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戦後日本のパンドラの箱――我々は何と戦わねばならないのか?【映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」】(後半ネタバレあり)

映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」ティザービジュアル (c)映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会

やっと…やっと観て来ましたよ…!

公開から10日も経っているため入場特典とやらもゲット出来ず、パンフレットも唯一この鬼太郎の映画のやつだけ完売状態という様子から見ても、作り手側も予想していなかった好発進でこの映画の公開がスタートしたというのは間違いないと思うが、映画を既に観た人の感想(重大なネタバレなし)では「救いがない」とか「胸糞悪い話」「人間の闇を描いた物語」といった感想が多く、その容赦ない描写と内容にかなりの人が絶賛している印象を受けた。

 

そんな前知識・先入観をインプットされた状態で私は映画を観たのだけど、いやぁ…本当にエゲツない話でしたね…ww。

感想をツイートしている人でネタバレに配慮してつぶやいている人もいたけど、うっすら「あぁこの人死ぬのだろうな」みたいな、匂わせ的ツイートをしている人もいたから本編を観た時に最低限誰が死ぬのかは察しがついた。知っていたけど、それでもやはりこの惨劇に対して悲しく思う部分はあったし、知らなければ普通に泣いてたんじゃないかと思うぐらい目頭が熱くなるような場面もあったよ。

 

ネタバレなし感想(鬼太郎作品と意識しない方が良い)

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まずは一応ネタバレなしで今回の映画の感想について語っていこうと思う。

今回の映画は原作者の水木しげる先生の生誕100周年を記念して制作された映画で、世界観としては6期の続編的位置づけとなる。これまでの鬼太郎の映画と言えば、南方妖怪や中国妖怪、邪神ヤトノカミといった強大な敵とのバトルを描いた「妖怪大戦争」的な物語だったのに対し、本作は鬼太郎のルーツを描いたこれまでとはかなり質の異なる作品だ。鬼太郎のルーツ、すなわち鬼太郎の父である目玉おやじと鬼太郎の育ての親・水木がとある僻地の山村で出会い、その村で起こった惨劇について70年経った現在の目玉おやじが語るというのが本作の大まかなあらすじだ。

 

個人的に水木先生の生誕100周年で制作スタッフが鬼太郎のルーツとなる物語を描こうとしたというこの時点で既に私は100点満点中50点はつけても良いのではないかと思っていたのだ。というのも、水木先生は晩年に本名の「武良」という名は隠岐の島の武良郷にそのルーツがあるのではないかという推察を立てて、隠岐へフィールドワークの旅に出たことがあるし、2012年には水木しげるの古代出雲』という本を出している。古代出雲と言えば日本の原点とでも言うべき時代の物語であり、水木先生は夢枕に立つ古代出雲の神の嘆きと、時の大和朝廷が記していない史実を漫画にしてくれという要請を受けて、古代出雲の物語を漫画にしたそうである。※1それだけ水木先生の晩年は自分や日本のルーツに対する関心とそれを後世に語り継ぐ使命感が色濃かったのだ。

 

ここで言うルーツとは、言い換えるなら「血の歴史」である。我々の身体に流れる血はどこからやって来て、誰がその始まりなのか。その流れの間に一体どのような出来事があったのか。そういったことを考えて時代を遡っていくのが歴史というものに対する一つのアプローチの仕方だと私は思うが、本作はその中でも流れ出た血の歴史、つまりは血が途絶えて語られなくなった者たちの恨み・苦しみ・嘆きを鬼太郎の父たちを通して描いた作品であり、そこに本作の凄まじさと美点が凝縮されていると言えよう。戦後という時代を肌で体感したことがない私でも、今回の物語からはかつての日本人が何を犠牲にし、何を後世に引き継ごうとしたのか、そういった当時の光と闇の部分をうかがい知ることが出来たのではないかと思っている。

 

「『ゲゲゲの鬼太郎』を知らないなら見ても面白くないのではないか?」と思う人もいるかもしれないのでその辺りのことも触れておくと、確かに本作は原作の「鬼太郎の誕生」というエピソードを読んでいないと最後のエンディングで描かれたことがイマイチピンとこないというか、感動を呼び起こす場面にはならないだろう。とはいえ最低限予習するとしてもそのくらいで、読まなかったとしても全然問題はないので予習なしで観に行っても大丈夫だよ!

