タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第87話「貧乏神と座敷童子」視聴

(遅くなったが)新年あけましておめでとうございます

良い一年を過ごすためにも、この話を通して「幸福」についてちょっと考えてみようではないか。

 

貧乏神

ja.wikipedia.org

もはや説明不要。名の通り貧乏をもたらす神で、窮鬼とも呼ばれる。東京の文京区には貧乏神を祀った祠があり、貧乏神を祀ったことで福に転じた話や、夢枕に現れた貧乏神の言う通りに焼き飯と焼き味噌を川に流して貧乏から逃れた人の話が残っている。

アニメでは2・3期に登場。2期では死神と組んで会社を倒産に追い込み貧乏人と自殺者を増やそうと計画した。3期では後述する原作「笠地蔵」に登場し、慎ましやかに暮らす老夫婦の家に住み着く妖怪として登場した。

 

座敷童子

ja.wikipedia.org

これも改めて説明する必要のない妖怪。しかし、座敷童子にもピンキリがあり、富をもたらす者もいれば、ただただ座敷を這いずり回るだけの気持ち悪い存在でしかない者もいる。

アニメでは1・3・4・5期に登場。1期では座敷童子の集団があり、冬になると人家に移って冬を越すという生活様式や、悪霊を追い払う能力など、オリジナルの設定がある。3期は原作通り、貧しく暮らす老夫婦にあたたかい正月をおくってもらおうと奔走。4期は「笠地蔵」ではなく「後神」の話に座敷童子を組み込んだ構成となっており、比較的アニメオリジナルな物語となった。5期になると原作のビジュアルから一転、萌えキャラ寄りのビジュアルになり、男女別の個体として登場。後に妖怪四十七士の岩手県代表となった。

 

「笠地蔵」

座敷童子が登場する原作「笠地蔵」は鬼太郎シリーズの中でも異色作の部類に入る。妖怪とのバトルがないのは勿論、物語が昔話の「笠地蔵」をベースにしたもので時代錯誤の感が甚だしいのも他作品と一線を画している。「笠地蔵」が掲載されたのは1968年であり、当然そんな時代に正月の餅を買うため笠を売りに歩く老人などいなかっただろう(いなかったとは言い切れないが…)。ただ、物語の最後に「鬼太郎たちは(中略)世の中から見すてられたさびしい老人たちにあたたかい正月をおくらせてやったのです」という一文があることから、根底には社会的弱者とその救済を描くことが目的にあり、そう考えると必ずしも「時代錯誤」だと言い切れないのではないか…と思っている。

 

原作を元にしたアニメは1・3・4・5期で放送されており、原作通り座敷童子が登場するのは1・3期。原作では座敷童子のいる雪国にたまたま鬼太郎がいたということになっているが、1期では鬼太郎が雪国にいる理由づけとして、鬼太郎が妖怪を倒しすぎたことが原因で悪霊に取り憑かれ病にかかり、その病を治すべく座敷童子のいる東北へ赴くオリジナルの展開がある。また、童謡「おおさむこさむ」の替え歌が出て来るのも1期の特徴で、それにより牧歌的なムードが漂っているのが良い(歌詞の一部は今じゃ放送出来ないが)。

 

3期は最も原作に近いといえるが、バトルシーンを入れるために老夫婦の貧しさの原因となる貧乏神が登場し、それを追い出すために鬼太郎たちが動く展開となる。視聴当初はこの改変について何とも思わなかったが、よくよく考えるとこの改変にはマズい所があって、鬼太郎たちの正義感が独善的かつ一方的なものになっているきらいがある。老夫婦に迷惑をかけてはいけないという大義名分の下、貧乏神を老夫婦の家からおびき出して即日退去を命じる鬼太郎たち。老夫婦との交渉もなく、「お前がいるだけで迷惑になる」と非難し、転居先を探してあげる協力もせず「悪い事をして金儲けをする奴の家に行けばいい」と無責任に追い払う。何とまぁ、酷い話である。こんな大多数による「いじめの構図」をヒーローものとしてテレビに流していたのだからね。3期だからともかく、多様性をテーマにした6期でこんな話を流した日には私ブチ切れるからね!!

