どうも、タリホーです。あの~、本当は蒸し返したくなかったのだけど、ちょっと先日「ゲ謎」を否定することに心血を注いだブログ『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を見てしまうことがあって、またそれについて私の意見というか批判というか、いやぶっちゃけて言うなら文句・苦言を呈したい。
このブログの筆者とは浅からぬ因縁があることは以前の拙記事を読んでいただければわかると思うが、この記事以降ブログをのぞきに行くようなことはしなかったし、したところで気分が悪くなるだけなのでやってなかったのだが、
先日私の記事を引用した上で鬼太郎6期を批判しているカプリコーン氏の記事を見かけて、氏の記事の中に『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を紹介しているものがいくつかあったので、つい見てしまったという感じだ。まぁこれは私がバカなことをしてしまったな~というもので、よせば良いのにまた胃がムカムカとしてしまった。
このムカムカを解消するためにもここから色々と語るつもりだが、まず最初に言いたいのは、私が7月に書いた記事に届いたブログ筆者のコメントで、
イライラさせてごめんなさい。幸いもうあんな嫌~~な悪口ブログを更新することはないのでご安心ください。
私のブログのせいでタリホーさん達のようなきちんと原作との違いをわかっておられるファンの方にも不快な思いをさせてしまった事、深く深くお詫び申し上げます。ブログは更新停止状態に入りますのでご安心ください。どうか私の事など忘れて穏やかに推し活をしてください。
という返信をいただいたのに、それから2日後の7月18日に記事は更新され、11月6日まで記事は更新・アップロードされている。
いや、別に良いんですよ?書類で契約したとか違反した時のペナルティを課したとかそういう取り決めもしていない単なる口約束だし、それを制限する権利が私にないのは百も承知なのはわかってるんですよ?
でもねぇ? 私がどうせ見ていないからと思って、しれーっとブログを更新したということは「こいつに嘘をついても構わない、所詮その程度の人間なのだから」という事を行為で示しているのではないかと、私も随分舐められたものだと思いましたよ。器の小さい人間だと思われるかもしれないけど、更新されているブログの内容もまた「ゲ謎」を貶め引き合いに出しながら水木先生の作品などを語るという、相変わらず以前と同様のことをやっていて、結局この筆者の私に対する敬意はうわべだけのもの・口先だけのもので、自分はこれからも「ゲ謎」を否定しそれを発信する気があったのかと思った。
(だったら最初から「私はこれからも『ゲ謎』を否定する記事を書きますので、不愉快かと思われるかもしれませんが、そこはご理解下さい」とかそれくらいのことは書けよ!って言いたい)
そういうことで、この『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に対しては今まで以上に厳しい目を向けて批判を述べさせてもらう。本当は全ての記事に対して私の意見を述べたい所だし、ブログの筆者とキチンと論争をして、何ならそれを一冊の本なりレポートとしてまとめて水木プロダクションに送りたい(これだけファンは作品に真摯に向き合っていることを形・記録として残したいということで別に嫌がらせ的な意図はないです)のだけど、そんな時間的・金銭的余裕はないし、正直言ってこの批判をした所で私にメリットがほとんどない。労は多いのに益は一切ないのだから、そういった点も考慮して今回は問題となるブログの一部の記事をかいつまむ形での批判となることをご容赦願いたい。
(以下、映画の内容についてネタバレあり)
大前提として
後でケチをつけられるのも嫌なのでまず前提として言っておきたいのは、私は「ゲ謎」を批判するなとは言わないし、世間的に人気があった作品だからと言って、好意的に評価をしなければならないということもない。蓼食う虫も好き好きという言葉があるように、どうしても受け入れられないものは誰にだってあるし、「ゲ謎」は具体的に全てを語り尽くした作品ではなく、ある程度視聴者の想像に委ねた箇所もあるので、そこが作品としてのウィークポイント・批判点になるのは、まぁ仕方ないと思う。
私がこのブログの筆者と内容について嫌悪しているのは、「ゲ謎」が原作の設定と矛盾している、或いは原作から改変しているポイントを映画制作陣の怠慢・水木先生に対する敬意のなさと受け止め、実に乱暴的かつ短絡的な論理・思考で主張を展開させているという、この一点に尽きる。一見すると細かい知識・情報に基づくもっともな主張に見えるかもしれないが、私に言わせれば自分の主張に都合の良い情報を取捨選択しているだけで、(部分的には正しい指摘もあったが)ブログ全体を見ると結構無茶な論理展開をしていると思わざるを得ないものが多々あった。
例えばこちら。この記事では生前の水木先生の思想を持ち出した上で、
一般に妖怪コンテンツは大きく二つの潮流に分かれると聞きました。
1.「神秘優位」派:妖怪は人智を遥かに超える存在であり、人間は神秘には絶対に敵わない。
2.「人間克服」派:人間も努力や知恵で妖怪を克服・封印できる。(例:古典や神話・昔話の妖怪退治譚や落語「お化け長屋」、漫画なら『どろろ』『うしおととら』など)
水木作品にも人間が努力や犠牲の果てに超自然的存在に打ち勝つ物語も多数存在します。
(中でも「最初の米」という話は泣けます…)
しかし『ゲゲゲの謎』の描かれ方は、このどちらの派閥ともまったく異なる
「妖怪はただの無力な下等生物であり、人間に利用される対象にすぎない」
というメッセージを強調しているかのように見受けられます。
このメッセージは水木先生が示された「ぼくは妖怪に飼育されている」という思想とはまったく別物である、という感想を抱かざるを得ません。前回のブログの繰り返しになりますが水木先生は
