を裂いたのだから、少なくとも吉岡版で制作陣は大弐を佐兵衛にとっての恩人として描いていないことは明確だ。

祝子を野々宮家のものとして入籍した件についても原作だと(恐らく)佐兵衛・大弐・晴世の三者の同意で行われたものだと思うが、吉岡版を見た感じ大弐の独断だったと思うし、佐兵衛は晴世の死に目にも会えてないのだから、本当に原作のように恩人として終生尊敬していたとは考えにくい。いや、反対に大弐を恨んでいたのではないかとすら考えてしまう。

 

そう考えると佐兵衛が信州財界の一巨頭、犬神財閥の創始者としてのぼりつめたのも、原作のように大弐の大恩に報いるためではなく、大弐への復讐心が燃料となったからではないかと考えられる。

今でこそ男色関係は珍しくないものの、当時の倫理観から見れば同性愛は邪淫であり大弐はそれを犯していた。にもかかわらず彼は神官という立場を盾に佐兵衛から愛する晴世とお腹の子供を奪った。当時の佐兵衛は地位も権力もない孤児だったし救われた身なので大弐の身勝手さを糾弾することも出来なかったに違いない。だからこそ彼は大弐以上の権力者・実力者になることで奪われたものを奪い返そうとしたのではないだろうか。

結果的に佐兵衛は大弐の死後、祝子を引き取ることが出来たのだから目的は達成出来たのかと思いきや、既に佐兵衛には妾の子供である松子がいて※2、自身も企業家として有名になり過ぎてしまったが故に、祝子を犬神家の籍に入れることが出来ない状況になっていた。祝子を正式に犬神家の人間にするとそれはスキャンダルとなって過去の野々宮夫妻との奇妙な三角関係をマスコミに暴かれる切っ掛けにもなりかねないし、かと言って切り捨ててしまうというのは晴世に対しての裏切りになってしまう。大弐に復讐するため権力・実力を身に着けたのに、それがアダとなって本来の目的が叶わなくなったのだから、正にジレンマに近い状況に佐兵衛翁は陥っていたと言えるだろう。

 

叶わないとわかっていながらも、終生晴世に愛を捧げ妾の子供である松子ら三姉妹に冷酷だったこの佐兵衛翁の性格を体癖論の観点から分析すると、犬神佐兵衛は9種体癖※3であることが作中の描写から明らかにわかる。珠世に対する極端なまでの恩典にしても、愛憎が絡んだあの遺言状にしても、全てが9種体癖の世界観と合致しているのだ。

これに関しては専門的な話なのでこれ以上は言及しないが、ところで佐兵衛翁は愛情がないにもかかわらず松子ら三姉妹に「松竹梅」の縁起の良い名を付けているし、三姉妹の婿養子である寅之助・幸吉も十二支の「寅」「幸」「吉」とこれまためでたい名を取り入れている。これは作者である横溝も作中人物の名前決めで試行錯誤した※4みたいなので当然この名付けにも意味があると考えるべきだろう。

この名付けの意味を私なりに考えてみたが、これは先ほど言及した佐兵衛のジレンマと関わっているのではないかと思う。佐兵衛自身、晴世への忠義立てとして正妻を迎えず妾を囲い、その子供に愛を注がないという行為に後ろ暗さはあったのだろう。倫理的にも歪であることはわかっていたが、晴世のことは佐兵衛にとっては譲れない領域というか聖域だった。だからこそ縁起の良い名付けや、縁起の良い名を持つ人間を婿養子として迎えた行為の裏には、佐兵衛自身がどうしようもないジレンマを抱えていたこと、そしてそのジレンマを打破するための運命的な出来事がこの犬神家にもたらされることを願って、ある種の験担ぎとして縁起の良い名を取り入れたのかもしれない。これは佐兵衛が大弐から斧琴菊を送られたことから得た着想とも解釈出来る。

