タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ミステリだけど評価すべき点はミステリ以外の所にあり!【映画「名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊」】(後半ネタバレあり)

どうもタリホーです。ケネス・ブラナーポアロの第三作目「名探偵ポアロベネチアの亡霊」を観に行きましたので、早速レビューします。

既に映画を観た方のレビューをネタバレを避けて見たのですが、すごく高評価している人と、逆に酷評している人がいて評価は正に賛否両論。その評価を分ける者とは何か?アガサ・クリスティの一ファンとして確かめて来ました。

 

作品概要

舞台は1947年のイタリア。水上都市として栄えたベネチアの街で一人隠遁生活を送るポアロだったが、ある日友人で推理作家のアリアドニ・オリヴァから、ハロウィーンの夜に開かれる降霊会に参加してほしいと誘いを受ける。降霊会が開かれるその屋敷では、ロウィーナ・ドレイク夫人主催で子供たちを集めたハロウィーン・パーティが開かれており、パーティの後に降霊会のため霊媒ジョイス・レイノルズ夫人が呼ばれていた。ロウィーナは最愛の娘アリシアを事故で亡くしており、今夜の降霊会ではアリシアの霊との交信を望んでいた。霊の存在を否定するポアロは、レイノルズ夫人のペテンを暴こうとするが、降霊会の夜に殺人事件が起こり大雨の影響で招待客は屋敷から出られなくなる。果たして、この殺人は人間の仕業か、それともこの館でかつて亡くなった孤児の亡霊たちの仕業か…?

 

以上が本作のあらすじとなる。原作はクリスティの長編ハロウィーン・パーティ』であり、イギリスの街からイタリアのベネチアへと舞台や登場人物を大幅に変更している。そのため予告を見た時は「これのどこに『ハロウィーン・パーティ』要素があるのだ…?」と困惑させられたし、オリエント急行・ナイルと来て三作目にこんなマイナーな原作をチョイスしたというのも困惑の理由の一つだ。

登場人物についておさらいすると、まず探偵のポアロと推理作家のオリヴァ夫人は原作通りのレギュラーメンバーだが、それ以外の人物は以下の通り。

ジョイス・レイノルズ霊媒

ロウィーナ・ドレイク:屋敷の女主人。元オペラ歌手。

アリシア・ドレイク:ロウィーナの娘。故人。

オルガ・セミノフ:ドレイク家の家政婦。

ドクター・フィリエ:戦争による精神疾患を抱えた医師。

レオポルド・フィリエ:ドクターの息子。

デズデモーナ・ホランド:レイノルズ夫人の助手。

ニコラス・ホランド:デズデモーナの弟。レイノルズ夫人の助手。

マキシム・ジェラード:シェフ。アリシアの元婚約者。

ヴィターレポルトフォリオポアロボディガード。元イタリア警察警部。

以上、ポアロとオリヴァ夫人も合わせた12名が本作の登場人物となるが、原作既読の方ならおわかりの通り、ドレイク夫人を除いた9人が改変もしくはオリジナルの登場人物で、特に注目すべきは原作で13歳の少女だったジョイスが本作では妙齢の霊媒師として登場する点だ。原作ではこのジョイス「殺人を見たことがある」という一言で事件が幕を開けるのだが、本作のジョイス殺人の告発という点では原作のジョイスと同じ役割を果たす。

 

本作は先ほどのあらすじにもあるように「人の犯行か幽霊による仕業か?」という事件の様相が注目ポイントの一つで、原作と比べるとかなりオカルト色やホラー要素が濃い物語になっている。クリスティ作品では『蒼ざめた馬』や『死の猟犬』といった怪奇現象・オカルトを扱った作品はあるものの、基本的にポアロシリーズを始めとするクリスティの代表作はオカルトと無縁で、どちらかと言うとこのオカルト色強めの作風はジョン・ディクスン・カーの作風に近い。映画のパンフレットを読むと本作は『ハロウィーン・パーティ』だけでなく「最後の降霊会」(『死の猟犬』所収)も参考にしたと記されており、合理的に解決出来るミステリと非合理的な亡霊というオカルトを掛け合わせたサスペンス・ホラーとして描かれている。

基本的に原作のポアロはオカルト要素の絡んだ事件とガッツリ取り組んではいないので、本作は「もしポアロがオカルト色濃いめの事件に関わったらどうなるか?」といった実験的な試みが為された作品として私は受け止めた。従来のポアロにはない亡霊の存在に対する疑念や困惑・怯え、そういったものを監督で主演のブラナーは描いてみたかったのだろうなと思う。そして前二作と違いより閉鎖的なクローズドサークル内での事件という圧迫感・閉塞感がポアロや関係者の心を蝕んでいく。

 

ホラーとしては音でビックリさせるジャンプスケア系の演出が目立つのでそういうのが苦手な人にはおススメしないが、では今回の改変におけるホラー要素とミステリ要素の絡み方はどうなのかという点に関して述べると、正直な所この両者は本作ではあまりうまく絡んでいたとは言い難い。やはり本作のホラー要素は原作で描かれなかった「怪異の存在に困惑し怯えるポアロを描きたいというブラナーの思いが反映されたというだけで、ミステリとの相乗効果にまでは至っていない。そもそもミステリ自体もかなり不満ポイントがあって、情報の出し方にアンフェアな部分があったり、心理的にそんなことをするか?というモヤモヤポイントもあったのでミステリに関しては原作の『ハロウィーン・パーティ』と同様、そんなに大したことがない作品だと評価した。

とはいえ、褒める部分がゼロという訳でもなく、事件の真相や犯人の動機といった面はちゃんとクリスティ作品らしい改変になっていたし、ブラナー自身シェイクスピア俳優としての経歴があるから、原作の諸要素をイタリアを舞台にした物語として置き換えるセンスは素晴らしいと思う。クリスティの曾孫であるジェームズ・プリチャード氏が本作のストーリーを承認したのも納得である。

 

さて、ここからは原作及び映画のネタバレありの感想に移るので、映画を観てない方はここで引き返すことを強くおススメする。

 

(以下、原作を含めた映画のネタバレあり)

 

ネタバレ解説

ネタバレ解説をする上で、今回はYouTubeで映画評論をしている沖田遊戯氏の動画をベースにして解説していく。

 

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まず、動画の6分20秒辺りで沖田氏は序盤の子供たちによる「ハロウィーン・パーティ」はいらないだろとツッコミを入れていたが、個人的にプロットとしては序盤のあのパーティ描写は蛇足ではなかったかなと思う

本作の舞台となる屋敷は元孤児院であり、かつてペスト(黒死病)が流行した際看護婦や医者は職務を放棄して子供を屋敷に閉じ込め逃げた。この屋敷はそんな大人に見捨てられ病で苦しみながら死んだ子供たちの霊がいて、看護婦や医者に恨みを持っているということが序盤のパーティの場面で語られる。この怪談話から今回の事件をオカルトの仕業として解釈すると、看護婦や医者に恨みのある子供たちの霊が、元従軍看護婦であるレイノルズ夫人とフィリエ医師を殺したということになり、その霊はパーティに集まった子供の生きた魂に触発されて眠りから目を覚ましたのだ…という風に解釈出来る。それに、ハロウィーンは死んだ人の魂が戻って来る行事だから、その点から見ても今回の事件のオカルト要素としてハロウィーンやパーティの描写は必要だったと思うし、事件をオカルトめいた因縁話としてミスリードさせる効果もあったと言いたいのだ。

 

本作では過去のアリシアの事故死、レイノルズ夫人の殺害、フィリエ医師の殺害と3つの事件が描かれており、特に3つ目のフィリエ医師殺害は現場が鍵のかかった密室であったためポアロシリーズには珍しい不可能犯罪が謎として提示されているのが注目ポイントだが、結論から言うとこの3件の事件はミステリとしては難アリな部分が多い

アリシアの事件の場合はバルコニーからの転落による溺死ではなくシャクナゲの花から採れた蜂蜜による中毒死であり、アリシアポアロが見た亡霊もこの蜂蜜を口にしたことによる幻覚症状だと劇中で結論付けられている。一応養蜂をしていたことは劇中で語られていたものの、シャクナゲの花が育てられていたことは解決パートまで伏せられていたし、そもそも検死をしたのが精神的に不安定でドレイク夫人に好意を抱いていたフィリエ医師なので、謎解きとしては視聴者に対してかなりアンフェアだと言って良いだろう。

レイノルズ夫人殺害のトリックは音楽室が防音になっていることを利用し、時計の針をズラして家政婦のセミノフを証人にすることでアリバイ偽装したというもの。このレイノルズ夫人殺害のトリックは特に問題はないが、次のフィリエ医師の密室トリックが心理的な面でツッコミ所がある。フィリエ医師殺害のトリックは他殺に見せかけた自殺であり、犯人が「従わなければ息子を殺す」と医師を脅迫し、壁に剣を突き立て背中から刺されに行ったという、これまた古典的なトリックだが、いくら精神的に不安定で後ろ暗いことをしていたとはいえ、「息子に何のメッセージも残さずに言われるがまま自殺をする父親がいるだろうか…?」ということが引っかかってスッゴいモヤモヤした。特に本作は親子が物語のテーマの一つとして絡んで来るだけに、この部分が雑なトリックとして流されていたのが一番の不満になった。

 

あと沖田氏の動画の中で氏が最もキレながら酷評をしていたのがオリヴァ夫人がレイノルズ夫人の共犯だったという点だ。原作におけるオリヴァ夫人はキュートな婦人としてポアロと共に捜査をする役どころで一種のムードメーカー的存在であったにも関わらず、本作ではそんな彼女を裏切り者として描いているのだ。だから確かに沖田氏がキレ散らかすのも無理はないなと思うし、どうせそんな改変をするのだったらトリックとしても必然性が欲しかったと思うのだけど、今回の物語においては容疑者の幅を広げる以上の効果はなかったので、改変としてはイマイチだったかなと思う。

まぁ私はそんなにオリヴァ夫人に思い入れがないのでそこまでキレなかったけど、ポアロに対して「あなたに友人はいないのよ」って言ったのを見た時はポアロが可哀そう過ぎて「それはやめたげてよ…」ってオリヴァ夫人を止めたくはなったけどね。

 

ただ、今回オリヴァ夫人を裏切り者として描いたのはもしかすると二つの目的があったのではないかと実は思っていて、その一つがオリヴァ夫人が原作者であるクリスティの分身的存在だという点だ。生前クリスティはミステリを書く上でエルキュール・ポアロの存在が物語に制約をつけてしまう、つまりはミステリとしての幅を狭めるという点で疎ましく思っていたことを述懐しており、出版社や編集者の要請に応えて仕方なくポアロを物語に入れていたと言われている。だからポアロはクリスティにとって生涯離れ難き友であった一方、すごく鬱陶しい存在だったことは多分間違いないだろうし、恐らく今回の脚本ではクリスティのポアロに対する矛盾した感情をオリヴァ夫人に反映させたから、あんなキャラになったのではないだろうか?

