タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

「准教授・高槻彰良の推察」Season2 1・2話視聴(ネタバレあり)

どうも、タリホーです。先週は当ブログで言及した通り感想をお休みして、1・2話を今回まとめてお送りします。ちなみに来週も区切りが悪そうならお休みして3・4話でまとめて感想を書こうと思います。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

1・2話(奇跡の子供)

准教授・高槻彰良の推察2 怪異は狭間に宿る (角川文庫)

シーズン2の始まりを告げる1・2話は原作2巻の第三章「奇跡の子供」奥多摩で小学生を乗せたバスが湖に転落、乗客と運転手全員が死亡したなかで唯一生き残った女の子・刈谷愛菜が「奇跡の少女」として崇められ、一種の流行神として扱われている。変な宗教団体ではないかと危惧した人物の調査依頼によって高槻らが調査に乗り出すというのが本作のあらすじ。そして本作は高槻の過去に深くリンクした事件として重要な物語であり、普段は理性的な方策をとる高槻が感情的になった点を見ても特別な事件だということがわかる。

ドラマは依頼者がオリジナルキャラクターの寺内一に変更されている以外はほぼ原作通り。また原作ではこの時点で高槻は背中の傷を見せておらず、深町との入浴は当然ながらなし。深町と高槻が入浴出来ているのはシーズン1で背中の傷に触れたことで叶ったファンサービス的演出と言えるだろう。

 

ファンタジーに埋没する

今回の民族学ネタは上記したように「流行神」を扱っており、災いを福に転じる思想や、ちょっとした物事に縁起を感じる日本人の感性に焦点をあてている。流行神ではないが、御所に雷を落とし仇敵を殺した怨霊・菅原道真を祀りあげ、学問の神様(天神様)に転じさせたケースがその良い例だろう。

ただし、今回のケースは生きた人間を神格化させており、それがいかにマズいかを示している。そしてシーズン1の2話でも描かれたフィクションによる現実逃避がこの回でも描かれているのが注目すべき点だ。

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フィクションを作り出して辛い現実から逃げようとする点は共通しているのに、何故今回の方が深刻なのかはいちいち言及しなくてもわかるだろうが、一応言語化しておきたいと思う。

 

山崎綾音の「針の呪い」の自作自演はあくまでも日常に付け足されたファンタジーで、そのファンタジーがなくなった所で綾音は別の逃避をとろうと思えばとれた。一方の刈谷親子が生み出した「奇跡の少女」のファンタジーは、ファンタジーそのものが日常の糧になっており、それすらないと精神の均衡すら危うい状態だったはず。そのファンタジーが奪われると刈谷親子はいじめを受けた過去と貧困に向き合わねばならないし、内なる世界にファンタジーを作りそれに埋没したからこそ彼女たちは外の地獄のような現実と折り合いがついていたのだ。

特にいじめを受けていた愛菜にとって外の世界の人間は母親が感じる以上にもっと怖い存在だっただろう。本来なら怖くてコミュニケーションなどとれない状態だっただろうが、それでも客人と対面することが出来ていたのは、自分を神格化したことも勿論あるだろうが、訪れる客人が親子二人で生み出したファンタジーの世界に即した振る舞いをしてくれるからだったのではないだろうか。だからその振る舞いを見せず、親子二人で作り上げた幻想を壊そうとする高槻らに対してあれだけ激しく拒絶したのだと思う。

 

拒絶といえば、先週の1話で愛菜が高槻に自分が描いた絵を渡す場面があったが、あそこで描かれた鳥の目が赤色だったことと、それを渡す時の愛菜の腕の出し方と表情からあの絵が「鳥が苦手な高槻をからかってやろう」と冗談交じりに描かれた絵ではなく拒絶の絵だったことを示している。原作でも愛菜はこの初体面で拒絶を示している(文庫本の234頁を参照)が、それは深町が愛菜の目線からそう感じ取っただけであり、この辺り、ドラマは上手い具合に映像演出として表現したなと思ったよ。

 

本来なら高槻は刈谷親子のファンタジーに対して、それが親子の相互依存によって成り立っていること、そのどちらかが死んだらいとも簡単に崩れる危ない橋であることを、高槻自身の過去を開陳させつつ説得すれば今回のような修羅場は回避出来たのかもしれないが、それを言わないで荒療治的手段をとってしまったという所に高槻が自身の過去についてトラウマ感情を抱えていることを証明していると言えるだろう。

まぁ、ここで「自分もそうだった」なんて言っちゃったらドラマとしても質が下がるし、トラウマの度合いも薄まってしまうから、辛いけどあの修羅場は必然なのよね…ww。そもそも深町にも「天狗様」期の少年時代について詳しく語っていないのだから、高槻にとっては根が深いトラウマ的体験だったことはここで大体察しが付く。

 

※シーズン1の7話で登場した遠山に対して言及したことと同じだが、神様と同じ境地で生きるということは自分は救う立場であっても自分自身はある意味救われないし、辛いことがあっても誰かにもたれかかることは出来ない。神様は常に孤高であり、特定の人に執着することすら許されないのだから。

 

(注:以下、寺内一に関する考察を書いていきます。現段階で先入観を持たずに楽しみたいという方は、ここで本文を読むのをやめることをおすすめします)

 

胎内回帰する寺内の「幼児退行」な一面

シーズン2より登場してきたドラマオリジナルキャラクターの寺内について、実は予告の段階でこうじゃないかな?ああじゃないかな?といった推測というか予想を色々とやっていて、特に彼の精神面を如実に表現していたと感じたのは、前回の終盤で映った寺内の寝室