しかし、その験担ぎは中身を伴わない、実に表層的な部分での験担ぎだったから、結果的に一族内の対立が深まったばかりか、佐兵衛翁の死後あのような血みどろの連続殺人にまで発展した。その連続殺人にしても、不幸な偶然が重なったことで発展していったことを思うと、佐兵衛自身はおまじないのつもりでやったことが全て呪いとしてこの家に降りかかっていた。

名前と言えば、そもそも「犬神」というこの名字を佐兵衛が名乗ったことが最初の過ちと言えるのかもしれない。佐兵衛が何故このような憑き物の名を名乗ったのかはわからないが、「犬神」と名乗った時点でいくら験担ぎをしても全ては呪いに転換されてしまうという、そんな恐ろしい運命が「犬神」という名に込められていたのではないかと改めて思った次第だ。

 

※2:木魚庵「登場人物の年齢から見る『犬神家の一族』の側面」(神保町横溝倶楽部 編『金田一耕助自由研究 Vol.3』)を参照。

※3:体癖 - Wikipediaを参照。9種は開閉型の閉型で骨盤が内側に締まっており、太ももがふくらはぎより長い、顔のパーツが真ん中寄り、太りにくく実際より小柄に見えるといった身体的特徴がある。愛憎が感受性の中心にあり、凝り性で妥協が出来ないため職人気質な人が多い。好きなもの・こだわっているものに対しての執着が強く、集中力が長時間続く。動物的直感で敵味方の区別をつけ、身内や味方に対しては非常に面倒見が良いと言われている。

※4:かじゃま「『犬神家の一族』~推敲時と雑誌連載・現行版での加筆修正について~」(神保町横溝倶楽部 編『金田一耕助自由研究 Vol.3』)を参照。

 

松子夫人のジレンマ

ジレンマを抱えていたのは何も佐兵衛翁だけとは限らない。娘の松子にだってジレンマはあったはずだ。

ドラマが放送される前にちらっとTwitterでそのことには触れたが、言うまでもなく犬神家の歴史は佐兵衛が17歳の頃から始まったもので、その歴史は70年にも満たない。ましてや、松子がまだ思春期だった頃と言えば犬神製糸が企業として急成長している時期で佐兵衛も事業に熱を入れていた時期だから、松子の孤独を想像するとゾッとするものがある。父親は愛情をかけてくれないし、愚痴を言うような相手も家にはいない(竹子・梅子は姉妹とはいえ母が違うから話題を共有する相手として心を許せる存在ではなかっただろうし…)。友達はいたかもしれないが、だとしても犬神家には歴史(家族史)がないから家族との思い出だったり親に対する愚痴をこぼすことさえ出来ない。そんな地獄を送っていたのだからそりゃ他の人間に対して頑なになるのも無理ないだろう。

ここまで読んで「そんな父親が愛情をかけてくれない家にいるくらいなら、さっさと家出して嫁げば良かったのに」と思った方もいただろう。この疑問に対する答えとして、まだ女性の社会進出が容易でなく、経済面を佐兵衛に頼り切っていたから松子は家から出られなかったと説明することは出来るが、個人的には心理的な面でも松子は犬神家を出られなかった、というよりも出たくなかったのではないだろうか

 

確かに家を出てしまえば間違いなく貧しくなるし、後ろ盾となる保護者もいないから犬神家にいる時よりは間違いなく生活の質は最低レベルになっただろう。でも、もしかしたら自分のことを心から愛してくれる人に出会えた可能性だってゼロではないし、財閥の娘とまではいかなくともそれなりの安定した暮らしを送れた可能性だってあったのだ。しかし、その可能性を捨ててでも犬神家にとどまったのは、松子自身が犬神佐兵衛と同じ人生をなぞることを嫌がったからではないだろうか?

