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穢れと因縁の追跡劇【映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」レビュー】

昨年の心残りを遂に果たすことが出来た。

そう、映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」をようやく鑑賞したのである。

 

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実は私、NHK岸辺露伴シリーズは最初の「富豪村」のエピソードからずっと追っていて、特別原作には興味がないし正直あの独特な絵のタッチが好きじゃない私もドラマに関してはハマっている。原作を読まずにドラマシリーズだけを追うというのも何だか不誠実かもしれないが、このシリーズで描かれていることって日本の風俗や民間伝承にもつながっているので、民俗学好きとして興味深く毎回視聴しているのだ。

(そもそも「ジョジョの奇妙な冒険」におけるスタンドって陰陽師式神みたいなものだし、結構日本の呪術要素を拾った作品ではあるんだけどね?)

 

(以下、映画の内容についてネタバレあり)

 

新書版 岸辺露伴 ルーヴルへ行く

さて、今回の映画について語るとするが、視聴する前に評判だけは耳に入っており、基本的には好評の意見が多かったけど、いわゆる映画マニアの人々は「実写化としては成功だけど、映画作品としてはちょっと…」という奥歯にものの挟まったような意見を述べていた。

で、実際に観てみると確かに映画作品としては褒められない部分がある。特に私が一番気になったのは前半50分のまどろっこしさだ。前半は露伴がオークションで「黒い絵」を買い取り、その絵が同じオークション会場にいた二人組の男によって盗まれるという事件が勃発、そこから露伴が「黒い絵」にこだわる切っ掛けとなった青年期の思い出が描かれるのだが、ここまでで前半50分を要するというのは流石に冗長過ぎるしもっとコンパクトにまとめられたと私は思うのだ。あのゆったりとした青年期の思い出に情緒を感じたという人もきっといると思うけど、映画館で観るとあのゆったり感は眠気を襲うものであまり効果的な尺の使い方ではないと思った。

 

前半はまどろっこしかったが後半のルーヴル美術館へ行ってからはあれよあれよと事件が展開、元凶となる「黒い絵」の正体やその誕生秘話が明かされていき、その凄まじさに圧倒された。その凄まじさについてはこれから詳しく解説してみるが、本作はベタなミステリ小説の構成に則っており、

「切っ掛けとなる事件(物語の発端)」→「ルーヴル美術館での調査」→「犯人(本作だと『黒い絵』)の登場」→「犯行動機(=絵の誕生秘話)」

という流れになっている。ミステリ小説でも犯人が明らかになるまでは結構退屈に感じる作品も多く、そういう点から見ても本作は良くも悪くもミステリ小説的な映画だと言えるだろう。

 

芸術と殺生

前半のオークション後の露伴邸で編集者の泉と露伴が交わした絵の具の顔料についての話は今回の映画を読み解く上で非常に示唆に富んでいる。一見すると芸術活動は血腥さとは無縁の平和的な活動だと思いがちだが、絵の具に使われる顔料は虫をすり潰したり、樹木を切り取って使用しているものがある。本作の肝となる「黒」も炭や煤、つまりは有機物≒植物や動物を燃やして出来る色なのだから、つまるところ絵の具の顔料は他種族の生命を奪い狩り取ったものと言い換えることが出来るだろう

人は生きていく上では食事をとらないといけないし、そのために殺生を行いその命を喰らう。これはあまりにも常識というか絶対的事実なので今更言うまでもないことだけど、本作では芸術活動も殺生で成り立っているということを明らかにしている。絵の具の顔料にしても、彫刻で使う木材にしても、それらは自然界の素材を利用したものであり、それは人間で例えるなら爪や皮膚、毛髪といった身体の一部を頂戴することでもある。

自然界(地球)が余りにも広大過ぎるがゆえに気づかないが、要するに私たち人類は地球という巨大な人体の一部を切り取ったりすり潰したりして、アートを生み出しているということだ。そう考えるとアートとはすべからくグロテスクな営みと言えるかもしれない。

 

劇中で露伴ルーヴル美術館「人間の手には負えない美術館」と称したが、それは忘れ去られた美術品がひょこっと出現する奇怪さを指摘してのことだろう。ただ、芸術が細かい殺生の上で成立していると考えれば、その殺生の証が集積・蓄積する美術館という場はなかなか怖い場所ではないだろうか?人間の身体が細胞という小さな部屋の集まりで出来ているように、一つ一つの美術品が細胞として集まった美術館は人体そのものである。そんな人体からある日突然忘れ去られた美術品が"排出"されて私たち人間の目に触れるという不思議、まるで美術館自体が生き物のような不気味さを露伴は言いたかったのかもしれない。

