タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第97話「見えてる世界が全てじゃない」視聴【最終回】

 

 色々積もる思いはありますが、まずは2年間お疲れさまでした!

また後々ゴタゴタ文句言う人が出て来るだろうし、かくなる私自身も不満が全くない訳ではないけど、5期の非情なエンドを通過してきているので、こうやって物語をちゃんと完結させてくれただけでもう、「ありがとう」なのですよ!

 

最後の戦い

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前回“あらざるの地”へ鬼太郎を連れ戻しに行ったまな。一方その頃、バックベアード爆弾の脅威がありながらも、人間と妖怪の戦争は終息するどころか、「人間の尊厳のための戦い」だの「妖怪の意地」だの言って、死を前提に戦う狂った状況になっていた。

 

前々回の記事でこの戦いにおける厄介なものの一つに「既成事実と生理的嫌悪」があることは述べたけど、尊厳(平たく言えばプライド)もこれまた戦争とかで持ち出されてくる厄介なテーマであり、水木先生自身も戦争体験において「玉砕」というものを知ったのだから、戦争においては生よりも名誉ある死が尊重されるという異常な状況が生まれることは決して絵空事ではない。

総員玉砕せよ! (講談社文庫)

そういう体験を乗り越えた上で水木先生は「戦争はいかんです。腹が減るだけです」とこうおっしゃったのだ。

今回のねずみ男の渾身のスピーチはこの水木先生の言葉を引用したもので、戦争を嫌う立場であり半妖怪だからこそ、この争いにおいて彼がそれを主張することに意味が出て来る。「生より尊い死」など存在してはいけないのだ

 

…それにしても砂かけ婆財テクがここで活かされるとは思わなかったよ。そうだよな、株取引してるならパソコン知識くらい普通にあるもんな。

tariho10281.hatenablog.com

 

“あらざるの地”=「希望の終着駅」

まなが“あらざるの地”に向かう展開に既視感を覚えていたのだけど、これも以前名無しの時に触れたPS2のゲームゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚」が元だとわかった。

ゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚

で、このゲームはエンディングが3つ用意されていて、その中でも一番鬼太郎たちが深刻なレベルで追い詰められるのが「Cルート」と俗に呼ばれる分岐。

 

ネタバレになって申し訳ないが、このCルートで鬼太郎は世界妖怪たちによって処刑され、身体をバラバラにされて吸収されてしまうという、なかなかにグロい展開が待ち受けているのだけど、ここで目玉おやじが93話でも出て来たあのまぼろしの汽車を召喚して鬼太郎を復活させる。勿論、単に復活させるだけではなく、失望状態の鬼太郎を説得する下りもあるから、正に今回まなが鬼太郎を説得しに行く展開まんまなんだよね。

リンクしている部分はそれだけじゃなくて、今回劇中で石動・伊吹丸が“あらざるの地”へ続く入り口を開く術を行使し、それを邪魔する機動隊を砂かけ婆・子泣き爺・ぬりかべ・一反木綿が守る展開があったけど、これなんかゲームにおけるまぼろしの汽車召喚の邪魔をする世界妖怪から、目玉おやじを守る仲間たち」という構図と全く同じで、思わず「うわぁ!」ってなったよ。※

 

※何言ってるかわからないって方は、以下の実況プレイ動画を見ていただければわかると思います。

www.nicovideo.jp

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このシリーズ、面白いのでおススメですよ。

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ちなみに、上記の展開はCルートの第21話で見られるが、その話のサブタイトルが「希望の終着駅」。“あらざるの地”も失望によって因果律から外れた者が落ちる場所という設定だったから、あの場所も言い換えれば「希望の終着駅」なのだ。

「異聞妖怪奇譚」は2003年に発売されたゲームだが、この頃に6期の印象操作による扇動や鬼太郎を失望にまで追い詰める展開を既に描いていたのだから、先見の明があった神ゲーだとつくづく実感させられる。

 

代償と救済

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前回から“あらざるの地”に向かうまなの記憶が鬼太郎復活の代償になるかな~とは薄々思っていながら当ブログで言及しなかったのは、それが個人レベルの話なのか、人類全体のレベルに及ぶのか予想がつかず、もし人類レベルなら妖怪の存在そのものが見えなくなって、戦争の対象となる妖怪は当然としてバックベアード爆弾も存在しないことになり、「無に帰る」エンドというある意味バッドエンドな展開になるから、ここで徒に予想してその通りだったらイヤなので伏せておいた。

 

最終的に10年の年月をかけて鬼太郎との記憶が戻り、完全なるハッピーエンドを迎えられたのは良かったが、あそこで記憶が戻ったのは第二次妖怪大戦争の後一旦閉ざされた「見えない世界」=妖怪の世界が再び開かれたという意味であり、今期色々懊悩し追い詰められてきた鬼太郎への救済措置みたいな意味合いもあったと思っている。

原作の鬼太郎は益にもならぬ人助けをしても、その実績は周りの虫や動植物たちがわかってくれているから大丈夫だよ、という世界線で生きているけど今期の鬼太郎はそういった虫や動植物の存在がオミットされている分、やはりまなが救済をしなければならないんだよね。

 

ゲストキャラ総登場

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1年目の締めくくりとなった49話でもゲストキャラが続々出て来たが、最終話も鬼太郎に力を与えてくれた方々がこんなにいたので以下に記す。

【鬼太郎を応援し協力してくれたみなさん】

ねずみ男

砂かけ婆

子泣き爺

一反木綿

ぬりかべ

 

