今回は9月9日までの配信。
あと先に言っておくと今回の感想は厳しい意見もあるため、この回が好きだという人には不愉快に感じるかもしれません。念のためご注意を。
「妖怪横丁」という設定がもたらす「妖怪の粗製濫造」
今回登場したのびあがりについては6期1話(再放送)の記事で言及しているため割愛。
他にも妖怪長屋のメンバーや油すましといった妖怪が登場するが、メインではないし後々もっと活躍する回があるため、彼らに関する情報も今回はカット。
今回の脚本は吉田玲子氏が担当。この方は主に妖怪横丁を舞台にした回の脚本を担当しており、この回も妖怪横丁の日常をメインとした物語になっている。
で、この回の感想だが、まず物語の内容以前の問題として作画や画面の随所に映る妖怪たちの造形の雑さが目立つ。これは特に妖怪市場の場面で感じられたことだが、水木先生の妖怪画を元にした妖怪は除いて、完全にオリジナルで考えたものや、酷いものだとスライムの塊みたいなものまであって、そのせいかあまり水木作品らしい世界観ではないなと思った。一応水木先生も妖怪大百科か何かで妖怪の市場をイラストとして描いているが、せめてその要素が入っていたら良かったと思う。
この回の作画監督は出口としお氏によるもので、出口氏は4期でも作画監督をしている。一応4期の出口氏が作画監督を担当した回も見てみたが、流石に今回感じた雑さは見られなかった。
4期と5期とではアニメ制作の現場状況も違っているからそれによる影響もあるのかもしれないが、個人的にこの雑さを招いたのは「妖怪横丁」という設定によるものではないだろうか。というのも、妖怪が集まるコミュニティを描くとなると必然的に妖怪を描く量が増える訳であり、種々雑多な妖怪を描くだけでも相当な労力になるのだ。しかも毎週放送されるアニメなのだから制作期限も厳しく限定されており、その結果妖怪が粗製濫造されることになったのではないかと考えている。
人間化する妖怪、粛清される妖怪
初回の記事で5期が人間と妖怪が分断した社会を描いているのではないか、ということは既に言及した。
そのことを踏まえて今回の物語を見ると、今回の物語は妖怪の世界をメインに描いていながら、その内実は大いに人間的であるとそう思えてくるのだ。
まず、妖怪長屋や妖怪市場の場面から貨幣経済が流通していること。それも人間と同じ通貨を利用していることがわかる。そして妖怪に労働を強いていること。主にこの二点が人間社会に通じる部分だ。ゲゲゲの鬼太郎のオープニングテーマ曲の二番「おばけにゃ会社も仕事もなんにもない」とあるが、今回の物語というか妖怪横丁自体それに矛盾する設定だったことがこれでわかるだろう。
これが制作陣の意図してやったことなのか、それとも結果的にそうなってしまっただけなのかそれはわからないにせよ、妖怪横丁という設定がある種の自己矛盾的な共同体、妖怪でありながら妖怪としての生活様式を否定しているような、そんな感じがするのだ。
そんなことを頭に入れて今回の物語を見ると、この物語の裏テーマとでも言うべきものが浮かんでくる。最初に視聴した時は砂かけ婆の横暴で強制的に労働を強いられた妖怪がのびあがりを目覚めさせてしまい、その結果横丁全体が吸血木化するというだけの物語で、正直言うと砂かけがこんな横暴キャラ(ある意味ツンデレ?)にされたのも何か不満だし(原作の砂かけは口より先に手が出るタイプだが、理不尽さや横暴さはない)、「人間が吸血木化するから怖いのに妖怪を吸血木化してどうすんだ」と文句がこぼれた訳だが、このプロットの裏には人間化する妖怪を別の妖怪が粛清するという、別の意味で怖いテーマが含まれていると思わないだろうか?
勿論、今回ののびあがりは単純な成長欲求から妖怪を吸血木化していたという、目玉おやじによる推測・動機付けがなされているため、見当ハズレ・考えすぎという意見もあるかもしれないが、最終的に鬼太郎の超能力によってのびあがりが退治された=砂かけ婆や猫娘ではのびあがりが倒せなかったことが妖怪としてのアイデンティティが薄まっている感じがする。というか、妖怪横丁には炎の妖怪もいたのにその妖怪も吸血木化していたと思しき描写があった(動画の20分6秒辺り)からね。吸血木は体内の血液を養分にして成長するのに「炎に血管とか血液があるのかいな」とツッコミたくなるよ。
表面的には横丁内のドタバタ的騒動を描いた今回の物語の裏には、人間化する妖怪と彼らを無意識のレベルで粛清しようとする妖怪がいた。この「妖怪が妖怪を攻撃する」というテーマをより露骨に表現したのが次回の雪女の回だが、それについてはまた次回の感想で。