タリホーです。

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この殺人劇には名優が必要だった【映画「ある閉ざされた雪の山荘で」レビュー】(ネタバレなし)

どうも、タリホーです。

映画「ある閉ざされた雪の山荘で」観て来ましたよ~。

今年は今回の映画に加えて、3月には映画「変な家」が公開されるし、それから綾辻行人氏の十角館の殺人が実写化されるという具合に、家や館をお題にしたミステリの映像化がちょっとしたトレンドになっているなと感じるがそれはともかく。早速レビューしていこうと思うが、まずは作品概要から。

 

作品概要

ある閉ざされた雪の山荘で (講談社文庫)

今回の映画は1992年に刊行された東野圭吾氏の同名小説が原作。

劇団「水許」の次回作公演のオーディションに合格した男女7人が、飛騨のとある山荘で舞台稽古を行う。演出家・東郷陣平の次回作のテーマは「吹雪の山荘」ということで、記録的な大雪によって外部との連絡がとれず孤立した山荘内で殺人が起こるという設定のもと、7人のメンバーは山荘内で舞台稽古を行うが、翌朝メンバーの一人が姿を消し、"死体"の状況を説明するメモだけが現場に残されていた。犯人役が誰なのかメンバーは推理を始めるなかでとある疑問が生じる。果たしてこれは本当に次回公演の稽古なのか…?

 

以上が本作のあらすじとなる。あらすじを読んでもわかるように、本作はミステリとしては特殊なクローズドサークルものであり、実際は雪も降っておらず外部との連絡が可能な山荘内で、7人のメンバーにだけ設定・制約が課された状態でクローズドサークルが成立しているという虚構性を前面に出したプロットになっているのが注目ポイントだ。嘘くさいシチュエーションであるとはいえ、これが舞台役者の稽古(お芝居)であるという点や、舞台設定以外は作中の登場人物の人間関係がお芝居に反映されるなど、随所に現実が盛り込まれて虚構と現実が入り混じった状態で物語が進展していく所に本作の面白さがある。

 

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映画では主役の探偵役を決めるための最終オーディションとしてこの舞台稽古が設定されたという形で改変されており、原作が「吹雪の山荘」という設定をもとにメンバーが「この状況だとこういう風に動くよね」という感じで稽古を進めていくため、メタ的な会話が印象に残ったのに対し、映画は各メンバーの芝居に対する価値観だったり競争心みたいなものが強調されている。これは映画の結末にも関係するポイントになるので詳しくは後ほど言及していきたい。

 

30年以上前の原作を何故今更映像化したのか?

まずハッキリ言っておくが、

本作は重厚なミステリを期待して観に行くと凄くガッカリする作品だ。

そもそも原作が30年以上前の作品なので、今から見るとトリック自体が古くて目新しいものではないし、本作と同じトリックを用いた作品でもっと面白い作品はこの原作が発表されて以降、次々と生み出されている。しかも、原作のトリックは小説という媒体だからこそ通用するトリックなので、今回の映像化ではそのサプライズすらも殺されている(監視カメラを出した時点で真相に察しがついた人もいると思うし…)のだから、原作未読の観客が本作に低評価を下すのも当然である。それに物語も劇団員同士の確執や、役の奪い合いというベタな人間模様が描かれる程度で深い人間ドラマがあるとかそういうこともないので、その点も東野氏の他作品と比べると見劣りする部分ではないだろうか。

 

それと本作の要であるクローズドサークルとしての制約、つまり外部との連絡をした時点で次回公演の役から降ろされるという「縛り」も、原作が発表された1990年代ならばともかく現代だと「役者として大成しなくても身の振り方ならいくらでもあるでしょ?」というツッコミが出来てしまうし、現に劇中で重岡大毅さん演じる久我は兼業で料理店で仕事をしており、フランベで肉を焼くといった本格的な調理技術を持った人物として描写されているので、役者以外で生きていく道がないという逼迫感に欠けるというのも、今回の映画のミステリとしての問題点だと思う。まぁこの点に関しては原作にも同じことが言えるので特別映画だけが悪い訳ではないけどね。

 

以上のように、本作はミステリ映画としてはガッカリする作品なのは間違いないが、だからと言って駄作として切り捨てるような作品ではないと正直思っていて、そう思うのは本作が原作の発表から30年以上経った今になって映画化されたことと関係してくる。

言うまでもなく本作はトリックも作中の人間ドラマも、東野作品としては凡庸というかベタな内容で、それを抜き出した所で正直作品としての魅力に欠ける。同じ著者の探偵ガリレオシリーズと比べれば雲泥の差だ。

