タリホーです。

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【最終回】戦の支度&総評【ダークギャザリング #25】

半年にわたる「ダークギャザリング」の感想・解説もひとまずの終わりを迎えます!

 

「闇に集う」

最終回は原作33話「凶ツ星」の後半から34話「上洛」までの映像化。学校の休校が決定し夜宵は当初の予定通り京都行きを計画。それに伴い愛依の命を奪おうとする神様を殺すための作戦「弑逆桔梗作戦」を立案し、螢太朗や詠子も来たるべき決戦に備えて各々準備する…というのが今回のあらすじだ。

まだ原作が完結していないため京都行き直前で最終回を迎えることになったのは何とももどかしい話だが、原作の最新話はちょうど神様とのバトルの真っ最中のため、ここで一区切りするのは至極妥当だろう。サブタイトルを原作とは違う「闇に集う」というタイトルにし、原作の34話の時点で描写されていなかった「なり代わり陣営」のシーンが追加されたのも、今回が最終回であることを意識した演出でこれから先の京都戦に期待が持てる感じになっていた。

 

弑逆桔梗作戦

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

今回夜宵の口から語られた「弑逆桔梗作戦」を改めておさらいしよう。この作戦のメインは京都の街全体にかけた呪いを形代経由で神様に流し込むというもので、そのためにまず五か所の心霊スポットを攻略する。

 

①F公園(京都市北区船岡山公園

首塚大明神(京都市西京区※1

③Tトンネル(乙訓郡天王山トンネル

④Aダム(宇治市天ヶ瀬ダム

国道1号線OW駅~OT駅間(大津市:追分駅~大谷駅※1

注:カッコ内はモデルとなった実在の場所

この五か所を攻略し「軍曹」「花魁」を除く卒業生を配置し五芒星の陣を敷く。そして、京都の土を元にした「京都の街の形代」と特殊な紋を刻んだ「神様の形代」を用意。H城址の「童子」による消えない傷の呪いを利用して神様に形代と同じ紋様を刻み込み、京都の街全体にかけた呪いを「京都の街の形代→神様の形代→神様」という流れで流す。その呪いに加えて「軍曹」「花魁」という相手を衰弱させることに特化した二体で更に神様を衰弱させ、その間に配置した卒業生五体を回収。回収した卒業生で弱り切った神様を叩きのめすという、オーバーキルも辞さない勢いの作戦だ。

 

そしてこの先の京都戦はタイムアタック要素も含まれており、心霊スポット攻略に迅速さも求められるのがこれまでの戦いと違うポイントとして挙げられるだろう。神様が愛依に見せた夢を見た感じ、あの夢は彼女が現世に執着しないよう絶望の淵へと追い込むために見せたものだろうし、彼女に残された猶予がもう長くないことを示していた。だからあまり悠長にしていると作戦決行前に愛依が召されてしまうことになるから、そこも考慮して螢太朗は神様との戦いは5月12日までに決着させるよう計画立てている。京都に到着するのが5月8日だからわずか5日間で「弑逆桔梗作戦」を遂行・完了するというハードスケジュールを彼らはこなすことになるのだ。

 

※1:アニメでは「K塚大明神」「国道OW駅~OT駅間」と記載されている。

 

京都戦、これまでの戦いとの違い

京都に向かう前、夜宵はこの先の京都戦が「正真正銘命がけの戦い」になることを述べ、「自分自身の事を大切に考えてその上で決めてほしい」と螢太朗と詠子に慎重に考えた上での参加を促していた。もう散々死にかけるような体験をしているのに何故今更そんな忠告をするのか…と疑問に思った方もいただろう。

何故夜宵は改まってあんなことを言ったのか私なりに考えたのだが、それは京都での戦いはこれまでの戦いとは質が異なり「利他の戦い」になるからだと思う。これまでの戦いは夜宵にとっては母親の魂を連れ戻すため、螢太朗・詠子にとっては手の呪いを解くためという自分にとって利益がある戦いだったのに対し、京都での戦いは神様に狙われた女子高生を救うという夜宵たちにとっては何の利益もないどころか、むしろ甚大な被害に遭うリスクの方が圧倒的に高い戦いだ。しかも助ける相手は会ってまだ日が浅い「袖振り合うも他生の縁」程度の付き合いなのだから、助ける義理がある訳でもない。関わって死んでしまったら本来の目的が達成出来なくなるのだからスルーした方が賢明だと思った方もいただろう。

 

そんなリスクばかりで得することがゼロに等しいこの戦いに夜宵たちが参戦するのは、9話の時に大見得切って神様に宣戦布告したから後には引けないというのも多少はあるかもしれないが、京都戦は実利面ではなく夜宵たちの行動理念や人間としての尊厳を守るための戦いであるという点が重要になってくる。

