タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【お知らせ】コメント投稿について

タリホーです。最近ありがたいことにコメント投稿してくださる方が増えたので、改めてコメント投稿に関して述べておきたいことがあります。送っていただいた当人に直接伝えようかとも思いましたが、「私に向かって文句を言われた」と気分を害されるのも嫌でしょうから、こちらの記事で一つの声明文という形でまとめておこうと思います。

 

一応先に言っておくと、私のような個人の趣味でやっているブログをわざわざ見に来て、そこにコメントを送ってくださるというのは、良くも悪くも人の目に付くような、読み手に何かしらの影響を与える文章を書けたのではないかと自負する思いもありますし、ありがたいことだと思います。ネガティブな意見であっても、相手に「何か一言こいつに言いたい!」と思わせたら、もうそれは書き手としてはある意味儲けものというものです。

 

ただ、だからと言って好き勝手書けば良い訳ではないのはどこの掲示板でも個人ブログでも同じで、私はこのブログを意見交換及び交流の場という風に解釈してます。それにコメントはそれぞれの記事に記録として残るので、あまりネガティブなものばかりになると、見返した時に気分が良くはなりませんよね?

 

つまり私が言いたいのは、私はこのブログのコメント欄を意見交換・交流の場として公開している以上、同じことを何回も何回も主張するというのは勘弁してもらいたいということです。

一応誤解のないように言っておくと、同じ主張についてコメントを送るにしても前回はこういう点について述べたが、今回はこの内容についてどう思うか?という具合に様々な角度から物事を考えるのは議論の余地があると思いますし、何かしら改善出来ることや意味を見出せるのであれば、それは建設的なもの、有意義なものになると思っています。そういうコメントを送っていただくのは全然問題ありません。

 

私が困るのは、「あれ、これ前と同じようなこと言ってないか?」というコメントで、しかも私との会話や議論を求めているというよりも愚痴や不平不満のはけ口に近い一方通行なコメントには私もどうコメントを返してよいものかと正直困惑するのです。

鬼太郎6期が放送された時からややそういう感じのコメントが届いていたので気にはなっていたのですが、もうそろそろ言っておかないといけないかなと思ったので今回はこのように声明を出した次第です。

 

内容がポジティブなものであろうがネガティブなものであろうが、同じようなことを何回も何回も送れば、俗に言うスパムメールとそれはほぼ同質だと私は思っています。勿論「共感してもらいたい」「自分と同じ気持ちを共有してほしい」という思いからコメントを送ってくださる方もいるでしょうが、同じことを何回も聞くというのはやはりうんざりすることですし、ブログのコメント欄は他の読者も目を通す場所なので、そこは弁えてもらいたいと思ってます。

(言うなれば家の中ではなく近所の庭先で人に聞こえる会話をしているようなものなので)

 

特に愚痴に関しては親の愚痴を普段から散々聞かされている身なので、せめてこの場では心健やかなコメント欄であるべきだと思っているのですよ。まぁ一回くらいの文句や愚痴なら受け止めるつもりではいますけど、同じようなことをグチグチと言っているのはあまり精神的に健やかとは言い難いので、そこは理解していただきたい所ですね。

 

あと、私のブログは作品批評がメインなので、コメントも大半はその作品に関することなのですが、例えば「この作品のこのキャラ、展開が嫌い」というのは別に構わないのですよ。あくまでもそれは作品に関する話なので。でも「この作品を制作したスタッフはセンスが悪い」とか、「この作品のファンがこういう意見を言っていた」という作品そのものではなく作り手や視聴者(ファン)に関するネガティブな意見を送る場合はどうか慎重に考えてからコメントを送ってもらいたいものです。

私は作品が人に及ぼす影響や、同じ作品でも人によって意見・評価が変わる点には興味があります。でもその範疇を超えて作り手やファンのネガティブな情報を取り上げても、あまり益になることはないかと。

(少なくともそこをグチグチ言った所で憶測・妄想以上の何かを得られることはないとハッキリ言っておきます)

 

ということで、以上のことをご理解いただいた上でコメントを送っていただくよう改めてお願いしたい所です。ただでさえ世知辛い世の中で、SNSでも誹謗中傷やら何やらで居心地の悪い界隈もあるのだから、せめて自分の庭に等しいこのブログは健やかで風通しの良い場所でありたいと思っているので、そこの所よろしくお願いします。

豪華版ブルーレイ・追憶展・あつ森夢番地更新【鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎】

映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も公開から約1年ほど経ち、先日遂に豪華版ブルーレイが手元に届いた。

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 豪華版Blu-ray [Blu-ray]

豪華版の特典については上の画像を見ただけでもわかってもらえると思うが、もはや特典がメインで円盤がオマケで付いてきたというレベルの充実ぶりで、私のフォロワーさんが豪華版の箱の大きさを小学生の時に使っていた「お道具箱」と称していたのには笑った。(余りにも的確な例えだったので)

量もさることながら質も申し分のない内容となっており、登場人物の初期デザインや設定について語った制作スタッフのインタビュー記事、絵コンテ、アフレコ台本など、ファン垂涎の情報が満載。正に資料集と呼ぶに相応しい詰め合わせセットだ。

 

これまで当ブログで本作の感想・解説および考察をしてきた中で、この豪華版で自分の考えが制作陣の意図と一致していたポイントもあったり、あるいは全然考えていなかった点について新たに「なるほど!」と思わされることもあって、より一層作品の解像度が高まった気がする。

そこで、一部ではあるが今回の豪華版で得た発見・知見を述べておきたい。

 

(以下、豪華版の収録内容について一部ネタバレあり)

 

家族としての機能がない龍賀一族

龍賀一族に関してはこれまで色々と述べてきたが、今回の豪華版の内容に目を通して改めて分析すると龍賀一族からは家族らしさというものがほとんど感じられない。言葉で表現するのは難しいが「家族」というより「共同体」というような感じで、表面的には家族的な関係性だけども、本質的な所を見ると家族としての力関係でつながっている一族ではないと私には見えてしまうのだ。

 

そう思ったのはアフレコ台本に書かれていた地下工場での一幕。あの場面で乙米は「知っているのですよ。お前がお父様のお気に入りだったこと」と沙代に向かって言っているが、台本のト書きによると時貞の晩年期に沙代が彼から寵愛を受けていたことを乙米は妬ましく思っていたようで、その嫉妬心からあのような発言が出たそうである。

母親が自分の娘に嫉妬する。一般的な家庭環境ではまず発露しない感情だ。この時点で乙米と沙代は親子という上下の関係ではなく「龍賀の女」という並立的な関係ではないかという推察が成り立つのだ。

 

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©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会

もし多少なりとも親子の情や意識があるなら、自分の娘が少しでも自由に生きられるよう何とか方策を考えたり、仮にそれが出来なくても「こんな運命を背負わせてすまない・申し訳ない」といった感情があるはずだけど、本編の様子を見た感じでは全くそのような態度はない。保護や庇護という「守りたい」という感情さえもうかがえない。

これは乙米に限らず次女の丙江や三女の庚子にも同じことが言える。どちらも沙代が自由になろうとする行為を阻止したり足を引っ張るようなことをしているのを見ると、彼女たちは叔母と姪という関係ではなく「女」という並立的関係だと言わざるを得ないのだ。

 

勿論この原因は時貞との近親相姦が大きく関係していると考えられる。本来なら父・娘・孫というハッキリとした上下関係が形成される所をこの龍賀一族の場合は女性が全員当主である時貞と肉体関係を結んでいるので、そこで家族としての関係が壊れて女性は皆「龍賀の女」という並立の関係になっているのがこの一族のおぞましいポイントだ。並立の関係だから依存の方向が当主の時貞に向かう訳であり、女性たちはいかに一族内で優位な立場でいられるかを気にしてマウントを取ったり潰し合いをする。

 

まぁ丙江は一度駆け落ちしたことがあるから、そこまで家族に対しては依存心はないのかもしれないが、駆け落ちが失敗した上に一族内でも沙代のように霊力がある訳でもなく乙米のように取り仕切りが出来る能力もない。家に依存したくないが、かと言ってどこにも行けない宙ぶらりん状態の日々を物欲と性欲でうっぷんを晴らしているという感じの女性だったから、沙代の邪魔をしたのも心理的背景として凄く納得がいくのだ。

 

ただここで言っておかなければならないのは、私たち視聴者は外側の人間なので時貞が邪悪であり離れるべき存在だと言えるけど、実際あの村で生まれ育ったらそういう発想に至るのは難しいと思う。

時貞は表舞台では政財界を牛耳る権力者であり、村内では窖の狂骨を制御する力を持った能力者である。この余りにも脅威的な力を持った怪物的存在と同居していると、恐怖が崇拝へと変わる。つまり、「この強大な父親(時貞)が私たちを外敵から守っているのだ」という風に思考までも支配されてしまうのだ。特に乙米は長女という立場もあって父親の圧倒的な能力を目にしているし、父親からの凌辱にしても「いやこれは私たちを守っている・愛しているのだ」という風にマインドコントロールされていたと考えられる。こういった心理状態は心理学的にはユングが提唱したエレクトラコンプレックス※1に近いのではないかと思っていて、父親を独占したいがゆえに同性に対して敵意や反抗心を抱くというのは龍賀の女性(特に乙米)に見られる心理的傾向だ。

 

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©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会

そういう事情もあってか乙米と村長の長田との関係は至ってプラトニックなものであり、長田は乙米に対して恋愛感情はあったものの、乙米の方は長田に対しては恋愛というよりも主従関係として彼に深い信愛の情を抱いていた、というのが正確ではないだろうか?この辺りのことはドラマCDの「哭倉村夜話」における二人の会話からも推察することが出来るので、豪華版を購入された方は是非聴いてもらいたい。

 

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©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会

では龍賀の男性はどうなのかという話になるが、克典は入り婿なので龍賀一族の暗部に深く関わっていないからともかく、時麿や孝三は父親によって精神が破壊されている始末だし、龍賀と姻戚関係である長田も時貞の支配下に置かれている。当然自由な婚姻も許されておらず、極端な表現をするならば龍賀の男性は時貞によって去勢されていたに等しい状態だったと、そう言えるのではないだろうか?

 

特に長田に関しては数少ない霊力を持った人物の一人であり、彼の子供に強い霊力が遺伝した場合は狂骨を使役する能力と実権が龍賀家から長田家へと移る可能性もあったはずだ。そうなれば村内における力関係も一転して長田家が優勢になるのだから、恐らく時貞もそこを見越して深い主従関係にある乙米ではなく三女の庚子を嫁入りさせたのだろう。また、長田と庚子の間で強い霊力を持った子が生まれてしまうリスクを時貞が考慮に入れていないはずはないので、庚子が嫁入りした時点で既に彼女は時弥を身ごもっていたと考えるべきではないだろうか?

 

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©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会

以上をまとめると、龍賀一族は表面的には家族という体裁を整えてはいるものの、保護や庇護といった一般的な家庭における親子間の情愛が生じない家であり、「男」「女」という以上の役割がない家だと思った。

先ほど「共同体」と称したがこれはまだマイルドな表現で、もっとえげつない例えをするなら時貞の視点から見た龍賀一族は狂骨を管理する子孫を生むための「繁殖場」と言った方が正確だろう。時貞以外の男性・女性はオス・メスという畜生同然の扱いを受けていたというのが私の分析結果である。

 

※1:エレクトラコンプレックス - Wikipedia

 

因果応報としての惨殺

tariho10281.hatenablog.com

以前の感想・解説で裏鬼道の惨殺シーンがインディ・ジョーンズの映画における悪役の殺され方に近いものがあると述べたけど、古賀豪監督のインタビューを読んだり、ブルーレイに収録されていたオーディオコメンタリーを聴いていると、今回の映画における裏鬼道の惨殺シーンは(インディ・ジョーンズを含む)従来の洋画のゴア描写とは違い、単なるエンタメとしての惨殺ではなく因果応報譚として彼らの悪行に見合った死を描いたのではないかと考え直した。

 

以前言及したインディ・ジョーンズでエグい死に方をした悪役たちは、別に飛行機のプロペラでズタズタになったり砕石機に巻き込まれて死んで当然の悪行をしたかと言われると流石に劇中でそこまで悪いことはしていなかったと思うし、海外の映画監督にとってそういったゴア描写を映画に盛り込むのは、やはり映画(映画館)はテレビドラマと違って普段見ることが出来ないものが見られる映像作品(場所)であるという認識があるからではないかと思っている。そこが良くも悪くも映画の売りだと思うし、実際殺人鬼によるスプラッターを描いた作品は圧倒的に洋画が多いことを見ても、映画や映画館は唯一そういったグロテスクなもの、露悪的な非日常をエンタメとして楽しむことが許された場だと言えるのではないだろうか?

