タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

憑依の研究【ダークギャザリング #02】

そういや前回言ってなかったけど、本作に出て来る心霊スポットはほぼ実在の心霊スポットをモデルにしているそうで、前回のH市の電話ボックスは八王子市の八王子霊園前にある電話ボックスがモデルみたいです。「八王子 電話ボックス」で検索したら色々と情報が出て来るので気になる方は是非。

 

「幻燈河螢多朗」

前回は夜宵の不気味な亡霊狩りとその目的を中心に描いた回だったが、今回は螢多朗を軸に置いたお話。

中学時代に受けた霊障が原因で螢多朗は引きこもりになり、大学入学を機に社会復帰のため家庭教師を始めたというのは前回語られたが、今回はその霊障霊障を祓う螢多朗の祖母・淡宮董子、そして董子の神社で祀られている日本人形が螢多朗に取り憑くピンチを描いている。

 

ところで、祖母が神主を務める「淡宮神社」とその外観を見てアレ?って思った方がいたと思う。それもそのはず、「淡宮神社」のモデルは和歌山県にある淡嶋神社で、実際にそこでは2万体以上の人形が奉納・供養されている。

www.kada.jp

心霊番組などで度々放送されているから知っている人もいるだろうし、2016年にはUSJのハロウィンイベントで、人形を供養の依頼者に断りもなく貸し出したことで炎上騒ぎにもなったことがあるので、良くも悪くも有名な所だ。

神社としては、人形を見てもらう・関心を持ってもらうことが供養につながるという意向があってのことみたいだけど、一方で毎年3月3日には雛流し(流し雛)をやっているみたいで、※1結局人形にこもった念・魂を現世に留めておきたいのか、常世へと送りたいのかどっちなんだよとツッコミたくなるが、そこは多分依頼者の意向も受けてケースバイケースでやっていると考えるべきだろうか。

 

※1:淡嶋神社の雛流し|地域|NHKアーカイブス

 

憑依をどう捉えるか(憑依されやすいとは?)

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

今回は螢多朗の霊媒体質と人形に霊魂が宿るという二点から「憑依」に関して語っていこうと思う。

古来より人の形をしたものには霊や思念が入ってしまうという思想があり、形代に罪や穢れを被せて自らの身体に憑いたものを祓い清めるという儀式、平たく言えばお祓いが行われるのもそういった思想に基づいている。特に身近で何か不幸なことや悪いことが立て続けに起こった場合はその結果に対する原因を逆算するように求めてしまうというのが人間の思考パターンであり、そういった曖昧な不幸事の原因は大概オカルト的な所に帰結してしまう。最近先祖の墓参りに行っていないから先祖が怒っているとか、この間旅行先に行った時に立ち寄った場所にいた霊を連れて帰って来てしまったとか、そういった類の原因である。

そういう考えに行き着くのは、やはり人は自分が相手に思っているのと同じように自分も相手に何か思われているという考えがあるからで、「自分はあの人からこう思われているのじゃないか」という疑念が頭によぎった瞬間、それがある種の霊として自分自身に取り憑くというそんな感じの流れで、自分で自分に取り憑くものを生み出しているというケースは実は日常にあふれているのじゃないかなと私は思っている。

 

例えば「Aさん最近Bさんとよくお喋りしているけど、前まで私によく話しかけてくれたのに…。え、何か私前に悪いこと言ったかしら…」と気にしてしまうと、本当はAさん自身は何も思っていないのに「自分を悪く思っているAさんの霊」がその瞬間生まれてしまい、そのマイナスな思念が当人を縛り付けてしまう。

つまり、憑依というのは大多数は自分で原因となるものを生み出している場合が多く、取り憑かれやすい人というのも言い換えれば相手の感情に過敏に反応し、言動の裏読みをしてしまいがちな人に多いのではないかというのが私の意見だ。

 

本作は本当に霊魂や亡霊が存在する世界なので、自ら憑依される霊を生み出すという考えは完全に否定されてしまうのだけど、だからと言って螢多朗がそういうタイプではないと否定は出来ない。過去に霊障が原因で引きこもりになったのは、他の人に迷惑をかけたくないという思いがあったからであり、そう思う人はそれだけ相手の感情に敏感で、優しく真面目だということだ。

前回、螢多朗は「家庭教師になったのは偶然だけど、僕だから夜宵ちゃんにできることってあるのかな」と、家庭教師としての職務以上に自分だからこそ貢献出来ることを模索していた。こういう誠実さというか生真面目さは憑依されやすい=相手の感情を敏感に受け取ってしまいやすいということで、彼が霊媒体質なのも納得のキャラ設定である。心霊だって元は人間なのだから、鈍感な男よりも感情を敏感に受け取ってくれる男にすがりたいと思うでしょ?

