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論理的に見るか直感的に見るかで評価が変わる【映画「すずめの戸締まり」レビュー】

すずめの戸締まり

先日金曜ロードショーで放送された映画「すずめの戸締まり」を見た。

新海誠監督作品を見るのは本作が初めてで、前作「天気の子」や話題になった「君の名は。」は全く見てないしストーリーも1ミリも知らない。どうも新海監督の作品は登場人物やポスターのイメージから私は勝手に青春モノだと決めつけていて、なおかつ私にとって青春は思い返すものではなく長い人生の通過点に過ぎないという思いがあったから、そういう個人的な事情というか価値観ゆえに敬遠していたのだ。

 

ところが、とあるレビュー動画で本作が陰陽師系の物語であることを耳にして興味がわいた。しかも本作は東日本大震災を題材にしていることは事前知識として知っていたから、その情報も含めて本作が地震というものをどう描いているのか非常に気になったので視聴に至った訳である。

 

先に言っておくとこの映画、私はかなり満足して見ることが出来たし、先日当ブログにアップした映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」(注:以下「ゲ謎」)の考察記事(↓)と併せて考えたことを述べたくなった。そして他の方の感想やレビュー動画を見ると高評価だけでなく低評価の意見も結構見かけたので、賛否両論となった原因についても語っていきたい。

 

tariho10281.hatenablog.com

 

(以下、映画本編のネタバレあり)

 

直感で動く主人公

本作は主人公・岩戸すずめが通学の途中で出会った宗像草太という青年と出会ったことを切っ掛けに動く物語。草太は全国各地の後戸(うしろど)と呼ばれる常世の入り口を封印する「閉じ師」の役目を負う者であり、すずめはこの青年と共に各地の後戸を封印する旅に出るというのが大まかなあらすじだ。

前半はダイジンと呼ばれる謎の猫によって子供用のイスに封印されてしまった草太と共に、ダイジンを追いながら各地の後戸の封印をするという展開で、後半からはとある出来事によって犠牲になった草太を助けるために、すずめが生まれ故郷の東北へと向かう流れになっている。一貫して大震災を引き起こす大ミミズを常世に送り返すという目的があるため、意外性や派手な展開というものはあまり感じなかったが、それでも面白いなと感じたのは本作の主人公・すずめのキャラクターが関係している。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

序盤、草太と出会った彼女は学校に遅刻することも気にせず元来た道を引き返して草太が向かった廃墟へと行くのだが、これってどう考えても違和感ある場面で、草太がいくら美形の好青年だからと言って、学校をほったらかして彼の元に向かうというのは明らかに異常行動だし、これを「一目惚れ」という恋愛感情ゆえの衝動的な行為だと考えたとしてもおかしい。この違和感は物語の終盤で明かされるすずめの幼少期の体験とつながってくるので、別にマイナスポイントという訳ではないが、この場面を抜きにしてもすずめは頭で考えて行動するというよりも直感で動くタイプの主人公だなと思うし、旅の流れも結構いきあたりばったりだ。

 

そもそも旅をする原因となったのは、要石=ダイジンの封印を解いたすずめ自身のせいでもあるのだけど、封印を解いてしまうあの場面も「水で靴や靴下が濡れるのに気にならないのかな?」とか「よくそんな得体の知れないものを触るよな…」とツッコミポイント満載。ここで主人公に感情移入出来なくなった人もいたのではないかと思うが、実は私、初見の段階では不思議と違和感なくこの場面を見ていたのである。じゃあ何故違和感なく見られたのかと問われるとちょっと返答に困るのだが、これについては後ほど触れる。

 

完全な封印は存在しない

今回の映画を見て思い出したのが、ホラーゲームの「零 zero」だ。このゲームでは人柱を用いて黄泉の門を塞ぐという本作の要石に通じる儀式が存在する。しかし、人柱となる女性に生の未練があったため、儀式は失敗し黄泉の門から瘴気があふれ出し大きな災いに発展するというストーリーが描かれるのだが、正にこれは本作におけるダイジンが逃げ出した動機と共通するポイントだ。

 

人間は大きな災いを回避し大多数の命を救うために、特定の人物を犠牲にしてきた。これが人柱だったり生贄・人身御供となる訳で、その犠牲の上に今日の平和と日常が成り立っているという考えがある。しかし、人間というものは不完全な生き物である以上、完璧な封印は存在しない。「零 zero」で生贄になった女性しかり、本作のダイジンしかり、愛情を求めるがゆえに役割に徹することが出来ない。故に、封印は必ず解かれてしまうし災いから人類は逃れられないというある種の思想だ。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

草太がダイジンの力によってイスに封じられ要石の役割を押し付けられてしまったのも以上を踏まえるとそれは不完全な人間では封印に適さない、イスという機能性・役割に徹したモノだからこそ、要石になれたのだという見方も出来るのではないだろうか?

