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ゲゲゲの鬼太郎(6期)第1話「妖怪が目覚めた日」〈再放送〉視聴

いや~、まさかまたテレビで間を空けずに鬼太郎を見ることになるとは思わなかったよ。仮に再放送されるとしたらデジモンの過去シリーズだと思っていたからね。

正直、この時期が時期だけに話題になったアマビエが登場する5期を再放送した方が良かったのではないか?と思わなくもないのだけど、まぁ見れるだけマシとしよう。

 

1話の放送当時は新卒入社やら何やらで忙しかったので、腰を据えて感想記事を書く時間も余裕もなかったが、この機会に再放送された回の感想を2周目視点で語っていこうと思う。初見時とはまた違うことも見えてきたしね。

 

のびあがり

アニメでは1・3・4・5期に登場した妖怪。上記のツイートにもあるように厳密には妖怪ではないのだけど、話がややこしくなるせいか、期によっては妖怪という設定で押し通している。

吸血木の種を植えて相手を木に変える設定は各期に共通するが、1期は原作同様のびあがりを退治しても吸血木に変えられてしまった人間は元に戻らないため、それがのびあがりの恐ろしさを際立たせている。

3期では人語を解する妖怪として改変され、人間を吸血木に変えたのは自分が住む山の森林が伐採されたことに対する報復という、明確な動機が設定された。

4期は村に落ちた隕石から現れた怪物という少々特殊な設定になっており、山で遭難死した人間と融合して、麓の村の住民を大雪崩から救う善性の妖怪として描かれた。

そして5期は人間界ではなく妖怪横丁で起こった事件として描かれ、吸血木になった妖怪の妖気を吸収して成長するというオリジナルの設定が追加された。

 

ちなみに、伝承におけるのびあがりは見れば見るほど高くなっていく妖怪の一つ。地方によっては次第高、見越し入道、高坊主、高入道など同類の妖怪がいくつも出て来るが、愛媛県ではこれを「のびあがり」と呼び、地元の人は川獺が化けたものだとしている。

ja.wikipedia.org

 

動機不明の対処

基本的に1話は制作陣が視聴者に対してこの作品がどういう世界観・テイストなのかを主張する回。迷惑ユーチューバーの登場や、事件を前に写真・動画を撮影する民衆は2010年以前ではあり得なかった風景であり、SNSの隆盛一億総ジャーナリスト化を示している。そういう世界観に妖怪という目に見えない存在をぶっ込んで生まれる化学反応を描いたのが6期の特色と言えるだろう。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

当初はこの1話に大野木氏がのびあがりを登場させたことについて、私は「原作でものびあがりは人間の目に見えない妖怪だったから、見えない世界の存在を主張する6期の幕開けに相応しいな」程度にしか思っていなかった。

しかし、改めて見ると1話にのびあがりが登場したのは単に「人間の目に見えない妖怪」というだけではなく、「動機不明な妖怪」という重要なポイントがあったからだと考えている。

 

原作でのびあがりは人間を吸血木に変えたり、飛行するジェット機を墜落させているのだが、そもそも何故人間を吸血木に変えているのか、その動機は一切謎に包まれている(鬼太郎は地上征服が目的ではないかと推測)。3・4期では動機が与えられているし、5期でも「成長に喜びを見出す無邪気な性格」という目玉おやじの分析によって動機付けが為されている。しかし、1期と今期はのびあがりに明確な動機付けをしていない。そしてそれが恐怖に繋がっている。

 

言うまでもなく、人は動機がわからぬものに不安や恐怖を感じる。明確な動機のない無差別殺人に恐怖を感じるのもそういった理由があるからだ。その場合、人は動機付けをして安心を得ようとする。「加害者が過去に虐待を受けていたから」「加害者に特殊な性癖があったから」「被害者はいずれも弱い人たちだったから」といった理由をつけることによって、「誰もが殺人者になり、被害者になる」という不安・恐怖から逃れようとする。

 

