タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【最終回】累の犯罪、瀉血としての謎解き【アンデッドガール・マーダーファルス #13】

「アオサキ夏のミステリまつり」と題して7月から追っていたドラマ「ノッキンオン・ロックドドア」が先日最終回を迎え、そしてアンファルも最終回を迎えました。

青崎有吾氏の作品が同クールに二作品も映像化されるというミステリオタには夢のような三ヶ月でしたが、それも今日で終わり。名残惜しいけど最後なので徹底的に感想・解説を語っていきますよ!

 

あ、そうそう今回は人狼編の最終回でもあるので、「狼」つながりでこちらの曲をご紹介。

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事件の真相を踏まえて聞くと、より一層深みが出る曲ですよね。

(この曲は昔NHKでやっていたアニメアリスSOSで知りました)

 

(以下、原作を含めた事件のネタバレあり)

 

「犯人の名前」

最終回は原作の361頁から460頁(第26節「怪物のとりえ」から第31節「夜明け前の怪物たち」)までの内容。序盤の5分間で静句とカーミラクロウリーとアリス、カイルとヴィクター(+津軽)の三つの戦いを描き、残り時間で二つの村で起こった連続少女殺害事件の謎解きをするという1秒とて無駄に出来ない構成を何とか20分ほどの尺で収めている。そんな訳でクロウリーに負けたアリスがどうなったのか、〈夜宴〉は当初の予定通りサンプルとなる人狼を確保出来たのか、といった細かい部分はカットされている。気になる方は是非原作を読んでもらいたい。

 

ちなみに今回の静句対カーミラの戦いは原作通りやるとR18でいくら深夜アニメでもエロ過ぎるので、婉曲的な表現で演出しているとのこと。

 

事件解説(二種類の一人二役

原作でもアニメでも8年前のローザとユッテ母子の焼き討ち事件が回想として挿入されていたので、今回の事件が生き残ったユッテの仕業だというのは推理しなくとも何となくわかることだし、特にアニメではユッテとルイーゼが似ている※1のは一目瞭然なので、ノラ(=ユッテ)の一人二役トリックに気づいた方は多いのではないだろうか?

 

一人二役トリックの最初の手がかりとして視聴者(読者)に提示されたのは、鴉夜が何度も言及したルイーゼ誘拐現場で割られた人狼がそこから脱出したのは間違いないとして、どの形態で脱出したのかが問題となるが、【獣人】だと体格が大きすぎて窓枠から身体を出せないし、【人間】だと窓枠の下辺が大人のへその高さにあるためまたぎ越すのが困難。加えて窓枠にはガラス片が付いていたので仮にそこから【人間】として何とか脱出出来たとしても、ルイーゼの声を聞いて部屋に入ったグスタフに姿が目撃されていないとおかしいのだ。※2

ということで人狼は四足歩行の【狼】の姿で脱出したことになるが、そうなると狼の姿で12歳の少女を連れ去ったという不可能状況が生じる。少女を口にくわえて窓からは出せないし、引きずり出したら窓枠下辺のガラス片が全部外に落ちていないとおかしい。つまりルイーゼは部屋から出ておらず、人狼だけが部屋から出た。しかも侵入口と思しき暖炉には灰が飛び散った痕跡がないため、そもそも最初から部屋に人狼がいたことになる。

以上の推理から鴉夜は人狼はルイーゼに化けており本物のルイーゼと入れ替わっていたこと、誘拐事件は偽ルイーゼの自作自演と見抜いたが、現場検証の段階でそれを見抜きながらグスタフや村人たちにそれを語らなかったという点については後ほど言及する。

 

そしてホイレンドルフとヴォルフィンヘーレの二つの村で起こった少女連続殺害事件に移るが、この事件では4ヶ月周期・雨の夜・10代前半の少女といった規則性のある犯行が最大の謎であり、何故かノラとルイーゼの事件だけこれまでの法則と違う犯行だというのも引っかかるポイントだ。

その答えはもう既に原作と今回の物語を見た方ならご存じの通り、人狼村の少女を村から逃がすためであり、ノラの一人二役だけでなく死体の一人二役というトリックが盛り込まれているのがミステリとして面白いポイント。よく考えれば人狼村の被害者たちが全員真正面から顔を撃たれていたということ自体が不自然で、人狼なら五感の鋭さで相手の気配や居場所がわかるし、正面から銃を構えている者がいるならばすぐに【獣人】か【狼】に変化すれば毛皮の防御で少なくとも死ぬことはないのだから、その状態にならずに死んでいたということ自体、死体が人狼ではないという事実を物語っていたのだ。ここは人狼の設定がうまく活きているのと同時に盲点として見落としやすいポイントなのでミステリとして秀逸だと評価している。

 

ミステリにおいて顔が潰されたり頭部が切断され持ち去られた死体を「顔のない死体」と俗に呼び、そういった死体が作中で出た場合はまず被害者と加害者の入れ替わりを考えるのが定石なのだが、本作だとノラとルイーゼの相似が前面に出ているためそっちの入れ替わりが目立って前の三件の被害者の入れ替わりに気づきにくい構成になっているし、ホイレンドルフの被害者が検死で本人だと証明されていることや、人狼側に入れ替わるメリットが(一見すると)ないため、ノラとルイーゼの入れ替わり※3に気づいた人はいても、前三件の被害者の入れ替わりトリックにまで辿り着けた人は少ないのではないだろうか。

そして二つの村で起こった事件なので当然複数犯の可能性や、人狼村での被害者が散弾銃で殺害されたことから人間が殺害に関与している可能性も出てくる訳だが、前述した通り人間が人狼の少女を撃ったとしたら被害者が真正面から撃たれているのは不自然だし、地下洞窟にいた斑蛾の大群が人間が犯行に関与していないことの証拠になっていて、きちんと別解が潰されているのも見逃せないポイントだ。

 

ノラの犯行動機となった血の儀式に関してはホイレンドルフの村長が10話でキンズフューラーについて語っていたし、人狼村の少女が巫女として首に下げていたネックレスが子宮を象ったものであるのもヒントになっている。10代前半の少女が狙われた理由は10代前半に初経(初潮)が見られる、つまり子どもを産める身体になるからであり、だからこそノラは少女たちを早いうちに逃がす必要があると考えたのだろう。

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前回の感想記事で私は「痛み」という点が今回の事件の動機に関わると述べたが、その痛みというのは女性の痛み(生理や妊娠・出産といった痛み)を指しており、強い個体を生み出すため何体ものオスと性交渉を持つことになれば、当然身体に尋常でない負担がかかるし、医療従事者のいない人狼の村だから下手すれば死ぬことにもなりかねない。昔の出産はそれだけ命がけなのだから、何体もの子供を産むとなるとそれだけ死のリスクも高まる。ましてやその儀式を10代前半の完全に発達していない身体で行えばどうなるかなど想像したくないことだ。オスの人狼たちは、メスが抱えるこの痛みに鈍感であり理解しなかった、その歪みが今回の事件の原因の一つであることは確かだ。

 

※1:原作者のツイートで知ったが、今回のトリックの元ネタとなる作品はエーリッヒ・ケストナーの小説ふたりのロッテだそうで、『ふたりのロッテ』では本作と同じルイーゼという少女が登場する。

※2:ちなみに原作では部屋に入ったグスタフが人狼を追うためわざわざ玄関から外へ出た描写があり、人間態で窓から出られないことがさり気なく提示されていた。

※3:人間村と人狼村に交流がないこと・地下道と地底湖の存在・二つの村の活動時間が昼夜逆であること等に加えて、人間村にいた時に静句はグスタフの家に入っておらずルイーゼの肖像画を見ていなかったのも、入れ替わりトリック成功の一因である。公式HPのキャラクター紹介の項でノラは「お寝坊さんな一面」があると記されているが、これも一人二役による二重生活の伏線になっていたのだ。

 

累と化したノラ

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

今回の事件における一人二役トリックや死体の入れ替え自体は特別珍しいトリックではないし、トリックだけを抜き出した所で本作の面白さは語れない。この人狼編で何より特筆すべきは、被害者であるルイーゼが共犯としてノラの犯行計画に加担していたことであり、それがミステリとしての意外性だけでなく物語としてのドラマ性に大きく貢献しているのだ。

 

かつて喰い口減らしのため両親から捨てられたルイーゼは村での自分の居場所を獲得するために自分を助けてくれたユッテを人狼として告発。しかしそれは「村の守り神」という偶像として扱われるという点では差別されていることに変わりはなく、ルイーゼはそんな村や両親に愛想を尽かすこととなった。

ユッテに対する贖罪とホイレンドルフへの嫌悪感、これがルイーゼが共犯になった動機であり、ノラは人狼の女たちを解放しヴォルフィンヘーレの因習を崩壊させることを狙って二つの村で少女連続殺害事件を決行、二つの村を衝突させることで両村それぞれの歪みを崩壊させようとした、ということになる。

 

原作では事件の真相を聞いた津軽が落語の粗忽長屋を思い出したが、私は今回の事件は日本の怪談話である「累(かさね)」とリンクする要素が多いのではないかと思った。

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累の怪談は現在の茨城県を舞台にした物語。昔、与右衛門という百姓の家には後妻であるお杉と、その連れ子である助(すけ)という娘がいた。この助は顔が醜く足が不自由であったため与右衛門は助を嫌い、ある日与右衛門は助を川へ投げ捨て殺してしまう。翌年、与右衛門とお杉の間に女の子が産まれ「累(るい)」という名が付けられたが、その子の顔は殺した助に瓜二つであり、村人たちは「助がかさなって生まれて来た」とささやき、その子は「かさね」と呼ばれるようになる。

やがて累の両親が死に、累は谷五郎という男を婿に迎え入れるが、財産目当ての谷五郎は累を川に突き落として殺害、他の好きな娘と結婚する。しかし後妻として迎えた女は次々と病気で亡くなっていき、6番目の妻が生んだ娘の菊に取り憑いた累がようやく谷五郎への恨みを語る。谷五郎は謝罪したが菊の身体に取り憑いた累は出ていこうとしないので、祐天上人が累を成仏させ、またその遠因ともなった助の魂も同様に成仏させたという。

 

以上の物語は「累ヶ淵」というタイトルで『死霊解脱物語聞書』に収録されている。この怪談をベースにした落語や歌舞伎があるくらいだから、日本の怪談ではかなりメジャーで聞いたことがある人も多いと思う。助が足が不自由な娘であるという点は正に本作のルイーゼと同じであり、親から疎まれていた点も共通する。