もう一つの目的というのはポアロを孤独にさせるという目的だ。本作でポアロは『アクロイド殺し』のように隠遁生活を送る、つまりは自ら進んで孤独になった訳だが、そこには彼の信念である「秩序と方法」に揺らぎが生じたからであり、劇中でもポアロはそれについて語っている。揺らぎが生じたとはいえ一方でそれはポアロアイデンティティでもあるのだから、心の奥ではそれを証明し自分の足元を固めておきたいと思っている。しかし今回挑んだ事件は超自然的な亡霊が絡む殺人事件で、これまで関わったどの事件よりもポワロの信条を根底から覆すかのような、混沌に満ちた事件である。そんな事件に対するポアロの心の焦燥・不安・怯えを描くためには、ポアロを支えるヘイスティングス大尉やオリヴァ夫人、ミス・レモンにジャップ警部といった従来のレギュラーメンバーは却って邪魔になってしまう。ポアロの焦りを描く上では彼には心理的に孤独になってもらわないといけない。だからオリヴァ夫人はポアロを支える存在ではなく裏切り者になる必要があったのだと、こうも考えられるのだ。

 

謎解きミステリとしては大いに不満があるものの、トリックに毒殺が用いられたことやクリスティのトリックにおいて最も重要と言える人間関係の欺瞞が描かれていたので、オカルト要素が強くてもちゃんとクリスティの作品だったなと思ってこの映画を観終えることが出来たし、何よりドレイク母子とフィリエ父子が対比的に描かれていたのが物語として美しい構図だったと評価したい。良き母親を演じるため子供を犠牲にする親と、子供を守るため自らの命を投げ出す親が対照的に描かれていたから、本作がミステリとして駄作でも、クライム・サスペンスとしては上質な物語として着地することが出来たと思うのだ。

 

「ポアロにうんざり」だったアガサ・クリスティ、孫が明かす 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 

さいごに

ということで「名探偵ポアロベネチアの亡霊」の感想・解説でした。前作の「ナイル殺人事件」はまだ見ていないので、三作を通じてブラナー版ポアロはこうだ!ということはまだ断言は出来ないけど、やはりブラナーも脚本のマイケル・グリーンもこのポアロシリーズを本格謎解きミステリとして描くつもりはあまりなく、原作や従来の作品で描かれなかったポアロの感情にスポットライトを当てることに意識を向けているといった感じだろうか。だからミステリとしては超絶駄作なのだけどクリスティ作品として見ると上質という凄くちぐはぐな感想にならざるを得ないのだ。

これまでは視聴者と容疑者が右往左往する中でポアロは一人だけ真実に向かってズンズン進むといった描かれ方をした作品が多いし、だからこそ彼は名探偵として周囲にもてはやされる存在だったのだけど、ブラナー版ポアロでは「オリエント急行」でポアロにもある種の弱みがあることが判明し、そして今回の「ベネチアの亡霊」では自身のこれまでの信条を揺るがすような超自然的な存在(亡霊)が現れる。事件の謎そのものに悩むのではなく、もっと人の心の奥底にある問題を、ブラナー版ポアロでは自分ごととして捉えている。物語の最後でポアロは隠遁生活をやめ探偵として復活するが、それはこの世界の混沌に対する名探偵の再挑戦として私は解釈することにした。

【ゲゲゲの鬼太郎】夜叉(1~4期)を見比べる

ゲゲゲの鬼太郎歴代セレクション、第十一回目は定番エピソードの夜叉。

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夜叉については5期と6期の感想記事があるが、1~4期については詳しく書いてないので今回は1~4期までを見比べよう。

tariho10281.hatenablog.com

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1期(実はこれが初のアニメ化)

1期の夜叉は2話で放送されたが、制作順としては実は「夜叉」が最初であり「おばけナイター」はこの「夜叉」の後に制作されたそうである。ただ内容がちょっと怖いので初回は子供にも見やすい「おばけナイター」の方を優先したとのこと。

内容は序盤こそ原作に則っているが、途中からはオリジナル展開がかなり含まれている。原作では夜叉が目玉おやじを食べるものの、目玉おやじが夜叉の鼻や耳の穴から出て来て子供の魂を狙う計画を邪魔するという展開があったが、流石に子供向けではないと判断されたのかカットされ、その代わりに夜叉による集団パニックねずみ男と鬼太郎が疑いをかけられリンチに遭うといった流れになっている。そのため夜叉も原作以上に狡猾で、最初はなよっとした優男を装って鬼太郎を襲いねずみ男を騙して火葬にしてしまおうとしたのだから悪いやつである。

鬼太郎初のアニメ化ということもあり、よく聞くと鬼太郎と目玉おやじのアフレコに何となく慣れていない感じがうかがえる。それに、ねずみ男「お前は人々が幸せになるように、妖怪と戦っているんだろう」という台詞が説明的で、鬼太郎が何者か知らない視聴者のために入れられたという感じがする。説明的とはいえそれがダメという訳ではなく、むしろそこが初アニメ化として味わいがあると評価したい。

 

3期(ねずみ男が妖怪退治!)

3期は2期と比べると音楽に力を入れた回だなという印象で、響ワタルが奏でる曲のロマンティックさというか情熱さがよく表れている。そのため怖さ・不気味さはほとんどない。

また、ねずみ男が珍しく妖怪退治に挑むという見所があり、ユメコちゃんに乗せられて勢いよく夜叉の音響催眠と対峙するのだが、3期のねずみ男は音痴という独自の設定があるため夜叉の音響催眠が通用しないという改変が為されている。この改変のせいか、1~6期で定番の吸血鬼エリートのエピソードがこの3期では描かれておらず(2期は1期の続編なので当然ながらエリート回は1期で消化済み)、序盤で安易にねずみ男を音痴設定にするべきではなかったのでは?と残念に思う。ユメコちゃんにデレデレな設定にしても、ややロリコン的で今の時代から見るとちょっと不健全に見えてしまう面があるのも否めない。

スランプから夜叉に付け込まれた響が最終的に自力で音楽コンクールの曲を作り評価されるというオチは、3期当時ならともかく今見ると予定調和なオチというか、「頑張れば何とかなる」というのが綺麗ごとのように私には感じた。最後に響が独力で作曲した曲を聴いても、「なーんか夜叉に憑かれていた時の作曲を参考にしてないか?」と思ったので、完全なオリジナルではないという疑念があるからそこも素直に評価出来ないポイントになっている。

 

4期(演出と「夜叉の最期」にゾッとした)

4期の夜叉回は3話目に放送されたと知って、「あ、そんな初期に放送された話だったのか」と今更ながら気づいた。そんな4期の夜叉回は2・3期に比べてかなり不気味だし演出もゾッとさせるものがある。特に鬼太郎が夜叉の妖気を探るシーン、そこで魂を抜かれた子供が残留思念として映るのだが、その演出を初見で見た時ちょっとビクっとした記憶がある。

夜叉が悪酔いで絡んで来たねずみ男の魂を抜いて食べてしまったことから、腹痛を紛らわすために美味しい子供の魂を食べようとするという形で物語が展開する。そのため今回もねずみ男はトラブルメーカーなのには違いないが、魂を食べられたということで死んだねずみ男に対する鬼太郎ファミリーそれぞれの思いが見えるのが興味深い所。猫娘とか鬼太郎はまだ寂しさみたいなものを感じているけど、おばばや子泣きに関しては結構ドライであり、流石は年長者と言った所か。

ねずみ男の存在により完全なホラーにはなっていないが、それでも歴代の夜叉回の中でもなかなか怖さが際立っているのがこの4期の特徴で、夜叉も鬼太郎によって退治されるというより、飼いならしていたはずの死霊に喰い殺されるという壮絶な最期を遂げたので、そこが鬼太郎作品には珍しい後味の悪さ・余韻を残している。

 

 

ということで1~4期の夜叉回を見比べてみたが、やはり一番好きなのは4期で3期は今のアップデートされた知識・倫理で見るとどうしても批判的にならざるを得ない。だからこそ5期で3期のアンサーソング的な夜叉回を放送したことを私は好意的に受け取っているのだ。6期は大胆なアレンジをしたとはいえ、原作要素を感じさせるものがなさすぎて個人的にはこれが歴代でワーストかな。インパクト勝負って感じで話自体もさほど大したことがなかったし。

【最終回】累の犯罪、瀉血としての謎解き【アンデッドガール・マーダーファルス #13】

「アオサキ夏のミステリまつり」と題して7月から追っていたドラマ「ノッキンオン・ロックドドア」が先日最終回を迎え、そしてアンファルも最終回を迎えました。

青崎有吾氏の作品が同クールに二作品も映像化されるというミステリオタには夢のような三ヶ月でしたが、それも今日で終わり。名残惜しいけど最後なので徹底的に感想・解説を語っていきますよ!

 

あ、そうそう今回は人狼編の最終回でもあるので、「狼」つながりでこちらの曲をご紹介。

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事件の真相を踏まえて聞くと、より一層深みが出る曲ですよね。

(この曲は昔NHKでやっていたアニメアリスSOSで知りました)

 

(以下、原作を含めた事件のネタバレあり)

 

「犯人の名前」

最終回は原作の361頁から460頁(第26節「怪物のとりえ」から第31節「夜明け前の怪物たち」)までの内容。序盤の5分間で静句とカーミラクロウリーとアリス、カイルとヴィクター(+津軽)の三つの戦いを描き、残り時間で二つの村で起こった連続少女殺害事件の謎解きをするという1秒とて無駄に出来ない構成を何とか20分ほどの尺で収めている。そんな訳でクロウリーに負けたアリスがどうなったのか、〈夜宴〉は当初の予定通りサンプルとなる人狼を確保出来たのか、といった細かい部分はカットされている。気になる方は是非原作を読んでもらいたい。

 

ちなみに今回の静句対カーミラの戦いは原作通りやるとR18でいくら深夜アニメでもエロ過ぎるので、婉曲的な表現で演出しているとのこと。

 

事件解説(二種類の一人二役

原作でもアニメでも8年前のローザとユッテ母子の焼き討ち事件が回想として挿入されていたので、今回の事件が生き残ったユッテの仕業だというのは推理しなくとも何となくわかることだし、特にアニメではユッテとルイーゼが似ている※1のは一目瞭然なので、ノラ(=ユッテ)の一人二役トリックに気づいた方は多いのではないだろうか?

