タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

人は知らず知らずのうちに呪われ、祝福されている【映画「ミステリと言う勿れ」感想】

タリホーです。映画「ミステリと言う勿れ」、先月末に観ておきながら感想を後回しにしていたので、遅まきながら感想を残しておこうと思いました。

 

公開から一ヶ月経ったとはいえ、週末動員ランキングで5週連続1位というヒットを記録。ということで間違いなく今年度の邦画の中でヒット作として評価されるのは間違いないが、ではどういう点でこの「ミステリと言う勿れ」が人気を集めたのか。それを私なりの言葉で語っていきたい。

 

横溝正史オマージュの遺産相続ミステリ

ミステリと言う勿れ(3) (フラワーコミックスα)

映画のエピソードは原作2巻から4巻にわたって描かれており、ファンの間では「広島編」と称されている人気エピソードだ。

 

広島の美術展を見終えて道すがら観光していた時、久能整はいきなり狩集汐路という女子高生から遺産相続絡みのバイトを持ちかけられる。狩集家は当主の遺言に従い、遺言に記されたお題をクリアした者が遺産を相続することになるが、その遺産相続で狩集家は過去に死者が何人も出ており、汐路は今度の遺産相続でも死者が出ることを恐れて久能に協力要請を依頼してきたのだ。こうして久能は狩集家の面々と会うことになるが、久能の介入によって、これまでの事件が単なる遺産争いが原因ではないものであり、狩集家に隠された恐るべき闇が徐々に明らかとなっていく。これが本作のあらすじとなる。

 

あらすじからわかるようにこの「広島編」は『犬神家の一族』『獄門島』『女王蜂』といった横溝正史の諸作品をオマージュした物語となっており、表層的な面だけではなく真相もかなり横溝的な仕上がりとなっている。本作の犯人の犯行動機は戦前や戦後の日本ならまだしも現代だと時代錯誤に感じられるきらいもあるが、それを敢えて現代を舞台に描いた所に原作者である田村由美氏の挑戦心が感じられたと個人的には思った。

 

映画を観た当日にツイートで簡単に感想は述べたけど、カットされた人物というのは新音の妹・万音(まお)と真壁税理士の孫・絹代。それに伴い理紀之助と新音の背景描写も一部カットされてしまったが、それほど本筋の事件に関わってくる部分ではないのでここは妥当なカットと言った所だろうか。蛇足と述べた最後の刑事パートもED後なので物語の邪魔をしていないし、その点はマイナスとはいえ大きな減点にはならなかったかな。

 

映画の予告を見た段階で今回のロケ地が、今年4月に放送された吉岡秀隆版「犬神家の一族と同じ、倉敷の旧野崎家住宅であると知ったので吉岡版のイメージからコンパクトな世界観で物語が展開されるのかなと当初は思っていたが、本作はさすが映画というだけあって屋敷の居間や台所、四つの蔵などセットを組んだ撮影が行われており、原作の設定に劣らない広大なお屋敷としての狩集家がちゃんと映像で表現されていて、そこも映画を評価したポイントの一つである。

 

※吉岡版「犬神家」の感想はこちら(↓)。ただしネタバレありの感想です。

吉岡版「犬神家の一族」(前編)、現時点での感想 - タリホーです。

吉岡版「犬神家の一族」は横溝正史の皮をかぶった麻耶雄嵩だった - タリホーです。

 

(以下、直接的なネタバレはないが、事件につながる要素・物語のテーマ等についての言及あり)

 

「呪いを解く物語」としての秀逸さ

ここから映画本編についてより詳しい感想を述べていく。

主演の菅田将暉さんは今回の「広島編」は「『ミステリと言う勿れ』という作品の良さが詰まっているお話」だと述べているが、確かにこの「広島編」はシリーズ全体を通して描かれている「呪いとその解除」をより明確に表した内容となっており、ボリュームも2~4巻にまたがって描かれる長大さで、真相もなかなかハードで闇深いから映画にするだけの重みのある作品であることは間違いない。

