タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

原作実写化成功のカギは「作り手の誠実さ」と「センスの良さ」

Twitter の方で話題となっている原作実写化における原作者と制作側とのトラブル、何の因果か以前当ブログでも触れた「霊媒探偵・城塚翡翠」「invert 城塚翡翠 倒叙集」と同じ日テレの日曜ドラマ枠で起こったみたいで、漫画「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子氏のツイートが発端となり、ドラマを担当した脚本家の相沢友子氏のバッシングをする人が出るという始末で、まぁ実に嘆かわしいというか不毛な事態になっている。

 

この騒動が予想以上に炎上したこともあってか、芦原氏は発端となったツイートを削除し謝罪しているが、問題なのは実写化にあたって原作者の依頼をなおざりにしたプロデューサーや出版社の担当者といった仲介役の不手際であり、脚本家を叩くことはお門違いも良いトコだし、原作者にこのような告発・謝罪のツイートを出させた時点でドラマ化に関わったスタッフや出版社はプロの仕事人として失格だと思うのだ。

 

※2024.01.29 追記

芦原妃名子氏がお亡くなりになったそうです。記事をアップした直後にこの訃報を知ったので正直ショックが大きいです。ドラマは見ていなかったとはいえ、このような最悪の事態を迎えてしまったことを残念に思います。

 

tariho10281.hatenablog.com

今回の騒動については「霊媒探偵・城塚翡翠」の原作者と同じ事態になっているため日テレはまたしても同じ過ちを繰り返したことになるが、相沢沙呼氏の時以上の炎上となった今回の騒動で改めて原作の実写化について私も色々と考えたのだけど、個人的に今回の一件も含めて原作を実写化する上で重要なのは「作り手の誠実さ」ではないだろうか?

では「誠実さ」とは具体的にどういうことなのかという話になるが、原作者との相互理解や取り決めの上でドラマ(映画)が制作されているか、というのは最低限守るべきラインであるのは勿論のこと、原作が何を大事にしており、どういった作風なのかといった作品に対する理解度も「誠実さ」として反映されてくると思うんだよね。

 

tariho10281.hatenablog.com

例えばミステリマニアの間で話題となった「貴族探偵」は、放送当時誰が言ったか知らないけど「『原作に忠実』ではなく『原作に誠実』」というコメントがあった。正にこれって「貴族探偵」の実写化成功を端的に表した言葉だなと思うし、原作者の麻耶雄嵩氏の作風を理解した上で原作の設定をいじって謎解きを改変しているから、原作以上に濃度の濃いミステリになっていて本当に面白かったし、毎回こちらの予想を上回る改変になっていた。視聴率とか一般的な評価だけを見ると成功したとは言えないかもしれないけど、原作の実写化という点では間違いなく大成功したと言える作品だ。

 

「作り手の誠実さ」は作品に反映されるから決して視聴者に伝わらないなんてことはないし、確か映画「大怪獣のあとしまつ」の制作陣が映画公開後に「こちらの伝えたいことが伝わらなかった」とネット記事で述べているのを見かけたが、あれは作り手側の言い訳にしか過ぎず、怪獣映画を制作する時点で特撮マニアが映画館を訪れるという単純な予想すら出来ていない。そこが視聴者(観客)に対して不誠実なのだ。

 

誠実さに関して言えば、最近のドラマは人気のある俳優をやたらと使いまわしており、何クールも連続で出演している方を見かける機会が増えたけど、これも正直言うと「人気のある俳優・アイドルを出せば視聴者は喰いつくだろう」という作り手側の舐めた姿勢を感じる時がたま~にあるし、ファンの「俳優・アイドルを応援する心理」を利用しただけの作品は得てして駄作になりやすい。売ることを意識して作品に向き合わないのだから、その結果単に原作のストーリーをなぞるだけの作品になった実写作品も多々見受けられる。

 

過去の実写化作品を例に「センスの良さ」を語る

さて、原作を実写化する上では、作り手が誠実だからと言って成功するとは限らない。実写化においては「センスの良さ」も重要なポイントとなるのだ。それを語るためにここからは具体的な実写化作品を例に出していこうと思う。

 

LIAR GAME 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

実写化作品の中で個人的に「センスの良さ」で勝利した作品として真っ先に挙げられるのは甲斐谷忍氏が原作のLIAR GAMEだ。ドラマと映画を見た上で原作にも目を通したけど、もし原作通りやっていたらあそこまでの人気シリーズにはなっていなかったのではないかと思う。原作は確かに良く出来た緻密な作品だけど、一方でどこか地味であり特別キャラクターに魅力があると言いにくい作品だ。

