タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

批判も覚悟で『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に厳しく物申す(追記あり)

どうも、タリホーです。あの~、本当は蒸し返したくなかったのだけど、ちょっと先日「ゲ謎」を否定することに心血を注いだブログ『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を見てしまうことがあって、またそれについて私の意見というか批判というか、いやぶっちゃけて言うなら文句・苦言を呈したい。

 

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tariho10281.hatenablog.com

このブログの筆者とは浅からぬ因縁があることは以前の拙記事を読んでいただければわかると思うが、この記事以降ブログをのぞきに行くようなことはしなかったし、したところで気分が悪くなるだけなのでやってなかったのだが、

 

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先日私の記事を引用した上で鬼太郎6期を批判しているカプリコーン氏の記事を見かけて、氏の記事の中に『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を紹介しているものがいくつかあったので、つい見てしまったという感じだ。まぁこれは私がバカなことをしてしまったな~というもので、よせば良いのにまた胃がムカムカとしてしまった。

 

このムカムカを解消するためにもここから色々と語るつもりだが、まず最初に言いたいのは、私が7月に書いた記事に届いたブログ筆者のコメントで、

イライラさせてごめんなさい。幸いもうあんな嫌~~な悪口ブログを更新することはないのでご安心ください

私のブログのせいでタリホーさん達のようなきちんと原作との違いをわかっておられるファンの方にも不快な思いをさせてしまった事、深く深くお詫び申し上げます。ブログは更新停止状態に入りますのでご安心ください。どうか私の事など忘れて穏やかに推し活をしてください。

という返信をいただいたのに、それから2日後の7月18日に記事は更新され、11月6日まで記事は更新・アップロードされている。

 

いや、別に良いんですよ?書類で契約したとか違反した時のペナルティを課したとかそういう取り決めもしていない単なる口約束だし、それを制限する権利が私にないのは百も承知なのはわかってるんですよ?

でもねぇ? 私がどうせ見ていないからと思って、しれーっとブログを更新したということは「こいつに嘘をついても構わない、所詮その程度の人間なのだから」という事を行為で示しているのではないかと、私も随分舐められたものだと思いましたよ。器の小さい人間だと思われるかもしれないけど、更新されているブログの内容もまた「ゲ謎」を貶め引き合いに出しながら水木先生の作品などを語るという、相変わらず以前と同様のことをやっていて、結局この筆者の私に対する敬意はうわべだけのもの・口先だけのもので、自分はこれからも「ゲ謎」を否定しそれを発信する気があったのかと思った。

(だったら最初から「私はこれからも『ゲ謎』を否定する記事を書きますので、不愉快かと思われるかもしれませんが、そこはご理解下さい」とかそれくらいのことは書けよ!って言いたい)

 

そういうことで、この『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に対しては今まで以上に厳しい目を向けて批判を述べさせてもらう。本当は全ての記事に対して私の意見を述べたい所だし、ブログの筆者とキチンと論争をして、何ならそれを一冊の本なりレポートとしてまとめて水木プロダクションに送りたい(これだけファンは作品に真摯に向き合っていることを形・記録として残したいということで別に嫌がらせ的な意図はないです)のだけど、そんな時間的・金銭的余裕はないし、正直言ってこの批判をした所で私にメリットがほとんどない。労は多いのに益は一切ないのだから、そういった点も考慮して今回は問題となるブログの一部の記事をかいつまむ形での批判となることをご容赦願いたい。

 

(以下、映画の内容についてネタバレあり)

 

大前提として

後でケチをつけられるのも嫌なのでまず前提として言っておきたいのは、私は「ゲ謎」を批判するなとは言わないし、世間的に人気があった作品だからと言って、好意的に評価をしなければならないということもない。蓼食う虫も好き好きという言葉があるように、どうしても受け入れられないものは誰にだってあるし、「ゲ謎」は具体的に全てを語り尽くした作品ではなく、ある程度視聴者の想像に委ねた箇所もあるので、そこが作品としてのウィークポイント・批判点になるのは、まぁ仕方ないと思う。

 

私がこのブログの筆者と内容について嫌悪しているのは、「ゲ謎」が原作の設定と矛盾している、或いは原作から改変しているポイントを映画制作陣の怠慢・水木先生に対する敬意のなさと受け止め、実に乱暴的かつ短絡的な論理・思考で主張を展開させているという、この一点に尽きる。一見すると細かい知識・情報に基づくもっともな主張に見えるかもしれないが、私に言わせれば自分の主張に都合の良い情報を取捨選択しているだけで、(部分的には正しい指摘もあったが)ブログ全体を見ると結構無茶な論理展開をしていると思わざるを得ないものが多々あった。

 

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例えばこちら。この記事では生前の水木先生の思想を持ち出した上で、

一般に妖怪コンテンツは大きく二つの潮流に分かれると聞きました。

 

1.「神秘優位」派:妖怪は人智を遥かに超える存在であり、人間は神秘には絶対に敵わない。

2.「人間克服」派:人間も努力や知恵で妖怪を克服・封印できる。(例:古典や神話・昔話の妖怪退治譚や落語「お化け長屋」、漫画なら『どろろ』『うしおととら』など)

 

水木作品にも人間が努力や犠牲の果てに超自然的存在に打ち勝つ物語も多数存在します。

(中でも「最初の米」という話は泣けます…)

 

しかし『ゲゲゲの謎』の描かれ方は、このどちらの派閥ともまったく異なる

 

「妖怪はただの無力な下等生物であり、人間に利用される対象にすぎない」

 

というメッセージを強調しているかのように見受けられます。

 

このメッセージは水木先生が示された「ぼくは妖怪に飼育されている」という思想とはまったく別物である、という感想を抱かざるを得ません。前回のブログの繰り返しになりますが水木先生は

 

「妖怪は、ぼくにとっては“妖怪さま”であり、守り神でもあるようだ。

 

「妖精も妖怪も元来は不可知なものに対する関心、人間の想像力、あるいは神秘的なものが本当に感ぜられるのではないかといった関心が生んだもので、頭からけぎらいするのはおかしい。」

 

「妖怪にしても、彼らには我々の知らない古代の深い意味がひめられているかもしれない、と私は思う。「古代の声」に縛られすぎるのも窮屈だが、それをただあざ笑うだけの人の営みも、底が浅くなんだか味気ない」

 

と書かれています。

 

何度も繰り返しますがお化けを「妖怪さま」と呼んで大切にしていた作家のメモリアル作品で

 

「お化けを出すと大人の観客が興ざめするから出さない」
「人間がお化け(注:「ゲ謎」における幽霊族と思われる)を虐殺して滅ぼす話にしよう」

 

という方針を打ち立てる事自体おおいに疑問視せざるをえません。

と述べている。

確かに映画本編では狂骨は龍賀一族や裏鬼道によって使役・制御されており、幽霊族もまた呪詛返しによって窖の血桜の下にいたから、妖怪や幽霊族が人類に蹂躙されていたのは否定出来ないが、映画を最後まで見た方なら言わずもがな、本作はそうやって妖怪やそれに類する幽霊族を利用しようとした龍賀一族ほか哭倉村の村民が死を以て報いを受ける物語であって、この筆者が主張するような「妖怪はただの無力な下等生物であり、人間に利用される対象にすぎない」というメッセージなどない。狂骨の怨念や幽霊族の子孫に対する強い思いは人類の想像をはるかに超えたエネルギーを有しており決して「無力な下等生物」として描かれてはいない本当に映画をちゃんと鑑賞した上での批判なのかと言いたくなるほど的外れなのである

妖怪が活躍する物語でないのも別に妖怪を軽視しているとかではなく、原作「鬼太郎の誕生」をベースとした本作に妖怪を絡ませるとしたら、どのようにすれば良いかを制作陣が考えた上での結果だと思う。元々「鬼太郎の誕生」は幽霊族と水木青年以外、特に妖怪が絡むエピソードではないし、そこに話の腰を折らない形で妖怪を絡ませるとなったら「わかる人にはわかる存在」という形で入れるしかないと思う。

 

個人的に「ゲ謎」における妖怪の描き方は、

一部の人にしか気配がわからないけど確かに存在するもの(山鬼・カシャボなど)

人知を超えたパワーを持つもの(狂骨・河童など)

積極的には人間と関わらないがその営みを眺めているもの(一軒家の妖獣・幽霊赤児など)

という形で妖怪というものの存在や人間との関係性を描いている。勿論これはテレビアニメにおける鬼太郎作品に登場する妖怪とはまた違ったアプローチの仕方で妖怪を描いており、非常に消極的な形での描写なので、なかなか理解しづらいかもしれないのだけど…。

 

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それから、こちらの記事では世間の評価と個人の愛着は別であり、ゲ謎のファンを否定してはいないという旨が書かれている。これに関しては別に反論はないのだけど、ブログ運営にあたっての動機に関してはちょっと一言言わせてもらいたい。

 

何度も述べている通りこのブログを運営している理由はネット上で

 

「昭和の先達を馬鹿にしているとしか思えない内容だった。

水木しげるの原作もあんなひどいものなのか」

 

という感想を目にしたことがきっかけです。

 

私は映画の内容そのものに対し

 

「このままでは子供たちや一般の人達に

“鬼太郎の母親やご先祖様たちは子供にいやらしいことをするような人間の一家に勝てず無力に殺された”

と思われてしまうのではないか」

 

水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家だと思われてしまうのではないか」


水木しげるは子供にいやらしいことをする少数の人間が妖怪を滅ぼす話をファミリーアニメで描くような作家だと思われてしまうのではないか」

 

と強い危機感を抱きました。

一般の方やお子さんにアニメと原作の違いの区別はつきにくいでしょう。

エンドロールの最後で「原作 水木しげる」と出たら

「へえ、これってぜんぶ水木しげるという人が考えた話なんだ」

と思ってしまうでしょう。

 

「ゲゲゲの謎」で高評価されている昭和の闇や人間性悪説、家父長制の闇や男性社会といった思想。

これらの内容も私には水木先生の国民的ファミリーアニメのメモリアル作品で扱うべき題材だとはどうしても思えないのです。
昭和の闇を描くにしても、もっと他にマッチした題材および別のアプローチがあったとしか思えないのです。
原作者100周年を祝う作品で児童性虐待だの主人公の母親が他の男性に手を出されていた可能性を示唆する台詞を出す必要が、本当にあったのでしょうか。

正直言って、ネットで調べれば、原作を電子書籍などで読めば、アニメをサブスクなどで見ればすぐわかるこの現代において「水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家」などと誤解する人がいるとは思えず、そんな杞憂に振り回されてこんなブログを運営していること自体、私はファンの一人として情けなく思えて仕方ないですね。

そーいうこと言う奴はそもそも水木作品を深く知ろうとも思わない、単に難癖つけてイキっているバカだと私は思っているので、そんな一部のバカのために制作陣が試行錯誤して作り上げた作品を貶める側に回っているというのはハッキリ言って失望せざるを得ないし、原作と違うことを指摘するだけならまだしも、それを制作側の怠慢・リスペクトのなさとして主張を展開させたことに関しては私が以前から主張している「作品批判は技術的な面を批判すべきで、作り手の姿勢や態度など憶測・推測の域を出ない領域は安易に批判すべきではないという私の信念に大きく反するもの、到底受け入れがたいものとして批判させてもらいたい。

 

そうそう、本作における性的虐待の描写に関しては、これは歴代の鬼太郎アニメどころか原作にすらない描写なので、どうしても批判の対象にならざるを得ないのだが、本作が戦争の闇を描いた作品である以上、性的に搾取された女性を描くことはある意味必然であり、その最たる例が従軍慰安婦だ。

私は本作における龍賀の女性は戦時下の従軍慰安婦のメタファー的な部分も担っていたと解釈していて、勿論これを抜きにしても話は成立するしそういった方向にすべきだったという意見があるのもわかるけど、個人的にはこういった性的な搾取をアニメ映画でやるというのは、なかなか覚悟がいることだと思うし、従軍慰安婦は水木先生の「総員玉砕せよ!」でもその存在が描かれているから、単にエログロの露悪趣味で制作陣が盛り込んだのではなく、相応の覚悟を以て盛り込まれた描写だとそう評価している。

 

こういったチャレンジは観客に対する信頼というか「水木先生のファンならわかってくれるだろう」という思いがないとなかなか難しいし、安全牌を狙った作品・全国的ヒットを狙った作品にする意図があったのであればまず排除される題材・テーマだ。だからこそ私は古賀監督が舞台挨拶の時に述べた「ひっそり始まりひっそり終わる予定だった」という旨のコメントに嘘偽りはないと判断したのである。特に古賀監督は5期で「日本爆裂」という数多の妖怪が邪神と戦う王道のファンムービーを制作しているので、100周年の作品でまた同様の作品を出すのは二番煎じに成りかねないし、記念碑的作品として単に妖怪同士が戦う従来通りの映画ではいけないと考えたからこのような内容にしたのではないかと勝手ながらそう思っている。しかもノイタミナの「墓場鬼太郎」で鬼太郎の誕生はアニメ化されていたのだから、単に原作通りやる訳にはいかなかったのは容易に想像がつくし、そんな様々な条件や制約の中でこういう挑戦的な作品を描こうと思い切ったことを、安易に調査不足だの水木先生の作品を私物化しているだのと文句を述べている人とは仲良くしたくない。

 

「ゲ謎」を批判したいなら制作陣のインタビューも詳しく読むべき

もうどうしても「ゲ謎」の制作陣のやり方が気に食わない、批判せざるを得ないのであれば、せめて最低限、古賀監督やキャラクターデザインを担当した谷田部透湖氏といった制作陣のインタビューは読むべきだと言いたい。『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』では水木先生の作品やインタビュー、また京極夏彦先生との対談といったものは引用されているが、肝心の制作陣のインタビューについてはほとんど見当たらない。勿論、嫌悪している作品に携わった人のインタビューを読むのは気持ちの良いものではないだろうし、インタビュー内容にこのブログの筆者が疑問に思ったポイント全ての答えが用意されている訳ではない。とはいえ相手の言い分を聞かずに映画の制作陣を叩くのは大の大人のやるべき批判ではない。それはアンフェアというものだ。古賀監督・谷田部氏のインタビュー記事はアニメージュといったアニメ雑誌に載っているからそれを読んだ上で改めて批判しろと言いたい。

(ブルーレイ豪華版にはより詳しいコメンタリーがあるけど、流石にそれを買えというのは酷な話だからそこまでは求めないが…)

 

百田尚樹氏の言葉を受けての批判について

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さきほど「ブログは更新しない」と言っていて実際は更新していることをこちらの記事で「結果的に嘘をついてしまって本当に申し訳ありません…」と謝罪してますけど、

自分のブログで謝られた所で私に届かなかったら何の意味もないのですけどね。

 

まぁ私をバカにしている訳ではないということがわかったのはさておき、

歴史となった戦争を振り返るのは、本来歴史家の仕事です。私たちは歴史を政争の具とせず、未来の平和と繁栄をいかに構築するかを考える標としたいと思います。

 

なんと的確で納得の行く結びでしょう、さすがプロの文筆家です。百田氏のおっしゃるとおり歴史を振り返るのは歴史家の仕事です。それをアニメ映画でやるのであればちゃんとしたプロの歴史家の監修を入れてほしかったと思います。

あいにく百田氏の記事が削除されているので文脈から百田氏の主張を完全に理解出来ないのが残念だが、「未来の平和と繁栄をいかに構築するか」を考えるには「戦争を振り返る」、つまり戦争というものをあらゆる観点から検証するプロの歴史家の手に委ねた上でその情報に基づき考えるべきで、素人が勝手な解釈を下すなという意味なのだろう。

 

その上で「ゲ謎」で描かれた戦争というのは偏ったものという風にブログでは述べられている。どうしても偏りが出るのは仕方ないし、映画を見て日本だけが特別に悪かったという風に誤解する人もいるかもしれないが、これは映画であって教育番組ではないのだから多少の偏りは許容しても良いだろうというのが私の考えであり、偏りこそあれど描かれていることは全くのデタラメ、嘘八百ではない。特に戦争において麻薬が兵士の精神高揚に利用されていたというのは、あまり学校の授業では取り上げられない部分なので、そこにスポットライトを当てた「ゲ謎」の脚本は従来の戦争ものの作品にはないユニークなポイントだと私は評価している。

 

戦争責任が日本のみにあり(中略)明らかに偏った考えです。

 

私が「ゲゲゲの謎」で不思議に思ったことがまさにこれです。私は「ゲゲゲの謎」を見て

「この映画を作った人は、太平洋戦争とは日本だけが勝手に世界中に喧嘩を売って暴れまわった戦争だと思っているのだろうか?」

と感じました。

水木先生の戦記物では米軍の人々や戦地となった南方の原住民の人々の事もていねいに描写しているにも関わらず「ゲゲゲの謎」は戦争を描いているのに諸外国の描写がまったく無いに等しい。このことはひじょうに不思議に思いました。言わせていただくと旧日本軍や血液銀行の描写も非常に薄く偏ったものに感じました。

ブログ筆者は「この映画を作った人は、太平洋戦争とは日本だけが勝手に世界中に喧嘩を売って暴れまわった戦争だと思っているのだろうか?」「戦争を描いているのに諸外国の描写がまったく無いに等しい」という指摘をしているが、個人的にはこの辺りのことは義務教育で習っていて当然知っていることであって、わざわざ映画本編で欧米列強とのことや太平洋戦争に至る経緯などを説明する尺を割くのは、却って物語のテーマ性が散漫になってしまう事態になったのではないかと、戦争責任云々は本筋の物語においてはそこまで重要ではなく、「ゲ謎」における戦争とは一部の権力者が大多数の民間人の命や権利を踏みにじり大義名分をかざして他国(他の民族)を侵略していたこと、そしてその手段として麻薬という非人道的な手段が用いられたというそこを重点的に描いた作品だと評価している。だから戦争の全てを描いていないというのは個人的には批判としてズレているというか、「別に全部を描く必要はないでしょ…」と思ったのである。

 

それにゲ謎で描かれた思想は偏った思想だとは思わない。他者の権利を踏みにじってでも理想や快楽を求めるというのは人間の普遍的な欲を描いた所だと思うし、それを乗り越えた先に平和や希望があるというのが「ゲ謎」という作品が持つ力強いメッセージの核となっていると私はそう分析している。それはいちいち台詞にせずともゲゲ郎と水木との交流や龍賀一族の所業といった描写から感じ取れるものだと思う。それが水木先生の作品における思想から、そこまで大きく逸脱したものだとは思えないのである。

 

(2025.11.15 追記)

龍賀一族は単に幽霊族を傷めつけるだけの一族だったのか?

