どうも、お久しぶりです。タリホーです。
約1ヶ月ほどブログでの執筆活動と更新をストップしていましたが、精神的に落ち着きを取り戻して何かしら書きたいな~という意欲が出てきたので、ブログの再開とそれに伴う報告をしておこうかと思います。
まず記事タイトルにも明記しました通り、当ブログ「タリホーです。」はこれまでゲゲゲの鬼太郎や悪魔くん等の作品をレビューしてきましたが、
今後は水木先生の著作に関連するものは当ブログでレビューや批評、また他の方と議論をすることは一切いたしません。
執筆活動を休んでいた間、私なりに色々と考えた結果の結論ですが、一応こういう決断を下すに至った理由をここからは説明していきますね。
反対意見を並立的に扱えない人々
今更言うまでもなく、私はこのブログでゲゲゲの鬼太郎(特にアニメ第6期)や悪魔くんのレビュー・批評を行い、コメント欄にもありがたいことに様々な意見が届いた。私の意見に賛同する方もいたし、残念ながら否定的な意見・攻撃的な意見を送ってくる方もいた。
そんな数々のコメントの中でもやはり私が今も思い返すと腹が立つのが、私が批評に際して6期鬼太郎やゲ謎の好評の意見を述べた際に、それを「(東映アニメーションの)制作陣を擁護したもの」として受け取った人がいたことだ。
前にも言ったが、私が制作陣を庇うメリットなど一つもないし、むしろ制作陣を擁護して私にどんな得があるのか教えて欲しいくらいだ。
6期鬼太郎・ゲ謎・令和版悪魔くん、いずれも一部のファンが否定的な見解を述べているし、それに関して個人的に残念だと思うものの、批判すること自体は悪いことではないと思っている。かく言う私も、令和版悪魔くんについては好意的に評価はしていないのだから、批判することがダメなどとは全く考えていない。
とはいえ、批判というのは物事の良し悪しを論理的かつ建設的に行うべきものであって、自分が気に入らないポイントを節操もなくあげつらっていくことではない。ましてや制作陣に対してヘイトを向けたり攻撃的・暴力的な敵意を向けるのは論外であり、そういったことも弁えずに批判を行っている方々に対して昨年から苦言を呈してきた。
勿論、そうして私が自分と反対的立場である見解を持つ人々に苦言を呈したからと言って無理に嫌いな作品を好きになれとは言わないし、制作陣の言動に水木先生へのリスペクトが感じられないと思うのも好きにすれば良いだろう。
ただ、好意的に評価している人の意見を自分たちの尺度で勝手に曲解し理解しようとする人がいるのは非常に不愉快だ。
例えば、ゲ謎を全面否定している「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者は、ゲ謎を支持している人たちは原作をつまらないと思っているなどという旨を述べている。
もう引用するのも腹立たしいので気になる方は各自調べてチェックしてもらいたいが、仮にゲ謎肯定派の中にそういう考えの人がいたとしてもそれが大多数の意見だとは思わないし、それをまるで肯定派が全員そう考えているかのように吹聴されるのは極めて迷惑かつ心外である。
確かにゲ謎は従来の鬼太郎作品と比べても露悪的な要素があるし、流血描写や残酷無比な描写が多々ある。決して万人受けする作品ではないと思うし、生理的嫌悪を抱く人もいるのも無理はないだろう。私もアンパンマンで性的虐待をテーマにした作品がもし描かれたら難色を示すだろうし、ゲ謎否定派の感覚も恐らくそれに等しいものだということは一応理解しているつもりだ。
しかし、私は何もそういう表層的な残酷描写を喜んで支持している訳ではないし、それは散々当ブログで説明してきた。否定派にも理解してもらえるよう言葉を費やしに費やしたつもりだが、結局それは否定派の方々には届かず、「擁護」「独自解釈」といった形で処理され、ゲ謎を評価している私たち肯定派が原作を軽視し、BLやエログロを好む低俗な輩だという、ある種の人格否定ともとれる発言までされてしまった。こうした否定派の人が全てそうだとは思いたくないが、私は私なりに否定派の意見に理解を示した上で「いやこういう意見もあるよ?」「それが必ずしも正しいとは限らないよ?」といった柔軟な思考や議論を促してきたつもりなのに、どうして反対の意見(この場合肯定派の考えだが)を自分たちの意見よりも劣ったもの、間違ったものとして決めつけるのか、「Aという考えもあればBという考えもある」という形で並列的に認識・理解が出来ないのか?と悩み苦しんだし、何故こんな人たちに私たちの嗜好や価値観を決めつけられねばならないのかと怒りで頭が真っ白になったこともあった。