「妖怪は、ぼくにとっては“妖怪さま”であり、守り神でもあるようだ。」
「妖精も妖怪も元来は不可知なものに対する関心、人間の想像力、あるいは神秘的なものが本当に感ぜられるのではないかといった関心が生んだもので、頭からけぎらいするのはおかしい。」
「妖怪にしても、彼らには我々の知らない古代の深い意味がひめられているかもしれない、と私は思う。「古代の声」に縛られすぎるのも窮屈だが、それをただあざ笑うだけの人の営みも、底が浅くなんだか味気ない」
と書かれています。
何度も繰り返しますがお化けを「妖怪さま」と呼んで大切にしていた作家のメモリアル作品で
「お化けを出すと大人の観客が興ざめするから出さない」
「人間がお化け(注:「ゲ謎」における幽霊族と思われる)を虐殺して滅ぼす話にしよう」
という方針を打ち立てる事自体おおいに疑問視せざるをえません。
と述べている。
確かに映画本編では狂骨は龍賀一族や裏鬼道によって使役・制御されており、幽霊族もまた呪詛返しによって窖の血桜の下にいたから、妖怪や幽霊族が人類に蹂躙されていたのは否定出来ないが、映画を最後まで見た方なら言わずもがな、本作はそうやって妖怪やそれに類する幽霊族を利用しようとした龍賀一族ほか哭倉村の村民が死を以て報いを受ける物語であって、この筆者が主張するような「妖怪はただの無力な下等生物であり、人間に利用される対象にすぎない」というメッセージなどない。狂骨の怨念や幽霊族の子孫に対する強い思いは人類の想像をはるかに超えたエネルギーを有しており決して「無力な下等生物」として描かれてはいない。本当に映画をちゃんと鑑賞した上での批判なのかと言いたくなるほど的外れなのである。
妖怪が活躍する物語でないのも別に妖怪を軽視しているとかではなく、原作「鬼太郎の誕生」をベースとした本作に妖怪を絡ませるとしたら、どのようにすれば良いかを制作陣が考えた上での結果だと思う。元々「鬼太郎の誕生」は幽霊族と水木青年以外、特に妖怪が絡むエピソードではないし、そこに話の腰を折らない形で妖怪を絡ませるとなったら「わかる人にはわかる存在」という形で入れるしかないと思う。
個人的に「ゲ謎」における妖怪の描き方は、
①一部の人にしか気配がわからないけど確かに存在するもの(山鬼・カシャボなど)
②人知を超えたパワーを持つもの(狂骨・河童など)
③積極的には人間と関わらないがその営みを眺めているもの(一軒家の妖獣・幽霊赤児など)
という形で妖怪というものの存在や人間との関係性を描いている。勿論これはテレビアニメにおける鬼太郎作品に登場する妖怪とはまた違ったアプローチの仕方で妖怪を描いており、非常に消極的な形での描写なので、なかなか理解しづらいかもしれないのだけど…。
それから、こちらの記事では世間の評価と個人の愛着は別であり、ゲ謎のファンを否定してはいないという旨が書かれている。これに関しては別に反論はないのだけど、ブログ運営にあたっての動機に関してはちょっと一言言わせてもらいたい。
何度も述べている通りこのブログを運営している理由はネット上で
「昭和の先達を馬鹿にしているとしか思えない内容だった。
水木しげるの原作もあんなひどいものなのか」
という感想を目にしたことがきっかけです。
私は映画の内容そのものに対し
「このままでは子供たちや一般の人達に
“鬼太郎の母親やご先祖様たちは子供にいやらしいことをするような人間の一家に勝てず無力に殺された”
と思われてしまうのではないか」
「水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家だと思われてしまうのではないか」
「水木しげるは子供にいやらしいことをする少数の人間が妖怪を滅ぼす話をファミリーアニメで描くような作家だと思われてしまうのではないか」
と強い危機感を抱きました。
一般の方やお子さんにアニメと原作の違いの区別はつきにくいでしょう。
エンドロールの最後で「原作 水木しげる」と出たら
「へえ、これってぜんぶ水木しげるという人が考えた話なんだ」
と思ってしまうでしょう。
「ゲゲゲの謎」で高評価されている昭和の闇や人間性悪説、家父長制の闇や男性社会といった思想。
これらの内容も私には水木先生の国民的ファミリーアニメのメモリアル作品で扱うべき題材だとはどうしても思えないのです。
昭和の闇を描くにしても、もっと他にマッチした題材および別のアプローチがあったとしか思えないのです。
原作者100周年を祝う作品で児童性虐待だの主人公の母親が他の男性に手を出されていた可能性を示唆する台詞を出す必要が、本当にあったのでしょうか。
正直言って、ネットで調べれば、原作を電子書籍などで読めば、アニメをサブスクなどで見ればすぐわかるこの現代において「水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家」などと誤解する人がいるとは思えず、そんな杞憂に振り回されてこんなブログを運営していること自体、私はファンの一人として情けなく思えて仕方ないですね。
そーいうこと言う奴はそもそも水木作品を深く知ろうとも思わない、単に難癖つけてイキっているバカだと私は思っているので、そんな一部のバカのために制作陣が試行錯誤して作り上げた作品を貶める側に回っているというのはハッキリ言って失望せざるを得ないし、原作と違うことを指摘するだけならまだしも、それを制作側の怠慢・リスペクトのなさとして主張を展開させたことに関しては私が以前から主張している「作品批判は技術的な面を批判すべきで、作り手の姿勢や態度など憶測・推測の域を出ない領域は安易に批判すべきではない」という私の信念に大きく反するもの、到底受け入れがたいものとして批判させてもらいたい。