私がこの筆者の論で不快感を催すのが、本作の龍賀一族が単に(原作者である水木先生が考案した)鬼太郎や幽霊族を傷めつけるためだけに用意されたキャラクターであり、性暴力や児童虐待などお下劣な要素で彩った低俗な作品という程度の浅い認識で批判をしていることだ

 

一応断っておくが龍賀一族がこの物語における絶対悪であることは否定しないし、その所業の露悪性に嫌悪感を催すこと自体は至って健全な人間の反応である。しかし、この一族が幽霊族とセットで描かれたことの意味を全く理解しようとしないその姿勢は浅はかと言わざるを得ないのだ。

 

映画本編を見た方ならご存じの通り、幽霊族というのは争いを好まず武器を持たない平和的な種族であるがゆえに人類によって迫害・淘汰の憂き目に遭った種族である。そして彼らは子孫の未来のためなら犠牲をいとわないという崇高な精神を持ち合わせた種族であるということは、ゲゲ郎や血桜に囚われた幽霊族の行いから見ても明らかである。幽霊族というのは人類にとっても理想的な精神や思考を持ち合わせた「光の一族」であることは映画を観た方なら多分わかったはずだと思う。

 

では対照的に「闇の一族」とでも言うべき龍賀はどうだろうか。彼らを結びつけるものは決して信頼や情愛などではなく、互いが互いを監視し逸脱を許さないという雁字搦めの結びつきで成り立っている一族であり、当主の龍賀時貞はそうやって一族同士の相互監視を行わせたり、虐待によるマインドコントロール、反逆者の廃人化といった形で自分に逆らう者が出ないよう支配していた。そうやって支配下に置かれた時麿や乙米、丙江・庚子といった人々はいずれも精神が未熟な大人として成長し、子どもの安寧を願うどころかその邪魔をしたり権力闘争の道具のように扱うといった歪んだ絆で沙代や時弥をその悲劇の渦へと巻き込んでいる。

こうして本編で描かれた龍賀一族の歪んだ人間関係というのは、第二次世界大戦下の日本における相互監視社会にも通じていると思っていて、国の政策に異を唱えることを良しとしない風潮だったり、子供に大人同然の忍耐や我慢を強いた大人たちの言動などは龍賀一族の歪な関係とリンクするものだと思っている。これは制作陣の偏った考えとかではなく「はだしのゲン」や「火垂るの墓」といった戦争関連の作品に基づくものであり、戦争当時の日本の息苦しさを家父長制という絶対的な権力構造に置き換え、哭倉村を戦時下の日本のメタファーとして描いたのは非常にユニークな試みだと思っている。

 

勿論、水木先生の描いた戦争というのは兵士として従軍した経験がメインとなるもので、戦時下の日本国内の風潮や生活といった点を描いた作家ではないから、厳密には水木先生だけの戦争体験を基にした映画ではないのは確かだけど、決してこのブログ筆者が言うような、単に『犬神家の一族』をパクっただけの作品でないし、龍賀一族は幽霊族の尊さをより際立たせるために用意された悪役なのである。それを原作キャラを侮辱するために用意したものなどとのたまうのは、己の浅はかさを露呈するだけでなく制作陣の努力・熟慮・試行錯誤を足蹴にするものであると厳しく非難・批判させてもらう。

 

「子供向けでない」というのは子供の理解力や子供との対話を無視した浅はかな批判

度々6期や「ゲ謎」の批判で、「鬼太郎というのは親子が楽しめる作品でないといけないのに、こんな子供向けでない話を描いてどうするのか」といった意見を目にするが、個人的な見解としては「それはちょっと子供の理解力を舐めているのでは?」という風に思っている。

確かに経験や知識が浅い子供が観たら誤解してしまう部分がないとは言わないが、感覚的・直感的に善悪や物事の良し悪しを分別する能力は子供の段階からある程度備わっているものだと思うし、私の場合小学校入学前に鬼太郎の2期で放送された「心配屋」を見た時、具体的な内容やそこで描かれた風刺的要素は流石に読み取れなかったけど、何をしたらマズいことになるのか、何をしたら自然の摂理に反するのかといったことはぼんやりとではあるものの、わかっていたと記憶している。

「ゲ謎」における流血描写なんかも、昔の金曜ロードショーでは「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」とか「永遠に美しく…」といった流血もしくは身体の損壊を描いた作品を普通に放送していたし、案外子供ってそういうモノ観ますよ?

(というか、私自身そういった作品を観て育った人間なのですから)

 

たとえその時はショッキングな記憶しか残らなかったとしても、それが心に残ってまた再び見返すことになった際に「あ~なるほど、この映画ってこんな話だったのか!」という発見が出来たらそれは作品鑑賞として素敵な体験になると私は思うし、それを「ゲ謎」は子供向けでないからダメだという風に批判するのは、長期的な物の見方が出来ず、作品鑑賞の幅を狭めることになるのではないか?とそう主張したい。

 

当然ながら個人差というものがあるので、私が問題なかったからと言って他の子供も等しくそうだということにはならないのだけど、でも映画鑑賞って必ずしも一人で観るだけでなく二人以上で鑑賞する場合もあるし、もし子供が映画で誤った認識・誤解をしたと感じたのならそれを対話という形で親や大人が軌道修正すれば良いだけの話なのだ。そういった対話も含めて映画鑑賞・作品鑑賞なのであって、作品に全ての答えや正しい解答・納得のいく描写を求めるのは思い上がりも甚だしい!

 

(2025.11.26 追記)

文章は読んでも文脈は読まない(読めない)

以前私の記事を引用して6期を批判していたカプリコーン氏もそうだったが、このブログの筆者は「ゲ謎」という物語を部分的には正しく読んでいるのに全体のことになるととんでもなく頓珍漢な結論を持ち出して批判している。何と言えば良いか、文章は読めているのに文脈というものが全然読めていないのだ。だから「ゲ謎」は幽霊族がオリジナルキャラの龍賀一族によって痛めつけられるだけの映画だの、水木作品に対するリスペクトがないだの、制作陣にありもしない悪意や怠慢があるなどと訳もわからない意図を見出しては吹聴しているのだから、全く呆れた話である。

 

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つい先日掲載されたこちらの記事も読んだけど、

本作は
「昭和の老人はみんな若者をくいものにして私腹を肥やしている」
という作り手個人のイメージが前面に出過ぎているきらいがあると感じました。
これも私にとっては水木しげる先生の思想との乖離を感じる一点です。

と述べ、そこから小泉八雲の「停車場にて」を持ち出しながら、日本人の心の大部分を占めるのは子供への深い愛情であり、「年端もいかない児童が肉親達から性虐待されるような話」を作った「ゲ謎」は「子を思う親の心」を大事にした作品ではないという風に批判している。

 

もう言わずもがな、この筆者は終盤にゲゲ郎がとった決断や、エンディングで水木が鬼太郎を殺さず抱きかかえたシーンのことを完全に無視してますよね?

こういった数々のシーンを無視して、沙代の性的虐待のことや時弥の魂乗っ取りだけを殊更強調して、「ゲ謎」の制作陣には子供に対する愛情がないと結論付けるなど正に論外。もう一度小学校からやり直して、きちんと文章読解のスキルを身に着けた方が良いのではないかと言いたくなる。

 

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そういや以前別の記事で批判した「一生街」に関するこの記事を読んで、

 

本当に、なんなんでしょうね?

やたら『不幸がる』文化って。


そりゃお世辞にも昨今は平和とは言えませんし物価も上がる一方です。それでもやたらめったら「不幸がってる」のを見ると「どういうものですかねえ?」と言いたくなります。

 

犬神家丸パクリおげれつビデオ(こ〇亀風)同人映画なんか見て

 

「ああ~やっぱりこの国は最低だー!」

「こんな国に生まれた私ってなんて不幸なんだ!」

「ぜんぶ日本のせいだー!昭和のせいだー!」

「我々が報われないのもぜんぶ昭和や日本や男性社会のせいだー!」

 

とか言っちゃうのってなんなんでしょうね?
日本が嫌なら海外留学でもすればいいじゃんと思うのですが…

という具合に、ゲ謎を「犬神家丸パクリおげれつビデオ(こ〇亀風)同人映画」などと侮辱的に評したことにもだいぶムカついたが、最後の「日本が嫌なら海外留学でもすればいいじゃんと思うのですが…」という一文からも、この筆者には想像力が欠如しているのではないかと思わされた。日本に対して諦観や絶望を抱き「不幸がる」人々に対して「こう考えれば楽になりますよ?」とかではなく「海外留学でもすれば?」などと言い放つ辺り、結局他人の不幸を推し量ることも出来ないししようとも思わない、そんな排他的な一面が垣間見えて嫌悪を催した。こんな人が子供への愛情がどうだのと主張しているのだから、ちゃんちゃらおかしいですよね?

(っていうか海外"留学"した所で、また帰国しないといけないのですけどね。それを言うなら海外"移住"なのでは??)

 

結局「ゲ謎」のネガティブキャンペーンに過ぎない

先ほど引用したブログ記事の文で、筆者は水木作品に対する誤解を正すために、本来の原作(水木作品)で描かれていることや、「ゲ謎」と水木作品との違い・矛盾点を指摘していることが述べられていた。何度も言うように、私は原作との違いを指摘すること自体は全然問題だとは思っていないし、その違いを明らかにした上で多くの人が作品の出来について議論するのは大いに意義があると思っている。

ただ、このブログに関してはおよそ公平な批評としての場にはなっていないし、水木作品の魅力をアピールしているようで、結局「ゲ謎」のネガティブキャンペーンをしているだけなのではないか?と正直私はそう思った

 

そう思った理由の一つとして挙げられるのが、今年の4月から9月にかけてフジテレビで放送された「私の愛した歴代ゲゲゲ」という番組に関することだ。これは当ブログでもレビューしていたからご存じの方も多いだろう。水木先生の没後10年の節目に、鬼太郎アニメに縁のある方々や著名人がセレクトした歴代の鬼太郎アニメのエピソードを再放送したこの企画、当然水木先生のファンならチェックしているし放送されたエピソードについて色々と語りたくなっただろう。

しかし、『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』では一切この「私の愛した歴代ゲゲゲ」に関する話題が出ていない。水木作品の良さをアピールするまたとない機会であり、「水木しげるは性虐待で苦しんだ児童が肉親を虐殺するような話をファミリーアニメで描く作家だと思われてしまうのではないか」という心配を解消する上でも、こういった歴代の鬼太郎作品が放送されるというのは、その誤解を正すのに最適だというのに…?

 

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この筆者が「私の愛した歴代ゲゲゲ」を無視したのは多分こちらの記事で言及されていることが理由だと思うが、仮に百歩譲って今の水木プロダクションが信用ならないクソプロダクションだったとしても、この企画をした人やセレクターの方々、更に言えば歴代の鬼太郎アニメに携わった制作陣には何の落ち度も罪もないのに、それを無視して「ゲ謎」を否定する方向性でしか水木作品を語れないのだから、いち水木作品のファンとして嘆かわしい話である。

 

現・水木プロが「大人向け」路線のために「妖怪・子供」を排除した?

先ほどの『鬼太郎セレクションに全然期待できない』という記事で、

今回の鬼太郎セレクションはアニメ7期の布石かもしれません。

アニメ7期などあったとしても、版権元の現状水木プロの方針が「もう妖怪は出さない、子供向けはしない」ですからね。

今までの鬼太郎アニメみたいな作品なんか1㍉とて期待できません。

 

もしかして本気で7期を「ゲゲゲの謎」の続編にする気かもしれません。
あの終わり方でどうやって続編作るのか知りませんが。
いずれにせよ、妖怪も鬼太郎も出ない、さぞかし大人とやらのアニメになるのでしょうね。

という愚痴を述べている。

 

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これは昨年の水木プロダクションの原口尚子氏(水木先生の長女)と夫で代表取締役の原口智裕氏をインタビューした記事のことを言っているのだと思うが、この筆者もどうやら被害妄想レベルの曲解をしたようで、そんな濁った眼差しでは「ゲ謎」に対しても制作陣に対してもあのようなことを言うのは当然だよなと納得がいった。

 

この水木プロダクションの子供向け・大人向け発言、そして妖怪に対するイメージに関する発言については私なりの考え・意見があるのだがそれを語る上で重要となってくるのが5期の打ち切りである。

dic.pixiv.net

私も5期リアタイ世代なので、この打ち切りは非常に残念だったし目玉おやじの声を担当していた田の中勇さんも亡くなったことで、今後鬼太郎アニメは制作されないのではないかと内心諦めかけていたが、そんな悲観を打ち破り制作された6期は脚本家によって各エピソードのテイストが異なり、従来の鬼太郎シリーズに比べてややシリアスな展開が多かったことは放送当時も結構話題になったと思う。

 

で、何故6期や「ゲ謎」が大人向けのテイストを強めた作風になったのかという話に戻るけど、5期の打ち切りの一因として考えられているのはグッズ(おもちゃ)が売れなかったことだとされている。4期までは子供向けのおもちゃやグッズも人気があって売れていたのだろうが、5期はリーマンショック等の影響や少子化といった様々な事情もあいまって従来通りの子供をターゲットにした商品が売れず、それがアニメ制作にも大きな影響を及ぼしたのではないだろうか?

 

だからこそ、東映アニメーションも水木プロも6期を制作する上で従来通り子供にターゲット層をしぼった形での戦略だとまた同じ失敗をするかもしれないと考え、6期では大人(成人)にも興味を持ってもらえるような方向でアニメを制作したと考えられるし、それは別に5期をディスっているとかではなく、ゲゲゲの鬼太郎」というコンテンツを過去の栄光として終わらせないための企業努力である、という風に考えられないのだろうか?

何故そこで「水木プロも東映アニメーションも子供向けの鬼太郎アニメはやらない」などと歪んだ拡大解釈をするのか理解に苦しむ。

 

(2025.11.27 追記)

何もしなければ「ゲゲゲの鬼太郎」は骨董品と化していたかもしれない

6期や「ゲ謎」を否定する水木ファンに問いたいが、自分が推しているコンテンツが従来通り、子供向けの作品として制作していたら世間もちゃんと評価してくれて永続的に人気のあるコンテンツとして続いていくとか、そんなことを考えていたりする?

 

だとしたら甘いわ!

 

あのさ、「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「名探偵コナン」みたいにほぼ毎週・毎年放送されているアニメじゃないのだよ?約10年おきに何回もリメイクされているアニメという点では確かに「ゲゲゲの鬼太郎」って長寿アニメの中では珍しい部類だけど、放送されていない空白の期間の間に他のアニメ作品は継続的に新作エピソードを放送し映画を公開しているのだから、そう考えるとゲゲゲの鬼太郎」って他のご長寿アニメと比べても遅れをとっている所がなきにしもあらずなのだ。

しかも、今やアニメは世界市場にまで拡大していて「ドラゴンボール」や「ワンピース」は海外から圧倒的な支持を得ているのに、鬼太郎の世界的な人気はまだまだである。まぁこれは日本の妖怪自体が海外におけるドラキュラや狼男といった怪物とは文化的にも歴史的にも成立背景が違うから浸透しづらいというのもあるし、鬼太郎は派手なアクションを売りにした作品という訳でもないから、同じオカルトネタを扱いながらもダイナミックなアクションシーンを描いている「ダンダダン」の方が海外からの注目度・人気が高いのも当然なのである。

 

要するに、ゲゲゲの鬼太郎」という作品は国内のみで消費される、ガラパゴス化しやすいコンテンツであり、メインカルチャーではなくサブカルチャー止まりの作品というのが世間的な認知だと私はそう思っている

(ファンとしては正直認めたくはないが…)

 

水木作品のファンの中には「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめとする水木先生の作品群は唯一無二のものであり、他の作品と比べたり張り合うこと自体がナンセンスだとそう言いたい人もいるだろうと思うが、でも他作品と比較し競うことなく原作をそのまま発信するだけでは歴史的価値のある遺産・骨董品という形で消費・評価されるだけで終わってしまう。「ゲゲゲの鬼太郎」が古びた作品にならず今なお多くの人から支持されるコンテンツとして続いているのは、単に原作をなぞるだけのアニメ化をせず、それぞれの年代に応じた改変やアレンジをしてきたアニメ制作陣の功績と、原作そのものが持つ物語としての柔軟性によるものだ。

 

こちらのツイートでも言及されているように、水木先生は確かに人間の幸福について探求した思想家の面もあったがその本分は漫画家であり、面白ければ・クオリティが高ければ必ず売れるとは限らないシビアな業界をサバイブしてきた方なのである。なので「ゲゲゲの鬼太郎」にしてもベースとなる設定は変えなかったものの、それ以外の部分では掲載誌によって設定をコロコロ変えている。

 

例えば昭和55年に「月刊少年ポピー」に連載された「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎」では鬼太郎に雪姫という妹がいたということになっており、当時のSFブームの影響を受けて鬼太郎の技も超能力・念動力として称されている。言うまでもなく雪姫という妹の設定は「鬼太郎が幽霊族の最後の生き残り」という設定と相反するものである。昭和62年に連載がスタートした「鬼太郎地獄編」では鬼太郎の母が幽霊族ではなく人間だったということになっているが、この設定は原作の「鬼太郎の誕生」で描かれたことと矛盾してしまう。鬼太郎の母が人間だとしたら、彼女の血を輸血された患者が幽霊にはならないのだからね?

 

元々原作自体設定を突き合わせた時に矛盾が生じる作品だし、だからこそ原作との矛盾を矢鱈と指摘して「ゲ謎」を否定しているこのブログの筆者に対して以前私はツッコミを入れたのだけど、その時の返答が

設定に関してですが、私は、昭和の時代に多忙な地獄の週間連載の中で必死で1から物語を考えていった原作者と、2年近い時間とインターネットという文明の利器、および御大の書物がまとめられた部屋が準備されているアニメスタッフを同一に語ることはどうしてもできません。

だった。要は「1から物語を作っていた水木先生のミスは許すけど、ゲ謎の制作陣は時間と資料があるのだから矛盾なく作るのが当然だし矛盾は認めない」と(曲解かもしれないが)そう主張していると受け取った。

この主張はともかく、鬼太郎作品における掲載誌ごとの設定の矛盾は別に多忙を極めていたからではなくそれぞれの出版社からの要望に応えた結果によるものだと思う。そしてそれはひとえに水木先生が鬼太郎という作品に関心を持ってもらうこと、要は自分が作り上げたコンテンツを買ってもらうことを何より大事にしていたということだと私は思っているし、読者の間で鬼太郎というヒーロー像に対して認識のズレがあっても構わなかったということになるだろう。

だから極端な話、「ゲゲゲの鬼太郎」は(原作を読んだらわかると思うが)水木先生の作家としての独自の思想が色濃く反映された物語ではないのだ。人間に悪さをする妖怪をこらしめやっつけるというエンターテインメントの話であって、そのシンプルさゆえにアレンジや大幅な改変が出来たのもアニメ化における強みとなったのだ。

棲家となる森や海を汚された妖怪が怒って人間を襲うという、鬼太郎作品定番のプロットにしても別にそこに環境保護を訴えかけるようなメッセージを先生は込めてないというか、単に自分の領域を荒らされたから怒るというごくごく自然な感情の動きを妖怪を通して描いているに過ぎない。でもそのシンプルさのおかげで読者それぞれが勝手に鬼太郎という作品から様々なインスピレーションを受けているし、その寛容さこそが「ゲゲゲの鬼太郎」を息の長いシリーズたらしめているのである。

 

話が長くなったが、「ゲゲゲの鬼太郎」という作品が「ドラえもん」や「サザエさん」といったアニメのように継続的に放送が続いているコンテンツでもなく海外受けしづらい作品であるにもかかわらず多くの支持を集めているのは作品そのものの柔軟性と様々なインスピレーションを起こす創造性の余地がある作品だからだ。だからこそ子供向けにも大人向けにも変容させられる変幻自在さが売りになるし、6期や「ゲ謎」は正にそこを活かしてこれまでとは違うアプローチで鬼太郎の物語を描いた。そのおかげで、今まで鬼太郎に興味がなかった層にも「ゲゲゲの鬼太郎」が届いたことはファンとして素直に嬉しかったし、鬼太郎を現在進行形で語られるコンテンツとして維持してくださっている水木プロダクション東映アニメーションには感謝しなければならない

 

そんな水木プロや東映アニメーションをはじめとする「ゲ謎」制作陣の努力の痕跡を拾おうとせず、ただ闇雲に原作をありがたがって、ありもしない悪意を見出しては水木プロや東映アニメーションを叩いている一部のファンとこの『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』の筆者に対して私は心の底から軽蔑します

水木作品のあるべき姿、その理想を語るのは大いに結構ですけど、今自分が推しているコンテンツの弱点にいい加減向き合うべきだと思うし、従来通りの子供向けに特化したままの方針でアニメが制作されていたら多分間違いなくこのコンテンツは衰退していたと思う。

 

それから、「ゲ謎」を嫌悪する人々は性的虐待や子供が犠牲になる展開を描かずとも子を思う親の愛を描いた作品は描けるだろうとそう言いたいのかもしれないが、「子を思う親の愛を描いた作品」ってぶっちゃけ掃いて捨てるほどあるありふれたテーマなんですよね。少なくともそのテーマを聞いて映画を観ようなどと思う人は少ないと思うし、観てもらうからには工夫は必要である。勿論性的虐待というのは露悪的なものではあるし、決して子供向けのテーマとは言えないけど、それでも鬼太郎という作品の中にそれを盛り込んだのは、やはりそれを抜きにして真の愛は描けないと制作陣が判断したからだと思うし、私も臭いものにフタをして愛だの平和だのを語る作品は今を生きる人々には届かない、それこそ正に「子供だまし」の作品になってしまうのでは?とそう言いたい。

 

さいごに(ネガティブ・ケイパビリティという考え)

ちょっと疲れて来たのでこれで批判は終えるが、最後にこの『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』の筆者にネガティブ・ケイパビリティという考えを伝えよう。

 

ja.wikipedia.org

ネガティブ・ケイパビリティは詩人ジョン・キーツが提唱した「不確実なもの・未解決なものを受容する能力」を指す言葉で、不確実な状況や答えのない問題に直面した際に、すぐに結論を出そうとせずに、その状態を受け入れることで新たなアイデアや発見が得られるという、思考の柔軟性につながる考えだ。

 

原作のあるアニメや映画・ドラマにおいて、どうしても自分にとって納得のいかないもの、理解出来ない点が生じるのは仕方ないし、その全てを受け入れるのは難しい話ではある。ただ、納得出来ない・理解出来ないからと言って、それを作り手側の問題として安易に非難・批判するのは違うのではないかと私は6期やゲ謎を批判している文を読んでいて常々思う訳であって、

・原作と違うからといって制作陣が勝手な思想で作品を改変したのか?