確かに家を出たら幸福になれる可能性はあった。しかしそれはあの憎き父と同じ人生を辿ることになる。それは即ち結局自分は犬神佐兵衛と同じ質の人間だということを示すことになるのだから、だからこそ松子はそこが地獄とわかっても家にとどまり続けた。家で自分の幸福を見出し成就させることが結果的に父に対する復讐になると信じていたと考えれば、松子の犬神家に対する並々ならぬ執着の理由も何となく察せられるだろう。

 

言うまでもなく犬神家は家族像としてイレギュラーな体系になっている。それでも松子は一般的な家族体系というか財閥の家として相応しい家格みたいなものを築き上げることに心血を注いでいた。それは原作の彼女の台詞からも何となく感じ取れる。

「おまえさんたちは、なんということをいうの。この佐清は、かりにも犬神家の総本家ですよ。総本家の跡取り息子ですよ。お父さんがあんなつまらない遺言状をかいておかなかったら、犬神家の名跡も、財産もすっかりこの子のものになっていたはずなんだ。この子は本家だよ、総本家ですよ、昔ならば殿様だ、御主人ですよ。佐武も、佐智も、家来も同然、それだのに……それだのに……この子をつかまえて、手型をおせの、指紋をとらせろのと、まるで罪人でも扱うように。(後略)」

手形捺しの拒絶を示した上記の台詞にあるように矢鱈に何度も「総本家」という言葉を持ち出している。実際は三姉妹それぞれの一家に序列はないし竹子や梅子の家が分家筋という訳でもない。佐兵衛にしても家族に対してのこだわりはないし、家格とか長子相続とか一般的な家のルールを持ち出す必要性がなかった。でもだからこそ余計に松子は武家社会のような封建的な家族の形にこだわって理屈っぽくそれを説いたと思うし、犬神家自体がイレギュラーだからこそ、レギュラーな家のルールに戻さなければ佐清を含めて幸福は掴み得ないと考えていたのかもしれない。

 

吉岡版「犬神家」総評(整えられた様式美を混沌へと落とす)

最後に吉岡版「犬神家」の総評をしてこの感想記事を終えよう。『犬神家の一族』を日本ミステリの金字塔のみならず、日本映画史にのこる傑作にしたのは市川崑監督であり、映像化に不向きな本格ミステリを一流のエンタメ作品としてアレンジした功績は揺るがない。その功績に関しては春日太一氏の市川崑と「犬神家の一族」』で詳しく分析・評価されているので、気になる方は是非読んでもらいたい。

市川崑と『犬神家の一族』(新潮新書)

市川監督による石坂版以降の映像作品も、ほとんどは石坂版の影響を受けており、映像作品における「犬神家」は長い間この石坂版の呪縛(というと聞こえは悪いが…)から抜け出せずにいた。

しかし、今回の吉岡版において脚本の小林氏は市川監督が築き上げた一種の様式美どころか、原作のプロットさえも解体してミステリにおける多重解決の形式を取り入れた。実を言うと、この多重解決の形式は名探偵を描く上で非常に相性が悪い。ミステリとしては同じ手がかり・証拠から幾つもの真相を導くという趣向に面白さがあるものの、名探偵はやはりスパッと快刀乱麻を断つ如く一つの真実を暴くものであり、そうでないと事件の渦中にいる人々は混沌の淵をさまようことになるからだ。石坂版においても金田一は名探偵として描かれていなかったが、市川監督は金田一を「天使」として描くことで結果的に事件を解決させ、劇中の人々だけでなく我々視聴者も安心して物語を見終えることが出来るよう設計されていた。

 

一方今回の吉岡版は安心どころか、視聴者を混沌の渦に叩き落とすかの如き形で物語を閉じている。金田一が最後に語った佐清黒幕説にしても結局佐清本人が肯定とも否定ともとれない金田一さん。…あなた、病気ですというアンサーをしているから、金田一の推理が的を射ていたのか、単に考えすぎだったのか、それすらもわからない。だから名探偵の活躍を期待する視聴者・原作や市川監督による石坂版のような愛の物語としての様式美を期待していた視聴者にとって、今回の吉岡版は最悪の改変・映像化だったのではないかと思う。

