タリホーです。

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ドラマ備忘録:「いじわるばあさん」 ~ 年寄りのステータスを考える ~

いじわるばあさん 1 (朝日文庫)

いきなり余談から始めるが、去る2月23日に母方の祖父が亡くなった。私が前の職場を辞めた頃から寝たきりに近い状態で、一時は私も母と一緒におむつ交換やらトイレの付き添いやら介護の手伝いをしたこともあった。その当時は正直しんどかったが今となっては小学生の時に大変世話になった祖父の介護が出来たことを少しながら誇りに思っている。最後に会ったのが去年の秋ごろで、もうその頃は長時間記憶がもたず私の顔を度々見て「この人は誰や?」と言うくらいにはぼけていた。

そんな祖父の葬式を終えて一息ついた訳だが、私にとって初めての葬式であり死体を見たのも初めてだったから、(不謹慎なことを言うが)悲しさよりも興味・関心の方がわいてしまった。棺に入った祖父を見た時なんか、生前と容貌が違い過ぎて綺麗なミイラだと思ったし、何か悪い冗談のようだとさえ感じてしまった。

 

今回ドラマ備忘録として長谷川町子氏の「いじわるばあさん」を選んだのは祖父の死が多少影響しているのだが、別に祖父は意地悪な性格ではない。口は悪かったが私には優しかったし、父方の祖父よりも親しい関係を築けていたと思う。祖父の死から何かしら老いや老人に関して語っておきたいと思っていた所、ちょうどこの「いじわるばあさん」を思い出したというだけの話である。

 

世相の変化と老人のステータス

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「いじわるばあさん」と言えば、やはり青島幸男さんが演じた1980年代のドラマが代表作となる。原作者の長谷川氏は原作とは別物の「青島ばあさん」として評価しあまり好意的なコメントは送っておらず、原作の四コマ漫画でも主人公の伊知割イシは「あたしのほうがよっぽどキリョウがいいよ」と青島さん演じる波多野タツに憤慨している。

 

とはいえ視聴者にはウケが良かったことは確かで、連続ドラマが終了した後もスペシャル版として度々放送され、1999年までそのシリーズは続いた。現在DVD化はされておらず動画サイトに断片的に残った映像を見るしかないのは残念な限りだが、それでも放送当時の景気の良さとか、コンプライアンスで縛られていないコメディドラマとしての痛快さを感じることは出来る。

元の原作が風刺的かつブラックユーモアの効いた作品ということもあって、現実的には意地悪を通りこして犯罪になるようなこともやらかしているが、そこはフィクションなだけあって大らかであり、ある種のガス抜き的存在、つまり現実世界でやってはいけないことを代わりにやってくれるおばあさん=視聴者のフラストレーションを解消してくれる存在として意地悪ばあさんが活躍していたと言って良いだろう。

 

よく「子供がマネするからテレビで流すな」というクレームがあるけど、あまり規制し過ぎると今度は逆に想像で済まさず実行したくなる輩も出て来る訳で、最近話題になった寿司チェーン店での迷惑行為なんかはその良い例だ。

普通に考えたら後々自分が痛い目を見るとわかるはずのことをわざわざやるというのは、勿論本人の想像力のなさもあるだろうが、余剰なエネルギーを発散出来ていない、つまりはガス抜きが出来ていないというのも原因のような気がする。そう考えると昔のバラエティ番組は多くの視聴者の「ガス抜き」にかなり貢献していたことになりはしないだろうか?

 

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1999年の放送から10年後の2009年にいじわるばあさんはテレビに再び現れるが、この時いじわるばあさんを演じたのは市原悦子さんで、前年の2008年に「家政婦は見た!」シリーズが完結したこともあってネット記事などでは「家政婦からいじわるばあさんへ」という形で宣伝されていた。

市原版は放送当時リアタイしており放送された3作は全て見ているが、コメディ全開だった青島版に対し市原版はキレる老人やオレオレ詐欺モンスターペアレントといった社会問題を物語に取り込んでいるのが特徴で、作風もややシリアス寄りになっている。青島さんが演じた意地悪ばあさんは意地悪を趣味にしており、それが楽しくて仕方ないという性格だったのに対し、市原版では意地悪の背景に老人の孤独・寂しさがあってそれがシリアスさに影響を与えている感じだ。

 

老人の孤独・寂しさは原作でも触れられているし、そういう点では市原版の方が原作の本質をつかんでいるような気がしないでもないが、コメディとして視聴者を楽しませた青島版からテイストをガラリと変えたのは、やはり青島版が放送された1980年代と市原版が放送された2000年代とでは老人に対する見方というか社会的な扱いが変化したことが間違いなく関係していると思うし、ただただ意地悪をするばあさんを描くだけでは視聴者に響かない時代になったということを示している。

私は1990年代に生まれた人間なので、80年代のことはあくまでも私の勝手なイメージ・偏見として話すけど、まだ80年代は高齢社会になる前ということもあって老いることもそれほど問題ではなかったというか、長生きしたらそれだけ人生の生き字引として尊重される時代だったと思う。バブル経済で社会が勢いに乗っていたこともあって、老人も隠居せず生涯現役として活躍するぞ!という気風が青島版からは感じられるような気がする。勿論、現在と同じような問題も少なからずあったかもしれない(というかあったに違いない)が、まだ顕在化する段階ではなかっただろうと思う。

 

市原版が放送された頃は高齢化社会となり、老人がある意味社会的に疎まれお荷物として扱われるような時代になった。生き字引としての社会的地位もインターネットの普及によって取って代わられ、無用の長物として持て余される存在になったとでも言えば良いだろうか?

だから市原版における意地悪というのは老人が必要とされなくなった時代で強かに、悪賢く、そして時には相手を思いやりながら生きていくための一種のサバイバル術として描かれている。もはや青島版の頃のようにガハハと笑いながら意地悪をする時代ではなくなったのだ。

 

このような世相の変化に伴う原作改変は「いじわるばあさん」だけでなく他の映像作品でもある。特に昨今のドラマは主人公に大義がないといけない風潮が強くなったというか、ただただバカなことをする主人公とか深い理由もなく行動する主人公ではドラマとしてダメだと評価されるようになった気がする。深夜枠のドラマはまだそういったキャラが主人公でも通用するだろうが、ゴールデン枠で多くの視聴者が見るドラマの場合はそういう訳にはいかないだろうし、昔よりも視聴者が物語に必然性というか論理性を求めるようになったと思う。

 

 

という訳で以上が「いじわるばあさん」の感想だ。市原版が2000年代に制作されたことは個人的には良かったというか、原作者の長谷川氏も多分市原版なら嫌な顔はしなかったのではないかとつい想像してしまう。

前回の「信長のシェフ」と今回の「いじわるばあさん」は実写化して良かったドラマとして紹介したが、次回は実写化して失敗というか未だに実写化したことを許していないドラマを紹介したい。