タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ etc.)

【ブログ再開のお知らせと報告】当ブログは今後一切水木しげる先生に関連する作品の批評・議論は行いません

どうも、お久しぶりです。タリホーです。

 

約1ヶ月ほどブログでの執筆活動と更新をストップしていましたが、精神的に落ち着きを取り戻して何かしら書きたいな~という意欲が出てきたので、ブログの再開とそれに伴う報告をしておこうかと思います。

 

まず記事タイトルにも明記しました通り、当ブログ「タリホーです。」はこれまでゲゲゲの鬼太郎や悪魔くん等の作品をレビューしてきましたが、

今後は水木先生の著作に関連するものは当ブログでレビューや批評、また他の方と議論をすることは一切いたしません。

 

執筆活動を休んでいた間、私なりに色々と考えた結果の結論ですが、一応こういう決断を下すに至った理由をここからは説明していきますね。

 

反対意見を並立的に扱えない人々

今更言うまでもなく、私はこのブログでゲゲゲの鬼太郎(特にアニメ第6期)や悪魔くんのレビュー・批評を行い、コメント欄にもありがたいことに様々な意見が届いた。私の意見に賛同する方もいたし、残念ながら否定的な意見・攻撃的な意見を送ってくる方もいた。

そんな数々のコメントの中でもやはり私が今も思い返すと腹が立つのが、私が批評に際して6期鬼太郎やゲ謎の好評の意見を述べた際に、それを「(東映アニメーションの)制作陣を擁護したもの」として受け取った人がいたことだ。

前にも言ったが、私が制作陣を庇うメリットなど一つもないし、むしろ制作陣を擁護して私にどんな得があるのか教えて欲しいくらいだ

 

6期鬼太郎・ゲ謎・令和版悪魔くん、いずれも一部のファンが否定的な見解を述べているし、それに関して個人的に残念だと思うものの、批判すること自体は悪いことではないと思っている。かく言う私も、令和版悪魔くんについては好意的に評価はしていないのだから、批判することがダメなどとは全く考えていない。

とはいえ、批判というのは物事の良し悪しを論理的かつ建設的に行うべきものであって、自分が気に入らないポイントを節操もなくあげつらっていくことではない。ましてや制作陣に対してヘイトを向けたり攻撃的・暴力的な敵意を向けるのは論外であり、そういったことも弁えずに批判を行っている方々に対して昨年から苦言を呈してきた。

 

勿論、そうして私が自分と反対的立場である見解を持つ人々に苦言を呈したからと言って無理に嫌いな作品を好きになれとは言わないし、制作陣の言動に水木先生へのリスペクトが感じられないと思うのも好きにすれば良いだろう。

ただ、好意的に評価している人の意見を自分たちの尺度で勝手に曲解し理解しようとする人がいるのは非常に不愉快だ

 

例えば、ゲ謎を全面否定している「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者は、ゲ謎を支持している人たちは原作をつまらないと思っているなどという旨を述べている。

もう引用するのも腹立たしいので気になる方は各自調べてチェックしてもらいたいが、仮にゲ謎肯定派の中にそういう考えの人がいたとしてもそれが大多数の意見だとは思わないし、それをまるで肯定派が全員そう考えているかのように吹聴されるのは極めて迷惑かつ心外である。

 

確かにゲ謎は従来の鬼太郎作品と比べても露悪的な要素があるし、流血描写や残酷無比な描写が多々ある。決して万人受けする作品ではないと思うし、生理的嫌悪を抱く人もいるのも無理はないだろう。私もアンパンマンで性的虐待をテーマにした作品がもし描かれたら難色を示すだろうし、ゲ謎否定派の感覚も恐らくそれに等しいものだということは一応理解しているつもりだ。

しかし、私は何もそういう表層的な残酷描写を喜んで支持している訳ではないし、それは散々当ブログで説明してきた。否定派にも理解してもらえるよう言葉を費やしに費やしたつもりだが、結局それは否定派の方々には届かず、「擁護」「独自解釈」といった形で処理され、ゲ謎を評価している私たち肯定派が原作を軽視し、BLやエログロを好む低俗な輩だという、ある種の人格否定ともとれる発言までされてしまった。こうした否定派の人が全てそうだとは思いたくないが、私は私なりに否定派の意見に理解を示した上で「いやこういう意見もあるよ?」「それが必ずしも正しいとは限らないよ?」といった柔軟な思考や議論を促してきたつもりなのに、どうして反対の意見(この場合肯定派の考えだが)を自分たちの意見よりも劣ったもの、間違ったものとして決めつけるのか、「Aという考えもあればBという考えもある」という形で並列的に認識・理解が出来ないのか?と悩み苦しんだし、何故こんな人たちに私たちの嗜好や価値観を決めつけられねばならないのかと怒りで頭が真っ白になったこともあった。

 

こういう出来事があったので、私はゲ謎否定派の方々と意見を交わしても意味がないし、議論をした所でこっちが精神的に辛い思いをするということがわかったので、今後は水木先生に関する作品を批評することはしないでおこうと決めた。これが批評・議論をやめようと思った理由の一つである。

 

仲間だと思っていた人がアンチへ転じたことへの失望

批評・議論をやめようと思ったのは「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」に対して私が失望したからというのも大いに関係している。それはあのブログがゲ謎とそれを制作したスタッフにヘイトを向けているというのも勿論あるが、もう一つはこのブログの筆者が以前当ブログにコメント送ってくださっていた方(=元読者)だったということも関係している。

 

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このブログの筆者とはゲ謎が公開される前までは仲良く出来ていたし、以前5期鬼太郎のレビューで「脚本家に対するヘイト発言・他のファンへのマウント取り」に関する意見を述べた際もコメント欄で「タリホーさんのように深く読み込みつつ、スタッフへのヘイトをしないという当たり前の事ができている識者はかなり少ないように感じました。」と賛同してくださった。この時は本当に嬉しかった。

 

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しかしこの方はゲ謎公開後「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」というブログを立ち上げ、現在に至るまで制作陣に対してヘイトを向けるような発言をしている。具体的には、古賀豪監督には毒親や不倫などに対する歪んだ性癖があって、それを鬼太郎という作品に盛り込もうとしたなどということを述べていた。

これを制作陣へのヘイト(憎悪)と言わずして、何をヘイトと言うのか?

 

結局あのブログの筆者は制作陣にヘイトを向け、それを支持するファンにも問題があるという旨を主張しているのだから、私が以前主張したことなど忘れて攻撃的な批判をしていることに憤りを覚えたと同時に深い失望も感じた。あぁ、私の言葉は何の役にも立たなかったのだなと、理性と知性では憎悪や嫌悪を抑えられないのだなと落胆せざるを得なかった。

 

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この後に私はこのブログを批判する記事を4回にわたって執筆したが、何も嬉々として批判していた訳ではないし、「何故だ、どうしてこの人はわからないのだ…」という苦悩というか怒りが感情の大半を占めていた時もある。仮にブログの筆者本人に読まれなくとも同じ否定派の「水木伝説」なら多少なりとも私の言いたいことを理解・把握してくださるかと思っていたが、残念ながらそれも徒労に終わってしまった。

 

こういう経緯があるので、私の意見を支持し賛同してくださる方がいるというのはわかっているのだけど、「今私の意見に賛同しているこの方も、いずれ何かの切っ掛け・別の作品でアンチの側にまわるのではないのか?仲間だと思っていた人とまた対立・衝突する時が来るのではないか?」という疑念や不安がぬぐえず、それなら誰とも意見を交わしたり議論などせず、私一人で水木先生の作品を愛でようという結論に達した。

 

このブログを開設した時は同じ水木先生の作品を愛する者同士、このブログで仲良く意見を交流させたいという思いがあったが、開設から約8年たった今、こんな形で批評・議論をやめることになるとは思わなかった。

でも私は自分の好きな作品でこれ以上苦しい思いも不愉快な思いもしたくないのである。ゲ謎自体は素晴らしい作品だと思っているのだが、「水木伝説」との一件があってからはゲ謎を見返すことにちょっと抵抗を覚えるようになってしまった。それだけ私の中で消化出来ない怒りや苦悩・恨みつらみが残っているし、恐らく一生消えることはないだろう。

 

『地獄の楽しみ方』

文庫版 地獄の楽しみ方 (講談社文庫)

今回の一件で思い出したのが、京極夏彦先生が2019年に10代(15~19歳)に向けて行った特別授業「たたかわないために ~語彙と思考」の内容を書籍化した『地獄の楽しみ方』である。小説家という言葉のプロの観点から言葉の不完全さを説き、その上でいかにしてこの地獄のようなこの世を楽しく生きていけば良いのかをレクチャーした一冊なのだが、京極先生は特別授業の中で「あらゆる争いは言葉の行き違いから起きる」と述べている。

