タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

2005年版「妖怪大戦争」は名作になりそこねた怪作

今月1日から15日の20時までYouTube の角川シネマコレクションチャンネルで映画「妖怪大戦争」(2005年版)が配信されている。

 

www.youtube.com

もう19年前の作品だということに「月日が経つのは早いわね~…」と思わずノスタルジックな気持ちになる。公開当時小学生だった私は両親とこの映画を観に行った記憶があるし、上映中も結構笑い声が聞こえていたから作品としてはウケた部類に入るのだろうが、今回久しぶりに配信で見てみると、非常に褒めたい部分もある一方で物語として問題点というか難点も見受けられたので、率直にレビューしよう。

 

(以下、映画本編のネタバレあり)

 

妖怪が戦わない戦争映画

妖怪大戦争(2005)

本作で神木隆之介さんが演じた主人公のタダシは、両親の離婚によって半年前から鳥取の母方の実家で母と祖父の三人で暮らしている少年だ。ある日、地元の麒麟祭りで麒麟獅子に頭を噛まれたことでタダシは麒麟送子という世界の平和を守る役目を負うことになる。その頃、魔人・加藤保憲は打ち捨てられた器物の怨霊の集合体である大怨霊・ヨモツモノを復活させ、捕獲した妖怪たちを機怪という魔物に変化させ操ることで人間世界を崩壊させようと目論んでいた。かくしてタダシは、妖怪たちの導きによって加藤の野望を打ち砕き、この世の平和を守るために戦う…というのが本作のあらすじだ。

 

この映画は角川グループ創立60周年を記念して制作されたもので、出演者もさることながら制作陣も実に豪華!あの水木しげる大先生だけでなく、荒俣宏氏・京極夏彦氏・宮部みゆき氏がプロデュースチーム「怪」として制作に関わっており、映画にもゲスト出演している。そして主題歌は井上陽水氏と忌野清志郎氏が担当している(しかも忌野氏は劇中でぬらりひょんとして出演)のだから、気合いの入れ方が半端ない。ちなみに監督は三池崇史氏である。

 

旧作の大映制作による「妖怪大戦争」は、異国の地バビロニアからはるばる日本にやって来たダイモンという妖怪を相手に日本妖怪が奮闘するわかりやすいストーリーだが、本作はかなり捻くれた作風で、妖怪大戦争」というタイトルなのに妖怪が戦わないという矛盾したプロットになっているのが本作最大の特徴である。でも私はこのプロットは決してダメだと思ってないし、むしろこのアイデアは「妖怪」という観点から見れば至極妥当であり、なおかつ秀逸なのだ。

 

確か脚本に携わった荒俣氏のインタビュー記事か何かで読んだ記憶があるが、そもそも戦争というのは人間の行為であって、本来妖怪は争い事とは無縁な存在であると荒俣氏は述べていた気がする。そう言われてみると、確かに妖怪とは一口に言っても山の怪・海の怪・器物の怪・獣の怪など、多種多様な種類の妖怪がいる。そんな妖怪たちが一致団結するということ自体不自然だし、妖怪は思想・スローガンといったものを抱えた存在ではない。そして人間のように死という概念が存在しないし、子孫というものもないから守るべきものが正味ないに等しい。だからハッキリ言って自分が何かされるのならともかく、異種族の妖怪が酷い目に遭っているからと言って、その妖怪たちのために戦う義憤なんて生じない。なおかつ、本作の敵は怨霊を使役し様々な術に長けた魔人なのだから、戦うメリットは皆無なのだ。

一般の人にしてみれば、「『妖怪大戦争』なのに妖怪が戦わないのはおかしいだろ!」って思うかもしれないが、私みたいなガチの妖怪オタクにとっては妖怪が世界の平和を守るというスローガンを掲げて敵と戦うことの方が違和感があるのだ。

 

ではどうやって「妖怪大戦争」的な状況を作り出すのかという壁にぶち当たるのだが、本作ではそれを祭りという形で日本中の妖怪が集まる状況を生み出しているのが実に素晴らしいアイデアだと思う。

というのも、本作の敵役である加藤やヨモツモノは「怨み」をベースにした存在だからだ。この辺りのことは専門的な話になるので詳しく解説すると、古来から怨霊や荒ぶる魂が生きた人間に災いを為すことを恐れた人々は、そういったモノたちを神として崇め奉ることで怒りを鎮め、自分たちを守る存在へと変化させたのだ。これが「祀る」ということであり、一説にはこれが祭りのルーツだと言われている。つまり、祭りには怨霊や荒魂の慰霊・鎮魂の目的があると考えられるのだ。だからこそ、怨みというマイナスの感情を原動力にする加藤たち悪霊軍団を制圧する上で、祭りは必要不可欠なのである。

それに、祭りを含む年中行事(桃の節句・節分・年越しなど)は新たな季節の到来をお祝いすると同時に、不浄なものや過去のマイナスな感情・出来事をすすぎ清めるといった意味合いもある。よく年末年始に「忘年会」だとか「年忘れ」といったワードを聞くと思うが、あれも負の感情を翌年に持ち越さない、新たな季節の到来と共にリセットするという意味が込められていると思うのだ。そういう観点から見ても、怨霊を相手にする上で「祭り」がいかに有効であるかわかるだろう。祭りには「まぁ、また春が来たら全てがきっと良くなるさ!」というポジティブシンキングな面もあるから、ある意味それが「怨み」に対する武器というか特効薬なのかもしれない。

 

という訳で本作は「戦争」というネガティブでマイナスな感情を抱くイベント「祭り」というポジティブでプラスの感情を抱くイベントに変化させるというプロットが実に秀逸で素晴らしいと思うが、では物語としてそれが十全に活かせていたかというと正直そうは思わないのだ。その点も含めてここからは本作の問題点について語ろう。

 

オチが雑すぎる

いきなりネタバレをするが、本作は主人公であるタダシが加藤を倒すのではない。加藤を倒すのは小豆なのである。

 

これ映画公開当時も唖然としたけどさ、いきなり「あ、あ、小豆、ズキズキ~♪」って忌野氏の軽快な歌が流れるから何だ何だ?と思ったら、一粒の小豆によって加藤もヨモツモノも倒されて解決されるっていうね。

まぁ、序盤からタダシの祖父の「小豆は体(みがら)にええだ」発言とか、どう見ても戦力外な妖怪・小豆洗いが一緒にいることとか、何となく小豆が物語の重要アイテムであることは伏線として敷かれてはいたし、言うまでもなく小豆は赤飯といったお祝い事の席で出される食品なので、怨みの権化である加藤を倒すアイテムという点では確かに意味のあるアイテムだとは思うよ?でもさぁ、これって民俗学とかある程度専門知識がないと小豆の効能というか魔除け的な意味合いが伝わらないと思うし、それが怨みを浄化するだけのパワーがあるというのもイマイチ説得力に欠けるポイントだ。

 

それにさ、タダシ(麒麟送子)のいる意味ないよね?

「全ては小豆が解決してくれました!」ってことになったら、じゃあこれまでのタダシの奮闘は何だったのって話になるし、折れた聖剣を修理するために命からがらヨモツモノ工場から脱出した一本だたらとか、犠牲になったすねこすりの存在はどーなるの?これじゃあ無駄な努力じゃないか。

これがギャグ漫画ならばオチとしてはアリだと思うし、実際本作ではギャグ漫画的な演出が要所要所に取り入れられている。しかし肝心の物語の結末までギャグ漫画のようなオチにしたのはハッキリ言って悪手だ。

 

一応改めて言っておくが、タダシは両親の離婚によって住み慣れた東京から母方の田舎へ引っ越すことになった少年だ。学校では地元の同級生にいじめられ、家に帰れば半分ボケかけた祖父がいるのだから、ハッキリ言って貧乏くじを引かされたようなものである。そんな少年がいきなり麒麟送子として選ばれ臆病風に吹かれながらも妖怪たちの導きによって加藤の野望を打ち砕く。そうしたひと夏の冒険によって大人の階段をのぼるというのが本作の主軸となるのに、肝心要の加藤を倒す下りが偶然の結果って、もう脚本として破綻してるんだよ。

百歩譲ってタダシに加藤が倒せなかったとしても、「大人の階段をのぼる」という本作のテーマを活かすのだったら、加藤がかつての日本人に怨みがあることを汲んだ上でそれでも今のやり方は間違っている、今加藤がやっていることは新たな怨みを生み出すことだということを、せめてタダシに台詞で言わせるなり戦いの中で感じさせる描写を入れたら、タダシが人として成長していることが視聴者にも伝わるのにそれすら描いていない!

 

結局タダシが大人になった描写って「親に無断で東京へ行ったこと」と「『まっ白な嘘』をついたこと」の二点だけど、「まっ白な嘘」って要は自分の為ではなく相手のことを思いやってつく嘘というだけの話で、何か脚本としてはうまいこと言ったつもりなのかもしれないけど、別に全っ然うまくないからね!

っていうか、相手に気遣って嘘をつくなんて本作のような大冒険をせずとも普通に日常生活送っていたら身に着くスキルだし、あれだけの冒険をして成長した部分がそれってしょぼくないかな?もっと重要なこと劇中で見聞きしたと思うんだがな~?