 

さて、4期は座敷童子も貧乏神も出てこない代わりに、3匹の子狐一本だたらが登場。子狐と一本だたらの命がけの駆け引きがありながらも、どこかのほほんとした空気もある物語。老夫婦に正月の贈り物をするのは原作と同じだが、原作や1・3期が慈善的な救済の意図で行われたのに対し、4期は子狐を飢えと寒さから救ったことに対する恩返しという明確な目的がある。

 

5期になると原作要素はほとんど無くなる。お地蔵さまに「傘」をかけた、までは原作要素だと言えるが、あとは妖怪いそがしとの対決がメインであり、登場するのも老夫婦ではなく父親を亡くし母親は意識不明で入院中の兄妹になっている。5期の巧い所は「一時的な支援が弱者の窮状を根本的に解決する訳ではない」ということを鬼太郎の口からはっきりと語らせた点であり、(脚本にその意図があったかどうか不明だが)原作に対する批判的精神が窺える。それでも兄妹の暖かい心に触れた鬼太郎が恩返しとして兄妹の母親の意識が戻るよう働きかける展開に感動。危うく涙を流しそうになった。社会的弱者に向き合い、独善的正義に走らない配慮もある名作なので是非見てもらいたい。

 

座敷童子=幸福という名の怪物

画像

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期は座敷童子が出ているものの、「笠地蔵」要素はほぼ皆無。申し訳程度にお地蔵さんは画面に映っているし、劇中で老夫婦が喫茶店にいる場面もあるが、これまでの物語における「救済」「恩返し」といったテーマではなく「幸福」を扱った物語になっている。

始業式の帰りに友人の綾の両親が経営する喫茶店に立ち寄ったまなは、そこに貧乏神を見つけ、綾もその存在を感知してしまう。貧乏神を追い出し、代わりに座敷童子が来たことで喫茶店の経営は好調。経営好調の種明かしとして綾は両親に座敷童子を紹介するが、それが切っ掛けで両親の「欲」がどんどん膨れ上がる…というのが今回のあらすじ。

両親が座敷童子を認知してからの展開は、過去に2期でアニメ化された水木先生の短編「幸福という名の怪物」を彷彿とさせる。「幸福という名の怪物」は鬼太郎が登場しない物語。ねずみ男から「幸福」と称する怪物の卵を受け取った豊島は、家で「幸福」を孵化させる。すると思いがけぬ幸運が次々と舞い込み、妻の花子も大喜び。もっと上の役職に就きたい、もっと大きな家に住みたい。夫婦の欲が大きくなるのに比例して「幸福」もどんどん大きくなったが、しまいには家の屋根を突き破り破裂。夫婦は明日から不運がくると嘆息した…というお話。

 

人間の欲には際限がないことをシンプルに風刺した物語であり、幸運が大きい分、不運もまた大きくなることを示唆している。ただ今回登場した綾の両親は座敷童子に「綾を幸せにしてほしい」という名目で経営の肥大化を願い、自分達の私腹を肥やしていたので「幸福という名の怪物」に登場した夫妻よりもタチが悪い。自分の娘を免罪符みたいにしていたのだからね。

3期では慎ましやかな老夫婦の家に住み着いた貧乏神。その家を選んだ動機は「住みやすそうだったから」という単純なものだったが、6期では綾の両親が過去に起こした所業から「富が集中すると悪徳に走る」性質があることを見抜き、その性質を抑制するため居座ったという動機があった。腐っても神、社会貢献に一応務めていたのだからエライし、貧乏神をそういう立ち位置にした脚本の井上氏を評価したい。

 

幸福に最も必要なのは「富」でも「貧しさ」でもなく…

画像

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の物語、一見すると「身の丈に合わない富を得るよりは、貧しくても人として正しく生きるべきだよね」って話だと思ってしまうかもしれないが、個人的にはそんな底の浅い教訓話としてこの物語を受け止めるのはちょっと違うと感じている。そういう話にするのだったら「綾の両親が過去に悪どい方法で金儲けをしていた」という設定などいらないからだ。

