タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ etc.)

【ブログ再開のお知らせと報告】当ブログは今後一切水木しげる先生に関連する作品の批評・議論は行いません

どうも、お久しぶりです。タリホーです。

 

約1ヶ月ほどブログでの執筆活動と更新をストップしていましたが、精神的に落ち着きを取り戻して何かしら書きたいな~という意欲が出てきたので、ブログの再開とそれに伴う報告をしておこうかと思います。

 

まず記事タイトルにも明記しました通り、当ブログ「タリホーです。」はこれまでゲゲゲの鬼太郎や悪魔くん等の作品をレビューしてきましたが、

今後は水木先生の著作に関連するものは当ブログでレビューや批評、また他の方と議論をすることは一切いたしません。

 

執筆活動を休んでいた間、私なりに色々と考えた結果の結論ですが、一応こういう決断を下すに至った理由をここからは説明していきますね。

 

反対意見を並立的に扱えない人々

今更言うまでもなく、私はこのブログでゲゲゲの鬼太郎(特にアニメ第6期)や悪魔くんのレビュー・批評を行い、コメント欄にもありがたいことに様々な意見が届いた。私の意見に賛同する方もいたし、残念ながら否定的な意見・攻撃的な意見を送ってくる方もいた。

そんな数々のコメントの中でもやはり私が今も思い返すと腹が立つのが、私が批評に際して6期鬼太郎やゲ謎の好評の意見を述べた際に、それを「(東映アニメーションの)制作陣を擁護したもの」として受け取った人がいたことだ。

前にも言ったが、私が制作陣を庇うメリットなど一つもないし、むしろ制作陣を擁護して私にどんな得があるのか教えて欲しいくらいだ

 

6期鬼太郎・ゲ謎・令和版悪魔くん、いずれも一部のファンが否定的な見解を述べているし、それに関して個人的に残念だと思うものの、批判すること自体は悪いことではないと思っている。かく言う私も、令和版悪魔くんについては好意的に評価はしていないのだから、批判することがダメなどとは全く考えていない。

とはいえ、批判というのは物事の良し悪しを論理的かつ建設的に行うべきものであって、自分が気に入らないポイントを節操もなくあげつらっていくことではない。ましてや制作陣に対してヘイトを向けたり攻撃的・暴力的な敵意を向けるのは論外であり、そういったことも弁えずに批判を行っている方々に対して昨年から苦言を呈してきた。

 

勿論、そうして私が自分と反対的立場である見解を持つ人々に苦言を呈したからと言って無理に嫌いな作品を好きになれとは言わないし、制作陣の言動に水木先生へのリスペクトが感じられないと思うのも好きにすれば良いだろう。

ただ、好意的に評価している人の意見を自分たちの尺度で勝手に曲解し理解しようとする人がいるのは非常に不愉快だ

 

例えば、ゲ謎を全面否定している「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者は、ゲ謎を支持している人たちは原作をつまらないと思っているなどという旨を述べている。

もう引用するのも腹立たしいので気になる方は各自調べてチェックしてもらいたいが、仮にゲ謎肯定派の中にそういう考えの人がいたとしてもそれが大多数の意見だとは思わないし、それをまるで肯定派が全員そう考えているかのように吹聴されるのは極めて迷惑かつ心外である。

 

確かにゲ謎は従来の鬼太郎作品と比べても露悪的な要素があるし、流血描写や残酷無比な描写が多々ある。決して万人受けする作品ではないと思うし、生理的嫌悪を抱く人もいるのも無理はないだろう。私もアンパンマンで性的虐待をテーマにした作品がもし描かれたら難色を示すだろうし、ゲ謎否定派の感覚も恐らくそれに等しいものだということは一応理解しているつもりだ。

しかし、私は何もそういう表層的な残酷描写を喜んで支持している訳ではないし、それは散々当ブログで説明してきた。否定派にも理解してもらえるよう言葉を費やしに費やしたつもりだが、結局それは否定派の方々には届かず、「擁護」「独自解釈」といった形で処理され、ゲ謎を評価している私たち肯定派が原作を軽視し、BLやエログロを好む低俗な輩だという、ある種の人格否定ともとれる発言までされてしまった。こうした否定派の人が全てそうだとは思いたくないが、私は私なりに否定派の意見に理解を示した上で「いやこういう意見もあるよ?」「それが必ずしも正しいとは限らないよ?」といった柔軟な思考や議論を促してきたつもりなのに、どうして反対の意見(この場合肯定派の考えだが)を自分たちの意見よりも劣ったもの、間違ったものとして決めつけるのか、「Aという考えもあればBという考えもある」という形で並列的に認識・理解が出来ないのか?と悩み苦しんだし、何故こんな人たちに私たちの嗜好や価値観を決めつけられねばならないのかと怒りで頭が真っ白になったこともあった。

 

こういう出来事があったので、私はゲ謎否定派の方々と意見を交わしても意味がないし、議論をした所でこっちが精神的に辛い思いをするということがわかったので、今後は水木先生に関する作品を批評することはしないでおこうと決めた。これが批評・議論をやめようと思った理由の一つである。

 

仲間だと思っていた人がアンチへ転じたことへの失望

批評・議論をやめようと思ったのは「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」に対して私が失望したからというのも大いに関係している。それはあのブログがゲ謎とそれを制作したスタッフにヘイトを向けているというのも勿論あるが、もう一つはこのブログの筆者が以前当ブログにコメント送ってくださっていた方(=元読者)だったということも関係している。

 

tariho10281.hatenablog.com

このブログの筆者とはゲ謎が公開される前までは仲良く出来ていたし、以前5期鬼太郎のレビューで「脚本家に対するヘイト発言・他のファンへのマウント取り」に関する意見を述べた際もコメント欄で「タリホーさんのように深く読み込みつつ、スタッフへのヘイトをしないという当たり前の事ができている識者はかなり少ないように感じました。」と賛同してくださった。この時は本当に嬉しかった。

 

tariho10281.hatenablog.com

しかしこの方はゲ謎公開後「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」というブログを立ち上げ、現在に至るまで制作陣に対してヘイトを向けるような発言をしている。具体的には、古賀豪監督には毒親や不倫などに対する歪んだ性癖があって、それを鬼太郎という作品に盛り込もうとしたなどということを述べていた。

これを制作陣へのヘイト(憎悪)と言わずして、何をヘイトと言うのか?

 

結局あのブログの筆者は制作陣にヘイトを向け、それを支持するファンにも問題があるという旨を主張しているのだから、私が以前主張したことなど忘れて攻撃的な批判をしていることに憤りを覚えたと同時に深い失望も感じた。あぁ、私の言葉は何の役にも立たなかったのだなと、理性と知性では憎悪や嫌悪を抑えられないのだなと落胆せざるを得なかった。

 

tariho10281.hatenablog.com

この後に私はこのブログを批判する記事を4回にわたって執筆したが、何も嬉々として批判していた訳ではないし、「何故だ、どうしてこの人はわからないのだ…」という苦悩というか怒りが感情の大半を占めていた時もある。仮にブログの筆者本人に読まれなくとも同じ否定派の「水木伝説」なら多少なりとも私の言いたいことを理解・把握してくださるかと思っていたが、残念ながらそれも徒労に終わってしまった。

 

こういう経緯があるので、私の意見を支持し賛同してくださる方がいるというのはわかっているのだけど、「今私の意見に賛同しているこの方も、いずれ何かの切っ掛け・別の作品でアンチの側にまわるのではないのか?仲間だと思っていた人とまた対立・衝突する時が来るのではないか?」という疑念や不安がぬぐえず、それなら誰とも意見を交わしたり議論などせず、私一人で水木先生の作品を愛でようという結論に達した。

 

このブログを開設した時は同じ水木先生の作品を愛する者同士、このブログで仲良く意見を交流させたいという思いがあったが、開設から約8年たった今、こんな形で批評・議論をやめることになるとは思わなかった。

でも私は自分の好きな作品でこれ以上苦しい思いも不愉快な思いもしたくないのである。ゲ謎自体は素晴らしい作品だと思っているのだが、「水木伝説」との一件があってからはゲ謎を見返すことにちょっと抵抗を覚えるようになってしまった。それだけ私の中で消化出来ない怒りや苦悩・恨みつらみが残っているし、恐らく一生消えることはないだろう。

 

『地獄の楽しみ方』

文庫版 地獄の楽しみ方 (講談社文庫)

今回の一件で思い出したのが、京極夏彦先生が2019年に10代(15~19歳)に向けて行った特別授業「たたかわないために ~語彙と思考」の内容を書籍化した『地獄の楽しみ方』である。小説家という言葉のプロの観点から言葉の不完全さを説き、その上でいかにしてこの地獄のようなこの世を楽しく生きていけば良いのかをレクチャーした一冊なのだが、京極先生は特別授業の中で「あらゆる争いは言葉の行き違いから起きる」と述べている。

私なりに本書の内容をざっくり要約すると、言葉というものは不完全なものであり、自分が発した言葉が100%相手に正しく伝わることはまずあり得ない。受け手は言葉を自分が理解出来るように勝手に解釈してしまう。ゆえにこの世で起こる争いは言葉の行き違いによるもので、それを避けるためには語彙を増やして使いこなす技を身につけましょう…ということが『地獄の楽しみ方』に記されている。10代向けの授業とはいえ大人の私たちにも勉強になる一冊なので是非読んでもらいたいが、以前読んだこの一冊を思い出して今回の一件を振り返ると、意見を戦わせるということが必ずしも正解ではないと思ったし、私が発信した言葉が100%相手に正しく伝わらないのであれば批評も議論もした所で仕方がないか、という結論に達したのである。

 

そもそもゲ謎否定派の方はどこの馬の骨ともわからぬ肯定派のファンの言葉なんて最初からマトモに聞くに値しないと思っているかもしれないし、そんな誰ともわからぬファンや制作陣の言葉よりも自分が映画を見て感じたインスピレーションとか水木先生・京極先生といった有名な方の言葉の方を信用するだろうから、そりゃ伝わらないよなと私なりに腑に落ちたのである。

 

そうだよね?そりゃ「水木伝説」の側から見れば、私は別に妖怪研究の論文も書いてなければ、水木先生に関する同人誌を発刊したこともないただのオタクだし、「ゲゲゲの謎は矛盾だらけ」の筆者も私なんかより水木作品に造詣の深いファンクラブの会長と意見が一致したら、そちらの言い分を全面的に支持するのも当然だろう。そんな古参のファンからしてみればゲ謎の肯定派や制作陣なぞ、ニワカオタク以下だろうし私たち肯定派の意見・言葉をマトモに聞いてもらえると思っていた私が間違っていた。

 

なので、もうあのブログも含めて今後誰かと意見を戦わせることも交流させる必要もないと思ったし、直接水木プロや東映アニメーションに危害や損害を加えるようなことさえしなければ、各々が思ったこと・感じたことが正解ってことで良いのではないか?と納得がいったので、もし今後当ブログに水木先生の作品に関する意見を聞かれても私は「あなたが考えていることが正解で良いと思いますよ?」としか言わない。正直今となっては水木プロや東映アニメーションがどうなろうが私には関係ないし、今後鬼太郎や悪魔くんの新たなアニメが制作されるかどうかも正直言うとどっちでも良いというのが本音だ。

 

曖昧なものを曖昧なままにしておくことも理性的な判断

6期鬼太郎以降の批評と、それに対する数々のコメントを読んできて思うのは、今の私たちに必要なのは曖昧なことを曖昧なままにしておく理性だということだ。

どうしても私たちは明確な答えをついつい求めてしまう生き物であり、6期鬼太郎やゲ謎、令和版悪魔くんにおいても「制作陣は本当に水木先生やその著作をリスペクトしているのか?」といった所で意見が衝突することが度々あった。

 

例えば、否定派の意見で「アニメスタッフは水木先生が死んだのを良いことに勝手に原作レイプさながらの作品を作っている」とか「アニメオリジナルキャラばかりを依怙贔屓して、原作キャラを大事に描いていない」といった意見があったけど、ではこれが客観的事実に基づく批判かと言われるとそうも言えなくて、やはり主観が大いに入っていると思う。

では肯定的な意見が客観的で正しいかと言う話になるが当然そんなことはなく、肯定的な意見もまた主観は入っている。それを説明するために私個人の考えを例に出すが、祖となる水木先生亡き今、制作側が「水木先生が亡くなったから好き勝手描けるぞ!」と思うのは流石にサイコパス的な発想だと思うし、むしろ亡くなった今制作陣にふりかかるのは、次世代に水木先生やその原作の良さを伝えていくことに対するプレッシャー・重圧の方が大きいというのが私の考えなのである。だからゲ謎の近親相姦の描写にしても、公の場に出す作品である以上メリットよりもリスクの方がはるかに大きい訳で、にもかかわらず古賀監督をはじめとする制作陣はそれを水木先生生誕100周年記念作品に盛り込んだのだから、それは生半可な気持ちで盛り込んだものではないだろうと考えたし、水木プロの原口尚子氏も小学校の元教員という経歴の持ち主なのだから、これが教育上よろしいかどうか、そういった倫理観が欠落した人物だとは思えないと考えたから、私は制作陣や現水木プロに対してヘイト的感情は抱いていないのである。