そうそう、本作における性的虐待の描写に関しては、これは歴代の鬼太郎アニメどころか原作にすらない描写なので、どうしても批判の対象にならざるを得ないのだが、本作が戦争の闇を描いた作品である以上、性的に搾取された女性を描くことはある意味必然であり、その最たる例が従軍慰安婦だ。
私は本作における龍賀の女性は戦時下の従軍慰安婦のメタファー的な部分も担っていたと解釈していて、勿論これを抜きにしても話は成立するしそういった方向にすべきだったという意見があるのもわかるけど、個人的にはこういった性的な搾取をアニメ映画でやるというのは、なかなか覚悟がいることだと思うし、従軍慰安婦は水木先生の「総員玉砕せよ!」でもその存在が描かれているから、単にエログロの露悪趣味で制作陣が盛り込んだのではなく、相応の覚悟を以て盛り込まれた描写だとそう評価している。
こういったチャレンジは観客に対する信頼というか「水木先生のファンならわかってくれるだろう」という思いがないとなかなか難しいし、安全牌を狙った作品・全国的ヒットを狙った作品にする意図があったのであればまず排除される題材・テーマだ。だからこそ私は古賀監督が舞台挨拶の時に述べた「ひっそり始まりひっそり終わる予定だった」という旨のコメントに嘘偽りはないと判断したのである。特に古賀監督は5期で「日本爆裂」という数多の妖怪が邪神と戦う王道のファンムービーを制作しているので、100周年の作品でまた同様の作品を出すのは二番煎じに成りかねないし、記念碑的作品として単に妖怪同士が戦う従来通りの映画ではいけないと考えたからこのような内容にしたのではないかと勝手ながらそう思っている。しかもノイタミナの「墓場鬼太郎」で鬼太郎の誕生はアニメ化されていたのだから、単に原作通りやる訳にはいかなかったのは容易に想像がつくし、そんな様々な条件や制約の中でこういう挑戦的な作品を描こうと思い切ったことを、安易に調査不足だの水木先生の作品を私物化しているだのと文句を述べている人とは仲良くしたくない。
「ゲ謎」を批判したいなら制作陣のインタビューも詳しく読むべき
もうどうしても「ゲ謎」の制作陣のやり方が気に食わない、批判せざるを得ないのであれば、せめて最低限、古賀監督やキャラクターデザインを担当した谷田部透湖氏といった制作陣のインタビューは読むべきだと言いたい。『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』では水木先生の作品やインタビュー、また京極夏彦先生との対談といったものは引用されているが、肝心の制作陣のインタビューについてはほとんど見当たらない。勿論、嫌悪している作品に携わった人のインタビューを読むのは気持ちの良いものではないだろうし、インタビュー内容にこのブログの筆者が疑問に思ったポイント全ての答えが用意されている訳ではない。とはいえ相手の言い分を聞かずに映画の制作陣を叩くのは大の大人のやるべき批判ではない。それはアンフェアというものだ。古賀監督・谷田部氏のインタビュー記事はアニメージュといったアニメ雑誌に載っているからそれを読んだ上で改めて批判しろと言いたい。
(ブルーレイ豪華版にはより詳しいコメンタリーがあるけど、流石にそれを買えというのは酷な話だからそこまでは求めないが…)
百田尚樹氏の言葉を受けての批判について
さきほど「ブログは更新しない」と言っていて実際は更新していることをこちらの記事で「結果的に嘘をついてしまって本当に申し訳ありません…」と謝罪してますけど、
自分のブログで謝られた所で私に届かなかったら何の意味もないのですけどね。
まぁ私をバカにしている訳ではないということがわかったのはさておき、
歴史となった戦争を振り返るのは、本来歴史家の仕事です。私たちは歴史を政争の具とせず、未来の平和と繁栄をいかに構築するかを考える標としたいと思います。
なんと的確で納得の行く結びでしょう、さすがプロの文筆家です。百田氏のおっしゃるとおり歴史を振り返るのは歴史家の仕事です。それをアニメ映画でやるのであればちゃんとしたプロの歴史家の監修を入れてほしかったと思います。
あいにく百田氏の記事が削除されているので文脈から百田氏の主張を完全に理解出来ないのが残念だが、「未来の平和と繁栄をいかに構築するか」を考えるには「戦争を振り返る」、つまり戦争というものをあらゆる観点から検証するプロの歴史家の手に委ねた上でその情報に基づき考えるべきで、素人が勝手な解釈を下すなという意味なのだろう。
その上で「ゲ謎」で描かれた戦争というのは偏ったものという風にブログでは述べられている。どうしても偏りが出るのは仕方ないし、映画を見て日本だけが特別に悪かったという風に誤解する人もいるかもしれないが、これは映画であって教育番組ではないのだから多少の偏りは許容しても良いだろうというのが私の考えであり、偏りこそあれど描かれていることは全くのデタラメ、嘘八百ではない。特に戦争において麻薬が兵士の精神高揚に利用されていたというのは、あまり学校の授業では取り上げられない部分なので、そこにスポットライトを当てた「ゲ謎」の脚本は従来の戦争ものの作品にはないユニークなポイントだと私は評価している。
戦争責任が日本のみにあり(中略)明らかに偏った考えです。
私が「ゲゲゲの謎」で不思議に思ったことがまさにこれです。私は「ゲゲゲの謎」を見て
「この映画を作った人は、太平洋戦争とは日本だけが勝手に世界中に喧嘩を売って暴れまわった戦争だと思っているのだろうか?」
と感じました。
水木先生の戦記物では米軍の人々や戦地となった南方の原住民の人々の事もていねいに描写しているにも関わらず「ゲゲゲの謎」は戦争を描いているのに諸外国の描写がまったく無いに等しい。このことはひじょうに不思議に思いました。言わせていただくと旧日本軍や血液銀行の描写も非常に薄く偏ったものに感じました。