・矛盾点を単に制作側の怠慢と考えるのは乱暴な思考ではないのか?

・何故それだけの情報で「制作陣にリスペクトがない」と断定的に言えるのか?リスペクトの仕方が我々ファンが思っているのとは方向性が違うだけの話なのではないか?

・自分のセンスに合わないだけの話を制作側の落ち度のように語っていないか?

とまぁ色々と突っ込みたいことがある。以前起こった水木プロの炎上騒動にしても、一部のファンはすぐ納得出来ない部分を「ファンをバカにしている」とか「その作品に対するリスペクトがない」「水木先生が死んだのを良いことに好き勝手変えている」といった短絡的な結論に飛びついていて、やはりネガティブ・ケイパビリティというか、一旦考えを保留するということの出来ない人があまりにも多いなとガッカリさせられたものだ。

 

そういや、さきほどの「世間の評価と個人の愛着について」という記事で

そしてあるゲゲゲの謎のファンの方のブログ様に誘導され、よく見て学ぶよう仰せつかりました。

自分としてはせっかく当ブログにお越しいただいたのですからご自身の率直なご意見をお聞かせいただきたかったのが本音です。

偶然にも誘導して頂いたブログ様は6期放送当時から愛読していた方で、久方ぶりの対話の機会を得て双方の意見を交換し一旦の和解に至ったことはありがたいことです。

と書いてありましたが、私は和解したつもりはないです。理解出来ないこと・納得のいかないことを制作側の問題、それも原作を蔑ろにしたものとして主張するのは人の努力や苦労を読み取ろうとせず、一方的な価値観を押し付けるだけの、幼稚で雑な論理だとそう思ってます。私は制作陣に最低限のリスペクトを払えない人と和解などしません。何かを、そして誰かを否定するのは簡単に出来るからこそ、慎重かつ丁寧に、そして様々な制作的事情や制約もある程度は考慮に入れた上で批判しないといけないと思っているし、仮にそこでモヤモヤが生じたとしても、それを抱え込めずに制作側の不手際・怠慢・リスペクトのなさという短絡的結論で片付けようとしてもらいたくない。ひとまずこれだけは言ってこの文を終える。

 

tariho10281.hatenablog.com

【その2】に続きます!

セドナって海の〇〇〇じゃないか!!【1989年版「悪魔くん」 #17~20】

好きなジブリ映画は「千と千尋の神隠し」と「平成狸合戦ぽんぽこ」のタリホーです。「千と千尋」は人生で初めて映画館で観た映画なので、内容もさることながら当時の映画館の混雑ぶりも(小学校低学年ながら)よく覚えているのですよ。

(ちなみにその当時観に行った奈良の映画館はなくなっており、現在はマンションになっているのが少し寂しさを感じる)

 

17話から20話までのあらすじ

悪魔くんヒット曲集&オリジナル・サウンドトラック

今回配信されたのは17話「伝説の魔鏡アニマムディの予言!?」から20話「遠い海から来たセドナまで。

 

17・18話は中国の白悪魔でアニマムディの魔鏡に封印された視鬼魅の予言を聞いて自分がこの世界の救世主だと思い込んだ大林寺魔州悪魔くんを倒そうとするお話。魔州の使い魔であり魔界から追放されていた悪魔ベルゼブブは占い師に化けて悪魔くんを探し出し、自身が持っている占い杖で悪魔くんメフィスト2世を追い詰めるが、ユルグにその術を見抜かれ敗北。ベルゼブブが負けたことを知った魔州は一番弟子の灰怒羅を刺客として送り込み、アニマムディの魔鏡のある場所へ向かっていた妖虎・ユルグを金縛りの術で拘束し悪魔くんたちを窮地へと追い込む。

19話は東嶽大帝の手下で楽器を操る悪魔アムドスキアスがインドの子供たちを覚めない悪夢の世界へ閉じ込め苦しめる事件を起こす。この事件でガンジス川一帯の人々の嘆きと祈りを知ったインドの四賢人は、これを悪魔くんの力不足であると咎め彼を連行、ソロモンの笛を没収してしまう。ソロモンの笛を奪われた悪魔くんはアムドスキアスによって夢魔モーラが支配する夢魔界地獄へ落ちてしまうが、十二使徒の助けも借りられない絶体絶命の状況で悪魔くんはその試練を乗り越え、四賢人からソロモンの笛を返してもらう。

そして20話は悪魔くんたちが海水浴に行った漁村で度重なる海難事故が起こっており、沖にいる海坊主が仕業ではないかと噂されていたが、村の少年ヒロシはセドナという海坊主の仕業ではないと強く主張、話を聞いた悪魔くんたちは真相究明に乗り出し、事件の真犯人である海の悪魔グラウコスと戦うことになる。

 

ということで今回も新たな敵や脅威が登場し、今まで以上の窮地と困難に対峙し乗り越えることになった悪魔くんだったが、その点に関しては後ほどレビューするとしてまずは登場したキャラについて語っていこう。

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

17話に登場した悪魔ベルゼブブはヘブライ語「ハエの王」を意味し、『地獄の辞典』の挿絵でも羽根にドクロマークの付いたハエとして描かれている。ただし本作や原作の「悪魔くん」においてはハエの姿ではなく以上の画像のような姿で登場する。ちなみにベルゼブブは「ゲゲゲの鬼太郎」では「UFOの秘密」という作品でも登場するのだが、こちらは『地獄の辞典』の挿絵と同じビジュアルのベルゼブブになっている。

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

そして19話で登場したインドの四賢人の従者のフランネールは貸本版から登場しており、貸本版では八仙と呼ばれる仙人たちに仕えるインドの呪医という設定だ。背中に飼っている人魂を乗り物にしていたが、この人魂も貸本版の時点で登場する。貸本版ではヤモリビトに憑依されてしまった佐藤(悪魔くんの家庭教師)が、このフランネールが飼っている人魂を食べたことで何とかヤモリビトに身体を乗っ取られることなく済んだ…という展開が描かれている。

 

同じく19話で登場したインドの四賢人は古代インドの『マヌ法典』という聖典に記された四住期を元にしたキャラクターだが、四住期というのは人生を学生(がくしょう)期・家住(かじゅう)期・林住(りんじゅう)期・遊行(ゆぎょう)期の四つに分けて、それぞれのステージにおける規範に即した生き方をすることで幸せに生きられるという考えである。

具体的には、

【学生期】8歳~25歳ごろの期間。文字通り目上の人の下で身体と精神を鍛え生きるための術を学ぶ期間。

【家住期】25歳~50歳ごろの期間。一家の大黒柱として働き、神仏を祀りながら家族や信仰を大切にする期間。

【林住期】50歳~75歳ごろの期間。仕事や家族から距離をとって林の中で修業や瞑想をする期間。

【遊行期】75歳以降の期間。人生の終わりに向けて準備を行い、現世への執着を断ち悟りを求める期間。

という感じで、最終的にインドの人は聖なるガンジス川のほとりで死を迎え、その遺灰を川に流すことで再びこの世に戻って来る。これが理想的な循環として信じられているそうだ。19話の本編で説明された内容とは違う部分もあるが、大体このような信仰があるとわかっていれば特に問題はないだろう。厳密に言うと四住期という概念はこの世界を創造した神や祖先の霊に対するお礼(債務)としてやるべきことを四つの期間に分けたものらしいが、この辺りは専門的かつ本作とは特に深い関係がある話ではないためこの辺で説明は終えておく。

 

20話で登場したセドナについては後述するとして、グラウコスについて説明しようと思ったら、何かギリシャ神話の海神だけでなくシーシュポスの子とかヒッポロコスの子とかギリシャ神話の中で何人も同じ名前のグラウコスがいるみたいで、調べているうちによくわからなくなったので、グラウコスに関しては各自で調べてくれ。(投げやり)

 

小賢しさも込みで四賢人

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

さて、今回配信されたエピソードの中では19話が特に印象に残っている人が多いと思う。確か前にもYouTube でこの19話が配信されていたのを見た記憶があるのだけど、改めて見てもこのインドの四賢人は小賢しいことをするなと苦笑してしまった。

 

薄々気づいている人もいるかもしれないが、13話のなんじゃもんじゃの事件以降の悪魔くん十二使徒の活躍を見ていると、実は悪魔くんたちだけで倒せた敵は17・18話に登場したベルゼブブや灰怒羅くらいで、それ以外の敵に関しては実質黒星の結果に終わっているのだ。悪魔クエレブレを封印したのは妖精の女王ティタニアだし、ウォーミィ―にしても妖精キララのペンダントがなければ退治は不可能だった。そして大林寺魔州を無力化したのは他ならぬ視鬼魅であり、多対一の戦いにもかかわらず悪魔くんたちの戦績は芳しくない。幸いにも善なる味方が強いパワーを持っていたから何とかなっているというだけの話であって、ティタニアや視鬼魅といった者たちにパワーがなかったら、東嶽大帝たち黒悪魔の計画はもっと進行していたはずだし、自分のことをメシアだと思っている痛いオッサンが世界の覇権を掌握していた可能性だってあるのだ。

 

当時本作を視聴していた人はこの事実に気づきながらそれでも悪魔くんを応援していたのか、それとも「あれ?悪魔くん十二使徒も弱くね?」と思い、どこか都合の良い展開に不満を感じてアンチの側に回ったのか、そこは知る由もないが、いずれにせよ悪魔くんたちの力不足が露見して来た段階でそれを咎める四賢人が登場し、そこで悪魔くんの真価が発揮されるエピソードが描かれたのは凄く良かったと思うし、物語の中盤における中弛みを防ぐ上でも効果的だったと評価している。

 

とはいえ四賢人のやったことに関しては決して支持出来るようなものではないのだけどね…ww。

本編を見た方ならわかるけど、遠いインドで起こった事件を悪魔くんが知る方法なんてないのに、連絡もなくいきなり強制連行して「こうなっているのはお前のせいだぞ」って言うのは酷くないですか?? 一応悪魔くんはタロットカードでこの先の未来を予測することは出来るけど、それは精度の低いもので具体的な情報・状況まで予知出来るものではないから、せめてアムドスキアスの事件があった段階で悪魔くんを呼び出し、悪魔くんたちがアムドスキアスと戦ってそれでも状況が好転しないからソロモンの笛を没収した、という展開ならばまだ納得がいくのだけど。

それにこの回の試練というのは四賢人が用意したものではなく、アムドスキアスの悪だくみを利用したものというのが絶妙に小賢しいんだよ。まぁ夢魔界地獄は物理的なダメージではなく精神的なダメージを負うだけの場所だから試練に利用出来ると考えたのかもしれないし、その点に関しては四賢人によって最低限の安全が保障されていたと言えるのかもしれないけど、「四賢人」と呼ばれる割にはやり方がセコいというか、自分たちで用意したものを試練として出すのが善なる立場の流儀ではないか?と私は物申したい。

(ついでに言うと、悪魔くんだけでなく十二使徒も成長しないと悪魔くんだけ強くなっても仕方ないのでは?)

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

ちなみに余談ではあるが、夢魔界地獄に登場した角の生えたブタのような怪物はズーと呼ばれる悪魔で、コミックボンボン版の原作では「ズーの巻」で登場する。原作ではヒマラヤの魔神として悪魔くんに憑依し、周囲の人間をブタに変えて世界を乗っ取ろうとした。このズーはチベットのトクジャルン地方で実際に恐れられている魔神で、鼻から出る煙を浴びた人間は動物に変えられズーに食べられてしまうという。

 

tyz-yokai.blog.jp

同じく夢魔界地獄に登場した様々な動物の頭を持つ魚の悪魔は水木先生の世界妖怪事典で「百頭」として載っている魚であり、カビラという僧侶が同輩を猿だの馬だのと罵倒しバカにした結果、その罰としてカビラは死後海の怪物として生まれ変わり、同輩をバカにした際に口にした動物の頭を持った魚としてその頭の重さを抱える羽目になったということだ。『今昔物語集』でもこれと同様の物語が掲載されているそうである。

 

こんな感じで19話はわずかな場面にも水木先生の描いた妖魔が複数登場するのだから、そこが贅沢と言えるだろう。特に百頭はあのシーンだけ使うキャラとしては勿体ないとさえ思ってしまう。(あ、でも作画コストを考えると一瞬だからこそ盛り込めたのか)

 

セドナは海のトトロである!

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

20話で登場したセドナは小学生時代に地元の図書館で借りた世界妖怪事典で見て以来、ずーっと頭の片隅に残っているくらい強烈なインパクトを与えた怪物である。オーロラがきらめく夜空を背景に毛だらけの顔をしたセドナが中央で口を大きく開けているというあのシンプルな絵の構図が忘れられない。

 

そんなセドナはカナダのイヌイットの間に伝わる海の女神で、祖先の霊としても伝わっている。今回のアニメでは冥界の神として語られていたが、実際にイヌイットの神話でも冥界アドリヴンの支配者であり、海の神・祖先の霊・冥界の支配者という生命の根源を司るようなビッグな存在であるのだからスケールが桁違い過ぎる。多分レベルとしては閻魔大王に匹敵するのではないかな?

 

ところで、この20話だけどもう既に本編を見た方なら「おや?」って思いましたよね?ヒロシが崖から落ちてセドナの鼻の上に乗ったあの場面…

どう見てもジブリとなりのトトロそのものですよね?

 

となりのトトロ (徳間アニメ絵本)

メイが森に入ってトトロのお腹の上に落っこち、メイに名前を聞かれたトトロが「ト~ト~ロォ~~!」って言うあの下りとほぼ同じで、まさか「悪魔くん」で「となりのトトロ」をパク…(ゴホン)オマージュした演出があると思わなかったからビックリしたぞ。調べたらとなりのトトロ」が劇場公開されたのは1988年の4月ということだから、その翌年に放送されたこの「悪魔くん」を見た視聴者ならトトロをオマージュしたあの演出に絶対気づくはずだ。更に調べると、サブタイトルの「遠い海から来たセドナ」は1987年に雑誌『野生時代』に連載された遠い海から来たCOOという小説のタイトルが元になっていると主張している人もいたし、そう考えるとこの20話は当時の話題作・人気作を盛り込んだオマージュ作品として評価すれば良いのだろうか?

 

今はこういう人気作のオマージュをすると(やり方によっては)権利上の問題で訴えられたり、訴えられなくてもネット上で炎上したりと大変なことになりそうだが、まだこの当時はそこまで厳しい指摘もなかったのか、それとも私が知らないだけで実はジブリから何か言われていたのか、ちょっと気になる所ではある。

 

さいごに

ということで今回の感想は以上となるが、物語も中盤になってくると長所だけでなく短所も徐々に見えてくるというもので、これまでは長所を中心に述べていたけど敢えて’89年版「悪魔くん」の短所について指摘しておこう。

 

これは同時期に放送されていた3期鬼太郎と比べればよりわかると思うのだけど、悪魔くんは人間の主人公ということもあってか、鬼太郎と比べると戦闘時に出来ることが限られていて、

・魔法陣による仲間の召喚

・タロットカードを使った攻撃

メフィスト2世からもらった風呂敷マントによる防御

・ソロモンの笛

とせいぜい片手で数えられる程度の手段しかない。だからどうしてもバトルシーンになると3期鬼太郎のような派手な戦い方が出来ない訳で、そこはどう贔屓目に見ても見劣りしてしまう。一応実戦要員として十二使徒がいるにはいるが、とはいえメフィスト2世みたいにオールマイティに活躍出来ているメンバーは少なく、活躍の度合いに差が生じているのも否めない。

 

あと前述したように、13話以降は悪魔くん十二使徒でも倒せない敵が登場しており、結果的にティタニアや視鬼魅、そして今回のセドナといった善なる者の力で事態を収束させるしかないのが物語としてやや単調になっていると指摘出来るのだ。「鬼太郎」でも迦楼羅様やガマ仙人といった方々の力を借りてようやく鬼太郎が悪い妖怪を退治したというケースがあるけど、基本的には鬼太郎の仲間だけで悪い妖怪を退治出来ていたし、そうやって比べると悪魔くん十二使徒はいささか弱すぎると感じてしまう。

勿論設定の都合もあるから、そう易々とパワーアップさせる訳にもいかないだろうし、ここから十二使徒の本領が発揮されるという展開もあるかもしれないので批判としては今回はこれで終えておく。次回はこうもり猫の元上司が登場するようだが…?

二代目が抱える問題と課題【2023年版「悪魔くん」 #3・4】

©水木プロ・東映アニメーション

タリホーです。現在YouTube で配信されている1989年版と並行して視聴をしている2023年版「悪魔くん」について、前回のレビューで久々に複数の方からコメントをいただいたので、本編の感想に移る前にいただいたコメントに対しての個人的な意見を少しばかり述べさせていただきたい。

 

肯定派と否定派における意見の一体感の違いについて

前回いただいたコメントはいずれもこの新作に対する否定的な意見であり、2025年の東映アニメーション株主総会でも本作が失敗例として取り沙汰されたというくらいだから、本作を失敗作・駄作だと思っているファンが数多くいることは否定出来ないし、いただいたコメントを読んでも特別支離滅裂な批判をしている方はいなかったので、私としては否定派の方々に対して「『ゲゲゲの謎』は矛盾だらけ」のように、手厳しい反論をするつもりはない

 

ただ、Twitter(X)ではこの新作を好意的に視聴しファンアートまで描いているファンがいる以上、いただいた意見をそのまま鵜呑みにして全否定するような批評を行うのはダメではないかとも思っているし、絶賛或いは酷評という極端な批評をしてしまうのは私の信念に背くことになる。それに肯定的な意見が届かなかったからと言って肯定派がいないということにはならないし、これまでの経験上、肯定派の意見と否定派の意見とでは否定派の方が一体感が強い傾向があるため、その辺りを把握した上でフラットに作品批評を行わないと、単なる粗探しや悪口大会みたいなことになってしまう危険性があるのだ。

 

それを説明するために一例として「ゲ謎」を挙げるが、ゲ謎を評価している人が全て同じポイントを評価しているという訳ではない。ネット上のファンアートや二次創作などを見てもゲゲ郎と水木の関係性が好きな人が多いのはわかるが、私は二人のバディ要素はそこまで高く評価している訳ではないし、二人のバディ要素が好きだと言っている人がこの映画における脚本の秀逸さだったり社会背景の描写や妖怪の描き方といった所にまで目を向けているとは正直思えない感じがする。つまり、肯定派は「好き」の方向性がバラバラであり、自分の好きなポイントを知った段階で満足してしまうため他の長所を知ろうとする意識が低く、それゆえ肯定派同士の意見に強い一体感はないのである

一方否定派は大体において「嫌い」だと思うポイントが同じであり、それを共有しようという意欲が強い(=自分の意見や考えが正しいことを認めてもらいたい思いが強い)から、否定派の意見は一体感がある上に否定出来るものなら作品だけでなくそれを支持するファンの言動・制作陣の態度や思想すらも否定材料にしてしまう。だからどうしても否定派の方が声が強くなったり、或いは攻撃的な論調が目立つ。YouTube でも絶賛よりも酷評レビューの方が再生回数が多い傾向にあるから、それだけ否定的な意見は一体感が生まれる上に目に入りやすいのだ。

だからこそ私は否定的な意見が多いからと言って安直にマイナスの意見に傾くのはいかがなものかと思うし、素直に良いと感じたポイントには好意的な評価が出来る人間でありたいのだ。勿論これは逆もまた然りで、周りが絶賛していても自分が苦手だとか嫌いだと思う所はしっかり言語化してレビューしていく所存だ。

 

それに、私は度々自分が書いた記事を読み直すことがあるのだけど、否定的なことばかり書いている記事なんて読んでいてもあまり面白くないし、仮に今回の2023年版「悪魔くん」切っ掛けで水木先生の作品に興味を持ったファンがいて、否定的なことや攻撃的な論ばかり書いているブログに出会ったら「え、水木しげるのファンってこんなに攻撃的な人ばかりなの?怖いんですけど…」ってなりません?

