タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

彼岸渡りの決意【ダークギャザリング #06】

いきなり本編の描写について突っ込むけど、渓流でアメリカザリガニは釣れないよ。ザリガニは泥の深い池とか用水路・水田に生息する生物だからね。

 

「約束」

今回は原作の6話「約束」と7話「呪縛」を映像化。原作では二回に分けて描かれたエピソードを一話にまとめているため、細かい台詞や描写がカットされているがほぼ原作通りの内容となっている。

今回で螢多朗は自分と詠子にかけられた呪いを解くため、夜宵の悪霊狩りに協力することを決意するというターニングポイントの回になる。螢多朗と詠子が互いの気持ちを伝え合うという点でも同様に転換点となった今回の物語では、キャンプ場に出没する集団亡霊の捕縛を夜宵・螢多朗が行っている。特に螢多朗はこれまで囮役程度の関わりだったのに対し、今回からは積極的に霊の捕縛を行っている。

 

ここからは余談になるが、集団亡霊と聞くと七人ミサキや七人同行といった怪異を思い浮かべる方もいるだろう。しかし最も有名なのは三重県津市で起こった事件であり、「集団亡霊」でネット検索をすれば真っ先に出て来るのが橋北中学校水難事件である。※1

昭和30年7月28日、三重県津市の中河原海岸で水泳訓練をしていた橋北中学校の女子生徒約100名が一斉に溺れ始め、そのうちの36人が水死したという過去に例のない大惨事であり、事件当日の海は穏やかで澪(水の強い流れで生じる海底のくぼみ)に近づかないよう赤旗を立てて遊泳区域を決める安全対策をしていたにもかかわらず、多くの生徒が澪の辺りまで流され水死したという謎があった。

事件から8年後、週刊誌「女性自身」に生存者の一人である梅川弘子氏の事件当時の体験談が手記という形で掲載されたが、それによると防空頭巾をかぶってもんぺをはいた何十人もの女性が足を引っ張ってきたと語っており、この事件のちょうど10年前にあたる昭和20年の7月28日には津市で大規模な空襲があり、その時の死者が砂浜に埋められたことから、空襲で死んだ女性たちの霊が生徒を溺れさせたという実話怪談として広まった。この体験談を作家の松谷みよ子氏は『現代民話考5 死の知らせ・あの世へ行った話』に収録しているし、水木しげるつのだじろうはイラスト・漫画という形でこの事件のことを記録に残している。

しかし、実際はというと霊の仕業でもなんでもなく、事件当時突発的に発生した異常流によるものだと気象庁気象研究所による調査で結論付けられており、10年前の空襲で死体が砂浜に埋められた事実を裏付けする記録もなかったそうである。しかも梅川氏が週刊誌に語った体験談自体が記者による創作だったことが後に梅川氏自身の口で語られている※2ので、このような怪談話が成立したのは10年前の空襲と水難事故が同じ月日に発生したという偶然による所が大きいと言えるだろう。

 

水難事故が幽霊の仕業ではないにしても、海や川といった水場では多くの怪談が語られる。昔だと「川や池には河童がいるから泳いではいけない」という戒めが子供に向けて語られたものだが、こういった怪談の成立背景には当時の人間の知恵で合理的に解明出来なかった水難事故の原因を怪異に求めたという理由が挙げられる。そして、このような怪談話には被害者遺族を慰めるための意味合いも込められている。異常流による水難事故と言われても遺族の人たちにしてみれば何故その日に限ってそんな自然現象が起こったのか納得がいかなかった人も多かっただろうし、そういった行き場のない感情・納得のいかない事態に対して怪談というのは有効活用されやすい。人間の力ではどうしようもない怪異によって大事な命が奪われたと説明付けた方が慰めになるということなのだろう。例の梅川氏の体験談が週刊誌に載ったのは事件から8年後、裁判も終了し事件が完全に決着した段階で出たことを考えると、そこには消化不良の感情を残した遺族へ向けての慰めのストーリーとして多少は意味があったと考えるべきだろうか。

