タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

坂本拓弥『体育がきらい』を読んで、自身の「体育嫌い」を振り返る

いきなりだが、私タリホーは学生時代から一貫して体育及び運動というものが苦手かつ嫌いである。そんな私が Twitter『体育がきらい』という本があることを知った。

 

体育がきらい (ちくまプリマー新書)

著者の坂本拓弥氏は大学で体育・スポーツ哲学を教えている方であり、一見すると「体育好き」側の人間が書いた本ということで、未読の人には「どうせ〈体育嫌い〉を否定して〈体育好き〉になろう!とかそんな趣旨の論を展開してるんだろ?」と思うだろうが、本書は「体育なんて好きにならなくてもいい」という著者の主張を軸にしながら、体育嫌いの原因を分析していく一冊だ。一通り読んでみたけど、決して体育を得意とする人間が書いた鼻もちならない感じは本書には全くないし、体育やスポーツを教える立場の人間が「体育なんて好きにならなくてもいい」というこの主張も矛盾したものではない。体育やスポーツという枠に囚われず、健やかに身体を動かしてもらいたいという思いが本書には込められている。

 

体育嫌いの始まり

さて、本書では「体育嫌い」の原因を主に授業・先生・部活・スポーツ・運動という5つの観点から分析しているが、正にこの5つは私の「体育嫌い」の理由に当てはまる要素だ。

私の「体育嫌い」の始まりは小学生の頃だっただろうか。当時体育の授業でサッカーをやることになって、いざ対戦試合をすることになったのだけど、その際私がミスをすることが多くて同級生のK君に怒られまくったという記憶が残っている。その子は当然ながらサッカーが得意だったから私が下手クソ過ぎることにイラついたのだけど、それが原因で体育に参加したくないと先生に言ったような気がする。その時は先生の仲裁によってK君とは和解出来たけど、このサッカーのエピソードの他にも小学生の時は鉄棒が嫌というか、逆上がりが怖かった(視点が上下逆さになるという恐怖!)思い出があるし、昼休みのドッジボールにしてもボールがつかめないからとにかくよけまくっていたらゲームが終わってから同級生から「よけてばっかりでズルい」みたいな文句を言われて「そんなこと言われてもつかめないんだから仕方ないでしょ…」と思って何も言えなかった記憶がある。

 

卓球部時代の不満、納得のいかなさ

体育が嫌いだったとはいえ、一応中学時代は卓球部に所属しており、それなりに真面目に三年間卓球をやっていた。今思い返すと楽しい思い出もあったが嫌な、というよりしんどい思い出も結構あって個人的に卓球部の頃の思い出は私にとっては複雑なんだよね。

複雑なのにはいくつか理由があるが、まず第一に卓球部の部長が、何と小学一年生の頃に私をいじめていた先輩だったという点だ。これは当の部長本人は完全に忘れていて私のことは一部員としか見ていなかったみたいだけど、私自身は覚えていたから、そこで私は凄くモヤモヤさせられた。小学生の時はイヤな人だったけど、中学で卓球部の部長となったその人は普通にマトモだったから、その変貌ぶりに納得がいかなかったのかもしれない。

 

そして顧問の先生の存在が私のスポーツ嫌いの原因になったことも挙げられる。その先生は中学二年の時の担任で、担当教科は社会だった。生徒からの評判も良かったし教え方とかもプリントに図説とかを載せてわかりやすく説明してくれる人だったからまぁ総合的には「良い先生」だったとは思うけど、一方で部活の時の顧問・コーチとしての先生はあまり好きになれなかったんだよね。

その先生は過去にバスケ部に所属していて、学生時代の頃の話を私たち部員にしたことがある。どうやら当時バスケ部の顧問をしていたその教師はどうも暴力的な人だったみたいで、パイプ椅子をふり回して生徒を殴って鼻血を出させるような教師だったらしいのだが、先生はそれを引き合いに出して「それに比べたら今のオレの指導はマシなんだぞ」という、何かすっごい恩着せがましいことを度々言っていた気がする。そりゃそうだけど、それを引き合いに出して自分の指導方法の正当性を主張するというのがズルいなと当時も今も思う。

 

で、その先生って当時年齢が30代ということもあってか影響されやすい、ある種ミーハーな面があってそこも個人的にはイヤだった。それを裏付ける出来事があったのだけど、その出来事というのは実は一度学校に卓球で世界大会にまで出た経験のある人をコーチとして外部から呼んだ時の話になる。その時に呼んだコーチの影響を受けて先生は翌日のトレーニングを変更、打ち合いのラリーを20回やって失敗した回数だけ腕立て伏せをする(しかも回数を大声で数えながら)というこれまでよりも厳しいものにしたんだよね。厳しいのが嫌だったのは勿論だけど、その厳しさが外部からの影響を受けた非常にミーハーなものだったことが私にとって不快だったのだ。それをやって技術が向上するとか明確なメソッドがあるのならともかく、理由もないまま単に回数をこなして上達なんてするのだろうかという疑念があったから、そこも私の「体育嫌い」につながる原因かなと思った。

 

この先生に関する納得いかないエピソードはまだある。先生は中学生の頃はバスケ部だったが高校生の時は弓道をやっていたらしく、武道経験もそれなりにあった人だった。だからなのか、部活が夏休みに入っていつも以上に練習時間が長くなった時に、部室とは別の体育館の二階の武道場で空手の突きみたいなこともやらされて、「いや卓球部なのに何で空手とか武道をやらされるんだよ」って内心ツッコミながら練習をしていた。先生としてはスポーツにおける心技体とやらを教えたかったのだろうが、私としては「やりたくないことをやらされた」という記憶として残っているので試みとしては失敗したと言えるだろう。先生との二者面談の時だったか、私は先生から「(卓球部での活動に対する)貪欲さがない」と指摘されたことがあるけど、そりゃ私は元々運動が苦手な人間なのだから、「そりゃそうだ」と内心思ったし、三年間やってみたけどスポーツの面白さは全然わからなかった。むしろそれはしんどいものとして身体に刻み込まれたといった方が正確だ。

