タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

この殺人劇には名優が必要だった【映画「ある閉ざされた雪の山荘で」レビュー】(ネタバレなし)

どうも、タリホーです。

映画「ある閉ざされた雪の山荘で」観て来ましたよ~。

今年は今回の映画に加えて、3月には映画「変な家」が公開されるし、それから綾辻行人氏の十角館の殺人が実写化されるという具合に、家や館をお題にしたミステリの映像化がちょっとしたトレンドになっているなと感じるがそれはともかく。早速レビューしていこうと思うが、まずは作品概要から。

 

作品概要

ある閉ざされた雪の山荘で (講談社文庫)

今回の映画は1992年に刊行された東野圭吾氏の同名小説が原作。

劇団「水許」の次回作公演のオーディションに合格した男女7人が、飛騨のとある山荘で舞台稽古を行う。演出家・東郷陣平の次回作のテーマは「吹雪の山荘」ということで、記録的な大雪によって外部との連絡がとれず孤立した山荘内で殺人が起こるという設定のもと、7人のメンバーは山荘内で舞台稽古を行うが、翌朝メンバーの一人が姿を消し、"死体"の状況を説明するメモだけが現場に残されていた。犯人役が誰なのかメンバーは推理を始めるなかでとある疑問が生じる。果たしてこれは本当に次回公演の稽古なのか…?

 

以上が本作のあらすじとなる。あらすじを読んでもわかるように、本作はミステリとしては特殊なクローズドサークルものであり、実際は雪も降っておらず外部との連絡が可能な山荘内で、7人のメンバーにだけ設定・制約が課された状態でクローズドサークルが成立しているという虚構性を前面に出したプロットになっているのが注目ポイントだ。嘘くさいシチュエーションであるとはいえ、これが舞台役者の稽古(お芝居)であるという点や、舞台設定以外は作中の登場人物の人間関係がお芝居に反映されるなど、随所に現実が盛り込まれて虚構と現実が入り混じった状態で物語が進展していく所に本作の面白さがある。

 

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映画では主役の探偵役を決めるための最終オーディションとしてこの舞台稽古が設定されたという形で改変されており、原作が「吹雪の山荘」という設定をもとにメンバーが「この状況だとこういう風に動くよね」という感じで稽古を進めていくため、メタ的な会話が印象に残ったのに対し、映画は各メンバーの芝居に対する価値観だったり競争心みたいなものが強調されている。これは映画の結末にも関係するポイントになるので詳しくは後ほど言及していきたい。

 

30年以上前の原作を何故今更映像化したのか?

まずハッキリ言っておくが、

本作は重厚なミステリを期待して観に行くと凄くガッカリする作品だ。

そもそも原作が30年以上前の作品なので、今から見るとトリック自体が古くて目新しいものではないし、本作と同じトリックを用いた作品でもっと面白い作品はこの原作が発表されて以降、次々と生み出されている。しかも、原作のトリックは小説という媒体だからこそ通用するトリックなので、今回の映像化ではそのサプライズすらも殺されている(監視カメラを出した時点で真相に察しがついた人もいると思うし…)のだから、原作未読の観客が本作に低評価を下すのも当然である。それに物語も劇団員同士の確執や、役の奪い合いというベタな人間模様が描かれる程度で深い人間ドラマがあるとかそういうこともないので、その点も東野氏の他作品と比べると見劣りする部分ではないだろうか。

 

それと本作の要であるクローズドサークルとしての制約、つまり外部との連絡をした時点で次回公演の役から降ろされるという「縛り」も、原作が発表された1990年代ならばともかく現代だと「役者として大成しなくても身の振り方ならいくらでもあるでしょ?」というツッコミが出来てしまうし、現に劇中で重岡大毅さん演じる久我は兼業で料理店で仕事をしており、フランベで肉を焼くといった本格的な調理技術を持った人物として描写されているので、役者以外で生きていく道がないという逼迫感に欠けるというのも、今回の映画のミステリとしての問題点だと思う。まぁこの点に関しては原作にも同じことが言えるので特別映画だけが悪い訳ではないけどね。

 

以上のように、本作はミステリ映画としてはガッカリする作品なのは間違いないが、だからと言って駄作として切り捨てるような作品ではないと正直思っていて、そう思うのは本作が原作の発表から30年以上経った今になって映画化されたことと関係してくる。

言うまでもなく本作はトリックも作中の人間ドラマも、東野作品としては凡庸というかベタな内容で、それを抜き出した所で正直作品としての魅力に欠ける。同じ著者の探偵ガリレオシリーズと比べれば雲泥の差だ。

 

じゃあ結局本作を支えるものは何かという話になるが、それは劇中の7人の舞台役者であり、彼らの演技によってこの「ある閉ざされた雪の山荘で」が成立していると言えよう。舞台役者を演じる、しかも殺人劇を演じるということは「演技の演技」という高度なテクニックが求められる訳であり、それが出来る役者でないと当然ながら本作は成立しないのだ。

そう考えれば、本作がこれまで映像化されなかったのは原作のトリックが映像化に適したものでないということに加えて、この作品を成立させるだけの演技力のある若手役者が2、30年前の芸能界にはいなかったからではないか?という仮説が立てられる。あいにく私はドラマとか映画・演劇に明るい人間ではないのでこの辺りのことはあまり偉そうに解説出来ないけど、私のつたない芸能の知識・偏見を元に考えると昔は大御所と呼ばれるベテラン役者は多くても、今みたいに充実した演技の出来る若手役者って実はそれほどいなかったんじゃないかな?と思うのだ。

 

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ネームバリューのある役者を起用することは映画の客集めとして古今東西、いかなるジャンルの作品でも用いられる手段だが、本作では単に名がある役者を使えば良い作品ではないし、むしろ脚本がベタでシンプルだからこそ確かな演技力がないと見応えが生まれない。

雨宮を演じた戸塚純貴さんは昨年日テレで放送されたドラマ「だが、情熱はある」でオードリーの春日さんを好演したことが記憶に新しいし、田所を演じた岡山天音さんはバイプレイヤーとして抜群の認知度と実力を備えた方だ。そして本多を演じた間宮祥太朗さんは叩き上げの実力派俳優としてドラマだけでなくバラエティでも活躍をしているし、私も「ニーチェ先生」で間宮さんを知ってからドハマりして追っているので、俳優としての素晴らしさは一般の人以上に知っているつもりだ。

 

一般的に実力あるキャストを揃えると役者同士の競演が作品のアピールポイントとなる。文字通り俳優陣が競い合うように演技をして観客に自分の魅力・実力をアピールすることで相乗効果をもたらした作品はいくつもあるが、本作の場合はミステリとしての性質上それが出来ない、つまり何も考えずに競演をするとミステリとして破綻してしまう作品なので、「オレがオレが!」と前に出るのではなく役割を把握した上で時には一歩後ろに引き下がるような気配りもしないといけない繊細さも必要とされる。だからこの作品において重要なのは「競演」ではなく「共演」であり、これこそが映画オリジナルの結末につながるポイントであると同時に本作をより面白く鑑賞する上で必要な視点となるのだ。

 

ミステリ作品を(真相を踏まえた上で)二回目・三回目と鑑賞する場合、大抵は「ああ、ここにヒントがあったのか!」と劇中に散りばめられた伏線や手がかりを発見するという楽しみ方が出来るけど、本作の場合そういった妙味はなく、真相を踏まえた上での各メンバーの動向や反応を観察することに本作の面白さがある。山荘に到着した際の各メンバーの動きや言動、夕食時の会話など、細かい動作を観察することで原作とはまた違う各メンバーの性格や嗜好なんかがうかがえるし、本作のトリックを知った上で鑑賞すると、ちょっとした会話における間のとり方や台詞にもある種の気配り・配慮があると言えるだろう。

 

※事件の真相を踏まえると、映画の俯瞰視点の演出は(個人的には)ミステリとしてはアンフェアだったのではないかな~?と思っている。

 

さいごに

ということで映画のレビューは以上となるが、原作が30年以上前の作品ということもあってトリックに斬新さも意外性もないのは否めないし、本作を単純に本格ミステリとして評価すると実につまらない、原作で久我が評した「茶番劇」であることは確かだ。とはいえ、東野圭吾の原作小説の映像化としてはこれ以上ないほど最良の映像化だったことは間違いないし、名実ともに世間に知られた俳優陣の「共演」によって鑑賞に堪えうる作品になっていたことは評価しなければならない。本当はパンフレットで監督や脚本のインタビューとか読めたら今回の映画化における制作側の背景を加味した感想が語れたのだけど、パンフレットが売り切れておりそれが出来なかったのはちょっと残念である。

 

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ちなみに、今回の映画における「競演」から「共演」というテーマは間宮さんの役者人生とも関わるものだったので、個人的には感慨深いテーマだったし、このテーマの作品に私の推しを起用したプロデューサーの方に感謝を送りたい。間宮さんも10代の頃は共演者を敵、つまり競い合う相手として見ていたのを玉置怜央さんとの共演で考えを改めたというエピソードがあるからね。

映画「ホーンテッドマンション」を徹底比較!(ネタバレあり)

先日2023年版の映画「ホーンテッドマンション」のDVDが届いた。

 

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2003年版(以下「旧作」)と2023年版(以下「新作」)は既にレビュー済みだが、今回はより詳しく、がっつりネタバレしながら両者の映画の長所や短所を解説していきたいと思う。

 

(以下、旧作・新作のネタバレあり)

 

今回比較するにあたって注目するポイントは「ストーリー」「アトラクションの再現度」「ヴィラン」「制作陣のこだわり」の4つだ。

 

ストーリー

まずはストーリー。両作に共通するのは館にかけられた呪いを解くというプロットだが、旧作はそれが愛の物語という形でまとめられており、館の主人であるグレイシーの身分違いの愛とエヴァース一家の家族愛、この二つが最後に結実する。一方新作では大切な人を喪った悲しみを軸にしながら、登場人物のそれぞれが自身の問題点を克服し諸悪の根源となる悪霊を倒すというストーリーになっている。