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この映像の1分9~12秒のカットで映っているのが問題の寺内の寝室なのだが、部屋の真ん中にベッドを置き、暗幕が吊り下げられた面を除いた三方を高槻の盗撮写真で埋め尽くしている。ジャニーズとかアイドルのファンならば壁一面に自担のグッズやポスター・写真を貼っておくというのは当然のことなので、寺内がこうやって三方に写真を貼っておくのもある種の崇拝的執着であることはわかると思うが、それでも何というか、祭壇みたいに祀る感じでレイアウトしていないのが普通の崇拝とは違う感じがして気になっていたのだ。

 

これを見て私が考えたのは「この寝室は寺内にとってお母さんの子宮みたいな場所ではないか?」ということだ。明確に子宮を象徴するものはないが、中央にベッドを置くレイアウトや暖色の照明が置かれた薄暗い空間、玄関をまっすぐ行った一番奥にこの寝室があるという部屋全体の作りなどから、寝室が寺内の胎内回帰の場であるという仮説が立てられる。

また、この寝室に子宮をイメージしてしまうのは以前シーズン1の最終回の感想で言及した高槻の母性的な性格のことがあって、母性的象徴である高槻の写真を部屋一面に貼りまくることで母親に見守られている感覚を得ようとしていたと、そういった仮説も同様に立てられるのではないだろうか?

 

このどこか幼児性を秘めた寺内のキャラクターについては彼を演じる小池徹平さんもインタビューで「ある意味、心が童心のまま」だと言っていたので間違いないだろう。そして今回の「奇跡の少女」の一件で彼が打ち明けた思惑にしても、寺内の幼児退行的な一面がうかがえる。

一般的に他人と関わり一定の年齢を過ぎれば、人は社会的な自己を確立して内なるファンタジーの世界に埋没することはない。高槻も「天狗様」としてもてはやされた少年期を異常だと思い、成熟した人間のすることではないと判断出来たから、准教授という社会的な自己像を確立し外の世界に対応出来たと思う。特に大学の教授職は研究という内向とその成果を発表する外向の両方のバランスがとれた職業だから、精神の均衡がとれる適職だったのではないかと私は思うのだ。

一方の寺内は高槻と同じくらいの年齢にも関わらず「天狗様」の復活を望むファンタジーに生きる男だ。ファンタジーは癒やしとして必要だから一概に否定はしないものの、それに埋没するというのは、悪い言い方をすれば社会的に未熟であるとも言えるのだ。ただ、寺内はそれを未熟だと思わず外の社会の方が間違っており、自分と高槻ならその社会をコントロール出来ると思っている。要は、内なるファンタジーによって外の社会を自分の都合で浸食・操縦しようとする願望が寺内にはある。それが厄介にも「天狗様」という神秘体験によって補完されているので、より狂気性に拍車がかかっているように見えるのだ。

 

そもそも寺内に子供っぽさを感じるのは、「奇跡の少女」の一件が解決したこの時点で自分の目的をあっさりと高槻らに打ち明けている所にも表れていると思っていて、私だったらこの時点で「天狗様」復活のため行動していることを高槻だけでなく深町や警察関係者の佐々倉にまで開陳してしまうのは時期尚早というか思慮に欠けているとさえ思うのだ。まぁ佐々倉が警察の人間だと知っていたのかどうかはわからないが、少なくとも深町の前で言ってしまうのは賢明ではないと思う。

とはいえ、まだ彼が幼児退行しファンタジックな世界に埋没するに至った背景が不明なため不気味なことに変わりはない。そして、彼が見せた背中の傷や青く光る瞳が高槻と同じ体験をした結果だったとしても、それならば何故一人で社会をコントロールせず高槻を巻き込むのかという疑問が残る

 

寺内の幼児退行的な面は本来なら関わらないのが一番だが、自分と同じ体験をしたかもしれないという点では高槻にとって寺内は無視できない蠱惑的な存在と言えるだろう。それだけに、深町や佐々倉といった此岸の人間がどのようにして暴走するかもしれない(もう既にしているかも…)寺内のファンタジーを食い止めるのか、非常に気になるね。

【お知らせ】「准教授・高槻彰良の推察」Season2の感想記事について

Twitterの方ではもう言及したのですが、シーズン2の感想は2話分にまとめてから感想記事をアップしようと思います。

放送当日になってから気付いたのですが、各回が正味25分で全8回なので、1話完結と違って情報量が少ないし感想を書こうにも推測ばかりで身のない話になりそうなので、これまでのように毎週感想を書くのはやめようと思いました。

 

シーズン1最終回の感想記事では「もうドラマの感想書くのやめようかな」とメンヘラ気味になっていたのですが、シーズン2の予告を見て思ったことがあったのと、TwitterでのRT数や反響・ご意見もいただいたので、引き続き感想を書いていきます。難しい文体・内容になる部分も多々あるかと思いますが、また読んでいただければ幸いです。

 

ちなみに、さきほど初回放送を見ました。一応原作のエピソードも既読済みなので展開についてはわかっているのですが、ドラマオリジナルキャラクターの寺内一の存在があるので当然既読していても謎が多いですね。あとまさか初回から高槻・深町コンビのお風呂場面が出て来るとは思いもしませんでしたよ。ファンの皆さん大丈夫だったかな…。

それから、シーズン1最終回の感想記事で言及した高槻が抱えるトラウマに関しては母親の設定が原作と違っているみたいなので、それについても原作との相違が語れたら良いなと思います。

 

また改めて感想は書きますが、今回見て思ったことや予想についてちょっとだけ以下に(一応備忘録の意味もありで)紹介しておきます。先入観を持ってドラマを見たくない人もいるでしょうから、括弧内は伏せ字にしておきます。

・シーズン2の縦軸である神隠し事件は「神の模倣」であり、「神に裏側から近づく」行為ではないか?

