タリホーです。

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【ゲゲゲの鬼太郎】泥田坊(2~5期)を見比べる

ゲゲゲの鬼太郎歴代セレクション、第二回目は「田を返せ~!」でお馴染み泥田坊の回です。

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今回のセレクションも6期は配信されていないので、今後も6期の配信はなさそう。6期は放送から年月がそれほど経っていないから、東映もレンタルとか円盤購入してもらいたいということだろうかね。

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6期の感想は上の記事を参照してもらうとして、では2~5期の泥田坊回はどんな作品だったか語っていこう。

 

2期(妖怪復活の象徴に泥田坊は何故選ばれたか)

泥田坊が初めて映像化された2期は、原作のプロットは踏襲しておらず、タイトルも「妖怪復活」。ゲゲゲの森を離れ隠居同然の暮らしをしていた鬼太郎親子をねずみ男が探すという所から物語は始まる。

この2期が放送された1970年代は高度経済成長期による全国規模の開発が行われた頃であり、2期の初回が放送された翌年の1972年には、田中角栄日本列島改造論を発表している。またこの頃の日本は米の自給が実現出来た一方で、パン食の普及による食の欧米化も進んだ時期であり、米の余剰を防ぐために減反政策が本格的に始まったのも大体1970年代にあたる。

こういった時代背景を踏まえると、妖怪復活の象徴に泥田坊が選ばれたのも何となくわかるだろう。開発によって土地が変貌する、つまりは土が掘り起こされコンクリやセメントで固められていくという訳だから、それで怒る妖怪と言えば土に縁故がある泥田坊こそ相応しい。アニメ本編でも鬼太郎が住んでいたゲゲゲの森が人間によって開発されていたし、漁師村の網元も所有していた田んぼを観光会社に売ろうとしていたからね。

大規模な開発によって地方の都市化が進めば妖怪や迷信の類は駆逐される訳ではない。むしろそんな人間の一方的な開発に対して妖怪は怒り、声をあげ復活を遂げることを示したのがこの2期であり、鬼太郎が活躍する出番は減るどころか逆に増えるということもある意味主張している感じがする。それは、妖怪はオワコンではないという水木先生をはじめとした制作陣の意地にも見えてきて、だからタイトルが「泥田坊」ではなく「妖怪復活」になったのかなと考えた次第だ。

 

3期(文明の利器を破壊する泥田坊

3期は泥田坊出現の背景である新幹線開通を除けば大体原作のプロットに則っている。新幹線は1964年の東海道新幹線に始まって、70年代・80年代と開通エリアを拡大しているが、3期にあたる80年代に開通したのは東北と上越エリアなので、多分アニメの方もそのエリアを意識した物語なのだろう。

そんな当時の最先端の乗り物をぶっ壊すモンスターとして泥田坊を描くのだから、2期みたいに人間に泥を吐く程度ではすまなくなり、破壊光線のように熱泥を吐いて新幹線を停止・炎上させている。ビジュアルもそれに相応しい、がっしりとした身体つきの泥の巨人姿で描かれており、文明の利器を破壊する怪物としての貫禄があった。

アクションシーンも新幹線を利用した迫力ある場面が多く、新幹線の上からパッと鬼太郎が飛び降りたり、新幹線に張り付いた泥田坊の分身をリモコン下駄で倒しまくるなど、見応えのある場面になっていたと思う。

 

4期(人間と妖怪がわかり合える余地)

2・3期は減反政策や新幹線など社会背景やその当時の日本の発展を象徴するアイテムを盛り込んだのに対し、4期は泥田坊の悲哀に焦点を当てているのが最大の特徴であり、そこに過去作にない趣がある。一応ベッドタウン開発によって田んぼがなくなるという泥田坊が蜂起した理由は劇中で述べられているが、ベッドタウン自体は物語において重要な位置を占めてはいない。

