タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【再入村】「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を再考察!(ネタバレあり)

鬼太郎の映画公開から約三ヶ月たち、ついに近所の映画館も公開終了との知らせを聞き、去る2月29日の仕事帰りに映画館で二度目の鑑賞を行った。

同じ映画を映画館で二回見るというのは人生初めてのことだったが、水木先生の生誕100周年の映画がこれだけの人気を博したのだから、少しでも興行収入に貢献したいという思いもあったし、パンフレットを読んだり他の方のレビューを色々と読んで気になったこともあったので、二回目の鑑賞に踏み切ったという訳である。

 

初見は話を追うことに頭を使っていたので、二度目は細部や登場人物の心情などにも注意を払っての鑑賞となったが、話を知っていても鳥肌が立ったりワクワクしたり目頭が熱くなったりと、もう本当に最高の1時間44分でしたね!

出来れば鑑賞後は余韻に浸って劇場を後にしたかったのだけど、今回は20時半過ぎという遅い時間からの上映、終電車を逃したら家に着くのが翌日になってしまう恐れがあったので映画終わったらすぐに走って駅へと向かったわ。

 

ということで今回は二回目を鑑賞した上でのより詳細な感想・考察・解説となる。まだ3月以降も上映している映画館はあるみたいだけど、もう大半の映画館は公開終了となっていると思うからガッツリネタバレありで語っていきたい。それから、考察等は出来るだけネットで見かけなかった私なりの考察を語っていきたいと思うのでよろしく。

 

(以下、映画のネタバレあり)

 

※前回(一回目)の感想はこちら。(↓)

tariho10281.hatenablog.com

 

頂天眼の報い

一回目の鑑賞の時からトラウマレベルで印象に残ったのは物語序盤、帝国血液銀行の社長室のシーンで画面いっぱいに映ったあの気色の悪い出目金である。あんな映し方をしているのだから、何かしら象徴しているのだろうとは思っていたけど、やはりというか結論を言うとあの出目金は龍賀時貞を象徴していると感じた。

そしてこれはパンフレット購入後に知ったのだけど、あの出目金は頂天眼という品種の金魚のようで、実際に存在する品種のようだ。

ja.wikipedia.org

アカデメキンの突然変異によって生まれ、眼球が前方ではなく天上を向いていることから名付けられたこの出目金、一説によると先端がすぼんだ瓶の中で、何代にもわたり飼育された出目金が、光を求めて眼球を徐々に上に向けた結果生まれたものだと言われている。これを踏まえて終盤の時貞がいた奥の院を見れば、天上からしか光が降り注がないあの場所は頂天眼が育つ場という意味合いが込められており、上ばかり見て下(下々の民衆)を省みない権力者を風刺しているとも解釈出来るのではないだろうか?

 

それから頂天眼は視力がなく嗅覚で餌を探すという特徴がある。この視力がないというのも注目すべきポイントで、ここで映画の冒頭シーンを挙げて解説したい。

www.youtube.com

山田記者が地下へ潜入した(というか「落ちた」が正確か)場面で、例の時貞ボールが登場するが、「痛い」と言っているから痛覚(触覚)はあるみたいだけど視覚・聴覚はなさそうだし、あったら「そこに誰かいるのか!?」とか「そこの人、助けてくれ!」くらいは言えるはず。だから私は「龍賀時貞=頂天眼」だと考えたのであり、その非道な行いに相応しい頂天眼の報いを受けたと思う。

 

遺言状の一幕から(水木の計算、時麿の分裂した人格)

水木が龍賀の屋敷を訪れ、遺言状の席に立ちあう場面。ここは遺言状の内容だったり表舞台に姿を現さなかった時麿が現れたりと見所・注目ポイントが満載なのだが、まず指摘したいのは水木のネクタイ。これは他の方のレビュー動画で知ったのだけど、喪中の家に赴いているのに赤色のネクタイをしているというのは不自然だし、見る人によっては不謹慎、或いは龍賀の家に喧嘩を売っているのかと感じる人もいるだろう。

この水木のネクタイについて、戦争による左目の負傷が原因で色盲色覚異常)になったという説を謳ったレビュー動画を見たのだけど、確かに赤と黒色覚異常になった際に区別がつきにくい色※1ではある。ただ、水木は両目ではなく左目を負傷しているから仮に左目が色盲になったとしても右目でカバー出来るはずだし、個人的に水木が赤のネクタイにしたのにはある種の計算があったと思うのだ。

 

言うまでもなく水木は踏みにじられない立場になるため昇進を目論む野心家だ。そのために本作では社長に直談判して哭倉村へ向かい、次期当主とのコネを結び血液製剤「M」の製造方法を探るというミッションを請け負っている。当然ながら龍賀の者に気取られてはマズいので、「事前に準備して村に来た」のではなく「時貞の訃報を聞いて急いで駆けつけて来た」と相手方に思わせたかったはずだ。そのために水木は喪服のネクタイを敢えて赤色にすることで「急いで・慌てて駆け付けた感」を出したとは考えられないだろうか?