一応当ブログは水木作品の布教も込みで作品批評を行っているので、誰に見られても恥ずかしくないレビューで、なおかつ多面的な物の見方を助けるレビューを目標としているので、コメントを送っていただく方もファン以外の人も見ていることを意識した上で意見を述べていただくことをお願いしたい。

 

実はここ数日送られて来たコメントの中にマナーの悪いものが目立ってきており、「ゲ謎」や6期鬼太郎を否定している人に対して「あの人は人格障害だから別の意見が受け入れられない」といった誹謗中傷コメントや、自分の意見や私に対する問いかけもなく「ゲ謎」アンチスレのURLだけを送りつけて来た人がいたので注意した。肯定するにしろ否定するにしろ一定の線引きや加減をわきまえず、最低限のマナーを守れないコメントは非承認という形で伏せさせてもらうので、そこを理解していただいた上でコメントを送っていただけると幸いだ。

 

感情や未来に対する視野が欠けている二代目

前置きが長くなったが本題に入ろう。3話と4話はそれぞれ一話完結の物語で、3話「強欲」では大悪魔サタンの肉が食べたいという狂人美食家の塔婆山の依頼(というか脅迫)を受けて悪魔くんはサタンの召喚を行い、メフィスト3世は命の危機に晒されながら悪魔くんと共に塔婆山の屋敷からの脱出を図る。そして4話「嫉妬」は映画監督の江井の依頼で、亡くなった友人で同じ映画監督の尾東がお蔵入りにした映画のフィルムを探すというお話だ。人間の欲や嫉妬といった感情をテーマにしたエピソードだったが、その前に指摘しておかなければならないのは二代目悪魔くんこと一郎の心理的欠陥である。

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©水木プロ・東映アニメーション

初回の段階で二代目は(初代で養父の真吾と違い)かなり性格的に問題のある人物として描かれており、初代を「クソ親父」呼ばわりする点も含めて’89年版のファンが本作に対して嫌悪を抱く理由の一つになっているのは間違いないが、少なくとも3話の様子を見る限りだと二代目が初代を「クソ親父」と呼ぶ理由に生理的嫌悪が絡んでいないと考えて良いだろう。生理的な理由で嫌っているのなら机を挟んで真向かいに座ることさえ嫌がるはずだし、積極的に距離をとろうとするのではないだろうか?

 

こういった養父に対する言動もさることながら、今回の3・4話では十中八九死につながるリスクがあるサタンの召喚を知的好奇心から行ったり、「友情というものなど存在しない」と一蹴するなど、言動に問題のある様子が見受けられた。これに関してはYouTube で配信されたアフターラジオの第二回(現在は非公開)でも言及されており、一郎の声を担当した梶裕貴さんは総監督の佐藤順一氏に「人としての気持ちがわからないとか想像もつかないし興味もないっていう表現をしてください」と注文を受けて、あのような声の表現をしたと述べている。

 

本編の描写や佐藤監督の注文から考えても二代目悪魔くん人間の感情が理解出来ない問題を抱えたキャラクターとして設定しているのは明らかであり、それゆえ人間の幸福というものが何なのかもよくわかっていない。言い換えれば未来に対するビジョンが何も描けないという問題を抱えた青年だと評することが出来るだろう。

 

幸福の形や理想は人それぞれであるものの、「未来に対する希望・展望」は幸福を語る上で絶対条件だというのが私なりの持論であり、それに当てはめて論ずるなら二代目悪魔くんの言動やライフスタイルには幸福というものが感じられない。

例えば、二代目はホットケーキやお菓子などをよく食べるが、少しでも長生きして色んな場所や人に出会い自分を充実させたいという未来に対する希望があるなら食生活を見直そうとするはずだし、自分が死んで悲しみ迷惑を被る人のことを考えたらサタンの召喚などという大それた行為に及ぶことはなかったと思う。二代目の言動は常に刹那的であり、未来というものに対する視野が抜け落ちているのだ。

大抵の人は過去の経験や現在の状況を元に「こうしていきたい」「もっと豊かな生活を送りたい」或いは「このままの状況を維持したい」といった未来に対するビジョン=理想を描けるのだけど、この二代目に関しては未来を描くための指標となる過去が欠落しており、だから自分の望む幸福がわからないのではないかと考えている。そして本作の二代目に課された使命というのは初代のように人間に不幸をもたらす悪魔を退治することではなく、自分の欠落したものを理解し、その上で人類の幸福とは何か、そして自分自身にとっての幸福とは何かを見出すことが課題なのではないかとそう私は考えた次第である。

 

悪魔くん「境界の番人」でなければならない

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©水木プロ・東映アニメーション

’89年版は「悪魔が人間を不幸にするものであって人間自体が悪ではない」という性善説的な描き方をしていたと思うが、本作では人間自体が欲や嫉妬心から他者を傷つけ破滅させるという描写になっている。1・2話の朝凪ヒナの母は娘に対する支配欲求があったし、3話の塔婆山は未知なる味への探求心、4話の江井監督はライバルに対する嫉妬と憧れという感情があった。これは何も悪魔によって焚きつけられたものではなく彼ら自身が元々持っていた欲求・感情であり、サタンやグレモリー、そしてレヴィアタンといった悪魔たちは間接的に関わったに過ぎない。

 

こういった人間模様を経た上で二代目は全人類が幸福で平和な世界、いわゆる千年王国を実現させるにはどうすれば良いかを模索しているようだが、’89年版は東嶽大帝という明確なラスボスがいて、それを倒すことをゴールとしているから物語としての着地点がわかるのに対し、今回の新作は(この時点で)物語としてのゴールが見えない。’89年版ならともかく、本作に関してはサタンやレヴィアタンといった悪魔を倒せば人類が幸福になるなどという単純明快な構成にはなっていないし、人の幸福の形は千差万別であることは前述した通りである。

 

以上のような課題・難点を踏まえた上で、では二代目「悪魔くん」はどういう役割を果たさなければならないのかという話をするが、私の個人的な意見としては、悪魔くん人間が抱く「願い」と「欲」の境界線上を常に監視し、人間が自分自身の意志や悪魔の焚きつけによって「欲」の方向へ向かわないよう働きかける存在、要は境界の番人としての役割を果たすべきだと思う。

人の幸福の形が千差万別である以上「こういう社会にすれば人類は幸福になる!」という押しつけがましい社会改革をするのではなく、個人個人の「願い」が他者の自由や権利を侵害してまで叶えようとする「欲」へ転じてしまわぬように常に行動するのが本作における悪魔くんの使命だと思うのだ。それだけ人間の願いと欲は表裏一体であり、邪悪な悪魔はその欲を焚きつけて人類を不幸にし自らの糧とする。少なくとも1~4話における人間と悪魔の描写や世界観を見ると、どちらか一方を対処すれば世界が幸福になるという訳ではなさそうなので、当初の貸本版「悪魔くん」のような悪魔の使役による世界革命では現代の人々の幸福は保証出来ないのではないかと考えた次第である。

 

さいごに

ということで4話までの感想は以上の通り。3話で登場したサタンは’89年版では劇場版で登場するらしいので、後日配信される劇場版が楽しみである。4話は友情を逆説的な手法で描いていたのがユニークで面白いと思ったが、アニメ作品としては台詞が多い分アニメーションとしての面白みに欠けたのは否めないかな? どちらかと言うと小説でやった方が効果的な話だったと思う。

 

あとこれは凄~くマニアックな不満なのだけど、4話で二代目悪魔くんが自身の心臓の肉を条件にフィルム探しをグレモリーにやらせる下りがあったけど、あの下りで出て来たシェイクスピアの引用というのはシェイクスピアの戯曲であるヴェニスの商人であり、この戯曲において「肉は1ポンド切り取っても良いが、契約書に書いてないから血は一滴も流さず切り取ってね? 流したら契約違反で全財産没収だから?」という、まるで一休さんのとんちのような展開があるのだ。この引用自体は洒落ていて良かったと思うのだが、

 

©水木プロ・東映アニメーション

そこでシェイクスピアを使うのなら悪魔レヴィアタンの目もシェイクスピアの『オセロ』にちなんで緑色にしてほしかったなー…目が赤色というのは詰めが甘いよ?

 

そう言えば前回いただいたコメントで本作が6期鬼太郎と同じプロデューサー・脚本家が担当していることから、6期鬼太郎の二番煎じだという批判があったが、確かに二代目悪魔くんの未熟さは6期鬼太郎を彷彿とさせるものがあるし、古川登志夫さんは6期鬼太郎でねずみ男の声を担当していたから、3話でメフィスト3世が二代目を殴る場面は6期の名無し編でねずみ男が鬼太郎を殴る場面とどうしてもダブってしまう。人間のダークな感情にスポットライトを当てる所も含めて6期鬼太郎と共通項が多く、「鬼太郎」とやっていることが同じだと言われるのも当然だろう。

ただ全部が全部同じという訳では勿論ない。6期鬼太郎は「多様性」が物語の重要なテーマだったが、本作は多様性を訴えかけるようなテーマではないし、二代目悪魔くんの未熟さにしても厳密には6期鬼太郎とは質が違う。6期鬼太郎は人間との対話不足や偏見が原因の未熟さだったが、本作の悪魔くんは生育環境が未熟さの原因であるのはほぼ間違いないし、そういった違いに目を向ければ「二番煎じ」という批判は言い過ぎな気がするが、どうだろうか?

 

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©水木プロ・東映アニメーション

あと前回気になっていたことだが、’89年版が放送されてから30年以上も経過しているにもかかわらず、初代悪魔くんの見た目は昔と寸分変わらないのに対し、エツ子と結婚したメフィスト2世は大人の姿になっている。片や百目とこうもり猫は初代と同様昔のままなのだから、一体どうしてキャラクターごとに成長度合いに差があるのか不思議で仕方なかったのだが、4話のエンドロールで魔界と人間界とでは時間の流れに差があり、魔界に長く留まっているから百目やこうもり猫・初代悪魔くんは年をとらずに済んでいるのではないかと本人の口から言及されている。要は「浦島太郎」の竜宮城みたいなものであり、こうして本編の中で説明があったことは良かったのだけど、では何故初代悪魔くんは人間界から離れて魔界の「見えない学校」を本拠地としているかが謎であり、この謎もいずれ説明されるのか気になる所ではある。

 

ただ、本作を’89年版の続編として見ると、初代悪魔くんを人間界から隔離し、「見えない学校」で隠居老人同然に暮らしているという設定にしたのは悪手ではなかったかと思う

’89年版は今の所19話まで見た状態で止まっているから断定的なことは言えないけど、19話の時点で初代悪魔くんは地獄界のエンマ大王や妖精界の女王ティタニア、更に悪魔くんの登場を予言した視鬼魅にインドの四賢人と様々な種族から世界平和の願いを託された存在であり、本作を’89年版の続編として描くということは即ち初代に託された世界平和がまだ達成されていないということになってしまう。そして、その任務というか使命が完全達成されていないのに、当の本人が魔界の「見えない学校」に引きこもっている時間が長いというのは、どうしても違和感を覚えずにはいられない。その辺り納得のいくような説明があるのか気になるし、なかったとしたらそれは「失敗作」と言われても無理はないかな。

ティタニアさん、出来れば日本語でお願いします【1989年版「悪魔くん」 #13~16】

タリホーです。大学生の頃の英語の授業が日本語NGのオールイングリッシュ形式の授業だったのですが、一度講師の人が問題に答えられるまで何回も私を指名してきたという嫌な思い出があるので、英語のリスニングや会話に対して若干のアレルギー的な忌避感があるのです。

 

13話から16話までのあらすじ

悪魔くんヒット曲集&オリジナル・サウンドトラック

今回配信されたのは13話「絶体絶命! 超怪物なんじゃもんじゃから16話「氷の妖精キララが流す虹色の涙」まで。

 

13・14話は前後編のエピソードで、油すましと小豆とぎの罠によってなんじゃもんじゃと呼ばれる怪物が生み出されてしまい、悪魔くんたちは窮地に立たされる。この二体の妖怪はかつて妖怪と悪魔の戦争の際に天岩戸に封印されており、その封印を解いたのは地獄のエンマ大王だという。事件の背後に地獄界の企みを読み取った悪魔くんたちは、メフィスト老の助けを借りて、地獄のエンマ大王のもとへ向かう。

15話は蝶の妖精・モス悪魔くんを敵とみなして襲いかかる。夏休みのキャンプで標本のための蝶を採取していた百目と悪魔くんの同級生は森の妖精界へとさらわれてしまうが、そこでは森の妖精界の女王・ティタニアが長い眠りについており、その隙を乗じて悪魔クエレブレがモスをそそのかし悪魔くんを倒そうとしていた、というお話。

そして16話は真夏の蒸し暑い晩に、南極から氷の妖精・キララが瀕死の状態で悪魔くんの自宅へやって来る。キララが住む南極の氷の国・フィンダーガットで守り神のウォーミィが突然暴れ出しどうなだめても落ち着かない。ウォーミィの暴走を止められなくなったキララは悪魔くんに助けを求め、それに応じて悪魔くんたちは南極のフィンダーガットへ向かう。

 

ということで今回の4つのエピソードは東嶽大帝の暗躍により地獄界と妖精界で起こった混乱を描いた物語となったが、人間と悪魔という二つの種族に加えて妖怪や妖精まで介入して来たことで、より壮大な物語になってきたような気がする。

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

それはさておき、13・14話で登場した油すましと小豆とぎは「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場する妖怪だが、鬼太郎の方では比較的穏健なこの二体が「悪魔くん」ではなんじゃもんじゃを操り悪魔くんたちを倒そうとするのだから、そのギャップに驚かされる。

なんじゃもんじゃは本来正体不明の樹木を呼ぶ時に用いられる呼称なのだが、本作では顔面獣という怪物とタコ足状の触手を持った怪物が合体したものとして描かれており、巨大なドクロから触手が生えた毒々しいビジュアルがインパクト抜群である。頭にはプロペラがあって飛行が可能であり、触手はメフィスト2世のシルクハットのカッター攻撃でも切断出来ないほどの硬さ。象人の能力で何とか頭部にダメージが与えられたという程度で、エンマ大王が霊波玉を壊さなければ退治は不可能だったのではないかと思われる。このなんじゃもんじゃが登場するエピソードは山田版「悪魔くん」に収録されているみたいなので、後日原作を買って読んでみようと思う。

 

lineup.toei-anim.co.jp

ちなみに、なんじゃもんじゃとほぼ同じビジュアルの植物兵器「妖怪樹」が4期鬼太郎の92話「百目とぬらりひょんで登場するので、気になる方はチェックしてみてね。そして顔面獣とタコ足怪物が合体してなんじゃもんじゃになる下りは恐らく貸本版の「墓場鬼太郎」における夜叉とドラキュラ四世のエピソード(アニメだと第2話)が元ネタだと思われるのでこれも要チェックだぞ。

 

15話で登場したモスはコミックボンボン版「悪魔くん」の「怪蝶モスの巻」で登場する敵なのだが、蝶を標本のために採取しようとする悪魔くんたちを襲ったという動機面に関しては原作と同じものの、ストーリーは原作とアニメとでは全く違っており、原作では幽子の活躍によってモスが退治されている。モスのビジュアルも原作はカチューシャを着けた普通の少女姿なのだが、アニメの方は背中に蝶の羽が生えたメルヘンチックなビジュアルに改変されている。

モスは元々ヨーロッパに伝わる死者の魂の化身であり、死者の口から蝶や蛾となって出て来るという。原作のモスは相手の魂を抜き取るという元の伝承に基づいた能力があるのだけど、今回のアニメではそういった原作の設定や元の伝承がカットされ単に蝶の妖精として描かれているため、そこが正直改悪というか味気無さを感じてしまう所ではある。

 

ティタニアは何と言ったのか?

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

今回見ていて一番気になったのは15話の終盤、森の妖精界の女王・ティタニアが悪魔クエレブレを封印し、再び眠りにつこうとするシーンだ。

悪魔くんがソロモンの笛を吹く直前にティタニアは「レテレム、サリバード、クラターレス、ヒサーテル」という言葉を(私の耳が確かならば)残している。ここの場面はなかなか感動的な場面だから印象に残っている人も多いと思うし、そんなシーンに対して水を差すような無粋な発言をするのもどうかと思うが…

あれってどういう意味の言葉なの?

 

一応ネットで色々検索してみたけど、言葉が間違っているからなのか該当するような情報が見つからず、私自身語学に堪能な人間ではないから答えを推測することすら出来なかった。調べたらティタニアはシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」に登場する妖精の女王らしいから、もしかしたらその戯曲の一節を引用したのかもしれないと勝手に考えたのだが、もしこの言葉の意味を知っている方はコメント欄に情報を送っていただけるとありがたい。喉の奥に刺さった小骨、とまではいかないけど引っかかって仕方がないので。

 

ウォーミィは不吉虫だった!?

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

16話で登場したウォーミィについて調べていたら、どうも同じことが気になった方がいるようで以下のツイートを見つけた。

 

こちらのツイート主が調べた情報によると、ウォーミィはコミックボンボン版の「妖虫の巻」に登場する不吉虫をアレンジしたものだそうで、ウォーミィという名前も「虫=ワーム」からとったものではないかと推察されている。

私は原作で不吉虫がどういうものか知っていたけど、このツイートを見るまでまさかウォーミィのモデルが不吉虫だとは全然わからなかった。というのも、原作で登場する不吉虫というのは人間界にある鉄を食べて成長する毛虫姿の妖虫であり、見た目は勿論のこと食べるものや退治方法までアニメのウォーミィと違うのである。

 

こうして指摘されてようやく「言われてみればウォーミィの氷を食べる様子が不吉虫の鉄くずを食べる所に重なるな」とうっすら感じる程度で、その程度の共通点しかないのだから普通に見ているだけではわからない情報だ。まさか鉄を食べる毛虫の化け物が南極の妖精たちの守り神になるなんて思わないでしょ?

 

さいごに

ということで今回の感想は以上となるが、13・14話が地獄や妖怪を扱った東洋的ファンタジーに対し15・16話は妖精という西洋的ファンタジーの物語になっており、こうしたテイストや世界観の違いも’89年版「悪魔くん」の長所と言えるかもしれない。

 

そう言えば、なんじゃもんじゃのエピソードは水木先生が生み出したものだけど、油すましと小豆とぎがコンビを組んで悪魔くんを壺に封じるというプロット、そしてこの二体の妖怪の背後にエンマ大王がいるという設定は恐らく西遊記』の金角・銀角を意識したものではないだろうか?

金角・銀角と言えば、返事をした相手を吸い込んでしまう瓢箪(紫金紅葫蘆)が余りにも有名だが、正に今回悪魔くんが封じられた壺はこの瓢箪を彷彿とさせる。それに原典となる『西遊記』では金角・銀角の正体は太上老君の弟子であり三蔵法師一行に試練を与えるため悪役を演じていたということになっているのだが、これなんかも油すましと小豆とぎのバックにエンマ大王がいた、という設定に通じていると思う。

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

更に言えば、エンマ大王の左目から本体となる仁王が出て来るというシーンがあったけど、これなんかは西洋のファンタジー小説であるオズの魔法使いを彷彿とさせるものがある。勿論、エンマ大王の力はオズのようなまやかしやペテンではなく実力によるものだから、あくまでも共通しているのは「立派で巨大な存在が実は見掛け倒しの小物だった」という表面的なものに過ぎないのだが、それでもこういった描写を見ていると'89年版「悪魔くん」には(洋の東西を問わず)古典的なファンタジーの要素が詰まっているし、そういった古典的名作を勉強した上で形にした水木先生とそれをアニメーションとして具現化する東映アニメーションのスタッフ、この双方の力によって成立したアニメ作品だということがヒシヒシと伝わってくる。

 

それにしても、今回はなんじゃもんじゃといいクエレブレといい、そしてウォーミィもそうだけど悪魔くん十二使徒でも倒せない敵が出て来ているのが気になるな。これから先もっと強大な敵が出るのは間違いないのに、果たして悪魔くんは今の状態からレベルアップしてより強くなれるのか、ちょっとその点を今後は注目していきたい。

舞台「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」観劇レビュー(演劇ならではの迫力と違和感について)

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タリホーです。舞台「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」(大阪公演、1月30日)を観劇して来ました!

