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ゲゲゲの鬼太郎(6期)第6話「厄運のすねこすり」〈再放送〉視聴

 今日は母の日。だけど今年はコロナウイルスの影響で花の配送が普段より大変な状況のため、花屋業界は5月まるまる母の日ってことにしているらしい。

 

すねこすり

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すねこすりは主に岡山県に現れた妖怪。アニメでは2期の「怪自動車」に初登場。原作の「妖怪自動車」は鬼太郎が登場せず、なお且つすねこすりもアニメオリジナルで登場している。そのため、大まかなストーリーは原作通りだが、事件の動機や怪自動車の正体はアニメオリジナルの設定だ。

3期では劇場版「激突!! 異次元妖怪の大反乱」で怪気象の中の妖怪の一体として登場。5期では妖怪反物の回で被害を被っているが、劇場版で妖怪四十七士の岡山代表であることが明らかになった。

すねこすりのビジュアルは水木先生によると犬の根付を参考にしたそうだが、今期のすねこすりは猫形の妖怪として描かれている。すねこすりを猫側として扱っているのは2005年版「妖怪大戦争」でも同様で、主人公のタダシは最初すねこすりを猫だと思っていた。

ちなみに、2期のすねこすりは犬形の妖怪という設定で、交通戦争の犠牲となった犬たちのために、車を持とうとする人間を襲っていた。

 

ジョハリの窓」が開く

今回は6期の名作群の一つに数えられる回。私も最終回後の振り返り企画において本作をオールタイム・ベストエピソード10選の中に入れている。

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とはいえ、物語自体は割と結構テンプレート的で、人間と動物(ペット)の関係とか、共にいることで不幸が生じてしまうことが決まっているという「宿命論的悲劇」の物語なんかは古今東西のどの創作物においても見受けられる。まぁだからこそ共感性が高くそれだけ多くの人が心を打たれるのだけどね。

で、今回改めて見て思い出したのが、学生時代道徳か何かの授業でやったジョハリの窓というワード。

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己の性質を自分と他人の認識の差異から四つに分類したもので、自分も他人も知っている自己(開放の窓)・自分は知らないが他人は知っている自己(盲点の窓)・自分は知っているが他人は知らない自己(秘密の窓)・自分も他人も知らない自己(未知の窓)に分けて、自分の性質をどのようにコミュニケーションに用いていくかを考える手法として知られている。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回のすねこすりの場合、自分が人の気力を吸収する妖怪だと気づくことなく何百年と暮らし、鬼太郎との出会いでようやく自分が妖怪だと知ることになった。つまりジョハリの窓の四つ目「未知の窓」が開いたことになる。普通は、何も食べずとも肥えた時点でおかしいと思うはずだが、それでも自分は化け猫くらいに思っていて、「すねこすり」という認識には辿り着けなかったということなのだろう。

 

6期は「見えない世界」がテーマの一つであることは散々言ってきているが、本作では見えない世界が自分自身の内にあったというのがポイントだ。

大抵理解できないもの、見えないものというのは外の世界にあり、「自分のことは自分がよくわかっている」と考える人が大半だろうが、自己という器の中にも未知の領域は沢山ある。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

マサエの息子の翔も、鬼太郎が来た当初は鬼太郎任せで母親の傍にもいなかったのに、終盤で母を想い(結果的にせよ)母を苦しめたすねこすりに楯突いた。東京暮らしの孤独からくる反動なのかもしれないが、この一件で彼もまた「母親想い」という未知の窓が開いたと言えるだろう。

 

それから、本作では親子と家族の関係が描かれているが、最も身近で濃い関係なのが「家族」という共同体で、つい先日読了した京極夏彦の『塗仏の宴』の受け売りになるが、家族は日常を共有出来なければ家族たり得ない

翔はマサエと過疎化した村の日常に愛想を尽かして出ていき家族は解体され、そこに埋め合せとして入ってきたのがすねこすりである。すねこすりによって再構築されたマサエの“家族”は均衡を取り戻したものの、鬼太郎の登場によってマサエとすねこすりの関係は非日常であったことが明かされる。

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

鬼太郎が現れる前までは、マサエの衰弱はあくまで「風邪」という日常の延長線上の出来事として思っていたすねこすりは、ここで自分自身が“家族”を解体させてしまう存在だったことに気づく。そしてマサエとすねこすりという“家族”は解体され再びマサエと翔の家族が再構築される、という展開になっている。

物理的にすねこすりとの家族関係は解体されてしまったが、共有した家族としての日常は、翔との家族関係とはまた別の、しかし等しくかけがえのないものとしてマサエの記憶に残っていく。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

一方のすねこすりは、再構築が描かれることなく物語から退場する。後にゲゲゲの森で元気に暮らしていることが明らかになるが、6話終了時点では生死不明のまま幕を閉じたため、あの時のすねこすりは「“家族”という日常を共有出来ない業を背負った妖怪」というタグが付いており、それが悲劇を際立たせていたなと思う。

故に、すねこすりは6話で完全に退場させておくべきだったという意見もあるのかもしれないが、ここは賛成派・反対派両方の意見が聞いてみたいかな。

私は6話終了の時点で「家族を共有できなかった妖怪としての悲劇」が成立しているのだから、後にすねこすりが生きていることが判明してそれが解体されたからといって、その時点での悲劇の記憶がゼロになるとは思わないので、別に良いかなと考えているけど。

 

 

来週は「幽霊電車」。これはシリーズ定番作品なのでガッツリ解説していくよ。