(まぁ大半は野次馬意識の高い読者に向けた記事だろうからあまり褒めるべきではないのだけど)

 

※1:なぜ女生徒36人は突然、海で溺れ死んだのか…「橋北中学校水難事故」の真実(朝里 樹) | マネー現代 | 講談社

※2:幻解!超常ファイル「日本最恐!心霊スポットの真実」(2017年9月16日放送)を参照。

 

「渡った」のではなく「渡らされた」

今回のお話、螢多朗が自分の意思で彼岸へ渡ることを決意したように見えて、その実は詠子による長年の心理誘導によって成された彼岸渡りだったということが今回の終盤で明らかとなった。

tariho10281.hatenablog.com

これについては4話の感想記事で彼女が螢多朗にさり気なく心理誘導という呪いをかけていたことを指摘したが、今回ようやく満願成就に至ったということになる。

 

それにしても、彼女が言う「オカルトを学問する」って私たちのような単なるオカルト好きとはニュアンスが違う言葉だなと思う。私もオカルトについてはそれなりに趣味の範囲で色々と調べたり知識を身に着けて来たけど、オカルトって最初のうちは「へ~、この世界には未知の領域があるんだ!」という感じで異世界に対する興味や関心から始まって、そこから徐々に「オカルトが生み出されるのはこういう背景があったからなのか!」という具合に社会的・心理的背景、要は生きた人間の心理に対する関心へとシフトしていった。だから私にとってオカルトというのは生きた人間が生み出す事象だと考えているし、ほとんどの人は私の意見に賛成してくれると思っているが、この「ダークギャザリング」において心霊は実在のものであり、呪いというのも心理的な思い込みではなく物理的に作用する超常現象として証明されているから、詠子のいう学問は文献史料を読み漁る研究というよりは臨床実験に近い感覚の学問と表現出来るだろう。

 

ただ当然ながら未知の領域に踏み入るとなるとそこには危険やリスクが伴う訳で、底なし沼に落ちてしまうような危機的状況に陥った時に助けてくれる存在を担保しておかないといけない。そんな救いのヒーローとして白羽の矢が立ったのが他ならぬ螢多朗であり、彼が詠子に抱く罪悪感をベースに二人が分かちがたい絆で結ばれていること・互いにかけがえのない存在であることを長期にわたって彼女は植え付けてきたということになるが、ある意味その過程において詠子も「螢多朗が特別な能力を持った存在である」という自己催眠にかかっている感じがするし、そんな人に見初められていることに他のカップルでは味わえない快感というか優位性を感じているのではないかとつい考えてしまう。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

自分の趣味と実益を両立させる上で詠子は螢多朗をヒーローとして調教したということになるのだろうが、沼から救い出してくれる存在を担保しているようで沼に引きずり込む勢いを感じさせるのが詠子の狂気の所以である。最悪怪異の影響で助からなくとも螢多朗との関係を考えれば死ぬ時は一人ではなく二人、ということになるのだから、もしかしたら彼女の中で螢多朗との物語がマルチエンディングのように幾つものシナリオという形で用意されているのかもしれない。

 

さいごに

ということで6話の感想は以上になるが、今回の物語を見て思ったのは私たちのオカルト研究というのは彼岸を通じて此岸のことを深く知るという意味で研究をするのに対し、詠子のオカルト研究は彼岸の理を解き明かすという訳でそこに生きた人間が介入しないから、そこに病的なものを感じてしまう。螢多朗や夜宵は己の生を全うするために彼岸へ渡るという行動原理があるけど、詠子には生への執着があまり見受けられないからその点においても彼女にヤバさを感じるのだ。

彼女の社交的で誰とでも付き合える人柄も、裏を返せば自分が周囲からどう見られているかこだわっていない。要は生きた人間に対する関心が希薄だからフラットに、マニュアル的にうまくやっていけていたのかなとそんなことまで考えた次第である。

 

次回からは本格的に悪霊狩りが始まるということで、都内有数の心霊スポットが舞台となる模様。詠子もヤバい生霊だけど、死霊の方もヤバさを見せつけてきますよ~。