こういう出来事があったので、私はゲ謎否定派の方々と意見を交わしても意味がないし、議論をした所でこっちが精神的に辛い思いをするということがわかったので、今後は水木先生に関する作品を批評することはしないでおこうと決めた。これが批評・議論をやめようと思った理由の一つである。
仲間だと思っていた人がアンチへ転じたことへの失望
批評・議論をやめようと思ったのは「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」に対して私が失望したからというのも大いに関係している。それはあのブログがゲ謎とそれを制作したスタッフにヘイトを向けているというのも勿論あるが、もう一つはこのブログの筆者が以前当ブログにコメント送ってくださっていた方(=元読者)だったということも関係している。
このブログの筆者とはゲ謎が公開される前までは仲良く出来ていたし、以前5期鬼太郎のレビューで「脚本家に対するヘイト発言・他のファンへのマウント取り」に関する意見を述べた際もコメント欄で「タリホーさんのように深く読み込みつつ、スタッフへのヘイトをしないという当たり前の事ができている識者はかなり少ないように感じました。」と賛同してくださった。この時は本当に嬉しかった。
しかしこの方はゲ謎公開後「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」というブログを立ち上げ、現在に至るまで制作陣に対してヘイトを向けるような発言をしている。具体的には、古賀豪監督には毒親や不倫などに対する歪んだ性癖があって、それを鬼太郎という作品に盛り込もうとしたなどということを述べていた。
これを制作陣へのヘイト(憎悪)と言わずして、何をヘイトと言うのか?
結局あのブログの筆者は制作陣にヘイトを向け、それを支持するファンにも問題があるという旨を主張しているのだから、私が以前主張したことなど忘れて攻撃的な批判をしていることに憤りを覚えたと同時に深い失望も感じた。あぁ、私の言葉は何の役にも立たなかったのだなと、理性と知性では憎悪や嫌悪を抑えられないのだなと落胆せざるを得なかった。
この後に私はこのブログを批判する記事を4回にわたって執筆したが、何も嬉々として批判していた訳ではないし、「何故だ、どうしてこの人はわからないのだ…」という苦悩というか怒りが感情の大半を占めていた時もある。仮にブログの筆者本人に読まれなくとも同じ否定派の「水木伝説」なら多少なりとも私の言いたいことを理解・把握してくださるかと思っていたが、残念ながらそれも徒労に終わってしまった。
こういう経緯があるので、私の意見を支持し賛同してくださる方がいるというのはわかっているのだけど、「今私の意見に賛同しているこの方も、いずれ何かの切っ掛け・別の作品でアンチの側にまわるのではないのか?仲間だと思っていた人とまた対立・衝突する時が来るのではないか?」という疑念や不安がぬぐえず、それなら誰とも意見を交わしたり議論などせず、私一人で水木先生の作品を愛でようという結論に達した。
このブログを開設した時は同じ水木先生の作品を愛する者同士、このブログで仲良く意見を交流させたいという思いがあったが、開設から約8年たった今、こんな形で批評・議論をやめることになるとは思わなかった。
でも私は自分の好きな作品でこれ以上苦しい思いも不愉快な思いもしたくないのである。ゲ謎自体は素晴らしい作品だと思っているのだが、「水木伝説」との一件があってからはゲ謎を見返すことにちょっと抵抗を覚えるようになってしまった。それだけ私の中で消化出来ない怒りや苦悩・恨みつらみが残っているし、恐らく一生消えることはないだろう。
『地獄の楽しみ方』
今回の一件で思い出したのが、京極夏彦先生が2019年に10代(15~19歳)に向けて行った特別授業「たたかわないために ~語彙と思考」の内容を書籍化した『地獄の楽しみ方』である。小説家という言葉のプロの観点から言葉の不完全さを説き、その上でいかにしてこの地獄のようなこの世を楽しく生きていけば良いのかをレクチャーした一冊なのだが、京極先生は特別授業の中で「あらゆる争いは言葉の行き違いから起きる」と述べている。
