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2005年版「妖怪大戦争」は名作になりそこねた怪作

今月1日から15日の20時までYouTube の角川シネマコレクションチャンネルで映画「妖怪大戦争」(2005年版)が配信されている。

 

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もう19年前の作品だということに「月日が経つのは早いわね~…」と思わずノスタルジックな気持ちになる。公開当時小学生だった私は両親とこの映画を観に行った記憶があるし、上映中も結構笑い声が聞こえていたから作品としてはウケた部類に入るのだろうが、今回久しぶりに配信で見てみると、非常に褒めたい部分もある一方で物語として問題点というか難点も見受けられたので、率直にレビューしよう。

 

(以下、映画本編のネタバレあり)

 

妖怪が戦わない戦争映画

妖怪大戦争(2005)

本作で神木隆之介さんが演じた主人公のタダシは、両親の離婚によって半年前から鳥取の母方の実家で母と祖父の三人で暮らしている少年だ。ある日、地元の麒麟祭りで麒麟獅子に頭を噛まれたことでタダシは麒麟送子という世界の平和を守る役目を負うことになる。その頃、魔人・加藤保憲は打ち捨てられた器物の怨霊の集合体である大怨霊・ヨモツモノを復活させ、捕獲した妖怪たちを機怪という魔物に変化させ操ることで人間世界を崩壊させようと目論んでいた。かくしてタダシは、妖怪たちの導きによって加藤の野望を打ち砕き、この世の平和を守るために戦う…というのが本作のあらすじだ。

 

この映画は角川グループ創立60周年を記念して制作されたもので、出演者もさることながら制作陣も実に豪華!あの水木しげる大先生だけでなく、荒俣宏氏・京極夏彦氏・宮部みゆき氏がプロデュースチーム「怪」として制作に関わっており、映画にもゲスト出演している。そして主題歌は井上陽水氏と忌野清志郎氏が担当している(しかも忌野氏は劇中でぬらりひょんとして出演)のだから、気合いの入れ方が半端ない。ちなみに監督は三池崇史氏である。

 

旧作の大映制作による「妖怪大戦争」は、異国の地バビロニアからはるばる日本にやって来たダイモンという妖怪を相手に日本妖怪が奮闘するわかりやすいストーリーだが、本作はかなり捻くれた作風で、妖怪大戦争」というタイトルなのに妖怪が戦わないという矛盾したプロットになっているのが本作最大の特徴である。でも私はこのプロットは決してダメだと思ってないし、むしろこのアイデアは「妖怪」という観点から見れば至極妥当であり、なおかつ秀逸なのだ。

 

確か脚本に携わった荒俣氏のインタビュー記事か何かで読んだ記憶があるが、そもそも戦争というのは人間の行為であって、本来妖怪は争い事とは無縁な存在であると荒俣氏は述べていた気がする。そう言われてみると、確かに妖怪とは一口に言っても山の怪・海の怪・器物の怪・獣の怪など、多種多様な種類の妖怪がいる。そんな妖怪たちが一致団結するということ自体不自然だし、妖怪は思想・スローガンといったものを抱えた存在ではない。そして人間のように死という概念が存在しないし、子孫というものもないから守るべきものが正味ないに等しい。だからハッキリ言って自分が何かされるのならともかく、異種族の妖怪が酷い目に遭っているからと言って、その妖怪たちのために戦う義憤なんて生じない。なおかつ、本作の敵は怨霊を使役し様々な術に長けた魔人なのだから、戦うメリットは皆無なのだ。

一般の人にしてみれば、「『妖怪大戦争』なのに妖怪が戦わないのはおかしいだろ!」って思うかもしれないが、私みたいなガチの妖怪オタクにとっては妖怪が世界の平和を守るというスローガンを掲げて敵と戦うことの方が違和感があるのだ。

 

ではどうやって「妖怪大戦争」的な状況を作り出すのかという壁にぶち当たるのだが、本作ではそれを祭りという形で日本中の妖怪が集まる状況を生み出しているのが実に素晴らしいアイデアだと思う。

というのも、本作の敵役である加藤やヨモツモノは「怨み」をベースにした存在だからだ。この辺りのことは専門的な話になるので詳しく解説すると、古来から怨霊や荒ぶる魂が生きた人間に災いを為すことを恐れた人々は、そういったモノたちを神として崇め奉ることで怒りを鎮め、自分たちを守る存在へと変化させたのだ。これが「祀る」ということであり、一説にはこれが祭りのルーツだと言われている。つまり、祭りには怨霊や荒魂の慰霊・鎮魂の目的があると考えられるのだ。だからこそ、怨みというマイナスの感情を原動力にする加藤たち悪霊軍団を制圧する上で、祭りは必要不可欠なのである。

それに、祭りを含む年中行事(桃の節句・節分・年越しなど)は新たな季節の到来をお祝いすると同時に、不浄なものや過去のマイナスな感情・出来事をすすぎ清めるといった意味合いもある。よく年末年始に「忘年会」だとか「年忘れ」といったワードを聞くと思うが、あれも負の感情を翌年に持ち越さない、新たな季節の到来と共にリセットするという意味が込められていると思うのだ。そういう観点から見ても、怨霊を相手にする上で「祭り」がいかに有効であるかわかるだろう。祭りには「まぁ、また春が来たら全てがきっと良くなるさ!」というポジティブシンキングな面もあるから、ある意味それが「怨み」に対する武器というか特効薬なのかもしれない。

