タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(5期)第5話「呪われた映画」視聴

今回は9月2日までの配信

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沼御前

ja.wikipedia.org

沼御前は福島県の沼沢湖に伝わる妖怪。かつては「沼沢沼」として呼ばれたこの地には鎌倉時代大蛇退治の伝説があり、大蛇が退治された後にもそれにまつわる怪異の伝承が残っている。水木先生の妖怪図鑑で引用されているのは『老媼茶話』の正徳3年(1713年)の記録で、猟師が出会った異様な女の怪異について語られている。

原作では登場しないが、アニメでは今期が初登場(詳細は後述)。6期にも登場したがラブコメ回ということもあってかなりポップなキャラクターになった。

 

繰り返す悲劇、常夜の映画スタジオ

今回の物語のベースとなった劇中の映画「クメール遺跡の亡霊」の元ネタは2期のアンコールワットの亡霊」。これは6期でリメイクされた話だから多分記憶に残っている人は多いと思う。

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6期のアンコールワット回の脚本は、今回と同じ長谷川圭一氏。この沼御前の回で元ネタとなる「アンコールワットの亡霊」を丁寧に描けなかったこともあってか、6期は遠大な因果応報譚としてなかなか気合いの入った物語になっている。未見の方はDVDを買うなり何なりして見てもらいたい。

 

さて、放送当時この回を見ていた私は沼御前の伝承を詳しく知らなかったので、アニメの沼御前が何故蛇体なのかイマイチわからず(妖怪図鑑では大蛇の情報はカットされていた)、忠告を聞かない人間の愚かさと忠告を無視した人間は助けないという鬼太郎のシビアな線引きが印象に残っていた程度だった。

しかし改めて見ると、この沼御前をはじめとする設定や描写が思いのほか細やかに作られていて面白い。

 

まず沼御前に関する描写だが、「下郎(身分の卑しい男性を指す言葉)」や「逝ね(=死ね)」といった沼御前の言葉遣いから身分・家柄の高い女性だったことがうかがえる。劇中では夫を失った悲しい身の上の女性が妖怪になったと語られているが、夫の描写も加えると格式高い武家の嫁というイメージが想起される。そんな女性が妖怪化したという所から、具体的でないにせよ彼女に降りかかった悲劇と凋落が著しいものだと想像出来るだろう。

そして妖怪になってもその高貴さが失われていないと感じるのは大蛇が白蛇だからという理由もある。昔から白蛇は神聖なものとして扱われており、無闇に殺生してはならないと言われているからね。

 

そんな沼御前が眠る沼を埋め立て建てられた現在の映画スタジオで沼御前の悲劇を想起させる映画が撮影されることでその度に沼御前がよみがえり映画関係者を襲うのだが、この映画スタジオ自体が沼御前の魂が昇華されず怨念として蓄積している場の象徴だと、ちょっと深読みして思ったのだ。

というのも、映画スタジオは劇中の映像から見てわかるように基本暗い。これは日中でも夜の場面を撮る必要があるためそうなってるのだが、言い換えれば常夜の状態がずっとそのスタジオにあるということであり、朝が来ない=新しい展開へと進展することがない。つまり、死んだ時の怨念が昇華されずに留まる場になっていると考えられるのだ。よく暗い所やじめっとした所に霊が集まりやすいと言われるのは、変化がみられない環境とそれに伴った思想が結びついたからではないだろうか?

 

過去に同じ事件が二度起こったのにも関わらず三たび映画は撮影され、結局鬼太郎が駆けつけることになるが、このバトルシーンも上記のWikipediaに載っている情報を知っているとちょっとした発見がある。この事件が三度起こっている状況は大蛇退治の伝説も含めた沼御前の伝承の数と一致しているし、「大蛇に飲み込まれた鬼太郎が体内電気で攻撃→苦しむ沼御前が鬼太郎を引きずり出そうと大蛇を自分の腹に入れる」展開は、大蛇退治の伝説で大蛇に飲み込まれた家来が蛇の腹を割いて脱出した展開に則っていると解釈することが出来る。

 

以上、放送当時は気付かなかった設定のディティールや解釈について述べたが、やはり物語の根幹には過去に二度も起こった悲劇を省みない人間の愚かさがある。そして映像記録という新たな武器が皮肉にも自分たちの首を絞める結果になっている点も見逃せない。また、真実を語る者が報われないエンドというのも、後の6期の脚本に通じるビターさがある。

 

 

次回は妖怪横丁の日常回。6期の初回で登場した「あの妖怪」が出て来る回だが、日常回なので語れることがあるか若干不安。どうひねっても出なかったらもうシンプルな感想で終えるかも。