 

一人二役トリックの最初の手がかりとして視聴者(読者)に提示されたのは、鴉夜が何度も言及したルイーゼ誘拐現場で割られた人狼がそこから脱出したのは間違いないとして、どの形態で脱出したのかが問題となるが、【獣人】だと体格が大きすぎて窓枠から身体を出せないし、【人間】だと窓枠の下辺が大人のへその高さにあるためまたぎ越すのが困難。加えて窓枠にはガラス片が付いていたので仮にそこから【人間】として何とか脱出出来たとしても、ルイーゼの声を聞いて部屋に入ったグスタフに姿が目撃されていないとおかしいのだ。※2

ということで人狼は四足歩行の【狼】の姿で脱出したことになるが、そうなると狼の姿で12歳の少女を連れ去ったという不可能状況が生じる。少女を口にくわえて窓からは出せないし、引きずり出したら窓枠下辺のガラス片が全部外に落ちていないとおかしい。つまりルイーゼは部屋から出ておらず、人狼だけが部屋から出た。しかも侵入口と思しき暖炉には灰が飛び散った痕跡がないため、そもそも最初から部屋に人狼がいたことになる。

以上の推理から鴉夜は人狼はルイーゼに化けており本物のルイーゼと入れ替わっていたこと、誘拐事件は偽ルイーゼの自作自演と見抜いたが、現場検証の段階でそれを見抜きながらグスタフや村人たちにそれを語らなかったという点については後ほど言及する。

 

そしてホイレンドルフとヴォルフィンヘーレの二つの村で起こった少女連続殺害事件に移るが、この事件では4ヶ月周期・雨の夜・10代前半の少女といった規則性のある犯行が最大の謎であり、何故かノラとルイーゼの事件だけこれまでの法則と違う犯行だというのも引っかかるポイントだ。

その答えはもう既に原作と今回の物語を見た方ならご存じの通り、人狼村の少女を村から逃がすためであり、ノラの一人二役だけでなく死体の一人二役というトリックが盛り込まれているのがミステリとして面白いポイント。よく考えれば人狼村の被害者たちが全員真正面から顔を撃たれていたということ自体が不自然で、人狼なら五感の鋭さで相手の気配や居場所がわかるし、正面から銃を構えている者がいるならばすぐに【獣人】か【狼】に変化すれば毛皮の防御で少なくとも死ぬことはないのだから、その状態にならずに死んでいたということ自体、死体が人狼ではないという事実を物語っていたのだ。ここは人狼の設定がうまく活きているのと同時に盲点として見落としやすいポイントなのでミステリとして秀逸だと評価している。

 

ミステリにおいて顔が潰されたり頭部が切断され持ち去られた死体を「顔のない死体」と俗に呼び、そういった死体が作中で出た場合はまず被害者と加害者の入れ替わりを考えるのが定石なのだが、本作だとノラとルイーゼの相似が前面に出ているためそっちの入れ替わりが目立って前の三件の被害者の入れ替わりに気づきにくい構成になっているし、ホイレンドルフの被害者が検死で本人だと証明されていることや、人狼側に入れ替わるメリットが(一見すると)ないため、ノラとルイーゼの入れ替わり※3に気づいた人はいても、前三件の被害者の入れ替わりトリックにまで辿り着けた人は少ないのではないだろうか。

そして二つの村で起こった事件なので当然複数犯の可能性や、人狼村での被害者が散弾銃で殺害されたことから人間が殺害に関与している可能性も出てくる訳だが、前述した通り人間が人狼の少女を撃ったとしたら被害者が真正面から撃たれているのは不自然だし、地下洞窟にいた斑蛾の大群が人間が犯行に関与していないことの証拠になっていて、きちんと別解が潰されているのも見逃せないポイントだ。

 

ノラの犯行動機となった血の儀式に関してはホイレンドルフの村長が10話でキンズフューラーについて語っていたし、人狼村の少女が巫女として首に下げていたネックレスが子宮を象ったものであるのもヒントになっている。10代前半の少女が狙われた理由は10代前半に初経(初潮)が見られる、つまり子どもを産める身体になるからであり、だからこそノラは少女たちを早いうちに逃がす必要があると考えたのだろう。

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前回の感想記事で私は「痛み」という点が今回の事件の動機に関わると述べたが、その痛みというのは女性の痛み(生理や妊娠・出産といった痛み)を指しており、強い個体を生み出すため何体ものオスと性交渉を持つことになれば、当然身体に尋常でない負担がかかるし、医療従事者のいない人狼の村だから下手すれば死ぬことにもなりかねない。昔の出産はそれだけ命がけなのだから、何体もの子供を産むとなるとそれだけ死のリスクも高まる。ましてやその儀式を10代前半の完全に発達していない身体で行えばどうなるかなど想像したくないことだ。オスの人狼たちは、メスが抱えるこの痛みに鈍感であり理解しなかった、その歪みが今回の事件の原因の一つであることは確かだ。

 

※1:原作者のツイートで知ったが、今回のトリックの元ネタとなる作品はエーリッヒ・ケストナーの小説ふたりのロッテだそうで、『ふたりのロッテ』では本作と同じルイーゼという少女が登場する。

※2:ちなみに原作では部屋に入ったグスタフが人狼を追うためわざわざ玄関から外へ出た描写があり、人間態で窓から出られないことがさり気なく提示されていた。

※3:人間村と人狼村に交流がないこと・地下道と地底湖の存在・二つの村の活動時間が昼夜逆であること等に加えて、人間村にいた時に静句はグスタフの家に入っておらずルイーゼの肖像画を見ていなかったのも、入れ替わりトリック成功の一因である。公式HPのキャラクター紹介の項でノラは「お寝坊さんな一面」があると記されているが、これも一人二役による二重生活の伏線になっていたのだ。

 

累と化したノラ

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今回の事件における一人二役トリックや死体の入れ替え自体は特別珍しいトリックではないし、トリックだけを抜き出した所で本作の面白さは語れない。この人狼編で何より特筆すべきは、被害者であるルイーゼが共犯としてノラの犯行計画に加担していたことであり、それがミステリとしての意外性だけでなく物語としてのドラマ性に大きく貢献しているのだ。

 

かつて喰い口減らしのため両親から捨てられたルイーゼは村での自分の居場所を獲得するために自分を助けてくれたユッテを人狼として告発。しかしそれは「村の守り神」という偶像として扱われるという点では差別されていることに変わりはなく、ルイーゼはそんな村や両親に愛想を尽かすこととなった。

ユッテに対する贖罪とホイレンドルフへの嫌悪感、これがルイーゼが共犯になった動機であり、ノラは人狼の女たちを解放しヴォルフィンヘーレの因習を崩壊させることを狙って二つの村で少女連続殺害事件を決行、二つの村を衝突させることで両村それぞれの歪みを崩壊させようとした、ということになる。

 

原作では事件の真相を聞いた津軽が落語の粗忽長屋を思い出したが、私は今回の事件は日本の怪談話である「累(かさね)」とリンクする要素が多いのではないかと思った。

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累の怪談は現在の茨城県を舞台にした物語。昔、与右衛門という百姓の家には後妻であるお杉と、その連れ子である助(すけ)という娘がいた。この助は顔が醜く足が不自由であったため与右衛門は助を嫌い、ある日与右衛門は助を川へ投げ捨て殺してしまう。翌年、与右衛門とお杉の間に女の子が産まれ「累(るい)」という名が付けられたが、その子の顔は殺した助に瓜二つであり、村人たちは「助がかさなって生まれて来た」とささやき、その子は「かさね」と呼ばれるようになる。

やがて累の両親が死に、累は谷五郎という男を婿に迎え入れるが、財産目当ての谷五郎は累を川に突き落として殺害、他の好きな娘と結婚する。しかし後妻として迎えた女は次々と病気で亡くなっていき、6番目の妻が生んだ娘の菊に取り憑いた累がようやく谷五郎への恨みを語る。谷五郎は謝罪したが菊の身体に取り憑いた累は出ていこうとしないので、祐天上人が累を成仏させ、またその遠因ともなった助の魂も同様に成仏させたという。

 

以上の物語は「累ヶ淵」というタイトルで『死霊解脱物語聞書』に収録されている。この怪談をベースにした落語や歌舞伎があるくらいだから、日本の怪談ではかなりメジャーで聞いたことがある人も多いと思う。助が足が不自由な娘であるという点は正に本作のルイーゼと同じであり、親から疎まれていた点も共通する。

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私と同じくアンファルを視聴している闇鍋はにわさんの11話の感想でヴォルフィンヘーレがあの世のような場所であると述べている。闇鍋さんのアイデアから派生してこのノラとルイーゼの犯罪について考えるが、ルイーゼはグスタフ夫妻に捨てられユッテを告発した頃からもうこの世の住人として生きていなかったと言える。肉体は生きていたとはいえ、村人や両親から腫れ物扱いされ距離をとられていたのだから、その魂と存在はあの世に行っていたも同然なのだ。

そして月日は経ち、一年半前にノラとルイーゼは入れ替わる。ここでルイーゼは地下洞窟内に監禁されるが、地下は古代日本において根の国と称される場所であり、つまりあの世を意味する。ここでルイーゼは完全に現世と縁を断ちあの世の住人となった訳だが、反対にノラは人間にとってのあの世とでも言うべきヴォルフィンヘーレから地下を経由してホイレンドルフに向かい、そこでルイーゼとして二重生活を送る。ヴォルフィンヘーレや地下洞窟があの世(根の国)を象徴するならば、それをつなぐ地下道は黄泉平坂と言った所だろう。

ノラが主犯とはいえ、ルイーゼになりすました彼女はルイーゼの意志を継承している者であり、直接関係のないホイレンドルフの少女を殺すというのは累の怨霊が谷五郎の後妻を次々と呪い殺すのと似ている。ルイーゼの意志を受け継いだノラは、さながら助の生まれ変わりである累そのものだ。

 

瀉血としての謎解き

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鴉夜による謎解きは最後に津軽が指摘したように早い段階からルイーゼの入れ替わりに気づいていたにも関わらず意図的に真相を伏せていたと思われるフシがある。入れ替わりに気づかなかった両親や車いすの背中側の持ち手のキレイさから、ルイーゼが不遇な扱いを受けていたことを読み取り、それが事件の遠因と判断した鴉夜は、二つの村の衝突を敢えて止めずに滅びない程度に復讐の後押しをしたということになる。動機に関してはノラの方の動機はギリギリまで気づかなかったのであくまでもルイーゼ側に加担したということになるが、この下りで私が思ったのは鴉夜は探偵として無血での解決が必ずしも正解ではないという価値観を抱いているということだろうか。

人間にしろ怪物にしろ、口で言っても理解出来ない(或いは理解しようとしない)輩というのは往々にしてどこの世界にもいるもので、身をもって知らないと目が覚めない者も多い。30年も生きていない私ですらそう感じる時があるのだから、900年以上生きて来た鴉夜にしたらそれは当然の理というものだろう。言葉だけで糾弾する程度では二つの村に染みついた歪みは治らないし、人間と人狼、両者の痛みに対する鈍感さを少しでも是正するには血を流しその痛み・苦しみを身をもって知るべきであると判断したから、鴉夜は敢えて二つの村の衝突を見逃した。そう考えるとこれは一種の瀉血と言えるのではないだろうか?