私なりに本書の内容をざっくり要約すると、言葉というものは不完全なものであり、自分が発した言葉が100%相手に正しく伝わることはまずあり得ない。受け手は言葉を自分が理解出来るように勝手に解釈してしまう。ゆえにこの世で起こる争いは言葉の行き違いによるもので、それを避けるためには語彙を増やして使いこなす技を身につけましょう…ということが『地獄の楽しみ方』に記されている。10代向けの授業とはいえ大人の私たちにも勉強になる一冊なので是非読んでもらいたいが、以前読んだこの一冊を思い出して今回の一件を振り返ると、意見を戦わせるということが必ずしも正解ではないと思ったし、私が発信した言葉が100%相手に正しく伝わらないのであれば批評も議論もした所で仕方がないか、という結論に達したのである。
そもそもゲ謎否定派の方はどこの馬の骨ともわからぬ肯定派のファンの言葉なんて最初からマトモに聞くに値しないと思っているかもしれないし、そんな誰ともわからぬファンや制作陣の言葉よりも自分が映画を見て感じたインスピレーションとか水木先生・京極先生といった有名な方の言葉の方を信用するだろうから、そりゃ伝わらないよなと私なりに腑に落ちたのである。
そうだよね?そりゃ「水木伝説」の側から見れば、私は別に妖怪研究の論文も書いてなければ、水木先生に関する同人誌を発刊したこともないただのオタクだし、「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者も私なんかより水木作品に造詣の深いファンクラブの会長と意見が一致したら、そちらの言い分を全面的に支持するのも当然だろう。そんな古参のファンからしてみればゲ謎の肯定派や制作陣なぞ、ニワカオタク以下だろうし私たち肯定派の意見・言葉をマトモに聞いてもらえると思っていた私が間違っていた。
なので、もうあのブログも含めて今後誰かと意見を戦わせることも交流させる必要もないと思ったし、直接水木プロや東映アニメーションに危害や損害を加えるようなことさえしなければ、各々が思ったこと・感じたことが正解ってことで良いのではないか?と納得がいったので、もし今後当ブログに水木先生の作品に関する意見を聞かれても私は「あなたが考えていることが正解で良いと思いますよ?」としか言わない。正直今となっては水木プロや東映アニメーションがどうなろうが私には関係ないし、今後鬼太郎や悪魔くんの新たなアニメが制作されるかどうかも正直言うとどっちでも良いというのが本音だ。
曖昧なものを曖昧なままにしておくことも理性的な判断
6期鬼太郎以降の批評と、それに対する数々のコメントを読んできて思うのは、今の私たちに必要なのは曖昧なことを曖昧なままにしておく理性だということだ。
どうしても私たちは明確な答えをついつい求めてしまう生き物であり、6期鬼太郎やゲ謎、令和版悪魔くんにおいても「制作陣は本当に水木先生やその著作をリスペクトしているのか?」といった所で意見が衝突することが度々あった。
例えば、否定派の意見で「アニメスタッフは水木先生が死んだのを良いことに勝手に原作レイプさながらの作品を作っている」とか「アニメオリジナルキャラばかりを依怙贔屓して、原作キャラを大事に描いていない」といった意見があったけど、ではこれが客観的事実に基づく批判かと言われるとそうも言えなくて、やはり主観が大いに入っていると思う。
では肯定的な意見が客観的で正しいかと言う話になるが当然そんなことはなく、肯定的な意見もまた主観は入っている。それを説明するために私個人の考えを例に出すが、祖となる水木先生亡き今、制作側が「水木先生が亡くなったから好き勝手描けるぞ!」と思うのは流石にサイコパス的な発想だと思うし、むしろ亡くなった今制作陣にふりかかるのは、次世代に水木先生やその原作の良さを伝えていくことに対するプレッシャー・重圧の方が大きいというのが私の考えなのである。だからゲ謎の近親相姦の描写にしても、公の場に出す作品である以上メリットよりもリスクの方がはるかに大きい訳で、にもかかわらず古賀監督をはじめとする制作陣はそれを水木先生生誕100周年記念作品に盛り込んだのだから、それは生半可な気持ちで盛り込んだものではないだろうと考えたし、水木プロの原口尚子氏も小学校の元教員という経歴の持ち主なのだから、これが教育上よろしいかどうか、そういった倫理観が欠落した人物だとは思えないと考えたから、私は制作陣や現水木プロに対してヘイト的感情は抱いていないのである。