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私と同じくアンファルを視聴している闇鍋はにわさんの11話の感想でヴォルフィンヘーレがあの世のような場所であると述べている。闇鍋さんのアイデアから派生してこのノラとルイーゼの犯罪について考えるが、ルイーゼはグスタフ夫妻に捨てられユッテを告発した頃からもうこの世の住人として生きていなかったと言える。肉体は生きていたとはいえ、村人や両親から腫れ物扱いされ距離をとられていたのだから、その魂と存在はあの世に行っていたも同然なのだ。

そして月日は経ち、一年半前にノラとルイーゼは入れ替わる。ここでルイーゼは地下洞窟内に監禁されるが、地下は古代日本において根の国と称される場所であり、つまりあの世を意味する。ここでルイーゼは完全に現世と縁を断ちあの世の住人となった訳だが、反対にノラは人間にとってのあの世とでも言うべきヴォルフィンヘーレから地下を経由してホイレンドルフに向かい、そこでルイーゼとして二重生活を送る。ヴォルフィンヘーレや地下洞窟があの世(根の国)を象徴するならば、それをつなぐ地下道は黄泉平坂と言った所だろう。

ノラが主犯とはいえ、ルイーゼになりすました彼女はルイーゼの意志を継承している者であり、直接関係のないホイレンドルフの少女を殺すというのは累の怨霊が谷五郎の後妻を次々と呪い殺すのと似ている。ルイーゼの意志を受け継いだノラは、さながら助の生まれ変わりである累そのものだ。

 

瀉血としての謎解き

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

鴉夜による謎解きは最後に津軽が指摘したように早い段階からルイーゼの入れ替わりに気づいていたにもかかわらず意図的に真相を伏せていたと思われるフシがある。入れ替わりに気づかなかった両親や車いすの背中側の持ち手のキレイさから、ルイーゼが不遇な扱いを受けていたことを読み取り、それが事件の遠因と判断した鴉夜は、二つの村の衝突を敢えて止めずに滅びない程度に復讐の後押しをしたということになる。動機に関してはノラの方の動機はギリギリまで気づかなかったのであくまでもルイーゼ側に加担したということになるが、この下りで私が思ったのは鴉夜は探偵として無血での解決が必ずしも正解ではないという価値観を抱いているということだろうか。

人間にしろ怪物にしろ、口で言っても理解出来ない(或いは理解しようとしない)輩というのは往々にしてどこの世界にもいるもので、身をもって知らないと目が覚めない者も多い。30年も生きていない私ですらそう感じる時があるのだから、900年以上生きて来た鴉夜にしたらそれは当然の理というものだろう。言葉だけで糾弾する程度では二つの村に染みついた歪みは治らないし、人間と人狼、両者の痛みに対する鈍感さを少しでも是正するには血を流しその痛み・苦しみを身をもって知るべきであると判断したから、鴉夜は敢えて二つの村の衝突を見逃した。そう考えるとこれは一種の瀉血と言えるのではないだろうか?

 

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瀉血(しゃけつ)はヨーロッパやアメリカで行われた治療法の一つで、体外へと血を排出することで血と共に体内の有害物・不要物が流れ出し、病気の症状が改善されると信じられていた。現在では多血症やC型肝炎など一部の病気において用いられる手法であり、血を流せば体内の有害物まで出ていくというのは迷信である。

 

この瀉血でふと思い出したが、横溝正史が生み出した名探偵・金田一耕助が殺人防御率が低いと揶揄される探偵であるにもかかわらず名探偵として現代でも支持されているのは、金田一が関わる事件がいずれも未然に防いでしまった場合、それは根本的な部分での解決にはならないからだと私は思っていて、淀んだ血(過去の因縁や忌まわしき風習など)を流させることによって未来にその悲劇を持ち越さない、今の世代で完全に悲劇の連鎖を断ち切るという意味合いもあるから、作中であれだけの犠牲者が出ても金田一は名探偵でいられると私は考えているのだ。金田一が狙ってやってないとはいえ、殺人の悲劇が瀉血としての効果をあげているから、物語は後味良く終われるし、そこに横溝ミステリ独特の魅力があると私は考えている。

(勿論、メタ的に考えれば連続殺人でないとミステリとして面白くないという理由もあるのだけど…)

 

総評

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

以上で最終回の感想を終えるが、総評に移る前にまず第三章「人狼」編のまとめ感想を言っておくと、シリーズ最長(約480頁)の物語を約20分×5話で描くという難題を見事にやり遂げたことはまず評価しなければならない。勿論尺の都合でカットされた描写は第二章よりもずっと多いけれど、本作の肝となる事件と謎解き、そして怪物と人間の大混戦はキチンと押さえて映像化されており、印象に残る場面もあって原作を読んで内容を知っていても新鮮な気持ちで視聴することが出来た。特にこの三章はまだコミカライズされていない話なので、人狼やホイレンドルフの村人がどんな姿で登場するのかも気になっていたポイントだったが、そのビジュアルから原作を読んだ時には思いつかなかった感想が出て来たので、感想・解説を書くのもそれほど困らなかったかなと思う。

 

ではここから作品全体の総評を語る。本作は19世紀末のヨーロッパが舞台であり、題材となる怪物や怪人・探偵も19世紀から20世紀にかけて発表された怪奇小説や探偵小説のキャラクターを用いている。この時代に生まれたミステリやホラーは今もなお多くの作品に影響を与えるエポックメイキングとしての名作・傑作ばかりが揃っており、正に大衆文学や怪奇小説の黄金時代だった。そんな時代の作品群をベースにしているのだからまず作品としての下地が盤石というか、「その題材を元に本格ミステリをやったらそりゃ面白くなるわな」という感じで怪物をお題にした特殊設定ミステリとして実に隙がないし、そこはロジックを重視したミステリを書く青崎氏の力量の高さがうかがえる部分だ。

勿論本作は先人の作品群に頼りきった作品ではなく、輪堂鴉夜・真打津軽・馳井静句の三人組による掛け合いや会話劇としての面白さも追求されており、日本文学の一つである落語が西洋を舞台にした物語に組み込まれているという所も注目しなければならない。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

特に鴉夜と津軽のコンビ、そして鴉夜に代わって津軽に辛辣かつ強烈なツッコミをする静句の関係性は日本テレビで放送されている笑点を彷彿とさせる。笑点と言えば司会がお題を出して、それに対して噺家たちがうまい回答をするという大喜利のコーナーがある。そこでは回答者が時折司会を不謹慎にイジって座布団を座布団運びの山田隆夫に全部没収される※4というお馴染みの展開があり、特に今は亡き桂歌丸三遊亭円楽によるバトルは私もよく見ていたので、本作で鴉夜が生首であることを元にしたイジり(生首ジョーク)を次々と出してくる津軽と鴉夜の関係は笑点の司会と回答者の関係に似ているなと思ったし、「静句、後で津軽をぶん殴っておけ」という鴉夜の指示は笑点における「山田君、〇〇さんの座布団全部持っていきなさい」という司会の指示を見ているようで、ミステリとしての面白さとはまた違うファルスとしての部分もこういった先行となる演芸によって支えられていたのだなと改めて思った。

 

言うまでもなくこの生首ジョークは身体欠損をイジっているのだからジョークとしては不謹慎で本来なら不快感を覚える人が出てきてもおかしくない所なのにそれがないというのは、津軽もまたある種の欠損者であり怪物を殺す鬼混じりという被差別民であるから、そこに健常者が欠損者をイジるいやらしさが感じられないのだろう。鴉夜と津軽は割れ鍋に綴じ蓋、欠けているからピタリとはまる関係性であり、それは「欠けているから分かり合える」という薄っぺらい標語や綺麗ごとめいた関係ではない。三人で旅をしないことには彼らの存在意義やアイデンティティは消え失せ、残る選択肢は「死」のみである。それは1話の段階で視聴者が既に見ていることだ。

 

そしてこのシリーズは怪物を扱っているので「怪物とは何か?」という定義についても私はこの度のアンファル感想で色々と語ってきたが、日本の妖怪や西洋の怪物・精霊・悪魔といったものを図鑑なんかで読むと、人間の思想の幅広さや生命の多様性に触れることが出来て面白いなと思うし、その複雑さにこそ人間が人間として生きていくためのヒントが隠されていると私は常々考えているのだ。

しかし、社会や経済といったものは複雑さを嫌う。サービスは常に同じ量・同じ質で毎日提供しないといけないし、政治家も民衆が同じ思想を持っていればいるほど統治しやすくなる。今社会は性の多様性や働き方改革といったことを目指してはいるけれど、本音は人もモノも均質的であった方が扱いやすいしイレギュラーは出来るだけ排除したいという思いが経済を動かす者の中にはいると思う。実際、本作の舞台となった19世紀末のイギリスは働かずとも暮らしていける上流階級、貧困にあえぐ下流階級、そしてその中間の中流階級という三層に大きく分かれており、街の東西で貧富の差が歴然と表れていたというのは5話の感想記事でも言及した通りだ。

経済が発展し国が豊かになればなるほど、社会はより単純でわかりやすい図式となり、その階級に合わせた生き方をしないと社会と適応出来ないから個人的な欲求や願望は抑圧されることとなった。そうやって均質化する社会から排除されたもの、イレギュラーとみなされたものこそが怪物の源であり、こういった社会背景が19世紀末の怪奇文学をヒットさせる土壌になったのだ。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

本作で登場する保険機構ロイスは、正に均質化を求める経済社会を代表する組織であり、顧客の財産を守る名目でイレギュラーな存在である怪物を駆除する諮問警備部を保持しているが、怪物を駆除しているようでその実は本来人間が持っている多様性を駆除し、色とりどりでカラフルな思想を一律の白色に変えてしまう危険な組織なのだ。怪物であるはずの〈夜宴〉や〈鳥籠使い〉一行に人間性を感じ、逆に人間代表のロイスに怪物以上のおぞましさを感じるのはそのためである。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

そんなレギュラーとしての人間、イレギュラーとしての怪物を考える上で、本作における真打津軽は色々と示唆に富んだキャラだったと私は思っている。彼は最終回でも言っていたように「馬鹿をやるのが仕事」で、落語やジョークで鴉夜を楽しませるのが彼の役目の一つであることは視聴者なら既にご存じの通りだし、鬼殺しとしての戦闘スタイルは突拍子がないというか、相手の意表を突いたものが多い。とはいえ非論理的で無茶苦茶な男という訳ではなく、意外に計算高いし合理的な面もあることは12話でロイスを引きはがすために〈夜宴〉を誘導したことから見ても明らかである。

