タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第54話「泥田坊と命と大地」視聴

※今回の記事は放送当日に感想を書き上げたところPCがフリーズし、データが消えたため、記憶を頼りにもう一度書いたものです。故に、これから記す内容は当初よりアッサリしています。

 

令和最初を飾る妖怪は泥田坊。感想を一言でまとめるならば、「渋い名作」

 

泥田坊

2期の記念すべき第1話「妖怪復活」以降、3・4・5期と皆勤でアニメ化されている原作。減反政策・新幹線開通・宅地開発など、各期によって泥田坊が暴れる理由が異なるが共通するのは、人間の都合による開発という点。原作では航空基地を作るときに土地から追い出された農民たちの死霊が妖怪化したという設定になっており、僅かながら戦争へのアンチテーゼが含まれた話となっている。

今回の劇中でねずみ男泥田坊の解説をしていたが、これは鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』から引用したものだ。

ja.wikipedia.org

土地に執着するという点では地縛霊と同じ部類にカテゴライズ出来るのではないだろうか?

 

田は返らない

これまでの2~5期の泥田坊回では、「小さいながらも泥田坊が住める田んぼを残す」「田んぼ付きの一戸建てという形でセールする」という、融和的な解決方法をとってきたが、今期は痛み分けとでも言うべき決着を見せている。

これは、今までのシリーズでは人間側の一方的な開発に反省すべき点があるという設定だったからだと思うが、今期の場合人間側にもやむを得ない事情があり、一概に人間が悪いと言えないのが特色となっている。

30年前のゴルフ場開発時の一件は確かに人間側に落ち度がある。バブル景気真っただ中の時代に行なわれた開発は崩壊後の現代から見れば、良くも悪くも人々が「調子に乗っていた」頃であり、人間の都合で行われた開発に泥田坊や鬼太郎が怒るのも無理はないだろう。

ただし、30年後の現代におけるメガソーラー発電所の開発は以前とは事情が違う。開発は財政破綻寸前の市の打開策であり、既に人と金が動いている。

 

ここでちょっと考えてもらいたい。もし仮に泥田坊の要望通り開発を中止して土地を田んぼにしたとしても、誰がその田んぼを管理するのだ?そしてその費用はどこから捻出されるのだ?

先述した通り市は財政破綻寸前。当然ながら市に管理費用を出すだけの金は無いし、財政破綻寸前の市に新たに田んぼを管理してくれるような人が来る訳が無い。実際に財政破綻した夕張市のこと(以下の記事を参照)を思い浮かべれば、泥田坊が理想とするような豊かな田んぼを維持することがいかに困難なことか、それは明確にわかるだろう。

gendai.ismedia.jp

つまり、土地を開発しようがしまいが、田は返らないのである。

 

黒須が隻眼である理由

 今回人間が一概に悪いとは言えないもう一つの理由が、発電所建設に関わる社長の黒須の存在である。

彼は30年前に暴れた泥田坊によって、開発に携わっていた父親と己の右眼を喪うことになった。そして30年後の現在、一児の父親となった彼は亡き父が死の直前に語った〈開拓者の信念〉とでも言うべき思いを受け継ぎ、開発を頑なに行おうとした。

※データ消去前は黒須父が言った〈開拓者の信念〉を引用したのだが、また引用するのが面倒なので割愛。すまぬ…。

 

ここで「何故黒須は片目を喪うことになったのだろうか」と疑問に思った。別に黒須を隻眼にしなくても話としては成立するはずなのに。この描写には何かしら理由があるのでは?と考えていたら、「そういや泥田坊も鬼太郎も片目だったな」ということに気づいた。しかも泥田坊と鬼太郎は左眼が無いのに対し、黒須は右眼が無い。

左眼と右眼。これは何かの対比に違いない。では何を対比しているのか?

自分なりに考えた結果だが、これは「過去と未来の眼差しへの対比」ではないだろうか?

左眼の無い泥田坊と鬼太郎は言わば過去に執着する者たちである。自ら開拓した豊かな田んぼに執着する泥田坊。過去に起こした人間の開発を身勝手なものとみなし、それ以降「人間は自分達のことしか考えていない」とレッテルを貼るようになった鬼太郎。思いは違えど、どちらも未来を生きる人間に希望を持っているとは思えない。

(鬼太郎はまなと関わったことで一応考えが軟化しているだろうけど、それでも人間とはまだ一定の距離感を保っている節があるからね…)

一方の黒須は開発により良き未来を見出そうとする者。自分が死ぬことになろうが開発を続けようとする姿は、過去の悲劇を顧みない身勝手さをはらんでいる。

 

ここでどっちが良いとか悪いとか議論することはしない。盲目とまではいかないが、どちらも客観的になれない事情があるが故の衝突だからだ。

というか、そもそも泥田坊は理屈が通じないからな。人間側のやむを得ない事情を斟酌する能力もないというか、対話が出来ない。だから鬼太郎は今回の決着に関しては結構モヤモヤしたものが残っただろうな。

 この割り切れなさも鬼太郎のイイ所だよね。泥田坊も黒須も開拓者という点では同じだけど、根底にある考えが違う。そのすれ違った感じがより物語に奥深さを与えている。

 

結局、開発は中止となり土地は立ち入り禁止区域として放置されることになったが、この様な痛み分けの決着をもたらしたのがねずみ男だというのも脚本の巧い所だと思う。もしねずみ男が今回の件をマスコミにリークしてなかったら、被害はもっと甚大なものになっていた可能性があったからね。

 

 

さて、そんな土地を巡る妖怪と人間の争いという真面目なテーマの次に来るのが「狒々のハラスメント地獄」というギャグ回臭が凄そうなサブタイトルの物語。

てっきり横谷氏の脚本だと思っていたら、どうやら新たな脚本家の方が参戦するみたいなのでこれは見逃せない。勿論、ハラスメントがテーマみたいだから単に笑える話で終わらないだろうが。