タリホーです。みっともない話かもしれないが、実は私たまに自分のブログ記事をエゴサしてまして、そんな折に私が以前書いた記事を引用したカプリコーン氏の6期に関する批判を述べた記事を見つけた。
注:久々に確認したらその記事は削除されていました。一応断っておくと削除したのはカプリコーン氏の意志によるものであり、私が削除要請をしたとか、そういった働きかけはしてません。
(2025.12.01 追記)
この記事で言及されていることについてはこれから詳しく「返答」として語らせてもらうが、まずは私の記事に関心をもって読んでいただいたことを感謝しなければならない。上で記されている内容は私の記事を含めて6期を手厳しく批判した論なので、それに対する当てこすりのように思われてしまうかもしれないが、私は最低限の礼儀とリスペクトを忘れてはならないと思っているし、同じ「ゲゲゲの鬼太郎」を愛する者として論戦をするのであれば建設的で実のあるものにしたいと思っているので、この感謝は単に「読んでくれてありがとう!」という風に受け取ってもらいたい。
別に6期を弁護はしてない
この記事を書いた際に届いたコメントでも返答したが、「妖怪の描写に対する不満」の項だけを読むと私が6期を高く評価している人のように思われるが、私なりに6期には他期と同様「ここは流石に評価する訳にはいかない」と思うポイントも結構あって、例えば1年目の西洋妖怪編は歴代鬼太郎のエピソードでもワーストだと思うほど、キャラの扱いや脚本に対して結構不満があったし、鬼太郎が活躍せず単に登場しているだけの回もあったから、「そりゃ往年の鬼太郎ファンに文句言われても仕方ないよな」と思わざるを得ないポイントも多くある。そこは否定しない。
そういったことを把握してもらった上でカプリコーン氏の記事を引用しながら返答させていただくが、まずはこちら。
・…と以上で妖怪の"恐れ"とインターネット上の"恐れ"は相応しいと主張の記事であった。つまり、妖怪が姿が見えないモノだから、お互い素顔も本名も確認できない関係のsnsも同じだから、「鬼太郎」というコンテンツに取り入れても構わないと、一見するともっともらしい文章のように見えた。そんなにsnsや匿名(anonymityアノニミティ)などのインターネット関連の風刺や問題を語りたいなら、デジモンやマトリックスのような人工的デジタルワールドを舞台にした作品にしろよと心の中で思った。
・妖怪達がよくスマホを使ってたが、それは先ほどのべた文章で「妖怪が人間社会で生活したり、SNS上で人間と交流を深めるといった描かれ方をしている。ここで描かれた妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。」と書いてあって要するに、姿形が違えと言えども、妖怪も人間同様に生活してるからスマホ持たせても構わないと主張しているが、なぜ鬼太郎親子だけスマホの存在を知らないのか?猫娘やねずみ男などの他は皆スマホ持ってるが、どこの電話会社と契約しているのか?どうやって使用料を支払っているのか不明な点が多かった。
カプリコーン氏は私の「妖怪の描写に対する不満」の項で述べた6期におけるSNSと妖怪の関係における話を引用した上で、「妖怪の"恐れ"とインターネット上の"恐れ"は相応しい」「姿形が違えと言えども、妖怪も人間同様に生活してるからスマホ持たせても構わない」と主張していると述べているが、あの…
そんなこと全く主張しておりません。
これは私の文章がそう思わせる・誤解させるような文面になっていたのかもしれないかな?と思って以前執筆した記事を読み直したけど、私が述べているのは妖怪を殲滅しようとする人間の心の働きが現代のSNS隆盛の社会における人々の心理を反映させているのではないか?という推測を述べているだけであり、その描写が素晴らしいとか相応しいといった肯定的な意見を述べている訳ではない。