個人的な感想としては、新作は旧作よりも尺が約30分も長い120分の物語であり、霊媒師や神父、歴史学者といったタイプの異なる登場人物が活躍する群像劇のため旧作に比べるとテーマ性が散漫だと感じる。新作の評価がイマイチなのも恐らくテーマ性が伝わりにくい内容なのと、そもそもストーリー自体が凡庸であるという点が影響しているのかもしれない。

 

また、旧作はエヴァース一家が館に入ってから一晩で解決を迎える物語なのに対し、新作は事件解決に数日を要しているため、その分新作はやや緊張感に欠ける物語になっているのも否めない。幽霊と対峙している夜のパートはともかく、夜が明けた日中のパートはホームドラマ的な感じになってそこで失速するというか、(幽霊につきまとわれているとはいえ)館に自由に出入り出来る状況なので、その分一晩で完結させた旧作に比べるとサスペンス性は弱いし、物語としてもヌルく感じてしまう。

ただ、この新作のマイナスポイントは旧作以上に元となったアトラクションの要素を取り込んだが故に生じている所もあるので、一概に制作陣を責めることは出来ない。「一度館に入ると出てからも幽霊につきまとわれる」という設定はアトラクションにおけるゴーストホストの台詞をアイデアにした部分だし、第二の舞台であるクランプ邸もマジックキングダムのホーンテッドマンションの外観を再現している。そういったアトラクションの設定を盛り込んだストーリーという点に関しては、正直新作の方が物語としてはよく出来ていると言えるのだ。

 

実を言うと、旧作はテーマ性こそ明確であるものの、改めて見ると結構ツッコミ所も多い。旧作では館の呪いを解くために納棺堂からトランクの鍵を取って来て、トランクの中に隠されたエリザベスグレイシーが愛した人)の本当の手紙を見つけるのだが、よくよく考えると本作のヴィランにとって見つかって困る物品を処分せずに隠しているというのが不自然で、「手紙なんて暖炉で燃やせば簡単に処分出来るのにわざわざトランクに鍵をかけて隠す必要はないのでは…?」と思わずにはいられなかった。あと後ほど「ヴィラン」の項でも言及するが、悲劇の原因となったヴィランの倒され方がすっごい唐突なんだよね。その点新作はヴィランとなる悪霊の正体を調査によって突き止め、悪霊の生前の所持品を元に霊媒師の力で除霊をするというキチンとした手続きで倒しているから、物語として整合性がとれているし旧作と違い皆の力で悪を倒したというカタルシスがあったと思う。

 

旧作はアトラクションという舞台を借りたオリジナルの物語という感じで、これは「パイレーツ・オブ・カリビアン」のヒットに倣って同様の形で物語が作られたのだと思うが、その分細かい設定が無視されており、例えば本作で重要な役割を果たす水晶玉の女性マダム・レオタは旧作だと彼女が何故水晶玉の中にいるのか一切言及されないのに対し、新作では彼女が館の主人のグレイシーの要請によって訪れた霊媒師であり、悪霊によって水晶玉に封じられたという背景が語られている。

館の歴史にしても、旧作はグレイシー家が超金持ちで、エリザベスの一件で没落したという程度の情報なのに対し、新作ではグレイシーが原因で999人のゴーストが集まる館になったという丁寧な説明が為されている。旧作は「999人のゴーストがいる館」という設定があまり活かされておらず、館にゴーストが留まっているのも「死んだ時にお迎えの光に会えなかった」という漠然とした理由しか述べられていない。だからこの点に関しても旧作はディティールの詰めが甘いと言わざるを得ないのだ。

 

ちなみに演出、特にコメディ要素について述べると旧作は主演がエディ・マーフィーということもあってか、彼の好演によって物語は重厚であまり子供向きではないにもかかわらず見やすくなっているし、コメディとシリアスのメリハリが利いていたと思う。その点新作はちょっとコメディ要素がうまく融合していない部分があって、重要な場面なのに話の腰を折るようなコメディ要素を入れている所があったので減点した(特にマダム・レオタの「3ドルもらおう」っていうアレは本当にいらなかったわ)。

 

アトラクションの再現度

アトラクションの再現に関しては言うまでもなく新作が圧倒的に上なのだが、一応比較としてリストアップすると以下の通り。(館の内装・外装は除く)

 

〈旧作〉

変化する肖像画

ゲストを見つめる大理石の胸像

動く扉

マダム・レオタ

墓地のゴースト

動く甲冑

ザ・シンギング・バスツ(墓地で歌う胸像)

ヒッチハイキング・ゴースト

 

〈新作〉

動く甲冑

船乗りのゴースト

永遠に続く廊下

マダムレオタ

屋根裏の花嫁のゴースト

墓場のゴースト

ヒッチハイキング・ゴースト

ドゥームバギー

ゲストを見つめる大理石の胸像

変化する肖像画

大広間のパーティー

天井が伸びる部屋

ハットボックス・ゴースト

クランプ邸

蝙蝠の形のポール

空間が歪んだ階段

赤字は特に映画の劇中でこだわりを持って作られていると感じた部分だが、旧作はアトラクションの完全再現こそ新作に劣るものの、決して手を抜いている訳ではないし元のアトラクションよりも豪華なお屋敷として設計・デザインされているのが印象に残っている。大広間のパイプオルガンなんか元のアトラクションよりずっと豪華だし、部屋の装飾もヨーロピアンな雰囲気がある。新作の館は玄関を入るとすぐ廊下があるのに対し、旧作はエントランスと呼ばれる空間がちゃんと設けられていて、そこも大豪邸としての風格を感じさせる部分だ。

 

旧作と新作を比較すると、割とオリジナル要素が強い旧作でも墓地の場面だけは特に再現に熱を入れている。館の中ではほとんど登場しないゴーストも、墓場ではお茶会をしたりシーソーをして遊んだりと、元のアトラクションでも見られるゴーストたちの賑わいがしっかり再現されているし、歌うカルテットの胸像は勿論のこと、ヒッチハイクをする三人組のゴーストもジムたちが乗っている馬車にちゃっかり乗り込むという形で出演している。新作でもヒッチハイキング・ゴーストは一応登場するものの、正直印象には残りにくい感じで登場する。

 

新作では旧作で物語に落とし込めなかった天井の伸びる部屋や永遠に続く廊下が物語のギミックとして活かされており、特に天井の伸びる部屋に関しては悪霊の妨害工作という形で活かされていたのには感心したね。アトラクションのことを知らない人が見たら「何であそこで流砂とか爆弾・ワニが出て来るんだよ」って意味がわからない場面だったと思うが、アレはあの部屋に飾られた肖像画の人々の死因となった事象なんだよね。いや~芸が細かい。

細かいと言えば、物語の序盤から主人公のベンにつきまとっていた船乗りのゴーストも実はアトラクションに肖像画として飾られている。東京ディズニーランドだと、ドゥームバギーに乗ってすぐの廊下に飾られているので、もし訪れる機会があればチェックしてもらいたい。

 

ヴィランの描き方

ディズニーと言えば物語を彩る要素としてヴィランの存在が欠かせない、「ホーンテッドマンション」もその例に漏れずヴィランが登場するが、旧作ではグレイシーに仕える執事のラムズリー、新作では館のゴーストを支配するハットボックス・ゴースト(アリステア・クランプ)がそれに該当する。

 

旧作におけるラムズリーはグレイシー家に仕える執事として、お家の存続に関わるエリザベスと当主の駆け落ちを阻止するため、自殺に見せかけてエリザベスを毒殺。死後成仏出来ずにいる当主のグレイシーを成仏させるために見た目がエリザベスとそっくりなサラ・エヴァースを連れて来て無理やり結婚させて成仏させようとする、まぁとんでもねー野郎だ。自分の利益で動くというよりも「〇〇とは、こうあるべきだ」という自分の価値観を相手に押し付けるタイプの悪役という点ではディズニーヴィランズとしては特殊なタイプなのではないかと思う。

最終的に自分がやったことがバラされてしまい「皆地獄に落ちろ!」と言って悪霊の集団を呼び出したものの、何か暖炉から地獄の使者みたいな炎が現れて、それに捕まってラムズリーは地獄に落ちていくという末路を迎えるのだが、この場面が先ほどの「ストーリー」の項で述べた唐突すぎる倒され方で、悪霊を呼び出した割にはその悪霊は飛び回るだけでジムやグレイシーたちを襲う訳ではないし、何の脈絡もなく地獄からの迎えが来るわで、この下りは改めて見ると結構雑なオチだなと思ったわ。っていうか地獄からの迎え、もっと早く来いよ!

 

一方、新作におけるクランプは生前の頃母親が死んで、あまりにも母の死に悲しんでばかりいるからという理由で父親から勘当され、親類縁者からも見捨てられた結果殺人鬼として自分を見捨てた人々に復讐を果たし、殺した人々を生贄にする黒魔術によって富を得たという結構しっかりとした設定のある悪役なのだが、肝心のその背景が駆け足で説明されているため初見でイマイチ伝わりにくいのが非常に勿体ないと思った。

親や周囲の人々から愛情を受けずに育ったが故に、人の感情を弄び利用する悪霊として主人公のベンやグレイシーの悲しみにつけ入るという悪辣さ、クランプ邸の描写やサプライズ好きという一面からうかがえる意外と子供じみた性格など、決して薄っぺらいヴィランではないのに、それが十全に視聴者に届いていないのは、勿論脚本・演出上の問題ではあるのだけど、そもそもハットボックス・ゴースト自体がアトラクション内でも馴染みが薄いゴーストというのも関係しているのかもしれない。本国アメリカでも2015年にやっとアトラクションに復活したゴーストだし、日本はそもそも登場すらしていないのだから、ま~これは仕方ないかもね。

 

制作陣のこだわり

旧作・新作共にメイキング映像があるのだけど、やはりメイキング映像って制作陣のこだわりが一番表れる部分だし、メイキングを見比べるとどこに力を入れて制作していたのかがよくわかる。

