映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も公開から約1年ほど経ち、先日遂に豪華版ブルーレイが手元に届いた。
豪華版の特典については上の画像を見ただけでもわかってもらえると思うが、もはや特典がメインで円盤がオマケで付いてきたというレベルの充実ぶりで、私のフォロワーさんが豪華版の箱の大きさを小学生の時に使っていた「お道具箱」と称していたのには笑った。(余りにも的確な例えだったので)
量もさることながら質も申し分のない内容となっており、登場人物の初期デザインや設定について語った制作スタッフのインタビュー記事、絵コンテ、アフレコ台本など、ファン垂涎の情報が満載。正に資料集と呼ぶに相応しい詰め合わせセットだ。
これまで当ブログで本作の感想・解説および考察をしてきた中で、この豪華版で自分の考えが制作陣の意図と一致していたポイントもあったり、あるいは全然考えていなかった点について新たに「なるほど!」と思わされることもあって、より一層作品の解像度が高まった気がする。
そこで、一部ではあるが今回の豪華版で得た発見・知見を述べておきたい。
(以下、豪華版の収録内容について一部ネタバレあり)
家族としての機能がない龍賀一族
龍賀一族に関してはこれまで色々と述べてきたが、今回の豪華版の内容に目を通して改めて分析すると龍賀一族からは家族らしさというものがほとんど感じられない。言葉で表現するのは難しいが「家族」というより「共同体」というような感じで、表面的には家族的な関係性だけども、本質的な所を見ると家族としての力関係でつながっている一族ではないと私には見えてしまうのだ。
そう思ったのはアフレコ台本に書かれていた地下工場での一幕。あの場面で乙米は「知っているのですよ。お前がお父様のお気に入りだったこと」と沙代に向かって言っているが、台本のト書きによると時貞の晩年期に沙代が彼から寵愛を受けていたことを乙米は妬ましく思っていたようで、その嫉妬心からあのような発言が出たそうである。
母親が自分の娘に嫉妬する。一般的な家庭環境ではまず発露しない感情だ。この時点で乙米と沙代は親子という上下の関係ではなく「龍賀の女」という並立的な関係ではないかという推察が成り立つのだ。
©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会
もし多少なりとも親子の情や意識があるなら、自分の娘が少しでも自由に生きられるよう何とか方策を考えたり、仮にそれが出来なくても「こんな運命を背負わせてすまない・申し訳ない」といった感情があるはずだけど、本編の様子を見た感じでは全くそのような態度はない。保護や庇護という「守りたい」という感情さえもうかがえない。
これは乙米に限らず次女の丙江や三女の庚子にも同じことが言える。どちらも沙代が自由になろうとする行為を阻止したり足を引っ張るようなことをしているのを見ると、彼女たちは叔母と姪という関係ではなく「女」という並立的関係だと言わざるを得ないのだ。
勿論この原因は時貞との近親相姦が大きく関係していると考えられる。本来なら父・娘・孫というハッキリとした上下関係が形成される所をこの龍賀一族の場合は女性が全員当主である時貞と肉体関係を結んでいるので、そこで家族としての関係が壊れて女性は皆「龍賀の女」という並立の関係になっているのがこの一族のおぞましいポイントだ。並立の関係だから依存の方向が当主の時貞に向かう訳であり、女性たちはいかに一族内で優位な立場でいられるかを気にしてマウントを取ったり潰し合いをする。
まぁ丙江は一度駆け落ちしたことがあるから、そこまで家族に対しては依存心はないのかもしれないが、駆け落ちが失敗した上に一族内でも沙代のように霊力がある訳でもなく乙米のように取り仕切りが出来る能力もない。家に依存したくないが、かと言ってどこにも行けない宙ぶらりん状態の日々を物欲と性欲でうっぷんを晴らしているという感じの女性だったから、沙代の邪魔をしたのも心理的背景として凄く納得がいくのだ。
ただここで言っておかなければならないのは、私たち視聴者は外側の人間なので時貞が邪悪であり離れるべき存在だと言えるけど、実際あの村で生まれ育ったらそういう発想に至るのは難しいと思う。