私なりに本書の内容をざっくり要約すると、言葉というものは不完全なものであり、自分が発した言葉が100%相手に正しく伝わることはまずあり得ない。受け手は言葉を自分が理解出来るように勝手に解釈してしまう。ゆえにこの世で起こる争いは言葉の行き違いによるもので、それを避けるためには語彙を増やして使いこなす技を身につけましょう…ということが『地獄の楽しみ方』に記されている。10代向けの授業とはいえ大人の私たちにも勉強になる一冊なので是非読んでもらいたいが、以前読んだこの一冊を思い出して今回の一件を振り返ると、意見を戦わせるということが必ずしも正解ではないと思ったし、私が発信した言葉が100%相手に正しく伝わらないのであれば批評も議論もした所で仕方がないか、という結論に達したのである。

 

そもそもゲ謎否定派の方はどこの馬の骨ともわからぬ肯定派のファンの言葉なんて最初からマトモに聞くに値しないと思っているかもしれないし、そんな誰ともわからぬファンや制作陣の言葉よりも自分が映画を見て感じたインスピレーションとか水木先生・京極先生といった有名な方の言葉の方を信用するだろうから、そりゃ伝わらないよなと私なりに腑に落ちたのである。

 

そうだよね?そりゃ「水木伝説」の側から見れば、私は別に妖怪研究の論文も書いてなければ、水木先生に関する同人誌を発刊したこともないただのオタクだし、「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者も私なんかより水木作品に造詣の深いファンクラブの会長と意見が一致したら、そちらの言い分を全面的に支持するのも当然だろう。そんな古参のファンからしてみればゲ謎の肯定派や制作陣なぞ、ニワカオタク以下だろうし私たち肯定派の意見・言葉をマトモに聞いてもらえると思っていた私が間違っていた。

 

なので、もうあのブログも含めて今後誰かと意見を戦わせることも交流させる必要もないと思ったし、直接水木プロや東映アニメーションに危害や損害を加えるようなことさえしなければ、各々が思ったこと・感じたことが正解ってことで良いのではないか?と納得がいったので、もし今後当ブログに水木先生の作品に関する意見を聞かれても私は「あなたが考えていることが正解で良いと思いますよ?」としか言わない。正直今となっては水木プロや東映アニメーションがどうなろうが私には関係ないし、今後鬼太郎や悪魔くんの新たなアニメが制作されるかどうかも正直言うとどっちでも良いというのが本音だ。

 

曖昧なものを曖昧なままにしておくことも理性的な判断

6期鬼太郎以降の批評と、それに対する数々のコメントを読んできて思うのは、今の私たちに必要なのは曖昧なことを曖昧なままにしておく理性だということだ。

どうしても私たちは明確な答えをついつい求めてしまう生き物であり、6期鬼太郎やゲ謎、令和版悪魔くんにおいても「制作陣は本当に水木先生やその著作をリスペクトしているのか?」といった所で意見が衝突することが度々あった。

 

例えば、否定派の意見で「アニメスタッフは水木先生が死んだのを良いことに勝手に原作レイプさながらの作品を作っている」とか「アニメオリジナルキャラばかりを依怙贔屓して、原作キャラを大事に描いていない」といった意見があったけど、ではこれが客観的事実に基づく批判かと言われるとそうも言えなくて、やはり主観が大いに入っていると思う。

では肯定的な意見が客観的で正しいかと言う話になるが当然そんなことはなく、肯定的な意見もまた主観は入っている。それを説明するために私個人の考えを例に出すが、祖となる水木先生亡き今、制作側が「水木先生が亡くなったから好き勝手描けるぞ!」と思うのは流石にサイコパス的な発想だと思うし、むしろ亡くなった今制作陣にふりかかるのは、次世代に水木先生やその原作の良さを伝えていくことに対するプレッシャー・重圧の方が大きいというのが私の考えなのである。だからゲ謎の近親相姦の描写にしても、公の場に出す作品である以上メリットよりもリスクの方がはるかに大きい訳で、にもかかわらず古賀監督をはじめとする制作陣はそれを水木先生生誕100周年記念作品に盛り込んだのだから、それは生半可な気持ちで盛り込んだものではないだろうと考えたし、水木プロの原口尚子氏も小学校の元教員という経歴の持ち主なのだから、これが教育上よろしいかどうか、そういった倫理観が欠落した人物だとは思えないと考えたから、私は制作陣や現水木プロに対してヘイト的感情は抱いていないのである。

当然これは性善説に基づく主観的バイアスのかかった意見に過ぎないし、結局の所制作側がアニメや映画を作るにあたって邪な意図があったかどうかなど客観的に証明することは不可能なのだ。

 

だからこそ、私はハッキリと答えが出せないものは曖昧な形で残しておくのが良いと思うし、少なくとも私たちは法律を守り法律に守られている以上、「疑わしきは罰せず」を尊重し、悪し様に制作陣を叩かず、批判するにしても節度をわきまえ論理的かつ建設的に行うべきだというのが私の主張なのである。鬼太郎という作品で女性や子供が犠牲になったり性的被害を受ける描写を盛り込むべきではないという意見はわかるけど、そういう描写があったからと言って制作側に原作者である水木先生を貶める意図があったなどということを、まるで絶対的事実のように吹聴している人がいることに対して私は苦言を呈し批判を述べているのだけど、残念ながら私の意見は否定派の意見にケチをつけたもの、不当なバッシングとして受け取られてしまっているのが現実だ。

 

もう言うまでもないが私は制作陣を全面的に支持しているファンではない。ゲ謎に対しては肯定的でも令和版悪魔くんに対してはかなり否定的な立場の人間だ。でもだからと言って「令和版悪魔くんは矛盾だらけ」などというブログを立ち上げて執拗に作品と制作陣を責め続けても良い結果にはならないと思っているし、私自身は理解出来なくとも令和版悪魔くんを好意的に評価している人だっているのだから、自分の理解出来るもの・納得のいくものが世間的に人気がある訳ではないし、反対に自分に理解出来ないけど他人にはわかる良さなど、この世にはいくらでもある。だからこそ、相手と意見をまじえようともせず、一方的に自分の尺度で相手を決めつけるような姿勢の持ち主は同じ作品を愛するファンとしてあるまじき態度だと思うし、6期鬼太郎にしろゲ謎にしろ令和版悪魔くんにしろ、それを好意的に評価している人がいるからと言ってそういった人を「水木作品の良さをロクにわかっていないニワカ」だとか「ゲゲ郎と水木のBLが好きな腐女子」だとか、そういった程度の枠の範囲内でしか肯定派を認識出来ない人がいるのは非常に腹立たしい話である。

 

我々は未だ暴力的である

6期鬼太郎以降のファン同士の間で起こった数々の衝突や対立・分断を経て、私たちは未だに暴力的で加害性というものに鈍感であるということを改めて実感させられる。

 

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これに関しては私自身も以前水木プロの炎上騒動の際に「被害妄想」などという強い言葉を使って不当な攻撃をしてしまったことがあるので、あまり偉そうなことは言えないのだが、あの当時のことを改めて思い返すと、単に水木プロのインタビューに怒ったり悲しんだりするのはまだしも、「炎上商法のつもりですか?だとしたら成功ですね(笑)」みたいなことを言っていた人は流石に口が過ぎると思ったし、目に余るレベルの攻撃的なコメントも少なからずあったので、私もつい感情的な形で非難をしてしまった記憶がある。こういうことを言ったからと言って、別に自己弁護をする意図はないし、私も含めて攻撃的なコメントをしてしまう人がいるのはひとえに原作者である水木先生やその作品に対する強い愛ゆえのことだというのはわかっているつもりだ。

 

しかし、相手が間違っているからと言って何を言っても良い訳ではないのは確かだし、攻撃的な言葉を使ってしまうのは仕方ないにしても、それを振り返って「あ、あの時言ったアレはマズかったな…」と反省出来る度量がある人を私は大事にしたい。

以前令和版悪魔くんの最終回レビューの際も自分の送ったコメントにまずい点があったと反省している方が何人かいたが、そういう人は素晴らしいなと思うし、今後も仲良くしていきたいなと思った一方、「自分の言ったことは間違ってないし後悔してないっす」みたいなスタンスの人についてはちょっと距離を置きたくなった。

 

で、私が何故ここで暴力性・加害性の話をしたのかという話になるが、6期鬼太郎やゲ謎って従来の鬼太郎アニメと比べても、暴力や流血といった描写が割と顕著に描かれていてそこが往年のファンには不快感や嫌悪を催すポイントであり、「鬼太郎は子供も安心して見れる作品だったのに、こういった暴力描写を盛り込むとは何事か!」っていう意見もいくつか見かけたのだけど、こんな感じでアニメは特に暴力描写や性的な描写に関して倫理上の問題から排除するような働きかけというか意見が度々出てくるし、実際昔に比べたら今のアニメは流血みたいなものはほとんど描かれなくなっていると言えるだろう。

 