猫娘

犬山まな

アニエス・アデル姉妹

石動零

鬼童・伊吹丸

 

蒼馬・大翔兄弟

裕太

桃山雅

電池組(マンガンアヤナ・ニッケルカナ・アルカリユリコ)

 

濡れ女

呼子

加牟波理入道

奪衣婆

網切り

 

夏美

ろくろ首

あかなめ

唐傘

 

すねこすり

小豆連合(小豆洗い・小豆はかり・小豆婆)

雨降り小僧

たくろう火

かわうそ

チャラトミ

北島敦

のっぺらぼう

雪女・ゆき

 

庄司おじさん夫妻

キノピー

魔猫

カラス天狗

カラス天狗・小次郎

チンさん

 

角富

ひでり神

門倉

壬生陽子

TAKUMI

黒須親子

 

小野崎美琴

目玉おやじ

 

その他、機動隊を含む人間・妖怪のみなさん

 

最終章ぬらりひょん編 総評

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半年に亘る最終章ぬらりひょん編で、ぬらりひょんが関わったのは全22話中10話分。マッチポンプに陽動、賄賂といった工作・扇動によって「妖怪の復権」を目論んだテロリストとしてのぬらりひょんは、妖怪としての特殊能力はないものの、これまでとは異質なぬらりひょんで非常に見応えのあるものとなった。

最終章の始まりから令和の時代とは思えぬ方法を以て人や妖怪を操ってきたぬらりひょんは正に悪しき昭和性を体現した妖怪であり、社会派的な物語が多い6期のラスボスとしてこれ以上ない存在だったことは間違いない。

 

今思えば昭和という時代そのものが今期ぬらりひょんの土壌を形成していたなと思い返される。鬼太郎の原作でも度々目にするロッキード事件日本赤軍によるテロ行為などは正にその代表例だし、(池上彰さんの番組で聞いた記憶だが)その頃の日本におけるテロ活動は世界で最も盛んであったと同時に先進的なものだったと聞いている。

 

そんな昭和的悪の権化であるぬらりひょんをこの最終回でどう始末するのか気になっていたが、結果は自爆エンドというやや拍子抜けの感が強いものになった。

拍子抜けはしたものの、これがダメかと言うとそんなことは全然なく、妖怪としてではなく「昭和的思想・概念の“退場”」(死ではない)という意味では妥当なオチ方だったと思う。そのせいか、バックベアードたちは退治後魂となったのに対し、ぬらりひょんは自爆後魂になる描写はなかった。単に自爆したフリをして生き延びただけなのかもしれないが、最終章序盤から「自分を倒しても第二・第三の存在は出て来る」ことを言ってきただけあって、やはり今期のぬらりひょんは個人的というよりは集団的思想・概念のカタマリみたいな存在であり、生死よりも尊厳や主義主張を重んじたのもそれが関係していると考えている。

 

昭和的な悪といえば、妖対法を成立させ、最後まで人間の尊厳を固辞し続けた総理も該当するが、彼女も明確な死が描かれた訳ではなく、バックベアードの放った弾が官邸に直撃するという形で“退場”している。勿論、あれで生きている可能性はゼロに近いだろうが、ああいった退場にしたのは彼女の原動力となった生理的嫌悪そのものを完全に消すことは不可能だと示しているのかもしれない。

 

さいごに ~見えてる世界が全てじゃない~

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6期の始まりから一貫して言われてきた「見えてる世界が全てじゃない」。当初は単純に「見えてる世界=人間界」で「見えない世界=妖怪の世界」という構図から始まったに過ぎないが、この2年で見えてる世界・見えない世界というのは何もそれだけではないことを視聴者に訴えかけてきた。

見えてる世界というのは可視化された世界の他に自分の理解が及ぶ範囲の世界を意味しているというのが私なりの意見であって、見えない世界というのは自分の理解が及ばぬ思想や価値観・法則・理といったもの全てをひっくるめた世界を指しているのではないだろうか。

 

この6期ゲゲゲの鬼太郎を例に挙げるならば、まず主人公である鬼太郎は「見えない世界」の住人であるが、一方で人間に対しては“知ったつもり”でいる部分が多く、その対応にも適切でない部分が多々あった。これは過去の経験から「人間とはこういうものだ」と知ったつもりになり、本当の意味で人間との対話をしてこなかったことが影響している。泥田坊回とかは特に鬼太郎のそういった偏見から抜け出せていない面を映し出しており、「見えない世界」というのは人間だけに向けたテーマでないことが明らかとなった点でやはりあの回は印象的だったと思う。

 

こういった「見えない世界」というのは同じく6期のテーマである「多様性の尊重」とも関連している。多様性を尊重するしないは別として、まず自分の知らない思想・価値観を知っておかないと理解のしようがないし、尊重も出来ない。

水木先生は「見えない世界」に存在する妖怪たちを無理やり見る努力をして絵に遺してきたが、それくらい「見えない世界」というのは自助努力なしでは見えてこないものなのだ。それをわかった気になって理解したり否定する姿勢が一番危ない、ということをこの2年で制作陣の方々は描いてきたと思うし、それが視聴者に一人でも多く伝わったのなら、今期の役目は全うされたと言えよう。

 

 

以上を以てゲゲゲの鬼太郎(6期)最終回の感想とするが、まだ今期全体の振り返りはしていないので、それは追々当ブログでやっていくよ(クズキャラ一覧とかベストエピソード10選とか)。

最後に、6期制作陣の方々に改めて感謝の意を表します。

またいつか、鬼太郎の下駄の音が聞こえるその日まで…。