私の分析だと、津軽は賢くないだけで合理性に関しては鴉夜と引けを取らないのではないかと思っているし、合理性が突き抜けているが故に時としてそれが怪物のような発想に見えてしまう部分がある。別にそれは鬼の血が混じったからそうなった訳ではないだろうし、1話で鴉夜は「生まれながらの人外」と津軽を評しているから、合理性こそ津軽の個性であると同時に彼の怪物的要素でもあるのだ。本来なら人間性として評される合理的な性格が逆に彼の異常性を物語っているのだが、では津軽人間性を示すものは何かというと落語をはじめとする芸の道にあるのではないだろうか。

芸人というと1話の感想記事でも言及したように当時の職業としては卑しい仕事という扱いを受けることもあったし、合理性という面で考えれば芸人に金を払うくらいなら食費・生活費に充てた方がマシという考えがあってもおかしくない。事実、コロナ禍で芸能・芸術は不要不急という扱いを受けた過去があるくらいだから、芸の道というのは非合理的な要素が強い。しかし、合理性の鬼とでも言うべき津軽はそれを摂取することで人間性というものを担保していたのではないだろうか、というのが私の仮説である。

 

そう考えたのは津軽が鬼殺しとして活動していた時期を描いた原作4巻のエピソードを読んでいた時で、この時に私は津軽は鬼の血が混ざる前からある意味怪物的存在であり、落語という芸能を摂取することで人間性を保っていたのではないかという考えに至った。1話で津軽は鴉夜の唾液を摂取することで免疫を高め、鬼に意識が呑まれぬようにしていたが、実は鴉夜と出会う前にもう津軽は自分の中の鬼を抑制する行為をしていたのだ。鬼の血と鴉夜の唾液による免疫が表で拮抗していた裏で、合理と非合理というもう一つの拮抗があった訳であり、津軽はその二つの間を行き来するマージナルマン(境界人)だったということになる。だから人と怪物の間を行き来するという点で津軽は「ゲゲゲの鬼太郎」におけるねずみ男と同じポジションではないかな?と私は思った。

 

ねずみ男も人と妖怪の両方の面を持った半妖怪でどっち付かずの存在として描かれているし、津軽も怪物の血が流れていながら怪物を殺すという点で人間と怪物の両者から疎まれ忌み嫌われる存在だ。しかしねずみ男津軽といったマージナルマンが私たちに教えてくれるのは、私たちの社会は正常と異常を分けたり、弱い者・強い者、勝ち組・負け組といった区分けや棲み分け、レッテル貼りなんかをやっているけど、それは所詮人間の主観や都合で決めているだけで本当は誰にもそんな区別は出来ない。「住む世界が違う」という言葉があるけどその世界は勝手に人間が分けているだけで本当は別にどこに住もうが問題はないし、怪物性というのも人間側の一方的な尺度で決めているだけの話だ。

だから私もこれまで散々人間性とか怪物性の話をしてきたけど、本当はそんなものなど存在しない。全ては自然という大きな括りによってそれはまとめられるものであり、私たち人間社会が自然界における混沌を受け入れられないから、整理整頓をして名前を付けて分類をして、私たちの頭脳で理解出来るようにしたというだけのことなのだ。そして理解出来ないものが怪物や幽霊としてオカルトという箱の中にぶち込まれて来た。そうして今日の人間社会は成り立っているのである。

 

まぁ、原作者の青崎氏はこんな高尚なことを考えて本作を書いた訳ではないだろうし、あくまでも「アンデッドガール・マーダーファルス」は謎解きありバトルありのエンタメ活劇として受け取ればそれで良いが、最後に津軽が崖の上から放った「やっほー!」という山びこの声がホイレンドルフやヴォルフィンヘーレだけでなく遠方にいるはずのルパンやホームズ、切り裂きジャックにまで届いているかのようなあの演出について深読みすると、先ほどから言っているように人間と怪物はお互いに相容れぬ存在として壁を作り住む場所を分けて生きているけど、本当はそんな壁など存在しない。人間も怪物も探偵も怪人も怪盗も、全ては地続きであり隔絶した存在ではない。全てはつながっておりだからこそ人間と怪物の間を行き来する津軽の声が届いたのだという風に解釈出来るのではないだろうか?

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

そして津軽の山びこは生首となって鳥籠の中に入らざるを得なくなった、つまりは鳥籠の内と外という境界が出来た鴉夜さえも驚嘆させる。鳥籠とそれをおおうベールによって隔絶された鴉夜の世界は、津軽のマージナルマンとしての勢いにより取っ払われ、その世界の複雑さと混沌とした様相をポジティブな笑劇(ファルス)として彼女は受け入れた。この物語の結末を清々しい心持ちで見ることが出来たのは、この世界の混沌をポジティブに前向きに描いたことも大きいだろう。

 

※4:そんな座布団没収の中でも歌丸師匠は全員の座布団を全て没収することがあり、それは俗に歌丸ジェノサイド」として知られている。(↓)

聞くも涙、語るも涙の事件がありました…。 #shorts - YouTube

 

さいごに

さて、これで私のアンファル感想・解説を終える。原作はまだ映像化されていないのが1巻の「人造人間」のエピソードと4巻の5つのエピソード、計6つのエピソードになるが、いずれも時間を空けずにアニメでやるとなると過去回想、つまりはエピソード0という形でやるしかないので、人狼編以降の物語は原作者がどれだけ執筆出来るかにかかっている。一応原作4巻の末尾には次のエピソードが「秘薬」であると予告されており、4巻が今年発売されたから5巻は早くても来年、遅いと数年先に刊行されることになりそうだ。恐らく次に出て来るのはジキル博士とハイド氏と予想するが、また最新刊が発売された際に、当ブログで5巻の感想が書くことが出来たら良いなと思っているのでその時はまたよろしくお願いしますね。勿論、アニメの続編も待ってますよ!

【最終回】四人が選んだ"依存"と"逃避"【ノッキンオン・ロックドドア #09】

四年前、私はこの原作はドラマにピッタリの作品だと言っていた。

そして四年後の今、このドラマは最終回を迎えた。

原作読了から四年の待望と二ヶ月ちょっとのドラマ放送を経た訳だが、それでは最終回の感想を語っていくこととしよう。

 

(以下、原作を含むドラマのネタバレあり)

 

「ドアの鍵を開けるとき」

ノッキンオン・ロックドドア2 (徳間文庫)

最終回は原作2巻の最終エピソードである「ドアの鍵を開けるとき」。シリーズの縦軸として倒理・氷雨・穿地・糸切の四人の間でパンドラの箱の如く扱われてきた6年前の密室殺害未遂事件の謎を解く物語で、何故彼ら四人が探偵・刑事・犯罪コンサルタントの道へ進むことになったのか、彼らの知られざる裏の物語がこのエピソードで明かされる。

ドラマは約30分でこのエピソードを描いたため細かい部分が省略されており、特に原作でじっくり捜査の過程を描いた「連続ボウガン事件」はダイジェストとして省略されている。省略されたのは少々残念ではあるが、このエピソードの本題はこの事件ではなく密室殺害未遂の方なので、この省略は妥当と言ったトコだろう。

 

今回はこれまでに比べると改変はほとんどなく、ボウガン事件の容疑者である杵塚が君塚という名になっており、保険金目当てで両親や関係者を殺害したという設定が追加され、原作以上に悪辣な人物として描かれている程度だ。原作の杵塚はあくまでも犬殺ししかやっておらず犯罪としては軽いものだったが、ドラマは君塚を法の網をくぐり抜けた犯罪者として強調しており、だからこそこの後起こる密室殺害未遂事件にも重みが出て来るという点で、この改変は原作の補強になっていると評価して良いだろう。

 

さて、倒理が被害者となった密室殺害未遂事件の謎はこの二つ。

〈How〉犯人はどのようにして現場を密室にしたのか?

〈Why〉何故犯人は現場を密室にしたのか?倒理が壁に書いた「ミカゲ」は何を意味するのか?

部屋の扉と窓は内側から鍵がかかっており、ドアの鍵はコタツの上にあったコーヒーの中に浸かっているというシンプルなもの。鍵は普段電灯の紐に吊るしてあったはずなのに、電灯の紐が切れてカップの中に浸かっていたことが、事件解明の手がかりとなる。

 

※ちなみに、DVD/Blu-ray に収録されているディレクターズカット版では、四人の学生時代の関係性や、ボウガン事件の犯人を特定するに至った推理と根拠がキチンと描写されている。また、密室殺害未遂の方は電灯の紐を切った理由は言及されているものの、(原作と違い)犯人がカギをかけて密室にした理由までは語られていない

オーディオコメンタリーでは主演の二人と堤監督による撮影当時のお話を聞くことが出来るが、夏場で冷房もなしでの撮影だったとは…!

(2024.04.18 追記)

 

探偵は事件を「解決」しないといけない

原作未読の方のために原作者の青崎氏が Twitter で補足説明をしていたが、この事件の直前に糸切と倒理は二人で探偵業をやろうと話しており、穿地は一族が警察出身者のためそれに倣って警察の道へ、氷雨は製薬会社の営業部に就職するはずだった。しかしその運命を狂わせたのが密室殺害未遂事件であり、連続ボウガン事件に関わらなければ予定通りの道を進んでいたかもしれない。

そんな彼らの運命を狂わす原因となった連続ボウガン事件で描かれたのは「法の網をくぐり抜けた犯罪者」に加えて「真実は告げられるべきか?」というテーマも横たわっている。これはミステリの女王アガサ・クリスティも晩年のポワロシリーズで取り扱っているくらいミステリにおいては定番のテーマであり、善悪を考える上でも重要となる。

本作では犬を殺された被害者遺族である杉好に犯人と真相を伝えるべきかという点で四人の間で意見が衝突する。倒理は被害者遺族に真実を伝えるべきという意見なのに対し、他の三人は真実を伝えて杉好が君塚を殺害したら結果的に犯罪を後押しすることになる、確たる証拠がないのに軽率に真実を伝えてはならないという意見で反対する。

真実を伝えねば犯罪者を見逃すことになり、真実を伝えたら新たな犯罪者を生むことになるかもしれないという正に究極の二択問題。ドラマや原作を見た方は既にご存じの通り、結果真実は遺族に伝えられたのだが、この事件で糸切美影は自分が探偵に向いていないと悟る。

探偵は「推理」だけでなく事件を「解決」しないといけないのだと

 

「探偵は事件を解決する者」という定義は2017年にフジテレビで相葉雅紀さん主演でドラマ化した貴族探偵(原作は麻耶雄嵩の同名作品)においてそれがユニークな形で提示されていたのでそれを元に話をするが、「推理」というのは老若男女問わず誰でも出来る行為・能力であって、探偵の本分ではない。探偵は事件を解決することが本分であり、解決に導けるのであればいかなる手段を用いても構わない。使えるのなら超能力でも良いし、極端な話アウトローな手段をとったとしても、依頼人の希望に沿う形であれば、過程は問題にならないのだ。