ブログ筆者は「この映画を作った人は、太平洋戦争とは日本だけが勝手に世界中に喧嘩を売って暴れまわった戦争だと思っているのだろうか?」「戦争を描いているのに諸外国の描写がまったく無いに等しい」という指摘をしているが、個人的にはこの辺りのことは義務教育で習っていて当然知っていることであって、わざわざ映画本編で欧米列強とのことや太平洋戦争に至る経緯などを説明する尺を割くのは、却って物語のテーマ性が散漫になってしまう事態になったのではないかと、戦争責任云々は本筋の物語においてはそこまで重要ではなく、「ゲ謎」における戦争とは一部の権力者が大多数の民間人の命や権利を踏みにじり大義名分をかざして他国(他の民族)を侵略していたこと、そしてその手段として麻薬という非人道的な手段が用いられたというそこを重点的に描いた作品だと評価している。だから戦争の全てを描いていないというのは個人的には批判としてズレているというか、「別に全部を描く必要はないでしょ…」と思ったのである。
それにゲ謎で描かれた思想は偏った思想だとは思わない。他者の権利を踏みにじってでも理想や快楽を求めるというのは人間の普遍的な欲を描いた所だと思うし、それを乗り越えた先に平和や希望があるというのが「ゲ謎」という作品が持つ力強いメッセージの核となっていると私はそう分析している。それはいちいち台詞にせずともゲゲ郎と水木との交流や龍賀一族の所業といった描写から感じ取れるものだと思う。それが水木先生の作品における思想から、そこまで大きく逸脱したものだとは思えないのである。
(2025.11.15 追記)
龍賀一族は単に幽霊族を傷めつけるだけの一族だったのか?
私がこの筆者の論で不快感を催すのが、本作の龍賀一族が単に(原作者である水木先生が考案した)鬼太郎や幽霊族を傷めつけるためだけに用意されたキャラクターであり、性暴力や児童虐待などお下劣な要素で彩った低俗な作品という程度の浅い認識で批判をしていることだ。
一応断っておくが龍賀一族がこの物語における絶対悪であることは否定しないし、その所業の露悪性に嫌悪感を催すこと自体は至って健全な人間の反応である。しかし、この一族が幽霊族とセットで描かれたことの意味を全く理解しようとしないその姿勢は浅はかと言わざるを得ないのだ。
映画本編を見た方ならご存じの通り、幽霊族というのは争いを好まず武器を持たない平和的な種族であるがゆえに人類によって迫害・淘汰の憂き目に遭った種族である。そして彼らは子孫の未来のためなら犠牲をいとわないという崇高な精神を持ち合わせた種族であるということは、ゲゲ郎や血桜に囚われた幽霊族の行いから見ても明らかである。幽霊族というのは人類にとっても理想的な精神や思考を持ち合わせた「光の一族」であることは映画を観た方なら多分わかったはずだと思う。
では対照的に「闇の一族」とでも言うべき龍賀はどうだろうか。彼らを結びつけるものは決して信頼や情愛などではなく、互いが互いを監視し逸脱を許さないという雁字搦めの結びつきで成り立っている一族であり、当主の龍賀時貞はそうやって一族同士の相互監視を行わせたり、虐待によるマインドコントロール、反逆者の廃人化といった形で自分に逆らう者が出ないよう支配していた。そうやって支配下に置かれた時麿や乙米、丙江・庚子といった人々はいずれも精神が未熟な大人として成長し、子どもの安寧を願うどころかその邪魔をしたり権力闘争の道具のように扱うといった歪んだ絆で沙代や時弥をその悲劇の渦へと巻き込んでいる。
こうして本編で描かれた龍賀一族の歪んだ人間関係というのは、第二次世界大戦下の日本における相互監視社会にも通じていると思っていて、国の政策に異を唱えることを良しとしない風潮だったり、子供に大人同然の忍耐や我慢を強いた大人たちの言動などは龍賀一族の歪な関係とリンクするものだと思っている。これは制作陣の偏った考えとかではなく「はだしのゲン」や「火垂るの墓」といった戦争関連の作品に基づくものであり、戦争当時の日本の息苦しさを家父長制という絶対的な権力構造に置き換え、哭倉村を戦時下の日本のメタファーとして描いたのは非常にユニークな試みだと思っている。
勿論、水木先生の描いた戦争というのは兵士として従軍した経験がメインとなるもので、戦時下の日本国内の風潮や生活といった点を描いた作家ではないから、厳密には水木先生だけの戦争体験を基にした映画ではないのは確かだけど、決してこのブログ筆者が言うような、単に『犬神家の一族』をパクっただけの作品でないし、龍賀一族は幽霊族の尊さをより際立たせるために用意された悪役なのである。それを原作キャラを侮辱するために用意したものなどとのたまうのは、己の浅はかさを露呈するだけでなく制作陣の努力・熟慮・試行錯誤を足蹴にするものであると厳しく非難・批判させてもらう。
「子供向けでない」というのは子供の理解力や子供との対話を無視した浅はかな批判
度々6期や「ゲ謎」の批判で、「鬼太郎というのは親子が楽しめる作品でないといけないのに、こんな子供向けでない話を描いてどうするのか」といった意見を目にするが、個人的な見解としては「それはちょっと子供の理解力を舐めているのでは?」という風に思っている。
確かに経験や知識が浅い子供が観たら誤解してしまう部分がないとは言わないが、感覚的・直感的に善悪や物事の良し悪しを分別する能力は子供の段階からある程度備わっているものだと思うし、私の場合小学校入学前に鬼太郎の2期で放送された「心配屋」を見た時、具体的な内容やそこで描かれた風刺的要素は流石に読み取れなかったけど、何をしたらマズいことになるのか、何をしたら自然の摂理に反するのかといったことはぼんやりとではあるものの、わかっていたと記憶している。
「ゲ謎」における流血描写なんかも、昔の金曜ロードショーでは「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」とか「永遠に美しく…」といった流血もしくは身体の損壊を描いた作品を普通に放送していたし、案外子供ってそういうモノ観ますよ?