なので、インターネット上における"恐れ"が妖怪の"恐れ"と同一だという風に論じているとカプリコーン氏が思っているのだとしたらそれは全くの見当はずれであり、私があの記事で論じたのは、インターネット上の"恐れ"は理解出来ない者に対する"恐れ"であり、その理解出来ない者に対する"恐れ"が薄れているということ、その"恐れ"を失い短絡的かつ暴力的になった人間の恐ろしさを描いたのが6期ではないか?そして、これまで超自然的な力を以て人間を圧倒していた妖怪たちが、畏敬の念をなくした人間によって駆逐されようとしていることを描いていたのではないかということだ。その描写が良いとか悪いとかは抜きにして、そういうことを6期の制作陣が描こうとしていたように私には見えたというだけの話なのである。
そういう訳なので、6期は歴代鬼太郎と違うアプローチの仕方で妖怪と人間の関係性を描いていて斬新だと好意的に評価する人がいるのもわかるし、「いやこんなことは鬼太郎作品ではなくオリジナルでやれよ」と否定的な意見が出るのも当然だという中立的な分析・評価をしたつもりなのだが、それを6期を弁護していると言われるのはいささか心外である。
・このブログ筆者は「ネット上におけるデマや誹謗中傷といった人間が持つマイナスの感情を主軸に置くことで、今までの鬼太郎アニメになかった『恐怖』を描いている。」と自信ありげに6期制作陣を評価してるようだけど、そんなにインターネット界隈のデマや誹謗中傷などの根拠のない"情報"を具現化したいなら、「名無し」「アノニマス」などのインターネット由来を丸パクリするのではなく、独自の妖怪作るなどの創意工夫するべきでは?
カプリコーン氏のこちらの意見に関しても別に自信ありげに6期制作陣を評価している訳ではない。というか、この意見自体は私も概ね賛成で、コナミから発売されたPS2のゲーム「ゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚」における大妖怪ギーガというゲームオリジナルのキャラの方が6期の名無しよりも具体的な設定があって魅力的だったと思うし、人間だけでなく妖怪すらも翻弄されるネットの凄さ、そんな人間の文明に抗おうとする妖怪たちの姿がキチンと描かれていて素晴らしいゲームだったと今でも思っている。
これ以降のカプリコーン氏の文は6期において納得がいかない描写だったり、脚本の雑な部分や改悪・矛盾ポイントを指摘する内容が続く。これについてはファンによって「ゲゲゲの鬼太郎ならここはこうすべきだろ」という持論があって当然だし、いちいち否定するつもりはない。こういう技量的な部分は私だって気になっていたポイントではあるし、6期の風刺に関しては問題提起こそすれ、その解決策まで劇中で提示出来ていたようには思えない。完全にその解決策を視聴者に丸投げしているとしか思えない回もあるのだからこれに関しては6期制作陣は甘んじて批判を受け入れるしかないと言わざるを得ない。(問題提起することに意義があるという考えもあるのはわかるけどね?)
とはいえ、6期だけが(カプリコーン氏が主張するように)「水木しげるの世界観ぶっ壊してるし、萌えキャラ出してる」と悪し様に叩かれるのは納得出来かねる。別に揚げ足をとるつもりはないが5期にしろ4期にしろ、一番人気のあった3期にだって(部分的にではあるが)「ちょっとこれはどうなんだ?」と首をひねるようなエピソードもあったし、それを主張するためにも申し訳ないがあえて歴代鬼太郎の中でもイマイチだと思ったエピソードを紹介しておく。
正直おすすめしづらい「歴代ゲゲゲ」
・5期40話「大フィーバー! 鬼太郎グッズ」
5期で未だに「何でこれ放送しようと思ったんだ?」と思うのが40話。この回は妖怪横丁で和菓子屋を経営している小豆洗いと雑貨屋を経営しているつるべ落としが鬼太郎グッズを販売し競い合うという、単なる商売合戦を描いただけのオリジナルエピソードで、視聴後は「一体何を見せられていたのだろう…」という何とも言えない感覚に襲われた。鬼太郎が皆の愛されヒーローであることを描きたい・伝えたいのであれば鬼太郎の日常風景や仲間とのコミュニケーションを通じてその魅力を視聴者に伝えるべきであって、グッズ販売による商戦を描くことで鬼太郎の人気を描くというのは何とも安直で中身のスカスカな脚本だなと言わざるを得なかった。
・4期45話「もち殺し! 妖怪火車」