当然これは性善説に基づく主観的バイアスのかかった意見に過ぎないし、結局の所制作側がアニメや映画を作るにあたって邪な意図があったかどうかなど客観的に証明することは不可能なのだ。

 

だからこそ、私はハッキリと答えが出せないものは曖昧な形で残しておくのが良いと思うし、少なくとも私たちは法律を守り法律に守られている以上、「疑わしきは罰せず」を尊重し、悪し様に制作陣を叩かず、批判するにしても節度をわきまえ論理的かつ建設的に行うべきだというのが私の主張なのである。鬼太郎という作品で女性や子供が犠牲になったり性的被害を受ける描写を盛り込むべきではないという意見はわかるけど、そういう描写があったからと言って制作側に原作者である水木先生を貶める意図があったなどということを、まるで絶対的事実のように吹聴している人がいることに対して私は苦言を呈し批判を述べているのだけど、残念ながら私の意見は否定派の意見にケチをつけたもの、不当なバッシングとして受け取られてしまっているのが現実だ。

 

もう言うまでもないが私は制作陣を全面的に支持しているファンではない。ゲ謎に対しては肯定的でも令和版悪魔くんに対してはかなり否定的な立場の人間だ。でもだからと言って「令和版悪魔くんは矛盾だらけ」などというブログを立ち上げて執拗に作品と制作陣を責め続けても良い結果にはならないと思っているし、私自身は理解出来なくとも令和版悪魔くんを好意的に評価している人だっているのだから、自分の理解出来るもの・納得のいくものが世間的に人気がある訳ではないし、反対に自分に理解出来ないけど他人にはわかる良さなど、この世にはいくらでもある。だからこそ、相手と意見をまじえようともせず、一方的に自分の尺度で相手を決めつけるような姿勢の持ち主は同じ作品を愛するファンとしてあるまじき態度だと思うし、6期鬼太郎にしろゲ謎にしろ令和版悪魔くんにしろ、それを好意的に評価している人がいるからと言ってそういった人を「水木作品の良さをロクにわかっていないニワカ」だとか「ゲゲ郎と水木のBLが好きな腐女子」だとか、そういった程度の枠の範囲内でしか肯定派を認識出来ない人がいるのは非常に腹立たしい話である。

 

我々は未だ暴力的である

6期鬼太郎以降のファン同士の間で起こった数々の衝突や対立・分断を経て、私たちは未だに暴力的で加害性というものに鈍感であるということを改めて実感させられる。

 

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これに関しては私自身も以前水木プロの炎上騒動の際に「被害妄想」などという強い言葉を使って不当な攻撃をしてしまったことがあるので、あまり偉そうなことは言えないのだが、あの当時のことを改めて思い返すと、単に水木プロのインタビューに怒ったり悲しんだりするのはまだしも、「炎上商法のつもりですか?だとしたら成功ですね(笑)」みたいなことを言っていた人は流石に口が過ぎると思ったし、目に余るレベルの攻撃的なコメントも少なからずあったので、私もつい感情的な形で非難をしてしまった記憶がある。こういうことを言ったからと言って、別に自己弁護をする意図はないし、私も含めて攻撃的なコメントをしてしまう人がいるのはひとえに原作者である水木先生やその作品に対する強い愛ゆえのことだというのはわかっているつもりだ。

 

しかし、相手が間違っているからと言って何を言っても良い訳ではないのは確かだし、攻撃的な言葉を使ってしまうのは仕方ないにしても、それを振り返って「あ、あの時言ったアレはマズかったな…」と反省出来る度量がある人を私は大事にしたい。

以前令和版悪魔くんの最終回レビューの際も自分の送ったコメントにまずい点があったと反省している方が何人かいたが、そういう人は素晴らしいなと思うし、今後も仲良くしていきたいなと思った一方、「自分の言ったことは間違ってないし後悔してないっす」みたいなスタンスの人についてはちょっと距離を置きたくなった。

 

で、私が何故ここで暴力性・加害性の話をしたのかという話になるが、6期鬼太郎やゲ謎って従来の鬼太郎アニメと比べても、暴力や流血といった描写が割と顕著に描かれていてそこが往年のファンには不快感や嫌悪を催すポイントであり、「鬼太郎は子供も安心して見れる作品だったのに、こういった暴力描写を盛り込むとは何事か!」っていう意見もいくつか見かけたのだけど、こんな感じでアニメは特に暴力描写や性的な描写に関して倫理上の問題から排除するような働きかけというか意見が度々出てくるし、実際昔に比べたら今のアニメは流血みたいなものはほとんど描かれなくなっていると言えるだろう。

 

でもさ、そうやって暴力的な描写や性的な描写が排除されたからと言って私たちが平和的な人間になったかというと全然なれていないし、私たちの暴力性・加害性は殴る・蹴るといった物理的なものから、単に言葉の暴力へと転化しただけではないのか?というのが6期鬼太郎やゲ謎などを見ていてうっすら考えていたことだ。

 

昔は校内暴力やハイジャックといった物理的な暴力・テロリズムが世間を騒がせていたのに対し、現代では誹謗中傷や炎上といった言葉による暴力が目立って来ている。物理的な暴力に関しては減ったものの、ハラスメントや誹謗中傷といった精神的な暴力が顕在化していることを思えば、我々は決して平和的になった訳ではないし、テレビやアニメでそういった暴力的な表現を規制した所で、根本的な解決にはならないことがわかるだろう。

 

こういうことを言ったからと言って、私は別にアニメに暴力描写を遠慮なく盛り込んでいきましょう!などという開き直ったことを言いたいのではなく、それだけ私たちは自分の暴力性・加害性というものに向き合えない、或いは恐ろしく鈍感な生き物であり、水木先生のファンである私たちでさえも、その暴力性・加害性というものに正面から向き合えていないのではないか?ということを読者の皆さんに問いかけたいのである。相手との対話を拒み、自分の意見だけは一方的に押し付けて、敵と味方という善悪二元論的な物の見方しか出来ないようでは平和の道など永遠に開かれない。今のままでは私たちは中世ヨーロッパで魔女狩りをしていた人々や、フランス革命で王侯貴族たちを処刑していた民衆と同レベルだと主張したいのである。

 

私たちが水木先生のファンであり、本当に平和を望むのであれば人間の暴力性や加害性というものについて考えないといけないし、それをタブー視して単に排除しようとするだけでは何の解決にもならない。少なくとも私は6期鬼太郎やゲ謎、そしてそれに対するファン同士の対立・分断を経て、私たちは未だに精神的に進歩していない、未だに暴力的で攻撃的で、排他的なファンであることを思い知ったし、ファン同士の対立・衝突にこれ以上関与するようなことはしたくないので、今後は一人で作品を愛でていきたいと思ったのである。

 

さいごに

以上、ちょっとまとまりは悪いかもしれないが、私なりに水木先生に関する作品の批評・議論をやめようとした理由を述べた。

 

ブログの活動を休止するとお知らせした時に温かい応援コメントを送ってくださった方には心の底から感謝しているが、これ以上私は屈辱的な思いをしてまで批評や議論・批判といったことはもうしたくないし、正直嫌気がさしているのだ。

同じ国に住んで、同じ言語を使い、なおかつ同じ作品・作者のファンだというのに何故こんな辛い思いをしなければならないのか、何故「心が狭い」だの「日本を貶める反乱分子」だのと言われなければならないのか、私が言っていることがおかしいのならば正々堂々と議論してほしいだけなのに何故陰口を叩かれなければならないのか。

 

……端的に言えばもう疲れ果ててしまったのだ。

これ以上無理をして批評や議論を行うと鬼太郎や悪魔くんそのものまで嫌いになってしまうかもしれないので、そうならないためにも今後は一人で水木作品を楽しもうと思う。なので以前言っていた悪魔くんの「ノストラダムス大予言」のレビューに関してはもうやらないので、その点に関してはご了承願いたい。

 

幸か不幸か、私は水木先生の作品以外にも本格ミステリというものに関心があるので、今後はミステリ小説(ドラマ)や水木作品以外のホラーを中心とした批評やレビューを行っていこうと思う。

【最速レビュー】清水崇監督版「八つ墓村」は祟り特化型の意欲作だ!

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はい、タリホーです。以前から予告していたように清水崇監督による映画「八つ墓村」を鑑賞して来たので早速レビューしますよ!

 

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これまでの映像化作品については先日レビューしたので、変な前置きはなしにして映画の感想を語っていくが、今回の新作を評価するにあたって事前に決めておいた評価ポイントは、

1.辰弥の物語として脚本が機能しているかどうか。

2.時代設定を現代に変えたことの是非。

というこの2点を中心に批評を行いたい。

 

なお、公開からまだ日が経っていないので、出来るだけ具体的なネタバレは避けてのレビューをするのでそこのところよろしく。

 

(以下、映画本編のネタバレが一部あり。また、1977年版に関しても一部ネタバレありで言及する)

 

大部分は原作と別物

前述したように、今回の映画は原作と違い舞台は令和の現代に設定されており、主人公である辰弥が八つ墓村に行くまでの流れや、村内で起こる連続殺人の展開など大部分が改変・脚色されている。なので、原作ファンであればあるほど看過出来ない改悪ポイントもあると言えばあるし、「横溝正史の原作の名を借りた駄作ホラー」という評価を下す人もいるだろう。

私は本作があの「呪怨」シリーズを手掛けた清水監督だと前々から知っていたので今回の映画がホラー全振りの「八つ墓村」になることも、それに伴った大改変もあるだろうことも覚悟していたので、ホラーに特化した「八つ墓村」になることに対しては別に難色を示していない。むしろプロのホラー映画監督としてどこまであの原作を変えてくるのか、ちゃんと怖くて面白い映画になっているのか、そこを注目していたくらいだ。

 

で、実際に鑑賞して気になったのはキャラクターの扱い方だろう。今回の映画では久野医師や里村慎太郎・典子の兄妹、小竹・小梅といった原作ファンならお馴染みの面々が登場するのだが、繰り返すように本作はホラー映画として制作されているので、こういった面々が落ち武者の祟りによって犠牲になるだけのキャラに成り下がっているのは無視出来なかった。

原作小説はミステリというジャンルなので事件のトリックに関わる人物・ミスリード要員・謎解きのヒントを提供する人といった具合にそれぞれの登場人物にちゃんとした役割があるのだけど、本作に関しては金田一や辰弥といった主要人物を除くと大半のキャラクターが祟りの犠牲者という程度の役割しかない。特に、原作で辰弥の人生に深く関わることになるあの人物(多分原作ファンなら名前を言わずともわかってくれるはず)を祟りで無残に殺される役で処理してしまったのは(物語の展開上仕方ないとはいえ)マズかった。多分一部のファンは絶対キレるだろうなと見ていて思ったくらいだ。

 

肝心の事件にしても、原作だと辰弥の眼前で次々と人が死んでいき、それによって彼が連続殺人犯として疑われ徐々に追い詰められるというサスペンスフルな展開と、動機なき連続殺人に隠された真の動機という二つの注目ポイントで物語を牽引していくのだが、本作ではこの連続殺人も「落ち武者の祟り」という形で全面的に処理されているので、村人が辰弥を犯人として疑う流れは原作や過去の映像作品と比べてみると結構雑な感じになっているのは否めない。

 

原作既読の方なら既に知っているが改めて説明しておくと、村人が辰弥を犯人として疑ったのは、

①辰弥が村に来てから事件が起こっていること。

②辰弥が田治見要蔵の息子(殺人犯の子孫)であること。

という2つの理由からであり、この2点は今回の映画でも同じなのだけど、今回の映画では辰弥の眼前で人が次々に死ぬという原作や従来の映像作品における殺人のライヴ感がないのである。原作やこれまでの作品の場合は「Aの現場にもBの現場にも辰弥がいたのだから彼が犯人に決まっている!」という理屈が成り立つのに対し、今回の映画では彼の眼前で殺人が起こる訳ではない。だから村人が彼を疑う流れが原作以上に短絡的に見えるし、特に本作は現代を舞台にしているので、あの事件の流れで辰弥を犯人扱いするのは昔ならともかく現代人としてはいささか単細胞過ぎないか?と思わずにはいられなかった。この辺りの脚本の粗さは(多分だけど)本作のテーマありきで脚本が作られた弊害なのかもしれない。

 

こんな感じで今回の映画は批判すべきポイントというか欠点もあるのだけど、同時に高く評価しても良いのではないかと思ったポイントもある。それについて次の項で述べていこう。

 

集団心理の恐怖

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©2026「八つ墓村」製作委員会/ Yokomizo Seishi / KADOKAWA

映画のパンフレットや他のインタビュー記事に掲載されているが、今回の映画化に際して清水監督は原作で描かれた集団心理の恐怖を本作の裏テーマに据えているそうだ。

確かに今回の映画では村人の暴徒化や落ち武者殺しの場面でそういった集団心理の恐怖を描いている。特に落ち武者殺しの場面は今回の映画の場合、殺人というハードルの高いはずの行為が集団だと容易く行われてしまうことや、匿名の存在になった際に人々の攻撃性が表立って出てくることを象徴する場面になっており、ここは従来の映像作品とは一味違う落ち武者殺しの場面として印象深くて良かったと思う。

 

それに、辰弥が犯人として疑われ村人たちから殺されそうになるという原作通りの展開も、今回の映画では現代におけるSNSの誹謗中傷問題に通じるものとして描いているのもなかなか良い着眼点だったと思う。流石に現代では「犯罪者の子供は犯罪者としての素質を遺伝している」という誤った認識は否定され改められているものの、だからと言って原作が発表された1940年代から約80年経った今の我々は心理的・倫理的にさほど進歩した訳ではない。むしろインターネットという文明の利器によって容易く第三者に暴言を吐けるようになり、より攻撃性・暴力性が激化したとも言える訳だから、果たして我々は八つ墓村村民のことを嗤える立場にあるのだろうか?ということも本作の映画を通じて突きつけられているような気がしてならない。

 

1977年版のオマージュと辰弥・金田一の活躍

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©2026「八つ墓村」製作委員会/ Yokomizo Seishi / KADOKAWA

今回の映画は制作元が1977年版の映画と同じ松竹なので、随所に’77年版のオマージュが見られる。なので’77年版を履修した上で本作を鑑賞するとより楽しめること間違いなしだが、’77年版は落ち武者の祟りという物語の根幹となるテーマを実に壮大に描いた超大作であり、今回の映画はその’77年版をオマージュしつつ、祟りという逃れられない運命に抗おうとする主人公の辰弥を描いたことが好感触だった。

物語前半の辰弥は突如田治見家の当主として村に招かれた上に連続殺人に巻き込まれる哀れな青年だったが、事件の裏に横たわるおぞましき因縁と、その因縁に操られ翻弄される人物を目の当たりにすることで、彼の中で大きな変化がもたらされる。物語の終盤では辰弥が主人公として自発的に行動し、最悪の運命から逃れようと抗う姿は意外にも感動的なシーンになっていたと思う。原作とは違うがこの映画なりの「救い」が用意されていた所も含めて、本作の映画が辰弥の物語としてキレイに着地した所は褒めても良いのではないだろうか?

