タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【最終回】正の万能感 VS 負の万能感【ゾン100 #10~12】

ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~(5) (サンデーGXコミックス)

ゾン100久しぶりですね!忘れている人もいるかもしれないけど、これが最終回なので出来るだけキレイに感想を締めたいと思います。

 

「ホームタウン オブ ザ デッド」

最終回は10話から12話まで一挙放送。前回(と言っても9月の話になるが)アキラは群馬へ里帰りし、両親に親孝行をした所で終わったが、今回はアキラの同級生である日暮カンタがトンネルに閉じ込められていたゾンビを村に送り込み、これまでのうっぷんを晴らそうと大暴れするストーリーだ。

カンタを含めた四人の男女はいわゆる「無敵の人」(失うものがないために無差別殺人等の凶悪犯罪を起こす人)であり、今回は彼らのゾンビ禍以前の様子も描かれたことで彼らが「無敵の人」になった背景がわかるようになっている。今回はそんな彼らにスポットを当てた感想を語っていこうと思うが、ゾンビものって何だかんだ最終的には「人間 VS 人間」というプロットに落ち着いてくるし、本作でも正の万能感に囚われたアキラと、負の万能感に囚われたカンタの一騎打ちが見所だ。

 

未熟・寂しさ・支配願望に取り憑かれた四人

カンタが引き連れたメンバーはそれぞれが慢性的な不平不満を抱えた男女である。

元市役所勤務の寒林は自分の正しさが社会で通用せず煙たがられることに不満を抱き、元見習いシェフの阿天坊は全てを人のせいにして一向に努力する気がないのに運がないとほざく典型的なダメ男、元携帯ショップ店員の蔵杉は結婚したは良いものの家庭が冷え切って妻にないがしろにされている惨めな生活を送っていた。

阿天坊に関しては論外というか明らかに未熟な人間だし犯罪者にありがちなタイプなので特に言うことはないが、寒林・蔵杉、そしてカンタの三人については現代の私たちが陥りやすい欲求不満型人間である。

 

寒林は自分の正しさを相手に押し付けるという、ある意味支配欲求に取り憑かれた女性だ。劇中でスティックのりの置き場所が違うだけで文句を言っていたけど、あれって置き場所に合理的な理由があるからではなく、「ここに置いてないと気が済まない」という感情的な理由から小言を言っているように私には思えた。だから寒林は「正しさ」と称して相手を自分の思い通りにコントロールしたいだけの人間であり、しかも彼女自身それに気づいていないから余計にタチが悪い。

でも案外こういう人って現実社会にいるもので、私も実際そういう人と仕事をしたからわかるのだけど、そういった人は親や上司から理不尽な仕打ちだったり厳しい教育を受けてきた過去があり、その恨みを自分の子供や部下で晴らしているものなのだ。だから「私がこんな目に遭ってきたのだから、あなたはこれくらいのことが出来ないとダメです!」みたいな感じでキレたり喰ってかかってくるんだよね。コントロール願望だけでなく自分と同じ苦しみを共有させようとするから私は本作の寒林みたいな人と出会ったら絶対に距離をとるようにしている。

 

蔵杉の場合は自分の努力は気づいて欲しい・評価して欲しいと思うくせに相手の努力には鈍感で評価しないという点が実に子供っぽいというか幼児退行している状態だなと思った。これは「ミステリと言う勿れ」の原作1巻でも同様のことが描かれているのだが、「自分はゴミを捨てて家事に協力しているよ!」と言ってる夫は実はゴミの詰まったゴミ袋をゴミ捨て場に置くという行為をしているだけで、その前段階におけるゴミの回収やゴミ袋の補充などは妻に任せきりだった。

家事をほとんどやっていないのにやっているように言う鈍感な世の夫たちに向けた「名もなき家事」を紹介した本が発売されているくらいだから、文句が多い人間ほど実は相手のことをよく知らないものだし、自分が変わろうとしないくせに相手に変化を求め過剰な期待を抱く。蔵杉もそんなダメ夫の例に漏れずケンチョに痛い所を突かれる始末だが、これは他人事ではなく私も相手にばかり期待を求めるというのはやらかしそうなので、戒めとして蔵杉を反面教師にしないといけないなと思った次第である。

 

そしてカンタはいわゆる「リア充」を敵視しており、大学時代にボランティアやセミナーに参加したものの、何者にもなれず孤独を抱えたことで歪んでしまった人間として描かれている。

