タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

「劇場版 美しい彼 ~eternal~」ネタバレ感想(物語に執着すること、原作との比較等々…)

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映画観てきました~!

 

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まだ公開されて日が浅いからネタバレなしの感想にしようかと思ったけど、そうすると観た時の新鮮な感想を忘れそうになるし、個人的な経済事情によりそう何度も映画館に通えないので、ネタバレありの感想でお送りする。

 

(以下、原作を含めた映画のネタバレあり)

※「物語を好転させていく平良」の項を加筆しました。(2023.04.19)

 

悟りとしてのアヒル隊長

映画本編の感想に移る前にちょっと今更ながら思いついたことがある。

tariho10281.hatenablog.com

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これまで当ブログで平良・清居の性格を中心にアレコレ言ってきた中で、平良の頑なさは一体何なのだろうと考えていたが、その理由の一つとして早々に悟りを開いて生き方を固めてしまった、というのがあるのではないかと思う。その象徴として劇中に度々出て来るのがあのお風呂に浮かべる玩具のアヒルである。

――なるべく心を平らかにすること。刺激に敏感にならないこと。

――汚れた人工の川を、クルンとした睫で流れていったアヒル隊長のようであれ。

(原作『美しい彼』より)

これは映画の冒頭の平良のモノローグでもあった台詞なので覚えている人も多いだろうが、平良がたまたまドブ川を流れているアヒル隊長を見て「これが自分の生き方だ!」と悟りを開いた。つまり、今自分はいるべき場所にはいない。でもこのアヒル隊長のように訳知らずな顔をしながら振る舞い生きることが自分に残された道だ、と己のライフスタイルを中学生の段階で固めてしまったことが、彼の頑なさ・自己肯定感の低さにつながっている。

悟りというと聞こえは良いが、言い方を変えれば一つの考えに固執している状態でもあり、他の考えや選択肢が受け入れられないということでもある。だから平良の清居に対する妄想の頑なさや、清居と別れるような状況になっても「いや、今までが異常でこれが本来の自分の人生なのだ」と折れてしまうのには、アヒル隊長から得た悟りが背景にあると思われる。

 

平良の生き方を見ると、やはり若い間は迷い戸惑い恥をかきながら、徐々に自分のライフスタイルを模索していくというのが一番なのだろう。平良の場合は心血を注げる清居の存在やお師匠さんとなるカメラマンの野口がいたから人生が好転している訳で、彼らと関わらなかったら味のない、灰色の人生を送っていたかもしれない。だからつくづく私は平良って果報者だよなと羨ましくなる時があるのだ。

 

全国の推し活をする者たち、肝に銘じよ

今回映画を観るにあたって原作は読まず、映画を観た後に帰宅してから原作を読むという形で作品鑑賞を行った。ストーリーに関しては平良が野口のアシスタントとして決まった直後の物語で、大学卒業の節目となる時期に起こった出来事が描かれている。

流石に映画ということもあって名シーンやBLドラマらしいエロティックな場面も数々あるが、それは他の方の熱量ある感想を読んでいただければ良いだろう。そこは餅は餅屋、私が今回の映画で注目したのは物語の軸となる安奈・桐谷の恋愛や、それが火種となって巻き起こる誹謗中傷・偏向報道、そして清居の拉致・監禁事件である。

 

清居が拉致・監禁される展開に関しては映画の予告やシーズン2の設楽の様子で薄々そういう事態にはなるだろうなと思っていたので個人的には意外でもなかったが、さぁそうなると平良が黙っているはずはないと察しが付く訳で。高校時代トマトジュースで清居を汚した城田に殴りかかったのだから、今回も平良があの時のように修羅と化し清居を助けに行くだろうな~と思ったら、はい、やはり平良は修羅になりました(嬉)。

あの場面はわかっていたとはいえ(変なことを言うようだが)ワクワクしたというか、「さぁ、平良よ。修羅と化しあの外道を血祭りにあげよ!」とまるで自分が悪の総司令官になったようで、映画を観ながら心の中で画面の平良に勝手に命令していた。バカみたいでしょ。

 

それはさておき、ファンとしてアイドルや俳優を応援する行為、いわゆる「推し活」は昔の「追っかけ」や「親衛隊」「オタク」と比べるとかなりパブリックになったというか、一般的な市民権を得たものになったなという印象がある一方、劇中のように誹謗中傷という形で転換されてしまうのも確かで、良くも悪くも私たちは応援する相手に自分が期待する物語を託してしまうものだと痛感させられる。