時貞は表舞台では政財界を牛耳る権力者であり、村内では窖の狂骨を制御する力を持った能力者である。この余りにも脅威的な力を持った怪物的存在と同居していると、恐怖が崇拝へと変わる。つまり、「この強大な父親(時貞)が私たちを外敵から守っているのだ」という風に思考までも支配されてしまうのだ。特に乙米は長女という立場もあって父親の圧倒的な能力を目にしているし、父親からの凌辱にしても「いやこれは私たちを守っている・愛しているのだ」という風にマインドコントロールされていたと考えられる。こういった心理状態は心理学的にはユングが提唱したエレクトラコンプレックス※1に近いのではないかと思っていて、父親を独占したいがゆえに同性に対して敵意や反抗心を抱くというのは龍賀の女性(特に乙米)に見られる心理的傾向だ。
©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会
そういう事情もあってか乙米と村長の長田との関係は至ってプラトニックなものであり、長田は乙米に対して恋愛感情はあったものの、乙米の方は長田に対しては恋愛というよりも主従関係として彼に深い信愛の情を抱いていた、というのが正確ではないだろうか?この辺りのことはドラマCDの「哭倉村夜話」における二人の会話からも推察することが出来るので、豪華版を購入された方は是非聴いてもらいたい。
©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会
では龍賀の男性はどうなのかという話になるが、克典は入り婿なので龍賀一族の暗部に深く関わっていないからともかく、時麿や孝三は父親によって精神が破壊されている始末だし、龍賀と姻戚関係である長田も時貞の支配下に置かれている。当然自由な婚姻も許されておらず、極端な表現をするならば龍賀の男性は時貞によって去勢されていたに等しい状態だったと、そう言えるのではないだろうか?
特に長田に関しては数少ない霊力を持った人物の一人であり、彼の子供に強い霊力が遺伝した場合は狂骨を使役する能力と実権が龍賀家から長田家へと移る可能性もあったはずだ。そうなれば村内における力関係も一転して長田家が優勢になるのだから、恐らく時貞もそこを見越して深い主従関係にある乙米ではなく三女の庚子を嫁入りさせたのだろう。また、長田と庚子の間で強い霊力を持った子が生まれてしまうリスクを時貞が考慮に入れていないはずはないので、庚子が嫁入りした時点で既に彼女は時弥を身ごもっていたと考えるべきではないだろうか?
©映画「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」製作委員会
以上をまとめると、龍賀一族は表面的には家族という体裁を整えてはいるものの、保護や庇護といった一般的な家庭における親子間の情愛が生じない家であり、「男」「女」という以上の役割がない家だと思った。
先ほど「共同体」と称したがこれはまだマイルドな表現で、もっとえげつない例えをするなら時貞の視点から見た龍賀一族は狂骨を管理する子孫を生むための「繁殖場」と言った方が正確だろう。時貞以外の男性・女性はオス・メスという畜生同然の扱いを受けていたというのが私の分析結果である。
※1:エレクトラコンプレックス - Wikipedia
因果応報としての惨殺
tariho10281.hatenablog.com
以前の感想・解説で裏鬼道の惨殺シーンがインディ・ジョーンズの映画における悪役の殺され方に近いものがあると述べたけど、古賀豪監督のインタビューを読んだり、ブルーレイに収録されていたオーディオコメンタリーを聴いていると、今回の映画における裏鬼道の惨殺シーンは(インディ・ジョーンズを含む)従来の洋画のゴア描写とは違い、単なるエンタメとしての惨殺ではなく因果応報譚として彼らの悪行に見合った死を描いたのではないかと考え直した。
以前言及したインディ・ジョーンズでエグい死に方をした悪役たちは、別に飛行機のプロペラでズタズタになったり砕石機に巻き込まれて死んで当然の悪行をしたかと言われると流石に劇中でそこまで悪いことはしていなかったと思うし、海外の映画監督にとってそういったゴア描写を映画に盛り込むのは、やはり映画(映画館)はテレビドラマと違って普段見ることが出来ないものが見られる映像作品(場所)であるという認識があるからではないかと思っている。そこが良くも悪くも映画の売りだと思うし、実際殺人鬼によるスプラッターを描いた作品は圧倒的に洋画が多いことを見ても、映画や映画館は唯一そういったグロテスクなもの、露悪的な非日常をエンタメとして楽しむことが許された場だと言えるのではないだろうか?