(というか、私自身そういった作品を観て育った人間なのですから)
たとえその時はショッキングな記憶しか残らなかったとしても、それが心に残ってまた再び見返すことになった際に「あ~なるほど、この映画ってこんな話だったのか!」という発見が出来たらそれは作品鑑賞として素敵な体験になると私は思うし、それを「ゲ謎」は子供向けでないからダメだという風に批判するのは、長期的な物の見方が出来ず、作品鑑賞の幅を狭めることになるのではないか?とそう主張したい。
当然ながら個人差というものがあるので、私が問題なかったからと言って他の子供も等しくそうだということにはならないのだけど、でも映画鑑賞って必ずしも一人で観るだけでなく二人以上で鑑賞する場合もあるし、もし子供が映画で誤った認識・誤解をしたと感じたのならそれを対話という形で親や大人が軌道修正すれば良いだけの話なのだ。そういった対話も含めて映画鑑賞・作品鑑賞なのであって、作品に全ての答えや正しい解答・納得のいく描写を求めるのは思い上がりも甚だしい!
(2025.11.26 追記)
文章は読んでも文脈は読まない(読めない)
以前私の記事を引用して6期を批判していたカプリコーン氏もそうだったが、このブログの筆者は「ゲ謎」という物語を部分的には正しく読んでいるのに全体のことになるととんでもなく頓珍漢な結論を持ち出して批判している。何と言えば良いか、文章は読めているのに文脈というものが全然読めていないのだ。だから「ゲ謎」は幽霊族がオリジナルキャラの龍賀一族によって痛めつけられるだけの映画だの、水木作品に対するリスペクトがないだの、制作陣にありもしない悪意や怠慢があるなどと訳もわからない意図を見出しては吹聴しているのだから、全く呆れた話である。
つい先日掲載されたこちらの記事も読んだけど、
本作は
「昭和の老人はみんな若者をくいものにして私腹を肥やしている」
という作り手個人のイメージが前面に出過ぎているきらいがあると感じました。
これも私にとっては水木しげる先生の思想との乖離を感じる一点です。
と述べ、そこから小泉八雲の「停車場にて」を持ち出しながら、日本人の心の大部分を占めるのは子供への深い愛情であり、「年端もいかない児童が肉親達から性虐待されるような話」を作った「ゲ謎」は「子を思う親の心」を大事にした作品ではないという風に批判している。
もう言わずもがな、この筆者は終盤にゲゲ郎がとった決断や、エンディングで水木が鬼太郎を殺さず抱きかかえたシーンのことを完全に無視してますよね?
こういった数々のシーンを無視して、沙代の性的虐待のことや時弥の魂乗っ取りだけを殊更強調して、「ゲ謎」の制作陣には子供に対する愛情がないと結論付けるなど正に論外。もう一度小学校からやり直して、きちんと文章読解のスキルを身に着けた方が良いのではないかと言いたくなる。
そういや以前別の記事で批判した「一生街」に関するこの記事を読んで、
本当に、なんなんでしょうね?
やたら『不幸がる』文化って。
そりゃお世辞にも昨今は平和とは言えませんし物価も上がる一方です。それでもやたらめったら「不幸がってる」のを見ると「どういうものですかねえ?」と言いたくなります。
犬神家丸パクリおげれつビデオ(こ〇亀風)同人映画なんか見て
「ああ~やっぱりこの国は最低だー!」
「こんな国に生まれた私ってなんて不幸なんだ!」
「ぜんぶ日本のせいだー!昭和のせいだー!」
「我々が報われないのもぜんぶ昭和や日本や男性社会のせいだー!」
とか言っちゃうのってなんなんでしょうね?
日本が嫌なら海外留学でもすればいいじゃんと思うのですが…
という具合に、ゲ謎を「犬神家丸パクリおげれつビデオ(こ〇亀風)同人映画」などと侮辱的に評したことにもだいぶムカついたが、最後の「日本が嫌なら海外留学でもすればいいじゃんと思うのですが…」という一文からも、この筆者には想像力が欠如しているのではないかと思わされた。日本に対して諦観や絶望を抱き「不幸がる」人々に対して「こう考えれば楽になりますよ?」とかではなく「海外留学でもすれば?」などと言い放つ辺り、結局他人の不幸を推し量ることも出来ないししようとも思わない、そんな排他的な一面が垣間見えて嫌悪を催した。こんな人が子供への愛情がどうだのと主張しているのだから、ちゃんちゃらおかしいですよね?
(っていうか海外"留学"した所で、また帰国しないといけないのですけどね。それを言うなら海外"移住"なのでは??)