旧作だとオリジナル要素の一つである納棺堂におけるゾンビもそうだけど、ゴーストを見せる視覚演出にかなり力を入れていることがよくわかった。背景とゴースト役を別撮りにして後からそれぞれを合成するからゴースト役の立ち位置だったり視点の微調節が大変だったとスタッフも語っているし、CGでゴーストの身体から放たれる光や煙なんかを付け足しているから、その辺りのこだわり具合が本当に凄いんだよね。だからゴーストの一体一体が見る側の印象に残るように考えられているし、そこが旧作を評価するポイントの一つとして挙げられる。

新作でもゴーストはかなりの数が登場するのだけど、旧作と比べると手の込んだCGは使われておらず、ゴースト役をワイヤーで吊るすといった割と古典的な手法で演出していたのには驚いた。そのせいかはわからないけど、正直旧作と比べるとゴースト一体一体が際立っていないというか、アトラクションの再現を重視した分、印象に残るゴーストが少ない。要はゴーストの魅せ方が旧作を見てからだと巧くないと思ってしまう。ご飯で例えると、旧作は米の一粒一粒が立っているのに対し、新作はべちゃっとした米という感じだ。

 

新作のこだわりポイントとしては出演者のアットホーム感と、アトラクションの再現度、そしてニューオーリンズという物語の舞台を前面に出しているという点だろうか。これは新作レビューの記事で詳しく言及しているのでそちらを読んでいただきたいが、旧作も舞台は同じニューオーリンズだけどあまり土地柄が物語と深く関わらない。海抜が低いので大雨で川が氾濫するという点が関わってくる程度だ。しかし新作では物語冒頭からニューオーリンズという土地は葬式が祝祭となる特別な土地柄であること、生と死が同居する場であるということが説明されており、ホーンテッドマンションにあれだけ多種多様な民族のゴーストが棲みついているのも、「文化のるつぼ」と称されるニューオーリンズだからこそ成立しているというのが初見でも伝わるようになっている。劇中で館の歴史を語る以上、その建物がある土地を無視する訳にはいかないし、そこを描いているから新作は物語に深みがあると私は思うのだ。エンディングで館のゴーストと主人公のベンたちが一緒にパーティーをしている場面、いかにもディズニー作品らしいエンディングだな~と思った人も多いだろうが、あれも深読みするとニューオーリンズが生と死が同居する場所であることを象徴しているし、生きた人間が棲む家と死んだ人間が棲む墓地を分ける日本では絶対にあり得ない描写だ。この死生観の違いを知るのも映画鑑賞の楽しみの一つと言えるだろう。

 

さいごに

ということで映画「ホーンテッドマンション」を比較してみたが、最後に旧作・新作の長所・短所をまとめるとこんな感じになる。

 

〈旧作〉2003年版

長所:「愛の物語」という明確なテーマ性を押し出したプロット。コメディとシリアスのメリハリの良さ。ゴーストの魅せ方にこだわりが感じられる。

 

短所:テーマ性に反して脚本のディティールは甘い。わかりやすい分、設定や背景描写に奥行きが感じられない。ヴィランの倒され方が唐突すぎる。オリジナル要素が強くアトラクションの盛り込みが部分的という感じ。

 

〈新作〉2023年版

長所:旧作以上に再現されたアトラクション要素。ニューオーリンズという舞台を活かした脚本。一致団結して敵を倒す王道のプロット。

 

短所:物語のテーマがやや散漫で凡庸(独自性に欠ける)。コメディ要素が話の腰を折っている面もあり。一体一体のゴーストの魅せ方は旧作より劣る。ヴィランの描写が駆け足気味。

旧作も新作も良い所がある一方でイマイチな部分もある。今回このような比較をやったのには、新作があまりにも評価が低すぎると他の方々のレビューを読んでいて感じたからであり、一人の「ホーンテッドマンション」好きとしてもっと正当な評価をされて欲しいという思いから、比較による評価を行った次第である。どちらも短所はあるとはいえ面白い映画であることに変わりはないし、私のレビューを踏まえた上でまた違う見方が出来る部分もきっとあるだろう。もし旧作・新作を見比べて、「私はこう思った」という意見があるのであれば、コメントを送っていただきたい。

ホンミス島、リニューアル【あつまれどうぶつの森】

あけましておめでとうございます。今年は正月から仕事をしていて、4日にようやく休みを得てゆっくりしてました。

 

さて、昨年の春から着手していたホンミス島のリニューアルがようやく完了し、夢番地を更新したのでお知らせします。もう「あつ森」をプレイしている人もだいぶ減ったと思うけど、島クリによって地形だけでなく島の雰囲気も随分変わったのでこれを自分だけのものにしておくのも勿体ないかなと思いました。

 

これが2020年時点のホンミス島。これが…

 

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今はこんな感じになってます!迷路は2022年にぶっ潰してお城エリアにしたけど西側は2020年からほとんど手をつけていなかったんですよね。それを今回は全面リニューアルということで住民の家も商店も移設して、地形も島クリで大幅に変えてホントに手間がかかりましたよ…。

 

知らない人もいるので改めて言及するけど、「ホンミス」というのは本格ミステリの略称であり、ゲーム開始当初は本格ミステリ」の島というテーマで島クリを行っていた。ただ今回のリニューアルではもうそのテーマに縛られず自分の好きなものと観光地としての華やかさを取り入れた島にしようと思い、それで試行錯誤した結果上のような感じになりました。

 

リニューアル後のホンミス島を詳しく紹介

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ここからはリニューアルしたホンミス島をより詳しく紹介します。上の画像を見ればわかるように、今回は島を大きく7つのエリアに分けました。

 

1.フィリアス・フォッグ邸(博物館)
2.地獄エリア
3.ホーンテッドマンションエリア
4.商業施設エリア(映画館・古本屋)
5.ガーデンエリア
6.住宅街
7.ビーチエリア(海の家)

 

1.フィリアス・フォッグ邸(博物館)

博物館エリアは、昨年の7月に放送されたアニメ「アンデッドガール・マーダーファルス」のフィリアス・フォッグ邸の外観を参考にリニューアル。フィリアス・フォッグ邸も私設博物館という設定だったからマッチするかなと思い、お城の壁や塔を駆使して出来るだけ再現してみました。

 

2.地獄エリア

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リニューアル前の自宅周辺は横溝正史の『犬神家』や『本陣』をイメージした庭や菊畑を作っていたが、リニューアル当時『鬼灯の冷徹』を読んでいて気まぐれから地獄エリアを作ってみようと思い、まず自宅を閻魔大王庁としてリニューアル。ただ変えたのは外観だけで内装はリニューアル前と同じです。

 

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地獄なので自宅から東側には恐竜や毒虫に襲われる刑場を、そして北側には釜茹での刑場を作っています。フレームマシーンや焚き火で地獄っぽさを出してみました。

 

3.ホーンテッドマンションエリア

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昨年公開された映画「ホーンテッドマンション」が面白かったので、あつ森で再現しようと思い立ち、北東のエリアはホーンテッドマンション専用の土地にしました。墓地はリニューアル前に作成済みだったので、内装とアトラクションの入り口周辺のレイアウトに力を入れてます。ペット用の墓地や並ぶ順路も出来るだけ東京ディズニーランドのものに近づけてます。

 

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ちなみに夢番地を更新したのは昨年末の冬なので、外観も内装もホリデーナイトメア仕様です。

 

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幽霊犬のゼロがツリーの飾りつけをしていますし、ヴァンパイアテディに狂暴なオモチャも館を彩ってます。個人的にかなりこだわってレイアウトしたので是非とも見てもらいたいですね。

 

4.商業施設エリア(映画館・古本屋)

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リニューアル前は住宅街だったエリアを案内所と商店を含めた商業施設エリアとしてまとめてみました。レトロな古本屋や映画館を作成し、より文化的なエリアになっています。

 

5.ガーデンエリア

その名の通り、島で育てた花や植物をメインにしたエリアで、ちょっとした休憩スポットのようになってます。島の南側の海岸にはちょっとした古代遺跡もありますよ。

 

6.住宅街

かつて迷路やお城エリアだった東エリアは住宅街としてリニューアル。リニューアル前の西側の住宅街と違い、リニューアル後は立体的な住宅街にし、小さな公園や畑といった島民憩いの場も用意しています。住宅街の奥には池と移設した八つ墓明神があり、お墓参りも気軽に出来ますね。

 

7.ビーチエリア(海の家)

南東は海の家をメインにしたビーチエリア。今は冬なのでオフシーズンですが、海の家の西側の細い道を通ると脱衣所やシャワー室に通じており、海水浴を楽しむ人に向けた設備も充実してます。キャンプサイト横には小さいながらもサウナを用意してみました。(私は入らないですけど)

 

 

こんな感じで7つのエリアそれぞれが趣の異なる観光スポットになっています。興味のある方は、是非こちら(↓)の夢番地からお越しくださいませ。

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一応言っておくと今後も島クリで島のレイアウトを変えようと思っていて、実は「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の哭倉村を今度は再現しようかなと考えている所です。またDVDが発売されたら映像を何度も見てゲーム内であの陰湿で自然豊かな村の様子を再現したいものですね。

2023年に見た作品を振り返る(アニメ旅の完走から傑作・凡作・駄作まで)

去年は総括みたいなことが出来なかったので、今年は総括として2023年に視聴したアニメ・ドラマ・映画の振り返りをしようと思う。

 

アニメ旅の完走

まず最初に今年の6月に企画した「夏のアニメ旅」を完走したことを宣言しておく。

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まさか「ゾン100」が12月まで延期になるとは思っていなかったから当初の予定から大きく外れた"長旅"になったけど、1クールの間に三本の連続アニメを視聴してレビューを書くというこれまでやったことのない試みをしたことは自分にとっても、そして私のブログを読んでくださった方々にも良い刺激になったのではないかと思う。

 

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「アンファル」と「ダークギャザリング」の感想・解説は以上にまとめているが、「ゾン100」はそんなに大したことは書いてないからカテゴリーとしてまとめるのはやめた。とはいえ、「ゾン100」は以上の2作と比べると、専門知識に基づく感想・解説ではなく、私自身の経験や価値観が反映された感想になっていると思うので、私タリホーがどんな思想の持ち主か気になるという物好きな方は読んでみても良いかもしれない。