 

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瀉血(しゃけつ)はヨーロッパやアメリカで行われた治療法の一つで、体外へと血を排出することで血と共に体内の有害物・不要物が流れ出し、病気の症状が改善されると信じられていた。現在では多血症やC型肝炎など一部の病気において用いられる手法であり、血を流せば体内の有害物まで出ていくというのは迷信である。

 

この瀉血でふと思い出したが、横溝正史が生み出した名探偵・金田一耕助が殺人防御率が低いと揶揄される探偵であるにも関わらず名探偵として現代でも支持されているのは、金田一が関わる事件がいずれも未然に防いでしまった場合、それは根本的な部分での解決にはならないからだと私は思っていて、淀んだ血(過去の因縁や忌まわしき風習など)を流させることによって未来にその悲劇を持ち越さない、今の世代で完全に悲劇の連鎖を断ち切るという意味合いもあるから、作中であれだけの犠牲者が出ても金田一は名探偵でいられると私は考えているのだ。金田一が狙ってやってないとはいえ、殺人の悲劇が瀉血としての効果をあげているから、物語は後味良く終われるし、そこに横溝ミステリ独特の魅力があると私は考えている。

(勿論、メタ的に考えれば連続殺人でないとミステリとして面白くないという理由もあるのだけど…)

 

総評

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以上で最終回の感想を終えるが、総評に移る前にまず第三章「人狼」編のまとめ感想を言っておくと、シリーズ最長(約480頁)の物語を約20分×5話で描くという難題を見事にやり遂げたことはまず評価しなければならない。勿論尺の都合でカットされた描写は第二章よりもずっと多いけれど、本作の肝となる事件と謎解き、そして怪物と人間の大混戦はキチンと押さえて映像化されており、印象に残る場面もあって原作を読んで内容を知っていても新鮮な気持ちで視聴することが出来た。特にこの三章はまだコミカライズされていない話なので、人狼やホイレンドルフの村人がどんな姿で登場するのかも気になっていたポイントだったが、そのビジュアルから原作を読んだ時には思いつかなかった感想が出て来たので、感想・解説を書くのもそれほど困らなかったかなと思う。

 

ではここから作品全体の総評を語る。本作は19世紀末のヨーロッパが舞台であり、題材となる怪物や怪人・探偵も19世紀から20世紀にかけて発表された怪奇小説や探偵小説のキャラクターを用いている。この時代に生まれたミステリやホラーは今もなお多くの作品に影響を与えるエポックメイキングとしての名作・傑作ばかりが揃っており、正に大衆文学や怪奇小説の黄金時代だった。そんな時代の作品群をベースにしているのだからまず作品としての下地が盤石というか、「その題材を元に本格ミステリをやったらそりゃ面白くなるわな」という感じで怪物をお題にした特殊設定ミステリとして実に隙がないし、そこはロジックを重視したミステリを書く青崎氏の力量の高さがうかがえる部分だ。

勿論本作は先人の作品群に頼りきった作品ではなく、輪堂鴉夜・真打津軽・馳井静句の三人組による掛け合いや会話劇としての面白さも追求されており、日本文学の一つである落語が西洋を舞台にした物語に組み込まれているという所も注目しなければならない。

 

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特に鴉夜と津軽のコンビ、そして鴉夜に代わって津軽に辛辣かつ強烈なツッコミをする静句の関係性は日本テレビで放送されている笑点を彷彿とさせる。笑点と言えば司会がお題を出して、それに対して噺家たちがうまい回答をするという大喜利のコーナーがある。そこでは回答者が時折司会を不謹慎にイジって座布団を座布団運びの山田隆夫に全部没収される※4というお馴染みの展開があり、特に今は亡き桂歌丸三遊亭円楽によるバトルは私もよく見ていたので、本作で鴉夜が生首であることを元にしたイジり(生首ジョーク)を次々と出してくる津軽と鴉夜の関係は笑点の司会と回答者の関係に似ているなと思ったし、「静句、後で津軽をぶん殴っておけ」という鴉夜の指示は笑点における「山田君、〇〇さんの座布団全部持っていきなさい」という司会の指示を見ているようで、ミステリとしての面白さとはまた違うファルスとしての部分もこういった先行となる演芸によって支えられていたのだなと改めて思った。

 

言うまでもなくこの生首ジョークは身体欠損をイジっているのだからジョークとしては不謹慎で本来なら不快感を覚える人が出てきてもおかしくない所なのにそれがないというのは、津軽もまたある種の欠損者であり怪物を殺す鬼混じりという被差別民であるから、そこに健常者が欠損者をイジるいやらしさが感じられないのだろう。鴉夜と津軽は割れ鍋に綴じ蓋、欠けているからピタリとはまる関係性であり、それは「欠けているから分かり合える」という薄っぺらい標語や綺麗ごとめいた関係ではない。三人で旅をしないことには彼らの存在意義やアイデンティティは消え失せ、残る選択肢は「死」のみである。それは1話の段階で視聴者が既に見ていることだ。

 

そしてこのシリーズは怪物を扱っているので「怪物とは何か?」という定義についても私はこの度のアンファル感想で色々と語ってきたが、日本の妖怪や西洋の怪物・精霊・悪魔といったものを図鑑なんかで読むと、人間の思想の幅広さや生命の多様性に触れることが出来て面白いなと思うし、その複雑さにこそ人間が人間として生きていくためのヒントが隠されていると私は常々考えているのだ。

しかし、社会や経済といったものは複雑さを嫌う。サービスは常に同じ量・同じ質で毎日提供しないといけないし、政治家も民衆が同じ思想を持っていればいるほど統治しやすくなる。今社会は性の多様性や働き方改革といったことを目指してはいるけれど、本音は人もモノも均質的であった方が扱いやすいしイレギュラーは出来るだけ排除したいという思いが経済を動かす者の中にはいると思う。実際、本作の舞台となった19世紀末のイギリスは働かずとも暮らしていける上流階級、貧困にあえぐ下流階級、そしてその中間の中流階級という三層に大きく分かれており、街の東西で貧富の差が歴然と表れていたというのは5話の感想記事でも言及した通りだ。

経済が発展し国が豊かになればなるほど、社会はより単純でわかりやすい図式となり、その階級に合わせた生き方をしないと社会と適応出来ないから個人的な欲求や願望は抑圧されることとなった。そうやって均質化する社会から排除されたもの、イレギュラーとみなされたものこそが怪物の源であり、こういった社会背景が19世紀末の怪奇文学をヒットさせる土壌になったのだ。

 

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本作で登場する保険機構ロイスは、正に均質化を求める経済社会を代表する組織であり、顧客の財産を守る名目でイレギュラーな存在である怪物を駆除する諮問警備部を保持しているが、怪物を駆除しているようでその実は本来人間が持っている多様性を駆除し、色とりどりでカラフルな思想を一律の白色に変えてしまう危険な組織なのだ。怪物であるはずの〈夜宴〉や〈鳥籠使い〉一行に人間性を感じ、逆に人間代表のロイスに怪物以上のおぞましさを感じるのはそのためである。

 

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そんなレギュラーとしての人間、イレギュラーとしての怪物を考える上で、本作における真打津軽は色々と示唆に富んだキャラだったと私は思っている。彼は最終回でも言っていたように「馬鹿をやるのが仕事」で、落語やジョークで鴉夜を楽しませるのが彼の役目の一つであることは視聴者なら既にご存じの通りだし、鬼殺しとしての戦闘スタイルは突拍子がないというか、相手の意表を突いたものが多い。とはいえ非論理的で無茶苦茶な男という訳ではなく、意外に計算高いし合理的な面もあることは12話でロイスを引きはがすために〈夜宴〉を誘導したことから見ても明らかである。

私の分析だと、津軽は賢くないだけで合理性に関しては鴉夜と引けを取らないのではないかと思っているし、合理性が突き抜けているが故に時としてそれが怪物のような発想に見えてしまう部分がある。別にそれは鬼の血が混じったからそうなった訳ではないだろうし、1話で鴉夜は「生まれながらの人外」と津軽を評しているから、合理性こそ津軽の個性であると同時に彼の怪物的要素でもあるのだ。本来なら人間性として評される合理的な性格が逆に彼の異常性を物語っているのだが、では津軽人間性を示すものは何かというと落語をはじめとする芸の道にあるのではないだろうか。

芸人というと1話の感想記事でも言及したように当時の職業としては卑しい仕事という扱いを受けることもあったし、合理性という面で考えれば芸人に金を払うくらいなら食費・生活費に充てた方がマシという考えがあってもおかしくない。事実、コロナ禍で芸能・芸術は不要不急という扱いを受けた過去があるくらいだから、芸の道というのは非合理的な要素が強い。しかし、合理性の鬼とでも言うべき津軽はそれを摂取することで人間性というものを担保していたのではないだろうか、というのが私の仮説である。

 

そう考えたのは津軽が鬼殺しとして活動していた時期を描いた原作4巻のエピソードを読んでいた時で、この時に私は津軽は鬼の血が混ざる前からある意味怪物的存在であり、落語という芸能を摂取することで人間性を保っていたのではないかという考えに至った。1話で津軽は鴉夜の唾液を摂取することで免疫を高め、鬼に意識が呑まれぬようにしていたが、実は鴉夜と出会う前にもう津軽は自分の中の鬼を抑制する行為をしていたのだ。鬼の血と鴉夜の唾液による免疫が表で拮抗していた裏で、合理と非合理というもう一つの拮抗があった訳であり、津軽はその二つの間を行き来するマージナルマン(境界人)だったということになる。だから人と怪物の間を行き来するという点で津軽は「ゲゲゲの鬼太郎」におけるねずみ男と同じポジションではないかな?と私は思った。

