タリホーです。

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「准教授・高槻彰良の推察」Season1 4話視聴(ネタバレあり)

もうシーズン1も折り返し地点に突入したが、シーズン2も含めると物語としては始まりの部分に過ぎないのだよな。とはいえWOWOWに加入してないから私にとってはもう半分終わった感覚でね…。一人暮らしならともかく実家暮らしだと自分の一存で加入とか出来ないのよ。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

4話(スタジオの幽霊の怪)

准教授・高槻彰良の推察2 怪異は狭間に宿る (角川文庫)

4話は原作2巻の第二章「スタジオの幽霊」。映画スタジオでホラー映画を撮影中の女優が幽霊の怪異に悩まされていると依頼が入り、高槻・深町が調査に乗り出すというあらすじだが、この回で深町は風邪で中耳炎を発症。それが切っ掛けで嘘を聞き分ける能力が麻痺するという事態になり、高槻との間に溝が出来てしまうのが今回注目すべきポイントとなっている。

原作では真相を高槻が語る前に深町の能力が回復しているため、溝もあっさりと修復されているが、ドラマでは回復しないまま深町は高槻との関係を解消するという後味の悪い終わり方をしている(多分次回には治っていると思いたい)。これは単純に能力が回復しなかっただけでなく、ドラマではまだ深町が高槻の過去についてほとんど知らないことも関係している。原作では能力の有無に関わらず、高槻と深町も怪異が原因で辛い幼少期を送っているという共通項があり、それが二人をつなぐかすがいとして機能していたのだが、ドラマの方は高槻の過去についてまだ言及されていないため、深町にとって高槻に関わる意味があまりないと判断したのも納得の範囲なのだ。

高槻の過去について殊更に焦らしていたのがこの展開を生み出すためだったと思えば、ドラマはドラマなりに緩急付けた物語として単調にならないよう工夫しているということなのだろう。また、原作以上に瑠衣子や難波の存在がクローズアップされ助手の替えがいつでもきくようになっているのもポイントで、深町が高槻の助手でなければならない必然性をぐらつかせるライバル的存在になっているのもドラマとしてよく出来たポイントではないだろうか。

 

アイデンティティという名の牢獄

今回の民俗学ネタと言えば幽霊がテーマだが、正直な所原作もドラマも幽霊に関する蘊蓄が謎解きとあまり関わっているとは言えず、真相も自作自演(ただし協力者はいる)という点では2話の藁人形の回と同じ。動機も映画の宣伝という俗的なものだから、ミステリとしては酷く凡庸で面白みに欠けるという評価をせざるを得ない。ただそれでも今回の物語が大きな意義を持っていると感じたのは、女優の藤谷更紗と深町の二人がアイデンティティの問題で苦しむというこの一点に集約される。

 

藤谷は過去のヒット作以降売りになる作品が出ず、落ち目の女優として懊悩していた所、霊感女優として再び注目されるようになり今度の映画をヒットさせる必要に迫られていた。それが自作自演の幽霊騒動につながった訳だが、結局の所「霊感女優」という肩書きは彼女が過去に体験したこと(幽霊を見たという経験)のコピーにしか過ぎず、それをずっと演じ続けなければいけない、それを失うと女優としての自分がなくなってしまう不安・恐怖にずっと囚われるという不幸が彼女の背景にはあるのだ。

そして深町の場合は、当初は自分にとって障害であった能力がなくなり人並みになれたことを喜んでいたが、高槻の助手としてこの能力が必要だったことや、嘘か本当かわからないが故の不安が今度は彼に降りかかるようになった。これは本人も自覚しないうちに嘘を聞き分ける能力が彼にとってのアイデンティティになっていたことを示している。アイデンティティというのは何も自分にとってプラスになるものとは限らない。障害やハンデも(本人がいらないと思っていても)アイデンティティになるし、それは無意識レベルで本人の人格形成につながっているからだ。

 