 

螢多朗の不気味な笑みの解釈(フロイト心理学とアドラー心理学の両面から)

螢多朗のことで実は前回敢えて言わなかったことがあるのだけど、それがこちら。

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

H市の電話ボックスに螢多朗が電話をかけた際、彼自身は渋々電話をかけていたのに、それを見ていた詠子によると恐怖ではなく笑みを浮かべて電話をしていた。螢多朗本人はオカルトの類が嫌いだと主張していたが、詠子は彼の笑みを見て「螢くん、あなたは恐怖を愛している」と彼はむしろ恐怖を愛していることを本人に突きつけた。

 

この詠子の指摘に関して、私は賛成の意見と反対の意見の二つを持ち合わせている。螢多朗の不気味な笑みは言ってみれば本人が自覚していない無意識が表に出た場面でありそれは間違いようがないのだけど、この無意識を分析するとして、これをフロイト心理学の要領で分析するならば詠子の言う通り、螢多朗の無意識は恐怖を求めていてそれを快楽として享受しているという一種のマゾヒスト、要はどM野郎ということになる。

ただ、これをアドラー心理学として解釈すると詠子の指摘を否定しないといけない。アドラー心理学では意識と無意識は対立しない、つまりオカルトが嫌いという螢多朗の意識とそれに対峙する時に浮かべた無意識の笑みは対立しないというのがアドラー心理学の論説になるが、これを説明するとなると前回の情報だけでは流石に無理で、今回の螢多朗の霊障の一件でようやく説明がつく。

螢多朗の霊障右手の神経が露出するというもので、日常的・慢性的に彼の身体に影響を及ぼす類の霊障だ。だから彼のオカルト嫌いの根底にはこの霊障の存在があって、霊障から解放されたいという願望は間違いなくあったはずだ。霊障となる神経を切除することは可能だが根本的な解決には至っていないし、そうなってくると解決策の一つとして頭をよぎるのは「身体そのものを誰かと入れ替える」という発想だ。身体が誰かに乗っ取られれば、自分に降りかかった霊障もその相手に委託出来る。ただそれは自分の死に関わりかねない方法なので普段は抑圧されて意識下には出てこないけど、ふとした時にその解放願望が浮かび上がり、それが前回の不気味な笑みとなって表れたのではないだろうか。※2

要するに、あの不気味な笑みはようやく霊障から解放されることに対する喜びだとそう解釈するのがアドラー心理学的な解釈だと私は思っている。この解放に対する願望も突き詰めていけば、社会的責任からの解放だとか、これ以上周りに迷惑をかけなくてすむことへの安堵とも受け取れるけどね。

 

※2:解釈にあたって、以下の動画を参考にしました。

#0193 フロイト・アドラー・ユング 三大心理学の違いと共通点を徹底的に解説します!(名越式性格分類ゼミ通信講座版2020年8月号より) - YouTube

フロイト・アドラー・ユング 3人の深層心理学者たち《前編》 - YouTube

【高校生のための倫理】無意識と防衛機制#4 - YouTube

 

さいごに

今回は憑依や螢多朗の不気味な笑みについて心理学的アプローチで解釈・感想を述べてきたが、霊現象を合理的に解釈する手段の一つ、心理学を以てしても全てが完全に説明出来ないというか、どうしても論として隙が生じるのがこの分野の難しい所であり、ホラーが未だ廃れないのもこういった論理の隙間による所が大きい。他人の心に鈍感な人間だって憑依されるケースはあるし、合理的に解明出来ない心霊絡みの事件はいくつも記録が残っている。今回は魂の宿った人形を扱った物語だけど、人形つながりで私が知っている中で一番恐ろしい話は、稲川淳二氏が語った「生き人形」かな。

www.youtube.com

この「生き人形」の話は恐ろしいを通り越して危ないと言った方が正確だろう。