 

さいごに

以上、2005年版「妖怪大戦争」のレビューをしてみたが、思い出補正があるとはいえやはり大人になった今見ると最後のオチは酷い出来だなと思うし、「妖怪が戦わない『妖怪大戦争』」というアイデアで頭を使った結果ガス欠になってあんな雑なオチになったのかと邪推したくなる。

 

水木版 妖怪大戦争 (角川文庫)

ちなみに、漫画版の「妖怪大戦争」はタダシが主人公として加藤をキッチリ撃退しているので、個人的には漫画版の方がストーリーがわかりやすい上に、水木しげるロードのアレが思わぬ形で活かされるという点でも面白かった。

 

あ、誤解がないように言うけど映画はオチが酷いだけでそこに至るまでのストーリーは別におかしくないし今見ても面白かったよ!妖怪たちが度胸試しとしてタダシを驚かす下りはお化け屋敷に入ったような感覚だったし、溶鉱炉で溶かされる妖怪のエグさとか、川姫のエロい太ももとか、インディ・ジョーンズを彷彿とさせる場面とか、少年漫画的な描写が随所に盛り込まれていてエンタメ性は申し分ない。これは三池監督をはじめとする制作陣の功績と言って良いだろう。だからこそ本作は「名作になりそこねた」という感じが否めないのである。

【再入村】「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を再考察!(ネタバレあり)

鬼太郎の映画公開から約三ヶ月たち、ついに近所の映画館も公開終了との知らせを聞き、去る2月29日の仕事帰りに映画館で二度目の鑑賞を行った。

同じ映画を映画館で二回見るというのは人生初めてのことだったが、水木先生の生誕100周年の映画がこれだけの人気を博したのだから、少しでも興行収入に貢献したいという思いもあったし、パンフレットを読んだり他の方のレビューを色々と読んで気になったこともあったので、二回目の鑑賞に踏み切ったという訳である。

 

初見は話を追うことに頭を使っていたので、二度目は細部や登場人物の心情などにも注意を払っての鑑賞となったが、話を知っていても鳥肌が立ったりワクワクしたり目頭が熱くなったりと、もう本当に最高の1時間44分でしたね!

出来れば鑑賞後は余韻に浸って劇場を後にしたかったのだけど、今回は20時半過ぎという遅い時間からの上映、終電車を逃したら家に着くのが翌日になってしまう恐れがあったので映画終わったらすぐに走って駅へと向かったわ。

 

ということで今回は二回目を鑑賞した上でのより詳細な感想・考察・解説となる。まだ3月以降も上映している映画館はあるみたいだけど、もう大半の映画館は公開終了となっていると思うからガッツリネタバレありで語っていきたい。それから、考察等は出来るだけネットで見かけなかった私なりの考察を語っていきたいと思うのでよろしく。

 

(以下、映画のネタバレあり)

 

※前回(一回目)の感想はこちら。(↓)

tariho10281.hatenablog.com

 

頂天眼の報い

一回目の鑑賞の時からトラウマレベルで印象に残ったのは物語序盤、帝国血液銀行の社長室のシーンで画面いっぱいに映ったあの気色の悪い出目金である。あんな映し方をしているのだから、何かしら象徴しているのだろうとは思っていたけど、やはりというか結論を言うとあの出目金は龍賀時貞を象徴していると感じた。

そしてこれはパンフレット購入後に知ったのだけど、あの出目金は頂天眼という品種の金魚のようで、実際に存在する品種のようだ。

ja.wikipedia.org

アカデメキンの突然変異によって生まれ、眼球が前方ではなく天上を向いていることから名付けられたこの出目金、一説によると先端がすぼんだ瓶の中で、何代にもわたり飼育された出目金が、光を求めて眼球を徐々に上に向けた結果生まれたものだと言われている。これを踏まえて終盤の時貞がいた奥の院を見れば、天上からしか光が降り注がないあの場所は頂天眼が育つ場という意味合いが込められており、上ばかり見て下(下々の民衆)を省みない権力者を風刺しているとも解釈出来るのではないだろうか?

 

それから頂天眼は視力がなく嗅覚で餌を探すという特徴がある。この視力がないというのも注目すべきポイントで、ここで映画の冒頭シーンを挙げて解説したい。

www.youtube.com

山田記者が地下へ潜入した(というか「落ちた」が正確か)場面で、例の時貞ボールが登場するが、「痛い」と言っているから痛覚(触覚)はあるみたいだけど視覚・聴覚はなさそうだし、あったら「そこに誰かいるのか!?」とか「そこの人、助けてくれ!」くらいは言えるはず。だから私は「龍賀時貞=頂天眼」だと考えたのであり、その非道な行いに相応しい頂天眼の報いを受けたと思う。

 

遺言状の一幕から(水木の計算、時麿の分裂した人格)

水木が龍賀の屋敷を訪れ、遺言状の席に立ちあう場面。ここは遺言状の内容だったり表舞台に姿を現さなかった時麿が現れたりと見所・注目ポイントが満載なのだが、まず指摘したいのは水木のネクタイ。これは他の方のレビュー動画で知ったのだけど、喪中の家に赴いているのに赤色のネクタイをしているというのは不自然だし、見る人によっては不謹慎、或いは龍賀の家に喧嘩を売っているのかと感じる人もいるだろう。

この水木のネクタイについて、戦争による左目の負傷が原因で色盲色覚異常)になったという説を謳ったレビュー動画を見たのだけど、確かに赤と黒色覚異常になった際に区別がつきにくい色※1ではある。ただ、水木は両目ではなく左目を負傷しているから仮に左目が色盲になったとしても右目でカバー出来るはずだし、個人的に水木が赤のネクタイにしたのにはある種の計算があったと思うのだ。

 

言うまでもなく水木は踏みにじられない立場になるため昇進を目論む野心家だ。そのために本作では社長に直談判して哭倉村へ向かい、次期当主とのコネを結び血液製剤「M」の製造方法を探るというミッションを請け負っている。当然ながら龍賀の者に気取られてはマズいので、「事前に準備して村に来た」のではなく「時貞の訃報を聞いて急いで駆けつけて来た」と相手方に思わせたかったはずだ。そのために水木は喪服のネクタイを敢えて赤色にすることで「急いで・慌てて駆け付けた感」を出したとは考えられないだろうか?

勿論、色盲説も完全には否定出来ないけど個人的には敢えてやったと考えた方が、水木の野心家としての計算高さが垣間見れるしキャラとしても奥深さが出るんじゃないかな。とはいえ、そんな小細工も通用せず(というよりも到着のタイミングが良すぎたのがダメだったのかもね)露骨に畳のヘリに座布団を置かれるという不歓迎ぶり。計算高くても結局うまくいってないのが水木の人間くささを物語っていてナイスだったね。

 

そして遺言状が読み上げられる場面、ここの親族や分家の乱闘ぶりが国会の強行採決で揉みくちゃになっている議員※2を彷彿とさせるし、地味にこういう所でも日本的な醜悪さが演出されているのと同時に、哭倉村・龍賀一族が単なる集落・一家ではなく国家を象徴しているのだと観客に伝わるようになっているのが巧いなと思った。

 

龍賀一族に関しては他の方の感想で各人物の心理描写について色々と読み取っている人がいる中で、特に時麿は最初に殺害されたということもあってなかなか彼のキャラ分析は難しいし、深く掘り下げたレビューは見受けられなかった。ただ遺言状の場面を見る感じ、どうも時麿は解離性同一障害、俗に言う多重人格※3だったんじゃないかな~と思っている。

多重人格になる原因はハッキリとわかっていないが、幼少期のトラウマ体験が原因で人格が分裂する場合があると言われており、それを踏まえれば時麿が多重人格者になるのもあの家なら「なって当然」だ(むしろならない方がおかしいくらい)。当主として窖の狂骨を制御し、そのための霊力の強い子供を近親相姦によって設けるという役目がある以上、幼少期の段階で時貞の仕込みはあったことは間違いないし劇中でも修行をしたことは本人が述べている。窖に充満した狂骨の集団を見たらそりゃ誰だってトラウマになるし、それを制御する時貞の姿を幼少期から見ていた時麿にとって時貞は逆らうことの出来ない絶対的な存在だったに違いない。

この点についてもっと掘り下げるなら、もしかすると時麿は時貞が自分の娘と姦通していることも知っていた可能性があるし、更にエゲツないことを言わせてもらうとその姦通行為自体が修行のカリキュラムとして組み込まれ時貞から何かしらの形で教え込まれていたとしたら、それはもう完全に性的虐待である。性的虐待が原因で多重人格になったという話は現実にもあるし、そう考えれば遺言状読み上げの場における時麿の様子も単なる情緒不安定ではなく、「子供返りした時麿」「当主としての時麿」、この二つの人格が現れた場面だとは考えられないだろうか?