(勿論これは作る側と観る側の双方の理解があっての話になるが…)

 

本作もそういったグロさ・エグさのある作品なので、否定的な意見を述べている人も少なからずいる。ただ、私は洋画と違って単にエンタメ目的でエグい作風にしたとは考えていないし、よくよく考えると裏鬼道の中で斧男だけが巨大な換気扇に引き込まれて死ぬという最期を遂げたのも因果応報譚としての意味があったと考えているのだ。

詳しくは解説されていないが、序盤のゲゲ郎が処刑されようとしている場面や、屍人が脱走した下りを見る感じ、あの斧男は村内における死刑執行人を担当していたと考えられるし、その後の死体の後始末も当然請け負っていたと考えたら表沙汰に出来ない死体だから解体して処理していたと推測される。

そう考えれば他の裏鬼道が噛み殺されたのに対して彼だけ換気扇でズタズタにされたのも相応の理由があると言えるだろう。今まで散々人体をバラバラにするようなことをした人間が、五体満足で死ねる訳がないという意味で、龍賀一族の「左目の報い」と同様あの斧男もその行いに相応しい報いを受けたのだ。

 

"血桜"を見る会

古賀監督のインタビュー以外にも個人的に印象に残ったのは美術スタッフのインタビュー内容だ。主に背景美術についてどのような設定があったのか美術監督の市岡茉衣氏と美術設定の天田俊貴氏が言及しているのだが、その中でも窖と血桜、そこに建てられた御座所に関する話の中で窖の壁面に沿って建てられた回廊についての話が興味深かった。

 

映画本編ではゲゲ郎と狂骨の戦闘シーンでこの回廊が映るものの、本編では戦闘を派手に見せるための建物という以上の意味しかなく、私も特にこの回廊については何も考えていなかった。しかし市岡氏や天田氏は「何故時貞がこの場所を作ったのか」ということも考えてあの場所を設定したと述べており、自分が一番偉いと思いあがった時貞の傲慢さを表現したそうである。特に天田氏は回廊について、時貞が血桜を愛でるためにこの回廊を建てさせたと考えていたようで、この回廊を巡って血桜を愛でることを想定してあの設計にしたそうである。天田氏は更に「もしかしたら偉い人同士で"血桜を愛でる会"をやっていたのかも」と想像を働かせていたとも語っている。

 

ja.wikipedia.org

ここまで読めば大半の人は2019年まで毎年総理大臣主催で開催されていた桜を見る会が脳裏をよぎったのではないだろうか。私もこのインタビューを読んだ時は「え、そんなブラックな政治ネタも反映されてたのかよ」とギョッとさせられたものだが、確かに「桜を見る会」は第二次安倍内閣の時に問題視され、内閣の公的行事にもかかわらず反社会的勢力が来場していた可能性が指摘されたり、当初の予算の三倍にまでふくらんだ費用、招待客名簿の不透明さなど、様々な問題が明らかとなったことで知られている。※2

言うまでもなくこの開催費用は私たちの税金が使われている訳であり、ゲ謎でも描かれた国や権力者による搾取の構図がうかがえる。比較的よその国と比べて裕福とは言っても、花を愛でる暇がない職業の人だって大勢いるというのに、そういった私たち国民の血税を搾れるだけ搾り取って一部の上級国民が本来の趣旨から外れたパーティーを開いていた、というのだから全くもって許しがたい話である。

 

ちなみに「桜を見る会」は1952年に当時の総理大臣であった吉田茂が主催したのが始まりとされているが、それ以前は皇室主催の「観桜会があったようで、国の要人たちが集まって桜を愛でる宴会は時貞が存命の頃から既に行われていたのだ。だから窖で"血桜を愛でる会"が行われたと考えても別に不自然ではない。※3時貞が御座所や回廊を作らせたのは、自分が天皇に匹敵する存在※4であるという傲慢さの表れであり、その実態は美女をはべらせ美酒に美食といった世俗の快楽をむさぼりたいだけのケダモノだったのだから、救いようがない。

 

この時貞の異常なまでの自己愛の強さ、娘や孫を道具のように扱う冷血さは完全にサイコパスと呼ばれてもおかしくない性格で、特に時貞がサイコパスだと感じるのは「M」の製造や狂骨に対して余りにも計画が短絡的で楽観的だという点だ。

今は窖の狂骨を制御出来ていたとしても、怨念はどんどん蓄積されて強力になっていくのだから、普通は遅かれ早かれ制御不能になる時が来ると考えるはずだし、「M」にしても原料となる幽霊族が絶滅寸前でいずれは製造が不可能になるのだから、明らかに時貞が考案した「M」や窖の結界のシステムは長期的に見ると必ず大きな破綻が起こるずさんな計画だし、大抵の人は思いついたとしても後の世代に負の遺産を残して迷惑をかけるからやめておこう、となるのだ。

しかし、サイコパスに該当する人は恐怖や不安を感じにくく、普通の人ならためらうことを平気でやってのける。それは時貞も同じであり、ゲゲ郎の妻が身ごもっていたというそれだけのことで大喜びしているのも、私からすれば「幽霊族の子供が一人生まれただけでそんな長期的にMが生産出来るのか…?」と疑問を抱かずにはいられなかった。霊力の強い子を成すための近親相姦にしても、それを続ければ生まれる子供に精神的・肉体的な障害が必ず出て来るし、狂骨を制御するどころの話ではなくなる。

 

「M」の製造に関しては時貞よりも前の世代が幽霊族の血を用いた研究をしていた可能性があるのでこれは時貞だけの責任ではないが、近親相姦に関しては何代にもわたってやっていたら乙米や時麿にもはっきりとした障害が出ているはずだし、時弥にしても身体が弱い程度では済まなくなるので、「龍賀の女は当主に身を捧げる」というあの仕来りは時貞が始めたことだろう。※5

 

※2:桜を見る会問題 - Wikipedia

※3:ただ狂骨があれだけウジャウジャいる場所で身体に変調を来さない、耐性のある人間はかなり限られると思うので、もしそういう会があったとしてもごく少数の集会だったと考えられる。

※4:窖の場面で時貞は「今時の若造共はことごとく愚かで不甲斐ない!」と言っていたが、その「今時の若造共」の中には当時の昭和天皇も含まれていたのではないか、という意見がある。

@hakatanosatさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

※5:2012年にオーストラリアの農場で12人の子供が保護されたが、そのうち11人が近親相姦によって生まれた子供であり、その家では数世代にわたって近親相姦が行われていた。その子供たちは聴覚や視覚など先天性の異常が見られ、全員に発達遅延・認知障害が見られたという。この実例から考えてみても、龍賀一族内の近親相姦は時貞の代で始まったと考えるべきではないだろうか?

豪で「近親相姦農場」見つかる、先天異常の子ら12人保護 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

コルト一家の近親相姦 - Wikipedia

 

以上、豪華版ブルーレイの特典に関する感想・考察を述べたので、ここからは先日の25日に行った心斎橋PARCOで開催中の追憶展のレポートに移る。

 

追憶展のレポートと時麿に関する考察

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(会場入り口前にて撮影。心斎橋会場は来月の8日まで開催予定だ)

 

まず先にこれから追憶展に行こうと思っている方に注意事項を述べておくと、この展覧会は事前にイープラスで前売り券を購入する必要がある。当日会場で直接お金を支払って購入出来る当日券は、当日の入場枠に空きがある場合のみ購入可能なため、もし当日会場に行ったとしても、空きの入場枠がないと会場には入れないのだ。

そして前売り券は時間指定制なので、もし当日入場枠に空きがあったとしても、その空きがお昼の12時しかない場合はたとえ午前中に着いたとしてもその時間まで待つ必要がある。ここも注意してもらいたい。

 

それから、音声ガイドは専用の機械が会場で用意されているのではなく、自分のスマホからQRコードを読み取り、専用のサイトにアクセスして音源を聴くという形式になっているので、事前にQRコードが読み取れるかどうか自分のスマホを確認した方が良い。

(確認しておかないと500円損することになるはず)

 

音声ガイドはゲゲ郎メイン水木メインの2バージョンが選択できる。私は水木メインを選択したが、「禁域の島の妖怪」の展示エリアのみゲゲ郎メインの音声ガイドがあるみたいなので、ゲゲ郎の声を少しでも多く聴きたい!という方はゲゲ郎メインの音声ガイドを選んだ方が良いだろう。

 

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(龍賀家の大広間を模した撮影スポット。座布団に座ることは禁止されている)

 

展示内容は主に映画の原画や絵コンテ、キャラクターのビジュアル設定、背景美術の設定が展示されており、所どころに龍賀家の大広間や長田家の座敷牢など映画本編でも見られた場所を再現した撮影スポットや、裏鬼道の面や灰皿・ウイスキーボトルといった劇中のアイテムの実物が展示されていた。

 

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(ゲゲ郎と妻の思い出のクリームソーダ。音声ガイドのゲゲ郎もウキウキ気分だ)

 

キャラクターのビジュアル設定はメインキャラだけでなく女中や下男、弁護士といったモブキャラの設定まで展示されているし、背景美術に関しては帝国血液銀行の社長室や時麿の部屋など本編であまりハッキリと部屋の全容が見られなかった部分も知ることが出来るので是非ともチェックしてもらいたい。

 

個人的に注目したのは「禁域の島の妖怪」「時麿の部屋」の二つ。禁域の島の妖怪は本編だと暗い上に登場シーンもかなり限られているのでよくわからなかった人もいるだろうが、ビジュアル設定を見ると水木先生の妖怪画を元に丁寧に描かれていることがよくわかったし、そんな妖怪たちをわずか数秒の間にあれだけ盛り込んだというのは何とも贅沢な使い方だなと思う。

ちなみに、豪華版ブルーレイに付いているアフレコ台本には禁域の島の妖怪を含む隠れ妖怪がどのカットに映っているのか詳しく書かれている。それを見ながら私も本編を確認したのだけど、未だに「野づち」がどこに映っているのか全然わからないし、追憶展では野づちのビジュアル設定も展示されていたとはいえ、それでも「え~これ本当に映ってたかな…?」って首をかしげた。もし見つけた人がいたら教えてほしい。(何分何秒の画面の右上とか具体的に)

 

「時麿の部屋」の展示は実物展示と背景美術の設定の二種類の展示があって、実物展示は本編の時麿の部屋と同様に大量の書物が床に積んである(ざっと二十冊くらい?)のだが、一冊だけ本のページが開いた状態で置いてある。当然展示物なので手を触れてはいけないのだが、顔を近づけて血が付いたページを読んだ感じ哭倉村の歴史資料(『〇〇風土記』と書いてあった)と思しきものであり、村が成立する前の古代までさかのぼって時麿はこの土地の歴史を調べていたことがうかがえる。恐らくだけど、この土地に元々住んでいた幽霊族のことを彼は調べていたのかもしれないが、流石にどのような意図で調べていたのかまではわからない。

そして背景美術の設定では、映画本編だと時貞の写真は床に置いてあったのに対し、美術設定ではあの大きな燭台の中央に掛かっていた。それが本来の定位置だったとすると、時麿が額を床に置いたことになるし、しかもよく見ると(庚子が殺害される前の時点で)写真が十字に切り裂かれているのがわかる。

 

tariho10281.hatenablog.com

前に私はこちら(↑)の記事で時麿が多重人格ではないかと述べているが、部屋の様子を見る限り、主人格の時麿は父親である時貞に強い憎悪と反抗心があったはずだ。父親が余りにも絶大な霊力と権力を持っているため、反抗の術を失った時麿はあの遺言状の一幕で号泣したように子供のように父親に依存する人格を生み出したと思われる。ただ一方で父親から無理やり次期当主として修行させられたという負の感情は残っており、それが彼の部屋の様子から推察される。

 

父親に対する時麿の憎悪や反抗心は十字に切り裂かれた写真は勿論のこと、部屋に大量にあった書物もそれを物語っている。書物の内容はわからないにしても、あれだけの量を壁が見えなくなるほど、天井に届くくらい積み上げているというのは、明らかに読み返すことを目的として積んでいない。読み返すなら本棚に仕舞うか、いつでも取り出せる形で置くのが普通だからね。

じゃあ読み返すつもりがないなら部屋に置いておかずに土蔵や倉庫にでも仕舞えば良いのではないか?という話になるけど、多分自分以外の人間の目に触れさせたくない内容だったから部屋に置いていたのではないかと私は思っていて、あれだけ山積みにして置いているのも、もし誰かが部屋に入ってその書物を読もうと思ったらその山を崩す必要があり、一度崩したら積み直すのは時間がかかる上に完全に元通りにするのは難しい。時麿はそれを見越して自分の部屋に大量の書物を積み上げたのだろう。家の外に隠すという選択肢もあったと思うが、万が一誰かに発見される危険がある以上、下手に隠すよりも自分の目の行き届く所に置いておきたいという心理が働いたのかもしれない。

 

では「そこまで人に見られたくなくて、読み返すつもりがない書物なら、いっそのこと燃やして処分すれば良いのに」と思った人もいるだろう。

これはあくまでも私の勝手な推測になるが(まぁ今までの話も推測の域を出ないけどね…ww)、あの部屋の書物は自分が生きている間は誰にも見られたくない内容だが、自分が死んだら誰かに読んでもらいたい内容だったと考えられる。実際時麿の死後、沙代が侵入して彼の日記をねずみ男に託したことを見てもわかるように、鍵のかかっていない和室だから出入りは自由だし、部屋に侵入した所を見られていなければ本の山を崩した所でそれが誰がやったのかまで追及するのは困難※6なのだから、時麿は自分の死後誰かが部屋に入って書物を見てくれることをどこかで期待していたのではないかと私は考えている。

 

自分が生きている間は見られたくなくて、死後なら見られても構わないというこの矛盾しているとも思える心理と部屋の様子から察するに、時麿の部屋にあった書物は時貞から修行を強要されたことに対する不満や怒り、憎悪といったネガティブな感情をつづったものではないかと私は考えている。追憶展の実物展示も合わせて考えると、もしかしたら時麿は時貞の現在の悪行が歴史的に正当性を欠いた行為であり、それを史料に基づいて証明しようと密かに研究していた時期があったのではないかと、そんなことまで考えたのである。

前述したように龍賀一族は家族としての機能がないため、自分の弱みや父親に対する反抗心を弟や妹の間で共有するという、普通の家庭なら容易に出来ることがこの家では不可能だった。共有出来なかったがゆえに彼はそれを膨大な書物の山として記録・保管しそれを自分の死後誰かが読むことで理解してくれることを望んだのかもしれない。

推理に必要な情報が乏しいので、以上のことはあくまでも私の勝手な推測(というか妄想?)に過ぎない。それに沙代にあのように迫った様子を見ても、以前は時貞を憎悪する人格が強かったのに対し、あの時点では時貞に依存・崇拝する人格の方が勝っていたと思われる。※7自分の精神が完全に壊れないよう人格が分裂してしまったことで、結果的に当初の目論見が狂い本当の人格が望んでいたことが叶わなかったと思うと、加害者的立場ではあるが総合的には被害者であったと言わざるを得ない。

 

※6:そもそも龍哭の地響きで一度本の山が崩れてしまったら、たとえそこから一冊か二冊紛失したとしても、時麿や家人の誰一人として気づかなかっただろう。その点を踏まえてみても、時麿の部屋の書物は後々誰かの目に触れることを想定していたと思わずにはいられない。

それにしても三度目の龍哭(庚子殺害前後)でも本の山が崩れていなかった様子を見るに、床から天井まで隙間がないほどミッチミチに積み上げたのだろうね。

※7:或いは時貞と同じように龍賀の女性を凌辱することで、ようやく自分が抑圧される側から抑圧する側へと移り、亡き父の呪縛から解放されるという、そんな安易な思考からあのような行為に至ったとも考えられる。なので必ずしも時貞に対する依存・崇拝心から取った行動であるとは限らないと断っておく。

 

ということで、追憶展の展示内容も作品世界の考察を深める情報が多くて非常に良かった。これだけの設定資料の数々を見られたのは良かったけど、またいずれ一冊の本として東映アニメーションが設定資料集という形で発売してくれたら絶対買うね。それくらいの価値はあったと思う。

 

あつ森夢番地更新

私個人の話になるが、実は先月末にあつ森の夢番地を更新したので蛇足ながら少し宣伝させてもらいたい。

先月劇場で真生版が公開されたので、それに伴って島のレイアウトを変えようと思い立ち、どうせなら気になっていたマイデザも修正しておきたいなと思って色々いじって更新した。ちょうどハロウィンが近づいていたので、ハロウィン色が強めになっているのも見所として挙げておく。

 

一応どういう所を修正したのかと言うと例えばこの場所。

【修正前】

 

遠くから禁域の島を望むこの景色、修正前は家屋を犬小屋を使って再現したがイマイチ日本家屋らしくなかったので、代わりに養蜂箱を使って再現し直した。

 