 

tariho10281.hatenablog.com

ドラマ最終回の感想で私はこの「ミステリと言う勿れ」が「狂人・マイノリティーに花束を送るような物語」と評した。これは今でも間違った評価ではないと自負しているのだが、本シリーズで描かれる狂人もマイノリティーも、よくよく考えるとある種の呪いにかけられた人々だと読み解くことが出来る。

映画の中で幼少時の精神状態を「乾く前のセメント」と表現する場面があった。子供の頃に受けた影響は生涯消えることのないものとして残り続けることをうまく表した言葉だが、これがポジティブなもの・良い影響を及ぼすものが「祝い」であり、ネガティブなもの・悪影響を及ぼすものを「呪い」と呼ぶのだろう。

 

そしてその「祝い」「呪い」は両親や親戚・学校の先生・会社の上司、或いは近所のおばさんやおじいさん・お世話になった人々といった先人たちによって与えられる。別にこういった人々全てが悪意を以て「呪い」を振りかけることはあまりないけど、結果的に「呪い」になってしまうケースは日常に散らばっている。そして「呪い」をかけられた本人もそれが「呪い」だと気づいておらず、結果自分に原因があると思って不幸になったり、そのまま狂人と化してしまう。この「ミステリと言う勿れ」ではそこを見事に描いており、多くの人がこのシリーズを支持するのも、こういった私たちの日常に隠された「呪い」を明らかにしているからだと私は思っている。

特にこの「広島編」はその呪いの部分が負の遺産という形で表現されているのが注目ポイントで、本来背負い込む必要がないものを背負い込んでしまい、それを使命として受け取ってしまったがゆえの歪みを描いているから、そこにゾッとさせられるし、映画は漫画と比べてよりその歪みが生々しく描写されていて原作を読んで真相を知っていても戦慄する場面があった。

 

狩集家の闇が呪いとなって加害者にも被害者にも悪影響を及ぼし、その呪いを久能整が解くという所に本作の物語としてのカタルシスがあるのは映画を観れば一目瞭然であり、これは別に映画だけでなくシリーズ全体を通して言えることなのだけど、作中の登場人物だけでなく私たちも久能のような呪いを解いてくれる存在を求めている。でなかったらこのシリーズがここまでのヒットに至ることはなかったと思うし、今の時代が先人たちによって生み出された呪いを解除する時代であることをこの作品が伝えているような気がしてならない。

その「呪い」にしても、漠然としていて正体が不明なものもあれば、明確にこれが悪いと断定出来るものもあって、人それぞれ呪いの形は異なるが、いずれの場合も何が問題なのか言語化出来ていなかったり、どこを改善したら好転していくのかが見えないから私たちは「呪い」を抱えたまま病んでいくという事態に陥ってしまう。そこを久能はキチンと言語化出来るから呪いを解くことが出来るし人を救えるのであって、そういったことを見逃さない(というより見逃せないと言った方が正確かな?)性格だから出来る芸当だと思うのだ。

 

かつて「犬神家の一族」を映画化した市川崑監督は、金田一を名探偵ではなく天使と表現した。石坂浩二さん演じる金田一は結果的には事件の犯人を暴き謎を解いてはいるが、その捜査の過程をよく見ると、「犯人は誰か?」という道筋から外れた所ばかりを調べている。でもそれが事件の底にあった犬神家全体の呪いを解くことになっており、金田一の探偵としての魅力とセンス・勘の良さを裏付けているのだ。「犬神家」が単なる謎解きミステリではなく文学として評価されるのも、こういった探偵の描き方も大きく関係していると思うし、本作の久能も同様に単なる謎解き役ではない、呪いの解除者として作用している所に本作の魅力がある。

 

今回の映画では先人からの「呪い」が物語の軸となっていたが、「呪い」だけでなく「祝い」、つまりは親からの祝福といった面も描かれており、それのおかげで物語は後味良い形で締めくくられている。その祝福も呪いと同様、目に見えないものであり汐路をはじめとする狩集家の人々は気づかずスルーしていた。そう考えると、久能は呪いを解くだけでなく迷える子羊を「祝い」へと導く役目も果たしたと言えるのではないだろうか?