神というのは言わずもがな、人間の運命を司る存在だ。愛依もその例に漏れずこのままだと神の花嫁という名目で生贄となってしまうし、夜宵の考えでは彼女を見殺しにすることは「人間は絶対的存在が定めた運命から逃れられない」ということを認めてしまうことになる。そしてそれを認めるということは、母親が空亡に連れ去られたことも運命として受け入れなければならないということになり、ライフワークとして定着していた悪霊狩りも間違った行いということになるのだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

つまり、夜宵にとって「神代愛依を救わない」という選択肢はあり得ない。愛依を見殺しにした時点で夜宵のこれまでの行い全てが否定されることになり、それは夜宵自身のアイデンティティさえも否定されることになる。私たちは神や仏といった絶対的存在にすがる弱き者だけど、だからと言って神仏の奴隷になる必要はない。人間自身が運命を決めて切り開く権利はあるしそれは可能であることを証明するためにも、夜宵はこの戦いから逃れる訳にはいかない。

螢太朗や詠子も言葉にはしていないけど、この戦いが今を生きる人間の尊厳を守るためにも参戦すべき戦であることは心の内できっと理解しているだろう。無限修復人形や卒業生展開セットは、そんな生きた人間の知恵と意地が詰まっている…と考えるのは少々大袈裟かもしれないが、いずれにせよ消極的な参戦でないことだけは確かだ。

 

総評

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

ここからは総評ということで、何から評価していこうかなと色々考えてまず一番目に言いたいこととして浮かんだのは、本作は珍しいことにバカが物語を動かさないホラーなのだ。

 

ホラー映画とかドラマなんかを見ていると、行かなくて良い心霊スポットに行ったり、わざわざ危ない呪いの儀式をやってヤバい霊を呼び出したりと、基本的にバカな人間が怪異を発生させ、そしてパニックを起こして余計に事態を悪化させるというのが定番のプロットになる。そういうB級ホラーは枚挙に暇がないし、ホラー作品はバカな人間を配置することで成立していると言っても過言ではないと思うのだ。※2

しかし本作の主要人物は全然バカではない。夜宵は小学3年生とは思えない知能の持ち主だし、螢太朗は大学入試のトップをとった秀才、詠子は狂気とも言える発想でこれまで夜宵や螢太朗の窮地を救ってきたのだから、そこがこれまでのホラー作品と一線を画すポイントだと思うし、秀才・天才が敢えてヤバい心霊スポットに挑むからこそ物語に締まりが出てくる。バカな奴が右往左往した挙句怪異によって呪い殺されるという陳腐でストレスさえ感じてしまうような従来のホラー作品は、恐怖は工夫次第で何とか演出出来たとしても物語自体に旨味を感じにくかった。その点本作は単に怖いだけではなく物語としても充実度の高い作品だし、登場する霊も奥行きや背景描写があって実に魅力的だった。

 

特に2クール目に入ってからは物語の密度も高くなって、それに伴い私の感想・解説もよりマニアックでディープなものになったのではないかと思う(それだけに果たして私の言いたいことが伝わったかどうか心配になった回もあるのだけど…)。

そしてマニアックになったということはそれだけ本作が先行作品やモデルとなる人物・怪異などをよく調べた上で作品に落とし込んでいることでもあり、民俗学・心理学・体癖といったあらゆる観点から見ても面白い作品だったと評価したい。原作者の近藤氏のツイートを度々読んでいたけど、ストーリーは前以て計画的に決めたという感じではなく、〆切に追われながら常にお尻に火が付いた状態で描いていたみたいだし、そう考えると近藤氏は秀才というよりは天才肌の漫画家なのかもね。

 

※2:例えば、本作と同様の悪霊バトルを描いた映画「貞子 VS 伽椰子」では、登場人物の一人が警告されたにもかかわらず伽椰子の家に入って呪われてしまう。

 

・二面性としての「ダークギャザリング」(あの世があるからこの世が成り立つ)

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

さて、本作「ダークギャザリング」を初回から最終回まで見て一貫して作中で描かれているものとして挙げられるのが二面性である。

仏教では諸行無常という概念があり、この世界は絶えず動いて不変的なものは存在しないと主張している。しかし一方で祟りや怨念といった何百年・何千年経っても消えない感情や思想があるのも事実であり、本作で取り上げられた将門塚や四谷怪談でお馴染みの「お岩さん」なんかは正にその代表例だ。禊ぎ・祓いといった災厄を流す手段はあるけれども、その方法が通用しないケースなどこの世界にはいくらでもあるし、私たちの世界には対立する概念・思想が至る所に見受けられる。