平凡な生活を送る人にとって推しの存在は日々の活力となるし非日常の世界である芸能界に身を置くアイドル・俳優・芸能人だからこそ描ける物語(=人生)がある。これは別に人間に限らず芸術作品や動物・植物にも言えることで、私たち人間は絶えず物語を渇望している。人の数だけその人ならではのドラマ(人生)があり、そのドラマに感銘を受けたり共感したり一喜一憂する。私たちが絶えず物語を求めるのは、自分の人生では得られないもの、成し遂げられないことを相手に求めるが故の行為だと私は考えている。食事では得られない心の栄養、それが推し活なのだ。

 

ただ、それが悪い方向にいくと、自分が求めるものを相手に押し付けたり、相手をコントロールして自分の思い通りにすることで自分の心の欠陥部分を補おうとする。つまり、自分の思い描く物語を相手に強制するという行為につながる。

今回の場合、正に設楽は自分の思い描くストーリーに沿わない行動をとった安奈や桐谷・清居に対して勝手に怒り、あのような凶行へと走った訳だが、この設楽の描写は原作と映画ではニュアンスが違うと感じていて、個人的には映画の設楽の方が病的なものを感じた。

というのも、映画で落合さんが演じた設楽は安奈そのものに執着しているというより、「赤いリボン」に出演していた時の安奈に執着していると言った方が正確で、原作のように結束バンドで清居を拘束せずリボンで拘束していた所から見ても、自分の思い描く物語を完遂させたいというダークな幻想・願望があったと思うのだ。

安奈が出演していた「赤いリボン」がどういう物語かは具体的な描写がないので推測の域を出ないが、シーズン2で清居が見ていた映像やDVDのパッケージ写真を見る感じ、どうも退廃的というか現実逃避的な作品に見えるから、恐らく設楽の描く幻想も多分に現実逃避の色が濃いものだったと思われる。事実、原作で設楽は自分の人生がボロボロで死のうと思っていた所を安奈の作品で救われたと述懐しているから現実逃避の作品に救われるのは当然の帰結というものだ。

心のスキマ、どころの話ではなく心の全てを安奈で塞いでいたのだからそりゃ狂気に走るのも無理はないが、映画はそこを赤いリボンやスクラップブックに貼られた無数の映画のチケットというアイテムで彼の病的な執着を表現していたのが巧かった。

 

今回の映画の話に限らず誹謗中傷や扇情的な偏向報道は現実にもある話で、それに踊らされることのないよう肝に銘じておきたいことを一応言っておく。こんな何の肩書もない一般人の私が言うのもアレだけど、皆さん、一つの物語に囚われてはいけませんよ?

先ほど言ったように人の数だけ物語があるのであって、当然ながら自分にとって気に入らないストーリーはこの世に多く存在する。そして中には幸福な人間を不幸の底に引きずり下ろすために悪意をもって物語を紡ぐ人間だっているのだから、そういう悪意ある物語に囚われ心がダークサイドに堕ちないよう我々はあらゆる人物のドラマ・物語を摂取しておく必要があると、この映画を観て改めて思った次第だ。

 

物語を好転させていく平良

設楽に比べて平良は(シーズン2の感想で言及したように)清居に期待しない。ある意味あるがままの彼を受け入れるスタンスでいるから、そこがファンとしては鑑・彼氏として失格というユニークな立場で面白いポイントと言える。自己肯定感の低さから自分を石ころだと卑下しているが、その石ころが周囲を翻弄させており、特に今回の映画では石ころ平良が事態を好転させていくのだ。

 

ドラマのシーズン1・シーズン2における平良はどっちかと言うと清居の心情を察しない面が強く「お前何でそこでそれ言っちゃうの!?」と、ほっぺたをつねってやりたくなるような憎らしさと愛しさがあった。勿論今回の映画でも平良独特の思想で清居との間にすれ違いが生じる場面もあったのだが、それをチャラにするくらい今回は平良のファインプレーが際立っていた。平良がいなければ、安奈と桐谷の恋は「ロミオとジュリエット」並みの一大悲劇になっていたことは想像に難くないし、清居の拉致・監禁は言わずもがなだ。自分のことになると身動きがとれなくなるのに他人のことだとさっと動ける平良のパーソナリティーがよく表れていたが、ここら辺は平良の4種体癖※1らしさが出ていたなと感じた。