 

それから尾上松也さん演じる金田一も存外に良かった。少なくとも’77年版の渥美清さんが演じた金田一よりは役に立っていたし、探偵らしい活躍というか存在感のある役どころになっていたと思う。

(’77年版の渥美版金田一はマジで探偵としてはクソほど役に立ってなかったからな…ww)

 

さいごに(賛否両論あるけれども…)

以上で清水監督版「八つ墓村」のレビューを終えるが、蛇足ながら滝藤賢一さん演じた田治見要蔵について言及しておくと、歴代の要蔵の中では怖いし気迫に満ちていたが山崎努さんが演じた’77年版の要蔵には遠く及ばずという感じだろうか。’77年版に比肩しようとするのであれば殺戮シーンはもっとスピーディーかつ多くの人数を殺さないといけないからね。

こうした要蔵の三十二人殺しや落ち武者殺しといった場面は’77年版だと結構残酷な描写が多かったが、今回の映画は’77年版のようにダイレクトな残酷描写はなく、PG12といった年齢制限もない。なので「ホラーは好きだけどグロいのは苦手」という方でも意外とイケるかもしれない、ということは言っておこう。

 

最後に今回の映画の評価ポイント、批判ポイントをざっくりまとめると以下の通り。

〈良かった点〉

・辰弥が主人公として機能していたこと。

・原作でも描かれた集団心理の恐怖を現代に通ずるテーマとして描き切ったこと。

・金田一が’77年版と比べて(探偵として)役に立っていたこと。

〈悪かった点〉

・主要人物を除く原作のキャラクターが単なる祟りの犠牲者として処理されたこと。

・村人が辰弥を疑い暴徒化する流れがやや短絡的過ぎること。

・(当然ながら)ミステリ映画としての妙味が全くないこと。

初号試写の段階で賛否両論出ていたことは知っていたし、実際に鑑賞してみても(’77年版の映画と同様に)ミステリ映画としては全く評価出来ない作品なのだが、とはいえ原作をガン無視した作品という訳ではないし、双子杉や仮面といった原作にもあるアイテムをエッセンスとして盛り込んでいる点や、濃茶の尼を現代風にアレンジしつつ彼女の盗癖を別の形で活用するなど、随所に工夫が凝らされていて面白かった。少なくとも以前映画化した「変な家」みたいにミステリとしてもホラーとしても中途半端な作品にはなっていないし、2019年のドラマ版みたいに散漫な仕上がりにもなっていなかったので、私はこの清水監督版「八つ墓村」を意欲作として好意的に迎え入れたい。

 

あとTwitter の方でも言ったが、清水監督は横溝正史原作という看板を背負った上で批判・酷評も覚悟の上で新しい「八つ墓村」を作ろうとしているし、そのチャレンジ精神を私は何よりも高く評価している。堤幸彦監督の「神の舌を持つ男」みたいに、原作をキチンと映像化する気もなくクソしょうもない横溝正史のパロディに甘んじている作品よりもはるかに難しいことを今回清水監督はやっているし、国際映画祭で生涯功労賞を受賞したことは今回のチャレンジに見合ったものだと考えて良いだろう。

 

ドラマ備忘録:「神の舌を持つ男」(時流を読み間違えた超絶駄作ミステリー) - タリホーです。

 

ちなみに、余談ではあるが今回の記事は2018年に初めて投稿した記事から数えて640番目の記事となる。8の倍数となるタイミングでこの「八つ墓村」をレビュー出来たのは何とも不思議な偶然というか何というか…。

【予習】映画公開前に横溝正史『八つ墓村』を振り返る

金田一耕助ファイル1 八つ墓村<金田一耕助ファイル> (角川文庫)

タリホーです。9月に入ったということは、清水崇監督の新作映画「八つ墓村」の公開まであと数日。ということで今回は新作映画鑑賞前に今一度原作の『八つ墓村』がどんな作品かをおさらいし、過去の映像化作品についても何点かピックアップしてレビューをしてみようと思う。当然ながらネタバレありのレビューとなるので、『八つ墓村』を全く知らない(原作を読んだことも過去の映像作品を見たこともない)という方は以下のレビューを読まないことをおすすめする

 

(以下、原作及び過去の映像作品のネタバレあり)

 

原作について

まず原作について簡単におさらいしておこう。原作は1949年に『新青年』という雑誌で連載がスタートした長編小説で、金田一耕助シリーズの長編作としては『本陣殺人事件』『獄門島』『夜歩く』に続く4作目にあたる。

物語は冒頭部分を除き、主人公の寺田辰弥による一人称視点で語られる。若くして両親を亡くし天涯孤独の身となった辰弥は、ある日岡山県にある八つ墓村の田治見家から跡取りとして招かれることになるが、彼の村入りが決まって以降、辰弥の周辺で不審人物が彼の素行を調べ回ったり、八つ墓村への来訪を拒む怪文書が彼の元に届くなどの異変が起こる。そして彼の眼前で次々と連続殺人が勃発し、辰弥は殺人事件の容疑者として窮地に追い込まれることになる…というのが本作のあらすじだ。

 

原作は文庫本だと約500ページもあり質量共になかなかのボリュームがある。物語の発端となる尼子の落ち武者伝説、その落ち武者の祟りとして村内を震撼させた田治見要蔵の「三十二人殺し」、そして物語の本筋となる連続毒殺事件。過去と現在の殺人事件が「祟り」という線で結び付けられ、無実の青年が動機無き連続殺人の犯人として疑われ追い詰められていく物語だが、こうした本筋の事件だけでなく落ち武者が村の鍾乳洞に残したとされる黄金三千両や、八つ墓村での辰弥と里村典子の出会い、屏風から抜け出す坊主の謎といった具合に怪奇・冒険・ラブロマンスの要素も盛り込まれている。これだけ色んなジャンルを詰め込んだら物語は散漫なものになりそうだが、そこは横溝正史の巧みなストーリーテリングによって全ての要素が過不足なく、実に満足のいく形で描かれている。

 

そういう訳で本作はミステリという枠組みだけでは語り切れない一級のエンタメ小説であり、それゆえ現在に至るまで何度も映像化されている。次の項ではその映像化作品について言及していこう。

 

映像作品について

『八つ墓村』の初の映像化は1951年。片岡千恵蔵さん主演の映画が初となるが、それ以降現在に至るまでドラマ・映画・舞台、そしてゲームといった形で『八つ墓村』は多くの日本人に浸透することとなった。Wikipedia を元に過去の映像化作品をリストアップすると以下の通りとなる。

 

〈映画〉

1951年版:金田一は片岡千恵蔵。監督は松田定次。

1977年版:金田一は渥美清、辰弥は萩原健一。監督は野村芳太郎。

1996年版:金田一は豊川悦司、辰弥は高橋和也。監督は市川崑。

 

〈ドラマ〉

1969年版:金田一は金内吉男、辰弥は田村正和。

1971年版:金田一は登場せず。辰弥は山本耕一。

1978年版:金田一は古谷一行。辰弥は荻島真一。

1991年版:金田一は古谷一行。辰弥は鶴見辰吾。

1995年版:金田一は片岡鶴太郎。辰弥は岡本健一。

2004年版:金田一は稲垣吾郎。辰弥は藤原竜也。

2019年版:金田一は吉岡秀隆。辰弥は村上虹郎。

 

以上の10本の他にもラジオドラマが2本、舞台が2本もある。この数の多さは『犬神家の一族』と大体同じくらいで、何度も映像化されているがゆえに横溝正史の代表作として一般にも広く知れ渡ったのだが、『犬神家』と同様『八つ墓村』も映像化に際してかなり原作から改変されており、そうした改変の影響もあってか『八つ墓村』をミステリではなくホラーとして評価・認識している人も結構多いのではないだろうか?

 

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特に「八つ墓村=ホラー」という印象を与えたのが1977年に公開された映画で、一応原作同様連続殺人が起こるし金田一が犯人を暴くのだけど、合理的・論理的な形で事件が解決する訳ではなく、あくまでも八人の落ち武者が数百年の歳月をかけて復讐を果たしたというオカルト的な形で物語が決着している

それに、原作で簡単に言及された落ち武者殺しや「三十二人殺し」がこの映画だとインパクトのある残酷な殺害描写に改変されているのも「八つ墓村=ホラー」というイメージを強める結果になっている。この映画ではお神楽の催しに招かれた落ち武者たちが毒入りの酒で弱らされた所を村人らによって惨殺されたという描写になっているが、原作の場合は山の炭焼き小屋にいた所を不意打ちで襲われ殺害されたということになっている。なので映画の方が村人たちの卑劣さというか残忍さがクローズアップされているし、要蔵の「三十二人殺し」にしても映画だと足腰の弱った老婆を井戸に落としてそこを更に銃殺するという要蔵の残虐性を強調する描写があるので、そういった残酷描写が本作をホラー映画たらしめていると言えるだろう。

 

なので1977年版はミステリ映画としては全く評価出来ないし、映画終盤で渥美清さん演じる金田一が語る調査結果にしても、

「え、そんなこと調べてたの?もっと調べることあっただろ!?」

と突っ込みたくなる。この映画の金田一は探偵というより学者・研究者みたいなことしかしていないので、こうした金田一の行動も原作と違うポイントとして挙げられる。とはいえ、全体的にスケールのデカい物語として改変されているため、(ミステリ映画としてはともかく)一本のホラー映画としてはちゃんと満足度の高い仕上がりになっているし、今なお語り継がれる名作なのも納得のクオリティだ。

特に「三十二人殺し」は歴代の映像作品の中でもダントツでこの映画が怖く、山崎努さん演じる要蔵が一切何も言葉を発することなく村人を惨殺していく、この純粋な殺意にゾクゾクさせられてしまうのだ。他の映像作品における「三十二人殺し」は、要蔵が奇声を発したり「鶴子を返せ~!」と声を荒げながら殺戮を行うので、そこが何と言えば良いのか要蔵の俗っぽさ・人間臭さが出てしまい怖さがなくなっていると私は感じるのである。

 

1996年版の「八つ墓村」は石坂浩二さん演じる金田一耕助を生み出したあの市川崑監督によるものだが、「犬神家の一族」の頃のキレの良い物語のテンポ感が大分損なわれて、全体的に地味でパッとしない作品になっているなと私は思う。岸田今日子さん演じる小竹・小梅や白石加代子さん演じる濃茶の尼はハマり役で今なお記憶に残っているのだが、それ以外のキャストは正直記憶に残っていない。いやキャストだけでなく物語も実を言うとほとんど覚えてなくて、(原作と違い)濃茶の尼が犯人を恐喝していたということや、小竹が吊るされていた駕籠の下敷きになって死ぬ、という断片的なシーンの記憶しかない。市川監督らしい映像美のこだわりはかすかに感じられるものの、全盛期の「犬神家」のような精彩さは無くなっていると言わざるを得なかった。

 

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ドラマで私が過去に視聴したことがあるのは1978年版と2004年版、そして2019年版の3作のみなのでこの3作をレビューするが、まず1978年版は古谷一行さんが金田一耕助を演じたシリーズで、「八つ墓村」は連続ドラマ「横溝正史シリーズⅡ」の第一弾として全5話の構成で放送された。最初の1話は YouTube で無料公開されている(↑)ので気になる方は是非チェックしてもらいたいが、このドラマ版は1977年に公開された映画の翌年に放送されたこともあってか、なかなかクオリティが高いし見ごたえは十分ある作品だと評価している。映画と比べるとこちらの’78年版のドラマの方が原作に寄せた脚本になっているが、とはいえ原作とほぼ同じ内容かというとそうでもなく、ドラマオリジナルの犯人が用意されていたり、(ネタバレになるので詳細は伏せるが)まさかのバッドエンドで物語が締めくくられるといった形で様々な改変が為されている。なので面白いと言えば面白いのだけど、「全5話もあるなら原作通りやっても良かったのでは…?」と内心不満が残る部分も少なからずある作品なのだ。

 

そして稲垣吾郎さんが演じる2004年版は個人的に映像作品の中で特に私が一番おススメしたいドラマだ!