しかし、ドラマはゲーム会場が非日常的空間として参加者にやすらぎを与えない空間として演出されているし、登場するキャラも原作以上に性格が誇張されているというか、フクナガに関しては全くと言って良いほど別物だからね。でもあのドラマ版のフクナガの存在がライアーゲームにおける参加者の心理――人を騙し出し抜く快感と冷血になり切れない人間心理――を一人で体現していて、オリジナルのキャラ造形として作品にマッチしていたと評価出来るし、単調になりがちな心理戦を彩っていたと言えるだろう。この世界観の演出とキャラ設定の改変は、ドラマ制作陣最大の功績であることは間違いない。

 

新・信長公記~ノブナガくんと私~(1) 新・信長公記 ノブナガくんと私 (ヤングマガジンコミックス)

比較に適しているかわからないが、同じ甲斐谷氏原作の漫画「新・信長公記も「センスの良さ」という点で触れておきたい。あ、比較なので勿論こちらは駄作として語るよ?

 

tariho10281.hatenablog.com

この作品は2022年に読売テレビ制作で実写化されており、もう既に当ブログでレビューはしているが、改めて言及するとドラマは原作で私が面白いと感じたポイントをことごとく潰している

ライアーゲームほどではないが、原作は「旗印戦」という自分が掲げたマニュフェストを達成することでポイントがもらえるというゲームがあり、そのゲームで勝てば学園のトップになれるので、学園のトップになるため戦国武将のクローンが時に謀略を張り巡らせ、時には不良漫画らしくバトルを繰り広げるといった物語だ。だから「旗印戦」が本作最大の見所であるのは勿論、戦国武将のクローンが登場するため当然本作には歴史モノとしての面白さも詰まっている。歴史の教科書を読んだだけではわからない戦国武将の性格やそれを示したエピソードが挿入されており、そこも原作を読んでいて面白かったと感じたポイントだ。

 

ドラマも前半は原作の展開をなぞっていたのだけど、後半から「クローンはオリジナルの宿命を乗り越えられるのか?」という正直よくわからないドラマオリジナルのテーマが盛り込まれて、原作の「旗印戦」の行方が最終回に向かうにつれどうでもよくなっているのがマジでクソみたいな改変だし、ドラマで挿入された歴史ネタも原作と比べると薄くてマニアックさに欠ける。

最終回なんて酷いよ。ドラマは原作とはまた別のラスボス的存在がいるのだけど、そのラスボスが「明日の戦いの前に宴でもしたらどうか」って敵側の戦国武将のクローンに提案するんだよね。ネタバレだけど、このクローンは遺伝子操作が原因で成年になる前に死ぬという定めになっており、ラスボスはそれを踏まえた上で「どうせお前たち遅かれ早かれ死ぬのだから最後に別れの宴でも開けば?」って言うんだよ。で、それでクローンたちはどうしたかと言うと、普通にラスボスの前で宴をやるんだよね。

いやバカの集いかよ!?

何呑気に言われた通りに宴会してるんだよ!仮にも戦国時代に名を馳せた武将のクローンだったら宴で楽しむフリしながらラスボスの寝首をかくような計画でも立てろよ!本当に成年に達する前に死ぬのかとかそういった裏取りも全然しないで、何ラスボスの言ったこと鵜呑みにして、翌日ノープランでラスボスが用意した兵隊と戦ってるんだよ!

 

元々原作もそのままドラマ化するには少々問題がある作品だったことは以前のレビューでも言及したが、それでもドラマ後半の脚本のクソさ加減に比べたら原作の方がマトモに感じるし、原作の方が明智光秀のキャラも立っていた。ドラマの要所要所で挿まれた各武将クローンの因縁も実に陳腐で薄っぺらいし、全てにおいて「この原作をドラマ化する必要あったか?」って思うくらい原作の実写化の必然性を感じない作品だった。

この脚本の改悪は「原作の実写化」という点で不誠実だったと思うが、センスの面について触れると、ドラマの後半では海外偉人のクローン(ペリー、ジャンヌ・ダルク始皇帝が登場する。まぁ作り手側としては当時の戦国武将が対峙したことがない海外偉人と出会ったらどうなるかという面白さを狙って盛り込んだオリジナル展開だと思うが、個人的な意見としては「海外偉人を出す前に先に顕如を出せ!」と言いたかったね。