(勿論これは作る側と観る側の双方の理解があっての話になるが…)
本作もそういったグロさ・エグさのある作品なので、否定的な意見を述べている人も少なからずいる。ただ、私は洋画と違って単にエンタメ目的でエグい作風にしたとは考えていないし、よくよく考えると裏鬼道の中で斧男だけが巨大な換気扇に引き込まれて死ぬという最期を遂げたのも因果応報譚としての意味があったと考えているのだ。
詳しくは解説されていないが、序盤のゲゲ郎が処刑されようとしている場面や、屍人が脱走した下りを見る感じ、あの斧男は村内における死刑執行人を担当していたと考えられるし、その後の死体の後始末も当然請け負っていたと考えたら表沙汰に出来ない死体だから解体して処理していたと推測される。
そう考えれば他の裏鬼道が噛み殺されたのに対して彼だけ換気扇でズタズタにされたのも相応の理由があると言えるだろう。今まで散々人体をバラバラにするようなことをした人間が、五体満足で死ねる訳がないという意味で、龍賀一族の「左目の報い」と同様あの斧男もその行いに相応しい報いを受けたのだ。
"血桜"を見る会
古賀監督のインタビュー以外にも個人的に印象に残ったのは美術スタッフのインタビュー内容だ。主に背景美術についてどのような設定があったのか美術監督の市岡茉衣氏と美術設定の天田俊貴氏が言及しているのだが、その中でも窖と血桜、そこに建てられた御座所に関する話の中で窖の壁面に沿って建てられた回廊についての話が興味深かった。
映画本編ではゲゲ郎と狂骨の戦闘シーンでこの回廊が映るものの、本編では戦闘を派手に見せるための建物という以上の意味しかなく、私も特にこの回廊については何も考えていなかった。しかし市岡氏や天田氏は「何故時貞がこの場所を作ったのか」ということも考えてあの場所を設定したと述べており、自分が一番偉いと思いあがった時貞の傲慢さを表現したそうである。特に天田氏は回廊について、時貞が血桜を愛でるためにこの回廊を建てさせたと考えていたようで、この回廊を巡って血桜を愛でることを想定してあの設計にしたそうである。天田氏は更に「もしかしたら偉い人同士で"血桜を愛でる会"をやっていたのかも」と想像を働かせていたとも語っている。
ja.wikipedia.org
ここまで読めば大半の人は2019年まで毎年総理大臣主催で開催されていた「桜を見る会」が脳裏をよぎったのではないだろうか。私もこのインタビューを読んだ時は「え、そんなブラックな政治ネタも反映されてたのかよ」とギョッとさせられたものだが、確かに「桜を見る会」は第二次安倍内閣の時に問題視され、内閣の公的行事にもかかわらず反社会的勢力が来場していた可能性が指摘されたり、当初の予算の三倍にまでふくらんだ費用、招待客名簿の不透明さなど、様々な問題が明らかとなったことで知られている。※2
言うまでもなくこの開催費用は私たちの税金が使われている訳であり、ゲ謎でも描かれた国や権力者による搾取の構図がうかがえる。比較的よその国と比べて裕福とは言っても、花を愛でる暇がない職業の人だって大勢いるというのに、そういった私たち国民の血税を搾れるだけ搾り取って一部の上級国民が本来の趣旨から外れたパーティーを開いていた、というのだから全くもって許しがたい話である。