 

で、この3作を同時期に視聴して思ったけど、「アンファル」は19世紀末のヨーロッパという過去を舞台に描き、「ダークギャザリング」は幽霊という過去の存在を通した現在が描かれた作品だ。そして「ゾン100」は、これからの私たち日本人がどのようにして幸福を求めていくのかという未来を考えさせる一作だった。何の偶然かこの3作を通じて私は過去・現在・未来という時間の流れを感じながらそれぞれの作品を堪能し、この世界はどのような過程を経て今の形に落ち着いたのかが何となくわかったような気がする。そういう点でもこの「アニメ旅」は実に有意義な企画だった。

 

「犬神家」関連の作品が充実していた

有意義と言えばもう一つ、今年は面白いことに「犬神家の一族」関連の作品が充実していたということにも触れておきたい。

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まずは4月にNHKで放送された吉岡版「犬神家の一族」。前後編の3時間という尺で描かれた本作は特に最後の結末の改変で賛否両論となった。Twitter での私のフォロワーさんの評価を見ている感じだとほとんどは「賛」の意見だったと思うし私も本作を評価している。前作の「八つ墓村」が散漫な印象だったから、今回の結末の改変は高く評価したいし、「あんな激戦地を生き抜いて出征前と性格が変わらない原作の彼の方がおかしいのでは…?」と考えさせられる部分もあった。(その分ミステリとしてモヤモヤが生じた部分もあったのは否めないけどね)

 

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そして9月に公開された映画「ミステリと言う勿れ」では、遺産相続絡みの事件を描いた「犬神家」を彷彿とさせる作品だった。この映画では「犬神家」でも描かれた親世代が私たち子世代に振りかけてくる呪いを描いており、それを次の世代へと受け継がないために久能や狩集家の人々が奮闘する作品だ。原作に忠実な映画化としてもよく出来たクオリティだったと思う。原作は絵のタッチがマイルドなので鬼畜の所業に感じなかった部分も、映画だと生身の人物によって演じられていることもあって、予想以上にとある人物のえげつなさが表現されていて、そこも映画ならではの良さがあったね。ED曲の「硝子窓」も物語の余韻を後押ししていてグッドだった。

(連ドラのED曲「カメレオン」はお涙頂戴的演出のせいでイマイチ好きになれなかった)

 

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それから今現在も口コミで興行収入を更新し続けているまごうことなき大ヒット作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も、当主の死を発端とした連続殺人という点では「犬神家」につながる作品だ。上の感想記事ではインテリぶった感想になっちゃったけど、本当は「すっげぇ面白かったぞコレ!!」という語彙力皆無の興奮を伝えたかったんだよね。でも結局それが出来なかったので代わりにこちらのレビューを紹介するわ。(私も黄泉平坂まで行って水木大先生に感謝したいよ)

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先日注文していた映画のパンフレットが届いたので読んでみたけど、隠れミッキーならぬ「隠れ妖怪」がいると知って俄然2回目も観に行きたくなったよ。鬼太郎なんてほとんど見たことがないという映画レビュワーも次々と絶賛しているし、これほど鬼太郎を推していて鼻が高いと思ったことはないくらいに嬉しさがこみ上げている。それだけ制作陣がこだわりを持って作ったことが評価されているという証拠でもあるのだが、こだわりと言えば、YouTube で公開されている水木が夜行列車に乗っている場面。この場面だけでもこだわりを感じられるよね。

 

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列車内の場面一つとっても、タバコの煙が充満した車内、床に散らばったゴミ、咳き込む少女とそれを介抱する母親、二人を見つめる異様な視線と、様々な情報が押し寄せて来るし、水木がタバコをトントンとする行為にも上で紹介したホッカイロレン氏によるとちゃんと意味があるみたいで、ホントに感心させられるよね。動画の15秒辺りで水木の後ろに座っている客があくびをするけどさ、こんなのアニメーションにする手間を考えたら別にカットしても良いのにそこもアニメとして乗客の動きを見せているのだから、世界観の構築に手抜きが一切見られない。そりゃヒットするし何度も観に行きたくなるよね。

 

今年の凡作・駄作について

さて、傑作・名作だけでなく凡作や駄作についても言及しておかなければならない。

 

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ここ最近大ヒット作が出ていないどころか、何かと批判され炎上しているディズニー映画。「ホーンテッドマンション」も例によって初週こそ動員数1位を記録したもののそれ以降は伸び悩んで世間の評価は凡作止まりとなっている。ただ個人的には面白い映画だったと思うし、生と死という旧作以上に普遍的なテーマを扱った物語としては時代や流行に囚われない、いつ見ても楽しめる作品になっていたと思う。鬼太郎映画がマニア向けに作られたにもかかわらずヒットしたことを思うと、この「ホーンテッドマンション」は大衆向け作品として作られたけど中身はマニア向けの作品だと思うし、アトラクションを知っていればいるほど面白い映画だと評価している。物語の舞台となるニューオーリンズの知識もないと劇中で描かれたことの意味もピンと来ないだろうから、そりゃ凡作にしか映らないのも無理はない。

 

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ポアロの映画はミステリ映画としては間違いなく駄作だけど、ストーリーはクリスティらしさがあって駄作になりきらずに済んだという感じだろうか。前2作が映像化の定番である「オリエント急行」や「ナイル」だったのに対し、『ハロウィーン・パーティ』というマイナー作品をチョイスした辺り、ブラナーにとっては意欲作であり挑戦作だったのかもしれないが、結果的にブラナーのクリスティ作品を監督する上での長所と短所が明確になった。そういう点では興味深い作品だったかもしれない。

 

さて、ここからはブログで言及していない凡作・駄作の話に移るが、実は先ほど紹介した「アニメ旅」の3本以外にも「鴨乃橋ロンの禁断推理」というミステリ漫画原作のアニメを今期は視聴していた。

鴨乃橋ロンの禁断推理 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

一応原作を途中まで読んでからアニメを見たのだけど、まぁ~ミステリとしても凡庸だしキャラクターも魅力に欠けるしで、結局アニメは6話で視聴を打ち切っちゃったんだよね。ミステリ作品にあまり触れたことがない人にとっては入門としておススメ出来る作品だとは思うけど、私みたいなすれっからしのミステリマニアには全然響くものがない。天才の描き方にしてもとりあえず変人・偏食にしておけば良いという安直さが透けて見えるようなキャラ設定でそこも鼻につくというか何というか。ワトソン役の刑事のツッコミも無駄に長いしキレが悪いしな…。

まぁ、ミステリとしては決して出来が悪い作品ではないので、あくまでも私のセンスに合わなかったという話だ。(そもそも私ホームズよりもポアロ派だし、ホームズをリスペクトした本作が合わないのもある意味当然か)

 

あ、センスに関して一件言っておきたいことがあるけど、本作は「探偵学園Q」みたいな探偵養成学校があって、「密室」とか「変装術」といった各分野に精通するプロの教官が在籍している。その中で「時刻表学」担当の教官がいるのだけどさ、いや、そこは「アリバイ」でしょうよ!?

時刻表トリックなんて分単位で列車やバスを運行出来る日本だから通用するトリックだぞ!世界レベルの探偵を養成する学校でそんなニッチな学問教えてどーするんだ!と思ったし、これだけでも「あ~私この作者とセンス合わない…」って感じた。

 

そんな退屈な「鴨乃橋ロン」を凌駕し、今年私が視聴した映像作品で最も酷かった駄作として認定したのが、7月にフジテレビで放送されたドラマ「真夏のシンデレラ」だ。

真夏のシンデレラ

当初は主演の森さんや間宮さんをはじめとするキャスト陣の顔ぶれを見て「これは良い群像劇になるんじゃないか」と期待していたが、まぁ~恋愛ドラマに無知な私が見ても脚本もキャラ設定も全てが無茶苦茶で、登場人物の誰一人として感情移入も共感も出来ないという正真正銘の駄作だ!

 

湘南で飲食店の経営とサップのインストラクターをする女性・蒼井夏海、東京の大手建築会社のエリートサラリーマン・水島健人、住む世界の違うこの二人が恋に落ちるという王道のラブストーリーなのだが、この「住む世界が違う」ということを強調したいがために健人の同級生である佐々木修がやたらに夏海とその友人を見下す発言をするし、夏海の幼馴染みである大工の牧野匠が健人につっかかってくる。テーマありきで物語や登場人物を動かしているのだから、匠と修なんか5話までの段階だとマジで洒落にならないレベルのクズ野郎だし、修に関しては人格障害を疑うレベルの暴言のオンパレードだったからね。

まぁ百歩譲ってキャラ設定はこれで良いとしてもよ?せめて修が暴言メーカーになった原因や背景となる描写が入れられていたら、まだ作品として成立したと思うんだよね。教育熱心な上にエリート至上主義な親に育てられたせいで人格が歪んだという、この情報だけでも入っていたら修という人物に厚みが生まれたと思うのだ。でもドラマはそんな背景を描かずに、滝川愛梨の「修くんは根は優しい」という一言で片づけている。だから全ての登場人物が記号的であり、奥行きがない。メインである夏海と健人の恋愛模様にしても、お互い良い人というだけで相手に対する期待だったり自分のエゴがあまり出て来ないから、そこも実につまらない。

要は、メインの二人を単なる良い人として描いた結果、物語を大きく進展させられなくなったため、周りをとんでもない人格破綻者にすることで物語を動かしているのがこの「真夏のシンデレラ」の暴力的とも言えるストーリー運びの正体なのだ。

 

だから「真夏のシンデレラ」は実の所群像劇ではない。夏海と健人の二人の恋を進展させるために、周囲に人の心が欠如したクズ野郎を配置したドラマと称した方が正確だと私は思う。

5話で夏海の弟が同級生の女子生徒を妊娠させてしまったエピソードとか、7話で家に戻って来た夏海の母親が借金返済のため店の金を着服するエピソードとかマジでいらなかったし、妊娠騒動に関しては5話以降一切触れられないんだからね?言っておくけど未成年妊娠なんてちょっとした修羅場を盛り上げるために挿入するような類のエピソードじゃないし、何ならそのテーマだけで1本連ドラ作れるんだぞ!日テレで放送された14才の母を知らないのかここのスタッフたちは!