 

tariho10281.hatenablog.com

同じ織田信長を題材にした「信長のシェフ」でも描写されていたように、顕如は僧侶でありながら約10年もの間、信長の日本統一を阻んだ実力者である。全国各地に信者がいて武装蜂起すれば何十万もの民衆が兵となる脅威的存在だったのだから、どうせオリジナル展開にするのだったら顕如に相当するようなキャラを出して欲しかった。この辺り、どうもドラマの制作陣は制作にあたって歴史の勉強とかしてなかったみたいだし、海外偉人との絡ませ方も全然うまくなかったから、そこも不誠実というかセンスがないと感じさせられたポイントだった。

あと戦国武将のクローンもな~、熊本出身の武将だから熊本弁喋らせるとかキャラ設定が安直過ぎるし、最終回で登場したオリジナルの信長も永瀬廉さんに似合わない口ひげつけさせて、あれじゃあコスプレだよ。

 

以上を見ると日テレや系列局の読売テレビはろくな実写化をしてこなかったという印象を抱くし実際そうなのだけど、一応日テレの実写化作品で「これは面白かった!」と言える作品もある。

映画 妖怪人間ベム

それが2011年に実写化された妖怪人間ベムだ。原作は1968年に放送された同名のアニメであり、三体の妖怪人間がいつか人間になる日を夢見ながら、この世の悪と戦う怪奇ヒーロー譚である。

原作アニメは人間以外にも悪鬼・悪霊といった異形の存在とも戦うが、ドラマはそういったオカルト要素はなく、人間の心の闇を主軸にしたサスペンスとして描かれている。

 

このドラマ版「妖怪人間ベム」、原作の知名度は高いものの、そこまで詳しくアニメの各エピソードについて知っている人は少ない(実は私もそうなのだけど…)こともあってか、妖怪人間の基本設定以外はほぼオリジナルで、亀梨和也さん演じるベムも原作のビジュアルとはかけ離れたキャスティングだ。それでもこのドラマが素晴らしいと言えるのは、ドラマを通して人間の愚かさや愛しさ・素晴らしさというものを描いている点にあると私は思うのだ。

ドラマでは社会からのけ者にされたり、肩身の狭い思いをしていた人々がある切っ掛けで闇堕ちし、そういった人々が起こす事件を止めにベムたちが動くというのが大まかなストーリーだけど、こういった人間の心の闇や歪んだ精神によって引き起こされる事件は今現在でも度々起こっているし、ある種普遍的なテーマでもある。だから普通に考えるとそんな人間になりたがるベムたちの考えって理解出来ないというか、「いや人間になんてならない方が良いよ…」って言いたくなる所だけど、このドラマは緒方一家や夏目刑事一家との交流も描かれることで人間の温かみという、「人がもたらす絶望」だけでなく「人がもたらす希望」も描いているのが素晴らしいポイントで、そこが描写されているからベムたちが人間になりたいという思いにも説得力があるし、三体の妖怪人間のひたむきさ・実直さに私たち視聴者も胸が熱くなるのだ。

 

物語はオリジナルとはいえ、妖怪人間が人工的に作られた怪物であることや、柄本明さんが演じた裏で暗躍する男の存在は、海外の有名な怪奇小説フランケンシュタイン』や『ジキル博士とハイド氏』にも通じる所だし、このドラマが実写化として成功した裏には海外古典でも描かれた人間の愚かさや本質を作品に反映させたことも大きいと今更ながら気づいた次第だ。

 

見たいもの・期待しているものをみせない駄作

実写化失敗の原因の一つとして今ちょっと思ったのだけど、原作を読んでる・知っている人ってある程度「こういう作品であってほしい」という期待や、「実写化するならここは外してほしくない」という要望は少なからずあるはずで、そういった視聴者(観客)の期待や要望から外れた実写化は駄作になる傾向が高いのではないだろうか?