そして「解決する=真実を明らかにする」ことではない依頼人が真実を求めているのならともかく、そうでない場合もある。これは先述したアガサ・クリスティの某作品でも描かれており、必ずしも真実を公にすることがプラスになるとは限らない。推理から導き出した答えをどう取り扱い解決に導くか。それこそ探偵が最も重視すべきことなのだ。

 

以上のことを踏まえると糸切が探偵に向いていないと悟ったのも理解出来る。彼は推理力に関しては四人の中でも抜群であったが、解決に導くという肝心の能力が欠けていた。いや、能力が欠けていたというよりは解決する際に生じる探偵としての責任を背負い込めないと言った方が正確だろう。解決が全て良い結果になるとは限らないし、依頼を受けたことが切っ掛けで誰かに恨まれたり、誰かの人生を壊してしまったりと新たな悲劇を生むことだってある。探偵とは誰かの人生に深く関わる仕事なのだから、そこに介入するには相当の覚悟と責任がいる。その責任を背負いこむだけの心の容量が糸切美影には無かったというだけの話だ。

 

かくして糸切は手段だけを提供し、その後の相手の人生や成り行きには干渉しない犯罪コンサルタントの道を選んだ。原作でも彼は「身軽さ」を重視しており、背負いこむものは少ない方が良いと言っていたが、責任から逃避したとはいえ完全犯罪を目論んだり悪を栄えさせようといった意識はない。倒理や氷雨・穿地に不可能犯罪をお題として出している辺り、ビジネスとして完全犯罪は提供するが、犯罪は暴かれるべきであるという矛盾した倫理観があり、歪んではいるが彼なりの正義感として三人に依存していることは事実だ。

 

原作では糸切が6年前の事件を今になって明らかにしようと思い立った理由が不明でそこがモヤっとしたポイントだが、ドラマでは前回の検事射殺事件で穿地が刑事を辞めることになったので、自分切っ掛けでかつての仲間の人生を狂わせたことに罪悪感を覚えたのか、6年前の事件を明らかにして彼女の決意を思い止まらせようとした、という形で描かれている。彼なりの罪滅ぼしということもあるだろうが、穿地が刑事を辞めてしまったら自分が提供した犯罪計画が完全犯罪になってしまう恐れもある。だから彼女を警察組織に留まらせておきたいのだという利己的な考えも多少はあるかもしれない。

 

贖罪としての探偵

糸切も歪んでいたが、倒理・氷雨の歪みもなかなかのもの。殺意が無かったとはいえ氷雨は倒理を傷つけ、倒理は傷が深ければ死んでいたかもしれなかった。そんな加害者側の氷雨が二人で探偵をやろうと提案し、被害者側の倒理はそれを(条件付きとはいえ)受け入れたのは第三者から見ると異様としか言いようがない。

 

恐らく氷雨の理屈としては、自分が糸切という名探偵を倒理から奪い糸切を犯罪の道へ歩ませてしまったことに対する贖罪の念から探偵業の提案をしたと考えるべきだろうか。そして自分が探偵として事件を解決することによって罪滅ぼしをしていくという思いもあるだろう。糸切と密会していながら彼を倒理や穿地に突き出さなかったのは、自分が罪を犯した人間だからその資格がないという認識あってのことだろう。

一方の倒理は友人を犯罪者にしたくなかったということに加えて、感情的な問題を扱うと暴走してしまうことを今回の一件で自覚したというのも大きい。理性的に考えれば氷雨ら三人の意見が正しいのに、自分ごととして被害者側の心に共感し寄り添い過ぎてしまうのはビジネスとして探偵をやる上では欠点になりかねない。だから彼は感情的な問題、つまりホワイダニットという動機からは距離を置いてその分野を氷雨に一任するという形で探偵をやることに決めたのだろう。

 

この最終回の内容を踏まえて初回の画家密室殺人事件を振り返れば、倒理が何故傍若無人な振る舞いをしたのかわかる。彼は人の心がないから傍若無人なのではない。むしろわかり過ぎるから人との心理的な距離をとることに必死という感じなのだ。それは事件解決後の由希子夫人との会話からもうかがえることで、多分6年前の倒理だったら由希子夫人のやった一種の完全犯罪――夫と息子を犠牲にして画家に返り咲く――に怒りを示したと思う。あのように冷静に対処出来たのは氷雨との一件があったからだろうし、あの時に彼は清濁併せ吞むことを身をもって学んだと考えられる。

 

糸切は責任から逃げ、倒理は感情と距離をとり、そして氷雨は贖罪という形で倒理に依存をした。この三人の病的な歪みに比べれば穿地はまだ健全というか一人だけ蚊帳の外に近い状態だったので変に歪むことがなかったと思う。とはいえ彼女も完全に独立・自立した人間という訳ではなく、謎解きには倒理と氷雨の力を頼っている部分はあるし、そういう点では依存していると言える。まぁ男三人の病的な依存関係に比べたらドライな依存なのだけど。

 

総評

さて、これで四人が抱えていた事件の謎が明かされ、それぞれが今の道を歩むことになった理由についても以上の分析の通りである。「穿地は糸切だけでなく倒理や氷雨もぶん殴って良い」という感想を見かけたけどホント「それな」としか言いようがないわ。

 

これでドラマも終わりということで最後に総評としてこのドラマの評価をすると、まずこれまで当ブログで何度も言及してきたように、脚本による原作の改変が実に秀逸で毎回毎回ちゃんとドラマとして意味のある改変をしていることが読み解けて、こうしてブログで詳しく解説が書けたのは私にとって楽しくもあり嬉しいことだった。

原作は一話一話が単なる謎解きだけのミステリなのに対し、ドラマは単なる謎解きだけで終わらないミステリとして描かれたのは、やはり小説と映像作品という媒体の違いも大きく関係していると私は考えている。小説の場合は1つがさほど重みのない短編であっても、それが短編集という一冊の本になればまとめて7つ(2巻は6つ)のエピソードを読めるから充実度の高い作品となる。しかしドラマは小説と違い連続で次のエピソードを見ることが出来ないし次のエピソードが放送されるまでに一週間時間が空いてしまう。そのため、一つのエピソードをそのまま原作通りやってしまうと謎解きだけの軽いミステリとして視聴者の印象に残ってしまう。だからこそ一つ一つのエピソードに原作にはない犯行動機や設定を加えて重量感のあるミステリにしたと私は思っている。

 

また今回ドラマ化されたエピソードも適当に選ばれたのではなく最終回の6年前の事件につながるようなエピソードがチョイスされているのも見逃してはならない。

2・3話の議員毒殺事件は氷雨が探偵になった動機に関わる「贖罪」が重要なワードになっていたし、4・5話の女子高生失踪事件では最終回の真相につながる布石として「倒理がいなくなったら僕は追いかけるけど、僕がいなくなっても追いかけないで」ということを氷雨に言わせた。7・8話の検事射殺事件は本来自分に関係のない事件に関わったことで別の悲劇が生じたという内容になっており、これは6年前の密室殺害未遂事件の構図と似ている。6話は制作側が映像化したかったミステリということで最終回にリンクする要素はないけど、1話に関しては倒理が土足で四ノ宮家にあがって氷雨に注意される場面があり、最終回では逆に氷雨が倒理の部屋に土足であがって注意されている。初回に敢えて氷雨の常識人的要素を強調しておくことで、最終回において氷雨の異常性というか常軌を逸した面が際立つのだから、この対比的演出は連ドラならではで良かったと思うよ。

 

演技面に関しては私は素人なのであんまりエラそうに言える知識はないが、松村さんも西畑さんも原作の倒理・氷雨のキャラを見事に演じていたと思う。実を言うと YouTube のなにわ男子公式チャンネルで普段の西畑さんの様子を見ていたので、いざドラマで西畑さんが氷雨を演じているのを見ると「何かキザったらしくカッコつけてるな~…ww」という風に最初は思った。しかしよく考えれば氷雨は当初から探偵になろうと思ってた訳ではなく贖罪の念から探偵になった人間なので、ナチュラルではなくどこか背伸びをして探偵らしく振る舞っている様氷雨の演技として実は大正解であり、原作既読だったからこの演技プランについては割と早い段階で見抜けたのではないかと思っている。

 

ということで、長くなったがこれにてノキドア感想・解説を終える。出演者をはじめとするスタッフの適格な仕事によってノキドアは当初の予想を超えたクールでスタイリッシュな、それでいて面白い本格ミステリドラマとなって原作ファンとして満足です。シナリオブックもDVDも購入しますし、続編も是非やってもらいたいですね!

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(最終回当日に「あつまれどうぶつの森」でノキドアの事務所を再現してみました)

痛みに鈍感になる勿れ【アンデッドガール・マーダーファルス #12】

私が小学生の時に住んでたマンションで蛾が大量に発生するという事件がありまして、壁の至る所に枯れ葉色の蛾が止まっていたのが今もなおトラウマとして覚えている風景です。だから今回の蛾のシーン、まぁまぁキツかったですよ。

 

(以下、原作を含むアニメ本編のネタバレあり)

 

「流れの交わる場所」

今回は原作の262頁から384頁(第19節「濃霧ときどき人造人間」の続きから第27節「静句とカーミラ」)までの内容。細かい台詞や回想場面などをカットして上手い具合に約120頁分を1話としてまとめた12話は、鴉夜と津軽人狼村に潜入、ノラの殺害現場の検証、ルイーゼの死体発見、そしてとうとうホイレンドルフとヴォルフィンヘーレ間で戦争が勃発し、保険機構ロイスや〈夜宴〉も加わって混戦の様相を呈する結果となった。

 

鴉夜の捜査によって人狼村に隠し通路があり、地下洞窟からホイレンドルフの見張り塔へ抜け出せることが判明した訳だが、一応補足説明をしておくとあの岩に仕掛けを施したのはかつて人狼と同じ土地に生息していたドワーフ族であると原作で述べられている。これで妊娠中のローザがホイレンドルフに辿り着けた理由も説明がついたし、少女たちが殺された実際の犯行現場が地下洞窟であることも判明した。

金田一耕助ファイル1 八つ墓村<金田一耕助ファイル> (角川文庫)