 

時麿の多重人格に関してはまだ言いたいことがある。それは彼が殺害された現場である哭倉神社についてだが、祭壇の様子(串刺しになったウサギの生贄※4)を見る感じ諏訪大社がモデルで土着神を祀ったものだ。つまり本作の場合はナグラ様=幽霊族を祀ったものということになるだろう。しかし実際は狂骨化した幽霊族の魂は裏鬼道の呪詛返しの術によって窖に封じられていたのだから、哭倉神社は形ばかりの神社だ。実質的には必要ないとはいえ、村としての体裁がある以上、寺や神社がないというのはおかしな話だし、外部から来た人間に怪しまれたら困るので建っているという感じだろうか。

形骸化した神社ではあるものの、多重人格の時麿を抱えた龍賀一族にとっては意味があって、恐らくあの神社は「子供返りした時麿」が表面に出ないよう制御するための神社だったと私は考えている。龍賀一族にとって長男の時麿が「子供返りした時麿」の人格のままだと非常に困るはずだし、「当主としての時麿」の人格を維持するためにも、神社という場によって当主の自覚を植え付けると共に人格の転移を抑制し、また神主の恰好をさせることで出来るだけその状態をキープさせようという狙いがあったと思われる。しかしそれでも「子供返りした時麿」が出る時があるので、そこで時貞は時弥という魂を乗っ取るための器を保険として用意しておいた、と考えれば辻褄が合いそうだ。

 

※1:色覚異常 - 目の病気百科|参天製薬

※2:例えばこちら。怒号の中、強行採決~参議院・安保特別委 - YouTube

※3:多重人格についてはこちらの記事を参考にしました。自分が自分でなくなっちゃう!?解離性障害 - 記事 | NHK ハートネット

※4:シカやウサギを生贄に!? 神秘的な古来の儀式「神長官守矢史料館」【長野】 | 日本珍スポット100景

 

左目にダメージを受ける龍賀一族

一回目の鑑賞でも気になったポイントだが、本作で惨殺された龍賀一族の面々がいずれも左目にダメージを受けているのが疑問だった。鬼太郎の父親の目玉おやじの目は左目であることや劇中で本人が言っていた「片目で見るくらいがちょうど良い」という発言と関係しているのかなと、とつおいつ考えてはいたが論としてはその時まとまらなかった。

tariho10281.hatenablog.com

左目と右目が意味するものについては6期の泥田坊回の時に言及したことを思い出したので、もしかするとそれが当てはまるかな?とも思ったが、今回の映画には合わないと思ったので未来と過去に対する眼差しという考察も却下。

 

そこで今一度今回の鑑賞に際して考えたのだが、左目と右目は視神経を通じ交叉して左脳・右脳に情報が伝達される。そして左目につながる右脳は直感性・創造性を司る脳だと言われており、反対に左脳は論理的思考・分析といった能力を主に司っている。この情報を基に考えると、左目を潰されたり抉られる龍賀一族は直感や創造性といったものが欠如し、論理だけで戦後の日本社会を牛耳っている歪な一族であることを隠喩していた…という風に考えられる。

論理と直感(身体的感覚)については、上に載せた一回目の鑑賞におけるネタバレレビューで詳しく語っているが、やはり左目に対するこだわりは龍賀が人の心の欠如した、論理や大義という尺度でしか人を見られなくなった一族であることを表していたのだろう。

 

龍哭御霊信仰(天変地異の解釈)

今回の映画が鬼太郎ファン以外の人々にもウケた理由はストーリーが秀逸で戦後日本の醜悪さや人間の愚かさを容赦なく描いたこと、水木とゲゲ郎のバディもの・ブロマンスとしての美しさや、裏鬼道との戦闘における作画の凄さ、徹底した時代考証など、色んな要素が手抜きされることなく仕上がったからなのは間違いないが、個人的に民俗学歴史学の観点から本作の凄さを語ると、この映画って第二次世界大戦前後の日本に限った価値観や思想を描いた話ではなく、古代の日本人の思想もかなり反映されているのだ。それを語る上で重要となるのが龍哭である。

 

龍哭は哭倉村における地震みたいなもので、その正体は言うまでもなく窖から漏れ出た狂骨の叫び(怨念)なのだが、本作における狂骨は地震や山火事といった天変地異・災害の象徴でもあり、元凶の龍賀一族だけでなくその悪事に加担した村人や女性・子供まで分け隔てなく襲い殺す無差別性は、正に災害そのものである。現代では地震の原因が地下にあるプレートの断裂などが原因で発生することがわかっているからともかく、古代の日本人は地球が丸いことすら知らなかったし、日本が四つのプレートの上にある国で世界に類を見ない地震大国であること、つまり地震が頻発して当然ということもわからなかったのだ。

ではこういった天変地異の原因は何なのかと昔の人は考える訳だが、例えば古代中国では天人相関説というものがあって、災害が起こるのはその時の政治家の政治が悪政であり、それを天帝が罰している。要は政治が災害の原因という考えだ。一方日本では平安時代御霊信仰が広まって、災害や疫病は非業の死を遂げた人々が怨霊となって災いをもたらすと考えられた。しかも仏教が流入する以前の古代日本においては、地下世界は根の国、つまり死者の世界だと考えられていたのだから、地震が死者の怨念による仕業だという解釈にも相応の説得力と恐ろしさがあったはずだ。

 

そして怨霊を神として祀り上げたり、或いは陰陽師の力を頼って災いを祓うといった対処法がとられたのだが、本作の裏鬼道も劇中でゲゲ郎が言及したようにルーツは陰陽道にある訳で、陰陽師平安時代に特に権力者や政治と密接に関わるようになるし、闇医者ならぬ陰陽師なる者も平安時代には存在したらしいから、今回の映画にはそういった古代日本の御霊信仰や思想、外道の術師の存在が反映されていて、だから多くの人々の心に響いたんじゃないかな?と私は思ったのだ。

 

さいごに

以上、二回目の鑑賞における考察となる。初回は話の大枠に沿った感想・解説となったが今回はより細部の演出や趣向に目を配ることが出来たと思うし、隠れ妖怪の一体であるカシャボも見つけられて嬉しかったな(でも幽霊赤児は見つけられなかった…)。

あと沙代ちゃんを始めとする屍人化した人々の何が悲しいかって、骨が残らなかったというのが改めて見るとむごいなと思う。骨ってその人の生きた証でもあるから、それすら残らずあんな目に遭って死んでいく、そして忘れ去られていくという残酷さがあるんだよね。だから余計に時弥少年の最後のメッセージが胸にくるのよ…。

 

さて、最後にちょっと紹介したい作品があるのだが、それがこちら。

水木しげる 貸本・短編名作選 魍魎 地獄・地底の足音 (ホーム社漫画文庫)

今回の映画を見て思い出したのだけど、この名作選に収録された「地獄」というSFホラーを是非とも読んでもらいたい。今回の映画が水木先生の作風をしっかり反映させた作品であることが理解出来るはずだ。

ドラマ備忘録:「大奥」(2003年版)

もう2月も残りわずかで気づいたが、今月は全然ブログに記事がアップ出来ていなかった。これは単純に仕事が忙しかったのもあるが、話のネタになるものがなかったというのも影響しており、特に今期はアニメもドラマも興味をそそるものがなかったので、無理せずブログの更新はせずにおこうかと思ったが、私の住んでいる地域でつい先日まで再放送されていたドラマ「大奥」(2003年版)がなかなか良く出来たドラマだったので今回はこの2003年版「大奥」について語ろう。

 

実を言うと私、この2003年版は一度見たことがある。まだ私が小学生だった頃に母が視聴していたのを隣で一緒に見ていた記憶があって、特にその記憶が強いのはこの翌年放送された「大奥 第一章」の方だ。「第一章」についてはまた機会があれば詳しいレビューをしたいと思うが、とにかく私はこのドラマで女性の恐さというものを子供ながらに(何となくではあるが)知った。

 

そう言えば現在フジテレビで小芝風花さん主演で大奥の新作ドラマが放送中だし、ここ最近は男女が逆転した設定の大奥が話題にもなったが、やはり私にとって「大奥」は2003年からスタートしたシリーズが至高だと思っている。普段時代劇に興味がない私でも退屈せず見ていられるストーリー、大奥という特殊な場が生み出す悲喜劇、古くからのしきたりや時代に翻弄される人々の生き様など、改めて見ると魅力的なドラマだったなと思う。その魅力についてここからはネタバレありでレビューしていこう。

 

(以下、ドラマのネタバレあり)

 

一貫して描かれていたこと(孤独の牢獄)

2003年版「大奥」は幕末の大奥を舞台にした物語で、1~4話までは13代将軍家定の御台所として政略結婚させられた篤子と大奥総取締・瀧山との対立を、5~10話までは14代将軍家茂の御台所として嫁いだ皇女・和宮と家茂の生母である実成院との嫁姑バトルを描き、最終回で江戸城無血開城に至る直前の大奥を描いている。

 

そんな波乱に満ちた大奥での出来事をストーリーテラーの立場として語るのは、薬種問屋の娘・まる。彼女は最初こそ大奥で一番下っ端の女中である「お末」(ざっくり言うと掃除等の肉体労働を主とする役職)として働き始めるものの、屈託のない人間味ある人柄が篤子の目に留まり、篤子のお世話役を務める「お小姓」へと一気に出世。後半の5話からは和宮に仕える「お中臈」という更に上のランクの女中になることで、彼女自身も大奥の運命に巻き込まれていく。

そんな訳でまるはストーリーテラー的存在であるとはいえ、蚊帳の外から批判的に大奥を語る存在ではなく、大奥のしきたりや制約に翻弄される女たちに共感し涙を流し、時には誰かを救うために自ら犠牲になることもいとわない、主人公としての役割も兼任している。

 

このドラマでは始めは外部から徳川家将軍に嫁いで来た篤子や和宮を目の敵にする瀧山や実成院が悪者のように描かれるし、事実瀧山は劇中で篤子が子供を身ごもらないよう彼女の食事に毒を混ぜている。家茂の母親の実成院に至っては女中の一人を自殺に追いやった(身も蓋もない言い方をすると)アルコール中毒の女帝気取りのクソババアなので、非道の誹りを受けて当然だ。

しかし、本作ではそんな瀧山や実成院も他の女中たちと同様、大奥という場に翻弄され幕末という激動の時代の流れに逆らえず、最愛の人物や心の拠り所を失うという報いを受ける。だから結果的に本作において憎むべき人物というものは存在しない。強いて言うなら政治や古いしきたりといった、個人の力では動かしようのないモノが本作における悪という感じだろうか。