結局「ゲ謎」のネガティブキャンペーンに過ぎない
先ほど引用したブログ記事の文で、筆者は水木作品に対する誤解を正すために、本来の原作(水木作品)で描かれていることや、「ゲ謎」と水木作品との違い・矛盾点を指摘していることが述べられていた。何度も言うように、私は原作との違いを指摘すること自体は全然問題だとは思っていないし、その違いを明らかにした上で多くの人が作品の出来について議論するのは大いに意義があると思っている。
ただ、このブログに関してはおよそ公平な批評としての場にはなっていないし、水木作品の魅力をアピールしているようで、結局「ゲ謎」のネガティブキャンペーンをしているだけなのではないか?と正直私はそう思った。
そう思った理由の一つとして挙げられるのが、今年の4月から9月にかけてフジテレビで放送された「私の愛した歴代ゲゲゲ」という番組に関することだ。これは当ブログでもレビューしていたからご存じの方も多いだろう。水木先生の没後10年の節目に、鬼太郎アニメに縁のある方々や著名人がセレクトした歴代の鬼太郎アニメのエピソードを再放送したこの企画、当然水木先生のファンならチェックしているし放送されたエピソードについて色々と語りたくなっただろう。
しかし、『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』では一切この「私の愛した歴代ゲゲゲ」に関する話題が出ていない。水木作品の良さをアピールするまたとない機会であり、「水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家だと思われてしまうのではないか」という心配を解消する上でも、こういった歴代の鬼太郎作品が放送されるというのは、その誤解を正すのに最適だというのに…?
この筆者が「私の愛した歴代ゲゲゲ」を無視したのは多分こちらの記事で言及されていることが理由だと思うが、仮に百歩譲って今の水木プロダクションが信用ならないクソプロダクションだったとしても、この企画をした人やセレクターの方々、更に言えば歴代の鬼太郎アニメに携わった制作陣には何の落ち度も罪もないのに、それを無視して「ゲ謎」を否定する方向性でしか水木作品を語れないのだから、いち水木作品のファンとして嘆かわしい話である。
現・水木プロが「大人向け」路線のために「妖怪・子供」を排除した?
先ほどの『鬼太郎セレクションに全然期待できない』という記事で、
今回の鬼太郎セレクションはアニメ7期の布石かもしれません。
アニメ7期などあったとしても、版権元の現状水木プロの方針が「もう妖怪は出さない、子供向けはしない」ですからね。
今までの鬼太郎アニメみたいな作品なんか1㍉とて期待できません。
もしかして本気で7期を「ゲゲゲの謎」の続編にする気かもしれません。
あの終わり方でどうやって続編作るのか知りませんが。
いずれにせよ、妖怪も鬼太郎も出ない、さぞかし大人とやらのアニメになるのでしょうね。
という愚痴を述べている。
これは昨年の水木プロダクションの原口尚子氏(水木先生の長女)と夫で代表取締役の原口智裕氏をインタビューした記事のことを言っているのだと思うが、この筆者もどうやら被害妄想レベルの曲解をしたようで、そんな濁った眼差しでは「ゲ謎」に対しても制作陣に対してもあのようなことを言うのは当然だよなと納得がいった。
この水木プロダクションの子供向け・大人向け発言、そして妖怪に対するイメージに関する発言については私なりの考え・意見があるのだがそれを語る上で重要となってくるのが5期の打ち切りである。
私も5期リアタイ世代なので、この打ち切りは非常に残念だったし目玉おやじの声を担当していた田の中勇さんも亡くなったことで、今後鬼太郎アニメは制作されないのではないかと内心諦めかけていたが、そんな悲観を打ち破り制作された6期は脚本家によって各エピソードのテイストが異なり、従来の鬼太郎シリーズに比べてややシリアスな展開が多かったことは放送当時も結構話題になったと思う。
で、何故6期や「ゲ謎」が大人向けのテイストを強めた作風になったのかという話に戻るけど、5期の打ち切りの一因として考えられているのはグッズ(おもちゃ)が売れなかったことだとされている。4期までは子供向けのおもちゃやグッズも人気があって売れていたのだろうが、5期はリーマンショック等の影響や少子化といった様々な事情もあいまって従来通りの子供をターゲットにした商品が売れず、それがアニメ制作にも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか?
だからこそ、東映アニメーションも水木プロも6期を制作する上で従来通り子供にターゲット層をしぼった形での戦略だとまた同じ失敗をするかもしれないと考え、6期では大人(成人)にも興味を持ってもらえるような方向でアニメを制作したと考えられるし、それは別に5期をディスっているとかではなく、「ゲゲゲの鬼太郎」というコンテンツを過去の栄光として終わらせないための企業努力である、という風に考えられないのだろうか?
何故そこで「水木プロも東映アニメーションも子供向けの鬼太郎アニメはやらない」などと歪んだ拡大解釈をするのか理解に苦しむ。
(2025.11.27 追記)
何もしなければ「ゲゲゲの鬼太郎」は骨董品と化していたかもしれない
6期や「ゲ謎」を否定する水木ファンに問いたいが、自分が推しているコンテンツが従来通り、子供向けの作品として制作していたら世間もちゃんと評価してくれて永続的に人気のあるコンテンツとして続いていくとか、そんなことを考えていたりする?
だとしたら甘いわ!