迷惑ユーチューバーのチャラトミが吸血木化したのを写真・動画撮影していた人々について、人によっては「倫理観の欠如した現代社会を風刺した描写」だと評するだろうが、私はそこからもう一歩踏み込んで「動機不明の不安・恐怖から目を背ける人々の描写」でもあったと言いたい。

妖怪の存在が認知されてない社会において、目の前で人が木になった。この時人々は「自分が木になるかもしれない」という不安・恐怖を解消するための動機付けを行う。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

「信号無視を動画撮影するような異常者だから、変な薬でも飲んで木になったんじゃないか?」

「これってフラッシュモブ的なイベントじゃないの?」

「ドッキリ番組の撮影か何かだろ?」

各々が独自の解釈を以て動機付けを為し、正常な日常生活の延長線上の出来事として捉えて被害者を撮影する。勿論、その心理の中には見世物を見る一種の嗜虐的心理もはたらいたかもしれないが、そんな感情も含めて人々は不安や恐怖から目を背けたのだ。しかし、それらの動機付けは正しいものではなかったため、人々は木になってしまった、という訳だ。

こういった、自分に何らかの被害が予想される事態になっても「自分は大丈夫だ」と過小評価したり、自分にとって都合の悪い情報を無視する心理的作用を専門的用語で正常性バイアスと呼ぶ。人々が吸血木化した一連の流れには倫理観の欠如だけでなく正常性バイアスのはたらきもあったと見るべきだろう。

 

さて、動機不明の不安・恐怖から逃れるために人は動機付けをすると述べたが、これは妖怪の誕生とも密接に関わっている。

昔は科学技術が発達していなかったため、現代なら説明のつく様々な現象も謎の部分が多かった。その時、人はその訳の分からぬ現象に名を付け形を与えてひとまず安心を得ようとした。その流れの中で生まれた妖怪も多々ある。例えば「山びこ」は山に声が反響する現象から生まれた妖怪だし、「鎌鼬」はつむじ風が起こす真空状態によって出来る傷が元になった妖怪だ。

名がつき形を与えられても怖い妖怪はいるが、やはり「訳の分からぬモノ」の方が圧倒的に怖いのであって、形なきモノよりあるモノの方が対処のしようもあった、ということなのだろう。昔の流行り病が鬼の仕業だと言われていたのも、何の対処も出来ず恐れているよりは、鬼の仕業と定義づけ、それを祓う祈祷を行っている方が安心できるからね。

 

のびあがりも「名無し」

原作既読者は知っているだろうが、原作で「のびあがり」と呼ばれる一つ目の化け物は本来名前のない地下生物であり、土地に伝わる妖怪の名前を便宜上つけていただけに過ぎない。つまり、のびあがりも「名無し」だったことになる。

「名無し」といえば、1年目の物語の軸となる存在であり、その1年目の始まりとなる1話に同じく(本来)名前のないのびあがりが登場していたことに気づき、私は感嘆したものである。

こののびあがりの登場によって、3つの効果がもたらされている。

①6期のテーマの一つである「見えない世界」の表層的な表現

②妖怪が認知されていない社会における「動機不明の出来事」に対する人々の不安・恐怖の解消法(正常性バイアス

③もう一つの「名無し」の存在

 

1話は基本的にこれまで鬼太郎ファミリーの顔見世回でもあったが、その顔見世を思い切ってカットし、上記の3つのポイントを押さえた物語にしたことで先鋭的な作風となったことがこの回の評価ポイントではないだろうか(3つ目のポイントは原作既読者にしか刺さらないけど…)。

 

その他、雑感

・のびあがりの「人跡未踏の地下から現れた未知の怪物」という設定はH・P・ラヴクラフトの作品が影響しているのではないかと思っている。

ja.wikipedia.org

水木先生は「吸血木」を描く以前にラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」を「地底の足音」というタイトルで翻案・漫画化しているから、影響は受けていると思うのだがな。

 

目玉おやじが触れたスマホに映っていた「ニャニャニャの猫子さん」には元ネタがある。

 まだ猫娘が完全にレギュラー化していない頃に描かれた話だからね。