 

tariho10281.hatenablog.com

以前私が酷評したドラマ「地獄先生ぬ~べ~」も視聴者が期待するモノをことごとく外した最低最悪のドラマだったけど、今思えばぬ~べ~の恩師である美奈子先生と覇鬼が登場しているのに、ぬ~べ~がどのように覇鬼を左手に封印したのかという原作でもかなり重要なエピソードを全っ然描いてないというのが今更ながらビックリするよね。原作ファンにとっては当たり前の情報だけど、仮にもドラマ化するのだから原作含めてぬ~べ~を全く知らない人が視聴する可能性だってあるのに、肝心要となるエピソードを映像化しないで人体模型とか怪人「A」とか、とにかく話題性ばかりを狙ったエピソードやキャスティングに意識を向けていて、何かそういう点でも「ホントにこの制作陣原作好きなの…?」って疑問しかわかない。っていうか、この制作陣はドラマ制作ではなくコスプレ・コント番組を制作する方がセンスも活かされるし、そういう采配が出来る人がいたらこんなクソ実写も生まれなかったんだけどな。

 

そういや調べてわかったけど「ぬ~べ~」のスタッフって「臨床犯罪学者 火村英生の推理」と同じだったんだね。

臨床犯罪学者 火村英生の推理(DVD-BOX)

これは「ぬ~べ~」ほど駄作認定されてないし、放送当時は一定の評判もあって Hulu で続編が制作されたくらいの人気はあったみたい。でも一人のミステリ好きとして言わせてもらうと、原作者はエラリー・クイーンをリスペクトしている作家なのに、このドラマはかなりシャーロック・ホームズシリーズを意識した作品になっていて、「探偵=ホームズ」という従来のミステリドラマの型に原作を当てはめて制作されている辺り、やはりこの制作陣は勉強不足だよなと思わずにはいられない。原作に登場しないシャングリラ十字軍という新興宗教とか、ライヘンバッハの滝を意識した最終回とか、まぁ改悪とまではいかないにしても従来のミステリドラマのお決まりのプロットである感じは否めない。

個人的にこのドラマで酷いなと特に思ったのは7話の「朱色の研究」の解決編。この場面の火村って目の前に事件関係者がいるのに、相手の神経を逆撫でするような語り方で推理を披露していて、ちょっと見ていて不愉快だなと感じてしまった。仮にも大学で犯罪学を教えている人がこんな無神経なことをする?って思ったし、「名探偵は賢い分、空気を読まない発言・態度をする」という従来の探偵像を火村にやらせているのだからそこも実にタチが悪い。

 

そもそも映像化された原作エピソードを見た感じ、長編は『ダリの繭』と『朱色の研究』『狩人の悪夢』で、それ以外は短編エピソードをチョイスしているから、この制作陣って作家アリスシリーズを特別実写化したかったのではなく、従来の探偵モノを作る上でどの原作・どのエピソードが相応しいか?という目線でエピソードを取捨選択したんじゃないかと思う。ファンだったら原作で人気のある「スイス時計の謎」とかシリーズ最初の『46番目の密室』をまず映像化してほしいと思うのに、実際に映像化されたほとんどはマイナーな短編ばかり。この点だけを見てもドラマからは作家アリスシリーズを映像化したいという気概が感じられないし、とりあえずミステリドラマをやりたいからこの原作を借りたという印象を受けてしまう。

 

さいごに

ということで過去の実例をもとに原作実写化に必要なのは「誠実さ」と「センスの良さ」だと語ってみたが、「誠実さ」に欠けた作品は原作や原作者に対するリサーチや勉強が不足するため従来のドラマにおけるプロットを無理やり当てはめたストーリーに改悪されたり、さして内容のない薄っぺらい物語がオリジナルで挿入されるという事態が引き起こされる。そして制作陣にセンスがないと漫画(2D)を実写(3D)に置き換えた時に生じる問題がイメージ出来ないから、コスプレ大会とでも呼ぶべき作品が生まれてしまう。

ただ、くれぐれも気をつけなければならないのは、どんな駄作・失敗作でもそれは一人の人間の一存で作られている訳ではないし、脚本がクソだからと言って脚本家が全部悪いかというと、そうとも限らない。こういったドラマ制作の内情は私たち一般視聴者には基本的には伝わらないのでどうしても部分でしか物事を評価出来ない面もあるが、2016年に読売テレビ制作・バカリズムさんが脚本を務めた黒い十人の女では、確か6話か7話でドラマ制作の内情が一部描写されていて、そこではプロデューサーや演出家・脚本家が集まってドラマの内容をどうしていくか打ち合わせをしていた。そしてプロデューサーの無茶ぶりで脚本がどんどんカオスになって、そのくせドラマがコケると脚本のせいにされるという脚本家の悲喜劇が描かれている。ドラマ自体は不倫をテーマにしたドラマなのでドラマ制作の悲喜劇がメインではないのだけど、原作者とドラマスタッフとのトラブルが顕在化した今、改めて視聴されるべきドラマかもしれない。TVer とかで配信すれば良いのにね。