 

ねずみ男も人と妖怪の両方の面を持った半妖怪でどっち付かずの存在として描かれているし、津軽も怪物の血が流れていながら怪物を殺すという点で人間と怪物の両者から疎まれ忌み嫌われる存在だ。しかしねずみ男津軽といったマージナルマンが私たちに教えてくれるのは、私たちの社会は正常と異常を分けたり、弱い者・強い者、勝ち組・負け組といった区分けや棲み分け、レッテル貼りなんかをやっているけど、それは所詮人間の主観や都合で決めているだけで本当は誰にもそんな区別は出来ない。「住む世界が違う」という言葉があるけどその世界は勝手に人間が分けているだけで本当は別にどこに住もうが問題はないし、怪物性というのも人間側の一方的な尺度で決めているだけの話だ。

だから私もこれまで散々人間性とか怪物性の話をしてきたけど、本当はそんなものなど存在しない。全ては自然という大きな括りによってそれはまとめられるものであり、私たち人間社会が自然界における混沌を受け入れられないから、整理整頓をして名前を付けて分類をして、私たちの頭脳で理解出来るようにしたというだけのことなのだ。そして理解出来ないものが怪物や幽霊としてオカルトという箱の中にぶち込まれて来た。そうして今日の人間社会は成り立っているのである。

 

まぁ、原作者の青崎氏はこんな高尚なことを考えて本作を書いた訳ではないだろうし、あくまでも「アンデッドガール・マーダーファルス」は謎解きありバトルありのエンタメ活劇として受け取ればそれで良いが、最後に津軽が崖の上から放った「やっほー!」という山びこの声がホイレンドルフやヴォルフィンヘーレだけでなく遠方にいるはずのルパンやホームズ、切り裂きジャックにまで届いているかのようなあの演出について深読みすると、先ほどから言っているように人間と怪物はお互いに相容れぬ存在として壁を作り住む場所を分けて生きているけど、本当はそんな壁など存在しない。人間も怪物も探偵も怪人も怪盗も、全ては地続きであり隔絶した存在ではない。全てはつながっておりだからこそ人間と怪物の間を行き来する津軽の声が届いたのだという風に解釈出来るのではないだろうか?

 

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そして津軽の山びこは生首となって鳥籠の中に入らざるを得なくなった、つまりは鳥籠の内と外という境界が出来た鴉夜さえも驚嘆させる。鳥籠とそれをおおうベールによって隔絶された鴉夜の世界は、津軽のマージナルマンとしての勢いにより取っ払われ、その世界の複雑さと混沌とした様相をポジティブな笑劇(ファルス)として彼女は受け入れた。この物語の結末を清々しい心持ちで見ることが出来たのは、この世界の混沌をポジティブに前向きに描いたことも大きいだろう。

 

※4:そんな座布団没収の中でも歌丸師匠は全員の座布団を全て没収することがあり、それは俗に歌丸ジェノサイド」として知られている。(↓)

聞くも涙、語るも涙の事件がありました…。 #shorts - YouTube

 

さいごに

さて、これで私のアンファル感想・解説を終える。原作はまだ映像化されていないのが1巻の「人造人間」のエピソードと4巻の5つのエピソード、計6つのエピソードになるが、いずれも時間を空けずにアニメでやるとなると過去回想、つまりはエピソード0という形でやるしかないので、人狼編以降の物語は原作者がどれだけ執筆出来るかにかかっている。一応原作4巻の末尾には次のエピソードが「秘薬」であると予告されており、4巻が今年発売されたから5巻は早くても来年、遅いと数年先に刊行されることになりそうだ。恐らく次に出て来るのはジキル博士とハイド氏と予想するが、また最新刊が発売された際に、当ブログで5巻の感想が書くことが出来たら良いなと思っているのでその時はまたよろしくお願いしますね。勿論、アニメの続編も待ってますよ!

呪いと宗教と政(まつりごと)【ダークギャザリング #12】

来月から2クール目に突入。2クール目の展開を示したPVがアップされたので見たけど、割とセンシティブなあのエピソードもちゃんとアニメ化されるということがわかって俄然楽しみになりましたね。

 

「H城址-卒業生」

前回に引き続きH城址での霊との戦いとなる12話は、遂に夜宵の所有する破格の悪霊「卒業生」のお披露目となる。

今回お披露目となったのは、神が原因で共食いが生じた夜宵の部屋で誕生した僧侶の悪霊「邪経文大僧正」(以下「大僧正」と略す)。聞いた者全てを地獄に叩き落とすお経を読み上げ、そのお経を聞いた者もお経を唱えるため、本体となる「大僧正」を完全に封印しない限りお経の呪いが止まらない。夜宵は味方として「大僧正」を利用しているが、対処法を誤れば味方も殺すという点で卒業生の危険さを視聴者に見せつけた。2クール目にも「大僧正」とは別の卒業生が出て来るが、いずれの霊も取り扱い注意という点に変わりはない。

 

そんな訳で今回はこの「大僧正」に関する話をしたいと思うが、先に言っておくと「大僧正」はこの後登場する他の卒業生と違い、作中で霊になるまでの過去・背景が語られていない。何故人々を地獄に落とすお経を、それを笑いながら読むのかという謎を読み解くには、お経が敵を倒す武器として扱われるようになった時代背景を知る必要がある。

 

朝敵調伏のために利用された宗教

本来お経というものはその宗教における真理や世界の理を文字として書き記した巻物であり、宗教者はそこから得た知識をわかりやすく噛み砕いて一般民衆に布教するというのが勤めである。しかし時代が経つにつれ、お経は唱えるだけで功徳があるとか、悪霊を鎮め祓う効果があるといった具合に宗派によって別の使い方が発明され、ある種の武器のような扱い方をされるようになった。

 

そもそも宗教が武器・戦力として扱われるようになったのは政治との関係が大きい。平安時代、疫病や災害は死んだ人の怨霊によるものと考えられ(御霊信仰)、時の朝廷は死者の報復を非常に恐れた。そしてそんな怨霊を鎮めるために権力者たちが利用したのが真言密教の力である。

www.kurusonzan.or.jp

真言密教では三密加持、つまり仏と我々人類が互いに身体・言葉・心の三点で感応した時に悟りの世界が開かれると説いており、怨霊に対抗する手段として用いられた修法も宇宙に存在すると言われている仏たちのパワーを借りて行うものとされている。だから僧侶は全身全霊で修法に臨まないといけないし、それによって仏たちから得たパワーで僧侶は怨霊・悪霊を鎮めたり祓うことが出来るという訳である。

 

怨霊に対抗する手段として用いられた修法は、死んだ霊だけでなく生きている人間にまでその対象が向かう。その代表的な例となるのが平将門の乱であり、平将門が新皇として独立政治を始めた際、国家転覆を恐れた朝廷は各地の寺に大元帥を行うことを命じ、それによって将門を調伏しようと目論んだ。大元帥法とは平たく言うと呪術の一種であり、その当時の権力者たちは呪いを国家プロジェクトとして公的に行っていたのだ。鎌倉時代だと蒙古軍襲来の時に大元帥法が行われたと記録されているし、後醍醐天皇も倒幕のために明王を祀って修法を行ったと言われている。

 

このように呪いと宗教が政治と濃厚に結びついていた時代、修法を実行する寺や僧侶も普通にやっていては朝廷から褒賞はもらえないし、寺として高い位をいただくためには通常の修法における護摩壇ではいけないと、修法にパフォーマンス性やアピール要素が必要となってくる。

将門調伏の際、ある寺では80人以上の僧侶が7日間も真言を唱え続けたという記録が残っているが、こういった通常とは違う修法を行い敵が死んだとなれば、それだけの能力がある寺として国からも認められるし民衆もそういった力のある寺を必要とする。そうなれば僧侶たちは宗教者として信仰を布教しやすくなるのだから、宗教者が政治と結びついて敵を調伏するという行為には宗教者側にもメリットがあったということになる。

鎌倉時代に入り貴族から武士へと政権が移行すると、呪術で相手を呪わずとも実力で敵を倒せるようになり、やがて宗教は政治と切り離されることとなった。そして呪術は政治から民間へと活躍の場を移すことになる。

 

さて、以上の政治と宗教の歴史を踏まえて今回の「大僧正」の背景について考えてみたいと思うが、「大僧正」も敵を調伏するための修法に携わっていた僧侶ではないかと推察されるし、生前は聞いた相手を地獄送りにする経を用いて数々の敵を調伏して来たのではないだろうか。

しかし力のある者は敵方にとって脅威となる存在であり、危険人物として真っ先に殺される。かつて中インドで生まれた曇無讖(どんむしん)という僧侶は、水の無い枯れ石から水を湧き出させて王(沮渠蒙遜)の喉の渇きを潤したというエピソードが残されており、呪術に秀でた者であったと記録されている。しかし、その法力の高さゆえに王は彼を警戒し、ある時敵国である北魏が曇無讖を迎え入れようとした際、王は刺客を雇って曇無讖を殺害したそうだ。

 

「大僧正」が敵を確実に調伏する能力の持ち主であり、それを恐れた権力者によって殺された者だと解釈すれば、「大僧正」もH城址の霊と同様に政争に巻き込まれた犠牲者と言えるのかもしれないが、H城址の霊と違うのは調伏すること、つまり敵を狩り討ち取ることに快楽や愉悦を覚える者であり、宗教者でありながらそこに執着したから今こうして悪霊として堕ちたと考えられる。仏教において執着は断つべきものなのに、そこに囚われているのだから、そりゃ悪霊になって当然である。

 

さいごに

今回は宗教と政治という観点から「大僧正」の背景を探る考察となったが、怨霊に対抗するために宇宙に存在する仏のパワーを利用するという部分は本作「ダークギャザリング」における戦い方に通じる所があって、そういう学問的な所から見ても面白さがあるからこの作品が好きなんだよね。初見の時はH城址の霊と「大僧正」にリンクする所が見出せなかったのだけど、今回考察して政争に巻き込まれた犠牲者という共通項が見出せたのは一つの収穫になったと思う。

なお、今回の宗教と政治に関する歴史背景はNHKBSプレミアムで今年の7月6日に放送されたダークサイドミステリー「“呪い”...人はなぜ呪うのか?〜呪術大国ニッポンの闇〜」を参考とさせていただいた。

結局H城址の霊は悪霊ではなく呪物によって悪霊化した善霊だったということが判明したが、2クール目ではH城址を魔窟に変えた闇の組織が姿を現す。その目的も徐々に明かされるだろうから、原作未読の方はそこも注目してもらいたい。