 

じゃあ結局本作を支えるものは何かという話になるが、それは劇中の7人の舞台役者であり、彼らの演技によってこの「ある閉ざされた雪の山荘で」が成立していると言えよう。舞台役者を演じる、しかも殺人劇を演じるということは「演技の演技」という高度なテクニックが求められる訳であり、それが出来る役者でないと当然ながら本作は成立しないのだ。

そう考えれば、本作がこれまで映像化されなかったのは原作のトリックが映像化に適したものでないということに加えて、この作品を成立させるだけの演技力のある若手役者が2、30年前の芸能界にはいなかったからではないか?という仮説が立てられる。あいにく私はドラマとか映画・演劇に明るい人間ではないのでこの辺りのことはあまり偉そうに解説出来ないけど、私のつたない芸能の知識・偏見を元に考えると昔は大御所と呼ばれるベテラン役者は多くても、今みたいに充実した演技の出来る若手役者って実はそれほどいなかったんじゃないかな?と思うのだ。

 

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ネームバリューのある役者を起用することは映画の客集めとして古今東西、いかなるジャンルの作品でも用いられる手段だが、本作では単に名がある役者を使えば良い作品ではないし、むしろ脚本がベタでシンプルだからこそ確かな演技力がないと見応えが生まれない。

雨宮を演じた戸塚純貴さんは昨年日テレで放送されたドラマ「だが、情熱はある」でオードリーの春日さんを好演したことが記憶に新しいし、田所を演じた岡山天音さんはバイプレイヤーとして抜群の認知度と実力を備えた方だ。そして本多を演じた間宮祥太朗さんは叩き上げの実力派俳優としてドラマだけでなくバラエティでも活躍をしているし、私も「ニーチェ先生」で間宮さんを知ってからドハマりして追っているので、俳優としての素晴らしさは一般の人以上に知っているつもりだ。

 

一般的に実力あるキャストを揃えると役者同士の競演が作品のアピールポイントとなる。文字通り俳優陣が競い合うように演技をして観客に自分の魅力・実力をアピールすることで相乗効果をもたらした作品はいくつもあるが、本作の場合はミステリとしての性質上それが出来ない、つまり何も考えずに競演をするとミステリとして破綻してしまう作品なので、「オレがオレが!」と前に出るのではなく役割を把握した上で時には一歩後ろに引き下がるような気配りもしないといけない繊細さも必要とされる。だからこの作品において重要なのは「競演」ではなく「共演」であり、これこそが映画オリジナルの結末につながるポイントであると同時に本作をより面白く鑑賞する上で必要な視点となるのだ。

 

ミステリ作品を(真相を踏まえた上で)二回目・三回目と鑑賞する場合、大抵は「ああ、ここにヒントがあったのか!」と劇中に散りばめられた伏線や手がかりを発見するという楽しみ方が出来るけど、本作の場合そういった妙味はなく、真相を踏まえた上での各メンバーの動向や反応を観察することに本作の面白さがある。山荘に到着した際の各メンバーの動きや言動、夕食時の会話など、細かい動作を観察することで原作とはまた違う各メンバーの性格や嗜好なんかがうかがえるし、本作のトリックを知った上で鑑賞すると、ちょっとした会話における間のとり方や台詞にもある種の気配り・配慮があると言えるだろう。

 

※事件の真相を踏まえると、映画の俯瞰視点の演出は(個人的には)ミステリとしてはアンフェアだったのではないかな~?と思っている。

 

さいごに

ということで映画のレビューは以上となるが、原作が30年以上前の作品ということもあってトリックに斬新さも意外性もないのは否めないし、本作を単純に本格ミステリとして評価すると実につまらない、原作で久我が評した「茶番劇」であることは確かだ。とはいえ、東野圭吾の原作小説の映像化としてはこれ以上ないほど最良の映像化だったことは間違いないし、名実ともに世間に知られた俳優陣の「共演」によって鑑賞に堪えうる作品になっていたことは評価しなければならない。本当はパンフレットで監督や脚本のインタビューとか読めたら今回の映画化における制作側の背景を加味した感想が語れたのだけど、パンフレットが売り切れておりそれが出来なかったのはちょっと残念である。

 

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ちなみに、今回の映画における「競演」から「共演」というテーマは間宮さんの役者人生とも関わるものだったので、個人的には感慨深いテーマだったし、このテーマの作品に私の推しを起用したプロデューサーの方に感謝を送りたい。間宮さんも10代の頃は共演者を敵、つまり競い合う相手として見ていたのを玉置怜央さんとの共演で考えを改めたというエピソードがあるからね。