 

そしてこの「大奥」で一貫して描かれているのは孤独である。女中が一千人もいるのだから物理的には寂しくないが、一度お城に入ったら最低でも一年は城の外に出られないし、大奥は男子禁制という制約があるため自由な行動も恋愛もままならない。それぞれが埋めようのない深い寂しさや孤独を抱えており、それを女中たちはキレイな着物や美味しい食事、同輩とのゴシップなどによって誤魔化しながら日々暮らしているのだ。

だからこそ、その縛りに囚われていない篤子や和宮は大奥の女性たちには疎ましい存在・秩序を乱す存在であり、結果いじめや嫌がらせという行為につながる。本作における女中たちの嫌がらせには、大奥という特殊な舞台ならではの背景があり、そこがキチンと描かれているから群像劇としてもまとまりがあるし、時代劇としての説得力もあると私は評価している。

 

そして孤独を抱えるのは女性に限った話ではない。政権のトップに君臨する将軍もまた深い孤独を抱えており、特に家定は容貌もあいまって周囲から距離を置かれ陰口を叩かれている人物として描写されている。当初は自分だけが孤独に苦しんでいると思っていた篤子も、家定と関わったことで心境に大きな変化がもたらされるのだ。

まぁ、冷たい言い方をすればこれってストックホルム症候群に過ぎないんだけれども、結果的に家定の御台所になったことが彼女の自立を後押しすることになったのだし、激動の時代を生き抜く逞しさを育むことにもつながった。

 

そういや篤子の恋人だった薩摩藩士の東郷克顕は討幕派の人間として時代を動かした側の人間だけどさ、時代は変化しても篤子の自分に対する思いだけは変わらないと信じており、結果幕府は倒れて願い通り時代は変わったけど篤子の心情も大きく変化して自立心の強い女性になってしまったというのが実に皮肉が効いててドラマのオチとしても良かったなと私は思った。女性が一途に自分のことを思っているなんて、所詮男のエゴに過ぎないものだからね。

 

2024年版に対する違和感(シンデレラ的プロットとアイドルとしての将軍)

現在放送中の「大奥」も一応初回は見てみたけど、やはり「コレジャナイ感」が凄くて2話以降は見ていない。

ストーリーだけを見ると2003年版における和宮のエピソードに近いのだが、2024年版では大奥の女中たちが公家出身の娘である倫子に嫌がらせをする理由が漠然としているため、大奥の女中が性悪女の集まりにしか見えず、時代劇としての説得力に欠けていると正直思った。2003年版では5話で公家と武家(徳川家)がプライドの高さから互いに軽蔑し合っていることが描かれているので、嫌がらせにもそれなりの説得力があったのだけどね。

 

そもそも脚本が浅野妙子氏ではなく大北はるか氏であるため物語の質が違うのは当たり前の話だが、2024年版は何と言うかシンデレラっぽいプロットという印象を受ける。主人公の倫子がシンデレラで、将軍が王子、そして嫌がらせをする総取締の松島や女中たちが継母とその姉、という感じで当てはめることが出来るし、そう考えれば背景描写の浅さにも納得がいく。おとぎ話っていちいち背景描写は描かれないし「とりあえずシンデレラは継母とその連れ子にいじめられていることがわかってたらいいの!」って感じで話を鵜呑みにするしかない。そういう強引さが2024年版にはあるように思える。

 

そして将軍の描き方も、な~んかアイドル的で嘘くさいんだよね。これは家治を亀梨和也さんが演じているというのも多少は影響しているのかもしれないが、森川さん演じるお知保の将軍に対する感情がアイドルとか推しに対する感情みたいで、時代劇にしては露骨というか粘着質過ぎる質感だったし、お鈴廊下で家治の目に留まれば側室として出世出来るから女中たちが競い合うようにキレイな恰好をするというあの下りも時代劇らしさが無い。

多分、時代劇を見たことがない若い人にも取っつき易いように将軍をアイドルや推しのようなものとして描いたのだろう。一人の男を巡って複数の女性が駆け引きをするというのは恋愛リアリティ番組「バチェラー・ジャパン」にも通ずる所があるから、やはり今放送中の「大奥」は時代劇を見たことがない若年層に向けた作品なのかもしれない。

 

まぁ、新規視聴者層の開拓としては別におかしい戦略だとは思わないが一つの作品・時代劇として考えるとやはり大奥を物語の舞台にした必然性に欠けるというのが正直な感想であり、クオリティが低いと思わずにはいられない。会話のスピードや間の取り方もスラスラとしていて(特に松島を見ていて感じた)そこも個人的には引っかかったポイントだ。

全体的に湿っぽいドラマ化【なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?】

さて、昨年末に予告していた通り、ドラマ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」をレビューしようと思う。

 

www.nhk.jp

ドラマは昨年の11月に放送済みだが、来月にNHK総合で放送されるみたいなので、未視聴の方に配慮して出来るだけネタバレ控えめで感想を語っていきたい。

 

作品概要

なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ドラマの原作はアガサ・クリスティが1934年に発表した同名小説。元海軍勤めのお人好しの青年ボビイがゴルフのラウンド中に崖下で転落した男性の瀕死体を発見する所から物語は始まる。瀕死の男性が死ぬ間際に遺した「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」という謎の一言を軸にした事件で、ボビイの幼馴染みで伯爵令嬢のフランキーと共に事件を捜査していく、冒険活劇ミステリだ。

 

若い二人の男女が探偵活動をするというのはクリスティの代表作の一つであるトミー&タペンスシリーズと同じ趣向であり、本作が発表された年はトミー&タペンスものの短編集『おしどり探偵』(1929年)と長編『NかMか』(1941年)の中間に位置する。『アガサ・クリスティー完全攻略』の霜月蒼氏の批評でもこの点については指摘されており、傑作『NかMか』が発表されるまでの間に生み出された、「神経のゆきとどいた秀作」として評されている。

確かに本作は『NかMか』における秀逸なミスリード・意外な犯人といったサプライズ要素は薄いし、事件の真相がやや雑然とした印象を与える作品だ。とはいえ決して面白くない訳ではないし、霜月氏が指摘したようにキチンと伏線が張られていたり犯人につながる手がかりが実にさり気なく配置されている。また、フランキーを伯爵令嬢という設定にしたことで、トミー&タペンスでは出来なかった金と人脈に物を言わせた捜査手法がとれるようになっているのも本作の見所の一つであり、物語中盤でフランキーがバッシントン-フレンチ家に潜入する作戦を読んだ時は思わず笑ってしまったよ。余りにも豪快過ぎて。

 

な~んか全体的に湿っぽい

原作は過去に三度映像化されており、そのうちの一回は2011年にミス・マープルものとして改変され映像化している。過去作は未視聴なので今回のドラマだけにしぼったレビューとなるが、率直に言うと今回のドラマ、原作を読んだ際のカラっとした感じの作風ではなく、全体的にしっとりとした湿っぽい感じの演出・脚本になっているなと思った。内容自体は原作で死ななかったとある人物が追加で殺害されていることと、エンジェルという名のいかにも怪しい男が暗躍するという点をのぞけば大体原作通りなので、別に大幅な原作改変によって湿っぽい作品になったという訳ではない。原作におけるスリラー要素を強調したことや、初回で描写されたボビイとフランキーのちょっと複雑な恋愛関係が湿っぽさに影響しているのだろう。原作でもお互い身分が違うということが原因で一歩踏み込めない関係を保っていたのだが、今回のドラマでもその辺りの関係性は描写されている。

 

また、親を愛している一方でうっとうしく思う若者の心理も原作ではボビイと彼の父親である牧師との関係を通じて描かれているが、今回のドラマではどちらかというとフランキーの方にその要素を強く感じた。というのも、ドラマでは原作に登場しないエマ・トンプソン演じる伯爵夫人(フランキーの母)が登場しており、娘がドレスを勝手に持ち出したことにキレてガミガミ文句を言うめんどくさい母親として描かれている。当初は正直言って余計な追加人物だなと思ったが、最後まで見ると本作のミステリ的な部分に関わってくることがわかる。この追加要素は個人的には感心したポイントだ。

 

とはいえ、全体的にはミステリというよりもスリラー・サスペンス要素の方が強く、視聴者も一緒に謎解きが楽しめるという感じのドラマではない。原作で犯人がうっかりやらかしたミスが今回のドラマではカットされているため、論理的にこの人が犯人だと指摘するのは無理だし、物語の軸となる「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」というダイイングメッセージにしても、物語終盤でようやく意味が分かる代物なので、「ここに気づいていたら犯人や真相がわかる!」というタイプの作品ではない。

 

全体的にはまずまずの映像化という感じで大きな不満はないけれど、やはり私は原作のカラっとした作風の方が好きだし、ボビイが毒を盛られて病院送りになった下りとか、エヴァンズの正体がわかった場面におけるボビイとフランキーのコミカルなやり取りが気に入っていたので、そういったコミカル要素が抜けてシリアス寄りになっていたのがちょっと勿体なく思えた。もしかすると過去作との差別化を図って敢えてシリアス路線にしたのかもしれないが、何だろう、「見ているこっちがワクワクするような探偵モノ」という原作から感じられた探偵活劇としての面白さが抜けてしまった感じが否めないんだよね。

言うまでもなく、ボビイとフランキーが事件を捜査する動機って正義感ではなく好奇心・野次馬根性から始まっているのだから、多少不謹慎かもしれないけどワクワクしている感じをもっと出して欲しかった(特にフランキーは!)し、コミカルとシリアスのメリハリをきかせた演出・脚本だったら面白かったと素直に評価出来たかな?