こういうトラブルとか修羅場って登場人物の本音だったり普段は見せない一面が見えるから、それを引き出す目的で挿入されるのだけど、じゃあ挿入された所で夏海と健人の意外な一面が露わになったかと言うと全然そんなことはない!結局引き出されたことと言えば、夏海が献身的なまでに家族を大切にしていることや、健人が優しいということぐらいで、そんなのとっくに視聴者も知っていることだからクソつまらないし「結局あの騒動は何だったのだ?」という感想しか出て来ない。「良い人」という情報しか引き出されていないのだから、何も心が動かされないんだよね。

 

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参考までに修を演じた萩原さんが出演していたBLドラマ「美しい彼」を比較として紹介するが、この「美しい彼」では萩原さん演じる平良一成の特殊性が引き出されているのが素晴らしいポイントの一つだ。一見すると地味で凡庸な陰キャの平良が清居奏という絶対的な王と出会ったことで、平良が内に秘めていた情熱・独特な思想や価値観が表に引きずり出されていく。そして清居を汚し貶める者に対しては狂気とも言える怒りを解き放ち、人殺しさえも厭わないというヤバさも抱えている。普段は社会や人に怯えながら生きている平良が清居のこととなると恐れ知らずの無法者になる。その異常なまでの純愛を描いているからこそ名作BLとして君臨したのだ。「真夏のシンデレラ」にはこのような狂おしいまでの執念とも言えるような愛が全くない。だから心に響かないと私は言いたいのだ。

 

「真夏のシンデレラ」はハッキリ言おう、もはやドラマとして成立していない。夏に海辺で出会った男女の恋愛模様を断片的につなぎ合わせたプロモーションビデオを毎週見せられたようなものだ。実際に湘南の砂浜でドラマチックな恋愛をした人には何かしら響く要素はあったのかもしれないが、海とは無縁な内陸出身の私には何にも面白くなかった。まぁ前半は修や匠のクズっぷりにツッコみまくっていたから、そういう粗探し的な面白さはあったと言えるのかもしれないけど、後半は特別大きな盛り上がりもなく終わったから本当にこのドラマの制作陣は「夏らしい恋愛ドラマ」が作りたかっただけなのだろう。せめてエンタメとして面白みがあれば良かったのだがそれすらもなかった。

 

恐らくだが、これは単に脚本家がどうしようもないまでの下手くそな新人作家だからこんな出来栄えになったとは思っていない。年配のプロデューサーが往年の、それも明石家さんまさんや大竹しのぶさんが出演していたような「男女7人夏物語」的なものを作ろうと言い出して、それで「この場面を入れてくれ」とか「こういう展開にしたらエモくない?」みたいな要望を全部受け入れた結果こんな酷い出来になったのではないかと邪推してしまう。

何か間宮さんもクランクアップの時のコメントで「今回のドラマの撮影で色々と口出しした」って言ってたから、見ている私たちですらこれだけツッコミが生じたのに演じている当人はそりゃ言いたくなることがあって当然だよなと同情せずにはいられなかったよ。本当に間宮さんを含めた役者の皆さんはこんな駄作を最後までやり遂げて偉いと思うよ。悲しいけどこれも人気俳優になったら避けては通れないことだからね。

 

さいごに(来年の予定)

ということで2023年の視聴作品の振り返りは以上となる。今回言及しなかったけど「ノッキンオン・ロックドドア」とか「パリピ孔明」も最高のドラマ化だったと当ブログの別記事で評価しているし、全体的に見たら今年は傑作・良作に恵まれた年だったと思う。特に下半期の充実ぶりたるや、2017年の「貴族探偵」のドラマ化以来の盛り上がりだったと個人的には思うよ。心残りがあるとすれば間宮さんが声優として出演している映画「BLUE GIANT」と、高橋一生さん主演の岸辺露伴の映画を見なかったことかな。どちらもなかなか評判が良かったらしいからちょっと後悔している。

 

そんな訳で来年も引き続き当ブログは作品レビューをメインにしていくが、一応予定をここで言っておくと、来年の1月期は特に気になるアニメもドラマもないので読書感想をメインにしていこうかと思う。幸か不幸か積読はわんさかあるし、横溝正史金田一シリーズも全然読めてないから、それを消化していきたい。

それと録画していてまだ見ていないBBC制作のドラマ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」は原作を読んでからレビューしたいと思う。あとこれはだいぶ先の話になるが来年の10月期に放送されるアニメで面白そうなものを発見したので、これもいずれは当ブログで感想をレビューしたいなと思う。

 

それでは、皆さま良いお年を!

【最終回】正の万能感 VS 負の万能感【ゾン100 #10~12】

ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~(5) (サンデーGXコミックス)

ゾン100久しぶりですね!忘れている人もいるかもしれないけど、これが最終回なので出来るだけキレイに感想を締めたいと思います。

 

「ホームタウン オブ ザ デッド」

最終回は10話から12話まで一挙放送。前回(と言っても9月の話になるが)アキラは群馬へ里帰りし、両親に親孝行をした所で終わったが、今回はアキラの同級生である日暮カンタがトンネルに閉じ込められていたゾンビを村に送り込み、これまでのうっぷんを晴らそうと大暴れするストーリーだ。

カンタを含めた四人の男女はいわゆる「無敵の人」(失うものがないために無差別殺人等の凶悪犯罪を起こす人)であり、今回は彼らのゾンビ禍以前の様子も描かれたことで彼らが「無敵の人」になった背景がわかるようになっている。今回はそんな彼らにスポットを当てた感想を語っていこうと思うが、ゾンビものって何だかんだ最終的には「人間 VS 人間」というプロットに落ち着いてくるし、本作でも正の万能感に囚われたアキラと、負の万能感に囚われたカンタの一騎打ちが見所だ。

 

未熟・寂しさ・支配願望に取り憑かれた四人

カンタが引き連れたメンバーはそれぞれが慢性的な不平不満を抱えた男女である。

元市役所勤務の寒林は自分の正しさが社会で通用せず煙たがられることに不満を抱き、元見習いシェフの阿天坊は全てを人のせいにして一向に努力する気がないのに運がないとほざく典型的なダメ男、元携帯ショップ店員の蔵杉は結婚したは良いものの家庭が冷え切って妻にないがしろにされている惨めな生活を送っていた。

阿天坊に関しては論外というか明らかに未熟な人間だし犯罪者にありがちなタイプなので特に言うことはないが、寒林・蔵杉、そしてカンタの三人については現代の私たちが陥りやすい欲求不満型人間である。

 

寒林は自分の正しさを相手に押し付けるという、ある意味支配欲求に取り憑かれた女性だ。劇中でスティックのりの置き場所が違うだけで文句を言っていたけど、あれって置き場所に合理的な理由があるからではなく、「ここに置いてないと気が済まない」という感情的な理由から小言を言っているように私には思えた。だから寒林は「正しさ」と称して相手を自分の思い通りにコントロールしたいだけの人間であり、しかも彼女自身それに気づいていないから余計にタチが悪い。

でも案外こういう人って現実社会にいるもので、私も実際そういう人と仕事をしたからわかるのだけど、そういった人は親や上司から理不尽な仕打ちだったり厳しい教育を受けてきた過去があり、その恨みを自分の子供や部下で晴らしているものなのだ。だから「私がこんな目に遭ってきたのだから、あなたはこれくらいのことが出来ないとダメです!」みたいな感じでキレたり喰ってかかってくるんだよね。コントロール願望だけでなく自分と同じ苦しみを共有させようとするから私は本作の寒林みたいな人と出会ったら絶対に距離をとるようにしている。

 

蔵杉の場合は自分の努力は気づいて欲しい・評価して欲しいと思うくせに相手の努力には鈍感で評価しないという点が実に子供っぽいというか幼児退行している状態だなと思った。これは「ミステリと言う勿れ」の原作1巻でも同様のことが描かれているのだが、「自分はゴミを捨てて家事に協力しているよ!」と言ってる夫は実はゴミの詰まったゴミ袋をゴミ捨て場に置くという行為をしているだけで、その前段階におけるゴミの回収やゴミ袋の補充などは妻に任せきりだった。

家事をほとんどやっていないのにやっているように言う鈍感な世の夫たちに向けた「名もなき家事」を紹介した本が発売されているくらいだから、文句が多い人間ほど実は相手のことをよく知らないものだし、自分が変わろうとしないくせに相手に変化を求め過剰な期待を抱く。蔵杉もそんなダメ夫の例に漏れずケンチョに痛い所を突かれる始末だが、これは他人事ではなく私も相手にばかり期待を求めるというのはやらかしそうなので、戒めとして蔵杉を反面教師にしないといけないなと思った次第である。

 

そしてカンタはいわゆる「リア充」を敵視しており、大学時代にボランティアやセミナーに参加したものの、何者にもなれず孤独を抱えたことで歪んでしまった人間として描かれている。

精神科医名越康文先生の受け売りになるが、怒りの原因は大抵寂しさや孤独が背景にある自分が社会から取り残されたという感覚を抱えて、そこから脱しようと彼なりにボランティアやセミナーに参加するという努力はしていたが、多分明確な目標を持ってやったことではないだろうから、余計に孤独感が強くなったんじゃないかと思うんだよね。私も大学の就活の時にいわゆるセミナーに参加して就活で採用されやすい人材について講師の方の話を聞いたけどさ、あれって結局「社会に適応しやすい人間」という型を押し付けるようなものだし、自分らしさを殺すことになるから、正直参考にならなかったね。