 

さて、これで1クール目が終了したので一応この段階でのまとめ感想を述べておくが、この1クール目は「ダークギャザリング」の基礎を丁寧に描いた内容となっており、霊の捕縛・調教・保管といった夜宵の目的と行動を明らかにし、作品内における霊の法則(食べられたらどうなるか・エネルギーはどうやって得ているのか)をこの段階で詳しく説明することで2クール目でのバトルのテンポ感を崩さないよう構成されている。それだけにやや物語として地味で今一つパッとしないと感じた人もいたかもしれないが、この1クール目におけるウォーミングアップによって2クール目は加速的に物語が恐怖と緊張感を伴って展開される。選択や判断をちょっとでも誤れば待ち受けるのは壮絶な死であり、だからこそこの1クール目で夜宵・螢多朗・詠子(+愛依)の関係を盤石なものにする必要があったと考えれば、夜宵と螢多朗が唯一無二のバディになったことや螢多朗と詠子が友人から恋人に発展したのも納得である。関係が盤石でないと到底悪霊・怨霊に挑める訳がないからね。

 

2クール目は捕獲ターゲットとなる怨霊・悪霊と「卒業生」とのバトルがメインの見所となるが、互いの能力がぶつかり合うバトルとしての面白さは勿論、誰と誰が戦うのかという面にも注目すると面白い発見があるのではないかと思っている。

自然との協和、不自然な親孝行【ゾン100 #09】

ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~(4) (サンデーGXコミックス)

これからまた面白くなるって所で10話以降の放送が未定なのは勿体ないな。

 

「ツリーハウス オブ ザ デッド」

今回は原作の14話「ツリーハウスオブザデッド」から15話「ホームタウンオブザデッド①」までの内容。遂に地元群馬の生まれ育った村へと辿り着いたアキラ一行、前半はその道中で出会った熊野という大工と共に森にツリーハウスを建てるという展開で、後半は実家へ戻ったアキラが親孝行をすべく動き出す…というお話だ。

内容はほぼ原作通りだが、この回から日暮莞太ひぐらし・かんた)という男が登場。彼は村に大騒動を巻き起こす悪役であり、その背景は今回描かれていたように社会に対する逆恨みから来るものだ。アキラはゾンビ禍によって自由を獲得し正の万能感に満たされた男だが、カンタはその逆で何をやっても捕まらない(犯罪者として処罰されない)という負の万能感に満たされた男として仲間を引き連れ、闇のゾン100を達成すべく村に波乱を巻き起こす。それが10話以降で展開される物語となるのに、ここで放送がストップするのだから全く酷な話だよ。

 

ゾンビもまた自然なり

正直な所、今回は原作の「ツリーハウスオブザデッド」だけで30分やられたら何も感想が思いつかなくて頭を悩ます所だったが、「ホームタウンオブザデッド①」まで映像化されたおかげで、何とか今回読み解くテーマがしぼり出せた。

前半の熊野とのツリーハウス建設において熊野は「わからないことは全て森に聞けばいい」と語った。一般的に建築物を建てる時は木を伐採して土地を平らにならし、その上にコンクリ・鉄筋の建造物を建てるというのが現代社会の方法だが、ツリーハウスの場合は今その土地に植わっている木を大切にしながら、その木や周囲の環境に適したツリーハウスを建てる。要は木を中心にして周囲の環境と協和的関係を育みながら建てるのがツリーハウスという訳である。

 

そういや「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎の家もツリーハウス形式だったな~と思いながら見ていたが、自然との協和と言うと聞こえは良いが自然は必ずしも我々人類にプラスの効果をもたらさない。海だと津波、山だと土石流といった自然災害があるし、大雨・台風・地震・竜巻といった具合に自然は我々にとって脅威でもある。そう考えると、本作におけるゾンビ禍も一種の自然の脅威であると考えることは出来ないだろうか?

勿論今の段階ではゾンビウイルスが人為的に撒かれたものなのか、それとも自然発生した病原体なのか、それすらハッキリしてないので何とも言えないのだけど、この災いを自然として捉えた時に人類はどう対処するのか、そこが一番の問題となる。西洋の場合は自然を支配することに重点を置き、その代表的な例として噴水や庭園が挙げられる。噴水は本来の水の流れではあり得ない方向に水を噴出させる装置だし、西洋の庭園は生垣や樹木を真四角や真ん丸に刈り込んで人工的な庭園にしている。

一方東洋は庭を作る時も西洋のように人工的な庭にせず、出来るだけ自然に近い状態の庭園を作るし、枯山水は石で流れる川の水を再現する。水を引いて川を作ればその場の自然環境が大きく変わってしまうことを考えると、枯山水は自然を出来るだけ捻じ曲げずに川を作るというユニークかつ環境にもやさしい(?)発想だと思うがどうだろうか?

 

そんなことがボヤボヤと頭に浮かび、では日本で実際にゾンビ禍が起こりこれを自然として捉えた場合果たして人類はゾンビと協和的関係はとれるのだろうかと、そんな変なことを考えた次第である。まぁ流石に今の日本はかなり西洋的要素が強くなったからゾンビとは協和的関係をとることはないだろうけど、昔の日本では疫病が流行った時に様々な非科学的対処法がとられたことを参考に考えれば、たとえ科学文明が発達した現代日本でも昔の日本で発明されたような変な風習や文化が生まれるのではないかと思う。

 

親孝行って不自然じゃないですか?

別にアキラの帰郷目的に水を差すつもりはないし、「べき」の呪いではなく本人が純粋にやりたいと思って親孝行していることは確かなのだけど、私は親孝行って今の価値観には合ってない道徳的概念じゃないかなと思ってしまう。

そもそもこの「孝行」という概念は儒教の教えによるもので、子供が自身の親を敬い支えるべしと説く道徳的概念を指す言葉だ。つまり、2000年以上も前の家父長制家族が社会を構成していた時代に考えられた概念であり、今の核家族・少子高齢社会の日本でも通用する概念とは正直言えないと私は言いたいのだ。

昔は平均寿命も短いから親もボケる前に死ぬし介護問題といったことも恐らくないから親が子供にとっての負担になるということもない。今の日本を見て孔子が「それでも孝行は大事」とか言ったら私はハッキリ言って頭の固いオジンやなって思いますよ。

 

アニメ本編の描写を見ながらこの親孝行の不自然さを考えると、アキラが考える親孝行は食器を洗ってあげる、滅多に食べられないお土産をプレゼントする、肩を揉んであげるといった感じで、これ自体は善行だし間違っているという訳ではないけど、コミュニケーションとしては一方通行で対話がないし、恩着せがましいとさえ感じる人がいてもおかしくないだろう。

それに、親孝行はやり方を間違えると親がそれまでやっていた日常を奪うことにもなりかねない。これまで出来ていたことをやらせない、或いは出来ないようにするというのは親本人にとっては寂しいことになるかもしれないし辛いことになるかもしれない。優しくするのは大事だけど優しさで相手を拘束するのは問題ありだ。

だからこそ私は一般的に良い行いとされている「親孝行」という概念に凄く違和感を覚えるし、それゆえ親孝行をする際はもっと慎重に考えないと人間としての尊厳を奪ってしまうことになるのではないか…と思ったのだ。

【最終回】四人が選んだ"依存"と"逃避"【ノッキンオン・ロックドドア #09】

四年前、私はこの原作はドラマにピッタリの作品だと言っていた。

そして四年後の今、このドラマは最終回を迎えた。

原作読了から四年の待望と二ヶ月ちょっとのドラマ放送を経た訳だが、それでは最終回の感想を語っていくこととしよう。

 

(以下、原作を含むドラマのネタバレあり)

 

「ドアの鍵を開けるとき」

ノッキンオン・ロックドドア2 (徳間文庫)

最終回は原作2巻の最終エピソードである「ドアの鍵を開けるとき」。シリーズの縦軸として倒理・氷雨・穿地・糸切の四人の間でパンドラの箱の如く扱われてきた6年前の密室殺害未遂事件の謎を解く物語で、何故彼ら四人が探偵・刑事・犯罪コンサルタントの道へ進むことになったのか、彼らの知られざる裏の物語がこのエピソードで明かされる。

ドラマは約30分でこのエピソードを描いたため細かい部分が省略されており、特に原作でじっくり捜査の過程を描いた「連続ボウガン事件」はダイジェストとして省略されている。省略されたのは少々残念ではあるが、このエピソードの本題はこの事件ではなく密室殺害未遂の方なので、この省略は妥当と言ったトコだろう。

 

今回はこれまでに比べると改変はほとんどなく、ボウガン事件の容疑者である杵塚が君塚という名になっており、保険金目当てで両親や関係者を殺害したという設定が追加され、原作以上に悪辣な人物として描かれている程度だ。原作の杵塚はあくまでも犬殺ししかやっておらず犯罪としては軽いものだったが、ドラマは君塚を法の網をくぐり抜けた犯罪者として強調しており、だからこそこの後起こる密室殺害未遂事件にも重みが出て来るという点で、この改変は原作の補強になっていると評価して良いだろう。

 

さて、倒理が被害者となった密室殺害未遂事件の謎はこの二つ。

〈How〉犯人はどのようにして現場を密室にしたのか?

〈Why〉何故犯人は現場を密室にしたのか?倒理が壁に書いた「ミカゲ」は何を意味するのか?

