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愛の形それぞれ、「ミステリと言う勿れ」12話視聴

ミステリと言う勿れ(2) (フラワーコミックスα)ミステリと言う勿れ(6) (フラワーコミックスα)

最終回の感想です。ラストは「えっ」となりましたが、そのことも触れていこうかと。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

12話(ジュート編&つかの間のトレイン)

最終回は前回に引き続きジュート編の完結と、原作2巻収録の「つかの間のトレイン」が映像化された。ジュート編は犬堂の物語だったのに対し、久能が登場する「つかの間のトレイン」は新幹線でたまたま隣席だった女性の手紙を見て、そこに隠されたイラスト暗号から久能が手紙の真実を導き出すという物語。最終回としては小粒な内容だが、ジュート編と並行してやるエピソードとしては、(質や形は異なるが)それぞれの愛の深さが描かれており、そこに共通項のようなものは見いだせたのではないかと思う。

 

ジュート編では犬堂ガロが妹(原作は姉)・愛珠に対して抱く愛と、ジュート(浩増)が父・羽喰玄斗に対して抱く愛がそれぞれ描かれている。ジュートが連続殺人に至った背景には父親に対する愛情や「自分こそがあの羽喰玄斗の息子なのだぞ」という正統性を誇示するための殺人であったことが示されている。原作の4巻を読んだ時点では、まさか羽喰に愛を向けるような子供がいたとは思わなかったし、「狂人ではあったけど愛情はあったのだな」と意表を突かれた気分になった。

この「狂人だけど愛情深い」という羽喰のキャラ設定は、アダムス・ファミリーに出てくるゴメス・アダムスみたいだなと個人的に思う。

アダムス・ファミリー2 (字幕版)

アダムス一族も社会的な倫理から逸脱した価値観を持っているが、家族への愛情は深い。前回・今回のジュート編は、そんなアダムス・ファミリー的な愛をもっと血生臭くして、コメディ色を抜いた感じにしたものだと勝手に評価している。ジュートの母親はしきりに殺されたがっていたが、これも異常とはいえ、殺されることに愛を見出したが故なのだろう。

 

ジュートやその母親、羽喰の異常な愛情に対して、犬堂や美樹谷親子のエピソードの愛は正に王道といった所だろうか。美樹谷親子のエピソードは父親の虐待から娘を守るため産みの親・育ての親が結託するという愛で、これはわかりやすいというか共感しやすい話だったと思う。

今回明らかとなった愛珠のエピソードについてだが、愛珠は身内に弱みを見せられないタイプの女性だったのかなとそんなことを考えて視聴していた。これは劇中の愛珠に限った話ではなく、身内だからこそ自分の中の漠然とした不全感だったり自己肯定感の低さを悟られたくないという思いがあると思う。愛珠が身内に対して女王様然として振舞っていたのは、病気で思うように行動できない自己不全感に対する焦りや苛立ちが裏返ってあのような態度になったのではないかと考えられるのだ。

犬堂が彼女の心中をどこまで察していたかはともかく、愛珠に一度「死んでしまえ」と言ってしまったことが後悔となり、それが心のしこりとなって沈潜していたのは間違いない。妹に対してかけた呪いの言葉に彼自身が囚われていたということだ。今回のジュート編は、そんな犬堂が自分にもふりかけてしまった呪いを解除する物語と解釈出来るし、寄木細工職人の月岡の存在が犬堂と愛珠の救いになったと言えるだろう。

 

一応ジュート編はこれで終わりだが、原作の方はまだまだ続いており、ジュートや愛珠が出会ったカウンセラーがどうも黒幕みたいなので、引き続き原作の展開を追っていきたい。

 

総評(なぜ「ミステリと言う勿れ」なのか)

これにて、現在刊行されている原作10巻とドラマ全てを読了・視聴したことになるが、これまでのエピソードを見て、読者の皆さんは本作「ミステリと言う勿れ」をどう定義付けるだろうか?

あくまで私の定義だが「ミステリと言う勿れ」は狂人・マイノリティーに花束を送るような物語ではないだろうか?