勿論、色盲説も完全には否定出来ないけど個人的には敢えてやったと考えた方が、水木の野心家としての計算高さが垣間見れるしキャラとしても奥深さが出るんじゃないかな。とはいえ、そんな小細工も通用せず(というよりも到着のタイミングが良すぎたのがダメだったのかもね)露骨に畳のヘリに座布団を置かれるという不歓迎ぶり。計算高くても結局うまくいってないのが水木の人間くささを物語っていてナイスだったね。

 

そして遺言状が読み上げられる場面、ここの親族や分家の乱闘ぶりが国会の強行採決で揉みくちゃになっている議員※2を彷彿とさせるし、地味にこういう所でも日本的な醜悪さが演出されているのと同時に、哭倉村・龍賀一族が単なる集落・一家ではなく国家を象徴しているのだと観客に伝わるようになっているのが巧いなと思った。

 

龍賀一族に関しては他の方の感想で各人物の心理描写について色々と読み取っている人がいる中で、特に時麿は最初に殺害されたということもあってなかなか彼のキャラ分析は難しいし、深く掘り下げたレビューは見受けられなかった。ただ遺言状の場面を見る感じ、どうも時麿は解離性同一障害、俗に言う多重人格※3だったんじゃないかな~と思っている。

多重人格になる原因はハッキリとわかっていないが、幼少期のトラウマ体験が原因で人格が分裂する場合があると言われており、それを踏まえれば時麿が多重人格者になるのもあの家なら「なって当然」だ(むしろならない方がおかしいくらい)。当主として窖の狂骨を制御し、そのための霊力の強い子供を近親相姦によって設けるという役目がある以上、幼少期の段階で時貞の仕込みはあったことは間違いないし劇中でも修行をしたことは本人が述べている。窖に充満した狂骨の集団を見たらそりゃ誰だってトラウマになるし、それを制御する時貞の姿を幼少期から見ていた時麿にとって時貞は逆らうことの出来ない絶対的な存在だったに違いない。

この点についてもっと掘り下げるなら、もしかすると時麿は時貞が自分の娘と姦通していることも知っていた可能性があるし、更にエゲツないことを言わせてもらうとその姦通行為自体が修行のカリキュラムとして組み込まれ時貞から何かしらの形で教え込まれていたとしたら、それはもう完全に性的虐待である。性的虐待が原因で多重人格になったという話は現実にもあるし、そう考えれば遺言状読み上げの場における時麿の様子も単なる情緒不安定ではなく、「子供返りした時麿」「当主としての時麿」、この二つの人格が現れた場面だとは考えられないだろうか?

 

時麿の多重人格に関してはまだ言いたいことがある。それは彼が殺害された現場である哭倉神社についてだが、祭壇の様子(串刺しになったウサギの生贄※4)を見る感じ諏訪大社がモデルで土着神を祀ったものだ。つまり本作の場合はナグラ様=幽霊族を祀ったものということになるだろう。しかし実際は狂骨化した幽霊族の魂は裏鬼道の呪詛返しの術によって窖に封じられていたのだから、哭倉神社は形ばかりの神社だ。実質的には必要ないとはいえ、村としての体裁がある以上、寺や神社がないというのはおかしな話だし、外部から来た人間に怪しまれたら困るので建っているという感じだろうか。

形骸化した神社ではあるものの、多重人格の時麿を抱えた龍賀一族にとっては意味があって、恐らくあの神社は「子供返りした時麿」が表面に出ないよう制御するための神社だったと私は考えている。龍賀一族にとって長男の時麿が「子供返りした時麿」の人格のままだと非常に困るはずだし、「当主としての時麿」の人格を維持するためにも、神社という場によって当主の自覚を植え付けると共に人格の転移を抑制し、また神主の恰好をさせることで出来るだけその状態をキープさせようという狙いがあったと思われる。しかしそれでも「子供返りした時麿」が出る時があるので、そこで時貞は時弥という魂を乗っ取るための器を保険として用意しておいた、と考えれば辻褄が合いそうだ。

 

※1:色覚異常 - 目の病気百科|参天製薬

※2:例えばこちら。怒号の中、強行採決~参議院・安保特別委 - YouTube

※3:多重人格についてはこちらの記事を参考にしました。自分が自分でなくなっちゃう!?解離性障害 - 記事 | NHK ハートネット

※4:シカやウサギを生贄に!? 神秘的な古来の儀式「神長官守矢史料館」【長野】 | 日本珍スポット100景

 

左目にダメージを受ける龍賀一族

一回目の鑑賞でも気になったポイントだが、本作で惨殺された龍賀一族の面々がいずれも左目にダメージを受けているのが疑問だった。鬼太郎の父親の目玉おやじの目は左目であることや劇中で本人が言っていた「片目で見るくらいがちょうど良い」という発言と関係しているのかなと、とつおいつ考えてはいたが論としてはその時まとまらなかった。