部屋の扉と窓は内側から鍵がかかっており、ドアの鍵はコタツの上にあったコーヒーの中に浸かっているというシンプルなもの。鍵は普段電灯の紐に吊るしてあったはずなのに、電灯の紐が切れてカップの中に浸かっていたことが、事件解明の手がかりとなる。

 

探偵は事件を「解決」しないといけない

原作未読の方のために原作者の青崎氏が Twitter で補足説明をしていたが、この事件の直前に糸切と倒理は二人で探偵業をやろうと話しており、穿地は一族が警察出身者のためそれに倣って警察の道へ、氷雨は製薬会社の営業部に就職するはずだった。しかしその運命を狂わせたのが密室殺害未遂事件であり、連続ボウガン事件に関わらなければ予定通りの道を進んでいたかもしれない。

そんな彼らの運命を狂わす原因となった連続ボウガン事件で描かれたのは「法の網をくぐり抜けた犯罪者」に加えて「真実は告げられるべきか?」というテーマも横たわっている。これはミステリの女王アガサ・クリスティも晩年のポワロシリーズで取り扱っているくらいミステリにおいては定番のテーマであり、善悪を考える上でも重要となる。

本作では犬を殺された被害者遺族である杉好に犯人と真相を伝えるべきかという点で四人の間で意見が衝突する。倒理は被害者遺族に真実を伝えるべきという意見なのに対し、他の三人は真実を伝えて杉好が君塚を殺害したら結果的に犯罪を後押しすることになる、確たる証拠がないのに軽率に真実を伝えてはならないという意見で反対する。

真実を伝えねば犯罪者を見逃すことになり、真実を伝えたら新たな犯罪者を生むことになるかもしれないという正に究極の二択問題。ドラマや原作を見た方は既にご存じの通り、結果真実は遺族に伝えられたのだが、この事件で糸切美影は自分が探偵に向いていないと悟る。

探偵は「推理」だけでなく事件を「解決」しないといけないのだと

 

「探偵は事件を解決する者」という定義は2017年にフジテレビで相葉雅紀さん主演でドラマ化した貴族探偵(原作は麻耶雄嵩の同名作品)においてそれがユニークな形で提示されていたのでそれを元に話をするが、「推理」というのは老若男女問わず誰でも出来る行為・能力であって、探偵の本分ではない。探偵は事件を解決することが本分であり、解決に導けるのであればいかなる手段を用いても構わない。使えるのなら超能力でも良いし、極端な話アウトローな手段をとったとしても、依頼人の希望に沿う形であれば、過程は問題にならないのだ。

そして「解決する=真実を明らかにする」ことではない依頼人が真実を求めているのならともかく、そうでない場合もある。これは先述したアガサ・クリスティの某作品でも描かれており、必ずしも真実を公にすることがプラスになるとは限らない。推理から導き出した答えをどう取り扱い解決に導くか。それこそ探偵が最も重視すべきことなのだ。

 

以上のことを踏まえると糸切が探偵に向いていないと悟ったのも理解出来る。彼は推理力に関しては四人の中でも抜群であったが、解決に導くという肝心の能力が欠けていた。いや、能力が欠けていたというよりは解決する際に生じる探偵としての責任を背負い込めないと言った方が正確だろう。解決が全て良い結果になるとは限らないし、依頼を受けたことが切っ掛けで誰かに恨まれたり、誰かの人生を壊してしまったりと新たな悲劇を生むことだってある。探偵とは誰かの人生に深く関わる仕事なのだから、そこに介入するには相当の覚悟と責任がいる。その責任を背負いこむだけの心の容量が糸切美影には無かったというだけの話だ。

 

かくして糸切は手段だけを提供し、その後の相手の人生や成り行きには干渉しない犯罪コンサルタントの道を選んだ。原作でも彼は「身軽さ」を重視しており、背負いこむものは少ない方が良いと言っていたが、責任から逃避したとはいえ完全犯罪を目論んだり悪を栄えさせようといった意識はない。倒理や氷雨・穿地に不可能犯罪をお題として出している辺り、ビジネスとして完全犯罪は提供するが、犯罪は暴かれるべきであるという矛盾した倫理観があり、歪んではいるが彼なりの正義感として三人に依存していることは事実だ。

 

原作では糸切が6年前の事件を今になって明らかにしようと思い立った理由が不明でそこがモヤっとしたポイントだが、ドラマでは前回の検事射殺事件で穿地が刑事を辞めることになったので、自分切っ掛けでかつての仲間の人生を狂わせたことに罪悪感を覚えたのか、6年前の事件を明らかにして彼女の決意を思い止まらせようとした、という形で描かれている。彼なりの罪滅ぼしということもあるだろうが、穿地が刑事を辞めてしまったら自分が提供した犯罪計画が完全犯罪になってしまう恐れもある。だから彼女を警察組織に留まらせておきたいのだという利己的な考えも多少はあるかもしれない。

 

贖罪としての探偵

糸切も歪んでいたが、倒理・氷雨の歪みもなかなかのもの。殺意が無かったとはいえ氷雨は倒理を傷つけ、倒理は傷が深ければ死んでいたかもしれなかった。そんな加害者側の氷雨が二人で探偵をやろうと提案し、被害者側の倒理はそれを(条件付きとはいえ)受け入れたのは第三者から見ると異様としか言いようがない。

 

恐らく氷雨の理屈としては、自分が糸切という名探偵を倒理から奪い糸切を犯罪の道へ歩ませてしまったことに対する贖罪の念から探偵業の提案をしたと考えるべきだろうか。そして自分が探偵として事件を解決することによって罪滅ぼしをしていくという思いもあるだろう。糸切と密会していながら彼を倒理や穿地に突き出さなかったのは、自分が罪を犯した人間だからその資格がないという認識あってのことだろう。

一方の倒理は友人を犯罪者にしたくなかったということに加えて、感情的な問題を扱うと暴走してしまうことを今回の一件で自覚したというのも大きい。理性的に考えれば氷雨ら三人の意見が正しいのに、自分ごととして被害者側の心に共感し寄り添い過ぎてしまうのはビジネスとして探偵をやる上では欠点になりかねない。だから彼は感情的な問題、つまりホワイダニットという動機からは距離を置いてその分野を氷雨に一任するという形で探偵をやることに決めたのだろう。

 

この最終回の内容を踏まえて初回の画家密室殺人事件を振り返れば、倒理が何故傍若無人な振る舞いをしたのかわかる。彼は人の心がないから傍若無人なのではない。むしろわかり過ぎるから人との心理的な距離をとることに必死という感じなのだ。それは事件解決後の由希子夫人との会話からもうかがえることで、多分6年前の倒理だったら由希子夫人のやった一種の完全犯罪――夫と息子を犠牲にして画家に返り咲く――に怒りを示したと思う。あのように冷静に対処出来たのは氷雨との一件があったからだろうし、あの時に彼は清濁併せ吞むことを身をもって学んだと考えられる。

 

糸切は責任から逃げ、倒理は感情と距離をとり、そして氷雨は贖罪という形で倒理に依存をした。この三人の病的な歪みに比べれば穿地はまだ健全というか一人だけ蚊帳の外に近い状態だったので変に歪むことがなかったと思う。とはいえ彼女も完全に独立・自立した人間という訳ではなく、謎解きには倒理と氷雨の力を頼っている部分はあるし、そういう点では依存していると言える。まぁ男三人の病的な依存関係に比べたらドライな依存なのだけど。

 

総評

さて、これで四人が抱えていた事件の謎が明かされ、それぞれが今の道を歩むことになった理由についても以上の分析の通りである。「穿地は糸切だけでなく倒理や氷雨もぶん殴って良い」という感想を見かけたけどホント「それな」としか言いようがないわ。

 

これでドラマも終わりということで最後に総評としてこのドラマの評価をすると、まずこれまで当ブログで何度も言及してきたように、脚本による原作の改変が実に秀逸で毎回毎回ちゃんとドラマとして意味のある改変をしていることが読み解けて、こうしてブログで詳しく解説が書けたのは私にとって楽しくもあり嬉しいことだった。

原作は一話一話が単なる謎解きだけのミステリなのに対し、ドラマは単なる謎解きだけで終わらないミステリとして描かれたのは、やはり小説と映像作品という媒体の違いも大きく関係していると私は考えている。小説の場合は1つがさほど重みのない短編であっても、それが短編集という一冊の本になればまとめて7つ(2巻は6つ)のエピソードを読めるから充実度の高い作品となる。しかしドラマは小説と違い連続で次のエピソードを見ることが出来ないし次のエピソードが放送されるまでに一週間時間が空いてしまう。そのため、一つのエピソードをそのまま原作通りやってしまうと謎解きだけの軽いミステリとして視聴者の印象に残ってしまう。だからこそ一つ一つのエピソードに原作にはない犯行動機や設定を加えて重量感のあるミステリにしたと私は思っている。

 

また今回ドラマ化されたエピソードも適当に選ばれたのではなく最終回の6年前の事件につながるようなエピソードがチョイスされているのも見逃してはならない。

2・3話の議員毒殺事件は氷雨が探偵になった動機に関わる「贖罪」が重要なワードになっていたし、4・5話の女子高生失踪事件では最終回の真相につながる布石として「倒理がいなくなったら僕は追いかけるけど、僕がいなくなっても追いかけないで」ということを氷雨に言わせた。7・8話の検事射殺事件は本来自分に関係のない事件に関わったことで別の悲劇が生じたという内容になっており、これは6年前の密室殺害未遂事件の構図と似ている。6話は制作側が映像化したかったミステリということで最終回にリンクする要素はないけど、1話に関しては倒理が土足で四ノ宮家にあがって氷雨に注意される場面があり、最終回では逆に氷雨が倒理の部屋に土足であがって注意されている。初回に敢えて氷雨の常識人的要素を強調しておくことで、最終回において氷雨の異常性というか常軌を逸した面が際立つのだから、この対比的演出は連ドラならではで良かったと思うよ。

 

演技面に関しては私は素人なのであんまりエラそうに言える知識はないが、松村さんも西畑さんも原作の倒理・氷雨のキャラを見事に演じていたと思う。実を言うと YouTube のなにわ男子公式チャンネルで普段の西畑さんの様子を見ていたので、いざドラマで西畑さんが氷雨を演じているのを見ると「何かキザったらしくカッコつけてるな~…ww」という風に最初は思った。しかしよく考えれば氷雨は当初から探偵になろうと思ってた訳ではなく贖罪の念から探偵になった人間なので、ナチュラルではなくどこか背伸びをして探偵らしく振る舞っている様氷雨の演技として実は大正解であり、原作既読だったからこの演技プランについては割と早い段階で見抜けたのではないかと思っている。

 

ということで、長くなったがこれにてノキドア感想・解説を終える。出演者をはじめとするスタッフの適格な仕事によってノキドアは当初の予想を超えたクールでスタイリッシュな、それでいて面白い本格ミステリドラマとなって原作ファンとして満足です。シナリオブックもDVDも購入しますし、続編も是非やってもらいたいですね!

