タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

チーム〈鳥籠使い〉結成!【アンデッドガール・マーダーファルス #01】

さぁ、今期の注目株の一つ「アンデッドガール・マーダーファルス」が始まりましたね!

 

特にこのアニメは以前当ブログで私が勝手に企画した「アオサキ夏のミステリまつり」「夏のアニメ旅」の双方にまたがった作品なので、ミステリ好きとして、また怪物・妖怪好きとして、この作品について色々語っていきたいと思います。

tariho10281.hatenablog.com

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「鬼殺し」

初回は原作1巻に収録されている「鬼殺し」のエピソード。原作では序章と「吸血鬼」「人造人間」のエピソードに断片的に挿入される形で、〈鳥籠使い〉一行の旅の目的が明かされるのだが、アニメはこの初回でまとめて明かす方法をとっている。

視聴した他の方の感想を見た感じ、概ね好評なので原作既読勢としてとりあえず一安心ではあるが、この1話はガイダンスに過ぎないし、これからもっと面白いキャラクターや展開が待ち受けている(少なくとも原作通りやるとしたら、だけどね)ので、初回を見て「会話ばっかりでつまらんな~」とか思った方は来週以降、特にシャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンが登場する辺りまでは是非見続けてほしい。

 

真打津軽のエロさ(体癖論の観点から)

© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

サブタイトルの「鬼殺し」は言うまでもなく、真打津軽の通称である。明治時代、怪奇一掃という怪物廃絶政策が国内外で起こり、それを担う機関に津軽が所属していたことから付けられた通称なのだが、津軽とある人物の陰謀に巻き込まれ、身体に鬼の血を流されてしまい半人半鬼になってしまう。※1正に「木乃伊取りが木乃伊になる」といった感じの男性である。

そんな津軽を、輪堂鴉夜の声を担当した黒沢ともよさんが「めちゃめちゃエロい」と事前番組で言っていた※2のを聞いて「津軽がエロい?んなアホな」と当初は思った。原作を読んだ時もエロ要素はなかったし、漫画版で描かれた津軽も別にそんなエロいキャラとして描かれてなかったからね。(どちらかと言えばおめめパッチリでカワイイ感じ?)

 

で、実際アニメ本編を見たら、うん、確かにエロさは感じるね。

ただそれは鍛えられた身体だけのエロさではない。身体自体は津軽の経歴から考えて鍛えていないと怪物を相手に出来ないのだから、エロさに影響しているのは6種体癖による所が大きいと個人的には評価している。

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体癖に関しては専門的な話になるから6種に限定してかいつまんで説明をすると、6種の身体的特徴は上に載せた名越先生の動画で説明されているように、目が据わっている・あごが尖っている(或いはしゃくれている)他にも、やや猫背で前屈みの姿勢、三白眼で白目が目立つ・呼吸器が弱いという特徴がある。※3

以上をふまえると、津軽はザ・6種という見た目だし、声や話した時の感じからも呼吸器が強くない印象を受ける。6種は性的な魅力があると言われているから、その点にも合致するし、物語後半で津軽が語った自身の破滅的な死に様に対する願望にしても、6種体癖は破滅的行動・殉教的行動をとるという体癖としての傾向に沿っている。

 

津軽から漂うエロさと退廃的なムードについては体癖論の観点からこのようにある程度は説明がつくが、パーソナリティーの面で更に深く掘るとすると、また別の視点からこの物語を眺めないといけない。

 

※1:一応断っておくと原作1巻が発行されたのは2015年12月の頃なので、別に「鬼滅の刃」のアイデアをパクったとかではない。(「鬼滅の刃」は2016年2月に発表)

※2:「夏の深夜アニメを徹底的に楽しむぞSP 斉藤壮馬&黒沢ともよがクイズに挑戦」 ※23年9月30日(土)23:59までの限定公開 - YouTube(動画の19分辺りから)

※3:体癖 - Wikipedia

 