金銭的に豊かだからといって全ての金持ちが傲慢で欲の深い人間だとは限らないし、反対に貧しいからといって全ての貧乏人が慎ましやかで清い心の持ち主なんてことはあり得ない。金持ちでも慈善事業や社会貢献に務める人もいれば、貧しさゆえに犯罪に走る人もいる。「清貧」という言葉など願望みたいなもので、それを実行するのが不可能だということは既に水木先生をはじめとする先人たちが証明している。

 

※ちなみに、水木先生は90年代にベストセラーになった『清貧の思想』に怒りを示したそうだ。

 よっぽどこの本に書かれた思想に腹が据えかねたのか、後に水木先生は「我が方丈記(『妖怪博士の朝食 1』所収)という作品を発表、『清貧の思想』に触発されて清貧生活に挑むも、清貧は贅沢なものだと悟る男の話を描いた。

妖怪博士の朝食 (1) (小学館文庫)

(2020.01.06追記)

 

これまで水木先生は幸福をテーマにした話を幾つも描いてきた。その中で「文明社会が必ずしも人を幸福にするとは限らない」とし、文明社会へのアンチテーゼを盛り込んだ物語を発表してきたことは今更言うまでもないだろう。今回の話に登場する「金」も文明社会を象徴するモノであり、そういう観点から見ると今回の物語も8月に放送された縄文人の回と同様、文明社会へのアンチテーゼと見ることが出来る。

しかし、誤解がないよう言っておくが今回の物語において「金を以て得る幸福が悪」であり「金がなくとも得られる幸福が最善」だという考えは一切示されていない

Twitterの「#ゲゲゲの鬼太郎」のTLにおいて、「今回は胸糞悪かった。貧困層の辛さもわからず偽善に走っている」という感想を見かけて「いやいや…違うよ。そういう事を言ってるんじゃないんだよ!」と声を大にして言いたかった(流石にお節介になるので反論のリプライは送らなかったが)。

 

では今回の物語において「幸福」をどう捉えるべきかと考えると、まず間違いなく言えるのは、富や貧しさはあくまで幸福であるための「手段」であり、幸福そのものに直結していないということだ。綾の両親の場合、富の集中が妨げられ常に貧乏の状態に保たれたことで親として・人として恥のない行いが出来た。しかしこれは綾の両親には当てはまっても他の家に当てはまる訳ではない。貧しさから心理的な余裕を失くし、子供を虐待したり育児を放棄する親が存在することを思えば、今の世の中お金があるに越したことはないのだ。綾や綾の両親が真っ当な生活を送れていたのは貧乏神の「貧しさの供給」が絶妙な匙加減で行われていた証拠であり、それによって綾の一家が大きな災いを回避出来ていたことを思えば、無病息災ならぬ一病息災であの家は成り立っていたのかもしれない。

 

富や貧しさが幸福に直結するのでなければ、幸福に直結するのは何か?

私は夢と希望が幸福に最も必要なものではないかと思っている。

「何をそんな綺麗ごとを…」と呆れられるかもしれないが、大抵の人は「○○になりたい」「○○な暮らしがしたい」という夢・希望があり、それを実現させるために富を求める。中には「私は富がなくても○○の夢・希望は実現出来るから貧しくても大丈夫」という人もいる。

要は自分が抱く夢・希望に見合った富や貧しさを選択するのが最良という訳であり、その夢・希望が実現するかどうかはともかく、それに向かって毎日を過ごしていられるのならば、それは十分幸福と言って良いのではないだろうか?

 

そういう価値観を示した作品が水木先生の短編にはある。その名は錬金術。作中では錬金術によって金を得ようと日夜格闘する一家が登場する。傍目から見れば貧しいことこの上ないし、無駄で意味のない毎日を送っているように見える。しかし彼らの生活は満ち足りて幸福感でいっぱいだ。それは何故か?