 

昨年舞台化の情報が解禁された時、実を言うと「まぁやるだろうな」とは思っていたんですよ。短い出番でもインパクト抜群のキャラが複数いて、一人一人が際立つ個性を放っている。そんな作品だからいずれは舞台化されてもおかしくないだろうと思っていたらこうして実際に舞台化が決まり、チケット抽選にも当たって生で鑑賞することが出来たのは本当にラッキーだったと思う。

ということで記憶が鮮明なうちに本作のレビューをしていくことにする。ネタバレありのレビューとなるのでそこのところよろしく。

 

(以下、舞台ならびに映画本編のネタバレあり)

 

まさかの「信長と蘭丸」コンビ

本作でゲゲ郎と水木を演じたのは俳優の鈴木拡樹さんと村井良大さん。お二人とも舞台俳優として有名な方で、共演経験もある。お二方は過去に戦国鍋TVという歴史バラエティ番組で織田信長森蘭丸をモデルとした「信長と蘭丸」というアイドルを演じており、今回の舞台キャストが発表された際に一部のファンの間でざわつきがあったのは、この番組での共演経験があったことによるものだ。

 

私は舞台や演劇方面には疎い方なので本来なら「へー、主演の二人はそんな変わった番組に出てたんだねー」くらいの感想になるのだけど、

あの、私「信長と蘭丸」メッチャ存じ上げてます。(笑)

 

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俳優の間宮祥太朗さんのファンとして大学生の頃から応援している私は間宮さん経由で「戦国鍋TV」を知り、そこで「信長と蘭丸」とか「AKR四十七 フィーチャリング 吉良」とか見ていたし、番組内で鈴木さんと村井さんがどういうキャラを演じていたのか知っていたので、私も「あの『信長と蘭丸』がゲゲ郎と水木をやるんだ!」とざわついた一人である。村井さんは「戦国鍋TV」では色んな役を演じていたから俳優として芸達者な方だというのは知っていたし、鈴木さんは独特の色気がある方だと思っていたから、今回の配役もピッタリだと思った次第である。

 

そういや鈴木さんは2019年にアニメどろろ百鬼丸の声を担当していたけど、あのアニメも見ていた私としては、今回鈴木さんがまた妖怪関係の作品に関わっているという所に言葉に出来ないエモさを感じた。「どろろ」と言えば水木先生の「ゲゲゲの鬼太郎」の影響を受けて生まれた作品だと聞いているし、手塚治虫原作の作品と水木しげる先生原作の作品両方に関われるというのは願っても叶わない奇跡と言って良いからね?

 

見応えあるアクションシーン

本題に入ろう。今回の舞台は映画で山田記者や鬼太郎・猫娘が登場した現代パートを除いた昭和31年のパート、すなわち時貞の逝去から鬼太郎の誕生までを描いた舞台劇となっている。上演時間は映画よりも少し長めの2時間であり、展開はほぼ映画と同じながらも一部「ゲ謎」の初期脚本で描かれた設定に基づいて改変された箇所や追加された台詞などがある。この初期脚本は日本シナリオ作家協会が発行した『'23年鑑代表シナリオ集』に収録されているので、興味のある方は購入してチェックしてみると良いだろう。

 

映画を何回も視聴した一人の鬼太郎オタクとしては、脚本はともかくどのように映画の各場面を演出するのか、そこが一番気になった所ではあるが、個人的に今回舞台を観て特筆しておきたいと思ったのは見応えあるアクションシーンだ。

「ゲ謎」におけるアクションシーンと言えば、禁域の島での妖怪たちとのバトルや、中盤の裏鬼道とのバトル、終盤の時貞が召喚した狂骨とのバトルなど色々あるが、今回の舞台ではこのバトルシーンにそれなりの尺が費やされており、本編の3倍くらいの尺を使って(あくまでも体感だけど)鈴木さん演じるゲゲ郎のバトルを見ることが出来る。これが結構迫力があって良かったし、興奮して肌がゾクゾクしたのを覚えている。

 

個人的に一番印象的だったのが最初の禁域の島でのバトルシーンだ。映画本編では一声叫びや松明丸、一つ目坊といった様々な妖怪に追われながらゲゲ郎と水木が脱出するシーンだけど、今回の舞台では映画にも登場した妖怪・大百足をメインに据え、この大百足とゲゲ郎との大立ち回りを映画本編よりもじっくり行っていたのが印象に残った。この大百足も頭部は大道具として作成されたものを黒子役が持ち、胴体となる足の部分は数人の黒子役が担うという連携プレイによって、大百足の巨大な身体を表現していた。

胴体部分は島根の石見神楽における大蛇のように、ちゃんと大道具として作成しても良かったのではないかと正直思ったが、そうなるとゲゲ郎の身体が隠れてしまう瞬間が出来てしまうし、主役となるゲゲ郎のダイナミックな身体の動きを見せる上であのようにアナログな手法で大百足を表現したのは正解だと評価したい。特に大百足がとぐろを巻いてゲゲ郎を締め付ける所は胴体が実際に作られていた場合、ゲゲ郎の姿が見えなくなってしまうし、客席の場所によって見え方に差が生じてしまうというのは演劇においてデメリットになる訳だから、(単に予算の都合かもしれないが)敢えてアナログな形で大百足を表現したことでゲゲ郎の身体の動きが隠れることなくずっと見られたのは凄く良かった。

 

そういや鈴木さんって現在40歳なんだよね? スゴイよな、あれだけ動けるのは大したものだよ。

 

誇張された表現の是非

舞台劇に慣れ親しんでいない人がよく指摘しがちなポイントなのだが、舞台においてはドラマや映画と違い感情表現をややオーバーな形で演じる傾向があり、今回の舞台を観劇した人の感想でもそういったオーバーな感情表現だったりデフォルメされた演出に対する違和感を述べているものが幾つか見受けられた。

私はこういった舞台劇は過去に何作も見ているから、そこはあまり気にならなかったのだが、確かに映画と今回の舞台を見比べてみると村井さん演じる水木と木内秀信さんが声をあてた水木とでは、村井さんの水木の方が感情表現がオーバーだったのは間違いない。でもそれは別に全然悪いものではないし、個人的に沙代が死亡した際の水木の慟哭に関しては映画の水木を凌駕しているのでは?と感じる凄みがあった。

 

オーバーな表現と言えば、映画で乙米の声を担当した沢海陽子さんが舞台でも乙米を演じていたのだけど、沢海さんも映画のままの乙米を演じていたとは思わなかった。ちょっと感情の出し方にヒステリックさが感じられたし、場面によっては「姉さん」の方ではなく任侠映画の方の「姐さん」という感じの、こぶしのきいた台詞回しになっていて、ここも舞台ならではの面白さ・醍醐味として私は楽しませてもらった。

地下工場のシーンも映画だとただひたすら狂骨に怯え襲われるだけだった乙米が、舞台では斧を持って振り回し必死の抵抗をするという、映画とはまた違う行動をとっていたのも見逃さなかったぞ。やはり舞台となると映画のように特定の人物に焦点をあて続ける訳にはいかないし、舞台上にいる間は全ての人間が満遍なく行動しないと、一人だけ怯え動かずにいるというのは見栄えが悪いし演出として二流・三流の部類になると思う。映画のように飛んできた鉄パイプが左目に刺さるという派手な最期を演出するのは舞台だと難しいから、あのような形で乙米に見せ場を作ったことは、改変として至極理に適っていたと言えるだろう。

 

ゲゲ郎と沙代がほぼそのまんま

以上のように、舞台という形式に合わせて登場人物の感情や演出をオーバーに表現した部分もあったが、基本的には映画の表現を尊重する形で演出された舞台だったと思うし、特に鈴木さんが演じたゲゲ郎と乃木坂46の岡本姫奈さんが演じた沙代はほぼ映画のまんまで感動したよ。

まぁ俳優なのだから出来て当然と思う人もいるかもしれないけど、ゲゲ郎と沙代の二人に関しては「演じている」というよりはそのまま映画のスクリーンからあの二人を引っ張り出して来ましたって感じで、声質から語り口、所作の全てにおいてパーフェクトだったと私は評価している。

 

確か岡本さんは調べた所によると演技経験はセーラームーンの舞台に次いで本作が二度目で、決して経験豊富な役者とは言えないのに龍賀沙代を演じたのでしょ? いや冗談抜きでセーラームーンの次に挑むには難易度が高すぎる役だと思うし、それを他のキャストに見劣りすることなく演じただけでも今回の舞台におけるMVPとして推すよ?

 

さいごに

ということで舞台化された「ゲ謎」の感想は以上の通りだ。これまで「ゲ謎」は映画館で3回観て(うち1回は真生版・4DX)、アマプラの配信や地上波放送も含めたら到底数えきれない回数を見返している作品なのだが、それだけにファンの舞台に対する評価もシビアで熱の入ったものになると思うし、実際シビアな目で観たからこそ気になったポイントや不満があったという人も少なからずいたと思う。

それに舞台劇としては決して規模の大きな劇場で開演された訳ではないし、他の舞台でしばしば用いられると呼ばれる回転する舞台も使われていなかった。なので他の有名な舞台と比べれば潤沢な資金がつぎ込まれた作品とは言い難いし、色々と制約もあったのではないかと正直感じた。

 

でも、だからこそ脚本や演出の創意工夫がダイレクトに伝わる舞台になっていたと私は思うのだ。特に今回の舞台においては黒子役となるサブキャストの方々の活躍を高く評価しておかなければならないだろう。列車の客になったり村人になったり、或いはしゅはまはるみさん演じる丙江の串刺し死体を表現するため彼女を支え、裏鬼道の戦闘シーンでは鈴木さん演じるゲゲ郎と激しい殺陣を繰り広げる。特定の役を演じるのではなく様々な場面でそれに応じた役割を果たす必要があるのだから、ある意味厄介な仕事ではあるが、それを難なくやり遂げていたのだから流石はプロと言うべきだろう。

映像的な演出としては舞台中央の巨大な二枚の障子をスクリーンとして利用していたのが結構印象に残った。あの二枚の障子を移動させながら場面に応じた映像を投影し迫力ある舞台劇に仕立て上げていたのは評価ポイントの一つに入れておかなければならない。

 

そんな訳で、この舞台を生で観られたことは良い思い出になったし、裏方のスタッフや演者を含めた舞台に関わる全ての人に賛辞の意を込めて以上の感想を述べさせてもらった。仕事の都合とかで舞台を観られないと嘆いている人もいるだろうが、もう既にこの舞台のブルーレイが発売されることが決まっているので、気になる方は舞台の公式HPから販売サイトへ行き予約するのをおススメする。マジで観て損はないから!

今だったら尚更アウトなやつですね【1989年版「悪魔くん」 #9~12】

タリホーです。中公文庫から発売されたコミックボンボン版「悪魔くん」の前半部を読み終えて後半に移る所ですが、それにしてもメフィスト2世の寝床が押し入れって扱いが完全にドラえもんで笑ったww。

 

9話から12話までのあらすじ

悪魔くんヒット曲集&オリジナル・サウンドトラック

今回配信されたのは9話「夢の12使徒が全員集合!!」から12話「心のすき間を悪魔が笑う」まで。

 

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

9話は日本の小学生とブラジルの小学生との間で行われたサッカーの親善試合のお話。メフィスト2世のイタズラで親善試合の日本代表選手に選ばれてしまった悪魔くんは、ブラジル側の選手にブラジルの悪魔・サシペレレがいることに気づくが、サシペレレはガハハ三人組によってそそのかされた僧魚によって操られてしまい、試合に乗じて悪魔くんを倒そうと勝負を仕掛けてくる。究極の酒を見つけて戻って来た妖虎の力を借りて何とか僧魚を退治しサシペレレを元の状態に戻した悪魔くんはサシペレレを十二使徒として迎え入れる。こうして十二使徒全員が揃ったことで物語は次のフェーズへ移ることに。

その始まりとなる10・11話は前後編であり、本作のラスボスとなる東嶽大帝が打倒悪魔くんのため本格的に動き出す。東嶽大帝の部下であり幹部クラスの悪魔・クエレブレは使い魔である魔火に指示を送り、悪魔くんをおびき出すための幻の館を作り出し、埋れ木一家をニセの家族旅行に招待する。一足先に幻の館へ行った両親とエツ子の後を追って悪魔くんと百目・メフィスト2世も館へ向かうが、そこにはかつて魔女狩りで残酷にも恋人と引き裂かれ火炙りの刑に処された哀しき女性が関わっていた…という物語。

12話は悪魔くんの友達の貧太が魔火にそそのかされマンダラケという悪魔を召喚、マンダラケによって3つの願いを叶えてもらった貧太は、その代償として操られることになり悪魔くんを倒す手助けをすることになる…というお話である。

 

ということで9話から12話のお話はスポ根要素を絡めたお話にゴシック・ロマンスのホラー、日常のちょっとした不満が切っ掛けで安易に願いを叶えてしまうことの危険を説いた教訓系の物語と、それぞれ毛色の異なるテイストやテーマになっていたのが特徴と言えるだろう。個人的に10・11話のゴシック・ロマンス的な物語はベタだけど大好きなジャンルなので存分に堪能させてもらった。どうやら10・11話は7話の月人のエピソードと同様、山田真吾版「悪魔くん」から選出されたエピソードらしいので、いずれ山田版も購入して読んでみようと思う。

 

ちなみに、クエレブレは本作では悪魔となっているが、伝承ではスペイン北部に伝わるドラゴンの名前である。そして魔火は前回レビューした5期鬼太郎のゴーレム回でも登場したから知っていた人もいるだろう。本作では国籍は不明であるものの、5期ではフランスの妖怪として登場していたから、多分この「悪魔くん」の魔火もフランス出身なのだろうか…?

そして貧太によって召喚されたマンダラケだけど、これは確か水木先生の世界妖怪事典に載っていた妖魔だったと思うが、マンダラケという名で載っていたかどうか覚えていない。一応ネットで「マンダラケ」と検索してみたけどヒットするのはお店の方の「まんだらけ」ばかりで全然わからなかったので、情報をお持ちの方は教えていただけるとありがたい。

 

悪魔くんを置いて家族旅行へ行く埋れ木一家

©水木プロ・テレビ朝日東映アニメーション

今回見ていて一番気になったのが、10話で魔火の計略により家族旅行へ行くことになった埋れ木一家に関することだけど、

悪魔くんを置いて先に旅行へ行くって、普通に家族としてヤバくないですか…ww?(苦笑)

 

これは当時の価値観として考えてみてもアウトというか、映画「ホーム・アローン」と違って意図的に真吾を家に残して外出しているから、どう贔屓目に見ても擁護出来ないように思うが、どうだろうか?

まぁ埋れ木家は父親が漫画家で息子の悪魔研究を否定していないことから見ても、他の家庭と比べて放任主義的な一家だからあのような判断をとったと考えられるけど、とはいえ小学生の息子を置いてけぼりにするというのは放任主義の度が過ぎるというものだろう。せめて父親か母親のどちらか片方は家に残って真吾が来るのを待つとか、そもそも前日の段階で出発の時刻を伝えておくとか、それくらいのことはやらないとさぁ…。

 

百目やメフィスト2世がいたから、そこまで酷い描写に感じなかったけど、この二人がいなかったら結構酷い描写になっていただろうなと思う。っていうか母親は指定席での列車旅行が今まで出来なかったからと言って、そっち優先して息子を置いていくという選択肢をとるのは、いや、もう、ダメですよガチで。一生もののトラウマになりますよ。悪魔くんのメンタルの強さに感謝してくださいよ?

 

さいごに

ということで今回の感想は以上の通りだが、コミックボンボン版だと最初の段階で十二使徒が揃っていたのに対し、アニメでは9話という尺をかけて十二使徒探しを行っているので、事前に用意された仲間ではなく悪魔くん自身が見つけ出した仲間という感じがしてそこは良いなと思った。十二使徒の序列も「運命数」という形で説明され能力差ではないことを強調しているのも悪魔くん十二使徒の間に上下の関係はない、ということを明確にしている感じがする。「運命数」という設定はアニメオリジナルのものか、それとも原作にある設定なのか、そこが気になる所である。

(そういや以前テレビで占い師の島田秀平氏が「ソウルナンバー」とか言っていたのを思い出したが、どうやらそのソウルナンバーというのが運命数のようで、西洋占星術数秘術では割と基本中の基本知識らしい)

 

さて、次回は地獄で何やら大きな動きがあるようで、悪魔くんが立ち向かう相手は悪魔だけでは済みそうにないようだ。

「冒険」から「探偵」の時代へ【2023年版「悪魔くん」 #1・2】

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タリホーです。もう既にご存じの通り、2023年にネトフリで配信された「悪魔くん」が地上波で放送されたということで、YouTube で配信中の1989年版「悪魔くん」と併せてレビューをしていこうと思う。当然ながら’89年版も’23年版も初見であり同時進行で視聴しているので、「ゲゲゲの鬼太郎」の時と違いかなり手探りに近い状態でのレビューになってしまうが、そこはご容赦願いたい。

 

決して歓迎された続編ではない

まず初めに言わなければならないのは、この新作として発表された「悪魔くん」は過去の’89年版を愛するファンから歓迎されたものではなかった、ということである。

 

note.com

2021年のゲゲゲ忌のイベントで「悪魔くん」の新作が発表され、プロデューサーの永富大地氏といった制作陣がこの新作についてトークをしたようだが、永富氏を含めた制作陣のあまりにも不用意な発言と設定に対する違和感が多くのファンの不興を買いかなり荒れたらしい。これは以前私も読んだけど「そりゃ、あんた文句を言われて当然よ…」という感じで擁護のしようがないものだったが、この時は「悪魔くん」という作品に対してほぼ門外漢だったので、あまり深入りせず傍観しているという感じだった。

 

で、今年に入ってこうして旧作と新作の両方を見る機会に恵まれ、私もこうして色々と言える立場になれたので言わせてもらうが、まず第一に’23年版は’89年版の続編という割には物語のテイストが全く違っていて、過去の「悪魔くん」が十二使徒と共に人間に不幸をもたらす悪魔をやっつけるという王道のRPG的大冒険という感じのストーリーだったのに対し、今回の新作は(公式HPのあらすじでも明記されている通り)怪奇探偵バディストーリーという、探偵モノとして設定されている。「バディ」という言葉からわかるように、新作では二代目悪魔くんの埋れ木一郎とメフィスト3世のコンビが悪魔絡みの事件を捜査するというストーリーで、過去作の「悪魔くん」のように仲間が一致団結して悪を倒す、という感じの物語ではなさそうだ。

 

この怪奇探偵バディストーリーという構成は1966年にテレビドラマで放送された「悪魔くん」を踏襲したものだろうし、主人公の一郎という名は原点とでも言うべき貸本版「悪魔くん」で登場した松下一郎からとった名であるということも想像がつく。なので今回の新作はそういった原作だったり昔のドラマのような怪奇でおどろおどろしい要素を盛り込んだ作風にしようという狙いがあるのかもしれないし、そういう意味では原作や過去の名作に対するリスペクトがあると言えるだろう。

とはいえ、「じゃあ、別に’89年版の続編として作る必要はなくない?」とツッコまれるのも当然である。鬼太郎みたいに設定や世界観を一度リセットした上で、埋れ木の姓名ではなく松下一郎か或いは山田真吾という名で新作を作れば良いという意見が出るのも納得だ。

 

まだ全話見ていないので何とも言えないが、2話まで見た段階の私の意見としては「まだ続編としての意義や面白みは見出せないな…」という感じである。最後まで見て「いや、これは続編としてやるべき作品だったな!」と言えるようになることを期待したい。

 

二代目悪魔くんの複雑な生育環境と上下の関係

©水木プロ・東映アニメーション

今回の新作が一部ファンから歓迎されていない理由の一つには、主人公の一郎のキャラ設定が関係していると私は思った。勿論それは原作および過去作における「一万年に一人現れる天才少年」という設定に対する矛盾(=二代目という存在そのものがおかしい)もあるが、初代と違って二代目悪魔くんはかなりエキセントリックな性格で、食事は基本ホットケーキや菓子類ばかりを食べ、どちらかと言えば陰気で理屈っぽい性格というのも初代の素直で明るい埋れ木真吾とは真逆である。そんな義理の父親である初代に対して二代目は「クソ親父」と呼び距離を取っているのも、往年のファンにしてみれば気分が悪いだろう。

 