でもさ、そうやって暴力的な描写や性的な描写が排除されたからと言って私たちが平和的な人間になったかというと全然なれていないし、私たちの暴力性・加害性は殴る・蹴るといった物理的なものから、単に言葉の暴力へと転化しただけではないのか?というのが6期鬼太郎やゲ謎などを見ていてうっすら考えていたことだ。

 

昔は校内暴力やハイジャックといった物理的な暴力・テロリズムが世間を騒がせていたのに対し、現代では誹謗中傷や炎上といった言葉による暴力が目立って来ている。物理的な暴力に関しては減ったものの、ハラスメントや誹謗中傷といった精神的な暴力が顕在化していることを思えば、我々は決して平和的になった訳ではないし、テレビやアニメでそういった暴力的な表現を規制した所で、根本的な解決にはならないことがわかるだろう。

 

こういうことを言ったからと言って、私は別にアニメに暴力描写を遠慮なく盛り込んでいきましょう!などという開き直ったことを言いたいのではなく、それだけ私たちは自分の暴力性・加害性というものに向き合えない、或いは恐ろしく鈍感な生き物であり、水木先生のファンである私たちでさえも、その暴力性・加害性というものに正面から向き合えていないのではないか?ということを読者の皆さんに問いかけたいのである。相手との対話を拒み、自分の意見だけは一方的に押し付けて、敵と味方という善悪二元論的な物の見方しか出来ないようでは平和の道など永遠に開かれない。今のままでは私たちは中世ヨーロッパで魔女狩りをしていた人々や、フランス革命で王侯貴族たちを処刑していた民衆と同レベルだと主張したいのである。

 

私たちが水木先生のファンであり、本当に平和を望むのであれば人間の暴力性や加害性というものについて考えないといけないし、それをタブー視して単に排除しようとするだけでは何の解決にもならない。少なくとも私は6期鬼太郎やゲ謎、そしてそれに対するファン同士の対立・分断を経て、私たちは未だに精神的に進歩していない、未だに暴力的で攻撃的で、排他的なファンであることを思い知ったし、ファン同士の対立・衝突にこれ以上関与するようなことはしたくないので、今後は一人で作品を愛でていきたいと思ったのである。

 

さいごに

以上、ちょっとまとまりは悪いかもしれないが、私なりに水木先生に関する作品の批評・議論をやめようとした理由を述べた。

 

ブログの活動を休止するとお知らせした時に温かい応援コメントを送ってくださった方には心の底から感謝しているが、これ以上私は屈辱的な思いをしてまで批評や議論・批判といったことはもうしたくないし、正直嫌気がさしているのだ。

同じ国に住んで、同じ言語を使い、なおかつ同じ作品・作者のファンだというのに何故こんな辛い思いをしなければならないのか、何故「心が狭い」だの「日本を貶める反乱分子」だのと言われなければならないのか、私が言っていることがおかしいのならば正々堂々と議論してほしいだけなのに何故陰口を叩かれなければならないのか。

 

……端的に言えばもう疲れ果ててしまったのだ。

これ以上無理をして批評や議論を行うと鬼太郎や悪魔くんそのものまで嫌いになってしまうかもしれないので、そうならないためにも今後は一人で水木作品を楽しもうと思う。なので以前言っていた悪魔くんの「ノストラダムス大予言」のレビューに関してはもうやらないので、その点に関してはご了承願いたい。

 

幸か不幸か、私は水木先生の作品以外にも本格ミステリというものに関心があるので、今後はミステリ小説(ドラマ)や水木作品以外のホラーを中心とした批評やレビューを行っていこうと思う。

原作既読勢としては”怖さ”より”感心”が勝った秀作【映画「口に関するアンケート」レビュー】(一部ネタバレあり)

タリホーです。もう既に知っている方もいると思うが、今年の9月に松竹制作の映画「八つ墓村」の公開が決定した。監督は「呪怨」シリーズを手掛けた清水崇氏であり、ホラー映画を専門にしている方なのでミステリ小説として発表された原作とは違い、ホラーに全振りした「八つ墓村」になると推察されるが、横溝正史作品のファンとしてまた9月になったらレビューする予定だ。

 

【映画化記念特典付】口に関するアンケート

で、今回はその清水監督が手掛けた映画「口に関するアンケート」をレビューしようと思う。原作は『近畿地方のある場所について』で作家デビューした背筋氏によるもので、わずか60ページほどの短編小説を約90分の長編作品として映画化している。映画化することは昨年の時点で知っており、私は既に原作を読んでいたので『近畿地方~』の時以上に「どうやってこの原作を映画化するの…?」という疑問がわいていたから、これは鑑賞してレビューを書かないといけないと思っていた。映画の感想を述べる前に、まずは原作小説がどういう作品でどういう特徴があるのかをざっと説明しておこう。

 

(以下、原作を含む映画のネタバレが一部あり)

 

実験的作品

口に関するアンケート

前述したように、原作小説はわずか60ページほどの短編で、本の大きさも文庫本よりも小さい手帳というかメモ帳ほどの大きさの、文字通り「掌編」と呼ぶに相応しい作品だ。内容はとある心霊スポットに行った5人の男女の証言と、その証言を読んだ読者に対するアンケートの2つで構成されており、一般的なホラー小説と比べてみてもかなり異質な構成になっている。映画公開後の背筋氏のインタビュー動画※1によると、本作は芥川龍之介の『藪の中』を参考に書かれたもので、作中で明確な事実や答えが明らかになるのではなく、その答えや解釈を(ある程度)読者に委ねた形式の作品になっているのが特徴と言えるだろう。

 

これは実際原作を読んでみるとわかるのだけど、5人の男女の証言には明らかに違和感を覚える部分があるし、原作者の背筋氏も読者が混乱するよう意図的に証言にとある錯誤というか誤認を仕掛けている。なので本作はジャンルとしてはホラーなのだが、仕掛け自体はミステリ小説の手法に近く、最後のアンケートの下りもミステリ小説で言うところの伏線回収の役割を果たしている。

同じホラーとはいえデビュー作の『近畿地方~』が「神に見つかってしまう恐怖」を描いた作品なのに対し、本作は「意味が分かると怖い話」という感じの作品だ。身も蓋もない言い方をすれば本作の証言パートは5人の男女が心霊スポットに行って、そこで怖い体験をしたことを語るというただそれだけの、何も珍しくも目新しくもない体験談に過ぎないのだが、それをミステリ小説的手法というか技法を以て独自の恐怖を演出しているのが『口に関するアンケート』の特筆すべき評価ポイントと言えるだろう。

 

なので、本作は王道のホラーというよりは実験的な試みがなされた作品であり、それだけに映画化するとなると多くの課題がある。昨年映画化した「近畿地方~」も原作が断片的な情報を寄せ集めたものという、一般的な物語における起承転結の構成になっていないという点で映画化しづらい作品だと別の記事※2でレビューしたが、本作の場合は5人の男女の証言とアンケートだけで構成された作品であり、心霊スポットに行った男女の末路とその原因となる出来事、つまり原因と結果しか描かれていないので尚更物語として欠落した部分が多く、読者がその欠落部分を補完することを前提にした作品でもあるから、果たして映画の制作陣はこの原作をどう映像化するのか、原作における仕掛け・企みを映像としてどう表現するのか、そこが注目ポイントだった。

 

※1:新作映画『口に関するアンケート』徹底インタビュー!鳥肌演出!○○量爆増!図書館のシーンのアレは何?※一部ネタバレあり 監督:清水崇×原作者:背筋【ジャガモンド斉藤のヨケイなお世話】- YouTube

※2:終盤の〇〇的存在が評価の分かれ目か?【映画「近畿地方のある場所について」レビュー】(一部ネタバレあり) - タリホーです。

 

素材の味を活かした秀作

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では実際に映画を鑑賞してみてどうだったかという話になるが、映画の予告編でも映っているように、原作の5人の男女の証言の下りは三人称視点や一人称視点で撮影されたものだけでなく、証言者の顔をどアップに映した部分がある。これは原作既読の方ならその演出の意図はなんとなくわかるだろうし、原作未読の方にはこの後のサプライズとして効果的な演出になっていたと言えるだろう。

あくまで体感に過ぎないが、この映画の約3~4割くらいはこの証言者の顔面のどアップに尺を費やしているので、ここの顔面どアップ状態での証言パートにおける俳優陣の演技がイマイチだと本作は駄作になっていたと思う。私は演技面に関してそこまで偉そうに言えるほどドラマや映画漬けの生活を送っていないので、いち素人の意見として言わせてもらうと、板垣李光人さんをはじめとする俳優陣の演技は間違いなくこの映画のクオリティに貢献していたと評価している。原作を読んでいたからわかるが、本作は証言者のちょっとした表情の変化も物語の伏線になっているし、映画の序盤でとある人物の表情を見た時は思わず「フフ…」と心の中でニヤついたくらいだ。

 