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(最終回当日に「あつまれどうぶつの森」でノキドアの事務所を再現してみました)

痛みに鈍感になる勿れ【アンデッドガール・マーダーファルス #12】

私が小学生の時に住んでたマンションで蛾が大量に発生するという事件がありまして、壁の至る所に枯れ葉色の蛾が止まっていたのが今もなおトラウマとして覚えている風景です。だから今回の蛾のシーン、まぁまぁキツかったですよ。

 

(以下、原作を含むアニメ本編のネタバレあり)

 

「流れの交わる場所」

今回は原作の262頁から384頁(第19節「濃霧ときどき人造人間」の続きから第27節「静句とカーミラ」)までの内容。細かい台詞や回想場面などをカットして上手い具合に約120頁分を1話としてまとめた12話は、鴉夜と津軽人狼村に潜入、ノラの殺害現場の検証、ルイーゼの死体発見、そしてとうとうホイレンドルフとヴォルフィンヘーレ間で戦争が勃発し、保険機構ロイスや〈夜宴〉も加わって混戦の様相を呈する結果となった。

 

鴉夜の捜査によって人狼村に隠し通路があり、地下洞窟からホイレンドルフの見張り塔へ抜け出せることが判明した訳だが、一応補足説明をしておくとあの岩に仕掛けを施したのはかつて人狼と同じ土地に生息していたドワーフ族であると原作で述べられている。これで妊娠中のローザがホイレンドルフに辿り着けた理由も説明がついたし、少女たちが殺された実際の犯行現場が地下洞窟であることも判明した。

金田一耕助ファイル1 八つ墓村<金田一耕助ファイル> (角川文庫)

今回のような農村を舞台にしたミステリで地下洞窟を見るとやはり思い出すのが横溝正史八つ墓村である。『八つ墓村』は鍾乳洞だったけど、地下に湖があるというシチュエーションは『八つ墓村』の鬼火の淵を連想させるし、犯人と思われていたアルマの死体が発見されたが、『八つ墓村』でもこれと同じような場面がある。また、ホイレンドルフとヴォルフィンヘーレ間の戦争は、『八つ墓村』の終盤で起こる村内での暴動を彷彿とさせるものがあり、そういったオマージュネタが散見されるのも12話の注目ポイントの一つである。

 

そして、アンファルの見所の一つである暴パートも展開され津軽は今回本格的に人狼とやり合う形となったが、津軽が今回披露した相手の口に拳を突っ込んでみぞおちを蹴り上げるという技は原作だと「酔月(すいげつ)」と呼ばれており、津軽が半人半鬼になる前、つまり鬼殺しとして活動していた頃に先輩から聞いて知った鎧通しの技である。

喉奥に拳を突っ込まれると身体はそれを吐き出そうとするから口が閉じられなくなる。そして口が開いたままだと歯を食いしばれないので身体が弛緩し、そんな緩んだ腹を蹴り上げられるのだからひとたまりもない。捨て身の狂気と身体的な合理性が合わさった技という点では津軽にピッタリな技ではないだろうか。

 

怪物の条件 ―― 痛みに鈍感になること

今回の物語では前回の感想記事で言及した二重の報い人狼村に降りかかり、〈鳥籠使い〉・〈夜宴〉・ロイスといった異形のよそ者がなだれ込んだことで村は地獄と化した。あの岩に仕掛けられた地下洞窟への入り口もドワーフの復讐心を象徴するものだったことになるが、今回は原作を読んでいた時には思いつかず、アニメ本編を見て閃いた怪物の条件についてお話したい。

 

これまで私は怪物の条件として「よそ者」を挙げたり、怪盗ルパンやオペラ座の怪人ファントムといったその時代の権力に背く者(=まつろわぬ民)も怪物の条件に当てはまることを指摘してきた。怪物というのは肉体だけでなく精神も常人から逸脱した人間を指すということは二章の「ダイヤ争奪」編を見れば十分わかることだし、怪物として描かれたものの中には人間が表沙汰にはしたくないダークな感情だったり性的嗜好が盛り込まれることが多い。そういう意味で、怪物を読み解くことは人間を読み解くのと同義だと言えるだろう。

 

そしてそんな怪物の条件として今回注目したポイントは「痛み」だ。そのヒントとなったのが、今回の冒頭で鴉夜と津軽の前に現れた人造人間のヴィクターである。

公式HPのキャラクター紹介によるとヴィクターは「超人的な筋力を持ち、痛みも感じない」と記されている。身体は動かせるのだから神経は通っているのは確かだが痛覚がないようであり、現にアリスの銃弾を胸に受けてもビクともしないのだから血液循環といった身体構造が通常の人間と違うことは間違いないだろう。

 

では「痛みを感じない」というのは一般的な人間にない能力なので怪物の条件の一つに当てはめて良いのかと考えるとそこは慎重に考えないといけない。人間には先天性無痛無汗症※1という難病があるのだから、「痛みを感じない=怪物」などと言ってしまうとそれは差別につながるし、そんな表層的な定義を今回話すつもりは毛頭ない。「痛み」を考えるヒントとしてヴィクターと合わせて人狼のことにも触れないと私の言いたいことは伝わらないだろう。

 

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人狼は既にご承知の通り毛皮の防御力が高く刃や銃弾を通さない。そして五感が鋭いため嗅覚・聴覚で相手の居所を探し出せるのだから、正に強敵である。しかしそんな優れた身体能力も裏を返せばこう表現も出来る。

防御力が高いということは痛みに鈍感である

そして、五感が鋭いがゆえにその能力に頼り切って思考がおろそかになるというのは、ブルートクラレが地下への隠し通路の入り口を見つけられなかったことから見て一目瞭然である。どこかが優れれば、どこかが劣る。全てが優れるということはまずあり得ないことなのだ。

 

しかしこういった自分自身の欠落・欠陥というものは往々にして見て見ぬフリをしたり、自分の欠落なのにそれを誰かのせいにするといった形で無いことのように扱ってしまうのが心の流れというもの。それを象徴するのが人狼編におけるレギ婆やブルートクラレのリーダーであるギュンター青年である。

レギ婆の耳にはピアスを通すための穴が開けられており、ギュンターの身体には赤い刺青が他の青年たちよりもずっと多く彫られている。ピアスも刺青も、どちらも身体に施すには「痛み」を伴う。原始的な部族の中にはこういったピアスや刺青を施し、その痛みに耐えることで成人として認められる部族がある。特に人狼は一種の戦闘民族でもあるから痛みに耐性がつくというのは種族としての誉れであり、ギュンターの身体の刺青はそれだけ多くの痛みに耐えたという強い人狼としての象徴になっているのだ。

 

ただ、レギ婆やギュンターのような痛みに耐えた者たちは「自分が耐えられたのだから他の者にも耐えられるはずだ」という思考に陥りやすい。そして痛みに耐えられない者、或いは痛みから逃げようとする者は未熟であり人狼として恥である、というのがヴォルフィンヘーレという共同体ならではの思想であり村に漂う空気感なのではないだろうか。

この「痛みに鈍感になる」という問題は肉体だけの話ではなく精神にも関わってくる。自分の痛みと他者の痛みが同じとは限らないのに、自分の尺度で相手の痛みを判断して「その程度で何泣き言言ってるの?」と責めるのは自分の痛みだけでなく他者の痛みにも鈍感になるということだ。あまり詳しく言うとネタバレになるが、この「痛みに鈍感になる」ということが今回の一連の事件の犯人の動機ともつながってくるので是非とも覚えていてもらいたい。

 

さて、以上のことから私は「痛みに鈍感になる」というのが怪物の条件だと定義づけた訳だが、「鈍感」というのが重要なポイントで、ヴィクターの場合は当初から痛みを感じない身体だからこそ、自分自身の欠落を把握している。※2つまり自分にない痛み・苦しみといった肉体感覚を他の人は持っているということが理解出来るし、それゆえ彼は怪物でありながら人間性を担保出来ているのだと私は思っている。

むしろ、痛みや苦しみを知っている我々人間の方が精神的に怪物である場合が圧倒的に多く、例えばロイスのエージェントの一人であるカイルは醜さを忌み嫌い怪物を狩るという行動原理があるのだが、これなど醜さゆえに迫害される者の痛み・苦しみに鈍感だから為せる所業であり、その鈍感さは怪物としてカテゴライズしても良いだろう。

 

※1:先天性無痛無汗症(指定難病130) – 難病情報センター

※2:これを端的に示したのが、ソクラテス無知の知という言葉だ。

「無知の知」とは?大学教授がソクラテス哲学をわかりやすく解説【四聖を紐解く④】|LINK@TOYO|東洋大学

 

さいごに

ということで今回は「痛み」から怪物の条件をひねり出した感想・解説となった。人狼が怪物なのは何も身体能力の高さではなく、その高さゆえに鈍感になった知性・思考こそが怪物的ではないかというのが私なりの答えである。

「痛み」ついででもう一つ言っておきたいことがあるが、痛みを感じられない原因にはアドレナリンの分泌が関係している。人間は興奮状態の時にアドレナリンが分泌するが、アドレナリンには血圧や心拍、血糖値を上昇させる作用があり、それによって痛覚が麻痺するのだ。今回の終盤、ホイレンドルフの村人たちは正に興奮状態に陥っており、痛みに鈍感になっていたからこそ人狼にも物怖じせず殺しにかかれたことを思うと、あの場面はホイレンドルフの村人が怪物化したのだと読み取ることが出来よう。

痛みがあるから人は病や死を恐れ、おのれの弱さ、そして誰もが弱き者であることに気づく。痛み・苦しみが慈悲という感情とつながるのは医療や看護の世界※3を見ればわかることだし、経験したことがない痛み・苦しみに対してはどうしても鈍感になってしまうからこそ、我々人類は戦争や疫病・災害といった歴史を記録してその痛み・苦しみを継承する必要がある。それを放棄した時、人類は人でなしの怪物へと堕ちるというのが私の意見だ。

 

さぁ次回は最終回。この長いようで短い旅も終わりを迎えるが、本格ミステリとして私が原作未読の方に問いかけるのはこの三点。

1.犯人は誰か?

2.ルイーゼが誘拐された現場から導き出せる答えは?

3.何故犯人は二つの村で犯行を行ったのか?

1に関してはまぁ推理は出来なくとも何となくあの人かな?という予想は立てられるだろう。ただ今回の事件は一章の吸血鬼編のようにフーダニットがメインの話ではなく犯行動機、つまりホワイダニットがメインの謎となっているのでそこを中心に考えれば犯人が弄したトリックも推理出来るだろう。勿論、手がかりは9話から今回の12話までの中に全て出揃っている。

 

バトル面では静句とカーミラの因縁のリベンジマッチ、アリス対クロウリーの飛び道具対決、カイル対ヴィクターの美醜対決の計三つの対戦が見所となるが、最終回で謎解きと同時並行でバトルを描くとなると、バランス良くやらないとバトル描写が尻すぼみになるか、もしくは謎解きが消化不良になってしまいそうなので、ここは演出と脚本の力量が試されるだろう。

 

※3:ホイレンドルフの村人たちが人狼村を襲撃した際、ハイネマンだけその地獄のような状況に怯えていたのは彼が人の痛み・苦しみに向き合う医療従事者だったからではないだろうか?