当然これは性善説に基づく主観的バイアスのかかった意見に過ぎないし、結局の所制作側がアニメや映画を作るにあたって邪な意図があったかどうかなど客観的に証明することは不可能なのだ。
だからこそ、私はハッキリと答えが出せないものは曖昧な形で残しておくのが良いと思うし、少なくとも私たちは法律を守り法律に守られている以上、「疑わしきは罰せず」を尊重し、悪し様に制作陣を叩かず、批判するにしても節度をわきまえ論理的かつ建設的に行うべきだというのが私の主張なのである。鬼太郎という作品で女性や子供が犠牲になったり性的被害を受ける描写を盛り込むべきではないという意見はわかるけど、そういう描写があったからと言って制作側に原作者である水木先生を貶める意図があったなどということを、まるで絶対的事実のように吹聴している人がいることに対して私は苦言を呈し批判を述べているのだけど、残念ながら私の意見は否定派の意見にケチをつけたもの、不当なバッシングとして受け取られてしまっているのが現実だ。
もう言うまでもないが私は制作陣を全面的に支持しているファンではない。ゲ謎に対しては肯定的でも令和版悪魔くんに対してはかなり否定的な立場の人間だ。でもだからと言って「令和版悪魔くんは矛盾だらけ」などというブログを立ち上げて執拗に作品と制作陣を責め続けても良い結果にはならないと思っているし、私自身は理解出来なくとも令和版悪魔くんを好意的に評価している人だっているのだから、自分の理解出来るもの・納得のいくものが世間的に人気がある訳ではないし、反対に自分に理解出来ないけど他人にはわかる良さなど、この世にはいくらでもある。だからこそ、相手と意見をまじえようともせず、一方的に自分の尺度で相手を決めつけるような姿勢の持ち主は同じ作品を愛するファンとしてあるまじき態度だと思うし、6期鬼太郎にしろゲ謎にしろ令和版悪魔くんにしろ、それを好意的に評価している人がいるからと言ってそういった人を「水木作品の良さをロクにわかっていないニワカ」だとか「ゲゲ郎と水木のBLが好きな腐女子」だとか、そういった程度の枠の範囲内でしか肯定派を認識出来ない人がいるのは非常に腹立たしい話である。
我々は未だ暴力的である
6期鬼太郎以降のファン同士の間で起こった数々の衝突や対立・分断を経て、私たちは未だに暴力的で加害性というものに鈍感であるということを改めて実感させられる。
これに関しては私自身も以前水木プロの炎上騒動の際に「被害妄想」などという強い言葉を使って不当な攻撃をしてしまったことがあるので、あまり偉そうなことは言えないのだが、あの当時のことを改めて思い返すと、単に水木プロのインタビューに怒ったり悲しんだりするのはまだしも、「炎上商法のつもりですか?だとしたら成功ですね(笑)」みたいなことを言っていた人は流石に口が過ぎると思ったし、目に余るレベルの攻撃的なコメントも少なからずあったので、私もつい感情的な形で非難をしてしまった記憶がある。こういうことを言ったからと言って、別に自己弁護をする意図はないし、私も含めて攻撃的なコメントをしてしまう人がいるのはひとえに原作者である水木先生やその作品に対する強い愛ゆえのことだというのはわかっているつもりだ。
しかし、相手が間違っているからと言って何を言っても良い訳ではないのは確かだし、攻撃的な言葉を使ってしまうのは仕方ないにしても、それを振り返って「あ、あの時言ったアレはマズかったな…」と反省出来る度量がある人を私は大事にしたい。
以前令和版悪魔くんの最終回レビューの際も自分の送ったコメントにまずい点があったと反省している方が何人かいたが、そういう人は素晴らしいなと思うし、今後も仲良くしていきたいなと思った一方、「自分の言ったことは間違ってないし後悔してないっす」みたいなスタンスの人についてはちょっと距離を置きたくなった。