脚本面に関して言うと、原作が原因と結果しか描いていない作品なので当然オリジナルのパートが追加されており、証言者の5人が心霊スポットに行ったことで怪異に襲われる展開と、中村獅童さん演じるギャンブル依存症の刑事による捜査パートが映画オリジナルのプロットだ。この刑事による捜査パートは観客が作中で起こった出来事について混乱しないよう物語をある程度整理する役割を果たしており、また本作の根幹となる「口は災いの元」というテーマを補強する上でも重要な役割を果たしていたと思う。こういう原作の映像化においてはオリジナル部分が原作の良さを阻害したり殺す結果になってしまった作品が多々あるが、本作に関しては原作が持っている良さを最大限に活かした作りになっていたのも私が本作を好意的に評価している理由の一つだ。

 

例えば、5人の証言者に降りかかった怪異(呪い)は、いずれも呪いの木・蝉・首吊りといった原作で使われたモチーフやアイテムを利用したものであり、それ以上のアイテムやオリジナルの怪異を盛り込んだ恐怖演出は使っていない。これは予想の範囲内の恐怖しか描かれていないと批判的に評価出来てしまう所がなきにしもあらずなのだが、私はむしろ原作にある素材の味を最大限に活かした映画だったと評価している。

映画なのだから肉付けしようと思えばいくらでも展開を延ばすことは出来たと思うし、それこそ昨年公開された「近畿地方~」のように、登場人物の一人が怪異に抵抗しようと決死の行動をとる(霊能力者の力を借りる、元凶となる呪いの元を断ち切るなど)展開を描くことも出来たはずだ。でもそういった余計な肉付けをしなかったことが本作の場合は功を奏していたのではないかと考えていて、原作自体がシンプルで実験的な作品だから、そのシンプルな味わいを活かし原作から大きく逸脱するような展開を盛り込まなかったおかげで、「あ、この制作陣は原作の勘所が分かっているな」と好意的に受け取ることが出来たのである。

 

勿論、批判ポイントがない訳ではない。一つ挙げるなら、本作の重要な要素であるアンケートに関しては、原作の場合それが5人の証言者が辿った末路を示し、証言に隠された違和感を明らかにする、ちょっとした伏線回収とそれに伴う恐怖を演出する意味合いがあったのだけど、今回の映画の場合このアンケートは「この物語を見てあなたはアレをどう解釈しましたか?」という、観客に考察・解釈を促すという程度の効果しかない。なので、どうしても原作と比べるとアンケートの重要度が下がっているのは否めない。

ただ、原作は文字媒体の作品だからともかく、映画は映像による良さを出さないといけないので、5人の証言者が辿った末路をビジュアル化することなく、(原作通り)アンケートの内容だけでその末路を仄めかして物語を終える訳にもいかないだろうし、改善策を考えようにもあれ以上にやりようがないと私は思ったので批判として挙げたがそこまで強い批判でないことだけはハッキリと言っておきたい。

 

恐らくだが、制作側も映像化する上で生じるデメリットも考慮していたと私は思っていて、その結果盛り込まれたのが原作にはない「とある事実」だ。このアイデアは映画のパンフレットによると原作者の背筋氏が原作を執筆する際に考えていたもので、清水監督を含む制作陣が背筋氏からそのアイデアを提供してもらい映像化するに至ったという。確かにこれならば原作既読でも新鮮な驚きを味わえるし、最後のアンケートも(原作ほどではないが)有効に利用出来るアイデアだなと感心させられた。

 

さいごに

以上が映画「口に関するアンケート」の感想だ。以前レビューした「近畿地方~」は怖さもありながら面白さもある作品として評価したが、本作の場合は怖さよりも「映像化するメリットよりもデメリットの方が多いあの原作を、よくぞ秀作ホラーとして映画化したな…!」と感心する結果になった。原作既読だったからこそ改変した部分や映像作品としての伏線がするすると理解出来たので、もし原作未読だったら「ちょっと変わったホラー映画」くらいの評価になっていたかもしれない。原作を読んでいるかどうかも評価を左右するポイントなので、個人的には原作を読まずに映画を鑑賞した人の感想もチェックしたい所である。

 

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それにしても、こうして映画「口に関するアンケート」を見た後だと以前レビューした映画「変な家」ってホラー映画のプロが撮った作品ではなく、ホラー映画が好きなアマチュアが撮った作品だなと改めて感じさせられる。私自身は映画「変な家」は決して嫌悪するレベルの駄作だとは思ってないが、とはいえ原作の持ち味を活かせていたかというと流石に否で、終盤の村での怒涛のホラー展開は原作のアイデアを膨らませたという範疇を超えたものだったから、この辺りの匙加減を原作者である雨穴氏に相談するなり何なりしておいた方が良かったかな~と思い返した次第である。

 

そう言えば、『口に関するアンケート』は映画だけでなくコミカライズもしたようで、あの「血の轍」の作者である押見修造氏が担当したということで先日1話を読んでみた。こちらは映画と違い原作通りの展開になると思うが、やはり映画と漫画では怖さの質感が全然違うね。

映画「岸辺露伴は動かない 懺悔室」を見て考える、幸運と呪いの話(ネタバレあり)

タリホーです。2026年も下半期に突入したということで、下半期一発目にレビューするのは人気ドラマシリーズ「岸辺露伴は動かない」の実写映画第二弾「懺悔室」に決めた。

 

岸辺露伴は動かない 懺悔室

 

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映画は昨年の5月に公開され今年の5月にNHKで放送されたのを録画していたのだが、録画したまま放置していてつい先日視聴を終えた。出来れば5月の放送時にレビューしたかったのだが、他のことを優先していて後回しになってしまった。

 

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2023年に公開された映画第一弾「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」は当ブログで以前レビューしていたが、今回レビューする「懺悔室」は前回の「ルーヴル」で感じた前半部のまどろっこしさ・冗長さがなく、全体的に非常にバランスの良い脚本になっていたというのがまず最初に言いたいポイント。前半は岸辺露伴がイタリアの教会でとある男の懺悔話を聞くという原作通りの流れで、後半から映画オリジナルの展開へと移る。後半のオリジナル展開は原作で描かれた浮浪者の「幸運の呪い」のアイデアを膨らませていき、その呪いをかけられた男の運命とその呪いに”感染”してしまった露伴の姿が描かれるのだが、前半のインパクト抜群のホラー展開から失速せずに「幸運の呪い」によるサスペンス劇が繰り広げられるのが素晴らしく、舞台がイタリアであることにちなんでオペラの「リゴレット」を物語に絡ませているのも本作の脚本の秀逸なポイントと言えるだろう。

 

ここからは、内容をネタバレしながら本作を視聴して個人的に考えたことを述べていこうと思う。

 

(以下、原作含む映画のネタバレあり)

 

呪いは自分と同じレベルの人間でないとまず通用しない

本作において特筆すべきは何と言っても非業の死を遂げた浮浪者がかけた「幸運の呪い」であり、相手が幸福の絶頂に達した時に最大の絶望をもたらすため、ありとあらゆる幸運を舞いこませるという呪いのシステムが物語として魅力的と言えるだろう。その呪いをかけられた男はどんな幸運もいずれ訪れる絶望の前座という形でしか認識することが出来ず、そのためわざと鏡を割ったり部屋の中で傘を差したり、縁起の悪いことをして幸福の絶頂が訪れることを避けるという行動をとっていた。そして彼は自分の娘・マリアにもその呪いを避けるまじないを行わせていた…という訳だが、本作を見てふと思ったのが幸福というのは非常に主観的な価値観なのに、どうしてそれが呪いとして成立するのだろうか?ということだ。

 

例えば、本作の場合呪いをかけられた男の幸福というのが大金が舞い込む・事業が成功する・妻子に恵まれる・娘が婚約するといった一般的な人々がイメージする幸福だったからまだしも、もしあの男が一般的な人々が抱く幸福ではなく例えば「首相になりたい」とか「ビル・ゲイツ並みの大金持ちになりたい」、或いは「宇宙旅行がしてみたい」「世界中の蔵書を死ぬまでに読み尽くしたい」といった次元やスケールの違う価値観の持ち主だった場合、果たして呪いをかける側はそれを実現させてくれるのだろうか?とつい気になったのである。

本作における幸運はいきなり天から舞い降りるようなものではなく、人々の行動が連鎖した結果起こる類の幸運なので、仮に宇宙旅行を実現させようと思ったら呪いをかける側(本作の場合あの浮浪者の怨霊)はかなりの人間の運命を操らないといけないだろうし、万が一それを実現させた所で相手が「いや、これは幸福の絶頂ではない。何故ならこれ以上にやりたいこと・実現したいことが出来たからだ。それが訪れていないのだから”幸福の絶頂”ではない」と言ってきたら、呪う側は絶望という名の刑罰の執行を延長してくれるのだろうか?