というのも、2004年版は歴代の映像作品の中で最も謎解きミステリとしての「八つ墓村」を描いているからであり、これまで丸ごとカットされたり、或いは簡略化されてしまった原作の「くじ殺人」をキチンと原作通り映像化し、原作で金田一自身の口から語られた犯人との対決シーンもこのドラマではしっかりその場面を描いている。登場人物の台詞も原作の台詞を活用した上でドラマ化しているので、個人的に歴代作品の中で一番原作に近いのはこの2004年版だと思っている。

2004年版は謎解きミステリとして評価出来るのは勿論のこと、「落ち武者の祟り」というオカルト要素も1977年版をリスペクトするかの如く盛り込まれているのも素敵なポイントで、そのおかげかある種の因果応報譚として物語はキレイにまとまっており、辰弥の出生にまつわるエピソードも含めて本作が金田一耕助ではなく寺田辰弥の物語であるということを制作陣が理解した上で制作されているなと感じた。

稲垣さん演じる金田一耕助シリーズは5作品あって特に本作と「犬神家の一族」「女王蜂」はおススメなのだが、フジテレビ制作なのに何故かFODでも配信されていないし、DVDも出ていないのがファンとしては残念でならない。

アマゾンで販売されているDVDボックスは海賊版みたいなので要注意!

 

tariho10281.hatenablog.com

2019年版は今から7年前の作品でありNHK制作なので多分覚えている人も多いだろうが、以前別記事(↑)でレビューしたように私自身はこの2019年版は高く評価していない。従来の映像化でカットされている里村典子や英泉を登場させているのは良いのだが、全体的に物語が散漫で1977年版の映画みたいにホラーに特化している訳でもないし2004年版のドラマみたいにミステリとして感心するような趣向や改変がある訳でもない。主人公の辰弥にしても、原作と違い味方である春代や典子にクズ同然の行動をとっているので感情移入しづらいキャラクターになっているのもマイナスポイントだろう。(ネタバレなので一応伏せ字)小竹の自殺でドラマが終わる(伏せ字ここまで)というオチもイマイチ演出として意図がつかみづらく、結局原作の良さを活かせない残念なドラマになったと言わざるを得ない。

 

さいごに

以上、ざっくりと原作をおさらいした上で歴代の映像作品について知っている範囲でレビューをしてみた。これで心置きなく清水監督の「八つ墓村」を鑑賞出来るというものだ。

もう既に初号試写等でいち早く映画を鑑賞した方のコメントも目にしているが、当初の予想通り今回の映画はホラー特化型の「八つ墓村」になっているようで、原作の映画化というよりは1977年版のリメイクという感じなのだろう。ホラー映画を専門とする監督が描く、ホラーに全振りした上で現代を舞台にした「八つ墓村」がどのようなものになるのか楽しみである。

 

一応鑑賞するにあたって今回の清水監督版を評価する基準というかポイントを先にここで述べておくが、まず第一に辰弥の物語として脚本が機能しているかどうかを評価したい。

『八つ墓村』と言えば落ち武者殺しや「三十二人殺し」がどうしてもインパクトが強い上にそこが評価基準になりがちだけど、原作はあくまでも辰弥の視点で物語は紡がれる訳だし、彼が主軸となって物語は展開していくので、連続殺人に巻き込まれる哀れな青年、という程度の設定では高く評価する訳にはいかない。2004年のドラマみたいに、彼が村に赴きそこで体験し知り得たことが彼にとって何かしらの糧になるような、そんな脚本でないとやはり好意的に評価は出来ないと思う。

 

もう一つのポイントは舞台を現代に設定したことの是非だろうか。

1977年版も原作と異なり公開当時の1970年代を舞台にした「八つ墓村」を描いているが1970年代と言えば当時の国鉄が個人旅行の拡大を目的に「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを行っていた時期であり、住み慣れた都会から地方へ赴けばまだまだ私たちの知らない世界・文化があるということを旅を通じて知った人も多かったに違いないだろう。1977年版は正に当時の「ディスカバー・ジャパン」の気風とマッチした内容になっているし、そうした当時のトレンドを反映させた脚本が大ヒットの一因になっているとそう私は考えているのだ。

1970年代の日本はともかく、令和の日本はインターネットやSNSの普及で国内のみならず世界の情報も知ることが出来るのだから1977年版のように「ディスカバー・ジャパン」を売りにした脚本だと時代錯誤になってしまうし、この辺り今回の映画ではどのような意図で現代劇として描こうとしたのか、映画本編の描写から読み取ることが出来れば良いなと考えている。

無限ループ間違い探しゲームに加えられた乳幼児への不安と嫌悪を読み解く【映画「8番出口」をレビュー】

8番出口

タリホーです。先日金曜ロードショーで放送された映画「8番出口」見ました?

昨年映画が公開され話題になっていたし気になってはいたものの、結局観に行けずじまいで少し後悔していたので、こうしてテレビで見れて本当に良かった。詳しい感想はこれから述べていくが、よくもまぁ、あのゲームを一本の映画作品として成立させたな~と感心させられたと同時に、映画オリジナルとして盛り込まれた要素についてもなかなか感動させられるものがあった。

感想に移る前に、まずは原作となるゲームがどういうものか簡単に説明しておこう。

 

(以下、原作となるゲーム及び映画本編のネタバレあり)

 

作品概要

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「8番出口」というゲームは2023年にインディーゲームクリエイターのKOTAKE CREATE(コタケクリエイト)により開発されたもので、駅の地下通路から脱出することを目的とした、一言で称するなら新感覚間違い探しゲームである。

プレイヤーは無限に続く地下通路を移動しながら通路に飾られている掲示物や床の点字ブロック、鉄の扉、前方からこちらに向かって来るおじさんなどを観察し、異変を見つけた場合は元来た道を引き返し、何もなければそのまま直進する。そうして8番出口に辿り着けばゲームクリアとなる。プレイヤーが出来ることは道を進むか引き返すかの二者択一であり、それ以外の操作はない。実にシンプルなゲームである。

2023年に配信されて以降、異変と呼ばれる数々のホラー演出や異変を見つけ出す難しさが人気となり、YouTube では数多くのゲーム実況動画がアップされ、類似のゲームが開発・量産されるほど話題となった。ちなみに「8番出口」の様式を模倣したゲームは「8番ライク」というジャンルで呼ばれている。

 

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今回レビューする映画は映画プロデューサーでもある川村元気氏が監督を務め、主演は二宮和也さん、ゲームでも登場する歩く男を河内大和さんが演じている。当然ながら原作となるゲームにはストーリーというものが存在しないため、主人公が無限ループする地下通路に迷い込むことと、地下通路から抜け出すためのルール以外は映画オリジナルの設定だ。

二宮さん演じる主人公は派遣先の職場へ向かう途中、別れることが決まった恋人から妊娠の報せを受ける。突然の報せに驚きを隠せず返答に困るなか、彼は例の地下通路に迷い込む…というのが映画序盤のあらすじとなる。

 

乳幼児への不安と嫌悪

前述したように原作となるゲームには特にストーリーもなく、何かしらの深いテーマもないため、そもそも映画化すること自体が無謀と言える今回の映画だが、実際本編を鑑賞すると、舞台となる地下通路の再現度の高さや、二宮さん演じる主人公の焦燥ぶりが凄く、没入感が半端ない。限られたシチュエーションの中で原作を活かしつつ映画オリジナルのストーリーが展開されていて全く退屈することなく見終えることが出来た。

こうした絶賛レビューは他のサイトでも散見されるが、個人的に本作で注目したのは映画オリジナルとして盛り込まれた赤ちゃんや子供に関する描写だ。

 

映画の冒頭、地下鉄の列車内で泣き出した赤ちゃんに苛立ち母親を怒鳴り散らすサラリーマンと、それを見て見ぬ振りする乗客が主人公の視点から映される。

一般的に赤ちゃんや子供の誕生というものは喜ぶべきこと・祝福されるべき出来事として認知されている一方で、現実社会ではぐずったり泣きわめく赤ちゃんや子供にストレスを感じて遠ざけようとする大人がいるのは否定しようがない事実だし、それを育てる親にしても制御不能で対処法もよくわからない子供をあやしつけ育てることに疲弊し、時には虐待という形でその怒りを爆発させてしまうケースだってある。更に言えば子供を産み育てることで自分の時間がなくなることを嫌がる、要は子供を産むという選択肢を捨てている人もいるのだから、赤ちゃんや子供には疎ましいもの・忌避したいものというネガティブなイメージもあるのは(悲しい話だが)まず間違いないだろう。実際映画本編でも主人公は彼女からの突然の妊娠報告に戸惑っているし、自分が父親になる資格があるのか思い悩む様子が描かれている。

 

こうした乳幼児に対するネガティブな感情(不安や苛立ち、嫌悪といったもの)は地下通路における異変としても反映されている。例えば、コインロッカーから聞こえた無数の赤ちゃんの泣き声は1970年代前半に多発した赤子遺棄事件、俗に「コインロッカーベイビー」と呼ばれる社会問題を彷彿とさせるし、コインロッカーベイビーは怪談話としても語られている。原作のゲームにコインロッカーはないが、無限ループする駅の地下通路を舞台とした本作に、コインロッカーベイビーの異変(怪異)を組み合わせるのは全く不自然ではなかったと思う。

 

もう一つインパクトのある異変として印象的だったのは、身体に人間の耳や鼻・目・口が付いたネズミだろう。私の母は大のネズミ嫌いなので母と一緒に観なくて大正解だったが、一応この気色悪いネズミも元ネタがある。映画冒頭の主人公が持っていたスマホの画面にも映っていたが、あれは牛の軟骨細胞を使って人間の耳の形をした軟骨を作り、それを皮膚下に移植した実験用のネズミで、1997年に麻酔科医のチャールズ・バカンティが作製したことから、バカンティマウスと呼ばれている。ネットではグロ画像として流出され、そこから倫理的な問題が問われたり、動物の権利を主張するアニマルライツ派や胎児の生命を尊重するプロライフ派の怒りを買ったという。今回の映画ではこのバカンティマウスは生まれてくる赤ちゃんをグロテスクなものとして感じてしまう主人公の嫌悪感・忌避感が反映されたものだと私は解釈している。生まれて間もないネズミの赤ちゃんは毛も生えてないから、正に胎児の気持ち悪さを表現する上で最適な動物だし、こうした素材選びに制作側のセンスの良さが感じられる。

 

そして物語の中盤から登場し、本作で重要な役を担う謎の少年も一切口をきかず、表情から何を考えているのかすらわからないという点においては、赤子と同じく意思疎通や対処が困難な存在であり、そういった子供に対してどういう対応をするのか。わからないから突き放すのか、或いはそれでもわかろうとより一層子供の様子を観察するのか、そういった判断の分水嶺みたいなものが描かれているのも本作の優れたポイントと言えるだろう。

 

観客が試される映画

記事冒頭で述べたように、私自身はこの映画を非常に楽しんで鑑賞したが、この映画は意図的に観客に負荷というかストレスをかけている部分があるので、何と言えば良いか観客が試される映画でもあるなという感じがする。

言うまでもなく赤ちゃんの泣き声というのは心が落ち着かないし、本作では頻繁にこの赤ちゃんの泣き声が聞こえるから、結構ストレスを感じた人も多いはずだ。それに主人公が喘息持ちという設定も、正直なくても物語としては十分成立する設定だ。にもかかわらずそれが盛り込まれているということは、主人公が抱える息苦しさを観客である私たちにも伝播させようという狙いが少なからずあると言えよう。

映画終盤の津波を彷彿とさせる演出も、東日本大震災の被災者にとっては大きなストレスになるものだし、もっと言うと無限ループする地下空間という本作の要となるシチュエーションも、映画作品として敢えて批判すると「変わりばえしない景色をずっと見せられる」という具合に、ある種の退屈さや苦痛が伴うものだと感じた人もいたはずだ。

 

赤子の泣き声・主人公の喘息の呼吸音・津波・いつまでも続く地下空間・何を考えてるのかわからない意思疎通が困難な子供…。こうした大小様々な心理的負荷(ストレス)を引き起こすものがこの映画には満遍なく盛り込まれているが、では何故こうした心理的負荷をかける演出やアイテムが盛り込まれているのかを私なりに考えた結果出てきた結論が「ゲームをプレイした際の感覚の追体験」である。

前述した通り「8番出口」は異変を見つけてループする地下通路から脱出するゲームであり、最短だと8回のループ、所要時間約1~5分でクリア出来るが、一回でも異変を見逃したり異変がないのに引き返した場合はまた最初からやり直しになるというシステムになっている。異変は壁だけでなく天井や床にまであるのだから元々のゲーム自体が爽快感のあるゲームではないし、むしろどちらかと言えばストレスになる要素の方が多い。また0からやり直しになっても根気強く異変の有無を確認しゲームを進める忍耐力が求められるから、こうしたゲーム性を映画でも追体験出来る仕組みになっているのは何気に素晴らしいポイントだと評価している。

 

制作側が狙ってやったことかどうかはわからないにせよ、ゲームをプレイした時の楽しさ・面白さだけでなく、そのしんどさまでも感覚的に味わえるというのはゲームの実写映画化として大成功していると言えるのではないだろうか?

