タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

呪いとは、パフォーマンスである【ダークギャザリング #04】

とにかく憑かれる螢多朗(ヘーイ!)。

間違いなく安心は出来ないという、ね。

 

「寶月詠子」

元凶の霊を倒せば呪いは解除される。螢多朗と詠子を蝕む霊障の解決方法を知った螢多朗はこれで詠子を救えると思う一方、その解決策は更なるオカルトの世界へ足を踏み入れることを意味しており、螢多朗はその選択に逡巡する。

そんな彼の逡巡から始まった4話は大学生活のスタートによって一旦はかき消されるものの、大学というオカルトとは無縁のアカデミックな場で螢多朗はまたしても恐ろしい呪いにかけられる羽目に遭う。(っていうか、あんなアングラ的な講義って本当にあるもんですかね…?)

 

ということで今回は螢多朗に呪いをかけたビデオに取り憑く霊の退治を描いているが、それと同時に詠子のダークサイドな一面が露わになった回でもある。詠子のダークな面は既に初回から滲み出ていたものの、そのダークさがどういう質のものか流石に3話の段階では推測のしようがなかった。しかし今回はようやく彼女の螢多朗に対する偏愛ぶりが描写され、霊媒体質の螢多朗に憑くのは何も死霊や怨霊だけでない、最も身近にいる詠子という生霊も彼に取り憑いていたのだとこれでハッキリした。

ja.wikipedia.org

生霊という概念は平安時代の『源氏物語』にも記述があるくらい古い概念だし、六条御息所が生霊となって葵の上を呪い殺すというエピソードはあまりにも有名である。そんな詠子の生霊レベルの執着の裏には、神経が露出する例の霊障が絡んでいる。それは運命の赤い糸ならぬ白い神経の糸として二人を結び付け、彼女がオカルトにのめり込むのも螢多朗との間に生じる一種の吊り橋効果を永続的に続けようという狙いがあってのことだろう。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

1話で詠子は螢多朗が「恐怖を愛している」ことを指摘したが、この指摘の裏には螢多朗との関係を繋ぎ止めておきたいという目的があった。穿った見方をすると、霊障に巻き込まれた自分の不幸な境遇を螢多朗が運命の人だから私はこんな目に遭ったのだ」という形で合理化しているのではないかと私は考えている。オカルトを愛のキューピッドとして利用する彼女の狂気、これが本作「ダークギャザリング」における霊の直接的な恐怖とは一味違う恐怖であり、ユニークポイントとして挙げられる所だ。

 

パフォーマンスとしての呪い

今回見た人間を死に追いやる「呪いのビデオ」というものが出て来たように、一口に呪いと言っても手段は様々であり、人形を用いた呪い、相手の身に着けていた衣服を利用した呪い、呪いたい相手が映った写真を切り刻む呪いなど、時代や国によって呪いの方法は全く異なっている。

そんな呪いを定義する上で個人的に重要だと思っているのはパフォーマンス性である。呪いというと誰にも気づかれずにこっそりと、秘密裡に行うものというイメージがあるが、実際の所完全に秘密裡の状態で行う呪いはあまり存在せず、何かしらの形で相手に「お前は呪われているのだ」ということをアピールし伝える要素が呪いの儀式にはある。

 

ja.wikipedia.org

では、日本の代表的な呪いの儀式である丑の刻参りを例に挙げてそのパフォーマンス性を考えてみよう。

丑の刻参りは丑の刻(午前1時から3時)に神社の御神木に藁人形を五寸釘で打ち付ける呪いの儀式で、その時の服装は白装束に三本のロウソクを立てた鉄の輪を頭に乗せ、胸に鏡をぶら下げ高下駄を履く。そうして七日七晩誰にも見られずに釘を打てば呪いが成就するというものだ。

誰にも見られずに行う儀式とはいえ、藁人形自体は神社に残るのだからいずれ誰かが発見するし、その藁人形に名前が記されていたら誰が呪われているか一目瞭然である。それに、昔の神社は子供の遊び場になったり年寄りや村の有力者が会議をするために集まる場でもあったから、そういった子供や年寄り連中が藁人形を目撃して「どこどこの誰かさんが呪われている」と噂を広めることで、ターゲットに「自分が呪われている」と自覚させることが出来る。誰だって自分が呪われていると考えると良い気持ちにはならないし、一旦そう思い込んでしまうと普段はやらないミスをしてしまったり、ちょっとした不幸にも過敏に反応する。こういった具合に呪いの行為には対象に自分が呪われていることを自覚させるためのプロセスみたいなものがあって、それは服装にも表れている。白装束は死者に着せる経帷子を連想させ、「死ぬ覚悟で呪っている」ことのアピールになっていると考えることが出来るからだ。

 

ja.wikipedia.org

また、ロウソクを立てた鉄の輪を頭に乗せるというやり方は、「宇治の橋姫」伝説にその原型があると言われており、この伝説ではとある公家の娘が嫉妬心から相手の女性を殺すために生きながら鬼になることを貴船大明神で祈った。そして貴船大明神のお告げに従い、娘は長髪を五つに分けて松脂を塗って固め、それを巻き上げ五本の角をつくり、顔に朱、身体に丹を塗り、頭には金輪、火をつけた松明を口にくわえ、宇治川へ行って21日間も川の水に浸かり、遂に鬼になって相手の女性を取り殺したと言われている。これも一種の呪いの儀式と言えるし、21日間も水に浸かるやり方や鬼のような容貌を顔や身体を赤く塗ることで表現する方法は、正に呪いのパフォーマンス性を如実に物語っていると言えるのではないだろうか?

実際、この姿で宇治川に向けて大和大路を走って行った女を目撃した人は、みな肝をつぶして気を失った、或いはそのまま死亡したと記録されており、それだけ人目を引くインパクトがあったということだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

今回のアニメに話を戻すと、あの呪いのビデオは焼身自殺の瞬間を撮影したものという正にインパクトのある、パフォーマンス性に満ちた呪いだったし、実を言うと詠子もまた今回の物語において螢多朗に呪いをかけていたのだ。それは、螢多朗が自分一人で呪いを対処しようと大学の講義室でうずくまった場面。彼女は子供の頃から螢多朗が自分を守ってくれたことを思い出させ、「守られるばかりじゃなくて支えたい」と彼に寄り添う姿勢を見せた。勿論これはある程度本心・事実に基づく説得だったことは間違いないが、一方で螢多朗に「詠子はかけがえのない大切な存在」であることを植え付ける行為でもある。

今回の呪いのビデオのように、呪いは目を引くパフォーマンス、異様な道具立てによるものを連想してしまうが、実際に現実社会で行われる呪いというものは、得てして詠子がやってみせたように実にさり気ないパフォーマンスによって成り立っている。それは、普段のちょっとした会話や或いはテレビの通販番組からも見出すことが出来るし、そう考えるとこの世は呪いで満ち溢れていると言えるかもしれない。

 

さいごに

4話の感想は以上となるが、今回はギャグ要素とホラーの塩梅が絶妙で、深刻な事態なのに笑えてしまう呪いの解除方法がやはり最高でしたね。

(高速道路ならともかく、一般の車道で出すスピードで果たしてあのように燃え移った火を消せるのかどうかそこはわからないけど…)

今回は呪いをパフォーマンスという点で読み解いてみたが、次回もまた興味深いテーマというか解釈を描いた話になっているので、その辺りを詳しく解説出来たら良いなと考えている。