「しなくて良い努力」をすると無駄に体力を使うし余計に社会が悪いものとして映ってしまうが、カンタも「しなくて良い努力」をしてしまい、人生のピークは小学生の時だと早々に結論づけてしまったことで社会に対する憎悪を募らすことになってしまった。私も高校生の頃は周りの同級生は充実した学生生活を送っていて自分は全然充実してないし何も成し遂げてないという思いがあったし、ある意味視野狭窄な状態に陥っていたからそういう時の周りに見捨てられたという感覚が凄く理解出来るのよ。本当は自分の居場所なんてどこにでも見つけ出せるのに、当時は学校と家のどちらかしか居場所はないと思い込んでいた。カンタも俯瞰的な視点を持っていたら自分の抱える不満や怒りを解消することが出来たと思うし、自分がこだわっているものの小ささにも気づけただろう。

 

カンタは以前アキラから食事に誘われたものの無下に断っている。恐らく自分がリア充のアキラから「施し」を受けるという立場になることが嫌であり、腹が鳴った音を聞かれたという恥ずかしさもあいまって断ったのだろうと思うが、思い返すとそこがカンタにとっての分水嶺であり、そこで恥じらいを捨てていたら、もしかすると彼の運命も良い方向へと向かったかもしれないという風に描かれている。

そしてアキラ自身、そんなカンタをケンチョみたいにバカだと突き放すのではなく自分もカンタと同じ「闇のゾン100」を実行するような道をたどっていたかもしれないと述べており、そこに主人公としての人柄の良さが出ていて良かったな。突き放すことは簡単だけど、「自分もそうなっていたかもしれない」という考えが出来るって大事だよね。

 

【ゲームさんぽ/Detroit: Become Human】精神科医・名越康文さんが登場キャラを分析! 驚くほど繊細なアンドロイドの心理が明らかにされていく...! - YouTube(動画の31分辺りで言及されています)

 

私たちは大人のフリをしているに過ぎない

今回の村での騒動や襲撃を仕掛けて来た四人組を見ていると、「本当に私たちは大人になれたのだろうか?」という疑問が頭に浮かぶ。その疑問に関わってくるのが「都会」という場である。

都会は便利で情報に溢れているため、一見すると都会の方が優れていて田舎は劣った場所として映ってしまうが、都会には都会ならではの問題みたいなものがある。都会は圧倒的に人口が多いが、人が多いということは多くの人に会う分他者との比較を意識するようになるし、競争の激しい場でもある。人の流れも激しく、時間も分単位のスケジュールで動くから、それに適応出来なければ仕事なんて到底出来ない。

そんなハードな場所柄だけに、自分が劣ったものだと錯覚したり、周囲から孤立して行き場のない不満・怒りを抱えてしまう場合がある。あの四人組もそう考えると都会という場によって人格が歪められたという考え方も出来るのではないかと私は思うのだ

そしてこれは都会に限った話ではないが、私たちは物理的な豊かさの代償として心の余裕をなくしている。他人の失敗が許せなくなったり、自分の思い通りにいかないとイラついてしまうといった具合に、常に疲弊し怒りや不満を抱えて生活を送らないといけない状態に陥っている人も多いだろう。そしてそんな状態の精神というのは大人というよりも文句ばかり言う子供の状態に近いのではないだろうか?

 

私たち社会人は仕事をしてお金を稼ぎ、役職によっては人を育て指導する人もいる。そうやって日々の仕事をしていると「自分は立派な社会人になれた」と安心し自負している人もいるだろう。ただ、私の経験から言わせてもらうと、ほとんどの人は大人になったフリをしているだけで、本当の意味で大人な人間はごく少ないと思うのだ。自分の一方的な価値観を押し付けて実際の状況を把握しようとする気がない人とか、八つ当たりに近い怒りをぶつけて来た人とか、私も心底嫌になるような社会人を見て来たからこういう結論に至ったのだけど、私も含めてほとんどの大人は大人の皮をかぶった子供も同然で、知識と経験でマウントをとっているに過ぎないのだ。

 

だから私としては「相手と同じくらいに自分も未熟さを抱えている」という形で考えておけばもっと相手に優しくなれるしトゲトゲしさも多少はマシになるんじゃないかなと思っているし、前向きな意味で相手には期待しない。期待するとそれが叶わなかった時に不満が出て来るから、これを心掛けるとちょっとは気楽にこの人生を過ごせるんじゃないかなと、そんな提案を今回のアニメを通して言ってみました。

 

総評

ということで以上が10~12話のレビューでここからは総評に移るけど、延期で視聴に断絶した期間があるため9話以前のことは具体的には述べられないという断りを入れた上で語っていくよ。

一応原作は読んでストーリーは知っていたけど、やはりアニメはアニメーションならではの演出で原作以上に感動的なストーリーとして描かれていたなと思うし、それだけに延期で視聴者が離れてしまったというのが実に勿体ないポイントだ。ゾンビ禍をディストピアとして捉えるのではなく、「やりたいことをやれる世界」というユートピアとして描いた本作は、昨今のゾンビパニックものの中でも異色な作品であると同時に、私たちの社会が「集団的幸福」の時代から「個人的幸福」の時代へと移り変わっている、正にその過渡期であるということを教えてくれるような作品だった。

 

20世紀の段階では、まだ日本は集団的幸福、つまり「みんなでテレビを見る」「みんなで万博に行く」「社員旅行で各地を旅する」といった具合に集団生活に即した娯楽がメインであり、それに乗っかって日々真面目に仕事をしていれば豊かな暮らしと幸せが得られると考えられていた。

しかし、経済がすっかり低迷した現代においては国が私たち国民の豊かさを保障してくれるとはお世辞にも言えなくなったし、会社で真面目に働いていれば幸福になれる訳でもなくなった。むしろ、これまでのような集団的幸福というものが私たちをゾンビにしてしまうのではないか?ということに気づく人が徐々に増えて来て、その結果今の日本には多種多様な娯楽やアートが増えたのではないかと私は考えているのだ。

年配の人から見ると今の社会は昔に比べると団結力もないし、人同士の交流がない分断した社会だと嘆いている人もいるかもしれないが、私に言わせるとこの分断というか孤立が進む今の日本は決してネガティブ一辺倒で語ってはいけないと思うのだ。勿論、孤立・分断によって苦しんでいる人がいるのはわかるけど、一方で集団から離れて個人として考える機会が増えたことで新たな可能性も導き出せるようになったと思うし、それによって「いや、昔の方が異常だったのでは?」と考えられる人も出て来たはずだ。11月に映画館で観た「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は集団的幸福のために「個」が犠牲にされる物語だったし、20世紀以前の社会も決して幸福ではなかった。そういうことを今の令和の時代で描けるようになったのは、今の我々が「集団的幸福」というものの異常性に気づき始めたということを表している。

 

国や経済が我々の幸福を保障しなくなったものの、社会や経済を動かす上では私たちはこれまで通り仕事をしなくてはならないし、自分の時間を確保するのもやはり難しいだろう。価値観が変わって来たとはいえ、結局「社会の歯車」として経済を動かさないことには豊かさは享受出来ないし、欲しいものだって買えない。そういうジレンマを抱えながらも「私たちだって個人的幸福を追求して良いのだ!」ということをこの「ゾン100」は訴えかけていた。まぁ、本作を見たからと言って個人的幸福を掴める訳ではないし、本作にそれを掴むためのヒントがあると断言は出来ないが、ともかく私たちはこれまで通りの社会構造を維持しながらも、自分の好きなことを追求出来るような世の中に移行していかなければならない。それが今後の日本全体の課題なのではないかと考えた次第である。

 

以上で「ゾン100」の感想を終えるが、原作はこの後は旅行モノに近いやや単調なストーリーになるため、個人的にはアニメで続編はやらない方が賢明だと思っている。原作も途中で読むのをやめていたので、頃合いを見つけて続きを読み進めていくとするか。

【最終回】戦の支度&総評【ダークギャザリング #25】

半年にわたる「ダークギャザリング」の感想・解説もひとまずの終わりを迎えます!

 

「闇に集う」

最終回は原作33話「凶ツ星」の後半から34話「上洛」までの映像化。学校の休校が決定し夜宵は当初の予定通り京都行きを計画。それに伴い愛依の命を奪おうとする神様を殺すための作戦「弑逆桔梗作戦」を立案し、螢太朗や詠子も来たるべき決戦に備えて各々準備する…というのが今回のあらすじだ。

まだ原作が完結していないため京都行き直前で最終回を迎えることになったのは何とももどかしい話だが、原作の最新話はちょうど神様とのバトルの真っ最中のため、ここで一区切りするのは至極妥当だろう。サブタイトルを原作とは違う「闇に集う」というタイトルにし、原作の34話の時点で描写されていなかった「なり代わり陣営」のシーンが追加されたのも、今回が最終回であることを意識した演出でこれから先の京都戦に期待が持てる感じになっていた。

 

弑逆桔梗作戦

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

今回夜宵の口から語られた「弑逆桔梗作戦」を改めておさらいしよう。この作戦のメインは京都の街全体にかけた呪いを形代経由で神様に流し込むというもので、そのためにまず五か所の心霊スポットを攻略する。

 

①F公園(京都市北区船岡山公園

首塚大明神(京都市西京区※1

③Tトンネル(乙訓郡天王山トンネル

④Aダム(宇治市天ヶ瀬ダム

国道1号線OW駅~OT駅間(大津市:追分駅~大谷駅※1

注:カッコ内はモデルとなった実在の場所

この五か所を攻略し「軍曹」「花魁」を除く卒業生を配置し五芒星の陣を敷く。そして、京都の土を元にした「京都の街の形代」と特殊な紋を刻んだ「神様の形代」を用意。H城址の「童子」による消えない傷の呪いを利用して神様に形代と同じ紋様を刻み込み、京都の街全体にかけた呪いを「京都の街の形代→神様の形代→神様」という流れで流す。その呪いに加えて「軍曹」「花魁」という相手を衰弱させることに特化した二体で更に神様を衰弱させ、その間に配置した卒業生五体を回収。回収した卒業生で弱り切った神様を叩きのめすという、オーバーキルも辞さない勢いの作戦だ。

 