むしろ、本作を鬼太郎作品として意識しない方があまり不満が少なく観られるのではないかと私は思っている。鬼太郎と聞くとどうしても妖怪の出る物語だとイメージするし、本作でも妖怪は何体も出て来るのだけど、正直妖怪の活躍みたいなものを期待すると「コレジャナイ感」が強くなってしまう。これは6期の作風にも言えるけど、本作は妖怪を通して妖怪以上におぞましい人間の所業を描いた作品なので、そこは事前に把握しておいた方が良いだろう。

 

※1:『別冊 怪 追悼・水木しげる 世界妖怪協会 全仕事』を参照。

 

(以下、映画本編と一部6期の内容についてネタバレあり)

 

ネタバレあり感想

・戦後日本の「パンドラの箱」、哭倉村

今回の物語の舞台となった哭倉村を一言で評するなら、戦後日本の「パンドラの箱」である。戦後の高度経済成長、その豊かさと大いなる発展の裏には龍賀一族が経営する龍賀製薬の血液製剤「M」が関わっており、その薬を投与された者は飲食・睡眠をとらずとも活動することが出来るとして経済成長に大きな貢献を果たしていた。しかしそれは幽霊族の血を利用し、非道な人体実験※2の末に生み出された狂気の薬であった…というのが本作の事件の真相の一つだ。

この描写は正に戦後の高度経済成長の豊かさの裏で犠牲となった人々を風刺的に描いた部分だと思うが、本作では戦後でありながら戦中における人の使い捨てが受け継がれているという恐怖を描いており、そのために戦時中に一兵卒として扱われた水木青年の過去が挿入されているのが素晴らしい。

 

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水木青年のエピソードは原作者自身の体験に基づく漫画『総員玉砕せよ!』そのものである。本来最も大事にすべき人間の生命を「お国のため」に捨てなさいという到底信じられない命令が、かつての日本で昭和天皇の名の下に行われていたという衝撃的な話だ。戦後、天皇玉音放送で敗戦を国民に伝え、1946年に人間宣言をしたというのは有名な話だけど、それで私たち日本人の殉国精神が抜けきったかというとそんなことは全然なく、むしろその殉国精神を悪用して自分たちの私利私欲を満たそうとする輩が現れ出した。それこそが本作で描かれた龍賀一族なのだ。

 

・底なしの穴と底なしの

哭倉村を読み解く上で重要となるのは、湖に浮かぶ浮島にあった大きな穴。結界によって内部にたまったあるモノを封じ込め外に出さないようにしているこの穴、これを見て思い出したのが星新一ショートショートの一作「おーい でてこーい」だ。

おーいでてこーい ショートショート傑作選 (講談社青い鳥文庫)

この話は1992年に「世にも奇妙な物語」でいかりや長介さん主演で「穴」というタイトルでドラマ化しているから知っている人も多いと思うが、この「おーい でてこーい」は底なしの穴を発見した人間たちが、そこに日常生活で出るゴミだったり産業廃棄物、闇に葬りたい死体、機密文書といったあらゆるものを捨ててしまうが実は…というお話で、ざっくり言うと因果応報を描いた物語だ。

そしてこの物語には「臭い物に蓋をする」という人間の普遍的な心理や、穴にゴミを捨てれば地上はキレイになるという短絡的な思考、そして穴を利用してゴミ処理場を作ろうとする人の欲などが描かれており、シンプルでありながら人間のダークな心理を描いた傑作ショートショートである。今回の映画でもこの「穴」が龍賀一族の底なしの欲を象徴するものとして効果的に用いられており、地上の繁栄とは逆に地下では打ち捨てられた怨念、すなわち犠牲となった幽霊族や怨霊と化した狂骨の巣窟になっていたというのが本作のホラーとしての凄まじいポイントだ。

 

これだけでも十分恐い話だけど、龍賀一族や裏鬼道の連中はそんな人間の怨念すらも支配下に置いて利用しているというのがね…。普通は忌むべきものとして祓うものさえも自分たちの利益として使う。血の一滴まで無駄にしないという合理的狂気、「富も名誉も怨念もオレのもの」という究極のジャイアニズムがあの村の底で渦巻いていたと言えるだろう。

 

・もう一人のぬらりひょん、龍賀時貞

本作のラスボス的存在、龍賀時貞の終盤のあの歪な姿を見て思い出したのは、6期の最終章で鬼太郎の前に立ちはだかったぬらりひょんだ。

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最終回の感想記事で私は6期ぬらりひょん「昭和的悪の権化」と評したが、本作における時貞もまた大義の名の下に多くの人を犠牲にしてきたという点では6期ぬらりひょんと共通している。が、6期ぬらりひょんはまだその大義に私利私欲みたいなのが見えなかったからカッコイイ悪として眺めることが出来たのに対し、時貞はその大義の下にグロテスクな私利私欲があるからよりおぞましく醜悪であって、6期のシリーズ構成の大野木氏が生み出したぬらりひょん以上にこの時貞は「昭和的悪の権化」だったなと今思い返しても少しゾッとする。「今の若者はダメでオレみたいなやつがいないとダメだ」みたいなことを言ってたけど、こういうある種の優性思想を抱えた人っていまだにいるからね。