・寺内も「異能持ち」の人間か?

・写真だらけの寺内の寝室は「子宮」をイメージしている?

・(予告映像より)高槻と寺内の足が湖に浸かっている=「同じ感覚・能力を共有」していることの表れか?

ゲゲゲの鬼太郎(5期)第12話「霊界からの着信音」視聴

今回は10月21日までの配信。

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以津真天

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以津真天は鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にその姿が描かれているが、伝承自体は太平記に記された怪鳥の記録を元にしており、怪鳥の名もその鳴き声に漢字をあてたものである。

原作で以津真天は登場せず今期のアニメで初登場。またビジュアルも伝承のような怪鳥ではなく巨大な朱色のヒルに翼がついた見た目で、怪獣と呼ぶのが相応しい。以津真天を題材にした物語は「地獄先生ぬ~べ~」で描かれているが、ぬ~べ~の方は比較的ストレートに「死体を粗末に扱うな」という教訓話となっているのに対し、今回の鬼太郎における以津真天はそもそも妖怪の成り立ちから変えており、現代に即した物語になっているのが評価ポイントとなるだろう。

 

妖怪の再構築と転換する「呪いの言葉」

元の伝承となる『太平記』における以津真天は、疫病の流行で大量の死者が出た時に現れた怪鳥であり、後世の妖怪図鑑ではその鳴き声から「(死体をきちんと供養せず)野ざらしのままいつまで放っておくのか」と恨んで「いつまで」と鳴く怪鳥の妖怪であると解説している。つまり、疫病や飢饉で死んだ人間の霊が妖怪化したものというのが従来の以津真天だったが、5期では(ベースに人間の魂が関わっているものの)無造作に打ち捨てられたゴミたちが妖怪化した、付喪神の一種として描かれている。

 

以津真天を付喪神の一種にしてしまうのは乱暴な改変ではないか?と思う妖怪好きの方もいると思うが、人間が疫病や飢饉によって大量死することがなくなった現代においては、むしろ人間より道具や器物の方が大量に生産されては大量に捨てられ死んでいく状況になっており、器物をベースにした以津真天が現れたという今回のプロットも現代に即した妖怪の再構築として実に高度な改変が為されたと私は思うのだ。

 

人間に捨てられたゴミや器物が復讐するというプロットは原作の「あかなめ」や「化けぞうり」でも見られるので、それだけだと話として単純な構成で、ありきたりな展開となってしまうのだが、本作では人間と器物、両者の執着・未練が描かれているのがこれまたよく出来ているなと思ったポイントで、電話ボックスの未練(道具としての使命)と人間の未練の掛け合わせが本当に巧い。呪いの言葉である「いつまで」が「いつまでもあなたを愛している」というポジティブな祝いの意味に転換されるというのも(物語として)キレイな捻り方だったな~と素直に思う。

 

※:ちなみに、ぬ~べ~の方も人間の大量死ではなくペットとなる動物の大量死という形で以津真天を成立させている。

 

「訪問者」

今回の脚本は長谷川氏によるもの。前半は夜の10時33分に女性から謎の電話がかかってくるというホラーとして描かれているが、特定の時刻に電話がかかってきたり、電話の声が「いつまでも、いつまでも」といったごく短い文言しか話さないというのはホラーではよくある展開。

今回改めて見て思い出したのがフジテレビ系列で放送されている「ほんとにあった怖い話」。ここの所は年に一度の特別編しか放送していないが、2000年代頃は週一の頻度でやっていた人気ホラー番組だったんだよね。そんな番組内で今回の以津真天回と一番プロットが似ていたと思ったのは「訪問者」というエピソード。

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ざっくり内容を説明すると、真夜中留守番をしていた女性が玄関が開く音がしたので玄関に行くと一人の老婆が立っていた。近所の人かと思い声をかけるが、何を問いかけてもその老婆は「タズネテキマシタ」しか言わない。それでこの老婆が普通の人間ではないと女性が怯えて話は終わる。たったこれだけの話なのだが、老婆の正体がわからずただひたすら「タズネテキマシタ」と言う不気味さがあって意外と怖い物語だった記憶がある。

番組ではドラマ本編の後に心霊研究というコーナーがあって、本職の霊能力者の方がドラマで登場した霊の正体やどういう目的で人間に近づいたか等の解説をしてくれる。この解説コーナーが個人的に好きで、今回のエピソードの解説もよく覚えている。確かこの老婆の正体は女性の祖母で、生前は女性の家族と疎遠状態だったため死後女性に会いに来たと解説していたはず。そして人間と違って霊は多弁に語れないため「タズネテキマシタ」という一文に会えた喜びを全て集約していたとのことだ。

 

霊から人間への交信はあくまでも一方通行。それだけに真意が掴めず人間は恐怖することになる。今回の以津真天の物語も真意がわからない一方通行の電話だっただけにそれがホラーとなっていたが、鬼太郎が霊媒として活躍したことで感動の物語となった。

そういう訳で、この12話はホラーとしては定番のプロットでも、鬼太郎作品としては少々特殊な物語だった気がするがどうだろう?原作で今回の話に近いのは「妖花」の回だけど、これはホラー味を抑えてファンタジックにしているから厳密には違うんだけどね。

 

 

さて、次回は大百足が登場。ぬりかべ活躍回として記憶に残っている方も多いのでは?私はちゃーんと覚えているよ。

ゲゲゲの鬼太郎(5期)第11話「おばけ漫才」視聴

今回は10月14日までの配信。

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白山坊についての説明は6期33話でしているので今回は割愛。