原作実写化成功のカギは「作り手の誠実さ」と「センスの良さ」

Twitter の方で話題となっている原作実写化における原作者と制作側とのトラブル、何の因果か以前当ブログでも触れた「霊媒探偵・城塚翡翠」「invert 城塚翡翠 倒叙集」と同じ日テレの日曜ドラマ枠で起こったみたいで、漫画「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子氏のツイートが発端となり、ドラマを担当した脚本家の相沢友子氏のバッシングをする人が出るという始末で、まぁ実に嘆かわしいというか不毛な事態になっている。

 

この騒動が予想以上に炎上したこともあってか、芦原氏は発端となったツイートを削除し謝罪しているが、問題なのは実写化にあたって原作者の依頼をなおざりにしたプロデューサーや出版社の担当者といった仲介役の不手際であり、脚本家を叩くことはお門違いも良いトコだし、原作者にこのような告発・謝罪のツイートを出させた時点でドラマ化に関わったスタッフや出版社はプロの仕事人として失格だと思うのだ。

 

※2024.01.29 追記

芦原妃名子氏がお亡くなりになったそうです。記事をアップした直後にこの訃報を知ったので正直ショックが大きいです。ドラマは見ていなかったとはいえ、このような最悪の事態を迎えてしまったことを残念に思います。

 

tariho10281.hatenablog.com

今回の騒動については「霊媒探偵・城塚翡翠」の原作者と同じ事態になっているため日テレはまたしても同じ過ちを繰り返したことになるが、相沢沙呼氏の時以上の炎上となった今回の騒動で改めて原作の実写化について私も色々と考えたのだけど、個人的に今回の一件も含めて原作を実写化する上で重要なのは「作り手の誠実さ」ではないだろうか?

では「誠実さ」とは具体的にどういうことなのかという話になるが、原作者との相互理解や取り決めの上でドラマ(映画)が制作されているか、というのは最低限守るべきラインであるのは勿論のこと、原作が何を大事にしており、どういった作風なのかといった作品に対する理解度も「誠実さ」として反映されてくると思うんだよね。

 

tariho10281.hatenablog.com

例えばミステリマニアの間で話題となった「貴族探偵」は、放送当時誰が言ったか知らないけど「『原作に忠実』ではなく『原作に誠実』」というコメントがあった。正にこれって「貴族探偵」の実写化成功を端的に表した言葉だなと思うし、原作者の麻耶雄嵩氏の作風を理解した上で原作の設定をいじって謎解きを改変しているから、原作以上に濃度の濃いミステリになっていて本当に面白かったし、毎回こちらの予想を上回る改変になっていた。視聴率とか一般的な評価だけを見ると成功したとは言えないかもしれないけど、原作の実写化という点では間違いなく大成功したと言える作品だ。

 

「作り手の誠実さ」は作品に反映されるから決して視聴者に伝わらないなんてことはないし、確か映画「大怪獣のあとしまつ」の制作陣が映画公開後に「こちらの伝えたいことが伝わらなかった」とネット記事で述べているのを見かけたが、あれは作り手側の言い訳にしか過ぎず、怪獣映画を制作する時点で特撮マニアが映画館を訪れるという単純な予想すら出来ていない。そこが視聴者(観客)に対して不誠実なのだ。

 

誠実さに関して言えば、最近のドラマは人気のある俳優をやたらと使いまわしており、何クールも連続で出演している方を見かける機会が増えたけど、これも正直言うと「人気のある俳優・アイドルを出せば視聴者は喰いつくだろう」という作り手側の舐めた姿勢を感じる時がたま~にあるし、ファンの「俳優・アイドルを応援する心理」を利用しただけの作品は得てして駄作になりやすい。売ることを意識して作品に向き合わないのだから、その結果単に原作のストーリーをなぞるだけの作品になった実写作品も多々見受けられる。

 

過去の実写化作品を例に「センスの良さ」を語る

さて、原作を実写化する上では、作り手が誠実だからと言って成功するとは限らない。実写化においては「センスの良さ」も重要なポイントとなるのだ。それを語るためにここからは具体的な実写化作品を例に出していこうと思う。

 

LIAR GAME 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

実写化作品の中で個人的に「センスの良さ」で勝利した作品として真っ先に挙げられるのは甲斐谷忍氏が原作のLIAR GAMEだ。ドラマと映画を見た上で原作にも目を通したけど、もし原作通りやっていたらあそこまでの人気シリーズにはなっていなかったのではないかと思う。原作は確かに良く出来た緻密な作品だけど、一方でどこか地味であり特別キャラクターに魅力があると言いにくい作品だ。

しかし、ドラマはゲーム会場が非日常的空間として参加者にやすらぎを与えない空間として演出されているし、登場するキャラも原作以上に性格が誇張されているというか、フクナガに関しては全くと言って良いほど別物だからね。でもあのドラマ版のフクナガの存在がライアーゲームにおける参加者の心理――人を騙し出し抜く快感と冷血になり切れない人間心理――を一人で体現していて、オリジナルのキャラ造形として作品にマッチしていたと評価出来るし、単調になりがちな心理戦を彩っていたと言えるだろう。この世界観の演出とキャラ設定の改変は、ドラマ制作陣最大の功績であることは間違いない。

 

新・信長公記~ノブナガくんと私~(1) 新・信長公記 ノブナガくんと私 (ヤングマガジンコミックス)

比較に適しているかわからないが、同じ甲斐谷氏原作の漫画「新・信長公記も「センスの良さ」という点で触れておきたい。あ、比較なので勿論こちらは駄作として語るよ?

 

tariho10281.hatenablog.com

この作品は2022年に読売テレビ制作で実写化されており、もう既に当ブログでレビューはしているが、改めて言及するとドラマは原作で私が面白いと感じたポイントをことごとく潰している

ライアーゲームほどではないが、原作は「旗印戦」という自分が掲げたマニュフェストを達成することでポイントがもらえるというゲームがあり、そのゲームで勝てば学園のトップになれるので、学園のトップになるため戦国武将のクローンが時に謀略を張り巡らせ、時には不良漫画らしくバトルを繰り広げるといった物語だ。だから「旗印戦」が本作最大の見所であるのは勿論、戦国武将のクローンが登場するため当然本作には歴史モノとしての面白さも詰まっている。歴史の教科書を読んだだけではわからない戦国武将の性格やそれを示したエピソードが挿入されており、そこも原作を読んでいて面白かったと感じたポイントだ。

 

ドラマも前半は原作の展開をなぞっていたのだけど、後半から「クローンはオリジナルの宿命を乗り越えられるのか?」という正直よくわからないドラマオリジナルのテーマが盛り込まれて、原作の「旗印戦」の行方が最終回に向かうにつれどうでもよくなっているのがマジでクソみたいな改変だし、ドラマで挿入された歴史ネタも原作と比べると薄くてマニアックさに欠ける。

最終回なんて酷いよ。ドラマは原作とはまた別のラスボス的存在がいるのだけど、そのラスボスが「明日の戦いの前に宴でもしたらどうか」って敵側の戦国武将のクローンに提案するんだよね。ネタバレだけど、このクローンは遺伝子操作が原因で成年になる前に死ぬという定めになっており、ラスボスはそれを踏まえた上で「どうせお前たち遅かれ早かれ死ぬのだから最後に別れの宴でも開けば?」って言うんだよ。で、それでクローンたちはどうしたかと言うと、普通にラスボスの前で宴をやるんだよね。

いやバカの集いかよ!?

何呑気に言われた通りに宴会してるんだよ!仮にも戦国時代に名を馳せた武将のクローンだったら宴で楽しむフリしながらラスボスの寝首をかくような計画でも立てろよ!本当に成年に達する前に死ぬのかとかそういった裏取りも全然しないで、何ラスボスの言ったこと鵜呑みにして、翌日ノープランでラスボスが用意した兵隊と戦ってるんだよ!

 

元々原作もそのままドラマ化するには少々問題がある作品だったことは以前のレビューでも言及したが、それでもドラマ後半の脚本のクソさ加減に比べたら原作の方がマトモに感じるし、原作の方が明智光秀のキャラも立っていた。ドラマの要所要所で挿まれた各武将クローンの因縁も実に陳腐で薄っぺらいし、全てにおいて「この原作をドラマ化する必要あったか?」って思うくらい原作の実写化の必然性を感じない作品だった。

この脚本の改悪は「原作の実写化」という点で不誠実だったと思うが、センスの面について触れると、ドラマの後半では海外偉人のクローン(ペリー、ジャンヌ・ダルク始皇帝が登場する。まぁ作り手側としては当時の戦国武将が対峙したことがない海外偉人と出会ったらどうなるかという面白さを狙って盛り込んだオリジナル展開だと思うが、個人的な意見としては「海外偉人を出す前に先に顕如を出せ!」と言いたかったね。

 

tariho10281.hatenablog.com

同じ織田信長を題材にした「信長のシェフ」でも描写されていたように、顕如は僧侶でありながら約10年もの間、信長の日本統一を阻んだ実力者である。全国各地に信者がいて武装蜂起すれば何十万もの民衆が兵となる脅威的存在だったのだから、どうせオリジナル展開にするのだったら顕如に相当するようなキャラを出して欲しかった。この辺り、どうもドラマの制作陣は制作にあたって歴史の勉強とかしてなかったみたいだし、海外偉人との絡ませ方も全然うまくなかったから、そこも不誠実というかセンスがないと感じさせられたポイントだった。