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【修正後】

 

更に麦畑や井戸といった家具を駆使してより奥行きが出るよう工夫した。本当は奥の鳥居は距離から考えてもっと小さくしないといけないのだが、マイデザ枠が一杯で小さい鳥居のマイデザを作れなかったので、サイズの違和感は妥協してこのような形になった。

 

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それからマイデザで修正したのが時貞の遺影。修正前(左)がちょっと雑だったのでちゃんと描き直そうと思い修正したのが右の画像。

 

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それから新たにマイデザで妖怪を作成。ゲゲゲの鬼太郎で登場した悪魔ベリアルや油赤子など新たに5種類ほどの妖怪が島内に出現しているので是非確認してもらいたい。


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そして、ホンミス島では龍賀時貞の復活を阻止する特別イベントも開催している。掲示板に書かれたミッションを読み、島内に落ちているアイテムを駆使して時貞の復活を阻止しよう!という企画だ。

 

一応設定としては「作者の私(タリホー)がマイデザで裏鬼道を作成したら、その裏鬼道が勝手に動いて時貞を復活させようとしている」という感じのストーリーで、夢の世界を利用して現世に復活しようとする時貞を阻止するためにプレイヤーは裏鬼道の妨害を切り抜けながら島を散策し、時には島にいる妖怪の助けを借りて必要なアイテムを回収しなければならない。

 

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あつ森で夢の世界と言えば「ゆめみ」だけど、鬼太郎作品では妖怪「枕返し」がお馴染みなので、当然このイベントでも登場させている。どこにいるかは実際にプレイして探してもらいたい。

(画像は更新前に撮影したのでこの場所にいるとは限らない)

 

さいごに

これで先月末から今月にかけてのゲ謎関連のイベントや円盤発売、あつ森でのゲ謎再現など語るべきことは語り切ったと思う。もう映画公開から1年経つというのに、また新たに東京タワーでイベントが開催されるようだし、ゲゲゲ忌も例年以上の賑わいを見せたりと経済効果も凄まじい。確か豪華版ブルーレイは発売された11月17日の段階で3万枚以上購入されており、単純に計算してざっと6億円近い売り上げになっていたと思う。

 

考察に関しても「もうこれ以上は語ることはないだろ」と思っていたら、また新たな発見や推察が出来て、ホントに一つの作品として底の深さに驚かされるばかりだ。

それで実は言い忘れていたことがあるので最後に言っておくと、先ほど述べた龍賀一族の家庭内の並立的な関係について。映画はあくまでも一つの家の話として描かれているが、第二次世界大戦下の日本でもこういった現象が起こっていたことを指摘しておかなければならない。

 

火垂るの墓 [DVD]

それを説明するために、ジブリ制作で映画化された野坂昭如原作の『火垂るの墓』を一例として語ってみよう。知らない人のために一応あらすじを述べておくと、『火垂るの墓』は第二次世界大戦末期に母親と家を失った清太と節子の兄妹の悲劇を描いた物語。「父の従弟の嫁の実家」へ身を寄せることになった二人は、その家の未亡人のおばさんから残忍とも言える仕打ちを受け、その結果二人は家を出て行き近くの防空壕で暮らすことになる。そこから先の展開は是非原作及び映画本編を見てもらいたい。

余りにも辛い話なので映画は前に一度見ただけなのだが、大学在学時に原作について講義を受けたことがあり、その時の教科書が残っていたので改めて読み返した。

 

特にSNSでは未亡人のおばさんの仕打ちについて度々議論が起こり、「おばさんの方が正論を言っているのではないか。清太はわがままを言い過ぎでは?」という意見まで見かけたが、これは非常に危険な風潮だと思う。

子供がわがままを言ったり、贅沢なことを要求したりするのは子供として当たり前の態度である。しかし、戦時下の日本は子供が子供らしくいることを許さなかった。歌を歌えば「よしなさい、この戦時中になんですか、怒られるのは小母さんですよ、非常識な」と怒られ、夜泣きをすると「こいさんも兄さんも、御国のために働いているんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」と文句を言われる。このような未亡人の冷たい仕打ちが原作でも事細かく描写されているのだ。

 

勿論、戦時下の切り詰めた生活という状況の中で赤の他人も同然の兄妹の世話までしないといけないのだから、そのおばさんの言動にも事情や背景があるのはわかるし、精神的にも疲弊し経済的にも余裕がない中でよその子供の面倒を見ろと言われたら、私も優しく育て上げる自信なんて全然ない。

だとしても、わがままを言ったり、甘いものをほしがったり、夜泣きやらお漏らしやらで困らせたりと、子供の子供らしい未熟さを否定して「早く大人になれ」と言わんばかりの仕打ちをするのは、それは虐待に等しいと考えている。戦時下の日本ではそうやって子供が子供らしくあることを否定し、自分たちと同じ大人としての振る舞いを強いた過去がある。正にそれは大人と子供という上下の関係ではなく子供を大人同然と見なす並立的な関係だったのだ。それがどれだけ多くの子供たちを苦しめ犠牲にしてきたのかを『火垂るの墓』は容赦なく描いている。

 

だからこそ子供が迷惑をかけたり未熟でどうしようもないことを仕出かすのを当たり前だと思わず、必要以上に抑圧してさっさと「大人」にしてしまうのは危ないと思っているし、特に戦時下ではない今の日本で「おばさんが正しくて清太が間違っている」という意見が出て来るのはヤバいと思っているのだ。

ヘロQ版「悪魔の手毬唄」をDVD視聴

去る2024年の5月、劇団ヘロヘロQカムパニーによる30周年記念公演「悪魔の手毬唄」が公演され、先日クラウドファンディングの返礼品として舞台のDVDが届いた。

 

motion-gallery.net

ヘロQが横溝正史原作の金田一耕助シリーズを舞台化したのは2008年の「八つ墓村」が初で、それ以降「悪魔が来りて笛を吹く」「獄門島」「犬神家の一族」と代表作を舞台化していき、そのシリーズ第五作目として舞台化したのがこれから語る「悪魔の手毬唄」である。

 

ヘロQの金田一耕助シリーズを知ったのは2016年の時で、公式の通販サイトで購入した「獄門島」の公演DVDを見て、そのクオリティと原作に対するリスペクトの高さに感心し、それ以降この劇団の金田一耕助シリーズに注目していたという訳だが、今回初めて劇団のクラウドファンディングに微力ながら助力することが出来たのは幸甚の至りというものだ。

特に「悪魔の手毬唄」は金田一耕助シリーズの中でも特に私が推している作品だったので、DVDで公演の模様を見て非常に感動した!犯人も展開も知っているのに思わず目頭が熱くなるシーンがいくつもあったし、

「こんな物語生み出した横溝先生天才かよ…!!」と、改めて原作ならびに原作者に対するリスペクトが深まった。

 

まだ本公演のDVDは公式サイトで販売されていないので、具体的なネタバレは避けて感想を述べていきたい。

 

注:公式通販サイトでDVDとパンフレットの販売が始まりました。

heroq.ocnk.net

 

トリックよりドラマ性を重視した脚本

先ほども言ったようにヘロQの金田一耕助シリーズは原作に対するリスペクトが高いシリーズで、金田一を演じる主演の関智一さんが大の横溝ファンであることもそれに大きく影響している。私は「獄門島」からこの劇団の公演を知ったのでそれ以前の「八つ墓村」と「悪魔が来りて~」は未見なのだが、それでもこれまでの舞台化された作品を見れば、原作愛の深さに疑いを挟む余地はない。

 

ヘロQの金田一耕助シリーズではドラマや映画といった映像作品でカットされたり省略される場面もキチンと演じているというのも評価ポイントの一つであり、例えば「獄門島」の第三の見立て殺人におけるトリックは映像作品だとカットされがちなのだがこの舞台版ではそのトリックが実演されていたし、「犬神家の一族」における珠世ともう一人の人物の因果関係も、この劇団の舞台では原作通り描写されている。

「獄門島」で特に重要な犯人の動機にしても、ドラマや映画では省略されて描かれる場面であり、実を言うと原作を読んだ時も正直この犯行動機はピンと来なかった。しかしこの舞台版ではその動機となった場面をしっかり描写していたので、原作を読んでイマイチ理解出来なかった私も、ようやくその犯行動機がストンと腑に落ちたのである。

 

以上のように原作に対する解像度の高さもこの舞台シリーズの良い所なのだが、過去の映像作品における台詞や演出も随所に取り入れているのも見逃せないポイントだ。刑事や女中をコメディリリーフとして描くのは市川崑監督・石坂浩二さん主演の映画シリーズでも見られる趣向だし、そういった過去作の長所を盛り込んでいるため、コアな原作ファンは勿論のこと、あまり横溝正史の作品を知らない初見の方や、映画は見たけど原作はそんなに知らない方でも十分楽しめる間口の広い舞台劇になっていると私は思う。

 

で、今回の「悪魔の手毬唄」はどうだったかをここから語っていこうと思うが、今回の舞台は何と3時間半の長丁場。これまでの公演も長くて3時間ほどだったから、途中見ていてダレる場面もあるんじゃないかな~と思ったが全然そんなことはなかった。まぁ流石にこの長尺なので途中でDVDを一時停止してトイレに行ったけど、中弛みを感じることはなかった。中央に大きな盆回し、上手と下手にそれぞれ小規模の盆回しが一つずつの計3つの盆があるため、過去の舞台公演と比べても複雑な場面転換だったというのも退屈しなかった理由の一つとして挙げられるだろう。

 

そして原作やこれまでの映像作品と比べてみると、今回の舞台はトリックよりも登場人物の心理描写に力を入れた脚本だったと評価している

歴代の映像作品の中で最も原作に忠実な映像化をしたのは古谷一行さん主演の連ドラ版(横溝正史シリーズ)だったが、連ドラ版の方は原作でも触れられた猫車や百目蝋燭といったアイテムについての言及があったのに対し、今回の舞台では小道具で百目蝋燭が舞台上に置かれていたものの、それがトリックに関係があるアイテムとして触れられることはなかった。また原作では鬼首村の地理が犯人特定に重要な意味を持っていたのに対し、舞台版は過去の映像作品と同様カットされている。

こういった原作で描かれていた細かいトリック、犯人特定のロジックがカットされているのは、これまでの舞台化ではあまりなかったので少々意外に思ったが、村の地理を原作通り言及した所で舞台という限定的な空間の中では効果的に演出出来ないのだから、ここをカットしたのは妥当な判断だと言えるだろう。

 

トリックやロジックをカットした分、里子や歌名雄といった人物の心理描写は結構丁寧に描かれており、特にお庄屋こと多々良放庵は映像化の際(尺の都合で)ゲスい小悪党として改変されがちなのだが、舞台版の放庵は原作同様のキャラとして演じられている。

里子は元々原作でも可哀そうな役どころとして描写されているが、今回の舞台では単に可哀そうだったなという感想で終わるような存在ではなく、彼女なりに人を励ます優しさや芯の強さのある女性として描かれており、歌名雄もまた彼なりの方法で里子の心が暗くならないよう振る舞っていた。この辺りの設定は舞台オリジナルなのだが、互いが互いを思う優しさが終盤の展開を引き立たせていたのは間違いないし、歌名雄が最後に選んだ道も原作と同じではあるが、オリジナルの設定のおかげで原作にはない彼の深い決意が感じ取れるラストになっていた。こういった原作キャラの肉付けがうまいのも今回の舞台を高く評価したポイントだ。

 

舞台演出も色々と印象的な場面は多くあったが、特に「これは良い!」と思ったのが活弁活動弁士)を意識した演出だ。活弁は原作でも事件解明の重要なヒントとなった職業なのだが、それをあの場面で、あの人に活弁の形式で語らせるというのは素直に驚かされた。かなり重要な場面なのでネタバレする訳にはいかないが、あの演出は映画やドラマでやると不自然でチープな演出になっていたと思う。あれは舞台ならではの効果的な演出だったし、特に原作や過去の映像作品では具体的な台詞もなく事実だけを描いた場面という程度の演出だったので、それが今回の舞台では印象的かつ最高の演出になっていたと高く評価しておきたい。

 

稲垣吾郎さん主演のドラマで活弁形式の演出が取り入れられていたが、正直あれはうまくいってなかったんだよね…。

 

さいごに

以上がヘロQ版「悪魔の手毬唄」の感想と評価になる。DVDは現在公式の通販サイトで販売されているので、購入してその目で見てもらえれば、私の言いたいことが何となくわかっていただけるだろう。

 

悪魔の手毬唄』は原作の内容が内容なだけに悲劇としての側面が強く、特に映像化ではその悲劇性を強調して描かれがちなのだが、実は原作を読んだ時はあまり悲劇として読んだ覚えがない。以前NHKで放送された「深読み読書会」で出演者の一人が本作の犯人はサイコパス的な性格だと分析していたように、実際原作を読むと犯人の抱えていた苦悩・ジレンマに関しては共感出来るのだけど、このような劇場型犯罪をやらかした点については共感出来ないし、特に終盤で犯人が被害者の〇〇を××した点に関してはサイコパスと言われて当然の行為なので、全面的に犯人に感情移入出来ないのがちょっと勿体ないなと思ってしまう。

ただ、ここで犯人がとったサイコパスとも思える行動は本作を推理小説として見ると、いわゆるホワイダニットに相当する謎でもあるので一概にマイナスポイントだと言えないのが難しい。この謎はこれまでの映像作品でも今回の舞台でもカットされており(というかそもそも映像化しづらいのだけど…)、悲劇の物語として描く以上犯人がサイコパスだというのは設定として具合が悪いので、カットされるのもまぁ仕方ないと考えている。

 

そんな訳で色々と語ったが今回の舞台も大変満足出来る作品だった。こうなってくると未見の「八つ墓村」と「悪魔が来りて~」もどんな感じだったのか気になるし、中古でも良いから買おうかなと調べたら、メルカリで3万~5万で高額取引されてたし、中には10万を超すものもあって、えっと~、流石に今の収入では厳しいかな…。(汗)

「劇場版ACMA : GAME アクマゲーム ~最後の鍵~」を率直にレビュー

先日の舞台「台風23号」で間宮さんの熱演を目にしたばかりで、まだその余韻が冷めぬなか、「劇場版ACMA : GAME アクマゲーム ~最後の鍵~」を観て来ましたよ!

 

www.youtube.com

今年の春頃に放送された連続ドラマの劇場版ということで、ドラマは以前当ブログでレビューしたように、過去の同ジャンルのドラマや映画と比べてもクオリティが低く、脚本も辻褄の合わない点が多すぎて本当にガッカリさせられる駄作だった。

 

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ドラマの問題点については8話と最終回のレビューで詳しく言及しているので改めて述べないが、ドラマの出来が出来だっただけに今回鑑賞するにあたって出来るだけ期待せず、「こんなクソ脚本でも頑張って演じた出演者の努力の痕跡は拾ってあげないとな…」と、そんな感じの面持ちで映画館に行った。どんな駄作だろうと飲み込む覚悟はしていたんだよ?でもね…

 

意外と面白かった…!