4期の火車回については以前レビューしているが、感動路線の脚本と火車の設定が全然マッチしておらず、火車の最大の強みである魂の入れ替えにしても取って付けたような形で物語に組み込まれていたので個人的に好きになれないエピソードの一つである。
・3期12話「ざしきわらしと笠地蔵」
このエピソードも以前レビューした通り、貧乏神という貧乏の根源を配置し倒すことをまるで正義として描いているこの脚本の乱暴さが凄くイヤだった。鬼太郎たちの正義感が独善的かつ一方的でおよそヒーローらしくないのである。
・脚本家によって出来が違いすぎる。ちゃんと妖怪の伝承を調べた脚本家のは面白いが改悪した話はひどすぎる。特にすねこすりの話はひどい。本来の特性は夜道で人を転ばすだけの妖怪なのに人の生気を吸うなんて伝承どこにもない。調べてなさすぎ。評価高い話だが、稚拙すぎる。
ちなみにカプリコーン氏は6期のすねこすりの回が酷いと述べているが、生気を吸う設定が伝承にないからと言って制作陣が元の伝承を調べずに作ったというのは余りにも乱暴な批判である。それを言ったら原作やアニメにおける輪入道の炭素化光線だって元の伝承にないものだし、牛鬼の不死身の設定だって伝承にはないものだ。自分のセンスや価値観に合わない設定だから評価出来ないと言うならまだしも、それを制作陣の調査不足・怠慢として捉えるのは全くもって論理的でない、印象操作まがいの批判だと言わせてもらおう。
さいごに
ということでカプリコーン氏の記事に関する私の返答というか意見は以上の通りだ。私だって6期を見ていて「ここは具体的な設定があった方が良かったのでは?」とか「その改変をした意図がイマイチわからんな…」という部分は少なからずある。でもそういった自分の中で消化出来ないものや納得のいかないものをすぐ制作陣の原作に対するリスペクトの無さや怠慢として批判し、「東映アニメーションは胸糞悪くて、子供騙しして金を稼いでるアニメ会社」と罵倒するカプリコーン氏のファンとしての姿勢は到底容認出来るものではない。私は制作陣に対しては最低限の敬意をはらった上で技術的な面のみを批判すべきだと思うし、リスペクトの有無や怠慢云々といったものは所詮主観的な尺度でしか評価出来ないものだ。6期制作陣に落ち度が全く無かったなどとは流石に私も言わないけど、50年以上にわたる長寿作品の新作を世に出すとなった時に以前と全く同じ鬼太郎を出す訳にはいかないし、色々意見が衝突したはずである。その中でファン以外の人にも興味・関心を持ってもらうにはどうすれば良いか、ファンにも納得してもらえるようなシリーズにするにはどうすれば良いか、そういったクリエイターとしての悩みやプレッシャーがあったはずである。これは見る側の私たちには想像もつかないし、毎週放送のアニメなのだから脚本をじっくり練る訳にいかなかったケースもあるはずだ。だからこそ強く主張しておきたい。
私たち視聴者は完成されたものを見ているだけであって、その過程をつぶさに知ることは出来ない、と。
制作陣が真摯にリスペクトを以てアニメを制作したかという点に関しては慎重に評価をしないといけないと私は思っているし、原作と違うだとか子供向けとは思えない内容だとか、そういう表層をすくい取って6期ならびに制作陣を叩いている人を見ると「ああ、自分の納得のいくものを作って欲しかったのね」という風にしか思えない。それは私にとって感想にこそなれど、批評には値しないのである。
(2025.11.07 追記)
私が読むと思わなかったからあのような批判を書いたのかはともかく、私が引用で指摘した箇所について、私の意図を理解していただいた上で訂正されたようで何よりです。それから、上に載せた記事で追加で質問されたことがあるので答えさせていただきます。
・蛇足ですが一つ気になった文章がありまして、先ほど述べた「その"恐れ"を失い短絡的かつ暴力的になった人間の恐ろしさを描いたのが6期ではないか?」という文章ですが、それは"恐れ知らずの人間による暴走の恐ろしさ"をアニメで描いたと、著者は6期制作陣を評価してるわけでしょうか?では人間である犬山まなやソウマとヒロト兄弟とお化け好きの子供の裕太達はそれに当てはまりますか?6期鬼太郎は「妖怪よりも人間が恐ろしい」、「人間は自分勝手だ」などと言ってましたが、彼ら(犬山まな達)のことを本人はどう思っていたでしょうか?