 

平良のファインプレーに関しては安奈・桐谷・清居だけでなくカメラマンの野口にも言える話で、一般的な師弟関係ではない空気感が二人の間にはあるよね。野口は在りし日の自分を想起させる平良の存在が野口自身の人生の彩りになっている感じがするし、平良は野口の才能に触れることで自分が抑圧してきたエゴイスティックな願望(清居を独占したい)が表面に浮き上がってきたから、お互いの魂が良い意味で揺さぶられている。社会的には上下関係として片付けられてしまうだろうが、映像を見ると両者の関係は横の関係で、フラットなものだと見る人に伝わるようちゃんと描写されているのだ。

 

ちなみに、私が平良と野口の関係にフラットさを感じたのは、野口が過去の自分をさらけ出しているというのも影響していて、その過去にしても武勇伝とか自慢話ではなくある種の弱みというか恥ずかしい部分を自己開示している。

商業として成功するために野口はその弱みを捨ててしまったけど、その捨ててしまった部分に少なからず未練があったのではないかと私は思っていて、かつての自分が持っていた傲慢さというか過剰な熱意を平良に見出し、彼を手元に置くことで自分が辿ったかもしれないもう一つの人生(それは当然失敗とかではなく成功体験としての人生)を獲得しようとしているような、何かそういう願望を野口から感じるのだ。

三者から見ればこれは残酷な好奇心であり、平良の立場から見れば良い迷惑なのかもしれないが、自分の感情を抑圧しがちな平良を客観視してくれる野口の存在は平良に良い影響を及ぼすと思うし、清居との関係を発展させる上で、平良・野口の関わり合いは巡り巡って平良・清居の恋人としての関係を良くするのではないだろうか。

 

※1:4種体癖については上記のドラマシーズン1の感想記事を読んでいただきたい。

 

「戻る」ことで際立つエターナルな関係

平良と清居の関係の尊さについては今更私がここで言うまでもないと思うが、原作にはないドラマ・映画ならではの尊さを挙げるとしたら、それは二人の関係性の描き方にあると思う。特にそれが表れているのはドラマのシーズン2と今回の映画。これは原作を読んだからわかったことなのだが、原作には同窓会の場面はないし、映画のラストであった学校への侵入もない。

そう、ドラマも映画も平良と清居は過去に戻る体験をしているのだ。これはタイムスリップとは違い、部分的に過去に戻って在りし日の追想をしているというだけなのだが、殊更にシーズン2と映画はシーズン1での二人の出会いを想起させる出来事をオリジナルで挿入している。

これは何気に演出として巧妙だなと私は評価している。過去に戻ることで今との関係性の違いが明確になるのと同時に、二人だけしか知らない思い出という甘美で美しい彼らだけが共有する世界観の描写としても成功している。原作は性行為という形でそれが描けるから良いが、ドラマや映画でそれを完全に描くのは無理な話なので、過去の思い出という形で昇華させたのは実に賢明かつ英断と言って良い。

 

あ、言っておくけどこれは彼らが過去の思い出に浸って現在をないがしろにしているとかそういうことではないよ?二人が過去(学生時代)に戻るというのは、心がすれ違いがちな二人が唯一何のしがらみもなく交際していたのがあの頃だからで、その時期の心の触れ合いを追体験することで両者の衰退してしまう魂を再び活性化させるという働きがあると考えている。他の人には何の思い入れもない音楽室や階段、ビブスが干された手洗い場も、この二人にとっては初めて言葉を交わした出会いの場であり、平良の爆発的な怒りが放たれた場であり、純粋に青春を送っていた場なのだから。そこに戻ることでお互いの愛を再確認し合うという、ちょっとした「魂振り(タマフリ)※2の儀式」になっているとさえ感じる。

原作ではエターナルというワードはさほど重要ではないのだが、ドラマや映画ではエターナルが重要なワードとなっている。だからその分、関係を永続的なものにするための方法が原作以上に必要となってくるが、ドラマ・映画はそれを過去の思い出に見出した。原作における平良と清居の関係は牛歩の歩みのように発展したというイメージだったが、ドラマ・映画は三歩進んで二歩下がるといった形の関係の発展であり、そこが映像作品ならではのユニークな関係性を描写している。しかも原作の世界観を何ら損なったり邪魔することのない改変だから、いやホントに素晴らしいの一言だよ。