そしてこの先の京都戦はタイムアタック要素も含まれており、心霊スポット攻略に迅速さも求められるのがこれまでの戦いと違うポイントとして挙げられるだろう。神様が愛依に見せた夢を見た感じ、あの夢は彼女が現世に執着しないよう絶望の淵へと追い込むために見せたものだろうし、彼女に残された猶予がもう長くないことを示していた。だからあまり悠長にしていると作戦決行前に愛依が召されてしまうことになるから、そこも考慮して螢太朗は神様との戦いは5月12日までに決着させるよう計画立てている。京都に到着するのが5月8日だからわずか5日間で「弑逆桔梗作戦」を遂行・完了するというハードスケジュールを彼らはこなすことになるのだ。

 

※1:アニメでは「K塚大明神」「国道OW駅~OT駅間」と記載されている。

 

京都戦、これまでの戦いとの違い

京都に向かう前、夜宵はこの先の京都戦が「正真正銘命がけの戦い」になることを述べ、「自分自身の事を大切に考えてその上で決めてほしい」と螢太朗と詠子に慎重に考えた上での参加を促していた。もう散々死にかけるような体験をしているのに何故今更そんな忠告をするのか…と疑問に思った方もいただろう。

何故夜宵は改まってあんなことを言ったのか私なりに考えたのだが、それは京都での戦いはこれまでの戦いとは質が異なり「利他の戦い」になるからだと思う。これまでの戦いは夜宵にとっては母親の魂を連れ戻すため、螢太朗・詠子にとっては手の呪いを解くためという自分にとって利益がある戦いだったのに対し、京都での戦いは神様に狙われた女子高生を救うという夜宵たちにとっては何の利益もないどころか、むしろ甚大な被害に遭うリスクの方が圧倒的に高い戦いだ。しかも助ける相手は会ってまだ日が浅い「袖振り合うも他生の縁」程度の付き合いなのだから、助ける義理がある訳でもない。関わって死んでしまったら本来の目的が達成出来なくなるのだからスルーした方が賢明だと思った方もいただろう。

 

そんなリスクばかりで得することがゼロに等しいこの戦いに夜宵たちが参戦するのは、9話の時に大見得切って神様に宣戦布告したから後には引けないというのも多少はあるかもしれないが、京都戦は実利面ではなく夜宵たちの行動理念や人間としての尊厳を守るための戦いであるという点が重要になってくる。

神というのは言わずもがな、人間の運命を司る存在だ。愛依もその例に漏れずこのままだと神の花嫁という名目で生贄となってしまうし、夜宵の考えでは彼女を見殺しにすることは「人間は絶対的存在が定めた運命から逃れられない」ということを認めてしまうことになる。そしてそれを認めるということは、母親が空亡に連れ去られたことも運命として受け入れなければならないということになり、ライフワークとして定着していた悪霊狩りも間違った行いということになるのだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

つまり、夜宵にとって「神代愛依を救わない」という選択肢はあり得ない。愛依を見殺しにした時点で夜宵のこれまでの行い全てが否定されることになり、それは夜宵自身のアイデンティティさえも否定されることになる。私たちは神や仏といった絶対的存在にすがる弱き者だけど、だからと言って神仏の奴隷になる必要はない。人間自身が運命を決めて切り開く権利はあるしそれは可能であることを証明するためにも、夜宵はこの戦いから逃れる訳にはいかない。

螢太朗や詠子も言葉にはしていないけど、この戦いが今を生きる人間の尊厳を守るためにも参戦すべき戦であることは心の内できっと理解しているだろう。無限修復人形や卒業生展開セットは、そんな生きた人間の知恵と意地が詰まっている…と考えるのは少々大袈裟かもしれないが、いずれにせよ消極的な参戦でないことだけは確かだ。

 

総評

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

ここからは総評ということで、何から評価していこうかなと色々考えてまず一番目に言いたいこととして浮かんだのは、本作は珍しいことにバカが物語を動かさないホラーなのだ。

 

ホラー映画とかドラマなんかを見ていると、行かなくて良い心霊スポットに行ったり、わざわざ危ない呪いの儀式をやってヤバい霊を呼び出したりと、基本的にバカな人間が怪異を発生させ、そしてパニックを起こして余計に事態を悪化させるというのが定番のプロットになる。そういうB級ホラーは枚挙に暇がないし、ホラー作品はバカな人間を配置することで成立していると言っても過言ではないと思うのだ。※2

しかし本作の主要人物は全然バカではない。夜宵は小学3年生とは思えない知能の持ち主だし、螢太朗は大学入試のトップをとった秀才、詠子は狂気とも言える発想でこれまで夜宵や螢太朗の窮地を救ってきたのだから、そこがこれまでのホラー作品と一線を画すポイントだと思うし、秀才・天才が敢えてヤバい心霊スポットに挑むからこそ物語に締まりが出てくる。バカな奴が右往左往した挙句怪異によって呪い殺されるという陳腐でストレスさえ感じてしまうような従来のホラー作品は、恐怖は工夫次第で何とか演出出来たとしても物語自体に旨味を感じにくかった。その点本作は単に怖いだけではなく物語としても充実度の高い作品だし、登場する霊も奥行きや背景描写があって実に魅力的だった。

 

特に2クール目に入ってからは物語の密度も高くなって、それに伴い私の感想・解説もよりマニアックでディープなものになったのではないかと思う(それだけに果たして私の言いたいことが伝わったかどうか心配になった回もあるのだけど…)。

そしてマニアックになったということはそれだけ本作が先行作品やモデルとなる人物・怪異などをよく調べた上で作品に落とし込んでいることでもあり、民俗学・心理学・体癖といったあらゆる観点から見ても面白い作品だったと評価したい。原作者の近藤氏のツイートを度々読んでいたけど、ストーリーは前以て計画的に決めたという感じではなく、〆切に追われながら常にお尻に火が付いた状態で描いていたみたいだし、そう考えると近藤氏は秀才というよりは天才肌の漫画家なのかもね。

 

※2:例えば、本作と同様の悪霊バトルを描いた映画「貞子 VS 伽椰子」では、登場人物の一人が警告されたにもかかわらず伽椰子の家に入って呪われてしまう。

 

・二面性としての「ダークギャザリング」(あの世があるからこの世が成り立つ)

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

さて、本作「ダークギャザリング」を初回から最終回まで見て一貫して作中で描かれているものとして挙げられるのが二面性である。

仏教では諸行無常という概念があり、この世界は絶えず動いて不変的なものは存在しないと主張している。しかし一方で祟りや怨念といった何百年・何千年経っても消えない感情や思想があるのも事実であり、本作で取り上げられた将門塚や四谷怪談でお馴染みの「お岩さん」なんかは正にその代表例だ。禊ぎ・祓いといった災厄を流す手段はあるけれども、その方法が通用しないケースなどこの世界にはいくらでもあるし、私たちの世界には対立する概念・思想が至る所に見受けられる。

 

本作の場合だと何と言っても夜宵のキャラ設定に二面性が如実に表れており、慈悲深いお地蔵様のような面もあれば、容赦なく悪霊を狩って時には罰するという閻魔大王さながらの一面もある。螢太朗だってオカルト嫌いでありながら無意識はオカルトを求めているという二面性を初回から示していたし、詠子の10種体癖ならではの博愛精神が光と闇の両面から描かれていたのは16話で解説した通りである。

二面性というのは不思議なもので、一見すると矛盾しているにもかかわらず同居して反発することがほとんどない。好きで好きでたまらないという感情と、八つ裂きにしても飽き足りないほど憎いという感情が入り混じることはよくあるし、最初は大好きだと思っていた人物が何かの弾みで大嫌いになるという経験をした人もいるだろう。二面性とは表裏一体であって、それは本作における空亡にも当てはまることなのだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

言うまでもなく空亡は夜宵の両親を死に至らしめ、母親の魂を連れ去った本作における絶対的な悪である。これは否定しようがない事実だけど、一方で空亡の存在が夜宵を生かしている面もあると私は思っている。

こんなことを言ったら夜宵に半殺しにされるかもしれないけど、もし夜宵が空亡の存在を感知出来なかったとしたらどうだろうか?両親の死は不幸な事故として受け入れるしかないし、墓前で手を合わせて供養するという程度のことしか出来ないから、精神的に立ち直れないまま成長することになっていたのではないかと予想がつく。彼女が今こうして生き生きと過ごせているのは、空亡という明確な復讐相手がいるからであって、空亡がいるからこそ夜宵は「心が死んだ人間」にならずに済んでいると言えるのだ。

 

一見すると空亡や怨霊をはじめとする死後の世界(幽世)は忌まわしく映ってしまうものだが、私たちの精神を支える上では実は必要不可欠な存在・概念である。現世で裁かれなかった犯罪者に対して「あの人は死後必ず裁かれる」とある程度溜飲を下げることが出来るのは死後の世界が存在するからであって、もし死後の世界が存在せず今生きているこの世界しかないという認識が広まっていたら、この社会はもっと刹那的で殺伐とした社会になっていたに違いない。

生前の善行が認められて天国に行けないのなら、真面目に働く意味がないと思って堕落する人間が出てくるだろうし、地獄という概念がなかったら今相手が生きている間に裁きを下そうと思って私刑に走る人もきっと現れるだろう。現世と幽世という二つの世界を我々が認知し、それを信じている人が大多数を占めているからこそ、この社会は均衡を保てているのではないだろうか?