※:そのヒット作にしても口がきけない役どころだったようで(冒頭の瑠衣子の発言から)、彼女が外見だけで評価されただけなのではないかというコンプレックスにもなっていた可能性が高い。

 

今回提示された二人のアイデンティティによる苦悩は視聴者に対する問いかけみたいな役割もあって、視聴時にTwitterでも触れたが、

要は自分にとっていらないもの(障害)を取り除いた所で人間は幸せになれるのか。価値観というものが常に相対的である以上、また別の問題が生じるのではないか?という人間にとってある意味永遠に解けないテーマを本作は取り扱っていると思うのだ。

 

また、自分のアイデンティティが能力として発揮される場合もあれば、自分を葛藤の渦に陥らせるような牢獄になるということも今回の話では描かれている。深町の特殊能力は高槻といる間は強みとして機能していたが、それが麻痺している今自分に残るものは何かという悩み。特殊能力という牢獄から出られてもそこには道しるべのない砂漠が広がっているという、ある種の絶望感。そういったものが読み取れる。

 

視聴者への問いかけはもう一つあって、それはアイデンティティが人と人とをつなげているのか?ということだ。

例えば自分の友達に話上手な人、或いは会話していて面白いと感じる人がいたとしよう。その人にとって「話が上手」「会話が面白い」というのがアイデンティティだとして、ある日その人と会話していても面白くない、或いは話が入って来ないようになったとしたら、あなたはどうするか?という問いだ。

そのまま友人関係を続けていくのか、それともしれっと関係を解消していくのか?続けるとしたらそれは一度関係を結んだことに対する責任からなのか、解消したとしたら自分は損得勘定で生きているのではないか…という具合に今の自分の人間関係を省みる切っ掛けにもなっている。「母親だからという理由で家事を押し付けていないか?」とか「男だから根性がないといけないと思い込んでないか?」といった内省にもつながっていると言えるだろう。

 

このアイデンティティの問題は今回だけに限らず、初回から3話の放送でも見いだせる。事件関係者の根底には常にアイデンティティが付きまとい、それに囚われ苦悩した結果が怪異として表出しているのが、この物語の面白い部分だ。

 

その他感想

・今回のアイデンティティの問題を深く考える切っ掛けになったのは精神科医である名越康文氏のこちらの動画。

www.youtube.com

この動画以外にも名越氏のチャンネルでは興味深いテーマが色々と語られているので興味ある方は是非。

 

・幽霊が「白い服に髪の長い女」というイメージが固定化しているのはJホラーの影響というのは原作でもドラマでも語られたことで、白い服は死者の装束のイメージから来ているというのは何となくわかるが、髪がロングヘア―でなければならない理由は何か?

これは髪が長いと顔が隠れる=表情が見えない訳であり、それが感情が読み取れない幽霊に対する恐怖につながっていると思うが、もう一つ理由として髪の長さが女の執念や未練を象徴しているからではないかと思っている。これは私の勝手な思い込みではなく、鳥山石燕が描いた妖怪「髪鬼」に基づいている。

ja.wikipedia.org

髪に女の執念や嫉妬心が乗り移り妖怪となる髪鬼は石燕の創作だが、頭髪に不思議な力があるという思想は昔からあったようで、まだ医学が発展していない(=人間が脳で物事を考えることを人々が知らない)時代にこういう妖怪や思想があったというのは民俗学好きとして実に面白い話である。脳という存在を知らなくても人間の意識が頭髪に近い部分にあるということを体感していたことになるからね。

 

・今回は撮影場所が映画スタジオでなくロケ地であること、監督・マネージャー以外の制作陣・スタッフが幽霊騒ぎに加担していたことを除けばほぼ原作通り。原作では監督の年齢は不明だが、ドラマは若い監督であり宣伝がなくとも映画が面白ければヒットするという、良く言えばウブ、悪く言えば世間知らずな人として描かれている。ちなみに、監督を演じた時任勇気さんは時任三郎さんの息子にあたる。