(勿論、ゲームをプレイするストレスと不快な音を聞かされるストレスは別物だと突っ込めるので、あくまでも私の直感的な感想として受け止めてもらえると幸いである)

 

さいごに

以上が映画「8番出口」のレビューとなるが、本作はジャンルとしてはホラー映画に属するものの、一般的なホラー映画のように怪異の正体に迫ったり解説するようなことは一切なく、何故地下通路が無限ループするのかとか、どういった人間が無限ループに巻き込まれるのかという疑問が劇中で説明されることはない。あの謎の少年にしても、本編を見る感じだと未来から来た主人公の息子とも解釈出来るし、或いは逆にあの少年が自分が生まれてくる前の過去の父親と出会ったという風にも読み取れる。なので明確な答えや設定を求める人には正直おススメしづらい映画だと思う。

私の場合は全てをハッキリさせないと気が済まない性格ではないし、そういった欠落部分を深読みして補完するのが大好きな人間なので、本作のオリジナル部分、特に乳幼児やそれにまつわる隠喩に関しては題材の扱い方と「8番出口」との相性の良さに唸らされたものである。こうしたオリジナル要素が本作を単なるエンタメ作品からワンランク上の作品へとアップグレードさせていることを私は高く評価したい。

 

「人生は選択の連続」という手垢のついた言葉がある。本作においても二宮さん演じる主人公は「8番出口」という無限ループの世界で二者択一の選択を繰り返し強いられるが、そうした選択を経ていく中で芽生えたものが映画のラストに後味の良い形で結実する。赤ちゃんや子供に対する不安や嫌悪が描かれていたからこそ、あのラストの主人公の選択が光り輝くのと同時に、エンディングの「ボレロ」が彼を称える賛歌のように聞こえてならない。

ドラマ備忘録:「LIAR GAME ‐ライアーゲーム‐」(現在放送中のアニメと併せて)

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タリホーです。最近は現在放送中のアニメ「LIAR GAME」を楽しく視聴しているが、今回はアニメのレビューではなく2007年にフジテレビで放送され大人気シリーズとなった実写ドラマのレビューを備忘録として行っていく。勿論、ただドラマのレビューをするだけでなく、原作及びアニメとの違いなどにも触れながら感想を述べていきたい。

 

ちなみに、私がドラマを見る切っ掛けになったのは当時私の父がドラマを視聴していたからであり、ドラマが漫画原作だと知ったのはもっと後になってからである。

(そして原作をちゃんと読んだのは実は今年の話なのだ!)

 

(以下、ドラマ及び原作・アニメのネタバレあり)

 

作品概要

「LIAR GAME」は2005年に「週刊ヤングジャンプ」で連載がスタートした漫画であり、主人公の女子大生・神崎直(ナオ)が謎の組織「ライアーゲーム事務局」が主催するライアーゲームに巻き込まれる物語だ。

ライアーゲームはその名の通り、プレイヤー同士が互いにゲームを行い、相手を欺きながらマネーを奪い合うもので、勝てば多額の賞金を獲得でき、負ければ億単位の負債を抱えることになる。ナオは強制的にライアーゲームに参加させられる羽目になり、最初の第一回戦で中学時代の恩師・藤沢と1億円の争奪をすることになるが、馬鹿正直な性格のナオはまんまと藤沢に1億を奪われ、それを取り戻すためにちょうどその頃刑務所から出所したばかりの天才詐欺師・秋山深一に助けを求める。かくして、ナオと秋山は嘘と裏切りに満ちたライアーゲームの世界へと足を踏み入れることになる…というストーリーだ。

 

原作は2015年に最終回を迎えたが、今年の2月に「グランドジャンプむちゃ」に後日譚となる「LIAR GAME The Last Game」が掲載され、10月に単行本として発売されるそうだ。後ほど原作について色々と言及するが、2015年に一旦完結した原作はキレイに終われたはずなのに何故か消化不良の感を残す結末として描かれていたので、後日譚が描かれたことに安堵したと同時に、どのような物語が展開されるのか非常に気になっている。

 

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そして今回レビューする実写ドラマは2007年に第一シーズンが放送され、2009年に続編となる第二シーズンが放送。更には2010年に映画「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」が公開され、2012年には「ファイナルステージ」のその後の物語として「ライアーゲーム ‐再生‐」が劇場公開された。主演のナオは戸田恵梨香さん、秋山は松田翔太さんが演じている。

 

ドラマの大きな転換点となった「密輸ゲーム」

ではここからドラマのレビューをしていくが、最初の一回戦から二回戦の「少数決」、敗者復活戦の「リストラゲーム」まではほぼ原作と同じ展開なのだが、この次の三回戦「密輸ゲーム」からドラマは原作と違う展開に改変されている。

 

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密輸ゲームは2つの国※1(チーム)に分かれて、敵国側のATMにある自身のマネーを自分のチームの側へと密輸するというゲームなのだが、YouTube でアニメ公式が「密輸ゲーム」の詳しい解説動画をアップしているので、細かいルールについてはそちら(↑)を視聴してもらいたい。※2

 

※1:原作では北の国・南の国というチーム名になっているが、南北で対立する国と言えばあの国(韓国と北朝鮮)を連想してしまうからか、ドラマでは水の国・炎の国、アニメでは昼の国・夜の国という名称に変更されている。

※2:ただし、完全解説動画なのでゲームの展開もネタバレあり。基本的なルールだけを知りたい方は動画の9分40秒以降は視聴しないことを強くお勧めする。

 

さて、原作とドラマそれぞれのゲームのルール・様式の違いをざっくりと比べると、

【原作・アニメ】

・9対9で行う。

・一人4億、総額72億のマネーが動くゲーム。

・全50ターン行う。

密輸及び密輸阻止によって獲得したマネー(第三国口座額)の多いチームが勝ち

 

【ドラマ】

・5対5で行う。

・一人5億、総額50億のマネーが動くゲーム。

・全30ターン行う。

(自国内のATMに残った残金を含む)国全体のマネー総額が多い方が勝ち

という感じでドラマの方がルールが簡略化されて初見でも理解しやすいよう改変されている。原作及びアニメでは、「ゲームでは勝っても獲得マネーで大赤字になる」という罠が仕掛けられており、秋山はそれを指摘した上で多額の賞金を獲得してゲームから抜ける、つまりは負け抜けを狙った作戦を考案するという流れになるのだ。

 

実はドラマが放送された2007年の時点では原作の密輸ゲームが完結していなかったため、ドラマはゲーム序盤までは原作通りの展開に則り映像化、中盤以降をドラマオリジナルの脚本で埋め合わせしている。そして映像化出来なかった中盤以降の展開は、第二シーズンが放送された際にセミファイナル本戦の「ゴールドラッシュゲーム」で映像化するという方法をとっている。この「ゴールドラッシュゲーム」、ルールは密輸ゲームとほぼ同じだが、密輸するものが札束から金塊へと変更されており、その他原作であった細々とした駆け引きなどは大幅にカット・簡略化されている。

 

ではドラマの密輸ゲームはどのような改変をしたのかというと、まずドラマは原作・アニメと違って(秋山とヨコヤを除く)敗者復活戦の「リストラゲーム」で一緒だったプレイヤー同士が戦うゲームとして改変されているので、ナオは引き分けで全員が四回戦へ進出できるようにゲームを進めていくのだ。これは(原作のように)敵チームのメンバーが初対面の相手だとまず通用しない作戦なので、この辺りは割と改変として自然かつ妥当な感じになっていたと思う。

とはいえ、四回戦が個人戦なのか団体戦なのか、はたまた三回戦と同じメンバーで対戦するのかすらもわからないのに、全員で四回戦進出という方策をとったのは原作を読んだ今となってはあまり賢明な方策ではなかったのではないかと思う。それだったら一人でも多くゲームから離脱させる作戦にした方が良かったのではないだろうか?と批判できなくもないのだ。

 

そしてドラマ版密輸ゲームの改変ポイントとして更に特筆すべきポイントは秋山とヨコヤの対決だろう。勿論これは原作でも描かれているがニュアンスが全然違っていて、ドラマのヨコヤは秋山の母親を死に追いやったマルチ詐欺グループの構成員、要は秋山にとって因縁の宿敵という設定に改変されており、そんな宿敵を完膚なきまでに潰そうとする秋山と、秋山の復讐を止めヨコヤにも救済の道を示そうとするナオが描かれているのがドラマ版の大きな特徴だ。原作の秋山とヨコヤの間には特に深い因縁はないため、この辺りはいかにもドラマらしい、感情に訴えかけるような展開にしたなと評価している。

ちなみに第二シーズンでは、ヨコヤに代わってドラマオリジナルキャラの葛城リョウという女性プレイヤーが登場するのだが、彼女は秋山と同じ大学に通い同じ心理学のゼミ生だったという設定で、ヨコヤとはまた違う因縁のある相手と秋山は対峙することになるが、劇中で大学時代の二人の様子が描かれているものの、結局葛城は何故人を恐怖で支配するような人間になったのか?という点に関してはドラマ内で一切言及されていないので、そこがドラマとして作りこみが甘いなと思わざるを得なかった。

 

とまぁこんな感じでドラマの密輸ゲームの改変には批判ポイントがあるものの、他の改変ポイントがそういった欠点を補っているので総合的に見ればドラマ版の密輸ゲームも見ごたえがある展開になっていたし、特にナオ・秋山と同じチームのフクナガユウジがとったとある行動がドラマ版の名場面として印象に残っている視聴者も多いはずだ。

 

フクナガユウジという男

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©甲斐谷忍プロダクツ/集英社・LIAR GAME製作委員会

さて、原作とドラマを比較する上でやはり語らずにはいられないのが、フクナガユウジである。彼は二回戦の「少数決」から登場し、大金のためなら容赦なく他のプレイヤーを欺き貶める人物だ。ニューハーフという設定も含めて本作の主要人物の中でもなかなかの異彩を放っているキャラクターだが、ドラマではこのニューハーフという設定が(男性が演じるにしろ女性が演じるにしろ)実写ドラマという点では難しいと判断されたのか、大幅に改変されている。

 

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©フジテレビ

そうして生まれたのが、上記の画像のように黒縁眼鏡をかけマッシュルームヘアーの髪型、首にネッカチーフを巻いたフクナガユウジである。見た目もさることながら性格面でも色々と改変されており、原作のフクナガは「密輸ゲーム」以降は一貫してナオと秋山の味方なのに対し、ドラマのフクナガは敵になったり味方になったりとその場その場の状況で立ち位置を変えてくる、「ゲゲゲの鬼太郎」で言う所のねずみ男のようなキャラクターとして改変された。

 

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原作から大きく逸脱したキャラクターになったにもかかわらず、鈴木浩介さん演じるフクナガはドラマ版ライアーゲームを語る上で外せない存在であり、フクナガの狂気じみた高笑いはドラマの非日常的な空間演出とあいまって、物語に大きな彩りを与えている。あまりにもインパクトの強いキャラクターゆえか、「フクナガ VS ヨコヤ」というスピンオフドラマが制作されたくらいだし、私もフクナガのいないライアーゲームは肉の入っていない肉まんも同然だと言いたくなる。それくらい主人公のナオや秋山を喰う勢いのある魅力的なキャラなのだ。

 

矮小な独裁者・ヨコヤ

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©甲斐谷忍プロダクツ/集英社・LIAR GAME製作委員会

フクナガと同様にヨコヤも原作とドラマでは大きな違いがある。前述した通りドラマのヨコヤは秋山の母を自殺に追いやったマルチ詐欺グループの一員だったが、原作のヨコヤは大学生で、とある大企業の御曹司という設定だ。ドラマのヨコヤは「密輸ゲーム」以降は秋山たちとの対戦はないが、原作だとファイナルステージまで秋山やナオの前に立ちふさがる脅威であり、恐怖による支配でプレイヤーを意のままに操ろうとする。

 

ドラマのヨコヤは第二シーズン以降はほとんど登場しないので、彼の人となりがあまり深堀りされないが、原作では彼が支配することにこだわる理由、その彼の行動理念に影響を及ぼした人物のことが詳しく言及されており、ヨコヤが単なる脅威ではなく、どこか未成熟で矮小ささえ感じる独裁者として描かれているのが印象に残る。

数手先まで計算し他のプレイヤーを圧倒するという頭脳面においては確かにヨコヤは恐ろしい敵なのだが、一方で支配という形でしか人間関係を構築できないという精神的な欠陥や未熟さを抱えた人物でもあり、己の価値観や行動理念を打ち崩すナオや秋山と関わっていく中で、ヨコヤは自分自身の礎となる価値観と向き合うことになるのだ。

こうしたキャラクターの掘り下げはドラマの場合、事務局サイドの人間をメインにしており、その分ヨコヤの経歴や彼の行動理念に関してはそこまで掘り下げて描写されていない。ドラマの第一シーズンではライアーゲームを運営する事務局員や運営に必要な資金を出資した出資者の思惑が明らかとなり、それが物語の山場となっている。こうした事務局員の思惑はドラマオリジナルの設定なのでドラマ未見の人は是非チェックしてもらいたい。

