タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

相沢沙呼氏のツイートから考える、映像作品と原作との間に横たわる深き「溝」

昨年日テレで放送され、当ブログでも感想記事をアップした「霊媒探偵・城塚翡翠」「invert 城塚翡翠 倒叙集」の原作者であり脚本協力をした相沢沙呼氏が自身のTwitterアカウントでドラマ制作においてのトラブルや、そのことを一部週刊誌で悪者と誤解されるような書き方をされたこと、にもかかわらず当のテレビ局や出版社は擁護もなく無視するという態度をとっていることに対して、憤慨を通り越して悲しみで打ちひしがれている旨のツイートを連投している。

 

twitter.com

ツイートの全てを引用したらかなりの数になるのでここには挙げないが、どうも制作当初から相沢氏は映像化には難色を示していたものの、テレビ局(日テレ)と出版社(講談社)がゴリ押しするような形で映像化決定にこぎつけ、ご存じの通りドラマ化には至ったものの、脚本(トリックやプロット)面で譲れない部分があったようで色々揉めた様子。それを週刊誌は原作者の相沢氏が「自作に変にこだわってドラマを延期させた面倒くさい原作者」であるかのように書いたらしい。

「らしい」とハッキリな情報を書かないのは、そういうネガティブな記事を読むと閲覧数に貢献する、つまり週刊誌の利益になってしまうのでそこはご了承願いたい。この週刊誌の記事が相沢氏には相当堪えたようで、テレビ局や出版社に週刊誌の記事内容に対して否定するとか、そういう働きかけをお願いしたものの何もしてもらえなかったことに絶望した模様。

 

※(2023.04.18 追記)

講談社が正式に相沢氏にお詫びの声明文を出したようです。

kodanshabunko.com

とはいえ、(長文ならまだしも)これだけの声明を出すのに約四ヶ月かかっていることを思うと、やはりこれ以上の泥沼化を避けるために仕方なく出した、という印象が拭えないのが正直な意見です。

 

ツイートは4月のものだが、ドラマの放送が終了してから相沢氏は度々この一連の出来事についてツイートしており、それだけに氏の怒り・やるせなさが伝わってくるというものだ。

私は別に相沢氏の作品のファンとしてではなく一人のミステリ好きとしてこの一連のツイートを追っていたが、ミステリに限らず原作と映像作品が奇跡的なマリアージュを果たすことって滅多に起こらないし、そこは割り切って商業として、或いは生活の糧として原作を映像化しなければならないと、そう思っている原作者だっているだろう。

 

とはいえ、(全てではないにせよ)テレビ局側に対して「ホントに原作・原作者に対して敬意払ってるのかな…?」と疑問に思うような作品が世に放たれているのも事実で、そこは作品を愛読するファンが厳しく批判し、原作者は静観するというのが基本的なパターンである。

 

でもさ、こういう時に原作者が寛大にならなきゃいけない、もしくは黙って静観しないといけないのってホントは良くないと思うのだがな。だってドラマにしろ映画にしろ制作側は原作を借りている訳でしょ?借り物を勝手にアレンジされるって、要は消しゴムを貸したら、返って来た消しゴムの側面にマジックペンで変なイラストが描かれてたみたいなモンじゃない?大抵の人は「何勝手に人の消しゴムに絵描いてるの!?」って怒るでしょ?「いや~、私の消しゴムに彩りを与えてくれてありがとう!」って言います?

そりゃ、そのイラストが凄く自分の感性に合ったものならそれで良いかもしれないけど、大概は借り物を勝手にアレンジして許す人なんていない。にもかかわらずそれが許されてしまうのが、原作の映像化の特殊なポイントだ。

 

テレビ局は原作の映像化が出来るおかげで、毎クール放送枠に穴を開けることなく新作ドラマを供給することが出来ているのだから、本来ならもっと感謝すべき所なんだけど、それが当たり前になっているのか時々人の褌で相撲を取ったような作品もある。つまり、原作のプロットを利用してドラマの脚本家が「俺が考えた原作とは一味違う物語や」というエゴ丸出しの作品が放たれている。オリジナルでひねり出した物語ならともかく、別の人が考えたプロットを利用して、しかもそれが改悪的なアレンジをされたらそりゃファンは怒るよ。