 

・我々が戦わなければならない敵の正体

今回の物語は人命や子供の未来を喰い物にする龍賀一族と、その富にあぐらをかき犠牲に見て見ぬフリをした村人たちが報いを受ける話だ。一時は名誉や権力を得るために弱者を踏み台にしようとした水木青年もそのおぞましさ・グロテスクさを知って歪んだ龍賀一族を崩壊させる方に力を貸した訳だが、改めて言うと本作は「継承」の物語であり、我々が未来に向けて何を受け継ぎ、何を滅ぼしたのか。その過程でどのような葛藤が生じ、何を犠牲にしてきたのかを語り継がなければならない。それこそが歴史の闇に葬られた語られざる者たちの鎮魂・供養となるのは、狂骨と化した時弥少年がそれを物語っている。

そして本作には今の日本人が正面きって立ち向かわねばならない敵の正体を読み取ることが出来る。それは単に昭和ボケしたおっさんや政治家という風に解釈するのも別に構わないけど、もっと根源的な意味で戦わないといけない敵は我々を豊かにしたのと同時に不幸にしたもの、すなわち「論理」なんじゃないかな?と私は思っているのだ。

 

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これは私が特別そう思っているとかではなく、かのチャップリンが映画「独裁者」の中で端的に述べていることだけど、知識や思想は相対的なものであって、それは状況によっていとも容易くひっくり返されてしまう。戦争になれば本来等しく尊い命に優劣がつけられ、大義名分をかざして相手の国を侵略する。これも全ては「論理」というものがあるから為せる業であり、どんなに非人道的に見える行為も「論理」が成立していれば私たちは簡単に納得し、その行為を容認してしまう。もうこれは既に第二次世界大戦で我々人類が証明してしまっているのだから否定のしようがないのだ。

 

私たち人間はあらゆることに論理を立て、それを駆使してここまでの豊かな生活と思想を手に入れた。しかし、論理は同時に人を不幸にするし論理の正しさによって人はいとも簡単に支配されてしまう。例えば24時間営業のコンビニや年中無休のスーパーなんかを思い浮かべると良い。本来それは生物の営みとしては不自然だけど、その便利さとコンビニやスーパーがもたらす利益の前では24時間営業や年中無休を私たちは受け入れているし、深夜でも働く人がいることに何の疑念も違和感も覚えない人だっているだろう。かように私たちの生活というものは論理(理屈)によっていとも容易く支配されてしまうし、それで犠牲が生じても「仕方ない」と簡単に割り切ってしまえるのだ。

 

今回の映画にもそんな歪んだ論理による災いが描かれており、大義名分の名の下に幽霊族や村人を犠牲にした龍賀一族は当然ながら、一族と手を組む裏鬼道の連中も本来の流派から外れた論理によって霊を支配している。妖怪も幽霊も人間が生み出した「論理」の術の前では支配されてしまうし、人間はこの自然界を「論理」によって操り支配したからこそ地上の支配者となれたのだ。

 

・身体的感覚が我々の希望

では、私たち人類を豊かにすると同時に支配してきた「論理」に対して我々はどう立ち向かうべきか。そのヒントとして現れるのが妖怪である。妖怪は論理とは真逆の「感覚」によって我々にその存在を訴えかけて来たものたちであり、これは鬼太郎にも当てはまることだ。原作の鬼太郎は原作者本人が「鬼太郎はバカ」だと明言するほど、人助けに見返りを求めないし、助けることそのものに明確な理由がある訳ではない。半妖怪のねずみ男にしてみれば、それは非論理的で何の得にもならないことだと言うかもしれないが、こういった理由はわからないけど困っている人を見ると助けたくなるとか、理屈は通っているけどやる気が起こらないといった身体的感覚にこそ、我々が幸福になれるヒントが隠されているのだ。

 

この身体的感覚の話は水木先生の話にも通じる。水木先生は終戦直前(左腕を失った頃)ニューギニアラバウルで原住民と共に生活していた時期があるのだが、その原住民の生活は非常に牧歌的で、のんびりとした時間の流れと自然の美しさに心惹かれ、原住民も水木先生を歓迎し畑や住む場所を用意したという。ここが天国だと思った水木先生は一時は永住を決意するものの上官の説得によって帰国したと、まぁこんなエピソードがある※3のだけど、水木先生も戦争体験とラバウルでの原住民との生活を通じて「論理」というもののいい加減さを身を以て知る羽目になったし、身体的感覚、すなわち寝たい時に寝て食べたい時に食べるという感覚を優先する原住民の生活こそが幸福なのだと悟ったはずだ。日本に帰れば時間や論理でがんじがらめになるのは大体予測がつくし、身体的感覚に従う生活というのは日本人にとっては「怠け」とみなされる