 

原作と実写、それぞれのファイナル

LIAR GAME The Final Stage

2010年に劇場公開された「ファイナルステージ」は言うまでもなく映画オリジナルの脚本であり、この時点で原作はまだ完結していないため、ライアーゲームが運営されている理由も原作と実写ドラマでは大きく違っている。

実写版のファイナルステージでは「エデンの園ゲーム」という11人のプレイヤーが金・銀・赤の三種類のリンゴを投票するだけのゲームが行われたが、オリジナルとはいえこのゲームは実にクオリティが高く、正直言うと原作のファイナルステージで行われた「四国志ゲーム」と比べてみても、この「エデンの園ゲーム」の方がゲームとして魅力的だし面白かったと評価している。「四国志ゲーム」は四つのチームが互いに相手のチームを攻撃してHPを奪い、最終的にHPを残した1チームが勝者となるゲームで、個人戦として行われる「エデンの園ゲーム」とは違い団体戦なのが、ファイナルらしくない感じがしたからだ。

それに「四国志ゲーム」が最終ステージであることを考えれば、秋山とナオが(ネタバレなので一応伏せ字)プレイヤーではなく事務局を相手に戦う(伏せ字ここまで)ようゲームを進めるのは当然であり、そのためゲーム自体を特別凝ったものにする必要がなかったというのは何となくわかるにせよ、やはりゲーム自体の面白さは「エデンの園ゲーム」の方が上だ。

 

「エデンの園ゲーム」はゲームそのもののクオリティの高さ・面白さに加えて、陰で他のプレイヤーを欺き優勝しようとする「X」の存在や、序盤から獲得マネーの多さで圧倒的優位な立場にいる「大富豪」がいることで、ミステリドラマにおける犯人当て(フーダニット)の要素があるのが面白い。こうした二段構えのフーダニットが用意されているので、途中でダレることなく物語が展開していくし、11人全員が赤のリンゴを投票するというたったそれだけのことに感動を覚えてしまう脚本構成は流石の一言である。

こうしたゲームとしてのカタルシスが原作の方にはあまりなかったので、私は「四国志ゲーム」よりも「エデンの園ゲーム」を推すのだが、ゲームとしての魅力には欠けた分、原作はライアーゲームが開催・運営された理由をしっかり描いたことで、ゲームで感じた物足りなさを補完している。この点に関しては映画は尻すぼみな結末になってしまっているが、第一シーズンの段階で色々と改変してしまっている以上、原作のような結末にするのはやはり無理だったと私は思っているので、映画の結末は致し方ないという感じだろうか?

 

蛇足感が否めない「再生」

LIAR GAME REBORN -再生-

「ファイナルステージ」の続編として2012年に公開された「再生」は、秋山とフクナガ以外のメインキャストを一新し、ナオの代わりに篠宮優という女子大生が登場する。この映画では原作の四回戦(本戦)で行われた「イス取りゲーム」を実写化しており、ライアーゲームの出資者の一人が秋山に復讐するため「イス取りゲーム」を開催したという映画オリジナルのストーリーに改変されている。

ゲーム自体は原作にあるものなので当然ながらクオリティは申し分ないし、一本の映画作品としては決して駄作ではないのだが、「ファイナルステージ」でキレイに完結していたのを無理に復活させたという感じが否めない。なので結構不満点の多い作品として私は「再生」を評価しているのである。

 

例えば、(前述したように)江角マキコさん演じる出資者は「ファイナルステージ」における秋山たちの活躍によって大損害を被り、その復讐として秋山をライアーゲームの世界にまたしても引きずり出したという設定になっているが、「ファイナルステージ」で活躍したのは秋山だけではないし復讐するなら神崎直も呼ばないとおかしいのでは?と思わずにはいられなかった。まぁこれに関してはキャスティングするにあたって戸田さんのスケジュールが合わなかったという制作側の都合もあるのかもしれないが、とはいえライアーゲームの主人公はやはりナオだと思うし、彼女の人徳や理念がプレイヤーたちの心を動かしゲームを意外な展開へと導いた所はあるので、オリジナルの代役を立ててカバーするのはやはり無理だったと思うのだ。

肝心の「イス取りゲーム」にしても、鑑賞した当時は素直に面白かったと評価していたが、原作を読んだ今となってはちょっとマイナスポイントが目立つ。これは原作既読の方ならわかってもらえると思うが、原作の「イス取りゲーム」は3つの勢力が高度な騙し合い・駆け引き・交渉戦を行うゲームで、特に注目すべきは秋山・ヨコヤとは異質な戦略をとるハリモトグループだ。映画では船越英一郎さんがハリモトを演じていたが、原作のハリモトはもっと手強い存在だし、あんな噛ませ犬みたいな感じでしてやられるようなプレイヤーではなかったのだ。映画は2時間で描き切らないといけないから仕方ないとはいえ、やはり「再生」は原作の「イス取りゲーム」を満足のいく形で実写化したとは言い難い。

 

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あとこちらの予告編(↑)を見てもらうとわかるが、映画ではアリスという子供ディーラーが登場する。当時子役として活動していた芦田愛菜さんが演じているが、いやライアーゲームの世界になんで子供を介入させるのだ?と未だに疑問に思うし、別に映画本編でもアリスにこれといった活躍はない。正に蛇足と言うほかないし、こうしたドラマオリジナルの要素がことごとく足を引っ張っているせいか、「再生」からは全体的に蛇足さを感じてしまうのだ。これだったら「ファイナルステージ」の前にドラマの第三シーズンという形で「イス取りゲーム」を映像化した方がまだ良かったのではないだろうか?

 

「枠の外側にいる敵」に気づけるか?

LIAR GAME 19 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

実写ドラマの感想というかレビューはこれくらいにして、原作について私なりに思っていることをここから述べていくが、もしライアーゲームが単に優れた頭脳戦・心理戦を描いた漫画だったら、私はここまで高く評価していないし印象にも残っていなかったと思う。勿論ゲーム自体は物凄く面白いし創意工夫に溢れているが、その下地に込められたメッセージ性というものに、私は少なからず感銘を受けているのだ。

 

言うまでもなくライアーゲームはプレイヤー同士が戦うものだが、ナオと秋山は一貫して真に戦うべき相手はライアーゲーム事務局だと定め、その信念に基づきプレイヤーたちと協力し、或いは対立することもありながらゲームを勝ち進めていく。プレイヤーという目先の敵に翻弄されることなく、安全圏からゲームを運営しプレイヤーの挙動を眺めている事務局にどう対抗するのか、これがライアーゲームの物語の根幹となる訳だが、本作はライアーゲームという物語を通して私たちに枠の外側にいる真の敵に気づけるかどうかを訴えかけていると思うのだ

 

原作者の甲斐谷氏によると、原作が執筆された2000年代半ばは詐欺事件が起こった際に「騙されるほうも悪い」という自己責任論のような論調が強まっていた時期であり、それに対しておかしいと感じたことが神崎直という主人公を作り出した切っ掛けであり、これが「ライアーゲーム」が生まれた経緯だという。

これと同じようなことは私も考えていたことが実はある。例えば週刊誌が男性アイドルの熱愛記事を報道した際に「アイドルなんだから女性と交際すること自体があり得ない。職業意識が低く脇が甘い」といった意見を度々見かけるけど、私に言わせれば無断でアイドルのプライベートを盗撮して週刊誌として発売している出版社の方が大いに問題があるし、それにファンが過剰に反応するから出版社の利益になるのではないのか?と常々そう思っている。勿論アイドルの側に全く落ち度がないとは言わないけど、一番に責められるべきは週刊誌ではないのか?そうやってアイドルを責めている人たちは正義を振りかざしているけど、矛先を見誤っているのではないのか?ということを言いたくなる時がある。

 

こうした感じで私たちは真に戦うべき相手を見誤って目先の手に届く範囲にある人物を敵として認知し叩いてしまう傾向がある。日常生活においても、政治的な所においても、大半の不毛な争いは戦うべき相手を見誤っていることが原因ではないかと思うし、相手を信じるにしろ敵視するにしろ、まずは疑って相手を理解・観察することを放棄してはいけないということが「ライアーゲーム」の中で秋山の口から語られている。作中のゲームも現実世界の政治的な問題がテーマとして盛り込まれている部分が少なからずあるので、やはり「ライアーゲーム」は単なるエンタメ作品の枠におさまらない、社会派的な要素もある物語だと評価しないといけないだろう。

 

さいごに

以上がライアーゲームのレビューとなる。あまり言及しなかったが、ドラマ版は舞台となるライアーゲームの会場が毎回凝っていて、原作だと会場は大して装飾されていない、何というか無機質でニュートラルな感じの世界観なのだけど、ドラマは薄暗い会場にネオンライトがけばけばしく光る非日常的空間が徹底されていてそこはドラマならではの美点だったと思う。そうした異様なゲーム会場の雰囲気が中田ヤスタカ氏の楽曲と相性抜群で素晴らしかった。毎度ゲーム会場の画面に映し出されるレロニラやフォルリといったディーラーたちも、原作とは違い映画「ソウ」シリーズに登場するジグソウを彷彿とさせる不気味な仮面にアレンジされていて、こうした演出のおかげで「ヤバい組織が運営するゲーム」だということがより一層ダイレクトに伝わるし、美術スタッフのセンスの良さが光っていたと評価したい。

ライアーゲームについてはもっと具体的に語りたいことがあるが、今回はこれくらいにしておこう。前述したようにドラマは既に完結済みだがアニメは是非とも原作通りの展開でファイナルステージまで映像化してもらいたい。少なくとも「再生」の「イス取りゲーム」に不満を抱く者としては、原作通りの「イス取りゲーム」をアニメで見てみたいと熱望してやまない。

相沢沙呼『invert Ⅱ 覗き窓の死角』と倉知淳『世界の望む静謐』を読んで考える、超個人的な倒叙ミステリの面白さ

タリホーです。前回の投稿から1ヶ月以上も経っているが、別にネタ切れとかではなくタイミングを見計らって語りたいネタがあったので執筆・記事の掲載を保留していたという理由があるのと、あとはシンプルに仕事のストレスとかで執筆意欲が削がれていたという、そういった諸々の事情で気が付けば1ヶ月経過したというだけの話だ。

 

で、そんな感じで記事執筆をサボっていた間、私は積読を消化していて、8月に入ってからは4冊も読んだ。社会人になってから(集中力が落ちたのか)読書量が減っていたのに、ひと月に4冊も読めたのは個人的にはすごく珍しいことで、しかも読んだ4冊のうち2冊が倒叙ミステリだったので、今回は読書レビューとして相沢沙呼『invert Ⅱ 覗き窓の死角』と倉知淳『世界の望む静謐』の感想を述べながら、倒叙ミステリの面白さについて語っていこうと思う。

 

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実は倒叙ミステリの面白さについては4年ほど前に日テレ制作の「invert 城塚翡翠 倒叙集」が放送されていた時にちょっとだけ話をしたのだけど、今回改めて語りたいことがいくつか出てきたので、ドラマ放送時のレビューと併せてより深く語っていきたい。

 

『invert Ⅱ 覗き窓の死角』

invert II 覗き窓の死角 城塚翡翠 (講談社文庫)

まずは相沢氏の『invert Ⅱ 覗き窓の死角』から紹介しよう。本作は城塚翡翠シリーズの3作目に相当し、「生者の言伝」と「覗き窓の死角」という2つのエピソードが収録されている。

 

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「生者の言伝」は前述した4年前のドラマで既にドラマ化したエピソードだったので本書を読みながら以前視聴したドラマの記憶を思い返していたが、ドラマと原作との間に特に大きな違いはなかったと思う。ドラマ放送時に気になっていた「夏木少年が友人の別荘で何をしようとしていたのか?」という点については原作の方でもハッキリとしたことは明言されておらず、彼の所持品と彼自身の境遇からその目的を仄めかす程度にしか描かれていなかった。なので、友人の別荘であんなことをしたら迷惑がかかるのではないのか?その目的なら他の場所でも良かったのではないか?という私の疑問は原作を読んでも解消はされなかった。とはいえ、モヤモヤしたのはその点だけで、本筋となるミステリ部分は流石の出来栄えだった。

 

「生者の言伝」も面白かったのだけど、この次の「覗き窓の死角」がいや本当に素晴らしかった!