精神科医名越康文先生の受け売りになるが、怒りの原因は大抵寂しさや孤独が背景にある自分が社会から取り残されたという感覚を抱えて、そこから脱しようと彼なりにボランティアやセミナーに参加するという努力はしていたが、多分明確な目標を持ってやったことではないだろうから、余計に孤独感が強くなったんじゃないかと思うんだよね。私も大学の就活の時にいわゆるセミナーに参加して就活で採用されやすい人材について講師の方の話を聞いたけどさ、あれって結局「社会に適応しやすい人間」という型を押し付けるようなものだし、自分らしさを殺すことになるから、正直参考にならなかったね。

「しなくて良い努力」をすると無駄に体力を使うし余計に社会が悪いものとして映ってしまうが、カンタも「しなくて良い努力」をしてしまい、人生のピークは小学生の時だと早々に結論づけてしまったことで社会に対する憎悪を募らすことになってしまった。私も高校生の頃は周りの同級生は充実した学生生活を送っていて自分は全然充実してないし何も成し遂げてないという思いがあったし、ある意味視野狭窄な状態に陥っていたからそういう時の周りに見捨てられたという感覚が凄く理解出来るのよ。本当は自分の居場所なんてどこにでも見つけ出せるのに、当時は学校と家のどちらかしか居場所はないと思い込んでいた。カンタも俯瞰的な視点を持っていたら自分の抱える不満や怒りを解消することが出来たと思うし、自分がこだわっているものの小ささにも気づけただろう。

 

カンタは以前アキラから食事に誘われたものの無下に断っている。恐らく自分がリア充のアキラから「施し」を受けるという立場になることが嫌であり、腹が鳴った音を聞かれたという恥ずかしさもあいまって断ったのだろうと思うが、思い返すとそこがカンタにとっての分水嶺であり、そこで恥じらいを捨てていたら、もしかすると彼の運命も良い方向へと向かったかもしれないという風に描かれている。

そしてアキラ自身、そんなカンタをケンチョみたいにバカだと突き放すのではなく自分もカンタと同じ「闇のゾン100」を実行するような道をたどっていたかもしれないと述べており、そこに主人公としての人柄の良さが出ていて良かったな。突き放すことは簡単だけど、「自分もそうなっていたかもしれない」という考えが出来るって大事だよね。

 

【ゲームさんぽ/Detroit: Become Human】精神科医・名越康文さんが登場キャラを分析! 驚くほど繊細なアンドロイドの心理が明らかにされていく...! - YouTube(動画の31分辺りで言及されています)

 

私たちは大人のフリをしているに過ぎない

今回の村での騒動や襲撃を仕掛けて来た四人組を見ていると、「本当に私たちは大人になれたのだろうか?」という疑問が頭に浮かぶ。その疑問に関わってくるのが「都会」という場である。

都会は便利で情報に溢れているため、一見すると都会の方が優れていて田舎は劣った場所として映ってしまうが、都会には都会ならではの問題みたいなものがある。都会は圧倒的に人口が多いが、人が多いということは多くの人に会う分他者との比較を意識するようになるし、競争の激しい場でもある。人の流れも激しく、時間も分単位のスケジュールで動くから、それに適応出来なければ仕事なんて到底出来ない。

そんなハードな場所柄だけに、自分が劣ったものだと錯覚したり、周囲から孤立して行き場のない不満・怒りを抱えてしまう場合がある。あの四人組もそう考えると都会という場によって人格が歪められたという考え方も出来るのではないかと私は思うのだ

そしてこれは都会に限った話ではないが、私たちは物理的な豊かさの代償として心の余裕をなくしている。他人の失敗が許せなくなったり、自分の思い通りにいかないとイラついてしまうといった具合に、常に疲弊し怒りや不満を抱えて生活を送らないといけない状態に陥っている人も多いだろう。そしてそんな状態の精神というのは大人というよりも文句ばかり言う子供の状態に近いのではないだろうか?