今回のような農村を舞台にしたミステリで地下洞窟を見るとやはり思い出すのが横溝正史八つ墓村である。『八つ墓村』は鍾乳洞だったけど、地下に湖があるというシチュエーションは『八つ墓村』の鬼火の淵を連想させるし、犯人と思われていたアルマの死体が発見されたが、『八つ墓村』でもこれと同じような場面がある。また、ホイレンドルフとヴォルフィンヘーレ間の戦争は、『八つ墓村』の終盤で起こる村内での暴動を彷彿とさせるものがあり、そういったオマージュネタが散見されるのも12話の注目ポイントの一つである。

 

そして、アンファルの見所の一つである暴パートも展開され津軽は今回本格的に人狼とやり合う形となったが、津軽が今回披露した相手の口に拳を突っ込んでみぞおちを蹴り上げるという技は原作だと「酔月(すいげつ)」と呼ばれており、津軽が半人半鬼になる前、つまり鬼殺しとして活動していた頃に先輩から聞いて知った鎧通しの技である。

喉奥に拳を突っ込まれると身体はそれを吐き出そうとするから口が閉じられなくなる。そして口が開いたままだと歯を食いしばれないので身体が弛緩し、そんな緩んだ腹を蹴り上げられるのだからひとたまりもない。捨て身の狂気と身体的な合理性が合わさった技という点では津軽にピッタリな技ではないだろうか。

 

怪物の条件 ―― 痛みに鈍感になること

今回の物語では前回の感想記事で言及した二重の報い人狼村に降りかかり、〈鳥籠使い〉・〈夜宴〉・ロイスといった異形のよそ者がなだれ込んだことで村は地獄と化した。あの岩に仕掛けられた地下洞窟への入り口もドワーフの復讐心を象徴するものだったことになるが、今回は原作を読んでいた時には思いつかず、アニメ本編を見て閃いた怪物の条件についてお話したい。

 

これまで私は怪物の条件として「よそ者」を挙げたり、怪盗ルパンやオペラ座の怪人ファントムといったその時代の権力に背く者(=まつろわぬ民)も怪物の条件に当てはまることを指摘してきた。怪物というのは肉体だけでなく精神も常人から逸脱した人間を指すということは二章の「ダイヤ争奪」編を見れば十分わかることだし、怪物として描かれたものの中には人間が表沙汰にはしたくないダークな感情だったり性的嗜好が盛り込まれることが多い。そういう意味で、怪物を読み解くことは人間を読み解くのと同義だと言えるだろう。

 

そしてそんな怪物の条件として今回注目したポイントは「痛み」だ。そのヒントとなったのが、今回の冒頭で鴉夜と津軽の前に現れた人造人間のヴィクターである。

© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

公式HPのキャラクター紹介によるとヴィクターは「超人的な筋力を持ち、痛みも感じない」と記されている。身体は動かせるのだから神経は通っているのは確かだが痛覚がないようであり、現にアリスの銃弾を胸に受けてもビクともしないのだから血液循環といった身体構造が通常の人間と違うことは間違いないだろう。

 

では「痛みを感じない」というのは一般的な人間にない能力なので怪物の条件の一つに当てはめて良いのかと考えるとそこは慎重に考えないといけない。人間には先天性無痛無汗症※1という難病があるのだから、「痛みを感じない=怪物」などと言ってしまうとそれは差別につながるし、そんな表層的な定義を今回話すつもりは毛頭ない。「痛み」を考えるヒントとしてヴィクターと合わせて人狼のことにも触れないと私の言いたいことは伝わらないだろう。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

人狼は既にご承知の通り毛皮の防御力が高く刃や銃弾を通さない。そして五感が鋭いため嗅覚・聴覚で相手の居所を探し出せるのだから、正に強敵である。しかしそんな優れた身体能力も裏を返せばこう表現も出来る。

防御力が高いということは痛みに鈍感である

そして、五感が鋭いがゆえにその能力に頼り切って思考がおろそかになるというのは、ブルートクラレが地下への隠し通路の入り口を見つけられなかったことから見て一目瞭然である。どこかが優れれば、どこかが劣る。全てが優れるということはまずあり得ないことなのだ。

 

しかしこういった自分自身の欠落・欠陥というものは往々にして見て見ぬフリをしたり、自分の欠落なのにそれを誰かのせいにするといった形で無いことのように扱ってしまうのが心の流れというもの。それを象徴するのが人狼編におけるレギ婆やブルートクラレのリーダーであるギュンター青年である。

レギ婆の耳にはピアスを通すための穴が開けられており、ギュンターの身体には赤い刺青が他の青年たちよりもずっと多く彫られている。ピアスも刺青も、どちらも身体に施すには「痛み」を伴う。原始的な部族の中にはこういったピアスや刺青を施し、その痛みに耐えることで成人として認められる部族がある。特に人狼は一種の戦闘民族でもあるから痛みに耐性がつくというのは種族としての誉れであり、ギュンターの身体の刺青はそれだけ多くの痛みに耐えたという強い人狼としての象徴になっているのだ。

 

ただ、レギ婆やギュンターのような痛みに耐えた者たちは「自分が耐えられたのだから他の者にも耐えられるはずだ」という思考に陥りやすい。そして痛みに耐えられない者、或いは痛みから逃げようとする者は未熟であり人狼として恥である、というのがヴォルフィンヘーレという共同体ならではの思想であり村に漂う空気感なのではないだろうか。

この「痛みに鈍感になる」という問題は肉体だけの話ではなく精神にも関わってくる。自分の痛みと他者の痛みが同じとは限らないのに、自分の尺度で相手の痛みを判断して「その程度で何泣き言言ってるの?」と責めるのは自分の痛みだけでなく他者の痛みにも鈍感になるということだ。あまり詳しく言うとネタバレになるが、この「痛みに鈍感になる」ということが今回の一連の事件の犯人の動機ともつながってくるので是非とも覚えていてもらいたい。

 

さて、以上のことから私は「痛みに鈍感になる」というのが怪物の条件だと定義づけた訳だが、「鈍感」というのが重要なポイントで、ヴィクターの場合は当初から痛みを感じない身体だからこそ、自分自身の欠落を把握している。※2つまり自分にない痛み・苦しみといった肉体感覚を他の人は持っているということが理解出来るし、それゆえ彼は怪物でありながら人間性を担保出来ているのだと私は思っている。

むしろ、痛みや苦しみを知っている我々人間の方が精神的に怪物である場合が圧倒的に多く、例えばロイスのエージェントの一人であるカイルは醜さを忌み嫌い怪物を狩るという行動原理があるのだが、これなど醜さゆえに迫害される者の痛み・苦しみに鈍感だから為せる所業であり、その鈍感さは怪物としてカテゴライズしても良いだろう。

 

※1:先天性無痛無汗症(指定難病130) – 難病情報センター

※2:これを端的に示したのが、ソクラテス無知の知という言葉だ。

「無知の知」とは?大学教授がソクラテス哲学をわかりやすく解説【四聖を紐解く④】|LINK@TOYO|東洋大学

 

さいごに

ということで今回は「痛み」から怪物の条件をひねり出した感想・解説となった。人狼が怪物なのは何も身体能力の高さではなく、その高さゆえに鈍感になった知性・思考こそが怪物的ではないかというのが私なりの答えである。

「痛み」ついででもう一つ言っておきたいことがあるが、痛みを感じられない原因にはアドレナリンの分泌が関係している。人間は興奮状態の時にアドレナリンが分泌するが、アドレナリンには血圧や心拍、血糖値を上昇させる作用があり、それによって痛覚が麻痺するのだ。今回の終盤、ホイレンドルフの村人たちは正に興奮状態に陥っており、痛みに鈍感になっていたからこそ人狼にも物怖じせず殺しにかかれたことを思うと、あの場面はホイレンドルフの村人が怪物化したのだと読み取ることが出来よう。

痛みがあるから人は病や死を恐れ、おのれの弱さ、そして誰もが弱き者であることに気づく。痛み・苦しみが慈悲という感情とつながるのは医療や看護の世界※3を見ればわかることだし、経験したことがない痛み・苦しみに対してはどうしても鈍感になってしまうからこそ、我々人類は戦争や疫病・災害といった歴史を記録してその痛み・苦しみを継承する必要がある。それを放棄した時、人類は人でなしの怪物へと堕ちるというのが私の意見だ。

 

さぁ次回は最終回。この長いようで短い旅も終わりを迎えるが、本格ミステリとして私が原作未読の方に問いかけるのはこの三点。

1.犯人は誰か?

2.ルイーゼが誘拐された現場から導き出せる答えは?

3.何故犯人は二つの村で犯行を行ったのか?

1に関してはまぁ推理は出来なくとも何となくあの人かな?という予想は立てられるだろう。ただ今回の事件は一章の吸血鬼編のようにフーダニットがメインの話ではなく犯行動機、つまりホワイダニットがメインの謎となっているのでそこを中心に考えれば犯人が弄したトリックも推理出来るだろう。勿論、手がかりは9話から今回の12話までの中に全て出揃っている。

 

バトル面では静句とカーミラの因縁のリベンジマッチ、アリス対クロウリーの飛び道具対決、カイル対ヴィクターの美醜対決の計三つの対戦が見所となるが、最終回で謎解きと同時並行でバトルを描くとなると、バランス良くやらないとバトル描写が尻すぼみになるか、もしくは謎解きが消化不良になってしまいそうなので、ここは演出と脚本の力量が試されるだろう。

 

※3:ホイレンドルフの村人たちが人狼村を襲撃した際、ハイネマンだけその地獄のような状況に怯えていたのは彼が人の痛み・苦しみに向き合う医療従事者だったからではないだろうか?

社会派ミステリ × 算段の平兵衛【ノッキンオン・ロックドドア #07・08】

次回が最終回とかやだー!!

もっと見たいよー!

 

「チープ・トリック」

ノッキンオン・ロックドドア (徳間文庫)

7・8話は原作1巻の4つ目のエピソード「チープ・トリック」。大手の通信教育会社「花輪ゼミ」の重役・湯橋甚太郎が自宅で何者かに射殺された。現場の状況から外からライフルで狙撃されたことが判明しているが、被害者は事件の起こる前から狙撃を恐れて窓には近づかなかった上に、事件現場の窓には遮光カーテンが引かれていて外から被害者の姿を見ることは不可能だった。にもかかわらず犯人は室内にいた被害者を的確に撃ち殺している。

 

ということで今回は、

〈How〉犯人はどうやって見えないターゲットを的確に射殺したのか?

という不可能狙撃が謎として提示されている。しかも、死体が倒れていたのは窓際であることから、

〈Why〉何故被害者は狙撃を恐れていたのに窓に近づいたのか?