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ゆるやかなバッドエンド

5期の白山坊回はこれまでの契約結婚的な物語ではなく、売れない漫才師と契約を交わし見世物のネタとして漫才師の魂を奪おうとしていた白山坊が描かれている。契約という部分は原作準拠だがそれ以外の99%がオリジナルの物語で、白山坊の姿もぼろ布をまとっていた原作のビジュアルから一新されている。

また、1・2期でねずみ男を演じた故・大塚周夫さんが白山坊の声を担当しており、新旧ねずみ男のコラボ回にもなっているのがファンとしては注目すべき所だろう。ちなみに、5期でねずみ男を演じた高木渉さんは6期で白山坊を演じている。6期の白山坊も5期と同じ見た目だから(物語は違っていても)5期の継承であることは間違いない。

 

さて、漫才師が出て来るとどうしても思い出すのが6期のさら小僧回で、

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この回と今回の白山坊の回とをやっぱり比較してしまうんだよね。そして比較すると6期の麻薬中毒に近い欲求から身を滅ぼしたビンボーイサムと今回のタロウズとでは芸人としての矜持が全然違っている。そりゃ、6期の脚本は本職のお笑い芸人でもある伊達さんが書いたものだから質は違って当たり前なのだが、やはり今回の白山坊回は物語としての“ぬるさ”が否めない、というのが正直な感想だ。

まぁ、今回は「努力もせず安易に望みを叶えようとすると、とんでもない代償を払うことになる」という鬼太郎のオープニングトークを軸とした教訓的な物語なので、6期さら小僧回のテーマとは違うしビンボーイサムの末路みたいなショッキングなオチをつける必要性もない。あのぬるさも5期の世界観としては別におかしくもないので、「とやかく言わず黙って見とけ」と言われるかもしれないがそれはさておき。

 

一見すると魂を抜かれるピンチを脱して「どつき合い漫才」という新たなスタイル(これも今の観点から見ると暴力的でどうかな~と思うのだが…ww)を確立しヒットしたタロウズだが、決してハッピーエンドではないというのは子供よりも大人になった今の方がよりはっきりと感じられた。

タロウズは確かに望み通り芸人としてヒットしただろう。しかし、どつき合い漫才は見た通り体を張った漫才のため体力をひどく消耗する。それだけならまだ笑っていられるかもしれないが、人間世界の営業だけでなく妖怪世界の営業もしないといけない。勿論白山坊はちゃんとギャラを払っているだろうし不当な労働ではないはずだが、これまでの倍以上働かないといけない。頬がこけフラフラのヘトヘトになろうがそこは契約。魂が抜かれてはかなわないから働く。

多分間違いないと思うが、タロウズは芸人としての活動そのものに幸福を感じてはいない。彼らが生き生きとしていたのはお笑い選手権後の打ち上げパーティーだったり、高層マンションで暮らしながら海外に別荘を持つ夢を語った時だ。あくまでも彼らにとって「お笑い」は手段にしか過ぎないということがこの場面でわかる。芸人としてのヒットは彼らにとっては大金持ちになって好き勝手したい願望をかなえるためでしかなかったということだ。

 

しかし、タロウズは安易に芸人としてヒットしようとした結果、芸人としてあくせくと働けるが幸福を味わう余裕をなくすことになった、と言えるのではないだろうか。

今回の物語のように、手段に時間を費やした結果本来の目的を達成出来ず死を迎えるというのは水木作品の「幸福の甘き香り」でも見受けられる。

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傍目から見れば立派な人だと思われ、うまくいけば歴史上に名を残す偉人になれたとしても、幸福を自覚して死に至る人は思っているより少ない。この現代において幸福をつかむことの如何に難しいかを示したのが「幸福の甘き香り」であり、タロウズもこの例に漏れず、金ばかりが貯まってそれを使い楽しむ余裕のない人生のまま死ぬかもしれない未来が約束されていると思わないだろうか?

 

6期のビンボーイサムの物語と比べるとぬるく感じたタロウズの物語だったが、以上のことを踏まえると(主観的に見れば)ビンボーイサムの方が幸福の絶頂で死ねた(劇中で明確に描かれてないが、結末を考えれば死んだと考えるのが妥当)という意味ではタロウズより幸福で、芸人としてあくせく働き続けなければいけないタロウズの方がむしろ不幸なのではないかと思えてくるのだ。

勿論、「どつき合い漫才」のヒットが永続的なものとして考えた上での評価なので、うまくいけばタロウズもこの労働地獄から抜け出せるのかもしれないが、身体を酷使して寿命は本来の年数よりも縮んだだろうから、タロウズはゆるやかにバッドエンドに向かっていると言っても過言ではない。

 

リアルタイム時はぬるい物語だと思っていたし今見てもぬるい要素はあるとはいえ、今回の「おばけ漫才」は本編で描かれた後の未来を想像するかしないかで評価が大きく分かれる、ちょっと特殊な作品だと思う。だから本作は一度視聴しただけでは作品としての良さは伝わらないかもしれない。それだけにおススメしにくい作品でもある。

 

 

次回はこれまた5期オリジナルの以津真天が登場する物語。例によってどんな話かは覚えてません…。

推しが「バンクオーバー! 史上最弱の強盗」でSMプレイされていた

どうも、タリホーです。テレ朝の「IP ~サイバー捜査班」が終わり、今回のドラマ「バンクオーバー」が終わっていよいよ本格的な間宮ロスに突入の皆様、いかがお過ごしでしょうか。

いつもは固っ苦しい感じで感想・考察を書いてますが、今回のドラマは肩肘張って視聴するようなテイストじゃないので、感想もゆるめでお送りします。

 

(以下、一部ドラマのネタバレあり)

 