 

戦後日本は個人個人の身体的感覚を犠牲にし、人々を論理と時間の下僕にすることで経済・文化を発展させた。これが極端な話、資本主義経済を成立させており今の社会もこの流れを継承している。水木先生の名言の一つに「なまけ者になりなさい」という言葉があるが、私はこの言葉には二つの意味があるのではないかと思っている。一つは「なまけ者になる努力をせよ」、つまりゆったりとした生活を送るために頭を使いお金を稼ぐ努力をしなさいという意味。そしてもう一つは「自分の身体の声に耳を傾けなさい」という意味だ。水木先生は仕事中毒としての面もあったが、睡眠と食事は絶対にケチらなかったことから見ても、どれだけ忙しくなっても身体が求めるものには忠実だったことがうかがえるのではないだろうか?

 

映画の話から逸れたので話を元に戻そう。先ほど哭倉村は「戦後日本のパンドラの箱」だと称したが、村の地底には狂骨の怨念が渦巻き、世に放たれれば国を滅ぼすほどそれは強い災いをもたらすものだった。正にそれはパンドラの箱の中に仕舞い込まれた「災厄」である。しかし、パンドラの箱の底には「希望」があった。そう、他ならぬゲゲゲの鬼太郎である。99%が絶望的な状況を描いたこの物語における唯一の光明が鬼太郎の誕生であり、鬼太郎が人間や妖怪の理屈を超越するほどの神通力を持った持ち主であることは原作やこれまでのアニメで描かれてきたことを見て明らかである。鬼太郎自身が人間が支配する「論理」を超越した存在だからこそ、「論理」によって支配・使役される人間や妖怪を救い出せるのであり、その希望の糸が途絶えなかったのも身体的感覚が大きく関わっているのだ。

エンディングロールの後、記憶を失った水木青年は墓から生まれた鬼太郎を忌まわしき怪物として殺そうとした。論理的に考えれば鬼太郎の存在は確かに人間にとって忌まわしきものとして映ってしまう。しかし、水木青年が哭倉村で体験したことは脳ではなく身体全体が記憶していたことであり、この身体的記憶によって鬼太郎は殺されずに済んだ。私が身体的感覚こそが希望と論じたのも、この場面が印象に残っていたからである。

 

※2:ここは731部隊を連想せずにはいられなかったですね…。

※3:『火の鳥人物文庫3 水木しげる 鬼太郎と妖怪たちの世界』を参照。

 

さいごに

予告編を見た段階では水木作品と横溝正史ミステリの融合という印象しか受けなかった今回の映画は、映画を観た後だとあまり横溝要素は感じにくかった。確かに『犬神家の一族』『八つ墓村』を連想させるプロットやアイテムはあったけど、あくまでもそれは表層的な所であって、物語全体のテイストは某ホラーアドベンチャーゲーム※4を彷彿とさせるものだったね。横溝正史もミステリというジャンルを通して第二次世界大戦を痛烈に批判し、戦争によって生じた悲劇を描いてはいたけど、まだ希望のパーセンテージは2割・3割くらいは残されていたし、今回の映画みたいな9割9分絶望的な物語は流石に書いてなかったんじゃないかな…?

 

さて、内容が内容なだけに私は正直言って今回の映画は子供にはおススメしにくいシロモノだと思っているが、まぁ仮に本作のおぞましさが理解出来ず「何となく恐ろしい話」程度の記憶しか子供にとって残らなかったとしても、大事なのはその感覚であって、「論理」だけで物事を判断するのではなく身体全体で感じたことを大事にする。そのセンスを磨くことの重要さも今回の物語には込められていたと私は考えている。

そういや今回の映画の脚本を担当した吉野弘幸氏は6期で妖花の回を担当していたが、妖花のエピソードも戦争をテーマにした物語で、6期では島の精霊たちが戦争の悲劇をとして鬼太郎たちに訴えかけていた。これもまた、理屈ではなく身体感覚で戦争の悲劇を伝えているし、論理や理屈だけで全てを知った気になると私たちはまた同じ過ちを繰り返すことになるという警鐘も鳴らされていたのではないかと思った次第である。

 

※4:「バイオハザード ヴィレッジ」です。

 

※二回目鑑賞して来ました!(2024.03.01 追記)

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