あと戦国武将のクローンもな~、熊本出身の武将だから熊本弁喋らせるとかキャラ設定が安直過ぎるし、最終回で登場したオリジナルの信長も永瀬廉さんに似合わない口ひげつけさせて、あれじゃあコスプレだよ。

 

以上を見ると日テレや系列局の読売テレビはろくな実写化をしてこなかったという印象を抱くし実際そうなのだけど、一応日テレの実写化作品で「これは面白かった!」と言える作品もある。

映画 妖怪人間ベム

それが2011年に実写化された妖怪人間ベムだ。原作は1968年に放送された同名のアニメであり、三体の妖怪人間がいつか人間になる日を夢見ながら、この世の悪と戦う怪奇ヒーロー譚である。

原作アニメは人間以外にも悪鬼・悪霊といった異形の存在とも戦うが、ドラマはそういったオカルト要素はなく、人間の心の闇を主軸にしたサスペンスとして描かれている。

 

このドラマ版「妖怪人間ベム」、原作の知名度は高いものの、そこまで詳しくアニメの各エピソードについて知っている人は少ない(実は私もそうなのだけど…)こともあってか、妖怪人間の基本設定以外はほぼオリジナルで、亀梨和也さん演じるベムも原作のビジュアルとはかけ離れたキャスティングだ。それでもこのドラマが素晴らしいと言えるのは、ドラマを通して人間の愚かさや愛しさ・素晴らしさというものを描いている点にあると私は思うのだ。

ドラマでは社会からのけ者にされたり、肩身の狭い思いをしていた人々がある切っ掛けで闇堕ちし、そういった人々が起こす事件を止めにベムたちが動くというのが大まかなストーリーだけど、こういった人間の心の闇や歪んだ精神によって引き起こされる事件は今現在でも度々起こっているし、ある種普遍的なテーマでもある。だから普通に考えるとそんな人間になりたがるベムたちの考えって理解出来ないというか、「いや人間になんてならない方が良いよ…」って言いたくなる所だけど、このドラマは緒方一家や夏目刑事一家との交流も描かれることで人間の温かみという、「人がもたらす絶望」だけでなく「人がもたらす希望」も描いているのが素晴らしいポイントで、そこが描写されているからベムたちが人間になりたいという思いにも説得力があるし、三体の妖怪人間のひたむきさ・実直さに私たち視聴者も胸が熱くなるのだ。

 

物語はオリジナルとはいえ、妖怪人間が人工的に作られた怪物であることや、柄本明さんが演じた裏で暗躍する男の存在は、海外の有名な怪奇小説フランケンシュタイン』や『ジキル博士とハイド氏』にも通じる所だし、このドラマが実写化として成功した裏には海外古典でも描かれた人間の愚かさや本質を作品に反映させたことも大きいと今更ながら気づいた次第だ。

 

見たいもの・期待しているものをみせない駄作

実写化失敗の原因の一つとして今ちょっと思ったのだけど、原作を読んでる・知っている人ってある程度「こういう作品であってほしい」という期待や、「実写化するならここは外してほしくない」という要望は少なからずあるはずで、そういった視聴者(観客)の期待や要望から外れた実写化は駄作になる傾向が高いのではないだろうか?

 

tariho10281.hatenablog.com

以前私が酷評したドラマ「地獄先生ぬ~べ~」も視聴者が期待するモノをことごとく外した最低最悪のドラマだったけど、今思えばぬ~べ~の恩師である美奈子先生と覇鬼が登場しているのに、ぬ~べ~がどのように覇鬼を左手に封印したのかという原作でもかなり重要なエピソードを全っ然描いてないというのが今更ながらビックリするよね。原作ファンにとっては当たり前の情報だけど、仮にもドラマ化するのだから原作含めてぬ~べ~を全く知らない人が視聴する可能性だってあるのに、肝心要となるエピソードを映像化しないで人体模型とか怪人「A」とか、とにかく話題性ばかりを狙ったエピソードやキャスティングに意識を向けていて、何かそういう点でも「ホントにこの制作陣原作好きなの…?」って疑問しかわかない。っていうか、この制作陣はドラマ制作ではなくコスプレ・コント番組を制作する方がセンスも活かされるし、そういう采配が出来る人がいたらこんなクソ実写も生まれなかったんだけどな。

 

そういや調べてわかったけど「ぬ~べ~」のスタッフって「臨床犯罪学者 火村英生の推理」と同じだったんだね。

臨床犯罪学者 火村英生の推理(DVD-BOX)

これは「ぬ~べ~」ほど駄作認定されてないし、放送当時は一定の評判もあって Hulu で続編が制作されたくらいの人気はあったみたい。でも一人のミステリ好きとして言わせてもらうと、原作者はエラリー・クイーンをリスペクトしている作家なのに、このドラマはかなりシャーロック・ホームズシリーズを意識した作品になっていて、「探偵=ホームズ」という従来のミステリドラマの型に原作を当てはめて制作されている辺り、やはりこの制作陣は勉強不足だよなと思わずにはいられない。原作に登場しないシャングリラ十字軍という新興宗教とか、ライヘンバッハの滝を意識した最終回とか、まぁ改悪とまではいかないにしても従来のミステリドラマのお決まりのプロットである感じは否めない。

個人的にこのドラマで酷いなと特に思ったのは7話の「朱色の研究」の解決編。この場面の火村って目の前に事件関係者がいるのに、相手の神経を逆撫でするような語り方で推理を披露していて、ちょっと見ていて不愉快だなと感じてしまった。仮にも大学で犯罪学を教えている人がこんな無神経なことをする?って思ったし、「名探偵は賢い分、空気を読まない発言・態度をする」という従来の探偵像を火村にやらせているのだからそこも実にタチが悪い。

 

そもそも映像化された原作エピソードを見た感じ、長編は『ダリの繭』と『朱色の研究』『狩人の悪夢』で、それ以外は短編エピソードをチョイスしているから、この制作陣って作家アリスシリーズを特別実写化したかったのではなく、従来の探偵モノを作る上でどの原作・どのエピソードが相応しいか?という目線でエピソードを取捨選択したんじゃないかと思う。ファンだったら原作で人気のある「スイス時計の謎」とかシリーズ最初の『46番目の密室』をまず映像化してほしいと思うのに、実際に映像化されたほとんどはマイナーな短編ばかり。この点だけを見てもドラマからは作家アリスシリーズを映像化したいという気概が感じられないし、とりあえずミステリドラマをやりたいからこの原作を借りたという印象を受けてしまう。

 

さいごに

ということで過去の実例をもとに原作実写化に必要なのは「誠実さ」と「センスの良さ」だと語ってみたが、「誠実さ」に欠けた作品は原作や原作者に対するリサーチや勉強が不足するため従来のドラマにおけるプロットを無理やり当てはめたストーリーに改悪されたり、さして内容のない薄っぺらい物語がオリジナルで挿入されるという事態が引き起こされる。そして制作陣にセンスがないと漫画(2D)を実写(3D)に置き換えた時に生じる問題がイメージ出来ないから、コスプレ大会とでも呼ぶべき作品が生まれてしまう。

ただ、くれぐれも気をつけなければならないのは、どんな駄作・失敗作でもそれは一人の人間の一存で作られている訳ではないし、脚本がクソだからと言って脚本家が全部悪いかというと、そうとも限らない。こういったドラマ制作の内情は私たち一般視聴者には基本的には伝わらないのでどうしても部分でしか物事を評価出来ない面もあるが、2016年に読売テレビ制作・バカリズムさんが脚本を務めた黒い十人の女では、確か6話か7話でドラマ制作の内情が一部描写されていて、そこではプロデューサーや演出家・脚本家が集まってドラマの内容をどうしていくか打ち合わせをしていた。そしてプロデューサーの無茶ぶりで脚本がどんどんカオスになって、そのくせドラマがコケると脚本のせいにされるという脚本家の悲喜劇が描かれている。ドラマ自体は不倫をテーマにしたドラマなのでドラマ制作の悲喜劇がメインではないのだけど、原作者とドラマスタッフとのトラブルが顕在化した今、改めて視聴されるべきドラマかもしれない。TVer とかで配信すれば良いのにね。

坂本拓弥『体育がきらい』を読んで、自身の「体育嫌い」を振り返る

いきなりだが、私タリホーは学生時代から一貫して体育及び運動というものが苦手かつ嫌いである。そんな私が Twitter『体育がきらい』という本があることを知った。

 

体育がきらい (ちくまプリマー新書)

著者の坂本拓弥氏は大学で体育・スポーツ哲学を教えている方であり、一見すると「体育好き」側の人間が書いた本ということで、未読の人には「どうせ〈体育嫌い〉を否定して〈体育好き〉になろう!とかそんな趣旨の論を展開してるんだろ?」と思うだろうが、本書は「体育なんて好きにならなくてもいい」という著者の主張を軸にしながら、体育嫌いの原因を分析していく一冊だ。一通り読んでみたけど、決して体育を得意とする人間が書いた鼻もちならない感じは本書には全くないし、体育やスポーツを教える立場の人間が「体育なんて好きにならなくてもいい」というこの主張も矛盾したものではない。体育やスポーツという枠に囚われず、健やかに身体を動かしてもらいたいという思いが本書には込められている。

 

体育嫌いの始まり

さて、本書では「体育嫌い」の原因を主に授業・先生・部活・スポーツ・運動という5つの観点から分析しているが、正にこの5つは私の「体育嫌い」の理由に当てはまる要素だ。