「見かけ通りでない人々」による銀行一幕劇

一応ざっくりストーリーを説明すると、間宮さん演じる染物会社の御曹司・猿渡佐助がとある窮状から銀行強盗を決意、社員の田尻を相棒にいざ妻川銀行へと乗り込んだが、何故か既に銀行はもう一組の銀行強盗によって制圧されており、その銀行強盗は外国人で武器も明らかに自分たちより強そうなものを持っていた。

二組の銀行強盗が乗り込んで来たことで膠着状態に陥ったのを見て、客の一人であるさくらという女性が金をどちらに渡すべきか相談しないかと提案する。しかしこれはこの後起こる物語の始まりに過ぎず、物語は登場人物の意外な裏事情と相まって予想外の展開へと進んでいく…というストーリーだ。

 

先週19日に放送された前編はほとんどカオスに次ぐカオスでツッコミ所しかない展開だったが、26日の後編でそのツッコミ所を伏線として回収し、逆転劇として描き切った。サスペンスコメディーなので伏線もまとめ方もリアリティをガン無視しているが、それはそれ。劇中で最もクズな刑事・山根広務を共通の敵役として配置したことで勧善懲悪の物語となり、そのおかげで後味よく見ることが出来たと思う。

公式HPでは「『多様性』を大事にしたい今だからこそ送る」と書いてあるけど、そんな深く考えずに見ましょう。みんな何かしらの事情を抱えて生きているとわかればそれで充分です、このドラマ。

 

クリスティのプロットは継承されてるんだね~

大体サスペンスって最初に見せかけの物語を視聴者に提示して、途中から登場人物だったり事件の構造をひっくり返してもう一つの物語を見せるというのが定番だけど、このドラマもその例に漏れず、最初は見せかけというか見かけ通りの人物像を演じて途中から尻尾を出したり本性を露わにする物語なんだよね。それが「実は〇〇でした」という説明描写だけだったら、そのサプライズは単なるビックリ箱程度のものなのだが、そこに意味や伏線を張ることで物語としてちゃんと成立するってことが今回のドラマを見て改めて思った。

強引とはいえ風が吹けば桶屋が儲かるみたいな、物語としての辻褄合わせが出来ていたし、コメディ全振りで辟易とさせられることもなかったから良かったよ。間宮さん含む演者の方々もそれを弁えていたからどことなく安心感というか信頼出来る感じがした。それでも袴田さんのアパ不倫を彷彿とさせる不倫描写は狙い過ぎた演出だったかもね。

 

で、今回の物語の構図を振り返ると、山根という一人の男の悪意によって複数の登場人物が振り回され、振り回された人々が一致団結して山根を返り討ちにする逆襲劇になっているが、これってアガサ・クリスティの某有名作とほとんど同じ構図じゃない?名前を出しただけでネタバレになる作品だから一応伏せておくけど、これだけでミステリ好きならピーンと頭に来たはず。そもそもクリスティの某作品の方も多様性(ダイバーシティ)を象徴する要素が取り入れられているのだから、そりゃ類似性があるのも納得だ。

本の森ハヤシ氏がクリスティの影響を受けて今回の物語を書いた訳ではないだろうが、現代の作家・脚本家の精神にクリスティの黄金的プロットが文化的な遺伝子として継承されていると思うと、クリスティを愛読する私としては嬉しいな~と思った。

「准教授・高槻彰良の推察」Season1 8話視聴(ネタバレあり)

シーズン1終わりましたね。シーズン2の視聴とか色々腹が決まっていない所もありますが、それは最後に言及するとして、とりあえず最終回の感想・考察を進めていきます。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

8話(死者の祭の怪)

准教授・高槻彰良の推察5 生者は語り死者は踊る (角川文庫)

シーズン1の最終話は原作5巻の第二章「死者の祭」。深町のアイデンティティとなった嘘を聞き分ける能力が身に付く原因となった死者の盆踊りのルーツを探る物語で、当然ながらシリーズの大きな山場の一つとなっている。

民俗学ネタとしては盆踊りだけでなく、その土地に根付く山神信仰も取り入れられているのが特徴で、原作では深町の祖父母の実家がある土地で祀られている山神の名称や死者の祭が行われる経緯等の詳しい説明が為されているが、ドラマでは展開の都合から省略されている。また、原作では異界入りしてしまった高槻・深町がある人物の助けを借りて現実へ戻ったのだが、ドラマではその人物がまだ登場していないため、別の方法で異界から戻った。その違いも注目すべきポイントだろう。

 

イザナギイザナミ神話

死者の祭に戻ってしまった深町や高槻に対して、山神の伝言役をつとめる祖父はそれぞれに寿命の半分を要求するが、流石にドラマ版だと二人でその問題をクリア出来ないため、一度目と同じ飴の選択に改変されている。とはいえ、重要なのはそこではなく異界から抜け出すために高槻がとったイザナギイザナミ神話に基づく脱出方法の方だろう。

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大学で日本史の古代史を専攻していたらまず間違いなく知っている神話だし、仮に知らなくとも鬼灯の冷徹などで紹介されるくらい割とメジャーな神話なので知らない人の方が少ないかもしれないが、一応説明しておくとイザナギイザナミは日本を作った神様。その二柱の神様のうちイザナミは火の神様を産み落とした際に火傷で死亡し黄泉の国へ行ってしまった。それを悲しんだイザナギは妻を取り戻そうと黄泉の国へ行きイザナミを説得する。

夫の説得に応じたイザナミは「黄泉の国の神々と相談するからその間こちらを覗かないように」と言ったが、いつまで経ってもこちらに来ないことに焦れたイザナギは約束を破り、妻の姿を覗いてしまう。するとイザナミは腐敗した醜い姿になっており、仰天したイザナギはそのまま逃走。逃がすものかとイザナミや黄泉の国の者(ヨモツシコメ等)が追ってくるが、イザナギは髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げて、黄泉の国の者がそれに喰らいついている間に現世へと逃げ帰ったという。