「お、お前、初代に対してなんだその口のきき方は!謝りなさい!」と、一郎に土下座の一つでもさせたくなったファンもいたと思うが、どうも本編の描写を見る感じ、この二代目悪魔くんかなり複雑な環境下で育ったようであり、それが養父に対する態度に表れているような感じがするのだ。

まぁ、本作を否定的に見ているファンにとって二代目悪魔くんは制作陣が用意した魂のない操り人形という程度に過ぎないだろうが、1・2話で描かれた事件だったり、メフィスト3世の両親のことも合わせて考えると、何となく二代目「悪魔くん」は家族や家庭というものが物語のテーマではないか?と思ったし、養父を「クソ親父」と呼ぶ二代目のあの態度も、養父があまりにも偉大であるがゆえのエディプス・コンプレックスではないか、というのが漠然とした私の推察である。少なくとも私はこういった描写がある以上、二代目悪魔くんはヒーローや救世主のような人物ではなく、家庭環境に問題のある一人の青年として分析・評価した方が良い気がするのである。

 

あともう一つ気になったのは二代目とメフィスト3世との関係だ。初代悪魔くんはソロモンの笛を通じて、十二使徒は使役するものではなく共闘する仲間であることを悟り、上下関係ではなく横の関係で彼らと付き合っていたと思うが、今回の二代目悪魔くんメフィスト3世に雑用をやらせてコキ使っているし、傍目には上下関係にしか見えない。この辺りのバディとしての描写もこれからじっくり描かれると思うが、二代目の性格描写といい上下関係的なバディといい、’89年版の続編として制作されたのにアンチテーゼというか逆張りみたいなことをしているのは、なかなか理解しがたい所ではある。

 

「愛称 + 敬称」呼びについて

©水木プロ・東映アニメーション

個人的にちょっと気になったポイントだけど、大家さんである風間さなえが二代目悪魔くんのことを「『悪魔くん』さん」と呼んでいたのが引っかかった。

 

こういう愛称に敬称を足して呼ぶ呼び方って、例えば安田大サーカスのクロちゃんや「ワイルドだろぉ~?」でお馴染みスギちゃんといった芸能人に対して時おり用いられる呼び方なので、別に変に思わない・違和感はないという人もいると思うが、こうしたフィクションの物語で使われるとどうも引っかかるというか「制作側は考えてこの『愛称+敬称』呼びを使っているのかな?」とついつい考えてしまう。

 

例えば、もし大家さんが二代目悪魔くんを「一郎さん」と呼んだとしたら、私は「ああ、この大家さんは悪魔くんを単なる借主として見ているのだな」と思うし、そのまま「悪魔くん」と呼んでいたら、「あ、この大家さんは一郎に対して親しみが多少なりともあるのかな?」という風に捉える。呼び方にはその人の相手に対する認識や関係の深さが少なからず反映されるし、プロならそこもこだわってほしいと思っているからだ。

 

で、今回のこの「『悪魔くん』さん」という呼び方に対して私の場合はちょっと距離感のようなものを感じてしまうのである。大家さんは多分二代目悪魔くんを立派な成人男性とは思っていないし、かと言って未熟で幼い少年とも思っていないのではないだろうか。そのどっちともつかない青年に対してどう呼ぶか迷いがあるから「『悪魔くん』さん」などという不自然な呼び方になると私は考えたのである。

それに悪魔くん」という呼び名は(私のようなファンにとって)勇者に等しい称号でもあるから、もし大家さんが彼の能力や実績を知っているのであれば、恐らくためらいなく「悪魔くん」と呼べるはずだと思うのである。それが出来ないのは彼が看板を掲げている「千年王国研究所」に対していかがわしさを感じているからだと思うし、それが「愛称+敬称」呼びという形で反映されたのかな~?と、勝手ながらそういう推理をはたらかせた次第である。

 

さいごに

ということで2話までの感想は以上の通り。まだ序盤の段階なのでこの新作がどのような方向で進み、どのような結末を迎えるのかはわからないが、この新作に対して強い嫌悪感を抱くファンがいるというのは把握しているし、鬼太郎6期や「ゲ謎」の時と同様に、そういった否定的な意見を取り入れ批評することが大事だと私は思うので、ダメな部分はダメだと指摘はするけど、良い部分は出来るだけ拾って評価したいとも思っている。

’89年版の続編であるという点を無視すれば、なかなかミステリアスで続きが気になる展開になっているし、何より主人公が一番ミステリアスな存在なので、主人公周りの掘り下げにも期待したい所である。

批判も覚悟で『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に厳しく物申す【その3】(追記あり)

タリホーです。昨年に引き続き『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に対して色々と物申していきたいことはまだ沢山あるので、お付き合い願いたい。

 

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※前回の記事はこちら。

 

今一度『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を批判するにあたっての理由と目的を表明しておくと、

 

・「ゲ謎」を批判していること自体が問題ではなく、映画の内容から古賀監督をはじめとする制作陣が性犯罪やルッキズムといったものに無頓着で、下劣な理由で本編にそういった要素を盛り込んだなどという誹謗中傷まがいの批判を行っていることを問題視している。

 

・ブログ内で指摘されている矛盾点や違和感のあるポイントに対して、一部正しい指摘もあるが、大部分は曲解や論理破綻が甚だしい。また制作陣のインタビューや映画を高く評価している意見(反対の立場の意見)を調べて読もうともせず、「ゲ謎」を否定するためだけの情報をかき集めて批判している点は、およそ公平な批評とは思えない。水木作品の正しい姿を伝えようとしているのかもしれないが、あのブログからは「ゲ謎」のネガティブキャンペーン以上のものが見出せなかった。

水木しげるという作家の魅力や作風・作品に対する興味がそそられるような内容・文面になっていないのではないか?)

 

・上記の理由から私はこのブログを厳しく批判することとしたが、最終目標はこの筆者に考えを改めてもらうことではなく、「ゲ謎」および水木先生の作品に対する更なる理解・読解を深めること、それを当ブログを読んでくださっている読者の方々と共有することである。

 

以上のことを踏まえた上で引き続き、物申していこうと思う。実際これまでの批判の中で「ゲ謎」に対する評価や解像度は下がるどころかむしろ上がっている訳であって、この筆者が映画を観て感じた嫌悪感に従って論を展開させたのならば、私が2023年に初めて映画館で観た時の衝撃と感動に従って、否定的な意見も取り入れながら批評を行えばより深い作品読解が出来るだろうという私の考えとその試みに間違いはなかったと自負しているくらいだ。

 

(以下、映画の内容についてネタバレあり)

※随時追記・更新する予定です。

 

禁忌を描くことの意義

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まず批判として言及する上で挙げるのがこちら(↑)の記事。ここで指摘された12のポイントについては色々と言いたいことがあるし、「いやいや偏っているのはあなたの思考ですけど…」とドン引きするような論調のものもあったが、それはさておき。

 

私が今回語る上で注目したのは「4:仮にも鬼太郎のネームブランドを傘にしたアニメ映画で、肉親間の性虐待といったファミリーアニメに似つかわしくない要素を出してブランドの信頼に傷をつけ半世紀の看板に泥を塗った事」「11:不倫や児童性虐待といった安易な性的要素を「大人向け」「深い人間ドラマ」ともてはやす風潮」である。

 

以前も述べた通り、児童虐待性的虐待は水木作品において描写されていないものなので、一部のファンが批判の対象としてまず真っ先に挙げるポイントだが、では映画でそういった描写が盛り込まれたからと言って、それを制作陣が「今までの鬼太郎アニメにはない新しい・挑戦的なテーマを盛り込んでみたぞ!どうだ!(したり顔)というような、自己満足や愉悦感、或いは話題性を狙って取り入れたテーマだとはとても思えない。アニメ雑誌やブルーレイ豪華版のブックレットに収録されていた制作陣のインタビューを読んだけど、新しいこと・挑戦的なことをやろうという目的で取り込んだ題材ならばインタビューでその点について積極的に言及しアピールしていたはずだが、インタビューでそれを述べている人はいなかったし、そういう邪な意図で込められたものでないと私は信じている。

常識的に考えてこういった題材はセンシティブなものであり、アニメ作品で描くメリットよりもデメリットの方が大きいのだから、それを水木先生の生誕100周年の映画で制作陣が敢えて盛り込み描いたことに対して、私たちファンは吟味的思考で向き合うのが誠実かつ真摯な態度ではないだろうか?

 

まぁ「ファンの贔屓目」だとか「制作陣を擁護している」だとかそういう理屈で私がこれから語ることを否定したいのであれば「井戸の中の蛙でいたいのなら、どうぞご勝手に?」という気持ちで、この性的虐待児童虐待等のテーマについて述べていくが、「ゲ謎」は別に児童虐待性的虐待だけが殊更に強調されて描かれている訳ではない。映画本編では幽霊族という異民族の迫害に加えて、異種族の血を輸血して行った非人道的な人体実験死者の復活など人類史における数々の禁忌(タブー)を盛り込んだ作品であり、そういった諸問題とセットにせず児童虐待性的虐待だけを抜き出して問題視するからこの作品のテーマ性というものに意識が向かないのではないかと私は思うのだ。

 

で、こういった禁忌を映画本編に盛り込んだ意義があったかどうかを考えていきたいのだが、そもそも禁忌というのは社会学民俗学といった分野で研究が行われているものの、何故それが禁忌となったのか明らかになっていないものもあるのだ。

 

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例えば映画でも描かれた近親相姦という禁忌は、学問の分野においてもそれが何故禁忌となっているのかはハッキリとしていない点が多い。そもそも近親相姦が実際にあったという事例自体が歴史の中では珍しいから、遺伝子的問題で近親相姦が禁忌となっているという一般的に知られた定説も、実を言うと正解だとは限らないと言われている。

 

レヴィ=ストロース先生は『普遍的なのは、むしろインセスト(近親相姦)だ』とも言っているのです。それは、近親での結婚によって、財貨の目減りを防げるからです。王族という強者のインセストでは、特権や聖性を守れるため、政略的に行われる。庶民という弱者のインセストでは自分たちの財産を守るため。田畑などの財産が相続され分散を防ぐため、"同類"の中で嫁のやり取りをする。結局、権利や利害を守るためです。その近親の度合い、つまり近親を何親等までの範囲にするかが時代、社会によって変わるのです。しかし、最低限の女性の交換をしないと社会が成り立たないので、インセストタブーも同時に存在するのです」(川田氏)

引用したのはフランスの人類学者であるレヴィ=ストロース氏が「近親相姦が普遍的なものである」と提唱したと人類学者の川田順造氏が説明している一文だ。レヴィ=ストロース氏が提唱した説は「ゲ謎」で描かれた近親相姦の背景と合致するものであり、私が単なる性的虐待でないと評価したのもこれが関係しているのだ。

 

既に映画本編を見た方ならご存じの通り、龍賀一族が行っていた近親相姦は強い霊力を持った子孫を作るためであり、窖に封印した狂骨を管理・制御するには霊力のある子孫を作り続ける必要があったと本編で説明されている。つまり、「ゲ謎」における性的虐待児童虐待は一般的な性犯罪・家庭内暴力とはニュアンスが異なり、龍賀一族が特権階級としての家格を維持するためだけでなく特大レベルの怨霊と化した狂骨が外に出て日本を壊滅させないためにも必要不可欠な行為だったのである。だからこそ長女の乙米が「栄えある務め」と言っていたのも日本を滅ぼしかねない怨霊を制御出来るのは龍賀一族であり、その子孫を産める龍賀の女は特権的立場にあると当主の時貞から教え込まれた結果だと、そう推察出来るのだ。

 

勿論その「栄えある務め」の裏に時貞や時麿といった男たちの邪な性欲が全くなかった訳ではないし、強い霊力を持つ子孫を産むためならば、外部から有能な霊能力者を見つけ婚姻させるという手段もあったはずである。しかしそこはレヴィ=ストロース氏が提唱したように、特権や聖性を守る上で外部から有能な霊能力者を取り込むというのは、龍賀一族の絶対的な権力構造が外部からの影響によって崩壊するリスクを孕んでいる。自分たちの富と権力を維持するために取り込んだのに、逆にその取り込んだ相手の方が霊力が上だった場合、村内の権力構造が塗り替えられてしまい龍賀一族の特権階級としての立場が失墜してしまうのだから、時貞の性格から考えても外部から強い霊力を持った人間を取り入れるという選択をとらなかったのも納得である。

 

こういった人類学的観点から見ても「ゲ謎」の近親相姦描写が単なるお下劣な性的描写ではなく禁忌というものが「栄えある務め」としてまかり通ってしまう社会的背景をしっかり描いた上で、そういった巨大な権力構造のために個人が犠牲になってはならないということも本編でキチンと描いている。そこが私としては的確かつ誠実だと思った理由であり、それが戦時下における従軍慰安婦にも通じるのではないかと考えているのだ。

従軍慰安婦も極端な話、軍の内部で性犯罪が起こると体裁が悪いから「兵士たちの性のはけ口」として公的に用意されたものであり、結局は権力者側の都合による所が大きい。戦時下においては殺人や人体実験など禁忌となる行為が権力者の都合でいとも簡単に容認されてしまうという、この狂気を理解することが戦争の悲劇と平和を語る上で必要不可欠だと思うし、水木先生の作品でそういった描写がなかったからと言って制作側にリスペクトがないだとか、原作を汚しているという風に短絡的に決めつけてしまうのはいかがなものだろう。自分の探求心のなさを棚に上げて他者を叩いているようでは、いつまで経っても物事の本質には迫れないし、対立を生みこそすれど相互理解には遠く及ばない。

 

ゲゲゲの鬼太郎」を子供向け・ファミリー向けの作品という箱に収めたままで維持し続けること、そういった枠組みで作品を評価することが「原作を大事にする」ということなのか、考え直すべきはこの筆者の方ではないだろうか?

 

そうそう、禁忌を描くことのもう一つの意義として挙げたいのは、禁忌には文明の発展につながったものがあるということだ。

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これは一昨年に深読み解説としてアップした記事内で言及したことではあるが、禁忌を破ることと文明の発展は表裏一体で語るべき重要なポイントで、特に医学や薬学といった分野は人体の解剖や人体実験を経た上で成立している学問分野でもある。本来人体の解剖は江戸時代の元禄期まではタブーとして禁止されていたことであり、山脇東洋の『蔵志』で初めて人体の解剖が行われ図式化されたことが日本医学において歴史的な一歩になったのは言うまでもないことである。手術における麻酔だって全身麻酔に関しては未だにそのメカニズムが完全には解明されていないし、それを実用可能にしたのは数々の人体実験を経た結果である。新薬の開発にしても最終的には治験として実際に人が服用して問題ないかを確かめる必要があるし、それもまた人体実験というある種のタブーを破った行為にカテゴライズ出来るのではないだろうか?

 

長い歴史の中で禁忌を破ることで発展した文化や技術・学問がある一方、それによって多くの犠牲が出たというのもまた事実であり、その成功と失敗の積み重ねを経て人類は「これだけは禁忌として絶対にやってはならない」という線引きが出来たと私はそう考えている。「ゲ謎」は愚かな欲のために禁忌が破られた物語であったものの、こうした禁忌破りを描くことは歴史の裏に隠された犠牲者の存在をあぶり出すということでもあり、その犠牲の存在に光を当てて目を向けさせたことが「ゲ謎」の脚本として優れたポイントの一つだと評価している。

 

(2026.01.26 追記)

Twitter(X)の方でキジトラミーの飼い主(@kittyandR)さんに反乱分子扱いされたので、一応紹介しておく。

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ハッキリ書けば良いのに「韓国との間における従軍慰安婦問題」のことを何故か「"何か戦時中日本軍がある国に悪い事をした"」とぼかして書いているけど、どうもこの方は右翼保守的な思想を持っている(この方の自称・自認のようですが)ようで従軍慰安婦の存在そのものを否定しているらしい。だから私が従軍慰安婦の存在を持ち出したことにブチ切れて、私が反日を掲げる中国や韓国の肩を持ち日本を貶める反乱分子みたいなものだと、ざっとまとめるとそんなことを言われました。私としては戦時下における女性の性的搾取の事例のうちの一つを取り上げたに過ぎない(=日本だけでなく世界各国で行われていたことを示しただけ)のに私が日本を貶めている発言をしていると思い込むとは、右翼保守の人ってこんな感じの人ばかりなのですか?(だとしたら怖いのですけど…)

 

日本が謝罪と賠償金を既に支払っているにもかかわらず、韓国は従軍慰安婦のことを蒸し返して度々謝罪や賠償金を求めているというのはニュースで知っているけど、それはあくまでも現在の韓国政府が従軍慰安婦を利用しているという事実に過ぎず、その情報だけで従軍慰安婦の存在そのものを否定する証拠にはならないかと。余りにも論理に飛躍があって話になりませんね。存在を否定したいのであれば、ちゃんと出典や論拠を提示しないと。

 

それに従軍慰安婦の有無を論じずとも、水木先生は「総員玉砕せよ!」の冒頭で従軍慰安婦を描いているし、別の短編漫画でも従軍慰安婦のことを描いている。このキジトラミーの飼い主という方がどこまで水木先生やその著作のことを知っているのかわからないけど、少なくとも水木先生のファンであるならば、従軍慰安婦の存在を否定するというのはいかがなものだろうか?

 

あと冒頭で「そもそもこんな村と一族原作にいなかったのと作者亡くなった後に後から勝手に作られた物語を公式にするのを疑問に持て」と言われましたが、

私は「ゲ謎」は6期の前日譚であり原作とはまた別の優れた傑作という認識でいます。

なので、別にこれが公式だなどと思ってませんし、これまで当ブログでそのようなことは一言も言っていないのにそういう風に思われるのは心外ですね。

 

単に「私は鬼太郎が活躍する映画が見たかったのであって、こんなオリジナルキャラメインの物語が水木先生生誕100周年記念の映画だとは認めないぞ!」という意味合いで言っておられるのならば、

「あーそうですか。それは残念でしたね」としか言いようがないのですけど。

 

「ゲ謎」はマイノリティーの怒りと鎮魂を描いた作品である

「ゲ謎」で盛り込まれた性的要素を「安易なもの」として受け取った人がいる一方で、ちゃーんとその意図を読み取り解説している人もいる。

 

www.youtube.com

それがこちらの動画。YouTube の「ペンギン臨床心理士のアニメ・映画考察」というチャンネルで臨床心理士の方が社会学的な観点から解説しているので是非見てもらいたいが、こうしたプロというか専門家の方も本作が水木先生の作品や人生をリスペクトしていると評価していることは、何とも心強い限りだ。

 

さて、ここからは動画でも飛び出した「搾取」「蹂躙」「鎮魂」といった観点から「ゲ謎」の批評をするが、その前にこちらのブログ記事を紹介しておこう。

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こちらの記事では公式設定である鬼太郎の誕生年が昭和29年なのに、映画では昭和31年になっている矛盾を指摘し、制作陣がロクに調べもせず時代設定をしたのではないかということを述べている。この昭和29年という設定は原作「鬼太郎の誕生」の作中で明記された年ではなく、貸本漫画「墓場鬼太郎」の「下宿屋」や「あう時はいつも死人」といったエピソードを元に算出されたもので、水木先生公認ファンクラブの「水木伝説」が刊行した「ゲゲゲの鬼太郎の大秘密」で鬼太郎の誕生年と推定年齢が検証されたそうだ。

(ちなみにこの「水木伝説」の方もどうやら「ゲ謎」否定派らしいです)

 

あ、私は別に「『鬼太郎の誕生』でハッキリ明記されてないのだから、2年のズレくらいでネチネチ矛盾だとか指摘するなよ」とかそういう反論をしたいのではなくて、この昭和31年という年が本作の映画ならびに水木先生の人生においてどういう意味合いを持つのか、ということを論じたいのである。なのでこの矛盾自体は別に否定はしないし、それを調査・検証した「水木伝説」に対してネガティブな感情は抱いていないからね?