ニュアンスとしては「恐れ知らずの」というより「恐ろしいから絶滅させてしまえという理屈で動く」という感じでしょうか。6期における人間対妖怪の構図というのは「妖怪は人間にとっての敵」或いは「人間は妖怪にとっての敵」という単純な敵味方の線引きをすることで一方を絶滅・殲滅させようとする、そんな単純化された思想の危うさを如実に描いていると思っており、そこを私は評価している感じです。
人間にだって妖怪と友好な関係を築きたいと思う者だっているし、妖怪だって人間と平和的な関係でありたい、或いは「仲良くはなりたくないけど積極的に攻撃する必要はない」という中立的な立場の者だっているはずなのに、戦争においてはそういった中立的立場やグレーゾーンな考えが否定され、「妖怪はどんな奴だろうと私たち人間に害を及ぼすのだから滅ぼしても構わない」という極論がまかり通ってしまう。その意見こそが絶対的に正しいという風に刷り込まれてしまう。そんな善悪二元論に傾く風潮を描いたのは歴代鬼太郎の中でも6期が特に強いと思います。
それを踏まえた上で「人間である犬山まなやソウマとヒロト兄弟とお化け好きの子供の裕太達はそれに当てはまりますか?」という質問に答えるなら当然それは「違う」という答えになりますし、鬼太郎が「彼ら(犬山まな達)のことを本人はどう思っていたでしょうか?」という問いについては、「序盤の鬼太郎は『人間は全て自分勝手な生き物』という短絡的な発想・レッテル貼りをしていたが、徐々にその考えを改めた」という答えになります。カプリコーン氏は「最初から、上から目線の態度で思い上がった鬼太郎が胸糞悪くて嫌いになった」と鬼太郎の性格描写に対して不満と嫌悪を抱いていたし、私も6期の鬼太郎に関しては歴代の中でも特に未熟性が強調されているので、批判の対象になってしまうのも、まぁ仕方ないとは思うのですけど…。
そういうネガティブな印象を抱かせる原因の一つとして考えられるのは、6期って「報復」や「反省」は描かれているものの、「謝罪」が抜け落ちていると感じるエピソードが結構多くて、例えば3期のさざえ鬼や万年竹、豆腐小僧の回などを見ると悪いことをした人間が妖怪や鬼太郎によって懲らしめられ、その上で「ごめんなさ~い ( ノД`)シクシク…」とキッチリ謝罪し反省しているから、後味の良い物語として見終えることが出来るのだが、その点6期って悪い奴が報いを受けたまま終わるだけの話(幽霊電車や後神の回など)とか、悪い奴が反省も謝罪もしないまま終わる話(姑獲鳥や猫仙人の回など)もあるから、やはり歴代の鬼太郎の中でも胸糞悪いエピソードが多いし、そこで心証を悪くしているのは否めない。
そうそう、犬山まなとソウマ・ヒロト兄弟のことで質問されたついでに、カプリコーン氏が「制作陣の欲望と依怙贔屓」だと思った6期の1話の場面についても私の見解を述べておきますね。
・ソウマの弟ヒロトが「デカマナ」と呼び捨てしたのに何故か兄貴の方に殴るのか?恐らく生意気なガキでも"可愛いヒロト"を殴って欲しくないのと、「殴ったらマナちゃんが悪い子なっちゃうから」嫌だという制作陣の欲望と依怙贔屓ではと思った。だが毎回弟の分を含めて兄のソウマばかり痛めつけたら、マナは恨まれないのか?