 

シンプルに映画はドラマよりもスケールが大きい展開になっていたから、というのもあるけど、総合的に評価すると映画館で見るには全然問題ないクオリティだった。今年の初めに公開され間宮さんが出演していた「ある閉ざされた雪の山荘で」よりも退屈しなかったし、脚本に関してはダメな所は相変わらずダメなのだが、一方で結構感心させられた所もあって、思いのほか楽しめた。

まぁハードルを下げすぎていたっていうのもあるし、先々月鑑賞したクレヨンしんちゃんの映画が全然面白くなかったというのも多少は影響しているので、公平なレビューでないことだけは先に言っておくが、では本作の何が良くて何がダメだったのか。それをここからはネタバレありでレビューしていきたい。

 

(以下、映画本編に関するネタバレあり)

 

ゲームは相変わらずの改悪・低クオリティ

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今回の映画はドラマの最終回の後のお話。グングニルのテロ計画を防ぎ組織を解体させた照朝たちは世界各国を飛び回り、悪魔の鍵の所有者(ホルダー)たちとアクマゲームで対戦を続け、世界に散らばった99本の鍵の回収をしていた。そして残るはカルト教団アイギス教団」の黒田兄妹が所有する13本と、グングニルの残党で照朝の父を殺した崩心祷が持つ1本だけになった。

ということで今回の映画で照朝たちは黒田兄妹の兄・光輝と崩心、更に悪魔の鍵によって世界に戦乱をもたらした張本人である悪魔と戦うことになる。

 

まず本作の悪い所を先に言っておきたいと思うが、予想していた通り本作のメインとでも言うべきゲームは原作の劣化版・改悪版という感じのもので、ゲームだけを評価するならハッキリ言って見る価値はないと言って良いだろう

本作で行われるゲームは「五文字戦闘」「落下真偽心眼」「冥王剣闘士」の3つ。最初の「五文字戦闘」は原作19巻のグングニル開催のトーナメント決勝戦で行われたゲーム「万中五選」の一つで、原作では照朝チーム対毛利チームによる4対4の団体戦だったが、映画では2対2とプレイヤーの数が減り、対戦相手も黒田光輝とその部下という映画オリジナルキャラのため、ゲーム展開も大幅にカット・改変されている。原作では照朝と毛利の騎士道精神とでも言うべきフェアで白熱した戦いが見所だったのだが、残念ながら今回の映画ではそういった原作の良さが活かされていない。というか、そもそもゲーム自体正味15分も経たずに終了して次の展開に移るので、映画全体で見ると前座・前哨戦的な扱いだ。

 

そして次の「落下真偽心眼」はドラマの初回で行われた「真偽心眼」のアレンジバージョンで、少しの衝撃で大爆発を起こすニトロが積まれた車を運転しながら相手が出題した問題の真偽を答えるという内容だ。

えーと、このゲームって爆発に気をつけながらカーブだらけの坂道を下るゲームなのに何故「落下」なの?と、それを言うなら「爆走真偽心眼」じゃないの?と、まずもうこの時点でツッコミが生じるのだが、肝心のゲーム展開もドラマみたいに相手の問いに隠された意図、その裏の裏を読み合うというドラマの初回ですらやっていた高度な頭脳プレイがなく、最終的な決着も崩心のチート過ぎる「悪魔の能力」によって決まるのだから、個人的には「落下真偽心眼」が今回の3つのゲームの中で一番酷い出来だったかな。ニトロを積んだ車という設定も緊迫感の演出のためにとって付けた感じが否めないし、本作のストーリーにおける意味合いから考えてみても、「崩心の悪魔の能力をお披露目するためだけに用意されたゲーム」という以上の意味はないので、前座の「五文字戦闘」よりも劣ったゲームを中盤の要にしたのはダメだなと思った。

 

そして最終戦「冥王剣闘士」は褒めたいポイントもあるが先にダメなポイントを挙げておくと実はこのゲーム、タイトルこそ映画オリジナルのように見えて実際のゲーム内容はドラマ4話の「百金争奪」とほぼ同じなのだ!

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違っているのは駒が剣に変更され、その剣を持つ兵士が生身の人間(サブプレイヤー)になったこと、そのサブプレイヤーはゲームで死亡した場合、終了後も復活しないという点で、要するに原作の「百金争奪」をデスゲームにアレンジしただけなのだ。しかも相手を騙すために用いたトリックもほぼ原作(ドラマ)と同じなので、最終戦が焼き直しのゲームというのは観客(特にドラマ視聴勢)を舐めているのか?と思われても当然だろう。

邦画の悪い所が詰まっている

あとドラマの延長線上として制作されたこともあってか、やはり従来の邦画と同様の悪いクセが詰まっているのも本作の残念なポイントである。

具体的なドラマの映画化におけるダメな演出・展開というのは、

・特に活躍しないのにドラマにも出ていたキャラを出す

・強引にハッピーエンドにする

・エンドロール後に続編をにおわせる描写を盛り込む

というようなもので、本作でもダメな邦画あるあるが随所で見られる。本作の場合、ドラマ5話の「隠蔽看破」で照朝と対戦した紫が正に良い例で、序盤の「五文字戦闘」の際にプレイヤーとして潜夜と共に戦うのかと思いきや、何と潜夜が悪魔の能力で照朝を呼び出して交代させたのにはビックリしたよ。だったら今回の映画で紫が出た意味は?ってなるでしょ?それなら敵側にもう一人加えて、紫も含めた3対3の形式にすれば良かったのに、何かこういうキャラの雑な扱いが気に入らないんだよな。

 

キャラに関してもっと言うと本作ではドラマで登場しなかった悪魔が複数登場するのだが、原作に登場したシカの悪魔・セルヴォとクジラの悪魔・バレイアが出るのは原作読者に対するファンサービスになるからまだしも、映画オリジナルの悪魔・ヴァジラを出す必要はあったのか?と、ここも納得がいかない。

原作には他にゴリラやネコ、コアラの悪魔もいるのだから、それをCGとして映像化すれば良いのにそれをしなかったのは、ゴリラやネコ・コアラは毛並みとか造形とかが複雑でCGにしづらかったから、それでシンプルなデザインの悪魔をオリジナルで作ったのだろうかと、そんな推測をした。制作側には面白い試みだったのかもしれないが、「たかだか1分も登場しないのにオリジナル悪魔を用意された所で、別にね~…」って感じで、何か制作側の独りよがりさが否めなかった。

 

最後のハッピーエンドに関しては、この映画がエンタメ作品寄りなので後味を悪くしたくなかったからあのような結末にしたというのは一応理解出来るし、本作の試写会に10代の少年少女を呼んでいたことを見ても、あの結末が決してダメだと完全否定するつもりはない。

でも、正直私は犠牲者はそのまま犠牲者として終わった方が文芸作品としてもう1ランク上の作品になっていたと思えてならない。せっかく最終戦で彼らは覚悟をもってこの戦いの犠牲となり、残った人々もそれを代償にこの世界の秩序を回復したというのに、それが全てチャラになるというのは、何とも勿体ない結末だ。

 

本作では序盤の戦乱による人々の死から描かれているように、殺人という行為自体が戦乱という混沌の中でその意味を失い、ただ人が闇雲に殺されていく。誰もその死に責任を持たず、誰もその犠牲を省みない。ただただそれは「数」としてカウントされるだけで、そんな紛争による大量虐殺を見たからこそ、黒田光輝は意味のある「死」に取り憑かれ、殺されるのではなく自ら死を選択する、そして全ての人類が滅ぶことで私たちの魂も、この地球もリセットされるという、何かそういうダークな幻想を抱いていたのではないかと私は思った。

彼が最終戦で自分が犠牲になることになった時それを恐れなかったのには、自分の死が悪魔によってもたらされた今の混沌とした世界に秩序をもたらすとわかっていたからだ。自分の死に大きな意味があるとわかった上での犠牲、そして肉親を目の前で奪うことを承知した上でその刃を振り下ろすという覚悟と責任、正にあの最終戦「冥王剣闘士」は現代の銃や爆弾を用いた大量殺人とは真逆の、殺す側も殺される側も覚悟と責任が課される戦いなのだ。それをしっかりと描いていただけに、最後の最後で全員生き返りましたというのは余りにも稚拙というか、脚本が自分で用意したお題を自分で台無しにしているように思えてならなかった。

 

悪魔との戦い

以上で本作のダメなポイントは一通り指摘したので、ここからは本作の良かった点について述べていこう。

既にご存じの通り、原作はグングニルが敵であり、ゲームのディーラーに相当する悪魔たちは中立的存在として現れる。作中の「悪魔の鍵」や「天の知識書」も、それをどのように使うかは所有者に委ねられており、悪魔が意図的に人間を操作したりそそのかすようなことはしていない。

 

とはいえ、「それじゃあ悪魔は自分たちに何のメリットもないのにゲームを考案して人間たちにやらせているの?」と疑問に思う。この辺り原作者のメーブ氏はどのような意図があって悪魔を作中に取り入れたのか、そこはあいにくだが私にもわからない。ただ原作を読む感じだと、原作における悪魔は特殊能力を駆使した心理戦・頭脳戦を成立させるために悪魔という超自然的要素が盛り込まれたという感じで、別に悪魔以外の妖精とか小人といった魔物であってもぶっちゃけ問題はない。なので原作のゲームそのものに対して批判するつもりは毛頭ないが、悪魔である必然性は薄いのである。

 

そんな小さなモヤモヤを内心抱きつつ本作の映画を観た訳だが、本作では悪魔がアクマゲームを人間にやらせ、鍵の奪い合いをさせている理由が明確に描かれているのが評価ポイントで、これが原作同様最後の最後まで「人間 VS 人間」の戦いだったら正直映画としてはショボい最終決戦になっていたと思う。それを「人間 VS 悪魔」という形にしたおかげで、ゲーム自体は問題だらけでも大枠となるストーリー自体は見応えのある作品になっていたと思う。

ドラマのガドは原作に比べてかなり挑発的であり、そこがドラマを見ていた時に少し引っかかっていたのだけど、これが人間世界の直接的な支配を目論んだ遠大な計画ならばあの態度も納得だし、悪魔たちが人間にゲームをやらせている動機としても腑に落ちる。ここは原作が敢えてスルーしていたポイントなので、悪魔にもちゃんとした思惑があってゲームを運営していたと明確に描いてくれたことは素直に評価したい。特にドラマ版のグングニルの計画はグズグズで具体性に乏しかったので、より一層スッキリと見ることが出来た。

 

悪魔の能力と認知

悪魔をラスボスとして描く以上、悪魔が圧倒的に優位でなければならないし、実際本作の最終戦でも悪魔ガドの手駒はこれまでのゲームの犠牲者を幽霊兵士として復活させたものだったから、手駒になる仲間を一人も犠牲にしたくない照朝サイドとは精神的にも能力的にも歴然とした差がある。そんな万能感の塊と化した悪魔ガドに照朝たちはどう打ち勝つのかが最終決戦の見所となる。

そのゲーム内容や悪魔を騙すのに用いたトリックは前述したように原作のゲームの焼き直しに過ぎないのだが、特筆すべきは織田照朝と黒田蘭の二人が持つ能力である。

 

ドラマと今回の映画を観た方はご存じの通り、照朝が所有する悪魔の能力「一分間の絶対固定」はガドが与えた能力である。そして蘭の読心術と巫女としての憑依体質は本作の序盤でガドが彼女に乗り移り、兄の光輝をそそのかした様子を見れば、(ガドが与えたものではないにせよ)ガドが自分のいいように利用出来る能力であると言えるだろう。

ガドにとっては照朝の能力は自分の掌中にあるも同然の能力であり、黒田兄妹は敵と味方に引き裂き「どちらかは必ず犠牲になる」状況を作り出すことで二人に苦悩を与えている。そうやって圧倒的万能さ・優位さにあぐらをかき驕り高ぶった悪魔を倒す決め手になったのが、ガドが照朝に与えた能力と蘭の読心術だったのだから、この下りは非常にカタルシスを得られる印象的なシーンだった。

 

まぁ「一分間の絶対固定」を拡大解釈して崩心のチート能力に対抗するという方法自体は正直強引だと思うし「そんなの何でもありになるじゃねーか!」と酷評する人だっているだろう。ただこの能力を使う前に照朝が亡き父と語った認知に関する話がその強引な展開を補強しているのは無視出来ない重要なポイントだ。

 

この認知の話は映画では具体的な実例を出していないからイマイチピンと来なかった人も多いと思う。なのでそれを裏付ける具体的な実例としてレントゲンとその歴史を紹介しよう。

www.kantei.go.jp

詳細はこちら(↑)の首相官邸のページで解説されているので、ここで改めて述べないが、要はレントゲン博士が発見したX線は当時はまだ未知の存在で、博士が寝食を惜しみ研究したことで科学的にその存在が認められ、医療の現場で活用されている。もし博士や他の研究者たちがこの存在を深く探ることがなければ、X線は正体不明の怪奇現象、つまり幽霊や悪魔と同じ領分のままだったのだ。彼らの研究によって放射能放射線は目に見えずとも存在するものとして社会に認知され、その目に見えないものを利用することで未然に病気を防ぎ治療することが出来るようになった。

 

これはレントゲンに限らずアインシュタイン博士の相対性理論といった目に見えないもの・手に取れないものにまつわる全ての事柄にも同じことが言える。

私たち人間はこの自然界において他の動物同様弱くて非力な存在である。自然界に存在する物質の中には放射能や有毒ガスのように目に見えない危険なものもあるし、そういった物質を認知出来ずに身体が蝕まれ亡くなった人もこの長い歴史の中では少なからずいるはずだ。私たちの五感はこの世界にあるもの全てを感知するようには作られていないのだからね。でもだからと言ってそこで感知出来ないものに怯えたままでは人類は進化しない訳であって、その目に見えないもの・手に取れないものを論理によって実体化させ、それを私たちの生活に取り込むことによって人類の文明は恐るべき飛躍を遂げたのだ。この飛躍がなければ、人間はいつまで経っても目に見えない病魔に好き放題内臓を蝕まれて死ぬのを待つしかなかった訳だし、時間・空間にしても24時間という単位や国境という線引きを生み出しそれを共通認識にしたことで今現在の秩序が生まれたのだから、人類が他の動物と圧倒的に違うのは目に見えないもの・手に取れないものを可視化・具現化させ、それを共通認識として生活に活用している点にあると言えるのだ。

 