という不可解な謎も出てきているのが注目すべきポイントだ。

 

この「チープ・トリック」はトリックメーカーである糸切美影が初めて登場するエピソードで、原作ではここで美影の人となりや氷雨との関係について描写されている。

今回もまた例によって色々と改変されているので改変ポイントを拾っていくが、まずは事件関係者。原作の被害者に相当する大手企業の重役・湯橋は、ドラマでは検察官の片桐道隆に変更されている。ドラマでは片桐が担当した「料亭放火殺人事件」が犯人の殺害動機に関わってくるという展開になっており、放火殺人の再審請求やNPO法人の代表者の死なども絡んで、単なる謎解きミステリではなく社会派ミステリとなっているのがドラマ版の改変の注目ポイントの一つである。

道隆の他にも、湯橋の妻・佳代子の役割がドラマでは道隆の父親で東京高検の検事長である浩介がそれを担っており、ドラマ版の佳代子は原作における家政婦の近衛という女性の役割を担うという形で置き換えられることとなった。

 

そして2・3話の時と同様、今回も美影のシンボルとなるチープ・トリックの楽曲が落語の演目に改変されており、原作では「今夜は帰さない」(原曲のタイトルは「Clock Strikes Ten」)という曲の歌詞の一節だったのに対し、ドラマは「算段の平兵衛」という落語を用いている。

www.youtube.com

 

ja.wikipedia.org

「算段の平兵衛」のストーリーについては後ほどドラマの内容と併せて解説する。

 

あ、蛇足かもしれないがもう一つ注目ポイントを。7話冒頭の事務所での動画撮影の下りはドラマオリジナルの演出ではなく原作2巻の「穴の開いた密室」で描かれている。原作とドラマで違いを見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

(以下、ドラマのネタバレあり)

 

平兵衛の「算段」が失敗した世界線

今回美影が持ち出した「算段の平兵衛」は落語としてはちょっと異質。元々この落語はストーリーが一種の完全犯罪モノであり、内容自体あまり可笑しさがないということもあって廃れていたのだが、三代目桂米朝が先人たちから聞き集めた断片的な情報をつなぎ合わせて復刻させたそうである。

 

ドラマについて言及する前に、まず「算段の平兵衛」のストーリーを簡単に紹介しよう。

とある村の庄屋はお花という妾を囲っていたが、嫉妬深い庄屋の妻がお花の存在を知って怒り、お花と手を切れと庄屋に迫る。仕方なく庄屋はお花を平兵衛の元へ嫁がせる。この平兵衛という男は就農はせず、人間関係や金銭の問題を二者の間に入って仲裁することを生業としていた。そんな男だから真面目に働く訳もなく、庄屋がお花に持たせた手切れ金を博打で使い果たし、お花の着物やかんざしまで質に入れてしまう。それでも金が足りなくなった平兵衛はお花に美人局をやれと指示を出し、何とお花を囲っていた庄屋から金をふんだくろうとする。計画通り庄屋はお花の所へやって来て、お花に手を出した所を平兵衛は「間男見つけた!そこ動くな!」と庄屋を殴りつけるが、当たりどころが悪かったのか庄屋はそのまま死んでしまう。

以上が「算段の平兵衛」の前半のあらすじである。ここから平兵衛は庄屋の死体を利用して、庄屋の妻と隣村で盆踊りの練習をしていた若衆を騙して金を巻き上げるというのが後半のお話になる。ここは文で説明するよりも上に載せた米朝の語りを聞いた方がわかりやすいし面白いので是非聞いてもらいたい。

 

※動画が削除されたのでストーリーについては新たに貼り直したWikipediaの記事を参照してもらいたい。

(2023.10.25 追記)

 

では、「算段の平兵衛」が今回のドラマではどのように関わってくるのかという話になるが、言うまでもなくドラマにおいて平兵衛に相当するのは検事の道隆である。自分の過ちを隠して冤罪を生み出し、真犯人を見逃して第二の被害者を出しているのだから、落語の平兵衛と同じく悪を栄えさせていると言って良いだろう。

そんな平兵衛は落語の終盤、盲目の按摩師である徳という男から金の無心に迫られる。徳は平兵衛の悪事を知っていて金をせびりに来たのかそれはわからないけど、平兵衛も後ろ暗い所があるので金をやる。その様を見て「盲(めくら)ヘエベエに怖じず」(「盲蛇に怖じず」のダジャレ)と言って落語は終わる。

この盲目の按摩師に相当するのが、NPO団体に所属する上野美貴だ。彼女は検事が再審請求を拒んだ上に団体の設立者である宍戸を死なせたという検事の弱みを握っている。なおかつ上野は宍戸と同級生であり、宍戸に対して恋愛感情を抱いていたとすると「恋は盲目」という言葉が彼女には当てはまり、正に「算段の平兵衛」における按摩師に相当する訳だ。遮光カーテンが引かれていて姿が見えない検事を撃ったという部分も「検事が見えない=盲目」という形でリンクしていると考えて良いだろう。

そして、検事の妻である佳代子は、平兵衛の妻であり庄屋の妾だったお花に相当する。落語ではお花はそれほど重要な役どころではないが、やりたくもない美人局をやらされたり自分の着物を質に入れられたりと、そういう点では彼女も平兵衛の被害者の一人だと言えるし、ドラマでも佳代子は夫や義父から家庭内でモラハラを受けていたことが描写されている。

 

さて、このことを踏まえると、今回のドラマは「算段の平兵衛」ではあまり重要ではない盲目の按摩師とお花にスポットライトを当てて、もし按摩師が平兵衛を殺して、お花がその犯行を隠蔽したら…という「算段の平兵衛」の後日談的なストーリーになっているのが興味深いポイントだ。

正直な所、盲目の按摩師は最後のダジャレオチのためだけに登場する人物であり、お花も庄屋が死んだ後は物語に一切出て来ないので、「算段の平兵衛」は落語としてはクオリティのあまり高くない作品だと私は思う。だが、物語として不完全で隙のある話だからこそ膨らむ部分があるというもので、お花は(指示されてやったとはいえ)美人局が原因で庄屋を死なせてしまったのだから、もし平兵衛が殺されて役人が彼の最近の行動を調べたら、自分が美人局をしたということが何かの拍子でバレるかもしれないし、それを恐れて偽装工作をしたというパラレルワールドとしての物語があっても良いのではないだろうか。

今回の検事射殺事件は、そんな「算段の平兵衛」の算段が失敗してしまう物語と解釈することが可能であり、「算段の平兵衛」における脇役にスポットライトを当てて、不正は必ず暴かれるという正義の物語に反転しているのも、原典と言うべき「算段の平兵衛」に対するアンサーソングみたいになっていて面白い改変の方法だなと思った。

 

原作では穿地は特にピンチになることはなく犯人を逮捕し、被害者の不正を暴き立てたが、ドラマでは美影との過去の交際関係が問題となり、結果彼女は週刊誌にその情報を売る代わりに検察の不正を大々的に暴くこととなった。正に「肉を切らせて骨を断つ」という感じで、穿地のハードボイルドさがよく表現されていたし物語のオチとしても丁度良かったと思う。

 

さいごに

ということで7・8話の感想・解説は以上の通り。原作ではチープ・トリックの「今夜は帰さない」の歌詞が事件の謎を解く手がかりになっていたのに対し、今回の「算段の平兵衛」は落語の内容が謎解きのヒントにはなっていない。そこは2・3話の「死神」で上手くやっていたと思うが、今回の場合はドラマの登場人物と落語の登場人物をリンクさせて原作にはなかったテーマを生み出しているのが評価ポイント。原作はあくまでも不可能狙撃をメインにした話なので、検察の不正や再審請求といった社会正義に関するテーマ性みたいなものはそもそも盛り込まれていない。

今回のドラマの改変を分析するなら、まず不可能狙撃という原作のトリックが軸となり、そこに検察による不正や再審請求・NPO法人といった社会派ミステリ要素が肉付けされた。そして、チープ・トリックの代替となる落語「算段の平兵衛」が物語の骨組みとして機能したことで、物語として非常に充実度が高く(良い意味で)ツッコミ所のない安定した仕上がりになったのではないだろうか。

いや、2・3話も凄かったけど今回も古典落語の換骨奪胎のさせ方がホントに見事だったね。特に今回の「算段の平兵衛」は「死神」と比べるとマイナーな上に落語としてはイマイチな部分もある話だから、それを現代の物語にリンクさせるというのはそれなりの技術や発想が必要になってくる。普通にドラマを眺めていたらわからないけど、凄く高度な仕事をしてますよ

 

そんなクオリティの高い物語も名残惜しいが次回で最終回。最終回は原作2巻の最後のエピソード。倒理・氷雨・穿地・美影、四人がそれぞれの道を歩む切っ掛けとなった未解決事件の謎が遂に解かれる。もう私は原作を読んだから真相を知っているのだけど、なかなかに深いというかほろ苦い話です。原作未読の方々の反応が楽しみですね。

人狼村に降りかかる「二重の報い」【アンデッドガール・マーダーファルス #11】

レギ婆って原作を読んだ時は西洋の魔女みたいな感じかなって思ったけど、アニメのレギ婆はインドとかアジア系の顔立ちだね。少なくとも西洋生まれの人狼ではなさそう。(混血の可能性はあるだろうけど)

 

「狼の棲家」

11話は原作の164頁から262頁(第11節「始まり」から第19節「濃霧ときどき人造人間」)までの内容。今回は遂に人狼の村・ヴォルフィンヘーレが我々視聴者の前に現れ、ホイレンドルフと同様の事件が何と人狼の村でも起こっていたことが明らかとなった。

 

二ヶ所の集落で同時期に殺人が起こるというのはミステリ小説では一応前例があって、例えば有栖川有栖『双頭の悪魔では二つの村をつなぐ橋が洪水で流され、陸の孤島と化した村とその外側にあたる村の二ヶ所で同時期に殺人事件が起こるというプロットになっている。そして二階堂黎人人狼城の恐怖』は村ではないが独仏国境の渓谷に建てられた二つのお城で同時期に連続殺人が起こるという物語になっている。ちなみに、『人狼城の恐怖』はタイトルにもあるように人狼をテーマとしたミステリで、日本の名探偵・二階堂蘭子が謎解きのためにヨーロッパまで行くので、本作とちょっと似通った部分がある。興味のある方は是非読んでみてもらいたい。

双頭の悪魔 江神シリーズ (創元推理文庫)人狼城の恐怖 第一部ドイツ編 (講談社文庫)