ちなみに「桜を見る会」は1952年に当時の総理大臣であった吉田茂が主催したのが始まりとされているが、それ以前は皇室主催の「観桜会」があったようで、国の要人たちが集まって桜を愛でる宴会は時貞が存命の頃から既に行われていたのだ。だから窖で"血桜を愛でる会"が行われたと考えても別に不自然ではない。※3時貞が御座所や回廊を作らせたのは、自分が天皇に匹敵する存在※4であるという傲慢さの表れであり、その実態は美女をはべらせ美酒に美食といった世俗の快楽をむさぼりたいだけのケダモノだったのだから、救いようがない。
この時貞の異常なまでの自己愛の強さ、娘や孫を道具のように扱う冷血さは完全にサイコパスと呼ばれてもおかしくない性格で、特に時貞がサイコパスだと感じるのは「M」の製造や狂骨に対して余りにも計画が短絡的で楽観的だという点だ。
今は窖の狂骨を制御出来ていたとしても、怨念はどんどん蓄積されて強力になっていくのだから、普通は遅かれ早かれ制御不能になる時が来ると考えるはずだし、「M」にしても原料となる幽霊族が絶滅寸前でいずれは製造が不可能になるのだから、明らかに時貞が考案した「M」や窖の結界のシステムは長期的に見ると必ず大きな破綻が起こるずさんな計画だし、大抵の人は思いついたとしても後の世代に負の遺産を残して迷惑をかけるからやめておこう、となるのだ。
しかし、サイコパスに該当する人は恐怖や不安を感じにくく、普通の人ならためらうことを平気でやってのける。それは時貞も同じであり、ゲゲ郎の妻が身ごもっていたというそれだけのことで大喜びしているのも、私からすれば「幽霊族の子供が一人生まれただけでそんな長期的にMが生産出来るのか…?」と疑問を抱かずにはいられなかった。霊力の強い子を成すための近親相姦にしても、それを続ければ生まれる子供に精神的・肉体的な障害が必ず出て来るし、狂骨を制御するどころの話ではなくなる。
「M」の製造に関しては時貞よりも前の世代が幽霊族の血を用いた研究をしていた可能性があるのでこれは時貞だけの責任ではないが、近親相姦に関しては何代にもわたってやっていたら乙米や時麿にもはっきりとした障害が出ているはずだし、時弥にしても身体が弱い程度では済まなくなるので、「龍賀の女は当主に身を捧げる」というあの仕来りは時貞が始めたことだろう。※5
※2:桜を見る会問題 - Wikipedia
※3:ただ狂骨があれだけウジャウジャいる場所で身体に変調を来さない、耐性のある人間はかなり限られると思うので、もしそういう会があったとしてもごく少数の集会だったと考えられる。
※4:窖の場面で時貞は「今時の若造共はことごとく愚かで不甲斐ない!」と言っていたが、その「今時の若造共」の中には当時の昭和天皇も含まれていたのではないか、という意見がある。
@hakatanosatさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)
※5:2012年にオーストラリアの農場で12人の子供が保護されたが、そのうち11人が近親相姦によって生まれた子供であり、その家では数世代にわたって近親相姦が行われていた。その子供たちは聴覚や視覚など先天性の異常が見られ、全員に発達遅延・認知障害が見られたという。この実例から考えてみても、龍賀一族内の近親相姦は時貞の代で始まったと考えるべきではないだろうか?