あのさ、「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「名探偵コナン」みたいにほぼ毎週・毎年放送されているアニメじゃないのだよ?約10年おきに何回もリメイクされているアニメという点では確かに「ゲゲゲの鬼太郎」って長寿アニメの中では珍しい部類だけど、放送されていない空白の期間の間に他のアニメ作品は継続的に新作エピソードを放送し映画を公開しているのだから、そう考えると「ゲゲゲの鬼太郎」って他のご長寿アニメと比べても遅れをとっている所がなきにしもあらずなのだ。
しかも、今やアニメは世界市場にまで拡大していて「ドラゴンボール」や「ワンピース」は海外から圧倒的な支持を得ているのに、鬼太郎の世界的な人気はまだまだである。まぁこれは日本の妖怪自体が海外におけるドラキュラや狼男といった怪物とは文化的にも歴史的にも成立背景が違うから浸透しづらいというのもあるし、鬼太郎は派手なアクションを売りにした作品という訳でもないから、同じオカルトネタを扱いながらもダイナミックなアクションシーンを描いている「ダンダダン」の方が海外からの注目度・人気が高いのも当然なのである。
要するに、「ゲゲゲの鬼太郎」という作品は国内のみで消費される、ガラパゴス化しやすいコンテンツであり、メインカルチャーではなくサブカルチャー止まりの作品というのが世間的な認知だと私はそう思っている。
(ファンとしては正直認めたくはないが…)
水木作品のファンの中には「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめとする水木先生の作品群は唯一無二のものであり、他の作品と比べたり張り合うこと自体がナンセンスだとそう言いたい人もいるだろうと思うが、でも他作品と比較し競うことなく原作をそのまま発信するだけでは歴史的価値のある遺産・骨董品という形で消費・評価されるだけで終わってしまう。「ゲゲゲの鬼太郎」が古びた作品にならず今なお多くの人から支持されるコンテンツとして続いているのは、単に原作をなぞるだけのアニメ化をせず、それぞれの年代に応じた改変やアレンジをしてきたアニメ制作陣の功績と、原作そのものが持つ物語としての柔軟性によるものだ。
何故か水木しげるを芸術家か思想家のように思いたがる(したがる)層がいるけど、漫画家なのよ。サービス精神旺盛だから掲載する媒体の読者層に合わせてキャラ設定もストーリーも変えるのよ。それを単行本にひとまとめにするから混乱が起こる。初出の掲載誌を確認しましょ。 https://t.co/C8lBi76EQO
— ふしぎあん (@unio01) 2025年8月6日
こちらのツイートでも言及されているように、水木先生は確かに人間の幸福について探求した思想家の面もあったがその本分は漫画家であり、面白ければ・クオリティが高ければ必ず売れるとは限らないシビアな業界をサバイブしてきた方なのである。なので「ゲゲゲの鬼太郎」にしてもベースとなる設定は変えなかったものの、それ以外の部分では掲載誌によって設定をコロコロ変えている。
例えば昭和55年に「月刊少年ポピー」に連載された「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎」では鬼太郎に雪姫という妹がいたということになっており、当時のSFブームの影響を受けて鬼太郎の技も超能力・念動力として称されている。言うまでもなく雪姫という妹の設定は「鬼太郎が幽霊族の最後の生き残り」という設定と相反するものである。昭和62年に連載がスタートした「鬼太郎地獄編」では鬼太郎の母が幽霊族ではなく人間だったということになっているが、この設定は原作の「鬼太郎の誕生」で描かれたことと矛盾してしまう。鬼太郎の母が人間だとしたら、彼女の血を輸血された患者が幽霊にはならないのだからね?
元々原作自体設定を突き合わせた時に矛盾が生じる作品だし、だからこそ原作との矛盾を矢鱈と指摘して「ゲ謎」を否定しているこのブログの筆者に対して以前私はツッコミを入れたのだけど、その時の返答が
設定に関してですが、私は、昭和の時代に多忙な地獄の週間連載の中で必死で1から物語を考えていった原作者と、2年近い時間とインターネットという文明の利器、および御大の書物がまとめられた部屋が準備されているアニメスタッフを同一に語ることはどうしてもできません。
だった。要は「1から物語を作っていた水木先生のミスは許すけど、ゲ謎の制作陣は時間と資料があるのだから矛盾なく作るのが当然だし矛盾は認めない」と(曲解かもしれないが)そう主張していると受け取った。
この主張はともかく、鬼太郎作品における掲載誌ごとの設定の矛盾は別に多忙を極めていたからではなくそれぞれの出版社からの要望に応えた結果によるものだと思う。そしてそれはひとえに水木先生が鬼太郎という作品に関心を持ってもらうこと、要は自分が作り上げたコンテンツを買ってもらうことを何より大事にしていたということだと私は思っているし、読者の間で鬼太郎というヒーロー像に対して認識のズレがあっても構わなかったということになるだろう。
だから極端な話、「ゲゲゲの鬼太郎」は(原作を読んだらわかると思うが)水木先生の作家としての独自の思想が色濃く反映された物語ではないのだ。人間に悪さをする妖怪をこらしめやっつけるというエンターテインメントの話であって、そのシンプルさゆえにアレンジや大幅な改変が出来たのもアニメ化における強みとなったのだ。
棲家となる森や海を汚された妖怪が怒って人間を襲うという、鬼太郎作品定番のプロットにしても別にそこに環境保護を訴えかけるようなメッセージを先生は込めてないというか、単に自分の領域を荒らされたから怒るというごくごく自然な感情の動きを妖怪を通して描いているに過ぎない。でもそのシンプルさのおかげで読者それぞれが勝手に鬼太郎という作品から様々なインスピレーションを受けているし、その寛容さこそが「ゲゲゲの鬼太郎」を息の長いシリーズたらしめているのである。