怪物と差別と穢れ

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

物語の始まりとなる19世紀末、1897年の日本は明治政府が近代化改革として賤民制度を廃止し「太政官布告」として解放令を布告した1871年から20年以上も経っている。とはいえあくまでもそれは形骸的なもので、人々から簡単に差別感情がなくなることはなかった。

そして差別の対象としてしばしば描かれるのが、見世物・芸人である。今でこそ芸人はクリエイティブな職業の一つとして認知され多くの人々を魅了しているが、昔の芸人は(諸事情から)マトモな働きが出来ない人が就く職業という白眼視されるようなイメージがあり、特に見世物は身体的な欠損・奇形等で迫害・隔離された人にとっては最後の砦となる場所でもあった。もちろん今は人道的な観点からそういう人々を見世物にするのはアウトになるが、福祉が整っておらず、職業選択も限られていた明治の時代を考えれば、見世物が社会からこぼれた人々の受け口として機能していたことは認めざるを得ないだろう。

 

津軽見世物小屋の芸人として原作では描かれているが、アニメでは更にオフの時の津軽の様子がオリジナルで描かれたことで、彼が被差別民として周囲に扱われていることがより強調されている。これは単に津軽が芸人だから、というだけではなく彼が穢れた人間だということも大きく関係している。

穢れというと被差別階級の「穢多・非人(えた・ひにん)」である。穢多はその字面からもわかるように皮革・死刑執行・牛馬の死体処理といった死体や動物の血(=穢れ)に触れる仕事に関わる人だ。衛生面の点や正しい医学的知識が民衆に広まっていなかった時代だけに、偏見と差別にさらされた身分・職業なのだが、そういう点では津軽も穢多なのだ。見世物として怪物を殺し、その血を浴びているし、何より彼の身体には鬼の血が混じっているのだから、身体の内も外も彼は穢れた人間ということになる

そういう訳だから当然津軽の住まいも貧しい長屋町から離れた所にある(あれは一人暮らしが好きとかそういうのではなく、人として同じ場所に住めない)し、ビール売りのおじさんも「花柳病(今でいう性病)」と彼の容姿・職業に偏見を抱いている。特に津軽は色男だから余計そういう風に見られたのだろうけど。

 

穢多・非人、そして芸人は社会の上では需要がありながらも同じ人間として扱われないという厄介で不憫な立場だ。特に津軽は「鬼殺し」という職業ゆえに怪物からも忌み嫌われる存在である。人でもなく妖でもない、どっちつかずの状態にもかかわらずあの飄々とした態度・振る舞いが出来るのは、やはりどこかで今自分がいる世界をフィクションとして捉えているからだと私は考えている。津軽にとってこの地上すべてが舞台であり、周りの人々は皆すべて役者であるということだろう。

 

「利益なき演技」こそが人間たる証

「演じる」というのは、人間性を語る上でもミステリを語る上でも外せない重要なワードだ。ミステリとしての「演じる」については今回は語らないが、人間性という点で「演じる」ことを説いていくと、私たち人間は絶えず演じている。演じるのは何も役者や芸人だけの話ではない。社会に出れば誰しも与えられた役職を演じなければならないし、家に帰れば父・母或いは子供としての役が待っている。それは必ずしも利益だけでやる訳ではなく、社会に順応出来なければ死んでしまうため否応なくやるしかない部分もあるというのが感覚的に思うことだ。

妖怪や怪物も演技はするが、それは大抵食い殺すためだとか人間が慌てふためく様を見るのを楽しむためといった利益目的でやることが多い。「三枚のお札」のヤマンバが優しい老婆に化けるのも、狐狸が人間を化かすのも大概は自分の利益のためだ。

 

今回の物語における津軽も、鴉夜に語った動機――下卑た観客や興行主に対する破滅的なレジスタンス――だけを見れば(津軽にとって)利益になるから、彼の芝居がかった振る舞いも人の皮をかぶった怪物としての演技、破局のための前準備ということになる。しかし、鴉夜との出会いでその必要がなくなった今、彼の演技はこの残酷な世界でも面白いことがある、こんな世界でも面白おかしく過ごせる手段があることを示すための演技へシフトした、と言えるだろう。悲劇的な境遇を笑劇(ファルス)へと昇華しようという試みである。これは怪物の演技とは違い、そうしないと社会と折り合いがつかない、自分が自分らしくいられないという意味で、非常に人間的な試みなのだ。