 

で、改めて言うまでもなく「ゲ謎」は水木先生の生誕100周年を記念した映画であって、鬼太郎のアニメ化〇〇周年というものではない。もし鬼太郎のアニメ化〇〇周年を記念した作品だったならば時代設定は昭和29年に厳守すべきだという意見に私も乗っかっていたと思うけど、この映画は鬼太郎だけでなく水木先生の生涯も絡めた物語だし、水木先生の代表作は鬼太郎だけでなく「悪魔くん」や「河童の三平」だってある。本来なら、

「水木先生生誕100周年記念の作品なのに、『鬼太郎』だけ扱って『悪魔くん』や『河童の三平』を無視するとは何事か!」

といった意見が出てもおかしくないのに、実際そういった声は見当たらない。このブログの筆者にしてもそこまでの物申しはしていないのだからね。

 

では何故このような批判が出ないのかを考えたのだけど、「ゲ謎」って物語のベースは原作「鬼太郎の誕生」だけど、そこに込められたメッセージ性(権力者や富裕層が弱者から搾取する社会的構造)は「悪魔くん」が生み出された社会的背景とつながる※1からだと分析した。だから悪魔くんこそ登場しないものの「悪魔くん」で描かれたテーマやメッセージが「ゲ謎」には含まれているし、そこも本作が100周年記念たり得る作品になった理由の一つだと思う。

 

コミック昭和史(7)講和から復興 (講談社文庫)

このブログの筆者は昭和31年を「鬼太郎が生まれた紙芝居が没落していった年」という程度のことしか言及していないので、改めて私が昭和31年前後にどういう出来事があったのか水木先生の「コミック昭和史」(第7巻)の第3章「もはや戦後ではない」から引用して紹介すると、

 

・昭和31年7月発表の経済白書で「もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に直面しようとしている。回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる」と記される。

・1955年から神武景気という好景気が始まる。(翌年不況になるがその後「岩戸景気」「いざなぎ景気」と戻る)

石原慎太郎太陽の季節』が芥川賞を受賞。1956年に映画化され映画の影響を受けた太陽族※2という若者が出て来る。

アメリカのカリフォルニア州アナハイムディズニーランドが開園する。(1955年7月)

 

以上のように昭和31年は戦後復興を終えて日本だけでなく海外でも新たな娯楽や流行が生み出された好景気の年…というのが一般的な認知だが、水木先生はこの好景気の恩恵にはあやかれなかったようで、紙芝居作家から貸本漫画家へと転職し一冊3万円(税金を引かれるので手取りは2万7千円)で漫画を描くことになったものの、当然漫画などすぐに完成するはずもなく、二ヶ月たっても一冊も完成しない。常に金欠状態で質屋へ靴や着物を持っていきどうにか餓死せずに済んでいた、という貧窮状態だったという。喫茶店での一杯のコーヒーが最大の贅沢であり、趣味は夜中の三時ごろに行う散歩。当時移り住んだアパートが新宿駅から徒歩2分の高級アパート※3だったので貸本漫画で得た収入もアパートの家賃を払うのがやっとで、一日中(夜中も含めて)働き時々食事を抜くこともあったという。

 

この世間的な好景気とは真逆の生活から見ても、当時の水木先生が社会的にはマイノリティー(少数派)の側の存在であったのは明らかであり、「ゲ謎」の古賀監督も先生の著作・自伝を読み込んだ上でストーリーの構想を練ったという。

 最初は、水木先生の人生に重ねて、妖怪目線から描く日本の近現代史100年を描くことも考えたんです。でも、それは約100分の尺では到底無理でした(笑)。そこで、貸本版『墓場鬼太郎』が生まれた昭和30年代をフィーチャーして、戦後の日本を妖怪から見た感じで描ければいいな、と構想を練り直しました。あの時代に起きたことは、今の令和にも連綿とつながっていると感じていまして、そこをテーマとして落とし込んでみようと。

――本作の立ち上げの頃に、古賀監督がスタッフへ観るようにと薦めた3本の映画があったと聞きました。1本目が『日本の悲劇』(’53年松竹 監督/木下恵介)、2本目が『洲崎パラダイス(赤信号)』(’56年日活 監督/川島雄三)、そして3本目が『泥の河』(’81年東映セントラルフィルム 監督/小栗康平)。昭和31年を舞台とした映画を制作する上で、これらはどういう意味を持っていたのでしょう。

古賀 まず、僕自身が昭和レトロ好きだということがあります。ただ、ちょっと前に昭和30年代ブームで描かれた美化された世界と、実際の昭和30年代は全然違う、と感じていました。それが一番解りやすいのが『日本の悲劇』と『洲崎パラダイス』で、本当に10年前まで戦争をやっていたことが感じられる映画なんです。水木しげる先生ご自身も「私は戦後20年くらい、人にあまり同情しなかった」とおっしゃっていて、それは「戦争で死んだ人間が一番かわいそうだ」という強い思いがあったからだろうと。だから、あの時代の人たちはドライなんです。早口な喋り方も含め、そういう感じをスタッフで共有したいなと思いました。(後略)

以上、引用したのは「アニメージュ」の「ゲ謎」特集に掲載された古賀監督のインタビュー記事の一部だが、このインタビューを読んでも古賀監督が世間一般が思う昭和30年代と実際の昭和30年代には大きなギャップがあること、そしてそれは映画においても同様のことが言えると述べている。古賀監督が挙げた3本の映画は調べてみるといずれの作品も売春婦だったり赤線だったりと性風俗絡みの物語で、この3本を薦めたことから見ても古賀監督が性的な搾取も描こうとしていたことや、そういった人々の存在と犠牲を描こうとしていたのは間違いないだろう。

 

別にこれは古賀監督が性風俗に関心があるとかではなく、昭和という時代は女性が働く選択肢が限られた時代であること、性的な搾取であるとわかっていても、やむなく売春を選んだ人々がいたことを今回の「ゲ謎」に反映させたかったのではないかと思う。状況は違えど、水木先生も戦争で左腕を失ったことで一般の五体満足の人々のように簡単に他の仕事に転職するという訳にもいかなかっただろうし、常に背水の陣の状態で10年以上も極貧生活を耐えて漫画を描いてきた方だから、そういう社会的マイノリティーとして職業選択の自由もない中で必死に生きていた人々の生き様って教科書に記された情報では知ることが出来ないし、特に性風俗は学問としてまだまだ研究・調査が行き届いていない分野だから、そこに光を当てて描くことがいかに困難で貴重であるか、それをアニメ作品でやろうとしたことに関しては改めて尊敬するばかりだ。

 

教科書的な知識として知っている昭和と実際の昭和とは大きな違いがあり、そのギャップを描いたことが「ゲ謎」がヒットした理由の一つであると思うが、単に昭和日本の暗部を描いただけではここまでのヒットにはならなかっただろう。

「ゲ謎」本編の終盤で目玉おやじが語っていたように、令和はかつての日本人が夢見ていた未来のようにはなっていない。未だに世界各国で内戦や戦争は起こり続けているし、ホームレスやヤングケアラーなど貧困・社会的弱者は相変わらず存在している。性風俗だって違法なものは取り締まられているものの、決して無くなった訳ではない。麻薬にしても暴力団の資金源となり、時にはそういった薬を女性に飲ませて前後不覚にして犯すというとんでもない輩がいる始末だ。セクハラ・パワハラモラハラなど様々な形で弱い立場の人間は搾取・蹂躙の憂き目に遭い、声を上げることなく自殺してしまった人も数多くいる。

 

そう、狂骨というのは何も映画だけの話ではない。今この世界で、日本で生まれ続けているのだ。そして、それを解決する抜本的な手段や方策は残念ながら現在においても提示されていないのである。

 

このある意味絶望とも言える現状に対して個人が出来ることなど大したものではないし、かと言ってそこで諦めてしまったら次世代にもこの苦しみを背負わせる羽目になる。このどうしようもない問題に対して「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は語り伝えるという非常にシンプルな、でもとても重要な答えを出している。

 

今の日本の、多様な思想や価値観が叫ばれる中でかつてのように皆が一致団結して改革を訴えるなどといった方法が実質不可能であるのは明らかである。そんな時代だからこそ個人で出来るせめてもの抵抗、権力者や富裕層に対するレジスタンスというのは、一部の権力者や富裕層にとって都合が悪いもの、そして私たちが普段見て見ぬ振りをする人々が確かに今この国にいるという事実を語り伝えることだ。そうした犠牲者の存在や彼らの悲しみ・怒り・無念を歴史的遺産・史料として残し続けること、これが何よりの鎮魂であるということを「ゲ謎」は強く主張している。

 

こうしたメッセージが水木先生の作品と喧嘩することなく融合・成立しているのは、水木先生が生み出した鬼太郎・悪魔くん河童の三平という代表作がいずれも昭和30年代の、貸本漫画の中で生まれた存在である※4ことと関わってくる。

前述したように、昭和30年代前半の水木先生の生活は困窮を極めており、あまりにも収入が少ないことから税務署に脱税を疑われたくらいだそうだ。夜中も働き続けていた水木先生には当然ながら当時人気のあった作品を読んで研究し、自身の作品に活かすといった手段をとるための金も時間的余裕もない。父親から送られたアメリカの漫画(アメコミ)や海外の怪奇小説といった作品などを参考にしつつ自分なりに頭を使って生み出してきたものなのだ。

 

とはいえ当時貸本漫画として発表された「墓場鬼太郎」は決して万人受けする話ではなかった。それは同じく貸本版「悪魔くん」においてもそうで、水木先生が人気漫画家として大成したのは「妖怪」を題材に取り入れたこと、そして子供でもわかりやすいシンプルなストーリーにしたこと、おどろおどろしい怪奇要素や残酷描写を排除したことなど幾つか理由が挙げられる。でもだからと言って貸本漫画時代の作品が失敗作だった訳ではない。

貸本漫画時代に水木先生が描いた数々の作品はダイヤの原石となるものばかりで、人気漫画家としてヒットして以降、先生は貸本漫画時代に描いたネタをリメイクしたり、「鬼太郎」や「悪魔くん」などに取り入れている。だからこそ、水木しげるという漫画家の生誕100周年を祝う作品を制作する際に、先生の93年にわたる生涯のどこを中心にして描くかと考えたら、私も昭和30年代を物語の核にすると思うし、その時代の先生は晩年期の仙人のような水木先生ではなく、飢えと貧しさに抗い闘う戦士としての水木先生だったと思う。そういう時期に描かれた作品群が肥やしとなって「鬼太郎」をはじめとする数々の作品を支えたのだから、「ゲ謎」の舞台設定が昭和30年代で、なおかつ「もはや戦後ではない」と言われた昭和31年になったのは、戦後復興の陰に追いやられた社会的マイノリティーを描く上でも必要であり、そのマイノリティーには水木先生も含まれていたと考えれば、実に必然性のある改変だとは思わないだろうか?

 

水木先生がマイノリティーの側でありながら折れることなく描き続けたからこそ、今こうして「ゲゲゲの鬼太郎」は多くの人に愛される作品となったのは言うまでもない。そしてその苦労と当時の社会情勢を反映させた「ゲ謎」は間違いなく水木先生をリスペクトした傑作である。単に鬼太郎の公式設定との矛盾だけを指摘しているようでは、到底この改変の意義深さはわからないだろう。

 

※1:詳しくは王道のRPG的大冒険の始まり!【1989年版「悪魔くん」 #1~4】 - タリホーです。で解説しています。

※2:ちなみに「太陽族」は当初「ゲ謎」で登場する予定(冒頭の水木が夜行列車に乗っている場面)だったが、尺の都合等でカットされたそうである。

※3:水木先生の困窮事情と反するように思うが、高級アパートに住めたのは水木先生の父親の退職金によるもので、また水木先生自身「建物」に対してこだわりがある性格なのも関係しているようである。

※4:ただし「鬼太郎」は昭和29年に紙芝居として発表した作品がプロトタイプとなる。

 

ゲゲ郎の妻に対する深い信頼と愛情

先ほど挙げた「『ゲゲゲの謎』で許容できない事12」で言及されたことについて物申すけど、まず一番論外過ぎてあり得ないのは「2:あの子供好きな親父が性的虐待を受けている子供を見殺しにし怨霊にされた子供や村人、同僚の怨霊を70年も放置する薄情者に改悪されたこと」という点。

 

…見殺し???

何言ってるんですかねぇ?沙代の時のゲゲ郎は手足をベッドに拘束された上に長田の札で妖力を封じられていたのだから、長田が死亡して札の効力が切れるまでどうすることも出来なかったし、長田が死亡した時点で沙代の命をどうこうすることは出来なかったのは明らかだ。これは時弥の場合においても同様に血桜で拘束されていたから助けられなかったとちゃーんと描写されている。

それを「見殺し」とは、何と人聞きの悪い!(怒)

村が70年も放置されていた件は前回の記事で指摘したから改めて言及しないが、よくもまぁそんなザルみたいないい加減な鑑賞で「ゲ謎」を否定しようなどと思ったよね?

 

こんな議論に値しない指摘はさておいて、私が論じたいのは「3:博識で顔も広く身内思いで仲間思いな親父が妻を10年も探しきれず身内が行方不明なのに呑気に酒盛りするような薄情者に改悪されたこと」という指摘だ。確かに本編で描かれたゲゲ郎は必死で妻を探していた訳ではなく、風呂に入ったり座敷牢で寝転んでいたり、水木と酒盛りをしたりと結構悠長で「おいおい探しに来たのじゃないの?」と言わんばかりの態度が目立つ。

 

www.youtube.com

この点についてはYouTube の「無限まやかし」というチャンネルで脚本家の高野水登氏と芸人で映画・ドラマ評論家の大島育宙氏が妖怪と怠け者という観点からゲゲ郎の妖怪らしさ(≒ 人間らしさ)を評価している。ただ、私はこのゲゲ郎の怠惰とも思える行為の裏には妻に対する深い信頼関係があり、女性を対等な存在として見ているということの表れだと、そういう風に分析・評価しているのである。

 

例えば、ゲゲ郎を必死で妻を探す夫として描いたとしよう。これは日本映画に限らず海外のハリウッド映画とかでも描かれる主人公であり、こうしたフィクションにおいては決して珍しくない。ダイレクトに妻の身を案ずる夫として伝わるし、そうした方が良いと考える人がいるのもおかしくはない。

ただ、こういうキャラ造形にすることはある種のリスクも伴うと私は思っていて、というのも「妻の身を案じる夫」を描くということは、その夫が妻のことを「一人だと何も出来ない女性」という風に思っていると解釈出来る訳であり、それはつまるところ「女性は男性より弱い生き物で男性が守らないといけない」という性差別的な描写になりかねないリスクを伴うのである。

 

「ゲ謎」は昭和が舞台の作品なので、別にそういった性差別的な描写が入っても別に問題はないのだが、本作においてゲゲ郎をそういうベタに妻の身を心配するキャラとして描かなかったことで、逆説的に夫婦間の信頼関係の強さが際立ったのではないかと思うのだ。

映画を観た方はご存じの通り、ゲゲ郎の妻は人間に対して深い信愛の情を抱き、彼らと共に職場で働いている。そうした妻の博愛とも言える精神に触れたことでゲゲ郎の人間に対する偏見や憎悪の感情も緩和されていったという風に語られているのだから、ゲゲ郎が妻を外向的で前向きで心の広い女性として尊敬していたのは間違いない。

そういう女性が突然行方不明になったのだから当然心配はしただろうが、とはいえ彼女も立派な成人女性であり、人間社会にうまく順応しているのだから、何かしらの理由があってのことだろう、仮に何かトラブルに巻き込まれたとしても賢い妻のことだから何とかうまく切り抜けられるだろうと、そういう感じの考えがゲゲ郎にはあったのだと思う。

勿論、妻が血桜に囚われて薬の原料として血を抜かれているとわかっていたら、あのように悠長な態度ではいられなかったと思うが、少なくとも水木と酒盛りをした時点でそんな村の暗部を知らなかったゲゲ郎が悠長な態度でいられたのは、妻の賢さと逞しさに対する絶大な信頼と愛情あってのことだと思う。ここでゲゲ郎が不安を露わにしていたら、それは妻が自分よりも身体的・精神的に劣った存在であり弱い女性であることを認めてしまうことになっていたと思うし、そういう風に描かなかったことが功を奏したと私は評価している。

このゲゲ郎の(一見すると)怠惰で薄情とも思える行為の裏に深い信頼と愛情があるというのは男女の価値観がアップデートされた現代だからこそ理解出来る描写であり、一昔前の日本で同じように描いたとしても伝わらなかったのではないかと思う。

 

現代では否定されているが、数十年前まで「女性は男性の所有物である」という認識があった。そして女性も立派な家柄・裕福な家の男性と婚約し「所有される」ことが幸せだと、そういう風に決めつけられ生き方を制限された時代があったのである。

 

サイレントヒルf

そんな男女間の差別を端的に描いたのが昨年から話題となっているサイレントヒル f」というゲームで、このゲームでは1960年代の日本を舞台に、「結婚が女の幸せ」という当時の価値観を描きながら、それに抗い自らの意志と責任で人生を切り開く主人公を物語に据えている。私はゲームではなく小説でこの作品で描かれたことを知ったのだが、昭和では当たり前だった価値観が現代の観点から批判され見直されるのは非常に大事なことだと思うし、こうした価値観は「ゲ謎」においても誤魔化されずに描かれていたことを覚えているだろうか?

 

水木と沙代が会話している途中で克典が通りかかる場面を思い出してもらいたい。沙代が父親の介入を煙たがり一人で去った後に克典は水木に対してこう言っている。

「いいや、構わんよ。事と次第によっては本当にあれをくれてやる。龍賀の名と共にな」

父親である克典が娘の沙代を「あれ」と呼び「くれてやる」という風に言っていることから見ても、娘を所有物扱いしていたということがわかるし、こうした表現は当時の親子関係的にも別におかしくはない。

他にも、昔のドラマでは男性が婚約相手の実家に赴き「娘さんを僕の嫁として下さい」という言葉で婚姻の許可をもらうという場面がしばしば描かれたが、これなんかも女性を所有物扱いしていた一つの証拠である。そして言うまでもなく、時貞が沙代の死亡に対して言った「また作ればいい」という発言は女性を所有物扱いする男性の極致を描いていると言って良いだろう。

 

一応補足説明しておくが、別にこういった男女差別的な価値観は何も日本だけが特別強かった訳ではない。フェリス女学院大学の学長である小檜山ルイ氏によると、戦争と軍隊は兵士をコントロールするために女性のセクシュアリティを用いると述べており、第二次世界大戦時のアメリカでは、教会や町といった組織が主催するパーティーが開かれ、そこに町の中流以上の女性たちを招いて兵士とダンスさせたそうである。戦中においてダンスパーティーに参加することは愛国的行為であり、こうした形で兵士の性欲をコントロールしていたということだ。正にそれは女性のセクシュアリティを物として扱う行為であり、戦争においては若い女性が愛国的市民と堕落した娼婦という二つの間の境界線上に置かれていた、というのが小檜山氏が述べる当時のアメリカ社会である。※5

 

このように、女性が男性や国家から「物」として扱われた時代があったことを描いた上で、ゲゲ郎と妻の関係性というものに思いを馳せると、この二人は所有する側・される側といった形で描かれていないのは明らかだし、内助の功が尊ばれた当時の日本の夫婦像にもそぐわないと思う。この二人の関係性は非常に現代的であり、そこが本作の人気の理由の一因であると私は考えた次第である。

 

※5:NHKBSで放送された「ダークサイドミステリー」の「謎の未解決殺人 ブラック・ダリア事件 ~黒衣の美しき花の伝説~」(初回放送日:2026年1月9日)を参照。

(2026.01.22 追記)

注:以下、追記として言及する内容は今まで以上に私タリホーが本気で怒りを覚えたポイントです。一部感情的な表現をしますがその点は炎上しても構わないという覚悟の上で書くのでご了承下さい。

 

「ゲ謎」水木が負った"心の傷"とは何か?