泥田坊は中盤で巨人化するものの、3期のように悪役プロレスラーみたいな感じで暴れる訳ではないし、前半における泥田坊にしても限りなく人間に近い。消防団の放水で泥に戻る場面なんか、デモ行進を弾圧される民衆を見ているようであり、本作に物悲しさを覚えるのも、泥田坊を妖怪としてではなく迫害される民として描いているからだろう。鬼太郎が泥田坊を積極的に攻撃したくないと言ったのも納得である。

物悲しさもある一方、直也少年という妖怪に理解を示す人間がいることで両者がわかり合える余地を与えているのも4期泥田坊回の特色の一つだ。2・3期にも少年は登場したが、やはり4期の直也少年が一番泥田坊に理解を示した人間だと言えるし、その間を取り持つ存在としてベビー泥田坊を生み出したのが素晴らしい。2・3期までは畏怖すべき対象として人間と泥田坊の間に距離感があったが、この4期における泥田坊は確かに恐ろしい面もあるが、ベビー泥田坊という理解し合える隣人としての余地や希望が見出せる。

そんな訳で、子供の時に見たら何とも思わなかったかもしれないが、大人の今見ると凄く心に沁みる一作だなとちょっと感動した。巨人化した泥田坊が肥満体型というのも肥沃な土地から生まれた妖怪の象徴としてはピッタリの造形だったなとそこも評価したい。

 

5期(ゾンビパニック的ホラーと共存の道)

5期の泥田坊回の世界観は4期と非常に似ているが、5期は完全に宅地開発が完了しており、私が以前5期1話の感想記事で言及した「人間と妖怪が分断した社会」という始まりになっている。

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郊外の土地へ移り住んできた一家に警告をする老人、その土地に出没する正体不明の泥の化け物と、物語はホラーの定番とも言える筋運びで展開していき、後半の泥田坊の大群による襲撃など正にゾンビパニック・ホラーとでも言うべき展開で、何気に過去作の中で一番ホラー要素が詰まっているのが5期の特徴だ。ホラーに特化していることもあって泥田坊が4期の可愛げある見た目から再び恐ろしき怪物として逆戻りしているのも注目すべきポイントだろう。

5期の泥田坊は当初こそ正体不明の泥の化け物という、排除すべき怪物みたいな描かれ方をしているが、後半でこの泥の怪物が私たちが食べる米を美味しく育てる源であり、決して排除すべき存在ではないことが描かれる。4期は当初から共感性のある妖怪として描いたが、5期は敢えてそこに落差を付けて醜いビジュアルにすることで、見かけで判断してはいけないという教訓めいたものを視聴者に投げかけている感じがする。

また、泥田坊との共存に関しても、2・3期は泥田坊側に分が悪く、4期は人間側がある程度の我慢をしなければならない所があったのに対し、5期は田んぼ付き住宅という人間側も妖怪側も無理をすることがないスマートな方法で共存の道を提示している。共存とはいえ、人間の知恵というか強かさ・商魂のたくましさには鬼太郎たちもあきれ気味で、そこに関しては妖怪も敵わないという形で締めているのが面白かった。

 

 

以上、2~5期を見てみて思うのは、泥田坊って妖怪の中では地味な部類に入るし物語のプロットも土地を奪われることに対する怒りという点は各期で共通しているにもかかわらず、各期でテイストは全然異なっているし見比べると泥田坊の妖怪としての変遷なんかも窺い知ることが出来て実に興味深かった。

2~5期にかけて人間は何とか泥田坊との共存の道を開拓してきたが、これが6期では人間側も共存の道を示せる余裕がなくなり痛み分け的決着を見せるとは、まさか5期の段階では予想だにしていなかったので、やはり個人的に6期が歴代の中では異色作であると同時に、オールタイムベスト級の一作として評価したことについては今も変わらない。次点としてはやはり4期が凄く印象深いなと思っていて、4期の作品に漂う優しさってSNSに毒された今の日本人が取り戻すべき優しさなんじゃないかと、何となくだがそう思った次第である。