何故そんなことを思ったかと言うと、一般的なミステリ(小説)は狂気的な殺人事件の裏に合理的な犯行動機・論理が隠されているというのが基本パターンなのに対し、本作は論理こそあれ、それは狂人の論理であり、社会的に見るとあまりにも合理的でない目的のために心血を注ぐ犯人や登場人物がいる。こういった人々の心理をロジカルに推理するのは到底不可能に近く、そういう意味で原作者の田村由美氏は「ミステリと言う勿れ」というタイトルにしたのかなと、勝手ながら考えている。

 

また、ミステリはトリックや推理の過程に重きを置いて動機という面に関してはあまり深掘りされない(勿論例外となる作品は一杯あるよ)。動機というものはあくまで主観的であり、極端な話動機は読み手を納得させるだけの言い訳にしか過ぎないからだ。だからミステリというジャンルにおいて動機は単純化されやすく、複合的な動機はあまり描かれない。しかし、現実においては犯行動機こそが事件の要であって、トリックよりも犯行に至るまでの動機がどのように生み出され心の中で増幅していったのか、そっちが重要となってくる。本作はミステリの形式を取り入れながらも、推理ではなく動機を重視し、その動機にしてもわかりやすい犯行動機ではなく狂人レベルの異様な動機にしたのも、彼・彼女が歩んだ人生をドラマとしてより深く描くためであったと思う。

 

さっきから私は狂人・マイノリティーと言っているが、誰しも性格や嗜好を細分化して分析していけば、狂人的な部分はあるだろうし、マイノリティーに含まれる部分もあると思う。そうでなければ、本作がTVドラマとして映像化されるはずがないし、累計1400万部も突破するような人気作品にはなりえなかっただろう。そういったマイノリティーの尊重や多様化が叫ばれる現代だからこそ今こうして評価されているのだ。

 

ではドラマは原作の映像化としてどうだったかというと、確かに原作未読の方にとっては感銘を受けるようなドラマだったと思うし、映像化する価値は間違いなくあった。ただ、1クールのドラマとして見るとやはり構成はあまり上手くいってなかったように思う。

これは原作自体縦軸となる事件がない上に、通常のドラマにおける勧善懲悪的なストーリーもなければ、主人公が成長したり克服するような描写もない。言ってみれば、久能が体験した出来事を断片的に切り取っているようなもので、視聴者は久能の人生の一部を見せてもらっているに過ぎない。だから一般的なドラマにおける大きな山場もないし、主人公が超えるべき・克服すべき敵やライバルもない。だから1クールのドラマとして実はかなり作りにくい部類だったはずだ。最終回をジュート編にしたのは、ドラマの2・3・5話と関係するエピソードだから最終回に持ってきたという以上の理由はないだろう。それだけに、最後久能と犬堂が再会する場面で終わるという、まるで連載漫画の打ち切りエンドみたいな終わり方をしたのも、ドラマ制作陣が考えに考えた結果ああせざるを得なかったのかなと思う。未完の原作をひとまず終えなけらばならなかったのだから、かなり悩んだと思うよ。

 

そして毎週話題に上った風呂光の介入に関する改変だけど、これはドラマ制作陣が風呂光をミステリドラマにおけるワトソン役にしてしまったことが良くなかったね。男性社会、特に刑事というハードな仕事では実際女性が「おじさんの監視役」として奮闘するのは言うだけなら簡単だがかなり難しい。だからこそ、男性社会に迎合しない選択をとる風呂光に読者は尊敬・応援の念を送るのだ。しかし、ドラマの風呂光は久能に暗号解読を要請したり、アイビーハウスに手伝いに行ったりと、久能を含む男性に迎合している要素が強く、また刑事として成長したと思わされる描写がないまま終わったので、この辺り、日本のドラマの悪い部分が出てしまったなとつくづく思わされる。

テレビ局の事情で毎週レギュラーとなる出演者は出さなければならない暗黙のルールか何かがあるのか、それはわからないけど、ドラマの質を下げてまでレギュラーを出すというやり方はドラマを制作する側としても視聴者としても決して利益にはならないはずだから、もういい加減この悪習とでも言うべき状況をなくしてもらいたいものである。

 

ということで、「ミステリと言う勿れ」の感想は以上となる。映像化、特に1クールのドラマとしては難しい原作だったと思うが、ドラマ化を通じて得た発見もいくつかあったので、それなりに楽しい三か月でした。あと出演者の演技は言うまでもなく良かったですよ。ジュートを演じた北村匠海さん、目の演技が巧い方ですよね。