そしてそういう改悪作品は映画・ドラマ共に数多くあるにもかかわらずそれに対して抗議する原作者はビックリするほど少ない。駄作にされてもそれが原作に触れる切っ掛けとなればそれで良いと思っている人が多いから敢えて抗議しないのだろうが、そうなってくるとまるで相沢氏が狭量な考えの持ち主になってしまうのが厄介だなと思わされる。

 

一応言っておかなければならないのは、他のジャンルの作品はまだしも、ミステリは特に物語に整合性がないといけないので、トリックやロジックなどに不整合があってはいけないし物語の質を落とさないためにも原作者が口出しをするのは当然だ。そこをちゃんと描かないと「この原作者のミステリって大したことないな」と誤解されるし、原作を読む切っ掛けにすらならない。だから相沢氏が口出しをしたのは面倒な性格とかそういう問題ではない。ある意味今後の生活・作者生命に関わるからこその口出しなのだ。

 

「原作に触れないドラマ評論家」問題

これは2017年に放送されたドラマ「貴族探偵」で私が感じたことだけど、ドラマを見た方ならご存じの通り、ドラマ「貴族探偵」は原作ファン(原作既読者)と原作未読者(いわゆるドラマ好き)との間にもの凄い熱量の差があった作品で、原作ファンは改変がミステリとして凄いとか、麻耶雄嵩の作風を理解した映像化として評価した一方、ドラマウォッチャー界隈は主演の相葉さんの貴族らしくない貴族像や、推理しない探偵という理解不能な設定が受け入れられず低評価を下した。

これはミステリマニアとドラマ好きとで評価ポイントが違うため仕方ない話ではあるが、この時にドラマ評論家はドラマだけを見て評価していることに気付かされた。一度でも麻耶氏の原作を読めば、あのトリックに特化した作品をよくぞエンタメ作品として映像化したなと驚くだろう。「人間が描けていない」という各有識者の意見にしても「いや原作自体そういう作品だから…それが売りじゃないし…」と当時は突っ込んでいたし、週刊フジテレビ批評で貴族探偵が酷評された時は、その評価の公平性に対して物申したいことがあったので公式サイトに意見を送った。

 

何故こんな話を持ち出したかというと、これは相沢氏の一件とも関わることだからだ。ドラマ評論家が原作も踏まえた上でドラマを評価しないのは、勿論先入観を持って作品を鑑賞・評価しないために原作を遠ざけているという向きもあるかもしれないし、放送されるドラマ全てに目を通していたら原作に触れる時間的余裕がないという現実的な事情も当然あるだろう。しかし、それだけに偏った評価になっているのもまた事実で、原作が何を大事にしているかとか、そういう視点が削がれてしまう。人間関係の奥深さとか、映像から得られる情報の分かり易さとか、そういった非常に限定的な範囲でしか作品を評価出来ていないのではないかと私は思う。

これって原作者側からしたら不本意なことではないだろうか。映像化されることで自分が思っていない面が評価されて思わぬ喜びを得た原作者もいるだろうが、全くの筋違いなポイントを突いて低評価を下されたらたまったものじゃない。特にミステリというジャンルはトリックを重視すると人間ドラマ要素が薄まってしまうため、トリック特化型の原作だとドラマ化した際に低評価を下されやすい。「鍵のかかった部屋」はその辺りをうまい具合に回避した良い例だけど、基本的にトリック・ロジックを優先したら人間ドラマが薄くなるし、1クール10話が基本の今のドラマ作りの形式ではそのどちらも盛り込むのは厳しいのではないだろうか?

 

そういった厳しい事情・時間的制約のなかでドラマ制作をされていることを考慮せず、更に原作を無視してドラマ批評をするって、(素人はともかく)テレビで顔を出してコメントするような評論家の人がやっちゃマズいことだと思うし、それが巡り巡って原作や原作者が損することにつながると考えている。

相沢氏の一件と直接関わらない部分もあるかもしれないが、原作者の利になるよう制作する側は勿論のこと、評価する側も制作の苦労・こだわりをすくい上げられる目線を持つべきだと思った次第である。