 

とまぁ、こんな感じである意味くだらないことを考えていて浮かんだ仮説がある。それは呪いは自分と同じレベルの価値観や思考を持つ人間にしか効果がないのではないか?ということだ。

本作では露伴も男の呪いに触れてしまったことで様々な幸運が舞い込み、その中には自分の描いた漫画が海外で大ヒットするという展開が描かれていた。しかし露伴は自分の漫画が運で売れることは何も嬉しいことではない、むしろそれは侮辱的なものとして「幸運の呪い」に怒りを示していたのだから、呪いを振りまいている浮浪者の霊と露伴とでは明確に価値観の差があり、だからこそ露伴にはそれが呪いとして通用しなかったとそう私は考えたのである。つまり、「幸運の呪い」が効果を発揮したのは、呪いをかける側とかけられる側、双方の価値観に大きなズレがなかったということだろう。

 

この呪いの話に関連する話を少ししておこう。実は先日当ブログにこんなコメントが届いた。

 

画像

 

そう、いわゆる誹謗中傷コメントである。

 

先日私は別の記事で水木しげる先生に関する作品のレビューや批評、ファンの方との議論は行わないという表明をした所、このようなコメントが届いたのだが、具体的なことが書かれてないので私の何に対して「精神的に未熟」だと感じたのかはわからないが、少なくとも私を傷つけ悲しませる意図があるのは確かだろうし、そうした「呪いの言葉」として発信したものだと私は受け取っている。

ただ、これはハッキリ言って「呪い」にはなっていない。

私の痛い所をつくようなことが書いてあればそれは一種の呪いとして効果を発揮したと言えるのだけど、別に私は両親から虐待を受けたことなどない。マジレスするのも馬鹿馬鹿しいが、私は両親から世間一般で語られるような虐待――例えば寒空の下ベランダに出されて放置されたとか、しつけや罰と称して殴られたり食事を抜かれた――を受けたことはない。まるで見当外れなことが送られて来たものだから苦笑するしかなかった。

 

この誹謗中傷コメントの一件を含めてもわかるように、呪いというのは発信側と受信側双方の価値観にズレがあると呪いとして効果を発揮しない。逆に言えば、相手に効果的に呪いをかけるのであれば、相手の価値観や認識というものを把握しておかないといけないのだ。

だから本来呪いをかけるというのは非常に手間暇のかかるものなのだが、あまり呪いに対してそういうイメージが湧かないのは、大抵の呪いが死や病気をもたらす呪いであるからだろう。ほとんどの人間は死や病気に対して恐れを抱いているのだから、それが呪いの主流になるのは当たり前だし、相手の価値観を理解する必要もない。本作のような相手を幸福の絶頂まで上げるという過程を必要とする呪いは、それだけ幸福に対する価値基準が同じでないと通用しない。

 

幸福の形を決めつけられる呪い

本作における幸福の絶頂の定義は、呪いをかけた側としては単に幸せのまっただ中にいる状態を指したもので、厳密に人生における幸福の絶頂期を観測した上で絶望に落とすという訳ではないし、そもそも人生における幸福の絶頂を正しく決めようと思ったら、相手が死んだ後でないとわかりようがない。前述したが、幸福の基準というものは非常に主観的なものだし、自分では今がピークだと思っていてもその後の人生でより素晴らしい出来事があるかもしれないのだから、本人は勿論のこと、呪いをかける人物が幸福の絶頂を決められるというのは、よくよく考えればおかしいのである。

 

だから物語前半におけるポップコーンキャッチの下りも、あの時点で言い訳をして勝負を無効化するチャンスはあった。前述したように「娘の幸せな姿に幸福を感じたが、ここが絶頂ではない」と反論出来たはずだし、実際物語の後半では娘の婚約という新たな幸福の局面が訪れていたのだから、ポップコーンキャッチの時点では少なくとも幸福の絶頂ではなかったと言えるのではないだろうか?

 

では浮浪者の霊がかけた「幸運の呪い」は浮浪者の霊の匙加減によるものだったということになるが、正にそこがこの呪いの非常に重要なポイントだと思う。

「幸運の呪い」は、言うなれば死者の立場として自分が生きてきた間の価値観に基づく幸運・幸福を呪いの対象にもたらすものだったと私はあの映画を見て感じた。だからもたらされる幸運も大金が転がり込むとか事業が成功するといった(言い方は悪いが)ありきたりな幸運だった訳で、そこに気づいていたら呪いをかけられた男はもしかすると呪いの呪縛から逃れられたのではないかと思うのである。

 

あの呪いは、どんな幸運も幸福な出来事も全ては絶望につながっている、つまりは良いことも素直に嬉しいと感じられなくなる呪いであることが当然恐ろしいのだが、更に恐ろしいのは次々ともたらされる幸運によって、呪いをかけられた人物は人生に自分が思っている以上の幸福や喜びがあることに気づけなくなるというのが実は何気に一番恐ろしいと思うのだ。

本作の場合、呪いをかけられた男は娘の幸福こそが自分にとっての幸福の絶頂だと思い、それが実現せぬよう様々な対策を図ろうとしていたけど、正にそれこそが罠なのである。娘が幸せになる喜びが必ずしもピークだとは限らない、娘が結婚し子供を授かればその孫が新たな幸福をもたらすし、それ以外にも人生では数々の出会いが訪れるのだから幸福の質や形は私たちが想像出来ないほど無限の選択肢が用意されている

しかし、この呪いは数々の幸運を舞いこませた後に絶望を与えるという公約を相手に叩きつけることで、人生には幸福の形が無限にあるという考えが出来ない状態に陥らせる。そして幸福になることを恐れそれを避けていくうちに呪いをかけられた人物は呪いをかけている人物が想定する範囲内の幸運しか享受出来ない、要はあの浮浪者が想像出来る範囲内の人生しか送れなくなるというのがこの呪いの恐ろしさであろう。

 

「幸運の呪い」というのはいずれ絶望が来ることが確定していることの恐ろしさもあるが、そこには知らず知らずのうちに他者から幸福の形を決めつけられているという恐ろしさと、無限の選択肢があるのにそれに気づかないままその閉ざされた価値観の枠の中で一生を送る羽目になる恐ろしさも含まれている、というのが本作を見て考えたことだ。そして、私たちも知らないうちに他者から与えられた幸福の呪縛に囚われ、その価値観の中でしか判断が出来なくなっているのではないか?ということもつい考えた次第である。その枠から抜け出せるかどうかで、明日を生きることが楽しくもなれば苦しくもなる。それだけ幸運も不運も相対的であり、全ては思考の道筋の問題なのかもしれない。

 

さいごに

以上で映画「岸辺露伴は動かない 懺悔室」の感想を終えるが、前作と違い人間の幸福や呪いといった普遍的なテーマを扱っているだけあって、私自身の人生や今後の生き方といった所にも視野をめぐらすことになった。原作は短編漫画なので流石にそういった部分にまで考えをめぐらすことはなかったが、それだけ本作のオリジナルパートが素晴らしい出来だったことを示している。

脚本も素晴らしかったが、舞台となるイタリアのロケーションも魅力的だったし、序盤のベネチアンマスクの工房からすっかりこの物語の世界観に引き込まれてしまった。こういった映画としての雰囲気作りというか世界観へ没入させる工夫も前作の「ルーヴル」以上に良かったと評価しているポイントだ。

 

そう言えば、最近はサッカーのワールドカップが何かと話題になっているが、私はサッカーをはじめとするスポーツに一切興味がないという比較的珍しい人間なので、私の場合「スポーツをすること」や「スポーツを観戦し応援すること」は幸福とは言えないし、その喜びや楽しみも正直言うと理解出来ないのである。これはスポーツを見るのもするのも好きな人間にとって見れば「スポーツが楽しめない呪い」にかけられていると言える訳で、ある意味不幸な人間だと思われるかもしれないが、別に私はスポーツが楽しめないことは不幸なことだと思わないし、スポーツ以外に楽しいことなどいくらでもあるからスポーツが楽しめないことが苦しみ・悲しみとはならなかった。高校までは体育の授業で否が応でもスポーツをやらないといけなかったからしんどかったけど、大学生以降は体育をする必要がなくなったので、そこから解放されたのはある意味幸せだったと言える。こういう経験をしているので、余計に私は人間の幸福というものが相対的で、自分にとっては快楽であっても他人にとっては苦痛である、という考えが割と理解出来るタイプの人間だと自負しているのだ。

【お知らせ】しばらくお休みさせていただきます

タリホーです。タイトルにあります通り、しばらく当ブログでの活動をお休みさせていただきます。

 

理由は詳しくは言いませんが、先日の一件が思った以上にストレスになったのか、普段噛まない口腔内を噛んでしまう等の体調不良が出たため、ちょっとブログでの活動から距離を取った方がよいと考えました。

 