 

改変の妙については他にも例を挙げればキリがない(原作の鏡のシーンとか、ね?)が、原作を読んだ上でドラマ・映画を観ると、制作陣(特に脚本の坪田文氏かな?)は映像化した方が良い場面と小説として読んだ方が面白い場面の違いがちゃんとわかっている。今回の映画で言うと、原作には清居が平良の両親と対峙する出来事があって、そこで平良がいつものオタクモードで清居のことを語ったせいで変な空気になるという場面があったが、これは映画でやっていたら作品全体の空気に合わないというか、この場面だけが変に浮いてしまう可能性があった。

ドラマシーズン2の3話で平良が清居に放った爆弾発言にしても、原作では通過点(平良の独特な思想を表す場面)にしか過ぎなかった場面を起承転結の「転」として効果的に差し込んで来ている。これだけでも制作陣の力量の確かさが窺えるというものだ。

 

※2:魂振りは神道の用語で、衰弱した神霊の魂を呪物や体の震動によって励起することを指す。この反対が魂鎮め(鎮魂)で、荒ぶった魂を平時の状態に戻す行為を指す。

 

さいごに

以上、ドラマも含めて映画の感想をレビューしたが、この映画だけ見れば平良・清居の関係性の尊さがわかる訳ではないので、他作品における「映画から入っても楽しめる」という文句は通用しないし、BLドラマというジャンルだけに決して間口の広い作品とは言えないだろう。とはいえ、今回の物語で描かれたアイドル・俳優の誹謗中傷や偏向報道は多くの人が考えるべき問題だし、そういう点では恋愛模様云々を抜きにしてもっと多くの人がこの作品に触れるべきだと言いたい。が、物語の本分は平良・清居の恋愛模様にあるので、作品を愛する者としてそこは原作・ドラマから映画に入るというまわり道を経て辿り着いてもらいたいと思っている。

(でもこれネタバレ感想だから原作・ドラマ未履修の人に届かないのがもどかしい…)

 

それにしても、萩原さんって私が推している間宮さんとはまた別の魅力がある人だ。間宮さんは清居を演じた八木さんみたいにハンマーでガツン!と殴られるような衝撃というかインパクトのある人だったけど、萩原さんは何て言ったら良いのか、雨水が地面に染み込むようにじわじわと見ているこちらの心に染み込んで来るような、そういうタイプの魅力がある。だから見ようと思って見る人ではなく、ついつい見ちゃう人って感じで、そこが本作の平良一成というキャラにバチっとハマっていると思うのだ。

当然それは萩原さん自身の演技力あってこそなのだけど、果たして演技力という言葉で片付けて良いのだろうか、もしかすると萩原さん自身も自覚していない底の所に平良と共鳴する何かがあるのではないか…と、そんな変な妄想さえ膨らむ始末だ。その辺り私は真剣に萩原さんの過去の出演作とかインタビュー記事を追って読んでいないのでわからない所だけど、それだけこの作品のキャスティングが神がかったレベルのものだと言いたいのですよ!

 

当然ながらそれは八木さんにも言える話であって、私は平良寄りで物語を見てしまうからついつい清居をなおざりにした感想になってそこは公平性に欠けるという点で申し訳ないと頭を下げるしかないが、清居がいたからこそ、一見すると凡庸な平良の独特の思想・価値観・狂気とも言える執着がこの作品世界に降り立った訳であり、清居の存在の重要性については重々把握しているつもりだ。

そしてそんな清居を演じた八木さんは、原作の清居と同じキングとしてのカリスマ性がありながらも、まるでお姫様のように平良の愛を一身に受け悶えたいという、原作とは一味違うアプローチで清居奏を体現していた。しかも八木さんってドラマでの演技経験が実質ゼロみたいなもので(日テレのドラマに出てはいたみたいだけど)、本作「美しい彼」が本格的な俳優としてのスタートだから、よくぞまぁこの難役を演じきったと思う。これは経験とかではなく八木さんのセンスと酒井監督のセンス、そして彼を見出したプロデューサーのセンスがやっぱり凄いんだろうなと、そう判断せざるを得ない。

 

さて、長くなったがこれで感想を終える。原作は続編『悩ましい彼』『interlude』があるみたいだけど、それはまだ読まないでおく。早々に楽しみを減らすなど愚の骨頂だからね。