ここまで言えば照朝の父・織田清司が言っていたことも何となくわかるのではないだろうか?結局の所、悪魔の能力によって操れる時間・空間、その他物理的な作用のもろもろは悪魔ではなく私たち人類が生み出した概念であって、その限界を突破出来るのも人類そのものであると、深読みしていけば何かそういう希望を感じさせるメッセージだったと思うんだよね。

 

これは何も科学や物理学といったアカデミックなものだけでなく、悪魔といったオカルト・宗教の分野にしても同じことが言える。

今も昔も人間の世界には悲しみ・苦しみがあって、多くの人々は何故この世界はこんな苦しみ・悲しみがあるのに生きなければならないのか、それを問い続けて来た。で、キリスト教の場合はそれを「人類は生まれながらに罪がある」と説明し、それを原罪という形で結論付けている。この考えは映画で黒田光輝が教団の信者に語っていたことと同じで、宗教はこの不条理で捉えどころのない世界を説明するために目に見えない原因を具現化させ、この世界の仕組みを独自の理論で説明してきた。勿論それは科学的・物理的には証明出来ないけれども、多くの人々の心の拠り所になっているのは疑いようのない事実であり、そんな数々の理論の中で神の敵である悪魔という概念も生まれたのだ。

 

昔に比べれば悪魔の存在を本気で恐れる人はいないし迷信と思っている人の方が多いだろうが、16世紀頃のヨーロッパでは悪魔の存在を本気で信じてそれを論理的に証明しようとした大人もいたのだ。にわかには信じがたい話だと思うけど、実際「人類を作り出した全知全能の神様が人間を堕落させる悪魔まで作るなんて矛盾してないか?」とか「いや悪魔は神が作ったものではなく人間が生み出した幻想だけど?」といった議論が神学者や宗教家の間で真剣に語られていた時代があったのだ。

それを「昔の人は迷信深くて愚かだった」って言うのは簡単だけど、それは物理学者や科学者と違うアプローチでこの世界の目に見えない不条理や混沌を説明しようと努力した結果であって、決して馬鹿には出来ないことなのだ。

 

あ、映画本編から話が脱線したので映画の話に戻ると、悪魔にしろこの地球の物理法則にしろ、それらは人間が発見して体得した概念であるということだ。だからと言ってそれが人間の万能性を証明している訳では当然ないし、未だにこの世界は終わりのない紛争・戦争で延々悩み苦しみ続けている。映画のようにそれを悪魔の仕業にしたら話は楽なのだけど、実際はそうもいかないからやはり難しい問題ではある。難しい問題ではあるけど、私に言わせれば「戦争は人間が生み出した罪なのだから、それを人間が解決出来なくてどーするのだ?」って話なのですよ。

今はまだその糸口がないけれども、今回の映画を観ているとまだそんな限界を決めるのは早いのではないか?私たちが認知を操りこの文明を発展させた以上、何か視点を変えれば突破口はあるのではないか?その可能性はゼロではないとこの映画は教えてくれたような気がする。

 

※これに関してはアニメ「アンデッドガール・マーダーファルス」の人狼編でも言及したので、そちらも参照してもらいたい。

ワケありの村で人狼探し【アンデッドガール・マーダーファルス #09】 - タリホーです。

 

さいごに

ということで今回のアクマゲームの映画の感想は以上の通りである。実を言うと今回の映画はまだまだツッコミ所があって、ゲーム開始前の宣誓の言葉(何とかかんとかエプシミアってやつね?)ギリシャ語なのに悪魔の復活に関わる遺跡が東南アジアにあるのはどう考えてもおかしいし、照朝が映画の冒頭で「ジラーニエ」っていう兵器の制御端末を回収して日本に持ち帰っていたけど、制御端末だけとはいえよくそれ税関に引っかからず国内に持ち込めたよな!?とか、悪魔が現世に現れて全世界がパニックに陥っているのに照朝たちが普通に海外に到着しているのもよく考えればおかしい(地元の鉄道は止まっていたのに航空会社は普通に営業してたの?ww)。

 

なので、ゲームの件も含めて本作を駄作と酷評する人がいるのもまぁ仕方はないかなと思うし、長所よりも短所の方が圧倒的に多い作品ではある。とはいえ、今回の映画はドラマと違って頭脳戦だけをメインにした物語ではなく、人類の可能性というものにも光を当てた話だったから、そこで大幅に巻き返してくれたおかげで穏やかにこの映画を見終えることが出来た。ただ今回私が評価したポイントは映画本編の外側の知識・情報を組み合わせた結果見つけられたことであって、ただ映画を観ていたら得られるものではないので、客観的には駄作だと思う。

でも私の中では全然駄作ではなかったよ!確かに脚本は強引だったけど、終わりの見えない戦乱に対して非力にも希望を奪われた人々のレジスタンスの物語として(ある意味ベタで王道ではあるけれど)成立していたし、原作では単なる心理戦・頭脳戦のアクセント程度だった「悪魔の能力」をこのような形で発展させて描いたのは称賛に値する着眼点だと言っておこう。

 

一応映画を鑑賞した後に他の方のレビューもいくつか見たけど、やはりゲームが原作から改悪されているという不満が一番目立つし、アクションシーンやCG等の演出も海外作品に比べると見劣りするという意見も多かった。

まぁ間宮さんのファンとしては主演作が駄作扱いされるのは正直悔しいし、このブログを読んだ人の中には「推しの主演作を褒めるために無理やり良い所を探しているのでしょ?」って捻くれた見方をする人もいるだろう。でもこれだけは言わせてほしい。

 

私は少なくともこの映画からは原作を蹂躙するような悪意のようなものは感じなかった。強いて言うなら、この映画を撮影した佐藤東弥監督は理屈ではなく感覚で面白さを理解し表現する人だと思う。映画監督としてデビューした「カイジ」がヒットしたから心理戦・デスゲーム系の作品を手掛けてはいるが、正直デビュー作の「カイジ」がヒットしたのは、脚本やゲーム描写がよく出来ていたというよりも、藤原竜也さんら出演者の熱演による所が大きかったと個人的には思っている。そこをロクに分析しないで熱意の方向性を間違えたまま今回の実写化に挑んだことが、ドラマ・映画の失敗の一因だと思っている。これは監督だけでなくプロデューサーにも当てはまるので、テレビ業界の人々は、視聴者があなたたちが思っている以上に理屈っぽくドラマや映画を観ているということに、いい加減気づくべきだと思う。

 

で、私は制作側に問題はあったと思う一方で、視聴者側の方にも問題があると感じた場面は結構あったのよ。原作やドラマ本編を見て「駄作」って評価している人に関しては別に何も言うことはないけど、「セクシー田中さん」の一件の後から、何か原作者が叩いたら私たちも叩いて良いという風潮が生まれた気がして、個人的にこれはいちレビュワーとして静かに怒っていたことなんだよね。原作者のメーブ氏が毎回ドラマを見て Twitter でその内容にツッコミを入れていたのはもう既にご存じの通りだけど、あの頃からそれに便乗するように「セクシー田中さん」のことを持ち出して日テレや脚本家を叩く人が増え始めたし、YouTube でもそれをネタにした動画がいくつもアップロードされている。

でもさ、結局こういう人たちの中に本当に良い実写化作品が今後作られることを願って批判した人ってどれくらいいたのかな?って私は疑問に思っているのよ。

単に原作者の意見を日テレ叩きの免罪符にして正義漢ぶっているだけじゃないの?

動画の再生数を稼ぐために話題にしているだけじゃないの?

っていうか、ちゃんと原作を読んだりドラマを見た上で批判しているの?って言いたいのですよ。

 

そもそも「セクシー田中さん」の一件にしても、そりゃ日テレの制作陣が直接の原因なのは当然だし批判されて然るべきなのは間違いないけど、原作者の物言いをあげつらって煽りに煽って炎上させたのは私たちネット民であって、その炎上に亡くなられた原作者の方は大きなプレッシャーと責任を感じたと思うんだよね。何かそれを棚上げにしてさ、「全ては日テレや脚本家が悪い!」って声高に主張している人を見ると、一体どこまでこの人たちは自分の発言に無責任なのだろうかと、怒りを通り越して呆れるし、やっていることが本作の悪魔と一緒で、単に争いの火に油を注いでいるだけの、何も建設的でない愚かな所業だと強く非難したいくらいだ。

 

あと日テレのドラマの改変グセは別に最近の話ではなく、私の記憶している限り「探偵学園Q」とか「喰いタン」の頃からもうバンバン改変しまくっていたし、特に「喰いタン」とか原作とドラマを比べたらほぼ別物って言って良いからね?

こういった昔のドラマの原作改変には一切触れずに、終始今現在のドラマの改変ばかりが取り沙汰されているのを見ると、本当に真剣に原作改変について議論する気があるのかなって首をかしげたくなる。

 

そういった一件も含めてさ、今回のアクマゲームの実写化で「こんなの主演の間宮や田中目当てで見てるだけだろ」っていうコメントを見るとね、ちょっとカチーンと来ましたよ?

そりゃ主演の間宮さん目当てで見始めた作品だよ?でもね、入り口はそうであっても一度作品に没入したらちゃんとドラマの内容だったり原作にも目を通した上で感想は述べているし、たとえそこまでやっていないファンの視聴者がいたとしてもそういった人たちは外野からの嘲笑を一身に受けて、それでも最後までこの作品を見届けた猛者なのだ!

いつかは自分の推しが非オタの人からも評価されるような名作に出演する。そうやって毎回毎回推しの出演作品を追っているファンがいること、たとえ作品自体が駄作であってもその中で一瞬でも推しが輝いている瞬間を見出そうとするファンがいることを、ゆめゆめ忘れないことだな…。

(私にしてみれば、そんな情熱の欠片もなく正義ぶって本作を叩いている人って何が楽しいのだろうかなって思いますよ。マジで)

 

さて、散々言いたいことは言ったが良くも悪くも盛り上がったことは確かだし、一杯不満や文句も言ったけどこれ以上に退屈で不快感を催す酷い作品はいくらでもあるので、個人的には今回の実写化は楽しめる駄作・愛せる駄作の範疇だったかなと思う。ひとまずは制作陣を労い、この文を終えることとしよう。

舞台「台風23号」観劇レビュー(「何も解決しない物語」から何を読み取ったか?)

どうも、タリホーです。森田剛さんと間宮祥太朗さんがW主演をつとめる舞台「台風23号」を大阪で観て来たので、記憶が新鮮なうちに感想を残しておこうと思います。

 

森ノ宮での観劇は舞台「オリエント急行殺人事件」の時以来、約5年ぶりなので改めて大阪に来るとこんなにビルがひしめく都会だったのかと新鮮な気分になりました。天気はあいにくの雨でしたが、主演が男前なお二方ということもあって女性の観客が9割という感じで賑わってましたね。座席は前から2番目のB席でしたが、役者の方々の演技を間近で見られたのは良かったものの、視線が見上げる状態での観劇になったので、個人的にはもう少し後ろの方だったら良かったかな~と、そういったことを思いながら観ることになりました。

 

tariho10281.hatenablog.com

2年前に間宮さんが出演していた舞台「ツダマンの世界」の時は本編の内容をうっすらと(途中で間宮さんが裸になるとかその程度ですが)知った状態での鑑賞でしたが、今回はほとんど前情報なしの鑑賞ということで、まずはネタバレなしで感想をレビューすることにして、それからネタバレありで劇中の細かい点に触れて感想を述べていこうと思います。

 

作品概要

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物語の舞台は静岡近辺の海辺の田舎町。10月になっても暑さは引かず人々が辟易とするなか、感染症の流行で中止になっていた花火大会が久しぶりに開催されようとしていた。しかし、テレビでは戦後最大級の台風がこの辺りを直撃すると報じており地元の市役所はその対応に追われていた。町ではペットの犬が毒殺される事件が相次いでおり、そんな町を覆う不穏な空気を知ってか知らずか、この地域の配達員は黙々と荷物を届けている。本作はそんな町で暮らし働く人々の姿を群像劇として描いたお話だ。

 

上に載せたゲネプロを見ればわかるように、今回の舞台は吉本新喜劇のセットを豪華にしたような感じの場所で物語が展開され、場面転換なしで日中と日没後の2パートに分けて、この町で起こった騒動を描いている。森田さん演じる配達員、間宮さん演じる介護ヘルパーの田辺を含めた9名の登場人物によって物語は展開されていき、徐々に登場人物が抱える問題や心の暗部が露わになっていくのが本作の舞台の特徴だ。

 

本作の脚本と演出を担当し、劇中で星野という役で登場する赤堀雅秋氏によると、今回の舞台は「市井に生きる人々と、その生活を描くドラマ」であり「普通に暮らす人々の間に起こる小さな軋轢、金や色恋、病気など誰もの身の上に降りかかる可能性のあることを、脚色を加えて劇的にすることなく、生々しく書き、積み重ねていくことだけに邁進した」と公演パンフレットに記されている。

実際本作では劇中で派手な事件が起こったり劇的に何かが変わるような展開はないため、一般的なテレビドラマや映画と違い物語にほとんど起伏がないのが今回の舞台の異質なポイントだ。この脚本に関しては後ほどネタバレありで詳しく感想を述べていくが、この起伏の無さは評価が分かれる所であり、人によっては「こんなことをわざわざ舞台でやる意味があるか?」とか「舞台劇なのに大したことが起こらず退屈だな」という感想を抱いた人も少なからずいたと思う。

 

物語の質としてはコミカルな部分もあるとはいえ基本は人間の普遍的な感情、それも比較的ネガティブなものを取り扱っている。ちょっとした会話の中にも他者への悪意が向けられていたり、笑い話として語られる下りもよく聞いていると何かしらの怒りが含まれていたりと、笑いどころはあるけれども、素直に「アハハ!」と笑えないような場面も結構あった。

そして本作では町の人たちが抱える問題や、やり場のない怒りが台風という災害と結び付けて描かれているのもポイントで、登場人物の一人はこの災害を「救い」としてどこかで期待している。果たして、この台風は町の人々にどのような影響をもたらしたのか。そこも本作を鑑賞する上で重要となるだろう。

 

(以下、舞台本編の内容についてネタバレあり)

 

何も解決しない物語

基本的に舞台に限らずフィクションというものは起承転結の流れで構成され、何だかんだあっても、最後は劇中の問題が解決したり、或いは大破局といった悲劇(バッドエンド)として幕を閉じるのがお決まりだ。

しかし、本作「台風23号」は劇中で明らかになった人々の問題・課題が一切解決することなく物語は幕を閉じる。誰も自分の心の暗部を克服して人として成長することもないし、物語の裏で起こっていたペットの毒殺事件も、それが殺人事件に発展する訳でもなければ犯人が捕まる訳でもない。最後、森田さん演じる配達員が荷物を渡して物語を終えたことから察するに、劇中の人々は再び「善良で職務に忠実な市民」を装って日常に戻ったはずだ。

 

本作の結末は当然ながら映画やテレビドラマでは成立しない。いや、映像作品として制作すること自体は可能だが、決して視聴者の心には届かない駄作となっていたであろう。これは舞台だからこそ成立する物語であり、役者の演技を生で見ないことには本作における登場人物の心の闇、行き場のない怒りはダイレクトに観客に届かない。

仮に届いたとしても、本作をエンターテイメントとして観に行った人からしたら、こんな生々しい人間心理を見せられて、それが何の解決もなく終わるというのはスッキリしないだろうし「お金を払ってまで見るようなテーマ・内容ではない」という否定的な意見が出たとしてもおかしくないと思っている。

 

しかし、それでも私は本作は秀逸な舞台劇だったと評価したい。私のような素人は舞台はエンタメ作品だから多少は何か問題が解決したり、或いは逆に惨劇という形で大波乱を起こして物語を閉じたくなってしまうが、脚本・演出を担当した赤堀氏は人間のリアルな心理描写、日常に生きる人々、今現在起こっている社会問題を描くことにこだわり、いたずらに「救い」となる展開を盛り込まなかった。これはなかなか勇気がいることだし、下手をすれば観客から不評の嵐だって飛びかねない退屈な作品になってしまう可能性だってあった。

本作に満足出来たのは脚本だけでなく、演者の9名がいずれも実力派の方々であり、この物語を大きく膨らますだけの演技を舞台上で発揮してくださったことも大いに貢献していると言って良いのではないだろうか?