私は単に肯定派の意見を嘲笑しないで、私の考えや反対意見がおかしいと思うなら議論を戦わせるべきだと抗議しただけなのに、何故それをバッシング(=根拠のない非難)などという風に受け取ったのだろう、そんなに私の言っていることはおかしいのだろうか?私は水木先生のファンとして異常なのだろうか?と考えてはみたものの、考えれば考えるほどわからなくなってきており、正直疲れ果ててしまいました。

 

こう書いたからと言って相手側が悪いと言うつもりはありません、あくまで自分の中で整理がうまくいかなくなったという感じなので、その辺りご理解いただければ幸いです。

水木しげる公認ファンクラブ「水木伝説」と「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者が低俗な評論家にはなれても研究者にはなれない理由(追記あり)

どうも、タリホーです。

 

tariho10281.hatenablog.com

先月私は水木しげる先生公認ファンクラブの「水木伝説」に対して抗議の意を込めて以上の記事をアップした。あれから約一ヶ月経ったが、今の所あちら側からは返信もリアクションも一切届いていない。

 

これは私があちら側に直接抗議のメールやコメントを送った訳ではないので、返信が来ないのは当たり前なのだけど、一応これには理由があって、この抗議の記事を掲載した直後、私の知り合いの方から「いわゆる公認ファンクラブの残党の古参ファンの皆さんはとにかくあちこちからの評判もよろしくございませんので、あまり気にせず放っておくのが一番かと」という助言をいただいていたからだ。

私自身もこの抗議文を書いた時点で「水木伝説」とはもう縁を切ろうと決めていたので、この助言も尤もだと思い記事を掲載するだけにしておいた。抗議として「水木伝説」が当ブログの記事を読んで過ちを認め謝罪してくれれば良し、仮に読まれなくとも私のブログの読者に対する注意喚起にはなる。要は「公認ファンクラブだからと言って古参ファンが誠実かつ真摯に議論に応じてくれるとは限らない」ということがわかっていただければ良いのだ。

 

とはいえ、ただ大人しく黙って無視するのも癪だし、これでも私は執念深い性格なので「水木伝説」に対するネガティブな感情は度々湧き上がってくる。しかしそこで「水木伝説」への恨みつらみを書いた所で仕方ないし、そんなものを読む人はいないだろう。だからこそ私は建設的に批判という形で「水木伝説」ならびに「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者がアマチュア研究者としていかに愚かなことをしているのか、評論家としてはともかく研究者としては明らかに失格であることを私なりに改めて説明し記録として残しておこう。

 

公平性・中立性に欠けている

以前当ブログに届いた「水木伝説」のコメントでは「片方だけの意見を鵜呑みにして、偏った考え方をするのは良く無いと思い、こちらのブログも拝見させていただきます」と記されていた。

では「水木伝説」は公平性・中立性のある見方をした上で「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者とその主張を支持しているのかという話になるが、残念ながら私は「水木伝説」には公平性も中立性もないと思う。少なくともそう判断したのは以下の記事に「水木伝説」が送ったコメントからうかがえる。

 

ameblo.jp

 

まず、このブログを批判している方の投稿には
否定に有利な文献だけを取り上げ
肝心の製作者のコメントを無視している

「はぁ?」

製作者のコメントを聞かないと、作品がわからないと言うのは如何でしょうか?
普通、作品そのものがメッセージで、作品から作者の意図を読み解くものだと思います。
製作者のコメントなど、自己弁護の延長に過ぎず、聞く必要はないと思います。

まず私は「製作者のコメントを聞かないと、作品がわからない」などとは当ブログで一言も主張していない否定・批判をするなら最低限制作陣のインタビューを読んでその言い分を理解した上で批判しろとは言ったが、「制作陣のコメントを聞かないと作品の本質やテーマ等がわからない」などと言った覚えはない。この時点で公平性・中立性云々の前に反対的立場の意見をマトモに聞けていないことがよくわかるだろう。

 

そもそも評論の世界、特に昨今のドラマやアニメといった評論記事においては別に原作だったり制作陣のインタビューを見たり読まず、作品だけを見て評価している評論家なんていくらでもいるので、評論という点においては別に問題はないのである。むしろそういった評論家は自身の見方にある種の偏見があることを把握した上で独自の解釈で作品の良さを語る人もいるので、評論の分野においては原作や制作陣の考えといった細々とした情報をあえてシャットアウトし、純粋に作品と自身の感性だけで評価を述べることは決して悪いことではないのだ。

 

ただし!これが「研究」という公平性・中立性、または客観性が求められる場合においては原作だったり制作陣のインタビューを含めて多面的に評価・検証が行わなければならないと思うし、「水木伝説」や「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者が公平性・中立性を前提とした上で「ゲ謎」を批判したいのであれば、当然古賀豪監督をはじめとする制作陣のインタビュー記事を読み、それを引用した上で論を展開させていくべきだ。そういったプロセスを経ずに制作陣の言い分を「自己弁護の延長」「時間の無駄」だと決めつけているようでは、正当な言い分として「ゲ謎」肯定派や第三者が耳を傾けてくれる訳がない。

 

「制作陣はインタビューで〇〇と述べているが、それでもこのテーマ・内容は鬼太郎という作品で盛り込むべきではない」という批判なら私もここまで厳しい物言いはしていないが、そういった手続きも踏まずに水木先生の著作やインタビュー記事だけを引用してマトモな批判をしていると思っていること自体が大きな間違いなのである。

 

陰謀論じみた主張を支持する姿勢

tariho10281.hatenablog.com

以前こちらの記事(↑)でも指摘したが、「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の問題点の一つに、京極夏彦先生が直接「ゲ謎」を否定・批判した訳でもないのに、京極先生の最新作の内容から京極先生が遠回しで「ゲ謎」を否定していると主張していることが挙げられる。

ハッキリ言ってこんな陰謀論じみた主張を受け入れられるのは同じ「ゲ謎」否定派くらいで、肯定派や第三者がこんな主張を真っ当な意見として受け入れるはずがない。にもかかわらず「水木伝説」はこの主張を支持しているのだから、「水木伝説」に偏った考えがあるのは明らかであり、陰謀論じみた主張に突っ込みを入れられない人間が公平性・中立性など保てる訳がない。

 

一次資料に対する検証・引用が出来ていない

先ほど言ったことと少し重なるが「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」は水木先生や京極先生といった方々の著作やインタビューはきちんと引用元や文面を提示出来ているのに、制作側のインタビュー記事や肯定派の意見は又聞きの情報だったり引用がキチンと出来ていないのも大いに問題アリだ

 

コメントありがとうございます。たまに制作陣や関係者のコメントを読む事もあるんですが、中身のない美辞麗句ばかりだなあという印象しかありません。時間の無駄です。声優さんはお仕事だからそりゃ褒めたたえるでしょうし。いくら雑誌のインタビューで美辞麗句を言っても出来た作品があれでは…と思います。
制作者のコメントの感想情報を探すと


(ゲゲゲの謎の制作陣の説明に対して)
「原作に対してあまりに失礼な事しか言っていない」
「一次資料にもあたっていない、映画や創作物の話しかしない」


といった感想しか無く、さらに私が実際に見た制作者のコメントが


「大人が鬼太郎の映画なんか恥ずかしくて見れない」
「ニセ犬神家の長女が好き」


みたいな感じだったのでこりゃだめだと思いました。

引用したのは、先ほど引用し紹介した「水木伝説」のコメントに対する筆者の返信コメントだが、この文からわかるように古賀監督は水木先生の「コミック昭和史」等を読んだ上で映画を制作したとインタビューで述べているにもかかわらず、筆者は「原作に対してあまりに失礼な事しか言っていない」「一次資料にもあたっていない、映画や創作物の話しかしない」といった否定派の感想を挙げているに過ぎない。肝心の監督のインタビュー記事が引用されていないからこの筆者の主張には客観性というものが皆無だし、それに同調している「水木伝説」も同レベルだと思わざるを得ない。「ゲ謎」にヘイトを向けるのは勝手だが、制作側の主張もちゃんと引用出来ないくせに「一次資料にもあたっていない」という感想を挙げている時点で、話にならないというか何というか…。

 

※『アニメージュ』2024年12月特集記事「真(まこと)を生きる『ゲ謎』旅」に記載あり。

 

反対意見を自分の尺度でしか理解出来ない

これは「水木伝説」と「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の両方に言える話だが、自分と反対の立場の意見(つまり今回の場合「ゲ謎」肯定派だが)を「擁護」だとか「独自解釈」といった自分の尺度の範囲でしか理解出来ていないのも問題点として挙げておきたい。

 

tariho10281.hatenablog.com

今年の1月から3月にかけて私は令和版悪魔くんをレビューし、その際肯定派・否定派それぞれの意見を聞いているが、私自身は否定派であっても別に肯定派の意見を「擁護したもの」だとは思っていないし、自分には理解出来ない・言語化出来ない良さがあるということをこれまでの作品批評やレビューを通して私は知っているので、自分と反対の立場の意見を「擁護」と決めつけてかかる「水木伝説」に対して私は心底ムカついているのだ。