 

象徴解釈の面白さ

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

これは2クール目に突入してから顕著になった部分だけど、本作では至る所に物語の象徴となるアイテムや舞台があって、それを読み解くのも楽しみの一つだった。

 

象徴解釈というのはオカルトを読み解く上である意味必須となるスキルだけど、例えば臨死体験でよく見られるお花畑や川の風景は、あの世とこの世の境界と解釈することで私たち人間の死後の世界に対する共通認識を読み解くことが出来るし、そうやって様々なアイテムを解釈することで私たち人間の精神世界の複雑さや幅広さを知ることが出来ると言えよう。

これまでの感想記事で言及しなかったが、そもそも幽霊が社会的マイノリティーの象徴であり、男性の幽霊よりも女性の幽霊が圧倒的に多いのはそれだけ社会が男性優位であることを示している。だから「ダークギャザリング」における幽霊の読み解きというのは社会的マイノリティーの読み解きをしているのと同質のものだと個人的には思うし、特に旧I水門戦でそれが明確に描かれていたのは記憶に新しい。

 

さいごに

以上で「ダークギャザリング」の感想・解説を終える。この後の京都戦についてネタバレなしで感想を一言述べるなら、色々と番狂わせ的な展開があったり、これまでとは明らかに種類が異なる敵が現れて、また一味違うパートになってますよ。そして京都と言えばこの人!という人物も絡んで来るので気になる方は是非原作を読んでもらいたい。

さて、もうこれで言いたいことは言いきったと思うが、もしかするとまた加筆することがあるかもしれません。というのも、ここの所仕事が忙しくてじっくり考える暇がなく、総評も書いてはみたものの若干消化不良気味という感じですかね。アンファルみたいに明確な元ネタがない分、読み解きや感想執筆に苦労した回もありましたが何はともあれ、京都編のアニメ化を気長に待つとしましょう。(ここまで映像化して続編をやらないというのもねぇ)

取り込まれ、染められて【ダークギャザリング #24】

学校の悪夢と言えば、「リトルナイトメア2」の学校ステージですよ。

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「ダークギャザリング」の先生の霊も色々と読み取り甲斐があったけど、リトルナイトメアの先生もプロの方が見ると色々読み取れるキャラみたいで興味深いんですよねこれが。

 

学校の怪談 / 悪夢」

今回は前回からの続き。前半は学校での先生の悪霊との戦いが描かれ、後半はドロシーと夜宵の対話がメインとなるパートだった。

 

tariho10281.hatenablog.com

学校編については前回の記事で8割くらいは感想・解説を述べたので、今回は残りの2割程度の感想しか語れないが、その2割について話す前にちょっと寄り道というか前回述べたことの補足をしておきたい。

 

前回私はこの先生の悪霊は生徒に対する怨みだけでなく、生徒に対する恐れも抱いているとカラスを用いた呪いの手段から推察したが、その考えを後押しするのが今回描写された先生の口腔内にあったロウソクである。

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

手持ちのロウソクだけでなく口の中にまでロウソクを仕込んでいたというこの二段仕込みは、自分から鬼ごっこを仕掛けておきながら生徒をいつでも殺せるようコッソリ準備していたという大人のズルさを象徴しているという感じではなく、むしろ予測不能な子供に対する恐怖心から、保険をかけて口の中にもロウソクを忍ばせていたという風に私には感じられた。憎悪の部分はあくまでもドロシーの策略によって増幅させられただけであって、本質的な部分はこの口の中のロウソクが象徴するように、「一歩でも私に近づいて来たら殺す」というような生徒に対する警戒心や敵愾心なのではないだろうか?

 

ある意味「食育」に貢献した先生

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

これまで夜宵たちのボディーガードとして霊を喰らいまくっていたドクロ頭の霊が今回の一件によって霊としてレベルアップを果たし、まだ完全体でないにもかかわらず卒業生に勝るとも劣らない威圧感を放ったことから「過渡期の御霊」と呼ばれることになった。彼が収容されているグレイの宇宙人人形が象徴するように、未知の可能性を秘めたこの霊の活躍は今後原作で描かれていくことになるのだが、それにしてもこの霊が成長することとなった場が学校であり、先生の魂(と言っても本体ではないのだけど)を喰らって強化されたというのは、何だかブラックジョークみたいでスパイスの効いたオチである。

 

生前は受け持ったクラスの生徒にいじめられ、死後はドロシーによって悪霊化されるといった散々な目に遭い先生は先生としての尊厳が踏みにじられる羽目になったが、最終的に自らの魂の一部が喰われたことで「御霊」の強化に貢献したのだから、意図せず「御霊」の食育に貢献したと言えるのかもしれない。

まぁ厳密に言うと「御霊」は成長したというよりは失われた記憶・能力の一部を取り戻した(=回帰した)という感じだし、そもそも食育というのは様々な経験を通じて食の知識と正しい食生活を送れる人を育む取り組みなので、用語としては使い方が間違っているのだけど、食べることで育まれたという点では「御霊」の成長も広い意味で食育と言っても良いよね?ダメかな?

 

自分の色が誰かの色になる恐怖(なり代わりの本質とは?)

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

今回の学校編は悪霊化した先生の霊との戦いを通じて、クラスの委員長である女子生徒が詠子と同じ「恐怖を愛する仲間」として引き込まれたり、夜宵が「なり代わり陣営」の目的を暴くべく「なり代わり」のフリをして入り込んだりと、それぞれが所属する陣営の中に引きこんだり入り込むということが一つのテーマとして描かれていたように思う。これは学校という場を語る上でも実は重要なポイントではないかと思うのだ。

 

基本的に私たちは生まれ落ちた瞬間から社会という大きな枠組みの中に所属することになり、家族の一員・幼稚園(保育所)の園児を経て小学校へ入学する。この辺りから自分の明確な意思で所属するクラブだったり友達を選択していく。つまり、自分がどの陣営に所属するのかを選択していき、その属した場所や集団の影響を受けて人格というものが形成されていく。勿論、個人個人が本来持っている資質や性格もあるので、所属する集団の影響を全て受けるということはないだろう。とはいえ、集団や陣営に属するというのは自分の人生の一部をそこに委ねることであり、それで運命が大きく変わった人もいる。本作における先生の霊は正にその良い例で、受け持つクラスが違っていたら彼の教師生命ももっと健やかで長いものになっていただろうし、螢太朗だって夜宵や詠子というグループに属さなければ、また違った人生が待っていただろう。それだけ集団や組織が個人に与える影響というものは大きいのである。

こういうことは普段あまり意識しないものだが、教育の場である学校も例外ではない。学校によっては教育方針や校風も全然違ってくるし、属した場所によって私たちの思想というものも左右される。一見すると客観的に物事を判断しているような人も、実は所属している組織の影響を受けた考えをもとに判断している、なんてことがあるのだから、自分が主観的・客観的に判断していると思っている人ほど、実は過去(或いは現在)所属していた組織・集団の影響を受けていることに気づかないものだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

自分の持ち味だと思っていた色が、実は誰かによって染め上げられた色だった。これって当たり前の話だけど、見ようによっては下手なホラー作品以上に怖い話ではないだろうか。自分の意志で動いているようで、その実は誰かの思惑や思想によって動かされているというのは、本作における「なり代わり陣営」を彷彿とさせるし、オズワルドやドロシーといった「なり代わり陣営」は相手に勘付かれることなく相手を自分たちの色に染め上げるようなそんな集団だと考えれば、彼らのヤバさもより真に迫るものになるだろう。

自分の肉体が別の魂によってダークな色に染まってしまう、本作の「なり代わり」はある意味私たちの現実社会で既に昔から起こっていることだ。戦争なんか特にそれが如実に表れるケースであり、政治家は国民を従順な戦士として染め上げることに心血を注いでいた。第二次世界大戦における大東亜共栄圏構想も、それぞれの国が持つ色を自国の色に染め上げようとする暴力的構想だったし、「なり代わり」というのは単に入れ替わるだけではなく、自分の色が奪われ無色になるという恐怖でもあるのだ。

 

「なり代わり陣営」が空亡を復活させようとする目的はまだハッキリとはわからないが、ドロシーの話を聞く感じだとあの世とこの世がひっくり返るような、それこそ生きた人間が死者となり、死者が生きた人間になるレベルの計画をしているように思えてならない。空亡はさしずめ、人間世界における核兵器みたいなものだろうか。この先の「なり代わり陣営」との戦いは国盗り物語の様相になっていくのかもしれない。

 

さいごに

ということで今回は「なり代わり陣営」の存在から、フィクションではなく現実社会における「なり代わり」、すなわち自分の思想や言動は誰かによって染められたものであるという可能性とその恐ろしさについて言及した。これはアイデンティティの問題にもつながってくる心理学的に見てもなかなか深いテーマだ。

自分の思想や言動が誰かに染められたものだとしたら、では本当の自分とは一体何なのか?自分というのは一つの塊のようなものなのか?いやそもそも本当の自分なんてものがあるのだろうか?こういった問いについてまた何かの機会に語ることが出来たら良いなと思っている。

 

本作では「なり代わり」は実際にある現象として描かれているが、「なり代わり」というのは正直な所、この世界に散らばっている思想の一つに過ぎない。要は自分を乗っ取るもの・操るものをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかの違いであり、ポジティブに解釈するならその存在は自分を正しい方向へと導いてくれる守護霊や指導霊・先祖霊となり、ネガティブに解釈すれば自分の身体を意のままに操る「なり代わり」の悪霊となるのだ。私たちは結果からその正体を判断するしかないが、いずれにせよ私たちは自分の肉体の内側に自分の意志とは違う別の「何か」を感知してきた。その「何か」をどう表現するかで、この世界の見え方は全く違ったものになると言えるだろう。

 

蛇足ではあるが、最後に「なり代わり」を描いた他のホラーアニメを紹介しておこう。

・「学校の怪談」第7話「鏡に盗まれた魂!! うつしみ」

www.b-ch.com

前回の感想記事で紹介したアニメ「学校の怪談」。7話に登場する鏡の怪異「うつしみ」のエピソードは「ダークギャザリング」よりもダイレクトに「なり代わり」の恐怖を描いている。テイストとしては若干ゾンビパニック的な要素があって、そこも面白い。

 

・「墓場鬼太郎」第11話「アホな男」

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ゲゲゲの鬼太郎」の原型となった「墓場鬼太郎」からは最終回の「アホな男」を紹介しよう。これも「なり代わり」を描いたエピソードだけど、この物語は「なり代わり」を通して人間にとっての本当の幸福とは何かを視聴者に訴えかけた秀作である。サブタイトルの「アホな男」とは一体誰に向けられた言葉なのか?是非ともその目で確かめてもらいたい。

 

さて、アニメ「ダークギャザリング」も次回でひとまずの幕引きとなる。原作は当然ながらまだ完結してないけど、25話までの総評とこの先の原作展開について一部語る感じで本作の感想・解説を締めくくろうと考えている所だ。