 

「では、本作は演者の好演のおかげで見応えがある作品になっただけで、脚本自体はリアリティ重視の退屈な内容なのか?」と思った人もいるだろうが、実は脚本も細かく見ていくと感心するポイントがいくつかある。それをここからはより具体的に述べていきたい。

 

10円玉を巡る駆け引き

森田さん演じる配達員が市役所横の自販機で飲料水を買う下り、ここで間宮さん演じる田辺が小銭が足りない彼に10円を渡している。配達員はその10円を田辺に夜中に返すと約束をするが、この10円玉を巡る配達員と田辺とのやり取りは、一見するとしょぼいコメディパートのように見えて、その裏で思わぬ駆け引きがあったことに観劇後私は気づいた。

 

劇中の配達員は良くも悪くも愚直という言葉が似合う人物であり、舞台を何度も横切り、時には会話している二人の間を割り込むようにして宅配をするという仕事ぶりを観客に見せつける。舞台劇だから単にキャラクターを誇張しただけかもしれないが、個人的に彼は発達障害とか強迫性障害といった精神に何かしらの疾患を抱えている人物のように私には映った。変な所で融通がきかないし、たかが10円を何が何でも田辺に返そうとする様子を見ても、実際ああいう人がいたら煙たがられたり、避けられたりしそうだと思わず感じてしまう。

 

一方田辺は表面こそ献身的に佐藤B作さん演じる古川老人の介護を務め好青年として振る舞っているものの、ヘルパーという職業柄お年寄りから罵倒やイタズラの標的にされ、男前であることが災いして木村多江さん演じる古川の娘・智子から性的なアプローチをかけられる始末。しかも藤井隆さん演じる智子の旦那・秀樹はそれを黙認し、"妻のお世話"まで田辺に押し付けているのだから、本来の職務以上の重荷を背負わされていたことになる。そしてそのフラストレーションを後ろ暗い行為によって解消してしまうというのが彼の役どころだ。

 

この二人の情報を踏まえて例の10円玉のやり取りを見ていると、配達員にとっては単に自分の倫理的な価値観から田辺に10円を返しているだけの話なのだが、田辺には配達員にお金を渡すことが、ある種のマウント行為であると同時に一種の贖罪であったと考えられるのだ。

何故なら田辺にとって配達員は(職種は違えども)「客にコキ使われる職業の人間」という自分と同じ共通点があり、実際劇中で田辺は配達員に「お互い大変ですね」とその労をねぎらうような言葉を投げかけている。田辺がかける言葉、そして10円を渡すという行為の裏には「自分はこんな配達員よりもちょっとは気が利くしお金を貸せる人間なのですよ~」という感情があったと考えられる。まぁたかが10円渡した程度でそんな優越感に浸られても…と思う人がいるかもしれないが、田辺が裏でやっていたことを考えると、自分が善良な人間として振る舞い、困っている人に10円を渡すという徳を積むことで裏でやっていた悪行を償っているつもりだったのかもしれない。秀樹から「あの人の優しさは何か押しつけがましい所がある」と批判されていたことを見ても、自分が善良であると周囲に思われることで心の安寧を図っていた可能性はあると考えている。

 

そして、田辺が10円を返そうとする配達員の善意を必死に拒否していたのも、以上の彼の心理を考えれば納得がいく。贖罪のつもりで渡した10円が戻ってきたら贖罪にはならないし、配達員より優位な立場ではなくなるのだからね?

 

笑いの沸点が低いという絶望

病気の母親を案じて東京から田舎のスナックへと帰って来た伊原六花さん演じる娘の宏美も、本作で印象的な登場人物の一人だ。彼女自身はどこにでもいる20代の女性だけど、彼女が抱える人生に対する絶望は深く私の心に刺さったポイントだ。

宏美は東京へ行ったものの特に充実した生活は送っておらず、それに対して秋山菜津子さん演じる母親の雅美は結婚して身を固めるよう言う。そして娘のお見合い相手として駒木根隆介さん演じるこの町の警官がスナックを訪れる。劇中ではこの宏美と警官が他愛ない会話をするシーンがあり、警官はこの際「最近めちゃくちゃ面白かった出来事」を宏美に語って聞かせる。これがまぁ実にしょうもない話で、宏美はその話に呆れてしまうのだが、この何気ないワンシーンも深読みすると、警官が語った下らない笑い話から彼女は深い絶望を感じ取ったのではないかと思わされる。

 

警官が語った笑い話は一言でまとめると「服についていた金のボタンが実はカナブンだった」というそれだけの話で、そんな些細なことで驚きと笑いを得られるなんてあの警官は実に幸せな人だと、そう思った人もいただろう。しかし、裏を返せばこれは「そんなしょうもないレベルまで笑いの沸点を下げないと幸福は得られない」という風にも読み取れるシーンであり、劇中の宏美ももしかしたら彼の笑い話からそんなネガティブなものを感じたのではないかと思わずにはいられなかった。別にあの警官と結婚するつもりがなかったとしても、「ああ、ここまで幸せのハードルを下げないと私は幸福を得られないのだろうか…」という諦念を抱くには十分だったのかもしれない。

 

そして彼女が人生に対して絶望を覚えた原因の一つには母親の存在も大きいと思っている。母親は娘に「身を固めろ」と言って娘をある意味コントロールしようとしたけど、逆に娘の宏美が母にガンの手術のことを言った時はそれを拒絶し、「私はあなたを安心させるために生きている訳じゃない」と言い返している。自分は娘の人生をコントロールしようとしているのに、逆に自分の人生はコントロールされたくないと言うのだから実に身勝手だし、そんな母親が今真剣になっているのがよりにもよってパチンコという有様だから、彼女が母親に対して救いようがないという捨て鉢な感情を抱き、自分の人生にも絶望を覚えても無理はないと思うのだ。

もしここで母親が娘の言葉を受け入れガンの治療に専念するという選択肢をとっていたとしたら、娘は「母親を説得して病気を治す手助けをした」という自負が生まれ、親子関係も(一時的なもの、仮初めのものかもしれないが…)安定したものになっていたのではないだろうか?

 

愚直な配達員だけが知っている

配達員というのは、私たちの人生に深く関わることはないが、日常生活においてこれほど何度も顔を合わせる他人はそういない。特に宅配や郵便配達の人は担当する地域が決まっているため、普段の生活の中で顔なじみになったというケースも珍しくないだろう。そして、そういう他人は肉親よりも自分の本音・本性をさらけ出しやすい存在でもある。本作の舞台における配達員も、身勝手な客に振り回されたり、善良な市民を演じる者のマウントの対象として扱われたりと、彼らの本音や本性を知らず知らずのうちに吸収している役どころである。

 

そんな配達員と登場人物とのやり取りの中で、やはり終盤の古川老人との会話が一番感動的だった。というのも、この物語で古川老人が唯一自分の本音を話し、お互いの心を通わせたのがあの配達員だからだ。普段自分の身辺の世話をしている娘やヘルパーではなく、タバコのやり取りをしただけの配達員に彼は己の境遇と孤独、死のうと思っても死ねない辛さを打ち明けている。この場面はある種の真実を描いているというか、完全な他人にこそ本音を打ち明けられるということがわかったし、最初はまともに見えなかった配達員が実は一番の真人間だったというこの描き方も実に寓話的だ。

 

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本作における配達員と古川老人のやり取りを見て思い出したのが、「狼の眉毛」という昔話である。地方によってあらすじは違うものの、狼に喰われて死のうと思っていた老人が狼から眉毛をもらい、その眉毛を目にかざすと人の本性が見えるという点は共通している。この舞台の古川老人も肉体の衰弱によって死を願い、そこで人間の醜い一面を見た上で、真人間である配達員と出会えたというのは、やはり寓話的なものを感じずにはいられないポイントなのだ。

 

さいごに(人生に必要なのは気つけ薬

ということで舞台「台風23号」の感想は以上の通りだが、劇中(作中)で何も問題が解決しない物語というのは、別に本作だけではない。有名な所だとアガサ・クリスティ『春にして君を離れ』という長編小説が挙げられるし、松本清張「熱い空気」が原作となった市原悦子さん主演の家政婦は見た!」シリーズもそれに該当する。もう昔のドラマだから知らない人の方が多いだろうけど、「家政婦は見た!」って家や企業の秘密を暴く物語であって、その後その家族・企業がどうなるのかという部分を描かずに物語を終えているから、別に今回の舞台劇だけが異常なのではない。むしろ解決とか決着を描かないからこそ、人間のリアルな一面を物語に反映させることが出来るのかもしれない。

 

こうやって舞台の内容を深読みすると、森田さんと間宮さんをW主演という形にしたのも個人的には納得で、森田さんが演じた配達員は素晴らしいとはお世辞にも言えない人柄だけど、この舞台の中で一番希望を感じさせる光の仕事人とでも呼ぶべき存在だったと思っている。幼い息子のささやかな発見を我がことのように喜ぶあの場面だけでも「あ、この人の人生にはこの先明るい希望があるな」と思わせられたし、反対に間宮さん演じる田辺は表面は人の嫌がる介護職をして周囲から好人物として見られているけど、その内側にはどうしようもない怒りを抱えていて、そのフラストレーションを誤った方法で発散してしまった闇の仕事人という配達員とは真逆の存在だった。やはり間宮さんって腹に一物抱えた役どころがバチクソ似合う人なので、演技だとわかっていても最後にブチギレた所は内心ドキドキしながら見てました…ww。

ただ一応言っておくと田辺は別にサイコパスとか元々精神に欠陥・欠落があったというようなキャラクターではなく、ヘルパーという仕事によって他者の人生を押し付けられ、自分のプライベートな時間が徐々になくなっていき、その結果善良な人を演じることでしか自分の輪郭を保てない、ただ周りから良い人だと思われることが生き甲斐になっているという、そんな空虚さを感じる人物だったと私は分析した。

 

こうやって今回の舞台を深く読み取ることが出来たのは、実を言うと私自身の経験も少なからず関係しているので最後にそれについても少し語っておきたい。

もう数年前に亡くなったが私の母方の祖父も寝たきりになった際にヘルパーさんのお世話になったことがあるので、今回の介護に関する業界の苦労なんかも他人事ではないと思って見ていたし、私の母もヘルパーさんに自分の家の悪口を言い過ぎて辟易とさせてしまったと前に反省していた。それだけ介護の仕事は単に老人の世話をするだけではなく、下手をすればその家の暗部に関わってしまうようなしんどい仕事だと認識している。私もヘルパーさんを雇う前に祖父のおむつの処理とかトイレの付き添いといった手伝いを一時期していたことがあるから、それを日常業務としてやることが肉体的にも精神的にも辛いことは多少なりともわかっていると思っている。でも現実はそんな介護職の窮状が改善されるどころか、むしろ悪化している所だってあるのだから、それこそ今回の舞台で田辺が思ったように「何か大災害でも起きれば世話をしなくて良いのに」という破滅的・幼児退行的な衝動に駆られるのも、まぁ恐ろしいけど理解出来るんだよね。

 

で、ここで安直に「それでも人生には希望はあるよ!」って話になっていたら私の本作に対する評価はもっと低いものになっていたのだけど、そこを描かなかったのは賢明な判断だったし、そんなリアルな人間の生き様を描くことで何故今の日本は介護や労働といった問題を抱えていながら社会が崩壊せずギリギリの均衡を保っていられるのか、その理由の一端を私は見出せたような気がする。そのヒントが劇中で登場人物が何度もスパスパ吸っていたタバコである。

 

言うまでもなくタバコは身体にとって有害な物質だ。最近は禁煙や分煙といったマナーが広まったことで昔よりは喫煙者の数も減っている。それでも未だにタバコは働く人々のストレスを抑えるための嗜好品として幅をきかせているし、長期的に見たら身体に良いことなど何もないけど、だからと言ってタバコを完全に排除したら多くの人がストレスを抱えた状態で仕事をする羽目になる。たばこ税があることを見ても、たとえ有害であっても社会には必要な物品なのだ。

 

要は何が言いたいかというと、もう今の日本において希望だけでは社会を支えることは不可能になっているのではないか、タバコやジャンクフードといった一見すると身体に良くないものでも、それがある種の気つけ薬になるのであれば、その気つけ薬となるものをどれだけ持っているかがこの先の日本社会を生き抜く上で重要となるのではないかと私は言いたいのである。

先日の衆議院選挙の投票率を見てもわかるように、やはり私たちの中には政治・経済というものに諦めの感情を抱いている人がいるだろうし、今生きている世代が現状の問題を全て解決出来るとは正直思えない。そんな絶望に近い状況の中でどれだけ正気や理性を保っていられるか、この限られた生涯の中でそんな気つけ薬となるモノをどれだけ発見し確保出来るかが今を生きる日本人の課題なのではないだろうか?