 

という訳で本作は「戦争」というネガティブでマイナスな感情を抱くイベント「祭り」というポジティブでプラスの感情を抱くイベントに変化させるというプロットが実に秀逸で素晴らしいと思うが、では物語としてそれが十全に活かせていたかというと正直そうは思わないのだ。その点も含めてここからは本作の問題点について語ろう。

 

オチが雑すぎる

いきなりネタバレをするが、本作は主人公であるタダシが加藤を倒すのではない。加藤を倒すのは小豆なのである。

 

これ映画公開当時も唖然としたけどさ、いきなり「あ、あ、小豆、ズキズキ~♪」って忌野氏の軽快な歌が流れるから何だ何だ?と思ったら、一粒の小豆によって加藤もヨモツモノも倒されて解決されるっていうね。

まぁ、序盤からタダシの祖父の「小豆は体(みがら)にええだ」発言とか、どう見ても戦力外な妖怪・小豆洗いが一緒にいることとか、何となく小豆が物語の重要アイテムであることは伏線として敷かれてはいたし、言うまでもなく小豆は赤飯といったお祝い事の席で出される食品なので、怨みの権化である加藤を倒すアイテムという点では確かに意味のあるアイテムだとは思うよ?でもさぁ、これって民俗学とかある程度専門知識がないと小豆の効能というか魔除け的な意味合いが伝わらないと思うし、それが怨みを浄化するだけのパワーがあるというのもイマイチ説得力に欠けるポイントだ。

 

それにさ、タダシ(麒麟送子)のいる意味ないよね?

「全ては小豆が解決してくれました!」ってことになったら、じゃあこれまでのタダシの奮闘は何だったのって話になるし、折れた聖剣を修理するために命からがらヨモツモノ工場から脱出した一本だたらとか、犠牲になったすねこすりの存在はどーなるの?これじゃあ無駄な努力じゃないか。

これがギャグ漫画ならばオチとしてはアリだと思うし、実際本作ではギャグ漫画的な演出が要所要所に取り入れられている。しかし肝心の物語の結末までギャグ漫画のようなオチにしたのはハッキリ言って悪手だ。

 

一応改めて言っておくが、タダシは両親の離婚によって住み慣れた東京から母方の田舎へ引っ越すことになった少年だ。学校では地元の同級生にいじめられ、家に帰れば半分ボケかけた祖父がいるのだから、ハッキリ言って貧乏くじを引かされたようなものである。そんな少年がいきなり麒麟送子として選ばれ臆病風に吹かれながらも妖怪たちの導きによって加藤の野望を打ち砕く。そうしたひと夏の冒険によって大人の階段をのぼるというのが本作の主軸となるのに、肝心要の加藤を倒す下りが偶然の結果って、もう脚本として破綻してるんだよ。

百歩譲ってタダシに加藤が倒せなかったとしても、「大人の階段をのぼる」という本作のテーマを活かすのだったら、加藤がかつての日本人に怨みがあることを汲んだ上でそれでも今のやり方は間違っている、今加藤がやっていることは新たな怨みを生み出すことだということを、せめてタダシに台詞で言わせるなり戦いの中で感じさせる描写を入れたら、タダシが人として成長していることが視聴者にも伝わるのにそれすら描いていない!

 

結局タダシが大人になった描写って「親に無断で東京へ行ったこと」と「『まっ白な嘘』をついたこと」の二点だけど、「まっ白な嘘」って要は自分の為ではなく相手のことを思いやってつく嘘というだけの話で、何か脚本としてはうまいこと言ったつもりなのかもしれないけど、別に全っ然うまくないからね!

っていうか、相手に気遣って嘘をつくなんて本作のような大冒険をせずとも普通に日常生活送っていたら身に着くスキルだし、あれだけの冒険をして成長した部分がそれってしょぼくないかな?もっと重要なこと劇中で見聞きしたと思うんだがな~?

 

さいごに

以上、2005年版「妖怪大戦争」のレビューをしてみたが、思い出補正があるとはいえやはり大人になった今見ると最後のオチは酷い出来だなと思うし、「妖怪が戦わない『妖怪大戦争』」というアイデアで頭を使った結果ガス欠になってあんな雑なオチになったのかと邪推したくなる。

 

水木版 妖怪大戦争 (角川文庫)

ちなみに、漫画版の「妖怪大戦争」はタダシが主人公として加藤をキッチリ撃退しているので、個人的には漫画版の方がストーリーがわかりやすい上に、水木しげるロードのアレが思わぬ形で活かされるという点でも面白かった。

 

あ、誤解がないように言うけど映画はオチが酷いだけでそこに至るまでのストーリーは別におかしくないし今見ても面白かったよ!妖怪たちが度胸試しとしてタダシを驚かす下りはお化け屋敷に入ったような感覚だったし、溶鉱炉で溶かされる妖怪のエグさとか、川姫のエロい太ももとか、インディ・ジョーンズを彷彿とさせる場面とか、少年漫画的な描写が随所に盛り込まれていてエンタメ性は申し分ない。これは三池監督をはじめとする制作陣の功績と言って良いだろう。だからこそ本作は「名作になりそこねた」という感じが否めないのである。