一応言っておくと私は新本格ミステリに慣れ親しんでいるし、上記で挙げた麻耶雄嵩氏のようなミステリとしてのお約束を壊す作品もそれなりに読んでいるから今回の吉岡版は(一般的な世評はともかく)非常に挑戦的かつ刺激的な作品だったと個人的には高く評価したい。

 

この挑戦的な脚本は何もミステリ的な面だけではない。原作を含めて、これまで「犬神家」では一貫して親子の愛というものを描いてきている。佐兵衛翁によって作られた歪な一族の中でも佐清は純粋に珠世を、そして母の松子を大事に思っていたし、松子も(殺人という行為は到底褒められないが)息子の幸福を願うという普遍的な親の愛を持った人間として描かれている。市川監督の映画があのように物語として美しい着地を遂げたのも、佐兵衛翁を諸悪の根源にし、犯人の松子はあくまでも佐兵衛に翻弄されたに過ぎない人間として描いたからだ。

しかし、今回の吉岡版ではその普遍的な家族愛というものすら幻想だと言わんばかりに叩き壊している

あのような歪な家の中で本当に佐清だけが純粋に親を思い静馬に気を遣うような人間になり得たのか?ビルマ戦線の地獄を生き抜いて復員したのだから、むしろ佐清は「自分こそ犬神家の遺産を総取りするだけの権利がある」と考えていたのではないだろうか?そして何より、我々は余りにも昭和的な家族の絆・愛情という価値観に囚われ盲目気味になっていたのではないか?…と、この吉岡版「犬神家」は我々視聴者に訴えかけているような気がする。まぁ、単に私が深読みしてるだけの話なのでそこまでのメッセージ性はもしかしたらないのだろうけど。

 

とはいえ、この令和において家族価値というものがまやかしであることは児童虐待しかり、「毒親」「親ガチャ」というワードしかりで、既に証明されつつある。これが昭和・平成初期だったら恐らく今回のような脚本は生まれなかっただろう。親や家族に対する絶対的な価値観が崩れた現代だからこそ、今回の吉岡版「犬神家」がある種の必然性をもって産み落とされたのではないかとそう思えてならない。

そう言えば金田一を演じた吉岡さんは「ALWAYS 三丁目の夕日」に出演していたが、この作品なんか正に昭和的な家族とその絆を描いた作品だし、今回の脚本がその真逆を行ったのも吉岡さんの過去の出演作が意識下にあったからだろうかと勝手に思っている。でも、そうだとしたら「ALWAYS 三丁目の夕日」に対して意地悪なことをしているとも受け取れるので、やはり流石にそれはないか…ww。

 

脚本面については散々触れてきたが最後に軽く映像面に関して言っておくと、今回の吉岡版は犬神財閥としての家があまり前面に押し出されてはいなかったと思う。石坂版や稲垣版では金の装飾が施された襖が犬神財閥の財力を象徴していたし、市川監督は襖の色にこだわって撮影していたというエピソードがある。これは佐武の生首が置かれた菊人形にしてもそうで、今回の吉岡版では原作で言及されていた「鬼一法眼三略巻」の三段目:菊畑の趣向が完全にカットされている。だから今回の吉岡版で犬神財閥の財閥としてのスケールをうかがい知るのは難しいし、那須湖にしても湖というより池みたいで、全体的にコンパクトな世界観で展開されたという印象を終始受けた。

そこは映画と違ってドラマだから世界観の構築を完全にするのは難しかっただろうし仕方ないポイントかもしれないが、このコンパクトさが長所として活かされた場面もあった。一例を挙げるなら佐清が手形を捺すことになった前編、これまでの作品では竹子一家が出席していたし松子夫人の前口上の後に佐清は手形を捺していたが、今回の吉岡版では竹子一家は出席しておらず、松子夫人も同席していない。これによって竹子一家が佐武を失った悲しみが表れているのと同時に、松子と佐清との間の心理的距離感も表現されていて、これまでの映像作品とは違う読み解き方が出来る。この引き算の美学とでも言うべき映像演出もこの吉岡版を評価する上で重要なポイントと言って良いだろう。