「覗き窓の死角」はドラマ化されていないエピソードなので簡単にあらすじを述べておくと、本作はフォトグラファーの大川詢子が妹を自殺に追いやった人物たちに復讐するべく、その一人目として花音というモデルを殺害するというお話だ。このエピソードでは詢子がアリバイ作りに何と探偵の城塚翡翠を利用しており、主人公である翡翠はミステリ小説という共通の趣味が切っ掛けで友人になったのに、友人となった詢子を犯人として追い詰めなければならず、そんな翡翠の苦悩が描かれているのも本作の特筆すべきポイントだ。

また、ミステリ小説好きの犯人なので、当然ながら犯行計画も綿密であり、翡翠との対決もハイレベルなものになっている。倒叙ミステリによくありがちな、犯人しかわからない情報を犯人自身がうっかり失言したとか、間抜けな隠蔽工作をしてその粗をバンバン探偵に指摘されるといったようなことはほとんどない。翡翠と詢子の間で繰り広げられる対決も白熱していたし、そんなやり取りの中で見えてくる詢子の復讐に対する執念も凄まじくて印象深かった。

詢子の仕掛けたアリバイトリックは「金田一少年の事件簿」の初期エピソードで用いられたものとほぼ同じトリックだったが、トリック自体が目新しくなくても演出だったりアイテムの使い方・見せ方で全然印象は変わってくるし、死体にのこったとある痕跡からアリバイを崩す終盤の展開は圧巻の一言だった。物語のラストで明かされた「アレ」も、アガサ・クリスティの『ポケットにライ麦を』を彷彿とさせる結末になっていて、最初から最後まで大満足の一作だった。

 

前述したように「覗き窓の死角」はまだドラマ化されていないので、出来ればドラマでも見てみたいと私は思っているのだが、残念なことに原作者の相沢氏は以前ドラマ化の際に日テレと講談社との間でトラブルがあったようで、それがトラウマになるレベルで嫌な思い出になったようだ。

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そのトラブルについては以前別記事(↑)で紹介したので割愛するが、こういうトラブルがあった以上、城塚翡翠シリーズは今後ドラマ化することはもうないだろうし、それだけに一人のミステリファンとして、日テレと講談社の過ちというか大失態はこうして記録に残しておかないといけないなと思っている。

 

『世界の望む静謐』

世界の望む静謐 〈乙姫警部〉シリーズ (創元推理文庫)

続いて紹介するのは倉知氏の『世界の望む静謐』。本作はシリーズ2作目となる倒叙ミステリ短編集で、1作目にあたる『皇帝と拳銃と』は既に読了済みである。

 

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1作目の方はずいぶん前に読んで記憶がほとんどないので、代わりにこちらの方のレビュー記事(↑)を紹介しておくが、本シリーズは死神のような容貌をした乙姫警部と俳優顔負けのイケメンである鈴木刑事のコンビが犯人を追い詰める物語で、2作目に収録された各エピソードのあらすじは以下の通りだ。

 

「愚者の選択」:国民的ミステリ漫画家・椙田保彦の担当編集者である桑島輝貴は、人気シリーズの連載をやめようとする椙田と言い争いになり殺してしまう。椙田が亡くなったことで、やむを得ず「とある目的」を果たすべく桑島は犯行現場を強盗の仕業に偽装するが…。

 

「一等星かく輝けり」:往年の人気歌手・新堂直也は返り咲きのため芸能プロモーターの九木田憲次と仕事の契約を交わしていたが、九木田に金を騙し取られたと知り殺害。現場から自分が犯人だとわかる証拠を一切合切持ち去り逃走に成功するが…。

 

「正義のための闘争」:人気タレントの鷹飼史絵は部下の宮内莉奈を人気のない公園で殺害する。莉奈が史絵の夫・高広と不倫関係であったからであり、史絵はその罪を夫に擦り付けるためとある偽装工作を行う。

 

「世界の望む静謐」:美大専門予備校の講師・里見冬悟は、過去の事件をネタにわいせつ目的で恐喝をしてきた事務員・砂川仁を殺害。外部犯の仕業に見せかけ現場を偽装するが…。

 

以上の4作で犯人たちは乙姫警部に追い詰められ犯行を自供する羽目になるが、まず率直な感想を述べておくと、本作はシリーズ1作目を読んだ時よりもあまり面白いと感じなかった。「愚者の選択」は普通に面白かったし、乙姫警部が桑島を最初の段階から疑った理由も「なるほど!」と膝を打つような意外性があって良かったのだが、それ以外の3作が何とも微妙なのである。

具体的なネタバレは避けてそれぞれの作品で微妙に感じた点を述べるが、まず「一等星かく輝けり」は巻末の千街晶之氏の解説では「本書の中でも白眉と呼ぶに相応しい傑作」と評されていたが、私はそこまで高く評価していない。確かに乙姫警部が新堂を疑った理由は盲点とでも言うべきポイントを突いていて巧いと思ったが、新堂が証拠隠滅したものを乙姫警部が見つける展開はあまりにもあっけないし、被害者の生前の悪事から犯人を追い詰めるその後の展開が何となく読み取れてしまったので、正直意外性に欠けるエピソードだった。

「正義のための闘争」は乙姫警部が犯人の墓穴掘りを誘導する、「刑事コロンボ」シリーズでよく見られる「逆トリック」形式の作品なので、犯人の犯したミスを指摘してじわじわ追い詰めるという倒叙ミステリの妙味に欠けるのが残念だ。そして表題作の「世界の望む静謐」は最後の決め手となる証拠が個人的には評価しづらい。直接的な物証ではなく間接的な物証とでも言うべき代物で犯人が追い詰められるのだが、論理的にはともかく実際に裁判になった際に果たしてアレがどこまで証拠能力があるのか疑わしくなるし、そもそも犯人が自宅ではなく犯行現場の予備校で(ネタバレなので一応伏せ字)被害者の死に顔をデッサンする(伏せ字ここまで)なんて迂闊にも程がある!何のために現場の偽装工作をしたんだよ!ってツッコみたくなるくらいの愚行だった。

 

倒叙ミステリは魅力ある探偵役を描いてこそ

以上、『invert Ⅱ 覗き窓の死角』と『世界の望む静謐』を読んで改めて倒叙ミステリの面白さについて考えるが、まず第一の前提として倒叙ミステリは犯人と犯行動機を明かしたものが大半なのでフーダニットとホワイダニットというミステリ小説における面白さの重要な部分を放棄しなければならないことが挙げられる。

通常のミステリ小説における「意外な犯人」だったり事件の裏に隠された「意外な犯行動機」といったもので読者の興味を引き付ける手法がとれないので、倒叙ミステリは犯人が犯したミスをどのように探偵(刑事)が暴くのかが何より重要となってくる。そしてそのミスは読者が簡単に見抜けるようなものであったら面白くない。視聴者の意表を突くもの或いは視聴者さえも盲点として見落としてしまうようなミスでないといけないのは言わずもがなだ。

 

そして倒叙ミステリの面白さはミステリ的な要素だけではなく物語としての面白さ、特にキャラクターを魅力的に描くことが実は何よりも大事だと今回の読書で感じた。

これは特に『世界の望む静謐』を読んでもらうとわかるのだけど、死神の乙姫警部とイケメンの鈴木刑事というちぐはぐコンビは文章でわかりやすくビジュアル化されている一方で、内面的な魅力とかコンビとしての軽妙洒脱なやり取りはほとんど描かれていない。見た目のインパクトが抜群というだけで、「古畑任三郎」の古畑と今泉刑事のような名コンビとは言い難いし、これなら鈴木刑事をカットしても物語として問題ないのでは?とさえ思ったほどだ。

要は何が言いたいかというと、倒叙ミステリは本筋となる事件やその犯人像をキッチリ描くのは勿論のこと、それを追う探偵や刑事も魅力的でないとやはり面白くないのである

 

考えてみてもらいたい。もし古畑任三郎が角刈り頭の無骨な刑事で、食に対してさしてこだわりもなく淡々と事件を調査して、今泉のような部下もいなかったとしたら、果たしてあれだけの人気シリーズに成り得ただろうか?「古畑任三郎」は犯人は勿論のこと、古畑の一挙手一投足や毎度不憫な状況に陥る今泉刑事も見どころであり、この名コンビがいたからこそシーズン3まで制作されるドラマになったと思うのだ。倒叙ミステリドラマの金字塔である「刑事コロンボ」だって、プロトタイプである「殺人処方箋」の時の、スーツをきっちり着用したコロンボのままでは名刑事として視聴者の印象に残ることはなかったかもしれない。

 

通常の、犯人やトリックの謎を突き詰めていくミステリならば、探偵役となる人物にさほど魅力がなくても事件そのものの謎と面白さで満足感が得られるが、先ほども言ったように倒叙ミステリは事件や犯人に秘められた謎を面白さの軸に据えることは基本的に不可能なジャンルなので、その分をキャラクターの魅力で牽引しないことにはやはり人気は出てこないと思う。

例えば、大倉崇裕氏原作の福家警部補シリーズなんかが正に良い例で、福家警部補シリーズは倒叙ミステリとしてクオリティは高い方だと私は思うのだけど、肝心の主人公となる福家警部補に関しては古畑任三郎やコロンボみたいに特別クセの強い刑事ではないので、どうしてもその点でいざ映像化するとなると地味になりがちだ。福家警部補は過去にドラマ化されているが、倒叙ミステリを語る上であまり多くの人が話題に出さないことを思うと、やはり犯人を追い詰める刑事や探偵にも魅力がないといけないということだろう。見た目だけでなく、趣味嗜好、考え方のクセや行動理念が読者や視聴者に届くレベルの魅力を描かないといけないし、城塚翡翠はその点をクリアしていると私は評価したい。

 

刊行当時話題となった青崎有吾『地雷グリコ』をレビュー

今年の4月から放送中のアニメ「LIAR GAME」を楽しく視聴している真っ最中のタリホーです。「LIAR GAME」はまた後日当ブログでドラマ版と併せて備忘録がてらレビューを書こうかと考えている所だが、今回はそれに関連して2023年に刊行され話題となったこちらの小説をレビューしてみようと思う。

 

地雷グリコ (角川文庫)

それがこちら。青崎有吾氏の『地雷グリコ』である。青崎氏と言えば当ブログで以前レビューしたアニメ「アンデッドガール・マーダーファルス」やドラマ「ノッキンオン・ロックドドア」の原作者であり、本書は2024年に第37回山本周五郎賞、第77回日本推理作家協会賞、第24回本格ミステリ大賞を受賞し、刊行当時は Twitter でも本書のタイトルがトレンド入りするなど客観的に見てもかなりの話題作だったのだが、私は単行本を買えるほど裕福な経済状況とは言えないので文庫化を待ちに待ち、先月の6月にようやく文庫版が発売されたので購入し読んだ次第である。

 

私は青崎氏の作品はデビュー作の『体育館の殺人』から色々と呼んでいるし作風なんかも大体わかっていたので、当然ながら本作も楽しく読ませてもらった。詳しい感想はこれから語っていくが、話題になるだけの面白さもあるし、これだけの賞を受賞したのも納得のクオリティだと思う。

 

一応簡単に本作の概要を説明しておくと、舞台は頬白高校という学園を中心に、主人公である女子高校生・射守矢真兎(いもりや・まと)が生徒会役員や地元のカフェ店主といった様々な相手と特殊なゲームを行う物語で、私たちがよく知っている「グリコ」や「坊主めくり」「ジャンケン」がハラハラドキドキの心理戦・頭脳戦としてアレンジされ、そんなゲームを射守矢はいかにして勝負に勝っていくのかが本作最大の見どころとなる。

例えば表題作「地雷グリコ」はジャンケンをして勝った手に応じた数だけ階段を上るという従来の「グリコ」のルールに地雷という要素が足される。プレイヤーは46段ある階段のうち3ヶ所に地雷を設置し、対戦相手が自分の仕掛けた地雷がある段数で止まった場合「被弾」となり、ペナルティとして10段下に降りるというルールだ。

本書ではこの「地雷グリコ」を含む5つのゲームがあり、それぞれのゲームに意外な攻略方法やイカサマが用意されているのである。

 

ちょっと横道に逸れた先にある答え

本作は一般的なミステリ小説における殺人や窃盗・誘拐といった犯罪を扱ってはいないが、それでもミステリ小説として大賞を受賞しているのは、本作にミステリ小説としての妙味があるからだ。

基本的にミステリ小説は作中で提示された謎を解決することを目的とした小説で、その解決には論理性が求められ、解決に説得力をもたせるために作中にはいくつもの伏線が仕込まれる。この観点から本作を分析していくと、本作の謎に相当するのは「射守矢はいかにしてこのゲームをクリアするのか?」という部分だろう。当然ゲームにはルールというものがあるから何でもアリの手段が通用しないし、そのルールという拘束・縛りの中でこの射守矢という女子高生は論理的に攻略の道を見つけるのだろう…と普通はそう考えるはずだ。

 

しかし、本作はこのルールという網を巧妙にかいくぐり、盲点を突いた攻略を読者に提示している。

 

これは「LIAR GAME」をはじめとする心理戦・頭脳戦を描いた作品では決して珍しくない話だけど、本作はミステリ作家の青崎氏が書いているのでその意表を突く攻略法は読者にアンフェアなものではない。私たちもちょっと視点を変えれば思いつくようなシンプルさがありつつ、でも容易には思いつかないというこの絶妙な塩梅が本作の評価ポイントである。

ミステリ小説の中でも、登山の如く地道に論理を積み重ねていくと犯人が特定出来るものもあれば、ちょっと視点をズラしたり考え方を変えるだけで一点突破的に犯人やトリックに辿り着けるものがある。本作は論理性もありつつ、この「ちょっと横道に逸れた先にある答え」が用意されているのが素晴らしいなと感じたのである。

 

この「ちょっと横道を逸れた先にある答え」を特に強く感じたのは本作の三つ目のエピソード「自由律ジャンケン」だ。このゲームは一般的なグー・チョキ・パーの3つの手に加えてプレイヤーが独自に考えた「独自手」が設定・使用出来るゲームであり、プレイヤーが考えた独自手を加えた5種類の手でジャンケンをし先に4回勝った方が勝者となる。