 

怪物が怪物を救うという笑劇(ファルス)

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© 青崎有吾・講談社/鳥籠使い一行

鴉夜と津軽の出会いは互いにとって悲劇的な破局を回避する結果となり、利害関係の一致によって二人は欧州への旅を決意する。

ミステリ作品においては大抵『〇〇の悲劇』『××館の惨劇』といった具合に悲劇・惨劇というワードをタイトルに置きがちだが、本作はあくまでも笑劇(ただしブラックユーモア濃いめ)として描かれる。その旅の始まりであるこの出会いもまた一つの笑劇として成立していると言えるだろう。

 

というのも、津軽を救ったのは神でも仏でも、ましてや人でもない怪物だからである。

劇中で鴉夜はギュスターヴ・モローの絵画『出現』※4の洗礼者ヨハネさながらの神聖な生首として描写された場面があった。確かに津軽から見たら不死である鴉夜の生首は神聖的なものを感じる要素があるのだろう。しかし実際は平安時代から生き永らえてきた怪物というだけで、そこに神聖さはない。たまたま美少女だったからそう見えるだけの話なのだ。

津軽は鴉夜との口づけによって鬼の進行を遅らせることが出来た…と、これだけを切り取れば鴉夜のキスが津軽の穢れを抑えたという一つの美しいおとぎ話のような場面なのだが、身も蓋もない言い方をすれば怪物が怪物を救ったという話であって、穢れを抑えたのも唾液という比較的穢れに近い体液な訳だから、傍目から見た美しさと実際に行われていることの間の落差・ギャップに笑劇めいたものを感じた。

 

※4:ギュスターヴ・モロー 出現 | 旅と美術館

 

さいごに

さて、以上が初回の感想・解説となる。原作既読勢として内容は知っていたから演出面を特に注目して見ていたが、見世物の定番ネタであるろくろ首※5にヘビ女、津軽が口ずさむオッペケペー節、浅草凌雲閣(浅草十二階)など、随所に物語の世界観を構築する上で必要な小ネタが散りばめられており、ただ原作の筋書きをなぞるだけの作りになってない所に制作陣の熱が感じられて良かった。

調べた所、監督の畠山守氏は過去に「昭和元禄落語心中」を手掛けており、シリーズ構成の高木登氏は「虚構推理」というミステリ作品に関わっている。なるほど、本作は落語ネタも扱うし、言うまでもなく怪物を題材にした特殊設定ミステリでもあるので、この両氏の起用はうってつけというか、この作品をやるにはこの二人しかいないだろう。

 

アニメオリジナルで描かれたあの猫の出来事にしても、娯楽として怪異の存在を求めていながら、それが日常に入ってくると害獣のように扱う人間の身勝手さが表れていて実にグッド。※6本作はミステリではあるが怪物テーマの物語でもあるので、そういった怪物と人間に関するアレコレも本作を語る上で重要なポイントとなる。何故人は怪物を生み出すのか、人は怪物の何を恐れるのか、怪物と人を隔てるものとは何か…。こういう点についてもまた次週以降語っていこうかと考えている所だ。

 

本作は謎解きあり・冒険あり・バトルありの一大エンタメ笑劇である。私の感想・解説がそんな旅のお供になれば幸いである。

 

※5:実際、見世物のろくろ首は胴体と伸びる首が人形で、暗幕の裏から本物の人間が頭だけ出して動くという手法がとられていた。

江戸時代の笑い話と怖い話(その16)。ろくろ首の見世物

※6:もっと指摘すると、津軽の後ろをついて来た子供たちがいたでしょ?彼らも大人と同じで怪物やそれに類する人間に関心・好奇心があるけど、実際それが自分たちに対してリアクションを起こす、つまり自分たちの領域に入って来た途端、それは忌むべきもの・避けるべきものとなる。だからあのように逃げ出したのだ。