あ、「読んでみてもらいたい」とは言ったけど、『人狼城の恐怖』は、文庫版で平均650頁弱×四冊の“世界最長の本格推理小説と称される程の長大なボリュームの作品なのでお気軽に読めるシロモノではないし、普通に本屋に行っても置いてない入手困難な作品なのでそれだけは言っておく。私もブックオフでやっと見つけたから新品で見つけるのはほぼ無理だと思う。でも『人狼城の恐怖』は四冊のうち二冊を問題編、一冊を捜査パート、最後の一冊を解決編として書いており、長大な分量に見合った謎解きが展開されるので、アンファルが面白いと感じた人なら是非ともチャレンジしてもらいたい。

 

親の因果が子に報い

話をアニメ本編に戻そう。普段は鴉夜の従者として仕えている静句も、今回は単身人狼村に乗り込んでしまったので、慣れない捜査や推理をしなければならないし、窮地も一人で脱しないといけない羽目になった。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

そんな何もかもイレギュラーな状況下で静句が見聞きしたヴォルフィンヘーレという人狼村は霧の窪地の中の森にあり、外界との交渉をシャットアウトした人狼だけの閉鎖的な村だった。村にはブルートクラレ(赤いかぎ爪)と呼ばれる、人間の村で言う所の青年団に相当する自警団がおり、赤い刺青をした人狼がその役目を担っているようだ。村は一人暮らしでつがいが存在せず、言ってみれば村自体が一つの大きな家族のようになっている。

では人狼村は人間の村と違い平和でユートピアみたいな場所かと思いきやどうもそうではなく、13年前にローザが村から逃げようとして捕まり羊の櫓で裁きを受けたそうである。村の女性は巫女としての役目を果たさなければならないのに、それを放棄して逃げたという罪で裁かれたようだが、結局ローザはホイレンドルフまで逃げてユッテを出産、その後人狼だとバレて焼き討ちに遭って死ぬ。それが8年前ホイレンドルフで起こった騒動の顛末ということになる。

 

この辺りの内容については前回の感想記事でも言及したように、災いの原因は必ずしも村の外部からもたらされるのではなく、内部にこそ重大な問題が孕んでいるということを示唆しているが、今回も同じことを言っても仕方ないので因縁という点から今回の話を眺めることにしよう。

ミステリ小説は原因と結果、つまり事件の動機や切っ掛けとなる原因とそれによって生じる殺人事件という結果によって成立する。言うなればミステリ小説はすべからく因縁話であると言って良いだろう。今回の「人狼」編もその例に漏れず過去の出来事が現在の連続殺人(殺狼)事件という形で結実しているのだが、被害者たちは人間村も人狼村も同じ10代前半の少女が犠牲となっており、これが過去の因果に対する報いだとしたらそれは被害者たちにとっては余りにも理不尽な報いだと言えないだろうか?

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

今はあまり使わないが「親の因果が子に報いる」という言葉がある。親の犯した悪行の結果が、なんの罪科もない子孫に及ぶことを意味することわざで、昔の見世物小屋では蛇女を紹介する時に「親の因果が子に報い、生まれいでたるこの姿」と言って、人間の親に殺された蛇がその娘に蛇女という形で報いたのだと紹介したそうである。このように、理不尽な因果応報というのは現実にも創作の世界にもあることで、本作でも「親の因果が子に報いる」状況になったことがわかる。

ただここで注目すべきは、人狼村における報いは13年前のローザの一件だけではないのだ

 

失念している人もいると思うので改めて説明するが、そもそも〈鳥籠使い〉一行や〈夜宴〉がこの場所まで辿り着けたのは、あのブラックダイヤモンド〈最後から二番目の夜〉があったからであり、それを作ったのは人狼に滅ぼされたドワーフである。14世紀にドワーフ族が復讐のため人狼の村の場所をダイヤに刻み込んだことで、こうして19世紀末の今、人狼村に外部から様々な勢力が侵入しようとする状況になっている訳だ。これも先祖の行いが後の子孫に理不尽な影響を及ぼすという点で「親の因果が子に報いる」ケースに当てはまるだろう。

 

今回の時点では人狼村における災いにローザの一件が関わっているというのは何となくわかるだろうが、これから先人狼村にはローザの件に加えて数世代も前の先祖の人狼がしでかしたドワーフ族壊滅に対する報いも降りかかる。ヴォルフィンヘーレは次回から二重の報いを受けることになると思われるが、先祖の人狼ドワーフ族と仲良くしていたら一重の報いで済んだだろうし、ドワーフ族壊滅から現在までの約500年もの間、外界との交渉を断ち異種族を拒み続けたツケを払うことになるのだ。

 

さいごに

ということで11話、「人狼」編も後半へと移っていくがミステリとしては、

・二つの村で同時期に起こった事件は単独犯の仕業か或いは複数犯の仕業か?

・五感が鋭い人狼が何故これまで銃声の音を聞いていないのか?

人狼村の事件の犯人が人間だと仮定すると、どうやって人狼村に辿り着いたのか?

人狼村の事件で、何故被害者たちは犯人を警戒せず正面から撃たれたのか?

人狼の少女が殺害直前に様子がおかしかったのは何故か?

・ルイーゼとノラの事件だけ、これまでの殺害・犯行状況と違うのは何故か?

といった具合にいくつもの疑問点が列挙される。他にも事件に直接関係しないが、ローザが勤めを放棄したという巫女の役目とは何かというのも気になるポイントだ。これに関しては9話から今回にかけて既にヒントは提示されているので原作未読の方は考えてみると良いだろう。

 

それにしても、アニメで見るとレギ婆の偏屈さというか非論理的な部分がよりハッキリと映し出されて、そりゃローザも逃げるわなと思わざるを得なかった。とはいえキャラデザを見る感じ、記事冒頭で言ったように恐らくレギ婆はアジアから大陸を横断してはるばるドイツの人狼村に辿り着いた人狼の一体だと思われるし、その間の艱難辛苦を経てもうこの土地でしか生き延びられる余地はないと判断したのだと思うと、今回の冒頭で「私らにはこの村しかない!」というあの一言にも重みがあるというか、彼女自身の経験が多分に反映された一言なのだなと思った。これは原作を読んだ時には抱かなかった印象なので、今回のアニメでレギ婆をアジア系のキャラデザにした人は流石だなと思うし、見た目で登場人物の過去や歴史的背景を仄めかすというのはアニメならではの手法として実に巧いやり方だと、静句が鳥籠の中に入る演出も含めて評価したい。

生贄としての人狼【アンデッドガール・マーダーファルス #10】

「人間は人間にとって狼である」

トマス・ホッブズ『市民論』より

 

「霧の窪地」

今回は原作の91頁から163頁(第6節「人狼講義」の続きから第10節「豹変の夜」)までの内容。村長との対話で人狼の特性と弱点について聞いた鴉夜たちは、村内で人狼として疑われているよそ者の二人、技師のクヌートと絵描きのアルマと話をする。

前半は聞き取り調査メインで、後半はロイスのエージェントと一触即発どころか出会って早々のバトル。そして金毛の人狼の出現により物語は次のフェーズへと移ることに。

 

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前回の感想記事で人狼の特性については言及したが、今回は人狼進化する怪物であること、進化の最終到達点であるキンズフューラー〈終着個体〉になれば人間には太刀打ち出来ない怪物になることが語られている。今の所キンズフューラーは確認されていないとはいえ、現在の個体はかつて弱点だった銀や聖水を交配による品種改良によって克服しているから、いずれ今の弱点である火に対しても耐性のついた個体が生まれる可能性を示唆しているのだ。

 

混沌を終息させるための生贄

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

今回は外部からの流入者、平たく言うと"よそ者"であるクヌートとアルマに聞き取り調査をした鴉夜だったが、よそ者と言えば3話の感想記事において、よそ者が怪物の条件の一つであることを私は論じている。

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よそ者は異なる思想・価値観を持ち込んで来るため、それに対する不安や不信が怪物という形で変換され、そういった人々を差別する意味合いでよそ者を怪物扱いするという訳だが、一応言っておくと必ずしもよそ者が怪物扱いされたり迫害を受ける訳でもないのだ。本作の場合ハイネマンはよそ者ではあるけど医師として村に貢献しているし、職種によっては新たな知識や技術が村の発展につながることもあるのだから、一概に「よそ者=怪物」という式が成り立つとは限らないのだ。

 

ではどういう状況で「よそ者=怪物」という式が成り立つのかと言うと、それは今回の人狼による連続殺人事件のように共同体内部で重大な問題が発生した時や、飢饉・干ばつといった外部からの流入者を受け入れられる余裕がない状況において起こりやすい。共同体が正常に機能をしている分には、外部からやって来るものたちを歓迎出来る余裕があるし、キリスト教の精神では施しを求めてやって来た人には手を差し伸べて保護するという思想・道徳的な価値観があるのだ。

しかしそういった余裕がない状況だと外部からやって来るよそ者は共同体において非常に疎ましい存在になる。ただキリスト教では隣人愛、つまり他者への愛を説いているから邪険にする訳にもいかない。そうなると、解決策として外部から来る者を人外と見なすという発想に行き着く。彼らは人ではないのだから助ける必要はないという屁理屈に近い理屈である。

 

また、気象的問題(干ばつ・洪水など)・人的問題(犯罪事件など)といった共同体内部で起こる問題は長期化して解決の様子が見られない場合、今言った人外の理屈が外部からのよそ者だけでなく内部に向かうケースも多い。その代表的な例が15世紀頃に起こった魔女狩り魔女裁判である。

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魔女狩りが起こった理由については様々な説が唱えられているが、当時の社会的不安を解消する手段として魔女狩りがヨーロッパで行われていたのは間違いのない事実であるし、魔女を大衆の面前で大々的に処刑するという行為には、為政者が問題解決のために動いていること・そしてそれを解決出来るだけの力があることを民衆にアピールする意図があったと考えられているのだ。言ってみれば魔女は混沌を終息させるための犠牲者・生贄という訳である。

 

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

では今回のお話に以上のことを踏まえて解説すると、猟師のグスタフをはじめとする村人は少女たちを血祭りにあげた人狼を探して殺そうとしているが、彼らにとっては人狼を見つけることがメインであって、真実など二の次なのだ。別に真実が知りたくて人狼を探している訳ではないし、悪夢のような今の状況、この混沌を終息させたいがために村人たちは動いているという感じだ。言い換えれば、被害者や遺族をはじめとする村人の魂を鎮めるために、今は躍起として人狼という生贄を探しているということである。

 

そして、こういった生贄を求める時の人々の意識というのは、人間という点では退行した意識であることを指摘しておかなければならない。理性による解決策を放棄し、何かを或いは誰かを槍玉に上げることで事態を収拾するというのは、人と言うよりも獣のような意識に近い。

そもそも8年前の人狼母子の焼き討ちにしても、決して理性的な対処とは言い難い。勿論、村人たちの言い分としては過去に人狼が村を襲ったという経験則に基づいて焼き討ちにしたと反論するだろうが、経験則は別に人間でなくても動物にもある知識・知恵だし、それで理性があるとは言えないのではないだろうか?