 

私たち社会人は仕事をしてお金を稼ぎ、役職によっては人を育て指導する人もいる。そうやって日々の仕事をしていると「自分は立派な社会人になれた」と安心し自負している人もいるだろう。ただ、私の経験から言わせてもらうと、ほとんどの人は大人になったフリをしているだけで、本当の意味で大人な人間はごく少ないと思うのだ。自分の一方的な価値観を押し付けて実際の状況を把握しようとする気がない人とか、八つ当たりに近い怒りをぶつけて来た人とか、私も心底嫌になるような社会人を見て来たからこういう結論に至ったのだけど、私も含めてほとんどの大人は大人の皮をかぶった子供も同然で、知識と経験でマウントをとっているに過ぎないのだ。

 

だから私としては「相手と同じくらいに自分も未熟さを抱えている」という形で考えておけばもっと相手に優しくなれるしトゲトゲしさも多少はマシになるんじゃないかなと思っているし、前向きな意味で相手には期待しない。期待するとそれが叶わなかった時に不満が出て来るから、これを心掛けるとちょっとは気楽にこの人生を過ごせるんじゃないかなと、そんな提案を今回のアニメを通して言ってみました。

 

総評

ということで以上が10~12話のレビューでここからは総評に移るけど、延期で視聴に断絶した期間があるため9話以前のことは具体的には述べられないという断りを入れた上で語っていくよ。

一応原作は読んでストーリーは知っていたけど、やはりアニメはアニメーションならではの演出で原作以上に感動的なストーリーとして描かれていたなと思うし、それだけに延期で視聴者が離れてしまったというのが実に勿体ないポイントだ。ゾンビ禍をディストピアとして捉えるのではなく、「やりたいことをやれる世界」というユートピアとして描いた本作は、昨今のゾンビパニックものの中でも異色な作品であると同時に、私たちの社会が「集団的幸福」の時代から「個人的幸福」の時代へと移り変わっている、正にその過渡期であるということを教えてくれるような作品だった。

 

20世紀の段階では、まだ日本は集団的幸福、つまり「みんなでテレビを見る」「みんなで万博に行く」「社員旅行で各地を旅する」といった具合に集団生活に即した娯楽がメインであり、それに乗っかって日々真面目に仕事をしていれば豊かな暮らしと幸せが得られると考えられていた。

しかし、経済がすっかり低迷した現代においては国が私たち国民の豊かさを保障してくれるとはお世辞にも言えなくなったし、会社で真面目に働いていれば幸福になれる訳でもなくなった。むしろ、これまでのような集団的幸福というものが私たちをゾンビにしてしまうのではないか?ということに気づく人が徐々に増えて来て、その結果今の日本には多種多様な娯楽やアートが増えたのではないかと私は考えているのだ。

年配の人から見ると今の社会は昔に比べると団結力もないし、人同士の交流がない分断した社会だと嘆いている人もいるかもしれないが、私に言わせるとこの分断というか孤立が進む今の日本は決してネガティブ一辺倒で語ってはいけないと思うのだ。勿論、孤立・分断によって苦しんでいる人がいるのはわかるけど、一方で集団から離れて個人として考える機会が増えたことで新たな可能性も導き出せるようになったと思うし、それによって「いや、昔の方が異常だったのでは?」と考えられる人も出て来たはずだ。11月に映画館で観た「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は集団的幸福のために「個」が犠牲にされる物語だったし、20世紀以前の社会も決して幸福ではなかった。そういうことを今の令和の時代で描けるようになったのは、今の我々が「集団的幸福」というものの異常性に気づき始めたということを表している。

 

国や経済が我々の幸福を保障しなくなったものの、社会や経済を動かす上では私たちはこれまで通り仕事をしなくてはならないし、自分の時間を確保するのもやはり難しいだろう。価値観が変わって来たとはいえ、結局「社会の歯車」として経済を動かさないことには豊かさは享受出来ないし、欲しいものだって買えない。そういうジレンマを抱えながらも「私たちだって個人的幸福を追求して良いのだ!」ということをこの「ゾン100」は訴えかけていた。まぁ、本作を見たからと言って個人的幸福を掴める訳ではないし、本作にそれを掴むためのヒントがあると断言は出来ないが、ともかく私たちはこれまで通りの社会構造を維持しながらも、自分の好きなことを追求出来るような世の中に移行していかなければならない。それが今後の日本全体の課題なのではないかと考えた次第である。

 

以上で「ゾン100」の感想を終えるが、原作はこの後は旅行モノに近いやや単調なストーリーになるため、個人的にはアニメで続編はやらない方が賢明だと思っている。原作も途中で読むのをやめていたので、頃合いを見つけて続きを読み進めていくとするか。