これがイザナギイザナミ神話の概要であり「三枚のお札」や「鶴の恩返し」といった有名な昔話の形式にはこの神話の成分が多少なりとも含まれている。「桃太郎」だって桃が魔除けの象徴だから鬼を退治するのに相応しかったのだ。

 

そういう訳で今回高槻はその神話を元に前もって用意しておいた葡萄や筍が描かれたお札、3つの桃を置いて難を逃れた。神様が持っていた装飾品から生まれた果実と世間一般で売られている果実を同等のものとして扱い異界から逃れる術として用いるとは随分博打を打った行為だと思うが(苦笑)、今回のドラマでは死者や山神への供物として扱われた部分もあるし、死者の祭も原作とはまた違う解釈をしているからこの改変は妥当だったと思う。

 

原作における死者の祭は、どちらかというと山神が人間の子供に仕掛けた罠という側面が強く、代償を払わせ一旦は返すものの、口がきけない・歩けない・孤独になる苦しみから子供が自殺し、たとえ大人になっても死者の祭に戻って帰って来ないよう仕組まれている。こういった物語は山神の土地に住む人々がある種山神の捕虜として土地に縛られているという思想や、医療技術が発達していない昔は子供が今以上に死にやすく「七歳までは神のうち」などと言われていた時代ならではの解釈によって成り立っていると言えるだろう。

一方のドラマは、走馬灯の部分は山神の試練的な要素はあったものの祭自体は「山神の理不尽な法則に基づく罠としての祭」ではなく、「死者が生者との繋がりを求めようとする祭」として描いているのが秀逸で、そう考えれば一見理不尽ともとれる代償としての飴の選択も、死者たちが自分達が生きていた証を生者に刻み込もうとする行いだと読み取れるし、その代償で障害を背負うことになっても、それが切っ掛けで人との関わりが生まれる社会になった現代においては、ハンデどころか自分の道標にもなる重要なアイデンティティとして昇華されることをこのドラマは示していると評価出来る。

 

正にそれは「呪い」を「のろい」と読むか「まじない」と読むかの違いで、幸運も災厄も全ては自分の解釈次第だという前向きなメッセージとして視聴者に提示しているのだ。シーズン1の締めくくりとして、実に最適な高槻の解釈だったと思う。

 

シーズン1総評(解釈の物語)

初回から今回までの感想・考察を読んでいただいた方なら、私がこのドラマを最高の映像化と評価していることは大体わかってもらえたと思うが、一応総評として今まで言及しなかった点も含めてどこが素晴らしかったか述べていきたい。

 

何といってもこのドラマの成功の一つはキャストの方々がハマり役だったことにある。高槻を演じた伊野尾さんは原作で描かれたイラストビジュアルとは厳密には違うものの、一般の人々がイメージする三枚目的なかわいらしさやコミカルさとは趣を異にするスマートさを醸し出している点や、彼の独特な声質が高槻の過去のトラウマ(これは後述する)を感じさせるという点で実にピッタリとハマっており、伊野尾さんでないと生み出せなかった高槻彰良だったと思う。特に私は以前「家政夫のミタゾノ」で見た伊野尾さんのイメージが強かっただけに、こういう二枚目的な役も出来るんだなと(上から目線の発言になるかもしれないが)感心したものだ。

深町を演じた神宮寺さんもまた、(異能持ちではあるが)一見すると特出した特徴のない大学生を演じるため、登場人物の中では最も演技が難しい役どころだったにも関わらず、原作イメージを損なわない、それでいて彼の胸中が視聴者にも伝わるような演技が素晴らしかったと思う。役者なら当然なのかもしれないが、ジャニーズアイドルで演技経験も俳優を本業とする方々と比べたら乏しいかもしれないのに、今回の深町のようなデリケートな役どころを演じきったのだから、間違いなく本作は神宮寺さんが俳優としてスキルアップに繋がった作品と言えるのではないだろうか。

あと言うまでもなく主演・助演の二人以外の周りを固める方々も原作の世界観を崩さず、それでいてドラマならではのキャラクターとして演じていて良かった。

 

次に脚本についての評価を。これは原作既読者としての評価なので未読だとまた色々違っていたかもしれないが、原作の改変がドラマとして相応しい改変になっており、そのまま映像化するとマズい所や単調になってしまう部分をうまいこと回避しドラマの見所として再構築しているため、既読でも展開が読めない部分や原作を読んだだけでは気付けなかった発見があって実に面白いし勉強になった所もあった。

原作者の澤村御影氏も以前Twitterで言及していたと思うが、原作の高槻・深町をそのまま映像化するとコントみたいになってしまう所があって特にそれは高槻が怪異の依頼を受けて興奮する場面で顕著に表れる。

これは原作者が観劇が趣味ということもあり、意図的に演劇的な大袈裟さをキャラクターに取り込んでいるためなのかもしれないが、これをそのままドラマでやると作品全体の世界観と高槻・深町の(BLとも読み取れるような)関係が乖離してサスペンスミステリとしての空気が壊れてしまう危険があった。

あと些末なことではあるが原作で大型犬モードになった高槻をいさめる時に深町は高槻のことを「あんた」呼ばわりするのだが、人と距離を置いている深町が最初の事件の段階で「あんた」呼ばわりするのは深町の性格と矛盾しているのではないかと思って、個人的に納得出来ないというか受け入れられなかった部分なのだが、ドラマでは深町の「あんた」呼ばわりがカットされており、原作のある種演劇的な部分がドラマとしてナチュラルに、それでいて大型犬らしさを残した高槻とそれに困惑気味な深町として描かれていたので、原作に感じたモヤモヤが解消されたのも評価ポイントの一つだ。