 

横溝正史八つ墓村でも、大阪から疎開してきた若い医者が元々村にいた医者よりも腕が良いので、村人たちはよそ者である若い医者の方に鞍替えしたということが言及されている。

 

さいごに

前回の感想記事では人狼が人類の天敵となるに至った背景について語ったが、今回は共同体という面から人狼をはじめとする怪物が生まれる原因を私なりに解説してみた。今回語ったことは横溝正史の『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』『獄門島』といった閉鎖的な村や島を舞台にしたミステリ作品にも当てはまることで、外部からのよそ者が事件の引き金になることは3話の感想記事で言及したけど、ではよそ者が全面的に悪いのかと言うと必ずしもそうという訳ではなく、共同体の内部にも事件を起こす原因が隠されていることが多い。

しかし、内部の問題というのは往々にして隠蔽されやすく、特定の個人をスケープゴートにして内部で生じた不満や不安を解消する手段がとられる。村も会社と同じように一つの組織である以上、集団を犠牲にするよりも個を犠牲にする方が、組織を解体せずに済むという点で都合が良いし、そう考えれば今回の物語は決して昔だけの話だけではなく今の社会でも起こり得る(というか起こっていると考えるべきかも)ことなのではないだろうか?

 

人狼がアルマだったことが今回の物語後半で提示されたとはいえ、事件としてはまだ多くの謎が残っている。

四ヶ月周期で・雨の降る夜に・10代前半の少女が殺されるという事件の概要と、今回小屋の中でアルマが独白した衝動的なうずきから来る犯行動機とはどう考えても一致しない部分が多いし、そもそも以前の村人たちによる人狼のテストにおいてアルマは尻尾を出していないというのもおかしな話である。それに、強い臭いに敏感な人狼が絵の具を扱う絵描きを装ったというのも不自然な点だ。

いくつもの「何故?」が残っているのだから事件としては当然まだ解決していないが、村人たちにとってはそんな疑問点など頭になく、先ほども言ったように人狼をある種の生贄として狩ることに躍起となっている。混沌の渦の中において、人もまた獣に戻ってしまうことが今回の物語の中で示されていたと言えるだろう。

 

さて、静句が滝に落ちてしまったということは、次回は人狼の村・ヴォルフィンヘーレが第二の舞台として視聴者の前に現れることは容易に予測がつく。人狼の村がどのようになっているのか、原作未読の方は次回をお楽しみに。

ケメルマン式十円玉ミステリー【ノッキンオン・ロックドドア #06】

今回は1話完結だったので隔週感想アップの予定を破りまーす。

 

「十円玉が少なすぎる」

ノッキンオン・ロックドドア (徳間文庫)

6話は原作1巻の6話目に収録された「十円玉が少なすぎる」。依頼が来なくて暇を持て余した倒理と氷雨のために、薬子はその日の朝の通学途中で耳にした言葉を口にする。

「十円玉が少なすぎる。あと五枚は必要だ」

それは、スーツを着た三十代くらいの男がスマホで通話していた際に口にした言葉で、この不可解な言葉から、どんな推論を導き出せるのか。倒理と氷雨は推理ゲームとしてこの言葉に隠された意味を探っていく…というのが今回のあらすじだ。

 

ということで、今回は男が口にした一言から、

〈Why〉男は十円玉を使って何をしようとしていたのか?

を解いていくというストーリーだが、正直今回のエピソードはドラマ化しないと思っていたので予告でこれをやると聞いた時は「マジか!」と内心驚いた。

何故なら、今回の物語は事件現場にも行かず事務所内でただひたすら推理を進めていくだけの、ワンシチュエーションで進展する話だからであり、映像化すると単調で面白みに欠ける可能性がかなり高い。また、作中で倒理と氷雨が次々と提示する推理・仮説を映像として表現する必要があるため、そういった演出の難しさも本作の映像化のハードルの高さを物語っているのだ。

 

原作は倒理・氷雨・薬子の三人によるディスカッションだったが、ドラマは氷雨が不倫調査中のため電話経由でディスカッションに参加。また穿地や仲介屋の神保も加わっているため、原作より賑やかな推理ゲームになっているのが特徴的である。ドラマの出来栄えについては最後に言及するとして、それよりも今回は先に語っておきたいことがあある。

 

ケメルマン発祥、究極の推理問題

ちょっとした短文から出来る限りの推理・推論を導き出すという今回のような形式のミステリが生み出されたのは1947年、アメリカの推理作家ハリイ・ケメルマンが『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の短編小説コンテストへ応募した「九マイルは遠すぎる」という短編小説が始まりとされている。

 

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

ケメルマンが作品を発表する切っ掛けとなったのは、雨の中でハイキングを行ったボーイスカウトを労う新聞記事である。当時教師をしていた彼は、この新聞の見出し文を題材に、この文章からどれだけ可能な推論を引き出せるのか、それを課題として生徒に与えた。しかし生徒たちが提出した推論はどれもパッとしないものばかりで、結局ケメルマン自身がこの題材を練り上げて短編小説として応募し入選。後世のミステリ作家にも影響を与える名作短編として今なお読み継がれている。

 

そんな名作「九マイルは遠すぎる」のあらすじを説明しよう。

ニッキー・ウェルト教授は、語り手である友人の「私」に10語ないし12語からなる文章を作ってくれれば、思いもかけなかった論理的な推論を引き出してみせると言う。そこで「私」は、

「9マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ」

(A nine mile walk is no joke, especially in the rain)

という11語を述べる。ここからウェルト教授は丁寧に推論を重ねていき、遂にある真相に辿り着くのだ。

 

一般的なミステリと違い、情報は一言二言の文章のみという極限まで削りに削った、正に究極の謎解きミステリ。気になる方は是非読んでみてはいかがだろうか。

ちなみに、国内でこのケメルマン式の謎解きミステリの考案に挑んだミステリ作家は何人もいて、私が読んだことがあるのは有栖川有栖「四分間では短すぎる」(『江神二郎の洞察』所収)だけだが、他にも「待合室の冒険」(恩田陸『象と耳鳴り』所収)、「九百十七円は高すぎる」(乾くるみ『ハートフル・ラブ』所収)などがあるそうだ。

 

※その他の作品については、青崎氏のツイートを確認してもらいたい。

青崎有吾 on X: "九マイルオマージュの短編はたくさんあって、 有栖川有栖「四分間では短すぎる」(所収・江神二郎の洞察) 恩田陸「待合室の冒険」(象と耳鳴り) 松尾由美「九か月では遅すぎる」(バルーン・タウンの手鞠歌) 乾くるみ「九百十七円は高すぎる」(ハートフル・ラブ)" / X

 

日常に潜む小銭ミステリ

今回は短文から推論を引き出すというケメルマン式のミステリであることに加えて、小銭を題材にしたミステリであるのも注目すべきポイントだ。実は、小銭をテーマにしたミステリはフィクションだけでなくノンフィクション、つまり実際にあった謎として過去に推理作家の若竹七海「五十円玉二十枚の謎」と題して読者や仲間の推理作家にその謎を提示したことがある。

それは、若竹氏が池袋の書店でアルバイトをしていた時の話。その店には、毎週土曜日になると五十円玉を二十枚も握りしめた男が現われて、千円札への両替だけを済ませるとそのまま帰っていったというそれだけの話なのだが、この謎に多くの推理作家が挑み、その回答は『競作 五十円玉二十枚の謎』として一冊の本にまとめられた。

 

競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫)

実はまだ私も読んだことがないのであまりハッキリとした感想は言えないのだけど、表紙に載った名前の数を見てもわかるように、情報がシンプルなだけに回答も多岐にわたるようで、当然ながら真実は藪の中。魅力的な謎を提示してくれた五十円玉二十枚を握りしめた例の男は生死不明であるものの、実在していたことは間違いないのだから、そこもミステリとしての魅力につながっている。私たちのすぐそばに謎は転がっていることを教えてくれたのだからね。

 

そんな訳で、「十円玉が少なすぎる」はケメルマンが発明した謎解きの形式に、日常の謎の定番アイテムである小銭を取り入れた、正にミステリマニア垂涎の一作なのだ。ここまで言えば、ミステリにそんなに詳しくない人でも、本作が何故シリーズ中でも人気があるのか、わかっていただけたのではないだろうか?

 

風ヶ丘五十円玉祭りの謎 (創元推理文庫)

ちなみに青崎氏は本作の他にも「風ヶ丘五十円玉祭りの謎」という小銭テーマの短編を発表しており、これは裏染天馬を探偵役とした同名の短編集に収録されている。

 

さいごに

これまではドラマの改変ポイントを重点的に解説するような感想記事だったが、今回は先行作品の解説をメインにした。一人のミステリ好きとして、こういう機会に少しでも多くの人にミステリ小説を布教しないと、何のためにこのブログをやっているのかわかったものではないからね。(これでも某大学の元推理小説研究会の会員なので)

 

以上の解説をふまえて今回のドラマはどうだったかを評価すると、原作の三人のディスカッションからドラマは五人に人数が増えたことで、会話劇としての厚みが生まれたのが面白いなと感じたポイントの一つである。その会話劇にしても、ギッチギチに推理の応酬を展開させるのではなく謎解きに全然興味がない穿地を間に差しはさむことで見やすくしているのと同時に次々と展開される推理が視聴者の頭に入る時間を与えているという点でも効果的だったのではないかと思う。「遊び」の部分がないとやはり情報を羅列していくだけという感じになってしまうし、そこの塩梅が今回はうまくいっていたと私は評価している。

 

そして最後に「七年は長すぎる。手間だが一年でやれないことはない」というドラマオリジナルの謎解きがオマケで付いているのも見逃せないポイントだ。勿論この謎は不倫の男女という情報があるので謎解きとしては大したものではないのだけど、それでもケメルマン式の謎をドラマオリジナルでやろうとする脚本の気概は称賛に値する。だって私がこの原作でドラマの脚本を書くとして、オリジナルで追加の謎なんて書きたくないし考えるだけで頭が痛くなるもの。それをやろうとしただけで偉いなと思うし、本作が日常の謎というミステリの一形式であることを理解していないと最後に氷雨が言った「この世界は謎で満ち溢れているね」という台詞は出て来ないよ。