豪で「近親相姦農場」見つかる、先天異常の子ら12人保護 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
コルト一家の近親相姦 - Wikipedia
以上、豪華版ブルーレイの特典に関する感想・考察を述べたので、ここからは先日の25日に行った心斎橋PARCOで開催中の追憶展のレポートに移る。
追憶展のレポートと時麿に関する考察
(会場入り口前にて撮影。心斎橋会場は来月の8日まで開催予定だ)
まず先にこれから追憶展に行こうと思っている方に注意事項を述べておくと、この展覧会は事前にイープラスで前売り券を購入する必要がある。当日会場で直接お金を支払って購入出来る当日券は、当日の入場枠に空きがある場合のみ購入可能なため、もし当日会場に行ったとしても、空きの入場枠がないと会場には入れないのだ。
そして前売り券は時間指定制なので、もし当日入場枠に空きがあったとしても、その空きがお昼の12時しかない場合はたとえ午前中に着いたとしてもその時間まで待つ必要がある。ここも注意してもらいたい。
それから、音声ガイドは専用の機械が会場で用意されているのではなく、自分のスマホからQRコードを読み取り、専用のサイトにアクセスして音源を聴くという形式になっているので、事前にQRコードが読み取れるかどうか自分のスマホを確認した方が良い。
(確認しておかないと500円損することになるはず)
音声ガイドはゲゲ郎メインと水木メインの2バージョンが選択できる。私は水木メインを選択したが、「禁域の島の妖怪」の展示エリアのみゲゲ郎メインの音声ガイドがあるみたいなので、ゲゲ郎の声を少しでも多く聴きたい!という方はゲゲ郎メインの音声ガイドを選んだ方が良いだろう。
(龍賀家の大広間を模した撮影スポット。座布団に座ることは禁止されている)
展示内容は主に映画の原画や絵コンテ、キャラクターのビジュアル設定、背景美術の設定が展示されており、所どころに龍賀家の大広間や長田家の座敷牢など映画本編でも見られた場所を再現した撮影スポットや、裏鬼道の面や灰皿・ウイスキーボトルといった劇中のアイテムの実物が展示されていた。
(ゲゲ郎と妻の思い出のクリームソーダ。音声ガイドのゲゲ郎もウキウキ気分だ)
キャラクターのビジュアル設定はメインキャラだけでなく女中や下男、弁護士といったモブキャラの設定まで展示されているし、背景美術に関しては帝国血液銀行の社長室や時麿の部屋など本編であまりハッキリと部屋の全容が見られなかった部分も知ることが出来るので是非ともチェックしてもらいたい。
個人的に注目したのは「禁域の島の妖怪」と「時麿の部屋」の二つ。禁域の島の妖怪は本編だと暗い上に登場シーンもかなり限られているのでよくわからなかった人もいるだろうが、ビジュアル設定を見ると水木先生の妖怪画を元に丁寧に描かれていることがよくわかったし、そんな妖怪たちをわずか数秒の間にあれだけ盛り込んだというのは何とも贅沢な使い方だなと思う。
ちなみに、豪華版ブルーレイに付いているアフレコ台本には禁域の島の妖怪を含む隠れ妖怪がどのカットに映っているのか詳しく書かれている。それを見ながら私も本編を確認したのだけど、未だに「野づち」がどこに映っているのか全然わからないし、追憶展では野づちのビジュアル設定も展示されていたとはいえ、それでも「え~これ本当に映ってたかな…?」って首をかしげた。もし見つけた人がいたら教えてほしい。(何分何秒の画面の右上とか具体的に)
「時麿の部屋」の展示は実物展示と背景美術の設定の二種類の展示があって、実物展示は本編の時麿の部屋と同様に大量の書物が床に積んである(ざっと二十冊くらい?)のだが、一冊だけ本のページが開いた状態で置いてある。当然展示物なので手を触れてはいけないのだが、顔を近づけて血が付いたページを読んだ感じ哭倉村の歴史資料(『〇〇風土記』と書いてあった)と思しきものであり、村が成立する前の古代までさかのぼって時麿はこの土地の歴史を調べていたことがうかがえる。恐らくだけど、この土地に元々住んでいた幽霊族のことを彼は調べていたのかもしれないが、流石にどのような意図で調べていたのかまではわからない。