 

一応この考えに至ったのには先ほどと同様私なりの経験が関係していて、それは5年程前に地方の中小企業で働いていた頃の話になる。当時私は会社の独身寮に住んでいて、徒歩で会社と独身寮を行き来するような単調な毎日だったのだけど、ある日上司にひどく怒られて凄く落ち込んでいた時に、「もう私の人生何もいいことがないな…」と思って、近くを流れていた川を見て「ここに落ちたら川底の石に頭をぶつけて楽に死ねるのだろうか」と、ついそんなことを考えるほど結構危うい精神状態だったんだよね。

そんな時に川の向こう岸の独身寮の入り口の前にトラックが一台停まっていて、それが宅配便のトラックだと気づいた時「あっ、そういや鬼太郎の漫画をネット注文してたんだ!」と思い出して、その品を代引きで受け取り部屋で開封してようやく「死にたい」という感情がおさまった。あの時の宅配便のトラックと注文した漫画のおかげで私は正気を取り戻したことを思うと、それが私にとっての気つけ薬だったのだな~と思ったし、今回の舞台における配達員を見ていると、彼は単に荷物を運ぶだけの仕事と思っているかもしれないが、そうやって真面目に仕事をしている姿がどこかで人の心の安定・支えになっているのかもしれないと、何かそんなことも考えてしまった。

 

そんな訳で、舞台「台風23号」は予想していた以上に私の心に刺さる作品でした。出演者をはじめとするこの舞台に関わった全ての人に感謝の意を表します。ありがとうございました!

ターボババア編の注目ポイントを解説!【ダンダダン #01~04】

ダンダダン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

どうも、タリホーです。今期放送中のアニメで海外でも話題になっている「ダンダダン」をレビューしようと思うのだが、まず先に本作のレビューが遅れた言い訳をしておきたい。

 

本当は初回から1話ずつ感想・解説をレビューしようと思っていたのだが、いざ原作を読み直したり本編を見ていると、今回のアニメは1話ずつのレビューがちょっと難しいと感じる理由がいくつも出て来た。

 

本作は幽霊や宇宙人といったオカルトをテーマにした作品であり、当然このジャンルは私の大好物かつ得意分野でもある。しかし私の専門はどちらかというと幽霊の方であって宇宙人に関してはほとんど門外漢なのだ。本作におけるセルポ星人やフラッドウッズ・モンスターといった宇宙人には、勿論元ネタとなる題材があるのだけど、その辺りの知識に疎いので、いざ初回をレビューしようとなった時にうまく感想がまとまらず、結局今の今までレビューを保留していたのである。別に単なる元ネタの宇宙人を紹介するだけの回もあって良いかな~とは思ったのだが、それは何と言えば良いだろうか、自分のブログの品質を落とすことになるし、ネットで調べたらわかることをわざわざこのブログでもう一度書くというのも気が引けた。

そして本作の特徴としてホラーだけでなくアクションやラブコメといった要素も含まれているが、バトルやラブコメ中心のエピソードとなると感想がはかどらないのだ。私は深読み・考察が好きな人間だし、そういうレビューを書く者としてはバトルが連続してくるとレビューすることも特になくなってくる。ラブコメ要素に関しても本編で描写されている以上のことを掘り下げて言及出来ないので、本作の場合は特に1話ずつレビューするのが(私にとって)困難なのだ。

 

以上の理由で「ダンダダン」は1話ずつレビューするよりも、ある程度「編」としてまとめてレビューを述べた方が良いかなと思ったので、ちょっと今回はイレギュラーな形で感想・解説をブログにアップしていく予定だ。やはり昨年「アンデッドガール・マーダーファルス」と「ダークギャザリング」でオカルトネタをみっちり解説して来たから、「ダンダダン」でそれ以下の味の薄い解説を公開するというのは、私のプライドが許さないのよ。

 

「内」の幽霊・「外」の宇宙人

©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会

本作は幽霊は信じるが宇宙人は信じないモモ(綾瀬桃)と宇宙人は信じるが幽霊は信じないオカルン(高倉健)の出会いから始まる。

オカルトを信じない人は幽霊も宇宙人もどちらも信じないが、この二人は片方は信じてもう片方は信じないというちょっと不思議な考え方をしている。その理由については初回で二人の生育環境が関係していると言及されているので改めて説明はしないが、幽霊と宇宙人、この二つはオカルトという大きな枠組みに入ってはいるものの、その質というかニュアンスは全く違っている。

基本的に幽霊は非物質的な存在で、写真やビデオなどに映ることはあってもほとんどは私たちの精神に影響を及ぼすものだ。一方宇宙人は物質的存在で、ミステリーサークルやUFOなど、現実世界に物理的に影響を及ぼしている。この両者の違いを大まかに説明するなら、幽霊は私たちの意識や精神世界に影響を及ぼし、宇宙人は私たちの肉体に物理的に影響を及ぼす、と言って良いのではないだろうか?

 

幽霊と宇宙人、この両者の違いは「内と外」という言葉でも表せられる。この「内と外」に関しては初回から4話にかけて一貫して描写されている重要なワードであり、モモの実家の神社ではお札による結界で外部からやってくる魔物(宇宙人も含む)を撃退する効果があったし、3話でモモの祖母・星子が説明した結界の使い方にしても護符釘を円の内側に打つか外側に打つかで効果が異なっている。どこを内と定め、どこを外とみなすかで術の効果も変わるというのは興味深いポイントだ。

 

この「内と外」という考えはモモとオカルンが幽霊・宇宙人を信じる動機にもつながっているのが本作の面白い所でもある。モモの場合は祖母の教えにより幼少期から「気」という目に見えないもの、非物質的なものを自分の力でコントロール出来るよう修練を積んでいた。それが外部の人間にいじめられる切っ掛けになったこともあったが、結果的に彼女が超能力を身に着ける上で必要な鍛錬になった訳であり、祖母に対する考えを見直すことにもつながったのだから、モモが幽霊を信じるのには霊媒師の血筋による部分もあるとはいえ、モモが精神的なもの、自分自身の内側を充実させることに重きを置いている人物だという読み取れるのだ。

その反面なのか、外部からの情報に対しては無頓着だな~と思っており、恋愛対象が高倉健だからと言って、その名前だけでトキメキを感じる始末だし、初回の冒頭で交際していた男が見た目が高倉健に似ていたという理由で付き合っていたことから見ても、外部の人間に対しては深く考えず、認識が甘くなってしまうのかな~と、そんなイメージを彼女に対して抱いたのである。

 

片や宇宙人を信じるオカルンは、長年のいじめから受ける苦しみによって「自分の友達はもう宇宙人しかいない」という考えを抱くようになったようで、親兄弟や身近な人ではなく、より外部的存在である宇宙人に救いを求めているというのが不思議だ。高校生の割には随分ファンタジックというか、現実的な救いの求め方でないと感じた。これに関してはオカルンの過去に関する情報が少ないので、あまり詳しく深掘りは出来ないのだが、自分の窮状について(自分自身は当然ながら)親も誰もその答えを持ち合わせていなかったからこそ、人類が未だ持っていない技術を持っている宇宙人に対して希望を見出したのかもしれない。しかし、宇宙人は彼が思っているような存在ではなく、彼の運命はむしろターボババアという怪異によって大きく動かされたというのが、皮肉というか何というか。

結局彼が求めていた救いは外部からの影響も当然あるにはあるのだけど、そのベースとなる正義感や自己犠牲をいとわない精神自体は元々彼が持っていたものであり、オカルンが求めていた答えは既に彼自身が持っているものの中にあった。ネタバレになるから詳しくは述べないけど、オカルンはこの物語を通して自分の内にあるものが大きく開花していくことになるのである。

 

©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会

以上をまとめると、本作「ダンダダン」でモモとオカルンは、怪異や宇宙人を通じてお互いこれまで向き合ってこなかった「内」と「外」に光を当てていき、それによって肉体・精神共に大きな成長を遂げる物語だと言えるのではないだろうか?

物語の始まりは王道のボーイミーツガール(或いはガールミーツボーイ?)的展開だけど、その奥には二人が今まで向き合っているようで向き合ってこなかったものが描かれているのかもしれない。モモは外向的なようで思考はどちらかと言うと内向的だったし、オカルンは内向的には見えるけど実はそれほど自分と向き合えてなかった(現実逃避していたと言った方が正確かな?)訳だから、二人の出会いはこれまで見ていなかった・見ようとしなかった面に向き合うことになる、大きな切っ掛けになったはずだ。

 

ババア系怪異の大国、日本

©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会

ターボババアはジェットババア、ジャンピングババアといった高速移動する老婆の怪異の一つとして数えられている。ターボババアは現代の怪異ではあるものの、高速で追いかけて来る老婆の怪異は古くからあって、有名な所だと「三枚のお札」や「牛方と山姥」という昔話に登場する山姥(ヤマンバや、安達ケ原の鬼婆などが当てはまるだろう。

 

こういった老婆の怪異は外国にも勿論いるにはいるが、やはりその数の圧倒的な多さは日本が一番だと私は思っている。では何故日本は海外よりもババア系の怪異が多いのか気にならないだろうか?

これにはいくつか理由が考えられるが、まず海外(特に西洋)では老婆の怪異は「魔女」がその地位を大きく占めているという理由だ。日本は魔女の概念自体がなかったため、ババサレやターボババア、四時ババアという名称で老婆の怪異が細分化されたが、海外だとそういった人間に危害を加える老婆の怪異は全て「魔女」の仕業と一括りにされてしまったため、日本に比べてババア系の怪異が少ないのだろう。特に日本は自然崇拝や多神教的な世界観の国なので、怪異が細分化されやすいのもこういった事情があるかもしれない。

 

あとババア系怪異を考える上で棄老伝説も忘れてはならないポイントだ。

ja.wikipedia.org

「姥捨て山」という昔話を聞いたことがあるだろう。年老いて働けなくなった老人を山に捨てるという昔の仕来りを題材にした物語だが、本当に山に老人を捨てていたかどうかはともかく、鬼婆や山姥が山に潜んでいる怪異であることや、ターボババアをはじめとする高速移動する老婆の怪異が高速道路や山道に出没していることを考えると、ババア系怪異の誕生背景には棄老伝説が少なからず影響していると考えても良いのではないだろうか?

 

あとババア系怪異に限らず女性の怪異の誕生背景には男尊女卑的な社会情勢も影響しており、女性が言いたいことが言えない時代であったがゆえに、怪異がその代弁者として生まれたという説もある。本作のターボババアも男性のイチモツを狙う行動の裏には性犯罪の犠牲になった女性が深く関わっており、その犠牲者を慰めつつも、遊び半分でやってくる人間に呪いをかけていたのだから、怪異の誕生には多かれ少なかれ社会の闇が絡んでいるのだ。高速移動する老婆の怪異は、その目撃者が車やバイクに乗っていることがほとんどで、その点から考察するとターボババアは1950年代から70年代にかけて起こった交通戦争にも関係しているような気もする。交通事故の犠牲になるのは歩行中の子供や老人だったことから見ても、この社会的な問題を無視してターボババアは語れないと思うのだ。

 

このように、一見するとターボババアはふざけたような名称ゆえに子供や若者が考えた怪異だと思う人もいるだろうが、その実誕生の要因は複合的なものであって、棄老伝説や交通戦争といった当時の社会の暗部が関係していることを是非とも覚えておいてもらいたい。

 

カニ精進落とし

©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会

ターボババアとカニと化した地縛霊との戦いに決着がついた後、星子はモモとオカルンにカニ鍋を振る舞っている。あの戦いの後でカニ鍋とは不謹慎ではないか?と思った人もいるだろうが、星子がカニ鍋を振る舞ったのは別に不謹慎な理由ではなく、一種の精進落としとしてやったことではないか?と私は考えた。

 

「精進落とし」は葬式の後に列席者に振る舞う料理のことで、昔は四十九日の忌明けに精進料理から通常の食事に戻す時に精進落としが振る舞われたようだが、現在では火葬から帰って来た後に振る舞われることが多い。

火葬と言えば、カニと化した地縛霊も星子が仕掛けた結界の内側に入ったことで燃えてそのまま成仏したのだから、そう考えるとあれは一種の火葬であり、その後で精進落としが振る舞われたのも納得である。

 

「でも、精進落としなら別にカニである必要はないでしょ?」と思った人もいるだろうから、その疑問についても私なりの解釈を述べさせてもらうと、今回のターボババア&地縛霊との戦いは向こうが吹っ掛けて来た戦いではなく、オカルンが彼女らの領域に半ば遊び半分で入ったことが切っ掛けだったでしょ?地縛霊やターボババアを倒したのも言ってみればモモやオカルンの都合であって、別に地縛霊やターボババアをあの場所から解放するとか、そういう崇高な理由があった訳でもないから、結局のところ霊を殺したという以上でも以下でもない行為だったのだ。

モモやオカルンの立場から考えれば、それは自分の身を守るための殺生(死んでいる相手だから厳密には殺生とは言わないけど…)であり正当防衛と言えるのかもしれないが、それはあくまでも生きた人間の都合・屁理屈であって、本来ならモモやオカルンが呪いで死ぬことになっても、それは霊の領域を侵した報いなのだから文句は言えない立場なのだ。

 

基本的に自然界において、相手の領域を侵しその命を奪うのは、その命を喰らい自らの糧とするためである。そのために人間は他の生物を殺さざるを得ないのだ。食べることを目的としない殺しは無益な殺生であり、宗教的にはタブーとされる見方・考え方である。だからこそ星子は、地縛霊やターボババアを倒したことを単なる殺生としたくはなかった。彼女たちを倒したこと、彼女たちの命をモモとオカルンには「糧」として受け止めてもらい、彼女たちの分まで生きることを意識してもらうためにも、カニを精進落としとして出したのではないかと、そう私は考えたのである。

まぁカニを振る舞った動機の中には、星子たち他の霊能力者があのトンネルの地縛霊を対処出来ず心霊スポットとして放置していたのを、モモとオカルンが命がけで対処しあの場所を浄化させたのだから、それに対する感謝の意味合いも当然あったと考えて良いだろう。

 

羆嵐(新潮文庫)

ちなみに、今回以上のような考えに思い至ったのには、以前読んだ羆嵐というドキュメンタリー小説が元となっている。この小説は三毛別ヒグマ事件という1915年に実際に起こった獣害事件を題材にした小説なのだが、確か猟師によって殺されたヒグマはその後で鍋料理として振る舞われ、ヒグマによって家族を食い殺された被害者遺族もその肉を食べたと記されていたはずだ。実際の事件ではどうだったのかそこは不明だけど、たとえ人間を食い殺した狂暴なヒグマであっても、私たち人間が動物の領域を侵しその土地を開拓している以上、その血肉を無駄にしてはいけないという、狩猟を生業とする者の思想と自然界の厳しさが克明に描かれていた。興味のある方は是非読んでもらいたい。

最近見た映画をまとめてレビュー(「ビートルジュース」「本陣殺人事件」「妖怪大戦争」)

タリホーです。私事ですが、先日28日に誕生日を迎えまして、ついにクレヨンしんちゃん」の野原みさえと同じ年齢に到達しました。

ついこの間成人したと思っていたら、もう30代間近。早い人だったらもう配偶者もいて子供もいるかもしれないのに、私の方は特に大きな進展もなく仕事をしながら趣味に興じるという、そんな感じの生活です。