私の「体育嫌い」の始まりは小学生の頃だっただろうか。当時体育の授業でサッカーをやることになって、いざ対戦試合をすることになったのだけど、その際私がミスをすることが多くて同級生のK君に怒られまくったという記憶が残っている。その子は当然ながらサッカーが得意だったから私が下手クソ過ぎることにイラついたのだけど、それが原因で体育に参加したくないと先生に言ったような気がする。その時は先生の仲裁によってK君とは和解出来たけど、このサッカーのエピソードの他にも小学生の時は鉄棒が嫌というか、逆上がりが怖かった(視点が上下逆さになるという恐怖!)思い出があるし、昼休みのドッジボールにしてもボールがつかめないからとにかくよけまくっていたらゲームが終わってから同級生から「よけてばっかりでズルい」みたいな文句を言われて「そんなこと言われてもつかめないんだから仕方ないでしょ…」と思って何も言えなかった記憶がある。

 

卓球部時代の不満、納得のいかなさ

体育が嫌いだったとはいえ、一応中学時代は卓球部に所属しており、それなりに真面目に三年間卓球をやっていた。今思い返すと楽しい思い出もあったが嫌な、というよりしんどい思い出も結構あって個人的に卓球部の頃の思い出は私にとっては複雑なんだよね。

複雑なのにはいくつか理由があるが、まず第一に卓球部の部長が、何と小学一年生の頃に私をいじめていた先輩だったという点だ。これは当の部長本人は完全に忘れていて私のことは一部員としか見ていなかったみたいだけど、私自身は覚えていたから、そこで私は凄くモヤモヤさせられた。小学生の時はイヤな人だったけど、中学で卓球部の部長となったその人は普通にマトモだったから、その変貌ぶりに納得がいかなかったのかもしれない。

 

そして顧問の先生の存在が私のスポーツ嫌いの原因になったことも挙げられる。その先生は中学二年の時の担任で、担当教科は社会だった。生徒からの評判も良かったし教え方とかもプリントに図説とかを載せてわかりやすく説明してくれる人だったからまぁ総合的には「良い先生」だったとは思うけど、一方で部活の時の顧問・コーチとしての先生はあまり好きになれなかったんだよね。

その先生は過去にバスケ部に所属していて、学生時代の頃の話を私たち部員にしたことがある。どうやら当時バスケ部の顧問をしていたその教師はどうも暴力的な人だったみたいで、パイプ椅子をふり回して生徒を殴って鼻血を出させるような教師だったらしいのだが、先生はそれを引き合いに出して「それに比べたら今のオレの指導はマシなんだぞ」という、何かすっごい恩着せがましいことを度々言っていた気がする。そりゃそうだけど、それを引き合いに出して自分の指導方法の正当性を主張するというのがズルいなと当時も今も思う。

 

で、その先生って当時年齢が30代ということもあってか影響されやすい、ある種ミーハーな面があってそこも個人的にはイヤだった。それを裏付ける出来事があったのだけど、その出来事というのは実は一度学校に卓球で世界大会にまで出た経験のある人をコーチとして外部から呼んだ時の話になる。その時に呼んだコーチの影響を受けて先生は翌日のトレーニングを変更、打ち合いのラリーを20回やって失敗した回数だけ腕立て伏せをする(しかも回数を大声で数えながら)というこれまでよりも厳しいものにしたんだよね。厳しいのが嫌だったのは勿論だけど、その厳しさが外部からの影響を受けた非常にミーハーなものだったことが私にとって不快だったのだ。それをやって技術が向上するとか明確なメソッドがあるのならともかく、理由もないまま単に回数をこなして上達なんてするのだろうかという疑念があったから、そこも私の「体育嫌い」につながる原因かなと思った。

 

この先生に関する納得いかないエピソードはまだある。先生は中学生の頃はバスケ部だったが高校生の時は弓道をやっていたらしく、武道経験もそれなりにあった人だった。だからなのか、部活が夏休みに入っていつも以上に練習時間が長くなった時に、部室とは別の体育館の二階の武道場で空手の突きみたいなこともやらされて、「いや卓球部なのに何で空手とか武道をやらされるんだよ」って内心ツッコミながら練習をしていた。先生としてはスポーツにおける心技体とやらを教えたかったのだろうが、私としては「やりたくないことをやらされた」という記憶として残っているので試みとしては失敗したと言えるだろう。先生との二者面談の時だったか、私は先生から「(卓球部での活動に対する)貪欲さがない」と指摘されたことがあるけど、そりゃ私は元々運動が苦手な人間なのだから、「そりゃそうだ」と内心思ったし、三年間やってみたけどスポーツの面白さは全然わからなかった。むしろそれはしんどいものとして身体に刻み込まれたといった方が正確だ。

ついでにぶっちゃけると、試合の時に着用するユニフォームも私の好みでない赤色のユニフォームで正直イヤだったかな。もう一着青色のユニフォームもあったんだけど、みんな赤色ばっかり着るから青色着たくても着れなかったんだよね。

 

『体育がきらい』の文中で著者も述べているが、スポーツって勝ち負けが重要で競争することに意義がある。だから県大会とか大規模な試合になってくると熾烈さを増してくるし、気合いの入った学校なんかは選手がハチマキをしめて試合に臨み、コーチとなる先生も選手に顔を近づけて怒鳴っているという、もう傍から見ても弱肉強食という感じの世界だ。だからスポーツは楽しいものではないとわかって私は高校に入って文芸部という文化系の部活に入ったのである。

 

仲良くない子に足技をかけるという辛さ

中学時代の体育の授業や部活もしんどかったが、実は一番苦痛だったのが高校の体育の授業である。というのも、中学までは親しい友人がいたので体育や部活をやる上でもある程度の気楽さがまだあったのに対し、高校時代は友人がゼロだったので、親しくない人とスポーツをするということに物凄く抵抗感があったし苦痛だった

特に辛かったのが柔道をやる時で、まだ球技とかはミスをしても「ごめん」で済ませられるからともかく、柔道は生身の相手に足技をかけたり投げたりするから、もし失敗して怪我をさせてしまったらどうしよう…と内心ビクビクしながらやっていたし、相手に「こいつ下手くそ過ぎてやるのイヤだわ~」とか思われてないかなといった不安がよぎって常に気をつかいながらやっていたから気疲れが半端じゃなかった。「スポーツを共にやったら普通打ち解けられるものだろ」って思う人もいるだろうけど、全然そんなことないよ。しかも私が通っていた高校は三年生になると、授業を生徒たち自身が計画し行っていくというシステムだったから、そこでも自分のコミュ力のなさでかなり苦労した記憶がある。

 

こんな感じで私の〈体育嫌い〉の原因を振り返ってみたが、体育って陸上競技と武道系と球技、それから器械体操というオリンピック競技で行われるスポーツを授業でやるから、それが合わないとマジで苦痛だし、特に器械体操は体育だと跳び箱とかマット運動とかイヤだったね。まだ前回りとか後ろ回り程度ならいいのだけど、倒立とかホント怖さが勝ってやりたくなかったし、中学の時とか跳び箱の上で前転とか倒立をするのが怖い&やる意味が分からなくて心底苦痛だったわ…。

 

体育がスポーツの幅を狭めた

本書を読んで私が感じたのは、体育って身体を動かすことの楽しさを教えることに全然貢献していないし、スポーツというジャンルの幅を狭める結果になっていると個人的には思った。オリンピック競技がスポーツの王道みたいになっているし、スポーツと聞いて連想するものと言ったら大概はオリンピック競技になっている種目が大半だろう。でも実際は娯楽・ゲームとして興じられているボウリングだってスポーツの一つだし、ボウリングに似たフィンランド発祥のモルックというスポーツもあることを知ったのは大人になってからだ。こういった、ゆるく楽しめるスポーツの存在を除外して、やたら競争や勝ち負けに特化した競技ばかりを体育はやるから、そこが私としては気に入らないと感じるのかもしれない。

 

スポーツが報道番組で幅をきかせていることに対するムカつき

あと私が体育やスポーツ・運動というものに反抗心を感じる原因を自分なりに分析すると、その原因の一つとして朝のニュース番組でスポーツのコーナーが幅をきかせていることに対する不満があるのではないかなと思った。どの局でも朝のニュースでは芸能情報に加えてスポーツのコーナー、特に野球の試合や選手に関する報道は絶対にやっているし、文化・芸術的なニュースはほとんどやらないか、やっても軽く流されてあまり深掘りされない。そのくせスポーツは試合の動向とか選手の言動とかを細かく解説して朝の情報番組の全体の3,4割の尺をそれに費やすのだから、文化系のクラブ出身の私としては(普段は意識していないが)不公平で気に食わないと感じてしまう。

とはいえ、スポーツって他の芸術に比べて目で見てダイレクトに凄さが伝わるものなので、報道番組で特集されやすいだけの理由があるのも理解しているし、音楽なんかも演奏技術の凄さ、歌手の歌唱力がダイレクトに伝わる芸術の分野だから限られた放送時間の中でも伝わるしニュース番組で扱われやすい。絵画とか彫刻といったアートは作品自体は報道されるけど、作者についてはそこまで深掘りされないし、物によっては専門的な知識が必要となるから、そういう点でもスポーツ・音楽が報道番組において優遇されやすいのだろう。そういう事情があるのはわかるけど、やっぱりムカつく時があって朝機嫌の悪い時とか、「野球選手の年俸がどうとかどっちゃでもええわ、もっと報道せなアカンこと一杯あるやろ」って毒づきたくなるよ。