そして背景美術の設定では、映画本編だと時貞の写真は床に置いてあったのに対し、美術設定ではあの大きな燭台の中央に掛かっていた。それが本来の定位置だったとすると、時麿が額を床に置いたことになるし、しかもよく見ると(庚子が殺害される前の時点で)写真が十字に切り裂かれているのがわかる。
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前に私はこちら(↑)の記事で時麿が多重人格ではないかと述べているが、部屋の様子を見る限り、主人格の時麿は父親である時貞に強い憎悪と反抗心があったはずだ。父親が余りにも絶大な霊力と権力を持っているため、反抗の術を失った時麿はあの遺言状の一幕で号泣したように子供のように父親に依存する人格を生み出したと思われる。ただ一方で父親から無理やり次期当主として修行させられたという負の感情は残っており、それが彼の部屋の様子から推察される。
父親に対する時麿の憎悪や反抗心は十字に切り裂かれた写真は勿論のこと、部屋に大量にあった書物もそれを物語っている。書物の内容はわからないにしても、あれだけの量を壁が見えなくなるほど、天井に届くくらい積み上げているというのは、明らかに読み返すことを目的として積んでいない。読み返すなら本棚に仕舞うか、いつでも取り出せる形で置くのが普通だからね。
じゃあ読み返すつもりがないなら部屋に置いておかずに土蔵や倉庫にでも仕舞えば良いのではないか?という話になるけど、多分自分以外の人間の目に触れさせたくない内容だったから部屋に置いていたのではないかと私は思っていて、あれだけ山積みにして置いているのも、もし誰かが部屋に入ってその書物を読もうと思ったらその山を崩す必要があり、一度崩したら積み直すのは時間がかかる上に完全に元通りにするのは難しい。時麿はそれを見越して自分の部屋に大量の書物を積み上げたのだろう。家の外に隠すという選択肢もあったと思うが、万が一誰かに発見される危険がある以上、下手に隠すよりも自分の目の行き届く所に置いておきたいという心理が働いたのかもしれない。
では「そこまで人に見られたくなくて、読み返すつもりがない書物なら、いっそのこと燃やして処分すれば良いのに」と思った人もいるだろう。
これはあくまでも私の勝手な推測になるが(まぁ今までの話も推測の域を出ないけどね…ww)、あの部屋の書物は自分が生きている間は誰にも見られたくない内容だが、自分が死んだら誰かに読んでもらいたい内容だったと考えられる。実際時麿の死後、沙代が侵入して彼の日記をねずみ男に託したことを見てもわかるように、鍵のかかっていない和室だから出入りは自由だし、部屋に侵入した所を見られていなければ本の山を崩した所でそれが誰がやったのかまで追及するのは困難※6なのだから、時麿は自分の死後誰かが部屋に入って書物を見てくれることをどこかで期待していたのではないかと私は考えている。
自分が生きている間は見られたくなくて、死後なら見られても構わないというこの矛盾しているとも思える心理と部屋の様子から察するに、時麿の部屋にあった書物は時貞から修行を強要されたことに対する不満や怒り、憎悪といったネガティブな感情をつづったものではないかと私は考えている。追憶展の実物展示も合わせて考えると、もしかしたら時麿は時貞の現在の悪行が歴史的に正当性を欠いた行為であり、それを史料に基づいて証明しようと密かに研究していた時期があったのではないかと、そんなことまで考えたのである。