しかし、そのイスは三本脚という不完全なイスだった。新海監督曰くイスが三本脚なのは震災の傷の象徴であり、すずめの心の傷をも表していたということだが、ある意味草太が人間に戻れたのは不完全なイス(=人間の不完全さ)のおかげと言えるだろう。不完全だからこそ災厄が防げないという面もあるが、一方で不完全だからこそ救われたという二重のメッセージが本作から読み取れたような気がする。

 

震災に対するアプローチと受け止め方の是非

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

前述したように本作は東日本大震災を作中に取り入れているが、本作における地震はあくまでも大ミミズという超自然的なものであり、「ゲ謎」で描かれたような地下で蠢く死者の怨念(御霊信仰)とは異なるアイデアだ。

 

実際にあった震災を超自然的なモノの仕業として描き、それを封印するという本作のファンタジックなストーリーに対して抵抗感があるとか、わざわざ実際の出来事を取り入れる必要はないといった批判的な意見を見かけたが、確かに10年以上前の出来事とはいえ強烈に記憶に残る災害だったし、このようなセンシティブな題材を扱うならばファンタジーではなくドキュメンタリー形式の方が向いているという意見もあって当然だ。

 

日本において地震は過去の災害ではなく今も、そしてこれからも起こる災害であって、いくら防災の知識・技術が増えたとしても地震そのものを未然に防ぐ技術は未だ人類は持ち合わせていない。

かつてフランスの思想家ジョルジュ・バタイユは『太陽肛門』で「火山は地球にとって肛門の役割をしている」と地球を巨大な人体として捉えたことをこのように述べているが、バタイユの考えに則るならば地震は母親のお腹の中にいる赤ちゃんがポンと足で胎内を蹴るようなものだろう。しかしそのひと蹴りで建物が倒壊し、津波が起こってしまうのだから、自然というものは私たちの都合や理屈に関係なく、容赦なく降りかかる災いであり、地球に棲んでいる以上逃れられない宿命というものだ。

 

だから東日本大震災を題材にしようとしまいと、震災は私たち人類、特に日本人にとって重要なテーマであるのは間違いないし、防ぎきれない災いとそれによって喪われた生命に対してどう折り合いをつけて生きていくのか?という問いを考える上で、本作は決して無意味だと思わないし、実際の震災を題材にしたことに対しても私はそれほど否定的ではないのだ。

 

この辺りの考え方は実際に被災した人とそうでない人とで差が生まれるのは当たり前なので、私の意見が正しいと押し付ける気は毛頭ないことを断った上でここからは話を進めていきたいと思うが、劇中ですずめが「死ぬことが怖くない」と言う場面があったことを覚えているだろうか。これは震災の時に母親が死んで自分が生き残ってしまったという思いがあったから出て来た発言なのだが、「あの人は死んで、自分は生き残ってしまった」という例えようのない罪悪感、隣にいた人がいきなりいなくなるという喪失感をどう乗り越え処理していくのかって本当に難しい問題だし、人だけでなく周囲の環境も一変するのだから「どう生きていけば良いのか?」という問題も出て来る。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

この難問に対して映画では常世という時間・空間を超越した世界を活かして過去の自分に対する今の自分(つまり幼少期のすずめから見た未来のすずめ)が救いの言葉を投げかけている。これを私は「生きている限り希望や救いの余地がある」というメッセージとして受け取っているが、これってなかなか受け入れられない人もいる考え方だと思うし、そんな何の保障もない楽観論にすがりつけるほど、人間はたくましく出来ていない。

 

じゃあ「結局考えるだけ無駄な問題だ」とあきらめるのもまた違うと私は思っていて、要は何が言いたいかというと、「何故自分は生きているのか」「いずれ死ぬとわかっていながら何故生き続けなければいけないのか」という問いは人に答えを与えてもらうのではなく自分で模索して腑に落ちたものを答えにすべきだと言いたいのだ。わからないから限界なのではなく、「まだ答えに辿り着けていない」と考えて、その答えを見つけるために生き続ける、これが大事だと思う。

 

そしてそれを見つける上でヒントとなるのは人の営み、つまりは日常の中にそれがあるというのがこの映画を見て感じたポイントだ。本作では特に前半ですずめが旅の道中で地元の人の助けを借りる描写があるけど、そこで出会った人って旅館やスナックといった多数の人と触れ合う仕事に就いている人たちだったし、旅自体は異界に通じる扉を封印するという非日常的体験だけど、その道中で目にしたこと・体験したことは日常的なもので、この日常が心の重石になっているおかげで私たちは死から遠ざかることが出来ると、そうは考えられないだろうか?

これは後戸の封印の場面にも同じことが言えるが、封印する際にその場所でかつて暮らしていた人々のことをイメージしながら扉を閉め鍵をかけていたというのがミソで、日常が扉を塞ぐ重石、ドアストッパーの役目を果たしていると考えられるし、そこから派生して私は日常が死を遠ざけると考えたのである。

 

さいごに

以上、私なりにこの「すずめの戸締まり」がどういうメッセージを視聴者に投げかけた作品なのかレビューしてみたけど、結局この作品って本人の意志を超えた運命によって予めその結末は決まっていた物語なんだよな。だからすずめが要石の封印を解いてしまったことも、そこから旅をして東北へ赴き常世で幼少期の自分と出会うことも、運命として決まっていたことなのだ。

そういや要石の封印を解いた場面で私はあまり違和感を覚えなかったと先ほど述べたが、もしかしたら私はあの時点で彼女の行動が本人の意志を超えたものであることを予感していたのかもしれないね。これは「ゲ謎」をレビューした時に論じた身体的感覚の話にも通ずる所があるから描写としてはおかしくないと思っているし、「人間は頭で考えて行動している」と思っているようでは永遠に理解出来ないだろう。

 

そういう訳で、(記事タイトルにも書いたけど)この映画を論理的に見てしまうと絶対に納得のいかない部分が出て来るし、恐らく批判的な意見を述べている人は本作を理屈っぽく見すぎている可能性があるんじゃないかな?と思った。本来なら論理的に納得のいかない描写ってフィクションとしては難があるのだけど、ストーリーが破綻しているとか、キャラの行動が無茶苦茶という訳ではなかったから、私は本作における非論理的な部分は、登場人物の意志を超えた、運命という大河の流れが生み出したものだとそう評価しておこう。