別に制作陣を庇い守りたくて「ゲ謎」を評価している訳ではなく、純粋に「あ~これは凄いことを描いているな!」と思って評価しているのに、それを「擁護」と決めつけるとは実に狭量で何とも傲慢なモノの考え方である。

 

少なくとも私は反対的立場の意見を対等なものとして扱わず、擁護だと嘲り笑い陰口を叩くような人は文学研究の素養も教養もないと思うし、そんな人にわざわざ反論するほど肯定派も暇を持て余している訳ではない。

 

そう言えば「水木伝説」は(直接の名指しではないが)私が「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」を批判したことを「支持者同志で仲良くしてりゃいいのに、批判側を批判するとは、心が狭いというか、呑み込みがずいぶん悪い方ですねぇ~(笑)」と言っていたが、

その言葉、そっくりそのままあなたにお返ししますよ。

肯定派の意見もマトモに聞けない・理解出来ないなら否定派同士で一生仲良く傷の舐めあいでもしていれば良いのでは?もう私もそんな方々に何を言っても無駄だということがよ~くわかったので。

 

そして何より、そうやって肯定派と意見を戦わせずに「心が狭い」などと人格否定の陰口を叩き嘲笑することが、「水木伝説」のファンクラブとしての品格や価値を自ら貶める行為であることに全く気づいていないのも愚かであるとしか言いようがない。

 

さいごに

「水木伝説」ならびに「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の批判は以上で終えるが、それにしても「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者は自分のブログが別の誰かに批判されていると言われているのに、そのブログがどこのブログなのか聞き直接閲覧しようともせず「水木伝説」の言っていることを鵜呑みにしているというのも何だかな~。

毎回記事冒頭で「大切なのは自分の目で確認することです。情報を鵜呑みにするのはいちばん危険なことです。」とか書いているくせに、肝心の自分は「水木伝説」や他の否定派の意見を鵜呑みにして批判内容を直接確かめないってバカなのでは?と言いたくなる。まぁ、もし仮に当ブログを読んだ上であのような主張を書いているとしたらもうそれは救いようがないし、どっちにしろ私は「水木伝説」と「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者と今後関わることは金輪際ないです

 

まぁ何だろう、結局どれだけ水木先生の著作が素晴らしくとも、肝心のファンが愚か者でヘイトスピーチまがいの主張しか出来ないようでは、対立と分断は招いても相互理解など夢のまた夢だ。自分の主張の正当性を示したいのであれば最低限のプロセス――制作側の言い分や反対意見を正しく理解し引用・提示した上で自身の意見・論を述べる――が出来ないとダメだし、もうネタ切れなのか最近は前に言ったことを繰り返している箇所もあるので、正直批判するだけの価値もないですよ。(いや元々そんな価値はあってないようなものでしたが…)

 

(2026.05.18 追記)

先ほど載せた抗議記事のコメント欄に「水木伝説」から連絡があったが、あくまで私の抗議を「バッシング」だと受け取り、本名付きで批判したことに対して本名の掲載の削除要請をしてきた。

本名を掲載した件については私がペンネームで活動しているのに相手だけ本名で批判するのも流石にフェアではないかと反省しもう既に削除したが、本名付きでのバッシングが「刑事法、民事法で禁じられて」いるというのは少々首を捻りたくなる。

 

この辺りの法律的な分野・知識はそこまで詳しくないのであまり込み入ったことは言えないが、「水木伝説」の公式HPやフェイスブックに本人の名前や顔写真が載っているのに、私が本名で名指しで批判したらプライバシーの侵害に相当するのだろうか?

そもそも私の抗議を「バッシング」と言っているが、では私のこれまでの批判や抗議が「水木伝説」に対する誹謗中傷や名誉棄損に相当するのか甚だ疑問に思う。アマチュア研究者としてあるまじき嘲笑的な態度や言動に対する抗議はしたが、別に人格を否定した訳ではないし、どこに法律的に訴えられる部分があるのか、是非とも教えていただきたいものだ。散々肯定派をコケにし嘲笑うような発言をしておいて、自分が何か言われたら攻撃されたと法律を持ち出すなんて虫の良い話だと思わないのだろうか?

 

(もしこの記事を読んでいる方で、その辺りの法律関係に詳しい方がおられるならば、コメントしていただけるとありがたいです)

 

仮に「水木伝説」が当ブログを法的に訴えるというのであれば一向に構わないし受けて立つつもりだが、弁護士が当ブログを読んで拙文を「水木伝説」への誹謗中傷或いは名誉棄損・プライバシー侵害だと判断するのだろうか?

そんなに当ブログの抗議をバッシングだと言うのなら、一度弁護士事務所にでも相談に行き、第三者の客観的な意見を聞いた方がよっぽど良いだろう。

ゴッタニ・アイランドの新たな仲間と楽しすぎるアイテム作り【トモダチコレクション わくわく生活 #2】

タリホーです。「トモコレ」が発売されてはや2週間以上が経過。私のゴッタニ・アイランドでも新たなキャラクターを追加したり様々な出来事があったので今回はそれを紹介しようと思う。

 

ゴッタニ・アイランドの愉快な仲間たち(13~20人目)

13人目:のんのんばあ(のんのんばあとオレ)

13人目は幼少期の水木しげる先生に妖怪やあの世のことを教えたのんのんばあを作成。水木作品特有の大きな目はフェイスペイント機能を駆使したもので、瞳以外の目の部分は手描きによるもの。着物も「アイテム工房」で作成し着用させた。

 

のんのんばあとオレ (コミッククリエイトコミック)

 

14人目:すすき

14人目はゲーム内で結婚したフェスターと水島との間に生まれた子供。フェスターと水島は原作だとどちらも既婚者なのであくまでもこのゲーム内限定の設定なのだが、顔は完全に母親の遺伝で父親のフェスター要素は皆無だ。

 

15人目:寶月夜宵(ダークギャザリング)

15人目はアニメ第二期の制作が決定している「ダークギャザリング」から主人公の夜宵ちゃんを作成。瞳の二重瞳孔や髪型までは再現出来なかったが、可愛くて結構気に入っている。

 

ダークギャザリング 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

16人目:サリー(ナイトメア・ビフォア・クリスマス)

16人目は映画「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」から主人公ジャックの恋人であるサリーを作成。フェイスペイント機能にも慣れてきたので、のんのんばあの時と同様に目を描いたほか、口元や顔のツギハギも描いて再現してみた。

 

メディコム・トイ UDF ウルトラディテールフィギュア No.837 THE NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS SALLY サリー 全高約97mm ノンスケール 塗装済み 完成品 フィギュア

 

17人目:三田園薫(家政夫のミタゾノ)

17人目はドラマ「家政夫のミタゾノ」から主人公の三田園を作成。手持ちにちょうど良い衣装があったので、これは再現出来るぞと思い作ってみたらほぼ完璧なミタゾノさんが作れた。

 

TOKIO 松岡昌宏『家政夫のミタゾノ』三田園薫 アクリルスタンド アクスタ

 

18人目:きょうか

18人目はすすきと同様、秋山さんとナスカとの間に生まれたきょうか。すすきとは反対にきょうかは父親似で、ゲーム内では13歳の設定にしたけど既に人生二周目の貫禄がある。

 

19人目:ウィリー・ウォンカ(チャーリーとチョコレート工場)

19人目は映画「チャーリーとチョコレート工場」からウィリー・ウォンカを作成。今年の2月に視聴した「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」の方のウォンカにしようか迷ったが、やはりジョニー・デップが演じたウォンカの方が馴染み深いのでこっちにした。

 

チャーリーとチョコレート工場 (吹替版)

 

20人目:紅子(ふしぎ駄菓子屋 銭天堂)

20人目はNHKでアニメ化し実写映画も制作された「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」から銭天堂の店主・紅子を作成。このキャラを作成したのは直前に作成したウィリー・ウォンカとコラボさせたかったからであり、どちらも魔法のようなお菓子で他者の人生に影響を与えるという点で共通項がある。この東西コラボが可能なのは「トモコレ」だけだ。顔は既存のパーツで再現出来たが、流石に銭天堂マークの着物はないので「アイテム工房」で作成している。

 

ふしぎ駄菓子屋銭天堂

 

島を彩るアイテム作り

前回も紹介したが、本作ではゲーム内の島民たちの生活を彩るアイテムが自作可能であり、島民にプレゼント出来るものから、島のオブジェ・建物として設置出来るものまで多岐にわたる。

 

例えば島民が暇つぶしに読む本の表紙をデザイン出来る。私は「ダークギャザリング」の原作漫画の表紙をデザインして島民にプレゼントした。私がハマった「ダークギャザリング」に、のんのんばあもこの通りドキドキしているのが見ていて楽しい。

 

それから、沖縄の妖怪キジムナーを作成し島民にプレゼント。これはペットとして設定すれば島民が一緒に散歩したり可愛がってくれるのでおススメだ。

 

そして島に設置出来るオブジェとして「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みぬりかべを作成。ぬりかべは初心者でも簡単に作れるのでゲームを持っている鬼太郎ファンの方は是非お試しあれ!