前述したように龍賀一族は家族としての機能がないため、自分の弱みや父親に対する反抗心を弟や妹の間で共有するという、普通の家庭なら容易に出来ることがこの家では不可能だった。共有出来なかったがゆえに彼はそれを膨大な書物の山として記録・保管しそれを自分の死後誰かが読むことで理解してくれることを望んだのかもしれない。
推理に必要な情報が乏しいので、以上のことはあくまでも私の勝手な推測(というか妄想?)に過ぎない。それに沙代にあのように迫った様子を見ても、以前は時貞を憎悪する人格が強かったのに対し、あの時点では時貞に依存・崇拝する人格の方が勝っていたと思われる。※7自分の精神が完全に壊れないよう人格が分裂してしまったことで、結果的に当初の目論見が狂い本当の人格が望んでいたことが叶わなかったと思うと、加害者的立場ではあるが総合的には被害者であったと言わざるを得ない。
※6:そもそも龍哭の地響きで一度本の山が崩れてしまったら、たとえそこから一冊か二冊紛失したとしても、時麿や家人の誰一人として気づかなかっただろう。その点を踏まえてみても、時麿の部屋の書物は後々誰かの目に触れることを想定していたと思わずにはいられない。
それにしても三度目の龍哭(庚子殺害前後)でも本の山が崩れていなかった様子を見るに、床から天井まで隙間がないほどミッチミチに積み上げたのだろうね。
※7:或いは時貞と同じように龍賀の女性を凌辱することで、ようやく自分が抑圧される側から抑圧する側へと移り、亡き父の呪縛から解放されるという、そんな安易な思考からあのような行為に至ったとも考えられる。なので必ずしも時貞に対する依存・崇拝心から取った行動であるとは限らないと断っておく。
ということで、追憶展の展示内容も作品世界の考察を深める情報が多くて非常に良かった。これだけの設定資料の数々を見られたのは良かったけど、またいずれ一冊の本として東映アニメーションが設定資料集という形で発売してくれたら絶対買うね。それくらいの価値はあったと思う。
私個人の話になるが、実は先月末にあつ森の夢番地を更新したので蛇足ながら少し宣伝させてもらいたい。
先月劇場で真生版が公開されたので、それに伴って島のレイアウトを変えようと思い立ち、どうせなら気になっていたマイデザも修正しておきたいなと思って色々いじって更新した。ちょうどハロウィンが近づいていたので、ハロウィン色が強めになっているのも見所として挙げておく。
一応どういう所を修正したのかと言うと例えばこの場所。
【修正前】
遠くから禁域の島を望むこの景色、修正前は家屋を犬小屋を使って再現したがイマイチ日本家屋らしくなかったので、代わりに養蜂箱を使って再現し直した。
【修正後】
更に麦畑や井戸といった家具を駆使してより奥行きが出るよう工夫した。本当は奥の鳥居は距離から考えてもっと小さくしないといけないのだが、マイデザ枠が一杯で小さい鳥居のマイデザを作れなかったので、サイズの違和感は妥協してこのような形になった。
それからマイデザで修正したのが時貞の遺影。修正前(左)がちょっと雑だったのでちゃんと描き直そうと思い修正したのが右の画像。
それから新たにマイデザで妖怪を作成。ゲゲゲの鬼太郎で登場した悪魔ベリアルや油赤子など新たに5種類ほどの妖怪が島内に出現しているので是非確認してもらいたい。
そして、ホンミス島では龍賀時貞の復活を阻止する特別イベントも開催している。掲示板に書かれたミッションを読み、島内に落ちているアイテムを駆使して時貞の復活を阻止しよう!という企画だ。
一応設定としては「作者の私(タリホー)がマイデザで裏鬼道を作成したら、その裏鬼道が勝手に動いて時貞を復活させようとしている」という感じのストーリーで、夢の世界を利用して現世に復活しようとする時貞を阻止するためにプレイヤーは裏鬼道の妨害を切り抜けながら島を散策し、時には島にいる妖怪の助けを借りて必要なアイテムを回収しなければならない。
あつ森で夢の世界と言えば「ゆめみ」だけど、鬼太郎作品では妖怪「枕返し」がお馴染みなので、当然このイベントでも登場させている。どこにいるかは実際にプレイして探してもらいたい。