 

それはさておき、誕生日は予定していたアクマゲームの映画でも見ようと思っていたのだが、天気があまり良くなかったのと、最近残業続きで外出する気分じゃなく家でゆっくりしたかったので、アクマゲームの鑑賞&レビューは11月に延期することとして、今回は最近テレビで放送されたり、ネットで配信された映画を3本ほど見たので、その作品についてレビューしたいと思う。

 

(以下、映画本編の内容について一部ネタバレあり)

 

ビートルジュース」(1988年)

ビートルジュース [DVD]

今年続編のビートルジュース ビートルジュースが公開されたことは知っていたが、その始まりとなる一作目は見たことが無かった。先日関西テレビの深夜枠でこの一作目が放送されていたので一応ティム・バートン作品が好きな者として録画し視聴した。

 

物語はニューイングランドの田舎町に住むメイトランド夫妻の不幸な事故死から始まる。橋から車ごと転落し死亡した夫妻は、自分が幽霊になったことに気づかず帰宅。家には死んで間もない死者のためのガイドブックが置かれていたり、家から出ようとすると異世界にとばされ巨大な縞模様のヘビの怪物に襲われそうになったりと、数々の異変に遭遇したことで夫妻はようやく幽霊になったことに気づく。

メイトランド夫妻亡き後、家は売られて新たにディーツ一家が引っ越して来たが、夫のチャールズは金もうけばかり考えており、妻のデリアは独りよがりな芸術作品を作る彫刻家、前妻の子であるリディアも喪服のように黒い服装ばかり着て陰気な性格という一癖も二癖もある一家の到来にメイトランド夫妻は困惑。しかも、あろうことかデリアはメイトランド夫妻の家を自分の趣味に合わせて大改築。これにメイトランド夫妻は憤慨し、彼らを脅かして家から追い出そうと画策する。しかし、霊感のないディーツ夫妻にはまるで効果がなく、メイトランド夫妻はガイドブックを頼りにあの世のケースワーカーであるジュノに相談すると、「ガイドブックをよく読んで脅かせ。あ、くれぐれもビートルジュースにだけは頼むなよ!」という旨の忠告を受ける。ビートルジュースは生きた人間を驚かせる(自称)バイオ・エクソシストであるが、同時にトラブルメーカーとしても有名だったのである。

 

ということで、第一作目の「ビートルジュース」は幽霊になったメイトランド夫妻の奮闘を描いた物語で、てっきりタイトルからビートルジュースが主人公だとばかり思っていたが、むしろビートルジュースは物語をひっかき回す道化役、或いはヴィラン役と言った方が良いだろう。

これまでティム・バートン監督作品はそれなりに見て来たつもりだったが、本作を見ると「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」や「チャーリーとチョコレート工場」がいかにマトモな作品だったのか、こんなムチャクチャな作品をよくもまぁ作ったものだなとある意味驚かされたわ。特にビートルジュースの日本語吹き替えを担当したのが、芸人の西川のりおさんということもあってか、劇中のビートルジュースの怒涛のしゃべくりには圧倒されたし、途中何を言っているのかわからないくらいのべつ幕なしに喋り倒すので、メイトランド夫妻の存在を喰う濃いキャラであったことは間違いない。

 

で、ティム・バートン監督ならではの独特なあの世の世界観やアクの強いビートルジュースなど、確かに映画として見所は沢山あるし、バナナ・ボートを踊るシーンは名場面だったから続編が生まれるだけのことはある作品だけど、一方で脚本に関してはかなり強引な筋運びというのが正直な感想で、例えば物語序盤のメイトランド夫妻が異世界の砂漠地帯にとばされるシーン。結局何故家から出ようとするとあの砂漠の異世界にとばされるのか劇中で一切説明がないし、最終的にハッピーエンドで着地したとはいえ、メイトランド夫妻とディーツ一家の和解がなし崩し的な感じで決着するので、論理的に見るとかなり消化不良を起こす作品だ。ビートルジュースが二つの家族の共通の敵になったから、というのはわかるんだけど、それで今までのことがチャラになってめでたしめでたしというのは流石に強引過ぎるような気がしたもの。

 

そういう訳で本作は長所と短所がハッキリしている分、好き嫌いが分かれるパクチーみたいな映画だったと私は思っている。しかし、少なくとも同じ監督の「ダーク・シャドウ」よりかは面白かった。「ダーク・シャドウ」は海外の連続ドラマが原作だったせいか、2時間程度の映画としてまとめると話は凡庸な展開で特別意外性はないし、カーペンターズ等の1970年代の楽曲が印象に残る作品ではあったが特別光るような目立った長所がなく、コメディ要素も薄味だった。その点「ビートルジュース」は良くも悪くもビートルジュースが暴れてくれるおかげで物語の展開が読みづらく、どのように結末が着地するのか予想出来なかった。そこは褒めても良いのではないだろうか?

 

「本陣殺人事件」(1975年)

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中尾彬さん演じるジーンズ姿の金田一耕助でお馴染みの映画版「本陣殺人事件」は先日のBS松竹東急で放送されていたのを録画し視聴した。「本陣殺人事件」はテレビドラマだと1977年の横溝正史シリーズ、1983年の2時間ドラマ版(どちらも古谷一行さん主演)、1992年の2時間ドラマ版(片岡鶴太郎さん主演)を視聴しており、片岡版については以前当ブログでレビュー済みなので詳しくは該当記事(↓)を参照してもらいたい。

tariho10281.hatenablog.com

 

「本陣殺人事件」は1947年に「三本指の男」というタイトルで初めて映画化されたが、事件だけでなく探偵の金田一もかなり原作の設定から大きく変えているらしい。あいにく1947年の映画は未見なので詳しいことは言えないけど、本作で中尾さんが演じた金田一は見た目こそジーンズ姿で洋装ではあるが、性格等の基本的な部分は原作の金田一とさほど変わっていない。金田一を洋装にしたのは恐らく劇中の事件が映画公開と同じ1970年代に起こった事件として改変したから、という程度の理由だろう。

 

ストーリーは今更書くまでもないので省略させてもらうが、ドラマ版よりも原作準拠な内容で少し驚いた。1970年代の事件なので連絡手段が電報から電話になっていたり、飯屋が駄菓子屋になっていたり、厳密には原作と違う部分もあるけど、話の流れや犯人の動機は原作にかなり忠実に作られている。

ドラマでは原作の犯行動機が常人にはやや理解しがたいということもあってか、犯行動機を補強する追加要素があるのに、本作ではその犯行動機をいじることなく真正面から描いている。そんな犯人を含む柳家の人々の病的な部分をこの映画では存分に描いているのがこの作品の評価ポイントである。鈴子は原作でも病を抱えた女性として描かれているから映画でも病的な人物として描くのは当然だけど、いとこの良介もよく見るとチック症なのか顔の表情を何度もひきつらせるようにしかめていたし、三郎も家族との関係に精神的な歪みを感じさせるキャラだった。この辺りはネタバレになるので詳しくは述べないが、三郎がとある人物と嬉々として握手していたシーンは正直ドン引きしたな。「これから〇〇する人に何でそんな嬉しそうに握手出来るの…?」って思ったもの。

 

そういう訳で映画版「本陣」は間違いなく原作の映像化としてはクオリティの高い一作なのだが、あえて一つケチをつけさせてもらうと、エンタメ映画として見るとかなり退屈な仕上がりになっていたと感じた。全体的に静寂な空気を漂わせる演出を取り入れているため、物語として盛り上がりや派手な展開もなく、探偵である金田一の大活躍が見られる訳でもないので、私みたいに横溝正史の原作や映像作品を色々と見て来たミステリオタクならば「フムフム、これはなかなか良く出来た作品だね」って評価出来るけど、ミステリにさほど興味のない観客には長く退屈に感じるかもしれない。特に劇場の暗い空間で見ていたら眠くなる人がいてもおかしくはない。本作と市川崑監督の「犬神家の一族」を比べれば、いかに「犬神家」がエンタメ作品として観客を楽しませつつミステリ映画としても質の高い脚本・演出であったか一目瞭然だ。

なので、個人的にはミステリ初心者には本作の映画版「本陣」はおススメ出来ない。おススメするならば、古谷一行さん主演の2時間ドラマ版が丁度良いだろう。(横溝正史シリーズ版は2時間以上あるし、片岡版は原作と別物レベルで改変しまくっているから…)

 

妖怪大戦争」(1968年)

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1968年版の大映製作による「妖怪大戦争」は YouTube の角川シネマコレクションチャンネルで配信されていたのを見た。配信は11月8日の20時までなので、気になる方は出来るだけ早く見ることをおススメする。

 

tariho10281.hatenablog.com

2005年の「妖怪大戦争」は今年の春にレビューしたので、今回はその元祖となる1968年版を見ることが出来たのは嬉しい限りだが、先に言っておくと私は1968年版「妖怪大戦争」はあまり面白いと思わなかった。その理由はこれから詳しく述べるが、まずは簡単にあらすじを説明しておく。

 

舞台は1751年の江戸時代、古代バビロニアの遺跡に封印されていた吸血妖怪ダイモンが、墓荒らしの仕業によって4000年の眠りから目覚めてしまう。ダイモンは海を渡り日本の伊豆へ降り立ち、たまたま浜辺を見回っていた代官の磯部兵庫の血を吸って殺してしまう。ダイモンは磯部に乗り移って彼に成りすまし、屋敷の神棚や仏壇を破壊してまわる。突然の主の豹変に家来や代官の娘・千絵は驚き戸惑うが、ダイモンは更に家来の一人を殺して憑依することで磯部家を掌握。更に大勢の人間の血を吸うために、使用人の女性を呼びつけ殺したり、家来をつかわせて領地の娘や子供を呼びよせ、逆らう者は処刑するといった暴虐の限りを尽くし始める。

主人の悪行を妖怪変化の仕業だと見抜いた家来の一人、川野左平次は叔父で修験者の大日坊に相談し、彼の助言のもと左平次は怨敵退散の仕込みを行い、大日坊も護摩焚きによる祈祷でダイモンを退治しようとするが、ダイモンの魔力にはかなわず大日坊は殺害されてしまう。

一方、左平次だけではなく屋敷の庭池に住んでいた河童も、主の異変とその正体に気づき、自分の縄張りに入って来たダイモンに勝負を持ちかけるがあっけなく返り討ちに遭い、河童は仲間妖怪の助けを得るべく近所の廃寺へと向かう…。

 

以上が映画の前半部分のあらすじで、後半は油すましやろくろ首といった仲間妖怪たちも加わってダイモンとの激しい戦いが描かれるのだが、「妖怪大戦争」というタイトルの割には戦争と呼べるようなシーンは正味終盤の10分程度しかなく、本作が約80分の作品だと考えれば、ハッキリ言って映画のタイトルと内容が釣り合っているとは到底思えない。まだ終盤の大激闘以外にも妖怪たちがダイモンと互角に渡り合っていたなら見応えがあったのだけど、基本的に日本妖怪はダイモンにやられっぱなしで不甲斐ないし、(経緯は省くが)途中で壺に封印されて脱出出来なくなるという間抜けなことになっているから、日本妖怪も確かに頑張っていたけど、正直人間である左平次の方が健闘してたんじゃね?って思ったくらい。

そう思ったのは物語の構成も大きく関係している。前半40分は人間を中心とした物語で、後半40分のうち30分は日本妖怪も頑張ってはいたけど、大きくダイモンに致命傷を与えたのは左平次だし、壺に封印された妖怪たちを助けたのは千絵だから、やはり全体的に見ると日本妖怪が大活躍した映画とは言えない構成なのだ。

 

それに80分という限られた尺しかないのに、何か展開がモッサリしているのも気に入らないんだよね。これは「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を見ているだけに余計思ってしまう不満ポイントなのだが、ゲ謎が約105分であれだけ濃い物語を描いていたのを見ると、本作は「ここはそんなに尺を取らなくても良いでしょ!」って感じたシーンがいくつもある。序盤だと磯部兵庫がダイモンに襲われ刀を振り回すシーンはもう少し短くしても良かったんじゃないかな~と思うし、中盤で日本妖怪たちが屋敷に潜入するシーンだったかな、あの門番二人のやり取りも本作のコメディパートとはいえ正直あってもなくても問題ないシーンだったから、凄く間延びした展開で「次はどうなるのかな?」というワクワク感に乏しい。

このモッサリとした展開は特撮の技術が発展途上というのも影響しているだろう。公開当時はなかなかの映像技術だったのかもしれないが、今のキレッキレのアクションシーンを見ている人間としては、本作のアクション要素はキレが悪いし見応えもあまりないんだよね。ろくろ首がダイモンの身体に巻き付くシーンも身体にまとわりついてるだけでギュウギュウに締め上げているように見えなかったから、そういうヌルいアクションも本作の評価を下げたポイントだ。(ダイモンの持っていた杖?がジャキーンと大きくなる、あの演出はカッコ良くて好きだけどね?)

 

そして何より一番の不満ポイントは妖怪の見せ方がなってない!これに尽きる。

一番の見せ場である終盤のダイモンとの戦争シーンは大勢の日本妖怪が登場するのだけど、背景が黒一色でそこに半透明で大勢の妖怪たちを映すものだから、妖怪の一体一体が際立っておらず「ただ妖怪がうじゃうじゃいる画面」にしかなっていないのが凄く勿体ない。元々日本の妖怪は色味が地味だから黒い背景とか暗い画面だとイマイチパッとしないからこそ、見せ方や照明の当て方には工夫が必要なのに、個人的に本作からはそういった工夫が感じられなかった。

同年の春に公開された「妖怪百物語」はその点妖怪の一体一体がちゃんと印象に残る作品だったし、妖怪の怖さと面白さを味わえる秀作だったから、尚更本作の妖怪の見せ方には不満が残るのである。最後の妖怪たちが行列を成して帰って行くシーンも「妖怪百物語」の方がそれぞれの妖怪の姿がわかるカットになっていたし、ぬらりひょんが行列の最後を扇子をあおぎながらゆったりと歩くのが印象的だった。

 

ウィキペディアの情報によると、本作は「妖怪百物語」が予想外の好評だったことから大映京都撮影所によって制作され、同年の冬に公開されたらしい。10ヶ月にも満たない期間で制作されたことを考慮すれば、よく出来た作品と言えるのかもしれないが、それでも前作を超える秀作・傑作だったかと言われると正直そうは思わない。一応 YouTube のコメント欄も見てみたがほとんど好評の意見が多かったから、単純に映画作品に対する私の目が肥えてしまったのか、めんどくさい妖怪オタクになってしまっただけなのか、はたまた好評の意見は視聴者の思い出補正によるものなのか。いずれにせよ気になる方は是非この機会に見てみてはいかがだろうか?(おススメはしないけど)