 

 

ということで坂本氏の『体育がきらい』、私の〈体育嫌い〉を振り返り整理する上で非常に役に立ったというか、意気込んで運動をせずとももっと気楽に身体を動かすという考え方をしても良いというこれまでの凝り固まった思考をほぐしてくれるような、そんな一冊だった。

この殺人劇には名優が必要だった【映画「ある閉ざされた雪の山荘で」レビュー】(ネタバレなし)

どうも、タリホーです。

映画「ある閉ざされた雪の山荘で」観て来ましたよ~。

今年は今回の映画に加えて、3月には映画「変な家」が公開されるし、それから綾辻行人氏の十角館の殺人が実写化されるという具合に、家や館をお題にしたミステリの映像化がちょっとしたトレンドになっているなと感じるがそれはともかく。早速レビューしていこうと思うが、まずは作品概要から。

 

作品概要

ある閉ざされた雪の山荘で (講談社文庫)

今回の映画は1992年に刊行された東野圭吾氏の同名小説が原作。

劇団「水許」の次回作公演のオーディションに合格した男女7人が、飛騨のとある山荘で舞台稽古を行う。演出家・東郷陣平の次回作のテーマは「吹雪の山荘」ということで、記録的な大雪によって外部との連絡がとれず孤立した山荘内で殺人が起こるという設定のもと、7人のメンバーは山荘内で舞台稽古を行うが、翌朝メンバーの一人が姿を消し、"死体"の状況を説明するメモだけが現場に残されていた。犯人役が誰なのかメンバーは推理を始めるなかでとある疑問が生じる。果たしてこれは本当に次回公演の稽古なのか…?

 

以上が本作のあらすじとなる。あらすじを読んでもわかるように、本作はミステリとしては特殊なクローズドサークルものであり、実際は雪も降っておらず外部との連絡が可能な山荘内で、7人のメンバーにだけ設定・制約が課された状態でクローズドサークルが成立しているという虚構性を前面に出したプロットになっているのが注目ポイントだ。嘘くさいシチュエーションであるとはいえ、これが舞台役者の稽古(お芝居)であるという点や、舞台設定以外は作中の登場人物の人間関係がお芝居に反映されるなど、随所に現実が盛り込まれて虚構と現実が入り混じった状態で物語が進展していく所に本作の面白さがある。

 

www.youtube.com

映画では主役の探偵役を決めるための最終オーディションとしてこの舞台稽古が設定されたという形で改変されており、原作が「吹雪の山荘」という設定をもとにメンバーが「この状況だとこういう風に動くよね」という感じで稽古を進めていくため、メタ的な会話が印象に残ったのに対し、映画は各メンバーの芝居に対する価値観だったり競争心みたいなものが強調されている。これは映画の結末にも関係するポイントになるので詳しくは後ほど言及していきたい。

 

30年以上前の原作を何故今更映像化したのか?

まずハッキリ言っておくが、

本作は重厚なミステリを期待して観に行くと凄くガッカリする作品だ。

そもそも原作が30年以上前の作品なので、今から見るとトリック自体が古くて目新しいものではないし、本作と同じトリックを用いた作品でもっと面白い作品はこの原作が発表されて以降、次々と生み出されている。しかも、原作のトリックは小説という媒体だからこそ通用するトリックなので、今回の映像化ではそのサプライズすらも殺されている(監視カメラを出した時点で真相に察しがついた人もいると思うし…)のだから、原作未読の観客が本作に低評価を下すのも当然である。それに物語も劇団員同士の確執や、役の奪い合いというベタな人間模様が描かれる程度で深い人間ドラマがあるとかそういうこともないので、その点も東野氏の他作品と比べると見劣りする部分ではないだろうか。

 

それと本作の要であるクローズドサークルとしての制約、つまり外部との連絡をした時点で次回公演の役から降ろされるという「縛り」も、原作が発表された1990年代ならばともかく現代だと「役者として大成しなくても身の振り方ならいくらでもあるでしょ?」というツッコミが出来てしまうし、現に劇中で重岡大毅さん演じる久我は兼業で料理店で仕事をしており、フランベで肉を焼くといった本格的な調理技術を持った人物として描写されているので、役者以外で生きていく道がないという逼迫感に欠けるというのも、今回の映画のミステリとしての問題点だと思う。まぁこの点に関しては原作にも同じことが言えるので特別映画だけが悪い訳ではないけどね。

 

以上のように、本作はミステリ映画としてはガッカリする作品なのは間違いないが、だからと言って駄作として切り捨てるような作品ではないと正直思っていて、そう思うのは本作が原作の発表から30年以上経った今になって映画化されたことと関係してくる。

言うまでもなく本作はトリックも作中の人間ドラマも、東野作品としては凡庸というかベタな内容で、それを抜き出した所で正直作品としての魅力に欠ける。同じ著者の探偵ガリレオシリーズと比べれば雲泥の差だ。

 

じゃあ結局本作を支えるものは何かという話になるが、それは劇中の7人の舞台役者であり、彼らの演技によってこの「ある閉ざされた雪の山荘で」が成立していると言えよう。舞台役者を演じる、しかも殺人劇を演じるということは「演技の演技」という高度なテクニックが求められる訳であり、それが出来る役者でないと当然ながら本作は成立しないのだ。

そう考えれば、本作がこれまで映像化されなかったのは原作のトリックが映像化に適したものでないということに加えて、この作品を成立させるだけの演技力のある若手役者が2、30年前の芸能界にはいなかったからではないか?という仮説が立てられる。あいにく私はドラマとか映画・演劇に明るい人間ではないのでこの辺りのことはあまり偉そうに解説出来ないけど、私のつたない芸能の知識・偏見を元に考えると昔は大御所と呼ばれるベテラン役者は多くても、今みたいに充実した演技の出来る若手役者って実はそれほどいなかったんじゃないかな?と思うのだ。

 

www.youtube.com

ネームバリューのある役者を起用することは映画の客集めとして古今東西、いかなるジャンルの作品でも用いられる手段だが、本作では単に名がある役者を使えば良い作品ではないし、むしろ脚本がベタでシンプルだからこそ確かな演技力がないと見応えが生まれない。

雨宮を演じた戸塚純貴さんは昨年日テレで放送されたドラマ「だが、情熱はある」でオードリーの春日さんを好演したことが記憶に新しいし、田所を演じた岡山天音さんはバイプレイヤーとして抜群の認知度と実力を備えた方だ。そして本多を演じた間宮祥太朗さんは叩き上げの実力派俳優としてドラマだけでなくバラエティでも活躍をしているし、私も「ニーチェ先生」で間宮さんを知ってからドハマりして追っているので、俳優としての素晴らしさは一般の人以上に知っているつもりだ。

 

一般的に実力あるキャストを揃えると役者同士の競演が作品のアピールポイントとなる。文字通り俳優陣が競い合うように演技をして観客に自分の魅力・実力をアピールすることで相乗効果をもたらした作品はいくつもあるが、本作の場合はミステリとしての性質上それが出来ない、つまり何も考えずに競演をするとミステリとして破綻してしまう作品なので、「オレがオレが!」と前に出るのではなく役割を把握した上で時には一歩後ろに引き下がるような気配りもしないといけない繊細さも必要とされる。だからこの作品において重要なのは「競演」ではなく「共演」であり、これこそが映画オリジナルの結末につながるポイントであると同時に本作をより面白く鑑賞する上で必要な視点となるのだ。

 

ミステリ作品を(真相を踏まえた上で)二回目・三回目と鑑賞する場合、大抵は「ああ、ここにヒントがあったのか!」と劇中に散りばめられた伏線や手がかりを発見するという楽しみ方が出来るけど、本作の場合そういった妙味はなく、真相を踏まえた上での各メンバーの動向や反応を観察することに本作の面白さがある。山荘に到着した際の各メンバーの動きや言動、夕食時の会話など、細かい動作を観察することで原作とはまた違う各メンバーの性格や嗜好なんかがうかがえるし、本作のトリックを知った上で鑑賞すると、ちょっとした会話における間のとり方や台詞にもある種の気配り・配慮があると言えるだろう。

 

※事件の真相を踏まえると、映画の俯瞰視点の演出は(個人的には)ミステリとしてはアンフェアだったのではないかな~?と思っている。

 

さいごに

ということで映画のレビューは以上となるが、原作が30年以上前の作品ということもあってトリックに斬新さも意外性もないのは否めないし、本作を単純に本格ミステリとして評価すると実につまらない、原作で久我が評した「茶番劇」であることは確かだ。とはいえ、東野圭吾の原作小説の映像化としてはこれ以上ないほど最良の映像化だったことは間違いないし、名実ともに世間に知られた俳優陣の「共演」によって鑑賞に堪えうる作品になっていたことは評価しなければならない。本当はパンフレットで監督や脚本のインタビューとか読めたら今回の映画化における制作側の背景を加味した感想が語れたのだけど、パンフレットが売り切れておりそれが出来なかったのはちょっと残念である。

 

otocoto.jp

ちなみに、今回の映画における「競演」から「共演」というテーマは間宮さんの役者人生とも関わるものだったので、個人的には感慨深いテーマだったし、このテーマの作品に私の推しを起用したプロデューサーの方に感謝を送りたい。間宮さんも10代の頃は共演者を敵、つまり競い合う相手として見ていたのを玉置怜央さんとの共演で考えを改めたというエピソードがあるからね。