 

原作は民俗学ネタを取り入れた事件を扱いながらも、面白さの軸は高槻・深町の二人にあるため、事件自体は非常に単純というか、ミステリ好きの私から見ればしょぼいと一蹴してしまうような物足りなさがある。事件自体のしょぼさを民俗学というウンチクや高槻・深町の関係をスピーディーに発展させることでカバーしている感じがするというのが私なりの原作の評価である。

ディスっているように思われるかもしれないが、これは私がよく読む本格ミステリとこのシリーズは売りにしている部分が違うだけの話。だからミステリとしては物足りないと思いながらも、高槻の過去が明らかになり深町との関係が発展していく流れにはワクワクしたし、この先二人がどうなるかも非常に気になっている。それだけストーリーの牽引力が強くキャラクターに魅力があるのがこのシリーズの特長なのだ。

 

スピーディーな展開で読者を牽引する原作と異なり、ドラマはこのシーズン1を深町尚哉の成長譚として描いているため、スピーディーに描かれた高槻・深町の関係性の発展をあえて低速化させ、個別の事件にヒューマンミステリとしての奥深さを与えた。それによって事件を通じて深町が成長する様子が描かれたと同時に、解釈の物語というドラマとしての一貫性が生まれたのも素晴らしかった。

民俗学のウンチクが原作に比べると薄いにも関わらず民俗学研究で取り上げられる思想が随所に感じられたのは、それぞれの事件関係者の心の動き(死者への思いや精神的逃避など)が民俗学や怪異誕生のベースになっているからであり、原作とは異なるアプローチで民俗学の面白さを伝えようとした脚本の心意気に拍手を送りたい。

 

シーズン2の視聴予定に関すること

民俗学好きとして、また怪談や怪異が好きな私として今回のドラマ化は渡りに舟であり、ドラマの感想も民俗学好きとしての視点から考察してみた。そのおかげかどうかはわからないが、多少なりとも反響はあったしTwitterで新たにフォローしてくださった方もいた。それは本当にありがたいし嬉しいことではあるが、一方で「自分が思っていたほどブログ感想の反響がなかったな…」という思いもあって、「物語の面白さや秀逸さが伝わってないのだろうか」とか「文体が固いから読みにくいのかな?」「伊野尾さんや神宮寺さんのことにあまり触れていないからダメなのかな?」とかそういう不満というか納得のいかなさみたいなものがあって、結構複雑な心境だったんだよね。

まぁブログを書いてUPすること自体エゴイスティックな行為だし自己満足に過ぎないから反響を求めようとするのがお門違いなのかもしれないし、備忘録として割り切り感想を自分のために書くようにしようかと思ったがそれでも心は晴れなくて、軽い自己嫌悪みたいなものに陥った。

 

そういう訳でシーズン2に関しては視聴はする予定だが、感想はいっそ書かないか書いたとしてもTwitterにツイートする程度にしようかと検討している。コメントを送らずとも読んでくださっている方もいるとは思うが、自分の知識をふんだんに盛り込んで書いてもPV数が放送前と大差があまりないのでは書かないのと一緒だなと思う。

自分勝手かもしれないが今のところはそういう感じ。勿論、今までの調子で感想・考察を続けてもらいたいという意見があるのであれば、現金な人間だと思われるかもしれないが引き続き感想は当ブログでUPしようと思うが、気持ちの整理が完全についていないので現状シーズン2の感想のUPは保留という形でお願いしたい。

 

さいごに ~父性を嫌悪する高槻~

愚痴に近い今後の視聴予定になってしまったので、最後に後味良く高槻の人物像について語って終わろう。特にシーズン2は高槻の過去を掘っていく物語なのでここで高槻の心理を探るのは予習としても適しているだろうからね。

 

原作を読んだ段階では気付かずドラマの7話で気付いたことだが、高槻の行動原理には常に母性的なものがある。4話で風邪を引いた深町を看病する様子や7話で将来の進路に迷う瑠衣子に対するアドバイスなどで顕著に表れているが、この母性的な行動原理の裏には高槻が抱える母親に対するトラウマがあるのではないかと考えているのだ。

原作を既読の方なら知っているだろうがドラマではまだ明かされていない情報があるため一応その部分は伏せて説明する。高槻は12歳の頃不可解な神隠しに遭い自宅から遠く離れた鞍馬で発見される。その際にずば抜けた記憶力を身につけたと同時に背中に深い傷を負わされたのだが、それを見た高槻の母は「天狗にさらわれた」と解釈し、その解釈が災いして高槻は両親と別離することになってしまう。

 

両親との別離の経緯は今の段階で詳しく明かすとネタバレになるので伏せたが、高槻の母の解釈がある種狂人的なレベルにまで悪化し、それを見かねた高槻の父が彰良をよその土地へと追いやったと、これだけは言っておかないとこの後の説明がわからないと思うのでそこはご容赦願いたい。

本来なら「母親にトラウマがあるのだから母性的な行為をとるのは矛盾しているのではないか」と思うだろうが、これは母親のトラウマ以上に父親が自分を捨てて母親の方のケアを選択したという点に一種のエディプスコンプレックスがあるのではないだろうか?