話が長くなったが、「ゲゲゲの鬼太郎」という作品が「ドラえもん」や「サザエさん」といったアニメのように継続的に放送が続いているコンテンツでもなく海外受けしづらい作品であるにもかかわらず多くの支持を集めているのは作品そのものの柔軟性と様々なインスピレーションを起こす創造性の余地がある作品だからだ。だからこそ子供向けにも大人向けにも変容させられる変幻自在さが売りになるし、6期や「ゲ謎」は正にそこを活かしてこれまでとは違うアプローチで鬼太郎の物語を描いた。そのおかげで、今まで鬼太郎に興味がなかった層にも「ゲゲゲの鬼太郎」が届いたことはファンとして素直に嬉しかったし、鬼太郎を現在進行形で語られるコンテンツとして維持してくださっている水木プロダクションや東映アニメーションには感謝しなければならない。
そんな水木プロや東映アニメーションをはじめとする「ゲ謎」制作陣の努力の痕跡を拾おうとせず、ただ闇雲に原作をありがたがって、ありもしない悪意を見出しては水木プロや東映アニメーションを叩いている一部のファンとこの『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』の筆者に対して私は心の底から軽蔑します。
水木作品のあるべき姿、その理想を語るのは大いに結構ですけど、今自分が推しているコンテンツの弱点にいい加減向き合うべきだと思うし、従来通りの子供向けに特化したままの方針でアニメが制作されていたら多分間違いなくこのコンテンツは衰退していたと思う。
それから、「ゲ謎」を嫌悪する人々は性的虐待や子供が犠牲になる展開を描かずとも子を思う親の愛を描いた作品は描けるだろうとそう言いたいのかもしれないが、「子を思う親の愛を描いた作品」ってぶっちゃけ掃いて捨てるほどあるありふれたテーマなんですよね。少なくともそのテーマを聞いて映画を観ようなどと思う人は少ないと思うし、観てもらうからには工夫は必要である。勿論性的虐待というのは露悪的なものではあるし、決して子供向けのテーマとは言えないけど、それでも鬼太郎という作品の中にそれを盛り込んだのは、やはりそれを抜きにして真の愛は描けないと制作陣が判断したからだと思うし、私も臭いものにフタをして愛だの平和だのを語る作品は今を生きる人々には届かない、それこそ正に「子供だまし」の作品になってしまうのでは?とそう言いたい。
さいごに(ネガティブ・ケイパビリティという考え)
ちょっと疲れて来たのでこれで批判は終えるが、最後にこの『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』の筆者にネガティブ・ケイパビリティという考えを伝えよう。
ネガティブ・ケイパビリティは詩人ジョン・キーツが提唱した「不確実なもの・未解決なものを受容する能力」を指す言葉で、不確実な状況や答えのない問題に直面した際に、すぐに結論を出そうとせずに、その状態を受け入れることで新たなアイデアや発見が得られるという、思考の柔軟性につながる考えだ。
原作のあるアニメや映画・ドラマにおいて、どうしても自分にとって納得のいかないもの、理解出来ない点が生じるのは仕方ないし、その全てを受け入れるのは難しい話ではある。ただ、納得出来ない・理解出来ないからと言って、それを作り手側の問題として安易に非難・批判するのは違うのではないかと私は6期やゲ謎を批判している文を読んでいて常々思う訳であって、
・原作と違うからといって制作陣が勝手な思想で作品を改変したのか?
・矛盾点を単に制作側の怠慢と考えるのは乱暴な思考ではないのか?
・何故それだけの情報で「制作陣にリスペクトがない」と断定的に言えるのか?リスペクトの仕方が我々ファンが思っているのとは方向性が違うだけの話なのではないか?
・自分のセンスに合わないだけの話を制作側の落ち度のように語っていないか?
とまぁ色々と突っ込みたいことがある。以前起こった水木プロの炎上騒動にしても、一部のファンはすぐ納得出来ない部分を「ファンをバカにしている」とか「その作品に対するリスペクトがない」「水木先生が死んだのを良いことに好き勝手変えている」といった短絡的な結論に飛びついていて、やはりネガティブ・ケイパビリティというか、一旦考えを保留するということの出来ない人があまりにも多いなとガッカリさせられたものだ。
そういや、さきほどの「世間の評価と個人の愛着について」という記事で
そしてあるゲゲゲの謎のファンの方のブログ様に誘導され、よく見て学ぶよう仰せつかりました。
自分としてはせっかく当ブログにお越しいただいたのですからご自身の率直なご意見をお聞かせいただきたかったのが本音です。
偶然にも誘導して頂いたブログ様は6期放送当時から愛読していた方で、久方ぶりの対話の機会を得て双方の意見を交換し一旦の和解に至ったことはありがたいことです。
と書いてありましたが、私は和解したつもりはないです。理解出来ないこと・納得のいかないことを制作側の問題、それも原作を蔑ろにしたものとして主張するのは人の努力や苦労を読み取ろうとせず、一方的な価値観を押し付けるだけの、幼稚で雑な論理だとそう思ってます。私は制作陣に最低限のリスペクトを払えない人と和解などしません。何かを、そして誰かを否定するのは簡単に出来るからこそ、慎重かつ丁寧に、そして様々な制作的事情や制約もある程度は考慮に入れた上で批判しないといけないと思っているし、仮にそこでモヤモヤが生じたとしても、それを抱え込めずに制作側の不手際・怠慢・リスペクトのなさという短絡的結論で片付けようとしてもらいたくない。ひとまずこれだけは言ってこの文を終える。
【その2】に続きます!





