詳しくは是非本書を読んでもらいたいのでネタバレは控えるが、このゲームは他のゲームと違い、一度独自手を設定したらあとは普通にジャンケンをするだけなので、イカサマを差しはさむ余地が一切ないという特徴がある。プレイヤーが出来ることと言えば相手が設定した独自手の効果を推理するとか、相手が次にどんな手を出してくるか、といった選択肢しかない訳だから、そこに意外な展開を盛り込むのは不可能だと思うかもしれない。

だがしかし、この「自由律ジャンケン」ではそんな読者の予想を超えた攻略法が用意されている。勿論それは設定されたルールの中で、決してイカサマではない形で行われる手段なのでこの攻略法を読んだ時は素直に脱帽したものである。この意表を突かれる感覚は(個人的には)島田荘司氏の『占星術殺人事件』レベルと言って良いかもしれない。

 

あくまでも青春小説

大体の頭脳戦・心理戦を扱った作品は人の生命や大金を賭けることで緊張感を演出しているが、本作は別に人の命が賭けられるような作品ではない。物語の後半では大金がかかった勝負も行われるがそれがこの物語の本質ではないし、主人公の射守矢の行動理念も壮大な何かがある訳ではない。本作はあくまでも青春小説としての結末を迎えるに過ぎないのだ。

 

これもネタバレを回避つつ言及したいが、学生時代に経験したトラブルや悩みって大人になった今思えば「何であんなことで深刻に悩んでいたのだろう…」と感じるようなものだったりする。本作の場合、文化祭での場所取り争いやカフェ店の出禁といったトラブルがゲームを通して決着へと導かれるのだが、作中で描かれるトラブル自体は大人の目線で見れば取るに足らない問題、数年も経てば悩む必要も考える必要もないようなものばかりなのだけど、それでも射守矢は絶対的な勝利をつかむため策を弄すのである。そしてその彼女の行動原理には人生というものが連続的なものであるという普遍的な思想があるように思うのだ。

 

確かに学生時代のトラブルや悩みというのは学校という閉ざされた環境や人間関係から抜け出してしまえば一気に解消されるが、とはいえそこで経験した悩みや苦労、或いは恨みつらみといったネガティブな感情は何かしらの形で尾を引いてその人の今後の人生に影響を及ぼしてしまう。いじめなんかは正にその代表例だし、受験にしてもどの学校を選びそこで誰と出会うかによって人生は大きく左右されてしまう。たかが文化祭の場所取りであろうと、近所の店であったトラブルであろうと、それは必ず今後の人生に何かしらの影響を及ぼすパズルのピースとなり得るのだ。

本作の主人公・射守矢真兎は正にこの人生の連続性というものを理解している人間だろう。だからこそ、後々禍根を残すようなことはしたくないし、そういったトラブルに関わる以上、確実な勝利を求めようとするのは何もおかしい話ではない。ひりひりした心理的駆け引きや頭脳戦がメインではあるが、本作の核となるのは思春期の学生が抱える感情のわだかまり、それに対する真摯さだと考えている。非常に特殊な形式ではあるが、本作は間違いなく青春小説としても評価出来る一作だ。

原作既読勢としては”怖さ”より”感心”が勝った秀作【映画「口に関するアンケート」レビュー】(一部ネタバレあり)

タリホーです。もう既に知っている方もいると思うが、今年の9月に松竹制作の映画「八つ墓村」の公開が決定した。監督は「呪怨」シリーズを手掛けた清水崇氏であり、ホラー映画を専門にしている方なのでミステリ小説として発表された原作とは違い、ホラーに全振りした「八つ墓村」になると推察されるが、横溝正史作品のファンとしてまた9月になったらレビューする予定だ。

 

【映画化記念特典付】口に関するアンケート

で、今回はその清水監督が手掛けた映画「口に関するアンケート」をレビューしようと思う。原作は『近畿地方のある場所について』で作家デビューした背筋氏によるもので、わずか60ページほどの短編小説を約90分の長編作品として映画化している。映画化することは昨年の時点で知っており、私は既に原作を読んでいたので『近畿地方~』の時以上に「どうやってこの原作を映画化するの…?」という疑問がわいていたから、これは鑑賞してレビューを書かないといけないと思っていた。映画の感想を述べる前に、まずは原作小説がどういう作品でどういう特徴があるのかをざっと説明しておこう。

 

(以下、原作を含む映画のネタバレが一部あり)

 

実験的作品

口に関するアンケート

前述したように、原作小説はわずか60ページほどの短編で、本の大きさも文庫本よりも小さい手帳というかメモ帳ほどの大きさの、文字通り「掌編」と呼ぶに相応しい作品だ。内容はとある心霊スポットに行った5人の男女の証言と、その証言を読んだ読者に対するアンケートの2つで構成されており、一般的なホラー小説と比べてみてもかなり異質な構成になっている。映画公開後の背筋氏のインタビュー動画※1によると、本作は芥川龍之介の『藪の中』を参考に書かれたもので、作中で明確な事実や答えが明らかになるのではなく、その答えや解釈を(ある程度)読者に委ねた形式の作品になっているのが特徴と言えるだろう。

 

これは実際原作を読んでみるとわかるのだけど、5人の男女の証言には明らかに違和感を覚える部分があるし、原作者の背筋氏も読者が混乱するよう意図的に証言にとある錯誤というか誤認を仕掛けている。なので本作はジャンルとしてはホラーなのだが、仕掛け自体はミステリ小説の手法に近く、最後のアンケートの下りもミステリ小説で言うところの伏線回収の役割を果たしている。

同じホラーとはいえデビュー作の『近畿地方~』が「神に見つかってしまう恐怖」を描いた作品なのに対し、本作は「意味が分かると怖い話」という感じの作品だ。身も蓋もない言い方をすれば本作の証言パートは5人の男女が心霊スポットに行って、そこで怖い体験をしたことを語るというただそれだけの、何も珍しくも目新しくもない体験談に過ぎないのだが、それをミステリ小説的手法というか技法を以て独自の恐怖を演出しているのが『口に関するアンケート』の特筆すべき評価ポイントと言えるだろう。

 

なので、本作は王道のホラーというよりは実験的な試みがなされた作品であり、それだけに映画化するとなると多くの課題がある。昨年映画化した「近畿地方~」も原作が断片的な情報を寄せ集めたものという、一般的な物語における起承転結の構成になっていないという点で映画化しづらい作品だと別の記事※2でレビューしたが、本作の場合は5人の男女の証言とアンケートだけで構成された作品であり、心霊スポットに行った男女の末路とその原因となる出来事、つまり原因と結果しか描かれていないので尚更物語として欠落した部分が多く、読者がその欠落部分を補完することを前提にした作品でもあるから、果たして映画の制作陣はこの原作をどう映像化するのか、原作における仕掛け・企みを映像としてどう表現するのか、そこが注目ポイントだった。

 

※1:新作映画『口に関するアンケート』徹底インタビュー!鳥肌演出!○○量爆増!図書館のシーンのアレは何?※一部ネタバレあり 監督:清水崇×原作者:背筋【ジャガモンド斉藤のヨケイなお世話】- YouTube

※2:終盤の〇〇的存在が評価の分かれ目か?【映画「近畿地方のある場所について」レビュー】(一部ネタバレあり) - タリホーです。

 

素材の味を活かした秀作

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では実際に映画を鑑賞してみてどうだったかという話になるが、映画の予告編でも映っているように、原作の5人の男女の証言の下りは三人称視点や一人称視点で撮影されたものだけでなく、証言者の顔をどアップに映した部分がある。これは原作既読の方ならその演出の意図はなんとなくわかるだろうし、原作未読の方にはこの後のサプライズとして効果的な演出になっていたと言えるだろう。

あくまで体感に過ぎないが、この映画の約3~4割くらいはこの証言者の顔面のどアップに尺を費やしているので、ここの顔面どアップ状態での証言パートにおける俳優陣の演技がイマイチだと本作は駄作になっていたと思う。私は演技面に関してそこまで偉そうに言えるほどドラマや映画漬けの生活を送っていないので、いち素人の意見として言わせてもらうと、板垣李光人さんをはじめとする俳優陣の演技は間違いなくこの映画のクオリティに貢献していたと評価している。原作を読んでいたからわかるが、本作は証言者のちょっとした表情の変化も物語の伏線になっているし、映画の序盤でとある人物の表情を見た時は思わず「フフ…」と心の中でニヤついたくらいだ。

 

脚本面に関して言うと、原作が原因と結果しか描いていない作品なので当然オリジナルのパートが追加されており、証言者の5人が心霊スポットに行ったことで怪異に襲われる展開と、中村獅童さん演じるギャンブル依存症の刑事による捜査パートが映画オリジナルのプロットだ。この刑事による捜査パートは観客が作中で起こった出来事について混乱しないよう物語をある程度整理する役割を果たしており、また本作の根幹となる「口は災いの元」というテーマを補強する上でも重要な役割を果たしていたと思う。こういう原作の映像化においてはオリジナル部分が原作の良さを阻害したり殺す結果になってしまった作品が多々あるが、本作に関しては原作が持っている良さを最大限に活かした作りになっていたのも私が本作を好意的に評価している理由の一つだ。

 

例えば、5人の証言者に降りかかった怪異(呪い)は、いずれも呪いの木・蝉・首吊りといった原作で使われたモチーフやアイテムを利用したものであり、それ以上のアイテムやオリジナルの怪異を盛り込んだ恐怖演出は使っていない。これは予想の範囲内の恐怖しか描かれていないと批判的に評価出来てしまう所がなきにしもあらずなのだが、私はむしろ原作にある素材の味を最大限に活かした映画だったと評価している。

映画なのだから肉付けしようと思えばいくらでも展開を延ばすことは出来たと思うし、それこそ昨年公開された「近畿地方~」のように、登場人物の一人が怪異に抵抗しようと決死の行動をとる(霊能力者の力を借りる、元凶となる呪いの元を断ち切るなど)展開を描くことも出来たはずだ。でもそういった余計な肉付けをしなかったことが本作の場合は功を奏していたのではないかと考えていて、原作自体がシンプルで実験的な作品だから、そのシンプルな味わいを活かし原作から大きく逸脱するような展開を盛り込まなかったおかげで、「あ、この制作陣は原作の勘所が分かっているな」と好意的に受け取ることが出来たのである。

 

勿論、批判ポイントがない訳ではない。一つ挙げるなら、本作の重要な要素であるアンケートに関しては、原作の場合それが5人の証言者が辿った末路を示し、証言に隠された違和感を明らかにする、ちょっとした伏線回収とそれに伴う恐怖を演出する意味合いがあったのだけど、今回の映画の場合このアンケートは「この物語を見てあなたはアレをどう解釈しましたか?」という、観客に考察・解釈を促すという程度の効果しかない。なので、どうしても原作と比べるとアンケートの重要度が下がっているのは否めない。

ただ、原作は文字媒体の作品だからともかく、映画は映像による良さを出さないといけないので、5人の証言者が辿った末路をビジュアル化することなく、(原作通り)アンケートの内容だけでその末路を仄めかして物語を終える訳にもいかないだろうし、改善策を考えようにもあれ以上にやりようがないと私は思ったので批判として挙げたがそこまで強い批判でないことだけはハッキリと言っておきたい。

 

恐らくだが、制作側も映像化する上で生じるデメリットも考慮していたと私は思っていて、その結果盛り込まれたのが原作にはない「とある事実」だ。このアイデアは映画のパンフレットによると原作者の背筋氏が原作を執筆する際に考えていたもので、清水監督を含む制作陣が背筋氏からそのアイデアを提供してもらい映像化するに至ったという。確かにこれならば原作既読でも新鮮な驚きを味わえるし、最後のアンケートも(原作ほどではないが)有効に利用出来るアイデアだなと感心させられた。

 

さいごに

以上が映画「口に関するアンケート」の感想だ。以前レビューした「近畿地方~」は怖さもありながら面白さもある作品として評価したが、本作の場合は怖さよりも「映像化するメリットよりもデメリットの方が多いあの原作を、よくぞ秀作ホラーとして映画化したな…!」と感心する結果になった。原作既読だったからこそ改変した部分や映像作品としての伏線がするすると理解出来たので、もし原作未読だったら「ちょっと変わったホラー映画」くらいの評価になっていたかもしれない。原作を読んでいるかどうかも評価を左右するポイントなので、個人的には原作を読まずに映画を鑑賞した人の感想もチェックしたい所である。

 

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それにしても、こうして映画「口に関するアンケート」を見た後だと以前レビューした映画「変な家」ってホラー映画のプロが撮った作品ではなく、ホラー映画が好きなアマチュアが撮った作品だなと改めて感じさせられる。私自身は映画「変な家」は決して嫌悪するレベルの駄作だとは思ってないが、とはいえ原作の持ち味を活かせていたかというと流石に否で、終盤の村での怒涛のホラー展開は原作のアイデアを膨らませたという範疇を超えたものだったから、この辺りの匙加減を原作者である雨穴氏に相談するなり何なりしておいた方が良かったかな~と思い返した次第である。

 

そう言えば、『口に関するアンケート』は映画だけでなくコミカライズもしたようで、あの「血の轍」の作者である押見修造氏が担当したということで先日1話を読んでみた。こちらは映画と違い原作通りの展開になると思うが、やはり映画と漫画では怖さの質感が全然違うね。