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多感な幼少・少年期に母性を求めていた彰良が絶対的な父親の権力によって母性から引き離されてしまった。それが原因かどうか断定は出来ないが、原作やドラマの高槻が父の秘書と対峙した時の冷たさは(秘書自体に対する嫌悪もあるだろうが)父親、もっと言えば父性に対する嫌悪と捉えることが出来る。直接自分にトラウマを与えた母親は自分が母親として行動することでそのトラウマをカバーしている感じがするが、彰良を構成する人格に父性的なものがないのは母親を選んだ父に対する嫉妬や嫌悪があるからではないかと思っている。

 

つまり、高槻彰良の人格には母親と幼少期の自分はいるが、父親が存在しない。そして父性的な人には無意識に対立しようとしている感じがするのだ。ドラマの遠山は父性原理で動く人間として描かれているが、結論ありきのアドバイスで深町を警察組織に誘おうとした遠山に「それは本人が決めることだ」と水を差したのは深町を気遣ったのは勿論だが、その背景に父性原理への対立があったのではないかと考えている。絶対的な答えを相手に突きつけず、解釈や推察を武器にして世を渡るのも母性原理に基づいていると今更ながらそう思うのだ。

 

シーズン1の高槻は母性原理によって深町の負のアイデンティティ正のアイデンティティに転換させ、少年期に自分が味わった苦悩を深町に投影し彼を救うことである意味自分も救われようとしていた部分があった。シーズン2では自分の子供として投影していた深町によって高槻が救われる展開があるとにらんでいるが、原作でも描かれた母親に対するトラウマや、父親への嫌悪は描かれるのか、それともまた別のアプローチで物語が紡がれるのか、その辺りを注目していきたい。

 

※大型犬のようにはしゃぐ様子や甘いものを好む性質は子供の時の人格の名残と解釈出来る。

…と思ったら原作者本人が甘党の理由を語っていた(恥)。

ゲゲゲの鬼太郎(5期)第10話「荒ぶる神! 雷獣」視聴

今回は10月7日までの配信。

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雷獣

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一般的に落雷は天にいるカミナリ様の仕業だと言われているが、長野や新潟では雷と共に雷獣が落ちて来たという伝承がある。狸や鼬に似た姿をしており、新潟に落ちた雷獣は前足が二本、後足が四本、全長約1.8メートル、首は野猪に似て長い牙を備え、爪は水晶のようで水掻きがあり、焦げ茶色の体をしていたという。

新潟県三島郡の西生寺、岩手県花巻市の雄山寺には雷獣のミイラがあるが、これは猫に似た姿をしている。

原作には登場せず5期で初登場。水木先生の妖怪画と比べると背中や頭部に雷のようなトゲが付いており体は猫っぽく、口ひげが付いている。パッと見た感じポケモンに出ていてもおかしくないビジュアルだ。

 

徹底的なテンプレストーリー

5期の雷獣回はあまり記憶に残っていなかったため改めてちゃんと見ると驚いた。

あまりにもテンプレ過ぎる展開だったので。

どういう所がテンプレかというと、

①舞台が農村部

土地開発が原因で妖怪が暴れる

③見かねた子供が妖怪ポストに手紙を出す

④鬼太郎やその仲間が駆けつける

ねずみ男が何かしらの形で関わる

⑥妖怪が退治・封印される

⑦大人が妖怪の存在を認め、改心する

原作全てがこうではないが、鬼太郎作品の定番プロットといえばこんな感じで、最後に虫たちが鬼太郎をたたえて合唱をはじめたらもう完璧なテンプレなのだが、流石にそこまでは描写されなかったね。

雷獣はアニメオリジナルの物語にも関わらず何故こんなにテンプレな物語を?と思ったが、これが10話目である意味節目の時期ともとれるため、ここでテンプレにしたのは敢えてやったことであり、「これが本来の鬼太郎のストーリーなのだよ」と視聴者に伝える目的が多少なりともあったのではないかと考えている。

 

原作には原作の型があるように、アニメにはアニメの型がある。3期にはバトルものとしての型があるし、4期は原点回帰を意識した型がある。5期の型はと言われると3・4期みたいに明確な型ではないが、地獄との関わりが他期以上に深く、妖怪四十七士といったローカルな面にもスポットをあてているから、恐らくその辺りが5期としての型だったのではないかと思う。これは比較的2年目でようやく型として固まった感じがするが、1年目の長谷川氏がシリーズ構成に入っていた時期はまだ明確な型のようなものがなかった感じがする。

もしかしたら模索時期だったのかもしれないが、ここでカッチリテンプレ的な物語を出してきたのは脚本の長谷川氏が頭を整理する目的もあったと勝手に思っていて、やはり型を知らないとオリジナリティは出せないし、オリジナルな部分ばかり出していると鬼太郎作品でやる意味がない。「型を知ることで型破りが出来る」と以前市川猿之助さんがそんなことを言っていたが、これはホントに正しくて、型を知っていないと型破りなことをやられた所でそれが良いのか悪いのか評価出来ないからだ。

 

だから今回の雷獣回は実は鬼太郎作品を評価する指標としてのテンプレ物語と見なすことも出来る。そういう意味ではテンプレも案外悪いものではない、必然的なテンプレだったと今の私は断言出来るのだ。特にアニメから鬼太郎作品に入った人なんかは鬼太郎作品の型というものをまだ知らないから、こうやってアニメでそれを提示したのは古参として感謝すべきことなのかもしれない。

6期は3~5期で築かれたテンプレを意図的に崩しており、そこに拒絶感を催した鬼太郎ファンの方もいたが、型を知っていたからこそ型の破り方に面白みを感じたし、その破り方を客観視して批評出来たと思うのだ。漠然とこの作品が好きだ・嫌いだと評価するのも面白いが、型を知りその違いを評価して面白がることが出来れば、駄作はほとんどないと言えるのかもしれない(でも6期ベリアル回とかブチギレ案件もあったけどね)

 

 

次回は白山坊の登場する回。これも今までの型を破った物語だがそれはまた次回の感想で。