引き続き「『ゲゲゲの謎』で許容できない事12」からの指摘となるが、「7:水木先生ご本人が晩年まで夢に見るほど苦しまれた戦争体験のPTSDをキャラ萌え要素に利用したこと」について言及していく。

 

幽霊族や妖怪の扱い以上に不満なのがこの点です。

VECTOR magazine 8月特集 「水木プロダクションの挑戦」でも

「水木青年と水木しげるとイコールにはしないでくださいとお願いした。作り手側には割と寄せたい気持ちがあったので、そこはちょっと抵抗しました。」

とありますがちょっとじゃなくて激しく抵抗すべきです。

 

一番譲っちゃいけない部分でしょう、そこは。

 

つい数年前までご存命だった実在の人物、肉親の事ですよ。

 

戦争でPTSDを抱いた実在の人物の名を模したキャラクターに安易に銃器を持たせたこと。

このことも従来のファンの怒りをかっています。
なぜ水木青年は銃器を持つことになったかは、アニメ3期の大海獣事件の山田青年を模しているからです。
水木青年の野心家な面も山田青年の影響です。


Q.「なんでここで山田青年が出てくるの?」
A.「ゲゲゲの謎」制作陣の萌え趣味です。おわり。

 

……まじでなめとんのかって言いたくなります。

 

私にはどうしても、この映画の制作陣は

故人の作品のみならず

実在の故人そのものをオモチャにして

同人ごっこ遊びをしているようにしか見えません。

 

水木先生が戦地での経験に長年苦しんでいた事をきちんと受け止める真っ当なクリエイターならば、水木先生と同じ名前のキャラに銃器を持たせて戦わせようなどと言う発想にはなるはずがありません。

 

ましてや晩年まで戦争のトラウマに苦しんだ元日本兵を模したキャラクターで狙撃シーンをして、それをかっこいいシーンのように描写などしません。


私にはどうしても、晩年までPTSDに苦しんだ故人の戦争体験を萌え遊びのネタにしているようにしか見えません。

 

「人間が一番恐ろしい」といいますが…

 

私は実在の故人をオモチャにできる所業の方が

ずっとずっとおぞましく感じます。

 

(※)原作では山田青年はライフルなんて1コマも持ってません。

以上引用したことから筆者の論をまとめると、「戦争体験でPTSDを抱えている水木に銃器を持たせるのは、実際に戦争体験をした水木先生に対する冒涜」ということだろう。要は、戦争体験によるトラウマを抱えている人に銃を持たせるなんてフラッシュバックを誘発させるだろうと、本当に戦争体験によるPTSDを抱えた水木ならば銃なんて持たないはずだと、そういうことが言いたいのだろう。

 

この水木のトラウマやPTSDについてはこれから詳しく語るけど、その前に水木が野心家だからと言って「大海獣」の山田青年を持ち出してくるのは暴論にも程がある!

以前からずっと、この筆者は結果に対する理由付けの仕方が無茶苦茶だということは指摘していたが、酷すぎて話にならないわ…。

 

で、本題のトラウマに関する話だけど、トラウマと言ってもその原因だったり、記憶が呼び起こされることで生じる不調・身体的反応には個人差というものがある。

心の傷を癒すということ (角川ソフィア文庫)

それを言及するために安克昌氏の『心の傷を癒すということ』を参考にしながらトラウマやPTSDについて述べていく。この本は阪神淡路大震災で被災者が負った心の傷を精神科医である著者が実際に診療した出来事を記したもので、今月NHKの「100分de名著」という番組でも再放送として紹介されている。まぁ「震災と戦争とではPTSDやトラウマにも違いがあるだろ」と言われたらそれまでなのだが、決して見当違いの話にはならないと個人的にはそう思ったので参考文献として紹介・言及させていただく。

 

この本によると、PTSDの症状は主に「過覚醒」「再体験」「回避」「否定的認知・気分」の4つに分類される。

「過覚醒」は次のストレスに備えて心のシステムが警戒態勢に入り、感覚が鋭敏になったり緊張した状態になること。「再体験」は何かの切っ掛けで過去のショッキングな出来事・辛い出来事が呼び起こされ、今それが起こっているような感覚に襲われる。その再体験が来ることを恐れてとる行動が「回避」であり、それによって通常必要な心の働きや意欲が失われる。こうした抑うつ状態に陥ることで自分や他人・社会に対して否定的な感情を抱き、攻撃的な言動や怒りとして発露するのが「否定的認知・気分」である。

 

そしてトラウマになる出来事は

1.凄まじい恐怖

2.無力感に苛まれる体験

3.戦慄するようなグロテスクな体験

という3つの特徴に大きく分けられる。

 

以上のPTSDの症状とトラウマになる出来事を踏まえて「ゲ謎」で水木が負った心の傷とは何かを考えていくと、水木のトラウマ的体験というのは戦争で自分が死ぬかもしれないという「凄まじい恐怖」もあっただろうし、同胞が次々と死んでいくことに対して何も出来ない・誰も救えなかったことや、或いは不条理な「玉砕」という命令に対して上官に抗えないという「無力感に苛まれる体験」、そして兵士たちが爆撃により吹っ飛び身体がバラバラになるという「戦慄するようなグロテスクな体験」を経た上で、それがPTSDとなって表れたということになる。

実際映画本編でも水木は村に訪れた日の夜、寝ている時に戦時中の記憶が呼び起こされ目を覚ましているし、ゲゲ郎が裏鬼道に囚われた際に、乙米が言った「大義のための犠牲なら、幽霊族も本望」という言葉に、玉砕命令を下された時の参謀の言葉を思い出している。

で、肝心の水木が銃を持っていた地下工場の場面についてだけど、あのシーンの前にあったゲゲ郎と水木が墓場で酒盛りをした場面がここで重要となる。

戦時中水木は上官から散々殴られ死ぬことを強いられ、戦後は親が親戚から金を騙し取られているという事態に直面する。一部の権力者や富裕層は私腹を肥やし、それに対して何も出来ず踏みにじられているという現状を経て彼は他者を蹴落としてでも踏みにじられない地位を手に入れようとする人間になったと語られている。この水木の他者に対する攻撃的なまでの野心の表れは先ほど述べた「否定的認知・気分」に該当するPTSDの症状の一つだとそう思ったのだ。

 

そして、その心の傷と原因をゲゲ郎に打ち明かしたあの場面が何よりも素晴らしいのは、そうやって水木が吐露したことに対してゲゲ郎が「そうか」とただ聞いて受け止めたことにある。

私たち素人は、こういった心の傷を抱えた人に対して一日も早く回復してもらうことを願い、そのためにこうこうこうすべきという形のアドバイスをついやってしまうが、それは傷を負った者にとっては「心の傷を抱えていることが悪いこと」だと見なされているという風に受け取るし、戦争だったり震災で大事な人を亡くし傷ついた人は自分だけが生き残ったという事実に深い罪悪感を抱えていることもある。そんな人に安易に過去の記憶を忘れさせようとしたり、明るく前向きな感情を持つことを説くのはダメなのだ。一番大事なのは相手の話を聞くということ、そして心の傷を抱えたままでも生きられるということ、それを受け止めて寄り添ってくれる人がいるということを知ってもらうことなのだ。

 

あくまでその人の自発性というものを損なわないようにするのです。これはどういう意味があるかというと、外傷体験を受けること自体が非常に受け身的な体験ですよね。自分の運命をコントロールできない、できなかったという体験です。ですから、自分のコントロール感を取り戻してもらう、自分にできることがまだたくさんあると気づいてもらうことがとても大事です。そのように力づけることがエンパワメント(empowerment)ということです。(中略)外傷体験を乗り越えるのではなく、抱える強さを取り戻してもらうということでもあります。

著書の中で安氏が以上のように述べている通り、相手の自発性というものを何よりも大事にしながら、その人が外傷体験(トラウマ)を抱える強さを取り戻してもらうのが重要なのである。だからこそ、酒盛りの場面でゲゲ郎がとった行動は非常に適切だったと評価しているし、あの場面でゲゲ郎と水木は利害関係の一致したバディから唯一無二の友人へと関係性が変化したと思っている。

 

そして、あの酒盛りの場面で水木にとってのゲゲ郎は「自分の心の傷を理解し受け止めてくれた唯一無二の友」という存在になり、だからこそ危険を顧みずに地下工場へ向かう勇気が出たと思う。

そしてあの場面で銃を持っているということは、たとえそれが切っ掛けで戦争の記憶が呼び起こされることがあっても、それを受け止めてくれる友を救うことが何より大事だと、ここで救わないことにはまた一人で心の傷を抱えたまま生きることになると気づいたからではないだろうか?

そしてそれは、水木が心の傷を抱えながらも強く生きられるということ、それを理解してくれる存在がいるなら他者を蹴り落とす必要はないということにも気づいた、ということにはならないだろうか?

 

沙代を人質にとりながらゲゲ郎の解放を求めるというシーンも以上のように物語をキチンと追っていけば、PTSDという心の傷を負いながらもそれを抱えて生きる強さと優しさが水木に芽生えたということが読み取れるはずである。これは決して専門的知識を要せずとも感覚で十分わかることだと思うし、それを単に「キャラ萌え」だの「故人をオモチャにしている」などと言っているこのブログの筆者に、一体人間心理の何が分かっているのだと、というか人間心理を語る資格などないと言わせてもらう。

 

人間の知性・理性に対する極めて冒涜的な害悪クレーム

このブログに対して色々と腹立たしく感じた所は多々あるが、特に最近アップされた記事で述べられている主張に関しては本気で頭にきている。

ameblo.jp

その「頭にきた」記事がコレである。長くなるので引用は省いて主張を要約すると、「ゲ謎」で登場した龍賀という名字や時貞・乙米といった名前は実在する人物の名字だったり、歴史的偉人である天草四郎時貞・坂本乙女(坂本龍馬の姉)に共通する。同じ苗字や名前の人に対する配慮に欠けており、日本に対する否定、批判といった制作陣の政治的思想が込められているのではないか、というのがこの記事で筆者が述べた主張だ。

 

はぁ?お前何言ってるんだ?(激怒)

 

「ゲ謎」ってPG12指定で公開された大人をターゲット層にした作品だぞ?何でそこで実在の人物や歴史的偉人に配慮した名前に設定する必要があるのだ??未就学児向けとか小学校低学年向けの作品に対して「いじめを誘発する恐れがあるから悪役の名前は非実在的なものにすべき」って言うならまだしも、分別のある良い大人が見る(ことを前提とした)作品で何でそんな配慮をしなければならないのだ?バカじゃないの?

っていうか、天草四郎時貞と龍賀時貞が同じ名前だったなんて全然気づかなかったし、それが同じだったからと言って「日本に対する否定、批判といった制作陣の政治的思想」という風な解釈をするのは一部の過激な教育クレーマーのやることだぞ!?

 

何なのでしょうかね?私たちは小学校の6年・中学校の3年で最低限義務教育というものを受けていて、そこから更に高校で3年、そして大学で4年学ぶ人もいる。そうして最短でも9年・最長で16年以上もかけて物事の良し悪しや善悪の区別をわきまえられるようになっていると思うし、「AとBは同じように見えるけど実は違う」といった知性・理性が身に着いているはずである。

だから、マトモに義務教育を受けて基本的な知識や学び・考え方の身に着いている人間ならば、歴史上の人物とフィクションの悪役が同じ名前だからと言って、それが日本の歴史や過去の先人たちを侮辱するという発想にはならないし、そんな風評被害も起こらない。私は今の日本人のほとんどにそれだけの知性や理性があると信じている。

 

だからこそ、この筆者の主張することは人間の知性や理性というものを軽んじ、ごく一部の低能で理解力の欠片もない、或いは理解しようと努力する気もない人々に合わせた極めて幼稚な配慮だと、言葉を選ばずに言うならそんな感じです。こんな主張が通用してしまったら、日本のエンターテインメントは全部幼稚でスカスカな中身のものになりますよ?

 

そりゃね、どんなことにおいても誤解や曲解がない方が良いし、偏見や色眼鏡なしに判断するのも難しいよ?私がいまこうして語っていることも偏見や主観的バイアスみたいなものがないとは言わない。でもそこで抱いた疑問を放置せずに問い続けることが学ぶということであって、「ゲ謎」は学ぼうと思えば色んな情報や知識が得られる作品だと思うし、別に学ぶ気がなくても普通にエンタメ作品として高水準のクオリティだ。だからこそ、教養の有無に関係なく楽しめるし、掘り下げれば新たな発見や気づきが得られる価値がある作品となったのだ。

 

勿論「ゲ謎」に誤解を生じてしまうポイントがあった※6のは確かだし、そういう意味では完璧な作品ではないよ?でもそれはあくまでも技術的な批判として指摘されるべきであって、制作陣にこういう偏った思想があって、原作や原作者を侮辱しているなどと言うのはおよそ理性的な大人のやることではないし、そんな幼稚で非論理的な批判を垂れ流されるのは、一人のファンとして甚だ迷惑であり害悪にすら思ってしまう。

「ゲ謎」を叩かずとも水木しげるやその作品について語り伝えるやり方は他にいくらでもあるのに、それを選ばずこんなネガティブ・キャンペーンをしているこの『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を私は心の底から嫌悪し否定したい気持ちで一杯だ。

 

※6:例えば、血液銀行医療機関ではなく金融機関だと誤解して感想を述べている人がいた。

 

誤解やノイズは学びの入り口となる

ついでに言っておくと誤解というのは必ずしもネガティブなものではなく、それが学び・探究につながるということを指摘しておきたい。

それを説明するために水木先生をディスるような話をすることになるが、水木先生の漫画や著作というのはなるほど確かにエンタメ作品としては一級品かもしれないが、それが学問の分野においてはノイズとなってしまうという側面もあるのだ。

 

一例として妖怪「牛鬼」を紹介するが、牛鬼は水木先生の作品だと「ゲゲゲの鬼太郎」で「ぎゅうき」と呼ばれ、鬼の顔に蜘蛛の身体をした妖怪として描かれている。性格は獰猛かつ狡猾で人間を執拗に狙い食糧とし、鬼太郎ですら退治することが出来ない妖怪、というのが大半の人がイメージする牛鬼だと思う。

 

ja.wikipedia.org

では実際に伝承で語られる牛鬼(うしおに)とはどんなものかという話になるが、まず牛鬼の顔は鬼・身体は蜘蛛というビジュアルは佐脇嵩之『百怪図巻』に描かれた牛鬼がモデルではあるが、牛鬼の姿や伝承は地方によって異なり、中国地方の牛鬼は女性の姿に化けたという話が伝わる一方、四国地方紀伊半島で語られる牛鬼は人に化けることは少なく、ひたすら強くて怖い怪物として伝わっている。※7愛媛県宇和島市周辺の地域では牛鬼を疫病退散・五穀豊穣のご利益があるものとして神聖視しているのだから、地方によって姿形や伝承はバラバラである。これは水木先生の「ゲゲゲの鬼太郎」を読むだけではわからない情報である。

 

こうした事例から見ても水木先生の描いた妖怪と実際に学問として研究されたり各地で語られる妖怪には多かれ少なかれズレというものがあるのだ。妖怪図鑑などを読むと創作として生まれた妖怪と文献史料で語り伝えられた妖怪がごっちゃになって載っているから、それもまた妖怪に対する誤解につながると言えるだろう。でもだからと言って水木しげるの作品は偏った妖怪観を子供に押しつけているものばかりだ!」などと批判している学者や研究者はいないでしょ?

 

それは水木先生の著作が妖怪研究だったり民俗学探究においての入り口となってくれているからであり、理性や知性のある学者や研究者はそれをキチンと理解しているからこそ、水木先生の著作や妖怪観に対して寛容な姿勢でいられるのだ。『日本現代怪異事典』の著者で怪異・妖怪研究家の朝里樹氏は正に水木先生や京極夏彦先生の影響を受けて妖怪研究という学問分野に足を踏み入れた方だし、そういう人が実際にいる以上、たとえ水木先生の著作に誤解・偏見を生じるものがあっても、そこから学び考えようとすることが出来る。それは「ゲ謎」においても同じことが言えるのではないか?というのが私が何よりも強く主張したいことなのである。

実際この映画の影響を受けて私も色々と調べたし新たな知識や教養を得た。普段見ないNHKのドキュメンタリー番組もいくつか視聴したし、それによって「ゲ謎」で描かれたことの重みや深さというものの凄さに感銘を受けるばかりである。

 

その一方で、『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』がやっていることはどうだろうか?毎回記事の冒頭で、「大切なのは自分の目で確認することです。情報を鵜呑みにするのはいちばん危険なことです。」などと述べておきながら肝心の内容があのザマである。集めた情報は中途半端で偏りがあるし、論理展開も乱暴かつ短絡的で整合性を無視したものが多い。理解出来ないことに対しては制作陣の特殊性癖を持ち出し、キャラ萌え・弱者萌え・毒親萌えなどというグロテスクなものの仕業にして結論づけてしまう。本当にこれが理性ある大人のやることなのかと吐き気を催しそうですよ。

 

確か以前私のブログのコメント欄でこの筆者が自身のブログについて「『私はこう思うけど皆さんはどう?』くらいの気持ちで書いてます。そして1人でも『あれ? そういえばどうなんだろう』と思って自分で考えてくれれば…と思っているだけです。」と動機を語っていたが、

あれを問題提起を促すつもりで書いているのだとしたら、ハッキリ言って悪質過ぎます。

 

※7:詳しくはNHKBSで放送された「ダークサイドミステリー」の「四国ミステリー伝説 ~安徳天皇・ソロモンの秘宝・牛鬼~」(初回放送日:2026年1月16日)を参照。

 

さいごに

『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に対してはまだまだ言いたいことがあるけど、とりあえず今回はここまで。最後に水木プロダクションの取締役で水木先生の長女である原口尚子氏が「ゲ謎」のシナリオについてどう考えていたのかを一部紹介しておこう。

――横溝正史の世界と『鬼太郎』の相性がいいのか悪いのか、みたいなことについては、尚子さんはどうお感じになりましたか。

原口 そうですね。水木しげるはきっとこういうのは作らないだろうな、とは思いました。怖い漫画はいっぱい描いているんですけど、ものすごく怖いホラー的なものは描いていないので、『鬼太郎』の世界とどの程度合うのかは未知数でした。ただ、『墓場鬼太郎』では鬼太郎も人を殺してますからね。そこはお任せしようと。原作者によっては、アニメの世界も自分の思い通りの作品にしたい、ということでコントロールされる方もいると思うんです。でも、水木しげるは特に「アニメと漫画は違うものだから、映像として面白いものを作ってくれればいい」という考え方でした。私たちもその姿勢を踏襲しました。聞かれれば意見は言うし、希望もお伝えするけれど、「絶対にこうしてくれ」とはなるべく言わないようにしています。コンテを見せていただき、意見を言わせてもらうこともあるけれど、古賀さんが「是非ともこれで行きたい」と仰ったら、そのお気持ちを尊重するようにしていました。

以上の文は古賀監督のインタビューと同様「アニメージュ」の「ゲ謎」特集で脚本の吉野弘幸氏と共に取材された時のものを引用しているが、原口氏はあくまでも水木しげるはきっとこういうのは作らないだろうな」と作風の違いを理解した上で、制作側の意見を聞き柔軟な対応をしていたことがわかる。結果的に「ゲ謎」はファンムービーとしてだけでなく、戦争映画としても高く評価されることになったのだから、この判断は実に賢明だったと思う。

 

そう言えば、「ゲ謎」を否定しているこのブログの筆者は現在の水木プロが「妖怪」と過去期の鬼太郎およびそのファンや子供達を侮辱したなどというバカげた妄想にまだ囚われているのだろうか?

実は私も最近まで知らなかったが、原口尚子氏は元小学校の教員であり、つい先日教職員不足に対する文科省の案に異を唱える内容を自身のTwitter(X)で載せている。そんな子供と関わる職業に曲がりなりにも関わっていた人が、これまで子供向けとして制作された過去の鬼太郎作品を侮辱するなんて、そんなふざけた話を本気で信じているのだろうか?

 

だとしたらもうハッキリ言って、陰謀論者と同レベルですよ!

 

何だろう、同じ水木作品を愛するファンとして怒りを通り越して恥ずかしいというか、日本人としても恥ずかしいという感じだわ。

 

あとこのブログの筆者と同様に「ゲ謎」を否定している「水木伝説」の方に対しても物申しておくけど、ブログに反論の意見が届いていないから自分たちの主張が正しいなどとのたまうのは、傲慢で思い上がった考えですよ。議論するに値しない論にいちいち「信者」が噛みつく訳ではないし、そんなヒマがあれば作品を追っかけている方が有意義だからスルーしてるという可能性も含めて考えないと。

何かこういう傲慢な姿勢を見ると当初自分に課した目標を破って文句や反論の一つでも送ってやろうかと、つい衝動的な行動をとりたくなりますよ本当に!

 

まぁ私の方のブログでもこの厳しい物申しに対して肯定の意見も反対の意見も(今の所)届いていないので、単なる一人相撲をやっている状態なのかもしれないが、感想や意見は反対意見も含めて大歓迎なので、そこの所よろしく頼む。

(ただ余りにも感情的かつ非論理的な反対意見はスルーするかもしれないことはあらかじめ言っておく)