 

「この世で最も黒い絵」は「この世で最も穢れた絵

元凶となった「黒い絵」は、御神木の樹液を顔料とした黒を使用した絵画であり、作者である山村仁左右衛門の怨みと無念の感情も込められたことで、見たり触れたりするだけで呪われる呪物と化してしまった。

御神木から流れ出た樹液を利用するということは、先ほども指摘したように自然界の一部、今回の場合だと人間の血液に相当するものを利用していることになり、当然それは当時の倫理観から見ても禁忌を破る行為だ。罰せられるのも致し方のないことである。あの絵画が黒色だからピンと来ないだろうが、あれが赤い血液だと考えてみれば、それは血を塗りたくった実に悍ましい芸術であり、大半の人が吐き気を催すと思う。

 

特に日本では体外へと流れ出た血液や排泄物などを穢れとして扱い忌み嫌うので、いくら御神木であっても、その樹液を使うというのは不浄を扱うのと同じことになる。そういった観点から見ても「この世で最も黒い絵」は「この世で最も穢れた絵」でもあったのだ。

 

「私たちの身体には罪穢が流れている」という思想

「黒い絵」の呪いは絵を見た人物の後悔の念だけでなく、先祖の罪業まで映し出すというのは個人的には興味深いポイントだ。

「罪穢(つみけがれ)」という言葉があるように罪と穢れは密接な関係がある。『世界百科事典』では罪は社会的規範を犯し集団の秩序を破壊するもの、穢れは死や出産といった生理的な危険を客体化したものと説明されているが、噛み砕いて言い換えると罪は本人の行動によって生じたもので、穢れは本人の意志とは関係なく生じるものだ。そう考えると、絵画を見た人自身の体験から来る後悔が「罪」であり、本人ではない先祖の罪業が「穢れ」ということになるだろう。

 

体外へ流れ出た血は穢れとなるが、一方で血は先祖代々の継承を意味するものでもある。今私たちが生きているのは先祖が血を絶やさぬよう努力した結果でもあり、長い歴史を紐解いていけば、そのために犠牲となった命も決して少なくないはずだ。だからこそ人の血には先祖の罪穢れが蓄積しているという考え方も出来るし、生きていく上では殺生という罪は避けられない。

本作ではそういった罪穢れに対して露伴は正面から向き合うことになったが、罪穢れは忌まわしいものである一方、それすらなければ今の私たちは生きていない、すなわち罪穢れ(=血)を受け継いだことで生きていられると解釈することだって出来るのだ。

 

「黒い絵」が燃えたことで穢れは祓われたものの、そもそも奈々瀬が青年期の露伴接触しなければ、あの「黒い絵」の話をしなければ、露伴は「黒い絵」の穢れに関わることもなかったし、そういう意味では奈々瀬が穢れそのものだと言えるだろう(酷い言い方だけど…)。しかし露伴は彼女を否定しなかった。彼女との思い出も、彼女が犯した罪穢れも、それは巡り巡って今の岸辺露伴を構成する血肉の一部であり、それなくして自分はここに存在しない。そんな罪穢れとの向き合い方を描いたことを私は高く評価したいのだ。

 

さいごに

ということで、映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」は殺生という人類の避けられない罪穢れを美術品というフィルターを通して描いた凄まじい因縁物語だった。前述したように映画としては前半の冗長さがマイナスポイントとはいえ、西洋の美術館を舞台に日本の穢れをテーマにした作品を描くというのは斬新なアイデアだなと思うし、罪穢れという概念は西洋だと「原罪」という形で説明されるので、多分今回の映画は西洋の人が見ても何かしら考えさせられる作品になっていたのではないだろうか?

 

そう言えば、映画の冒頭で露伴「全ての作品に敬意を払え」と言っていたが、これは単に制作者へのリスペクトを忘れるなという意味ではないだろう。絵の具には動植物の生命が、はたまた焼き物で使う粘土にだって微生物という小さな生命は存在しているし、芸術は目に見えない殺生の積み重ねで誕生している。そういった犠牲の上で成り立つ作品や、その罪穢れを引き受けて芸術を完成させる者たちへの敬意を忘れるなと露伴は言いたかったのだろう。そしてそんな覚悟を以て制作された芸術こそが、人の心を動かすという訳だ。

(図らずもあの「黒い絵」はそれが最悪の形で表れたアートになったが…)