 

このオブジェ作りの応用として自慢がてら紹介するのはこちらの妖怪・朧車のオブジェ。これは二種類のオブジェを合体させて作成したもので、牛車と顔は別々に作成している。数種類のオブジェを合体させれば、こんな感じでより立体感のあるものが作れるぞ。

 

あとオブジェ作りの中には、テレビ番組の画面なんかもある。私は秋山さんが出演しているバラエティ番組「秋山の楽しすぎる約30分」を作ってみた。

 

ちなみにテレビ画面の参考にしたのはYouTube で公開されているこちらの動画のサムネイル。一から描かなくてもペイント機能の中にあるスタンプやテキスト挿入の機能を使えば簡単に作れるのが良かった。

 

ゴッタニ・アイランドの楽しすぎる新生活【トモダチコレクション わくわく生活 #1】

どうも、タリホーです。今月16日に任天堂から発売された「トモダチコレクション わくわく生活」をプレイして約1週間ほど経ったが、

楽しい、楽しすぎる。

 

www.nintendo.com

どういったゲームかは公式サイトを貼り付けておくので説明は省くけど、様々なキャラクターをコラボさせられる夢のようなゲームですよコレは!

 

現実だと出版社とか著作権等の都合で夢のようなコラボが果たせないなか、このゲームだとそれがほぼ実現可能なので、この約1週間で12人のキャラクターを作成して交流させてみた。せっかくだから今回はどういうキャラクターを作成し交流させているのか紹介しよう。

 

ちなみにゲームの舞台となる島の名前はプレイヤー自身が命名出来るもので、私は様々なジャンル・世界観のキャラが「ごった煮」のように集まる島というテーマに決めたので、バットマンのゴッサムシティをもじって「ゴッタニ・アイランド」と命名した。

 

ゴッタニ・アイランドの愉快な仲間たち

1人目:秋山

記念すべき最初の一人目はお笑い芸人のロバート秋山さん。何故彼をクリエイトしたのかと言うと、本作のゲームがシュールなお笑い要素もあると聞いていたからで、本作のコメディ要素と秋山さんの芸風が合ってそうだと思ったのでチョイスした。

 

2人目:篠田

秋山さんを作ったのでセットで作らないといけないと思ったのがこちらの篠田さん。彼は名古屋のテレビ局「メ~テレ」のテレビプロデューサーでありながら、ロバートを小学生時代から追い続けていた根っからのファンで、通称メモ少年と呼ばれている。

 

www.youtube.com

篠田さん(メモ少年)に関しては自身のYouTube チャンネルの動画で彼の経歴等がわかるので詳しくはそちらを見てもらいたい。

 

3人目:幽子(悪魔くん)

3人目はつい先日までレビューをしていた「悪魔くん」から幽子ちゃんをクリエイトした。現状ゴッタニ・アイランド唯一の子供枠で、可愛らしいことこの上ない。

 

www.youtube.com

 

4人目:鳥乙女ナスカ(悪魔くん)

同じく「悪魔くん」から鳥乙女ナスカをクリエイト。いざ作ってみるとあまり似た感じにならなかったが、多分これは服装のせいもあると思う。ナスカは大きな翼とカチューシャ、ピッタリとしたレオタード(で良いのかなアレは?)を着用させないと、単なる美人にしか見えない。一応服屋で「みつばちの羽」が売られていたのでそれを今は装着させている。

 

www.youtube.com

 

5人目:フェスター・アダムス(アダムス・ファミリー)

5人目は映画「アダムス・ファミリー」のフェスターを作り出した。西洋的な顔立ちにしたかったが、いざ作るとクマの濃いおじいさんって感じでフェスターっぽさはイマイチな感じだ。フェスターは見た目だけでなく性格とか言動も含めてフェスターだということがこれでよくわかったよ。

 

www.youtube.com

 

6人目:水島(あたしンち)

子供枠の幽子、美人枠のナスカを作ったので、次はオバサン枠を作ろうと思い、「あたしンち」の水島さんをクリエイト。これは結構似せられたと思う。

 

www.youtube.com

水島さんを知らない人は多分いないと思うが念のためYouTube 公式チャンネルを貼っておく。

 

7人目:吸血鬼エリート(ゲゲゲの鬼太郎)

ゲーム内のアイテムにギターがあったので、ギターを使うキャラが必要だと思い作ったのが「ゲゲゲの鬼太郎」の定番キャラである吸血鬼エリートだ。ギターを渡したら早速道端で演奏しまくっていて、見てるだけで楽しい。

 

www.youtube.com

 

8人目:上田次郎(TRICK)

同じくゲーム内のアイテムを元にクリエイトしたのが「TRICK」で阿部寛さんが演じた上田次郎だ。上田は通信教育で空手を習ったという設定があったので、ゲームのアイテム「空手のDVD」を渡している。

 

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9人目:伊知割イシ(いじわるばあさん)

女性陣は子供・美人・オバサンと来たので次はババアを作ろうと思って選んだのが長谷川町子原作の「いじわるばあさん」だ。8人目までは既存のパーツを駆使してキャラクターの顔を作成したが、このいじわるばあさんはフェイスペイント機能で口元のシワを書き足し、より原作に近い顔立ちにするようこだわってみた。

 

いじわるばあさん(1)

 

10人目:ヘレン・シャープ(永遠に美しく…)

10人目は映画「永遠に美しく…」からヘレン・シャープを選択。ショットガンでお腹に穴を空けられた姿が子供ながらに印象に残っていた。映画では霊薬を飲んで不老不死になっていたが、ゲームでも年をとらない設定にすることが可能だったので、映画の設定にならい年をとらない設定にしておいた。

 

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11人目:エルキュール・ポワロ(名探偵ポワロ)

11人目はアガサ・クリスティ原作のエルキュール・ポワロを作成。モデルはドラマ「名探偵ポワロ」のデビッド・スーシェ演じるポワロにした。

 

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12人目:喪黒福造(笑ゥせぇるすまん)

12人目は私の好きなキャラクターでなおかつ作りやすそうという理由から「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造をチョイス。もうちょっと太らせたらより似せられたのだけど、ゲーム内での身長・体重にはやはり制限があって、これ以上太らせることは出来なかった。

 

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「あたしンち」と同様、「笑ゥせぇるすまん」もYouTube に公式チャンネルがあるから紹介しておくぞ。

 

ゴッタニ・アイランドのアレコレ

〈トゥトゥトゥサークル〉

ゲームではキャラクター同士の交流を深めさせるため、プレイヤーが特定のワードを入力してキャラクターに教えることが出来るのだが、秋山さんと篠田さんを仲良くさせるためには当然ロバートの定番ネタである「トゥトゥトゥサークル」の話が良いと思い教えてみたら、案の定仲良くなりましたね。

 

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〈見えない学校のルーツ〉

キャラクターに教えたワードが思いもよらない形で使われるのが「トモコレ」の面白いポイントで、例えば幽子に「悪魔くん」のホームグラウンドである見えない学校を教えたら、見えない学校がこのゴッタニ・アイランドで500年前に発見されたという説を披露してきたのには笑ってしまったww。

 

〈人魂の天ぷら〉

ゲーム内の施設に「アイテム工房」というものがあって、そこではオリジナルの料理や服をデザインすることが出来る。どうぶつの森シリーズにおけるマイデザインみたいなものだが、早速私は水木先生の作品でお馴染みの人魂の天ぷらを作成した。

 

私が作った人魂の天ぷらを次々と島民たちが食べたが、その一人のナスカ曰く「目をつぶって食べるとヨーグルトの味がし」たという。人魂の天ぷらって乳製品系の味わいなんだ…。

 

〈2組のカップル成立〉

プレイして5日目の段階で何と2組のカップルが成立し結婚にまで至った。一組目はフェスター&水島で二組目は秋山&ナスカだった。水島さんは原作だと既婚者だが、このゲームでは独身設定にしているので別に重婚とかではないよ?

 

結婚後は夫婦で新婚旅行に行く流れになっているが、秋山&ナスカの新婚旅行先は中南米で、何とナスカの故郷のイースター島に行っていたのは驚きだった。偶然とはいえこの展開は滾るものがあるよね。

 

〈喪黒福造、広告を島内に設置する〉

先ほど紹介したアイテム工房では島内に設置出来るオブジェクトも作成可能であり、せっかくなので喪黒福造の名刺代わりとなる広告看板を作成し彼の自宅の裏側に設置してみた。スタンプ機能やテキスト機能を使えば割と簡単にこのような看板も作れるので、ゲームを持っている方は是非試してみると良いだろう。