 

本作の場合だと何と言っても夜宵のキャラ設定に二面性が如実に表れており、慈悲深いお地蔵様のような面もあれば、容赦なく悪霊を狩って時には罰するという閻魔大王さながらの一面もある。螢太朗だってオカルト嫌いでありながら無意識はオカルトを求めているという二面性を初回から示していたし、詠子の10種体癖ならではの博愛精神が光と闇の両面から描かれていたのは16話で解説した通りである。

二面性というのは不思議なもので、一見すると矛盾しているにもかかわらず同居して反発することがほとんどない。好きで好きでたまらないという感情と、八つ裂きにしても飽き足りないほど憎いという感情が入り混じることはよくあるし、最初は大好きだと思っていた人物が何かの弾みで大嫌いになるという経験をした人もいるだろう。二面性とは表裏一体であって、それは本作における空亡にも当てはまることなのだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

言うまでもなく空亡は夜宵の両親を死に至らしめ、母親の魂を連れ去った本作における絶対的な悪である。これは否定しようがない事実だけど、一方で空亡の存在が夜宵を生かしている面もあると私は思っている。

こんなことを言ったら夜宵に半殺しにされるかもしれないけど、もし夜宵が空亡の存在を感知出来なかったとしたらどうだろうか?両親の死は不幸な事故として受け入れるしかないし、墓前で手を合わせて供養するという程度のことしか出来ないから、精神的に立ち直れないまま成長することになっていたのではないかと予想がつく。彼女が今こうして生き生きと過ごせているのは、空亡という明確な復讐相手がいるからであって、空亡がいるからこそ夜宵は「心が死んだ人間」にならずに済んでいると言えるのだ。

 

一見すると空亡や怨霊をはじめとする死後の世界(幽世)は忌まわしく映ってしまうものだが、私たちの精神を支える上では実は必要不可欠な存在・概念である。現世で裁かれなかった犯罪者に対して「あの人は死後必ず裁かれる」とある程度溜飲を下げることが出来るのは死後の世界が存在するからであって、もし死後の世界が存在せず今生きているこの世界しかないという認識が広まっていたら、この社会はもっと刹那的で殺伐とした社会になっていたに違いない。

生前の善行が認められて天国に行けないのなら、真面目に働く意味がないと思って堕落する人間が出てくるだろうし、地獄という概念がなかったら今相手が生きている間に裁きを下そうと思って私刑に走る人もきっと現れるだろう。現世と幽世という二つの世界を我々が認知し、それを信じている人が大多数を占めているからこそ、この社会は均衡を保てているのではないだろうか?

 

象徴解釈の面白さ

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

これは2クール目に突入してから顕著になった部分だけど、本作では至る所に物語の象徴となるアイテムや舞台があって、それを読み解くのも楽しみの一つだった。

 

象徴解釈というのはオカルトを読み解く上である意味必須となるスキルだけど、例えば臨死体験でよく見られるお花畑や川の風景は、あの世とこの世の境界と解釈することで私たち人間の死後の世界に対する共通認識を読み解くことが出来るし、そうやって様々なアイテムを解釈することで私たち人間の精神世界の複雑さや幅広さを知ることが出来ると言えよう。

これまでの感想記事で言及しなかったが、そもそも幽霊が社会的マイノリティーの象徴であり、男性の幽霊よりも女性の幽霊が圧倒的に多いのはそれだけ社会が男性優位であることを示している。だから「ダークギャザリング」における幽霊の読み解きというのは社会的マイノリティーの読み解きをしているのと同質のものだと個人的には思うし、特に旧I水門戦でそれが明確に描かれていたのは記憶に新しい。

 

さいごに

以上で「ダークギャザリング」の感想・解説を終える。この後の京都戦についてネタバレなしで感想を一言述べるなら、色々と番狂わせ的な展開があったり、これまでとは明らかに種類が異なる敵が現れて、また一味違うパートになってますよ。そして京都と言えばこの人!という人物も絡んで来るので気になる方は是非原作を読んでもらいたい。

さて、もうこれで言いたいことは言いきったと思うが、もしかするとまた加筆することがあるかもしれません。というのも、ここの所仕事が忙しくてじっくり考える暇がなく、総評も書いてはみたものの若干消化不良気味という感じですかね。アンファルみたいに明確な元ネタがない分、読み解きや感想執筆に苦労した回もありましたが何はともあれ、京都編のアニメ化を気長に待つとしましょう。(ここまで映像化して続編をやらないというのもねぇ)