ついでにぶっちゃけると、試合の時に着用するユニフォームも私の好みでない赤色のユニフォームで正直イヤだったかな。もう一着青色のユニフォームもあったんだけど、みんな赤色ばっかり着るから青色着たくても着れなかったんだよね。

 

『体育がきらい』の文中で著者も述べているが、スポーツって勝ち負けが重要で競争することに意義がある。だから県大会とか大規模な試合になってくると熾烈さを増してくるし、気合いの入った学校なんかは選手がハチマキをしめて試合に臨み、コーチとなる先生も選手に顔を近づけて怒鳴っているという、もう傍から見ても弱肉強食という感じの世界だ。だからスポーツは楽しいものではないとわかって私は高校に入って文芸部という文化系の部活に入ったのである。

 

仲良くない子に足技をかけるという辛さ

中学時代の体育の授業や部活もしんどかったが、実は一番苦痛だったのが高校の体育の授業である。というのも、中学までは親しい友人がいたので体育や部活をやる上でもある程度の気楽さがまだあったのに対し、高校時代は友人がゼロだったので、親しくない人とスポーツをするということに物凄く抵抗感があったし苦痛だった

特に辛かったのが柔道をやる時で、まだ球技とかはミスをしても「ごめん」で済ませられるからともかく、柔道は生身の相手に足技をかけたり投げたりするから、もし失敗して怪我をさせてしまったらどうしよう…と内心ビクビクしながらやっていたし、相手に「こいつ下手くそ過ぎてやるのイヤだわ~」とか思われてないかなといった不安がよぎって常に気をつかいながらやっていたから気疲れが半端じゃなかった。「スポーツを共にやったら普通打ち解けられるものだろ」って思う人もいるだろうけど、全然そんなことないよ。しかも私が通っていた高校は三年生になると、授業を生徒たち自身が計画し行っていくというシステムだったから、そこでも自分のコミュ力のなさでかなり苦労した記憶がある。

 

こんな感じで私の〈体育嫌い〉の原因を振り返ってみたが、体育って陸上競技と武道系と球技、それから器械体操というオリンピック競技で行われるスポーツを授業でやるから、それが合わないとマジで苦痛だし、特に器械体操は体育だと跳び箱とかマット運動とかイヤだったね。まだ前回りとか後ろ回り程度ならいいのだけど、倒立とかホント怖さが勝ってやりたくなかったし、中学の時とか跳び箱の上で前転とか倒立をするのが怖い&やる意味が分からなくて心底苦痛だったわ…。

 

体育がスポーツの幅を狭めた

本書を読んで私が感じたのは、体育って身体を動かすことの楽しさを教えることに全然貢献していないし、スポーツというジャンルの幅を狭める結果になっていると個人的には思った。オリンピック競技がスポーツの王道みたいになっているし、スポーツと聞いて連想するものと言ったら大概はオリンピック競技になっている種目が大半だろう。でも実際は娯楽・ゲームとして興じられているボウリングだってスポーツの一つだし、ボウリングに似たフィンランド発祥のモルックというスポーツもあることを知ったのは大人になってからだ。こういった、ゆるく楽しめるスポーツの存在を除外して、やたら競争や勝ち負けに特化した競技ばかりを体育はやるから、そこが私としては気に入らないと感じるのかもしれない。

 

スポーツが報道番組で幅をきかせていることに対するムカつき

あと私が体育やスポーツ・運動というものに反抗心を感じる原因を自分なりに分析すると、その原因の一つとして朝のニュース番組でスポーツのコーナーが幅をきかせていることに対する不満があるのではないかなと思った。どの局でも朝のニュースでは芸能情報に加えてスポーツのコーナー、特に野球の試合や選手に関する報道は絶対にやっているし、文化・芸術的なニュースはほとんどやらないか、やっても軽く流されてあまり深掘りされない。そのくせスポーツは試合の動向とか選手の言動とかを細かく解説して朝の情報番組の全体の3,4割の尺をそれに費やすのだから、文化系のクラブ出身の私としては(普段は意識していないが)不公平で気に食わないと感じてしまう。

とはいえ、スポーツって他の芸術に比べて目で見てダイレクトに凄さが伝わるものなので、報道番組で特集されやすいだけの理由があるのも理解しているし、音楽なんかも演奏技術の凄さ、歌手の歌唱力がダイレクトに伝わる芸術の分野だから限られた放送時間の中でも伝わるしニュース番組で扱われやすい。絵画とか彫刻といったアートは作品自体は報道されるけど、作者についてはそこまで深掘りされないし、物によっては専門的な知識が必要となるから、そういう点でもスポーツ・音楽が報道番組において優遇されやすいのだろう。そういう事情があるのはわかるけど、やっぱりムカつく時があって朝機嫌の悪い時とか、「野球選手の年俸がどうとかどっちゃでもええわ、もっと報道せなアカンこと一杯あるやろ」って毒づきたくなるよ。

 

 

ということで坂本氏の『体育がきらい』、私の〈体育嫌い〉を振り返り整理する上で非常に役に立ったというか、意気込んで運動をせずとももっと気楽に身体を動かすという考え方をしても良いというこれまでの凝り固まった思考をほぐしてくれるような、そんな一冊だった。