で、私が何故ここで暴力性・加害性の話をしたのかという話になるが、6期鬼太郎やゲ謎って従来の鬼太郎アニメと比べても、暴力や流血といった描写が割と顕著に描かれていてそこが往年のファンには不快感や嫌悪を催すポイントであり、「鬼太郎は子供も安心して見れる作品だったのに、こういった暴力描写を盛り込むとは何事か!」っていう意見もいくつか見かけたのだけど、こんな感じでアニメは特に暴力描写や性的な描写に関して倫理上の問題から排除するような働きかけというか意見が度々出てくるし、実際昔に比べたら今のアニメは流血みたいなものはほとんど描かれなくなっていると言えるだろう。
でもさ、そうやって暴力的な描写や性的な描写が排除されたからと言って私たちが平和的な人間になったかというと全然なれていないし、私たちの暴力性・加害性は殴る・蹴るといった物理的なものから、単に言葉の暴力へと転化しただけではないのか?というのが6期鬼太郎やゲ謎などを見ていてうっすら考えていたことだ。
昔は校内暴力やハイジャックといった物理的な暴力・テロリズムが世間を騒がせていたのに対し、現代では誹謗中傷や炎上といった言葉による暴力が目立って来ている。物理的な暴力に関しては減ったものの、ハラスメントや誹謗中傷といった精神的な暴力が顕在化していることを思えば、我々は決して平和的になった訳ではないし、テレビやアニメでそういった暴力的な表現を規制した所で、根本的な解決にはならないことがわかるだろう。
こういうことを言ったからと言って、私は別にアニメに暴力描写を遠慮なく盛り込んでいきましょう!などという開き直ったことを言いたいのではなく、それだけ私たちは自分の暴力性・加害性というものに向き合えない、或いは恐ろしく鈍感な生き物であり、水木先生のファンである私たちでさえも、その暴力性・加害性というものに正面から向き合えていないのではないか?ということを読者の皆さんに問いかけたいのである。相手との対話を拒み、自分の意見だけは一方的に押し付けて、敵と味方という善悪二元論的な物の見方しか出来ないようでは平和の道など永遠に開かれない。今のままでは私たちは中世ヨーロッパで魔女狩りをしていた人々や、フランス革命で王侯貴族たちを処刑していた民衆と同レベルだと主張したいのである。
私たちが水木先生のファンであり、本当に平和を望むのであれば人間の暴力性や加害性というものについて考えないといけないし、それをタブー視して単に排除しようとするだけでは何の解決にもならない。少なくとも私は6期鬼太郎やゲ謎、そしてそれに対するファン同士の対立・分断を経て、私たちは未だに精神的に進歩していない、未だに暴力的で攻撃的で、排他的なファンであることを思い知ったし、ファン同士の対立・衝突にこれ以上関与するようなことはしたくないので、今後は一人で作品を愛でていきたいと思ったのである。
さいごに
以上、ちょっとまとまりは悪いかもしれないが、私なりに水木先生に関する作品の批評・議論をやめようとした理由を述べた。
ブログの活動を休止するとお知らせした時に温かい応援コメントを送ってくださった方には心の底から感謝しているが、これ以上私は屈辱的な思いをしてまで批評や議論・批判といったことはもうしたくないし、正直嫌気がさしているのだ。
同じ国に住んで、同じ言語を使い、なおかつ同じ作品・作者のファンだというのに何故こんな辛い思いをしなければならないのか、何故「心が狭い」だの「日本を貶める反乱分子」だのと言われなければならないのか、私が言っていることがおかしいのならば正々堂々と議論してほしいだけなのに何故陰口を叩かれなければならないのか。
……端的に言えばもう疲れ果ててしまったのだ。
これ以上無理をして批評や議論を行うと鬼太郎や悪魔くんそのものまで嫌いになってしまうかもしれないので、そうならないためにも今後は一人で水木作品を楽しもうと思う。なので以前言っていた悪魔くんの「ノストラダムス大予言」のレビューに関してはもうやらないので、その点に関してはご了承願いたい。
幸か不幸か、私は水木先生の作品以外にも本格ミステリというものに関心があるので、今後はミステリ小説(ドラマ)や水木作品以外のホラーを中心とした批評やレビューを行っていこうと思う。

















