作中に登場するねずみ男似の錬金術師曰く錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ。人生はそれでいいんだ…」

絶対的な幸福がないように、絶対的に価値のあるモノが存在しないことを説いた哲学的名作だ。

 

「夢・希望」は中庸的存在

さて、「夢と希望が幸福に最も必要」と述べたが、それをずっと抱き続けるからと言って人間が一生ハッピーに過ごせるかと言うとそうでもないし、そんな思いをずっと抱いていられる程、世の中は一定に保たれていない。常に環境は目まぐるしく変わり、それに応じて夢・希望の程度も変えないといけない状況に追い込まれる場合がある。

また夢・希望はそれに向かっている間とそれが実現している間はこの上もなく幸せだが、それに向かうことが出来なくなったり実現しないことがわかると絶望に陥る。またそれが実現して富を得られることもあれば、実現せず貧しいまま一生を終えることもある。

夢・希望は幸福に必要なものだが、それ自体は幸福を保証してくれない。転がり方によっては本人にとってプラスにもマイナスにもなる。これは何も夢・希望だけの話ではなく、座敷童子も貧乏神も捉え方次第では幸福をもたらすプラスの存在、或いは不幸をもたらすマイナスの存在になる。もっと言えば、劇中に登場したお地蔵様も二面あるうちの一面に過ぎず、もう一面の顔はあの地獄の閻魔大王なのだ。

つまり、全ての物事は常にプラスとマイナスの両方の側面を持ち合わせており、夢や希望も転がり方によっては幸福につながる要因となったり絶望の底に叩き落す要因となる可能性をはらんでいるのだ。夢・希望は幸福を絶対的に保証はしないが、だからと言ってその感情を抱くことを怠ってはならない。少なくとも悪徳に走らず法を犯すことなく人間として真っ当に幸福を得たいのであれば、夢・希望に向き合い続けるべきだと私は思う。

 

画像

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期の物語で1年目から登場していた綾。あくまでモブに徹するキャラクターだと思っていたが、今回の騒動で両親が過去に犯した罪業を知り、(両親が逮捕されたかどうかは不明だが)「犯罪者の娘」というなかなかにハードな宿命を背負っていたことが判明。普通なら両親との間に大きな溝が生まれそうなものだが、騒動前と変わらず喫茶店に立ち続けているということは、彼女が両親を含めて本当の幸福に向かって進もうとしている姿勢を示しており、彼女自身がこの一家の「夢・希望」の象徴として輝いているように映った。当初のようにパティシエールの夢を目指すのか、それとも貧しくとも両親が喜んでくれるお菓子を作り続ける生き方を選択するのか。どう転ぶかわからない未来だが、親が犯した悪徳が彼女に発露しないことを祈ろう。

 

蛇足

・今回劇中で登場したお菓子「ギモーヴ」。マシュマロっぽいなと思ったけどマシュマロとは違う所もあるようなので、知りたい方は以下の記事を参照してね。

omiyagate.jp

 

・今回まなが身に着けていたマフラーは昨年登場したチンさんがプレゼントしたものだが、お気づきになっただろうか?私はTLで見てから気づいたが…。

 

・「全ての物事にプラス・マイナスの面があり、一方だけを求めることは無理」ということを示した逸話が涅槃経にある。当然今回の話と関係しているので以下に掲載する。

wp1.fuchu.jp

 

・EDが新しくなったが、西洋妖怪とぬらりひょんが出て来るのはまだしも、女性総理と機動隊(らしき人々)が出て来たのは意外。国家レベルで人間と妖怪との対立が激化してきそうな予感がするが果たして…。

 

 

来週は一反木綿のメイン回。人間と妖怪とのシェアハウス生活で、かわうそ豆腐小僧が妖怪側として登場することはわかったが、女性の方は人間の女性なのかそれとも人間を装った妖怪なのか…。ねずみ男が絡むので勿論裏はあるだろうがとにかく現時点では謎に包まれた状態。個人的には大胆予想であの女妖怪が出るかな?とは思っているが過去に一回もアニメでは登場していないので違うだろうな…。