(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)
この場面は単に(女性であるとはいえ)年上が年下を殴るのは良くないという倫理観がまなにはあって、そういう言動を許している兄の監督不行き届きを罰した…という風に受け取れないのでしょうか?
あとこれは私もうっかり書き忘れたのだが、妖怪がスマホを持っていることに関するカプリコーン氏の批判について言及していなかったので、これも述べておく。
・6期鬼太郎全体に言えることだが、何でもかんでもスマホを「万能な道具」として頼る様が、妖怪が人間の文明の利器に屈したと解釈した。スマホ中毒の風刺に見えた。もはや妖怪アニメとして作る必要性があるのか?鬼太郎を含めた幽霊族達にだってスマホが無くてもそれぞれ虫・動物情報網やオバケ仲間がいた筈。5期鬼太郎では「ココン」という生きた妖怪辞典がいてスマホ以上に存在感が強くて役に立った。万能的に扱われてるスマホだって電力の消費もするし、電波が届き辛い環境だってある。妖怪達はスマホの充電をどうしてるだろうか?電波環境はどうなっているのか?だからスマホ一択に依存する必要性が見られない。
(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)
別に6期本編では全ての妖怪がスマホを使用していた訳ではないし、それを使っていた妖怪がいたからと言って「人間の文明の利器に屈した」という風には思えなかった。これは単に人間の文明生活に寄り添う選択をした妖怪がいるかどうかの話であって、スマホを使った妖怪が人間の文明に屈した訳ではないだろうし、スマホを使っていない鬼太郎や目玉おやじが無知蒙昧で時代遅れという訳でもないだろう。人間の文明や生活に抵抗感がない妖怪はスマホを使い、スマホがなくても不便でない妖怪や文明を嫌悪する妖怪はスマホを使わないという、ただそれだけの話なのではないかと私は思った。
(契約とか充電とかに関しては流石の私もわかりませんが…)
なので、
・「妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。」と主張するなら、なぜ大首や赤舌、天狐、シーサー、大ムカデ、煙羅煙羅、毛羽毛現、だるま、中国妖怪チー、女夜叉、逆柱、丸毛、骨女などは出てこなかったのか?
(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)
というカプリコーン氏の疑問を読んだ時「????????????」と頭を悩ませました。私が言っていた「人間と大差がない妖怪」というのは猫娘や砂かけ婆、のっぺらぼうにろくろ首、ひでり神といった人間の経済・文化・仕事を受け入れた一部の妖怪であって、「全ての妖怪の生活が人間と大差がない」などとは書いてませんよ?
23話の「妖怪アパート秘話」や44話の「なりすましのっぺらぼう」といったエピソードを見てもわかるように妖怪が人間社会で生活したり、SNS上で人間と交流を深めるといった描かれ方をしている。ここで描かれた妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。
(「【ゲゲゲの鬼太郎】6期が嫌われているポイントを改めて再評価する」より)
カプリコーン氏が引用した拙文でも、「ここで描かれた」、つまり23話や44話におけるろくろ首やのっぺらぼうといった一部の妖怪たちが人間と同様の生活をしており、妖怪としてのアイデンティティが希薄になっているということを述べているのであって、「全ての妖怪が人間と大差がない」とかそんな無茶な論を展開した覚えはありませんので!単なる勘違いなら良いですけど、意図的に私の文章を切り取って批判を述べているのなら、それは悪意ある印象操作・6期を過度に貶める悪質な批評として受け取りますからね?
※カプリコーン氏からコメントで返事をいただき「勘違い」だったとの返答をいただきました。
(2025.11.11 追記)