(画像は更新前に撮影したのでこの場所にいるとは限らない)
さいごに
これで先月末から今月にかけてのゲ謎関連のイベントや円盤発売、あつ森でのゲ謎再現など語るべきことは語り切ったと思う。もう映画公開から1年経つというのに、また新たに東京タワーでイベントが開催されるようだし、ゲゲゲ忌も例年以上の賑わいを見せたりと経済効果も凄まじい。確か豪華版ブルーレイは発売された11月17日の段階で3万枚以上購入されており、単純に計算してざっと6億円近い売り上げになっていたと思う。
考察に関しても「もうこれ以上は語ることはないだろ」と思っていたら、また新たな発見や推察が出来て、ホントに一つの作品として底の深さに驚かされるばかりだ。
それで実は言い忘れていたことがあるので最後に言っておくと、先ほど述べた龍賀一族の家庭内の並立的な関係について。映画はあくまでも一つの家の話として描かれているが、第二次世界大戦下の日本でもこういった現象が起こっていたことを指摘しておかなければならない。
それを説明するために、ジブリ制作で映画化された野坂昭如原作の『火垂るの墓』を一例として語ってみよう。知らない人のために一応あらすじを述べておくと、『火垂るの墓』は第二次世界大戦末期に母親と家を失った清太と節子の兄妹の悲劇を描いた物語。「父の従弟の嫁の実家」へ身を寄せることになった二人は、その家の未亡人のおばさんから残忍とも言える仕打ちを受け、その結果二人は家を出て行き近くの防空壕で暮らすことになる。そこから先の展開は是非原作及び映画本編を見てもらいたい。
余りにも辛い話なので映画は前に一度見ただけなのだが、大学在学時に原作について講義を受けたことがあり、その時の教科書が残っていたので改めて読み返した。
特にSNSでは未亡人のおばさんの仕打ちについて度々議論が起こり、「おばさんの方が正論を言っているのではないか。清太はわがままを言い過ぎでは?」という意見まで見かけたが、これは非常に危険な風潮だと思う。
子供がわがままを言ったり、贅沢なことを要求したりするのは子供として当たり前の態度である。しかし、戦時下の日本は子供が子供らしくいることを許さなかった。歌を歌えば「よしなさい、この戦時中になんですか、怒られるのは小母さんですよ、非常識な」と怒られ、夜泣きをすると「こいさんも兄さんも、御国のために働いているんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」と文句を言われる。このような未亡人の冷たい仕打ちが原作でも事細かく描写されているのだ。
勿論、戦時下の切り詰めた生活という状況の中で赤の他人も同然の兄妹の世話までしないといけないのだから、そのおばさんの言動にも事情や背景があるのはわかるし、精神的にも疲弊し経済的にも余裕がない中でよその子供の面倒を見ろと言われたら、私も優しく育て上げる自信なんて全然ない。
だとしても、わがままを言ったり、甘いものをほしがったり、夜泣きやらお漏らしやらで困らせたりと、子供の子供らしい未熟さを否定して「早く大人になれ」と言わんばかりの仕打ちをするのは、それは虐待に等しいと考えている。戦時下の日本ではそうやって子供が子供らしくあることを否定し、自分たちと同じ大人としての振る舞いを強いた過去がある。正にそれは大人と子供という上下の関係ではなく子供を大人同然と見なす並立的な関係だったのだ。それがどれだけ多くの子供たちを苦しめ犠牲にしてきたのかを『火垂るの墓』は容赦なく描いている。
だからこそ子供が迷惑をかけたり未熟でどうしようもないことを仕出かすのを当たり前だと思わず、必要以上に抑圧してさっさと「大人」にしてしまうのは危ないと思っているし、特に戦時下ではない今の日本で「おばさんが正しくて清太が間違っている」という意見が出て来るのはヤバいと思っているのだ。