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左目と右目が意味するものについては6期の泥田坊回の時に言及したことを思い出したので、もしかするとそれが当てはまるかな?とも思ったが、今回の映画には合わないと思ったので未来と過去に対する眼差しという考察も却下。

 

そこで今一度今回の鑑賞に際して考えたのだが、左目と右目は視神経を通じ交叉して左脳・右脳に情報が伝達される。そして左目につながる右脳は直感性・創造性を司る脳だと言われており、反対に左脳は論理的思考・分析といった能力を主に司っている。この情報を基に考えると、左目を潰されたり抉られる龍賀一族は直感や創造性といったものが欠如し、論理だけで戦後の日本社会を牛耳っている歪な一族であることを隠喩していた…という風に考えられる。

論理と直感(身体的感覚)については、上に載せた一回目の鑑賞におけるネタバレレビューで詳しく語っているが、やはり左目に対するこだわりは龍賀が人の心の欠如した、論理や大義という尺度でしか人を見られなくなった一族であることを表していたのだろう。

 

龍哭御霊信仰(天変地異の解釈)

今回の映画が鬼太郎ファン以外の人々にもウケた理由はストーリーが秀逸で戦後日本の醜悪さや人間の愚かさを容赦なく描いたこと、水木とゲゲ郎のバディもの・ブロマンスとしての美しさや、裏鬼道との戦闘における作画の凄さ、徹底した時代考証など、色んな要素が手抜きされることなく仕上がったからなのは間違いないが、個人的に民俗学歴史学の観点から本作の凄さを語ると、この映画って第二次世界大戦前後の日本に限った価値観や思想を描いた話ではなく、古代の日本人の思想もかなり反映されているのだ。それを語る上で重要となるのが龍哭である。

 

龍哭は哭倉村における地震みたいなもので、その正体は言うまでもなく窖から漏れ出た狂骨の叫び(怨念)なのだが、本作における狂骨は地震や山火事といった天変地異・災害の象徴でもあり、元凶の龍賀一族だけでなくその悪事に加担した村人や女性・子供まで分け隔てなく襲い殺す無差別性は、正に災害そのものである。現代では地震の原因が地下にあるプレートの断裂などが原因で発生することがわかっているからともかく、古代の日本人は地球が丸いことすら知らなかったし、日本が四つのプレートの上にある国で世界に類を見ない地震大国であること、つまり地震が頻発して当然ということもわからなかったのだ。

ではこういった天変地異の原因は何なのかと昔の人は考える訳だが、例えば古代中国では天人相関説というものがあって、災害が起こるのはその時の政治家の政治が悪政であり、それを天帝が罰している。要は政治が災害の原因という考えだ。一方日本では平安時代御霊信仰が広まって、災害や疫病は非業の死を遂げた人々が怨霊となって災いをもたらすと考えられた。しかも仏教が流入する以前の古代日本においては、地下世界は根の国、つまり死者の世界だと考えられていたのだから、地震が死者の怨念による仕業だという解釈にも相応の説得力と恐ろしさがあったはずだ。

 

そして怨霊を神として祀り上げたり、或いは陰陽師の力を頼って災いを祓うといった対処法がとられたのだが、本作の裏鬼道も劇中でゲゲ郎が言及したようにルーツは陰陽道にある訳で、陰陽師平安時代に特に権力者や政治と密接に関わるようになるし、闇医者ならぬ陰陽師なる者も平安時代には存在したらしいから、今回の映画にはそういった古代日本の御霊信仰や思想、外道の術師の存在が反映されていて、だから多くの人々の心に響いたんじゃないかな?と私は思ったのだ。

 

さいごに

以上、二回目の鑑賞における考察となる。初回は話の大枠に沿った感想・解説となったが今回はより細部の演出や趣向に目を配ることが出来たと思うし、隠れ妖怪の一体であるカシャボも見つけられて嬉しかったな(でも幽霊赤児は見つけられなかった…)。

あと沙代ちゃんを始めとする屍人化した人々の何が悲しいかって、骨が残らなかったというのが改めて見るとむごいなと思う。骨ってその人の生きた証でもあるから、それすら残らずあんな目に遭って死んでいく、そして忘れ去られていくという残酷さがあるんだよね。だから余計に時弥少年の最後のメッセージが胸にくるのよ…。

 

さて、最後にちょっと紹介したい作品があるのだが、それがこちら。

水木しげる 貸本・短編名作選 魍魎 地獄・地底の足音 (ホーム社漫画文庫)

今回の映画を見て思い出したのだけど、この名作選に収録された「地獄」というSFホラーを是非とも読んでもらいたい。今回の映画が水木先生の作風をしっかり反映させた作品であることが理解出来るはずだ。