タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

カプリコーン氏の「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」に対するお返事(追記あり)

タリホーです。みっともない話かもしれないが、実は私たまに自分のブログ記事をエゴサしてまして、そんな折に私が以前書いた記事を引用したカプリコーン氏の6期に関する批判を述べた記事を見つけた。

 

注:久々に確認したらその記事は削除されていました。一応断っておくと削除したのはカプリコーン氏の意志によるものであり、私が削除要請をしたとか、そういった働きかけはしてません。

(2025.12.01 追記)

 

この記事で言及されていることについてはこれから詳しく「返答」として語らせてもらうが、まずは私の記事に関心をもって読んでいただいたことを感謝しなければならない。上で記されている内容は私の記事を含めて6期を手厳しく批判した論なので、それに対する当てこすりのように思われてしまうかもしれないが、私は最低限の礼儀とリスペクトを忘れてはならないと思っているし、同じ「ゲゲゲの鬼太郎」を愛する者として論戦をするのであれば建設的で実のあるものにしたいと思っているので、この感謝は単に「読んでくれてありがとう!」という風に受け取ってもらいたい。

 

別に6期を弁護はしてない

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この記事を書いた際に届いたコメントでも返答したが、「妖怪の描写に対する不満」の項だけを読むと私が6期を高く評価している人のように思われるが、私なりに6期には他期と同様「ここは流石に評価する訳にはいかない」と思うポイントも結構あって、例えば1年目の西洋妖怪編は歴代鬼太郎のエピソードでもワーストだと思うほど、キャラの扱いや脚本に対して結構不満があったし、鬼太郎が活躍せず単に登場しているだけの回もあったから、「そりゃ往年の鬼太郎ファンに文句言われても仕方ないよな」と思わざるを得ないポイントも多くある。そこは否定しない。

 

そういったことを把握してもらった上でカプリコーン氏の記事を引用しながら返答させていただくが、まずはこちら。

・…と以上で妖怪の"恐れ"とインターネット上の"恐れ"は相応しいと主張の記事であった。つまり、妖怪が姿が見えないモノだから、お互い素顔も本名も確認できない関係のsnsも同じだから、「鬼太郎」というコンテンツに取り入れても構わないと、一見するともっともらしい文章のように見えた。そんなにsnsや匿名(anonymityアノニミティ)などのインターネット関連の風刺や問題を語りたいなら、デジモンマトリックスのような人工的デジタルワールドを舞台にした作品にしろよと心の中で思った。

・妖怪達がよくスマホを使ってたが、それは先ほどのべた文章で「妖怪が人間社会で生活したり、SNS上で人間と交流を深めるといった描かれ方をしている。ここで描かれた妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。」と書いてあって要するに、姿形が違えと言えども、妖怪も人間同様に生活してるからスマホ持たせても構わないと主張しているが、なぜ鬼太郎親子だけスマホの存在を知らないのか?猫娘ねずみ男などの他は皆スマホ持ってるが、どこの電話会社と契約しているのか?どうやって使用料を支払っているのか不明な点が多かった。

カプリコーン氏は私の「妖怪の描写に対する不満」の項で述べた6期におけるSNSと妖怪の関係における話を引用した上で、「妖怪の"恐れ"とインターネット上の"恐れ"は相応しい」「姿形が違えと言えども、妖怪も人間同様に生活してるからスマホ持たせても構わない」と主張していると述べているが、あの…

そんなこと全く主張しておりません。

 

これは私の文章がそう思わせる・誤解させるような文面になっていたのかもしれないかな?と思って以前執筆した記事を読み直したけど、私が述べているのは妖怪を殲滅しようとする人間の心の働きが現代のSNS隆盛の社会における人々の心理を反映させているのではないか?という推測を述べているだけであり、その描写が素晴らしいとか相応しいといった肯定的な意見を述べている訳ではない。

なので、インターネット上における"恐れ"が妖怪の"恐れ"と同一だという風に論じているとカプリコーン氏が思っているのだとしたらそれは全くの見当はずれであり、私があの記事で論じたのは、インターネット上の"恐れ"は理解出来ない者に対する"恐れ"であり、その理解出来ない者に対する"恐れ"が薄れているということ、その"恐れ"を失い短絡的かつ暴力的になった人間の恐ろしさを描いたのが6期ではないか?そして、これまで超自然的な力を以て人間を圧倒していた妖怪たちが、畏敬の念をなくした人間によって駆逐されようとしていることを描いていたのではないかということだ。その描写が良いとか悪いとかは抜きにして、そういうことを6期の制作陣が描こうとしていたように私には見えたというだけの話なのである。

 

そういう訳なので、6期は歴代鬼太郎と違うアプローチの仕方で妖怪と人間の関係性を描いていて斬新だと好意的に評価する人がいるのもわかるし、「いやこんなことは鬼太郎作品ではなくオリジナルでやれよ」と否定的な意見が出るのも当然だという中立的な分析・評価をしたつもりなのだが、それを6期を弁護していると言われるのはいささか心外である。

 

・このブログ筆者は「ネット上におけるデマや誹謗中傷といった人間が持つマイナスの感情を主軸に置くことで、今までの鬼太郎アニメになかった『恐怖』を描いている。」と自信ありげに6期制作陣を評価してるようだけど、そんなにインターネット界隈のデマや誹謗中傷などの根拠のない"情報"を具現化したいなら、「名無し」「アノニマス」などのインターネット由来を丸パクリするのではなく、独自の妖怪作るなどの創意工夫するべきでは?

カプリコーン氏のこちらの意見に関しても別に自信ありげに6期制作陣を評価している訳ではない。というか、この意見自体は私も概ね賛成で、コナミから発売されたPS2のゲーム「ゲゲゲの鬼太郎 異聞妖怪奇譚」における大妖怪ギーガというゲームオリジナルのキャラの方が6期の名無しよりも具体的な設定があって魅力的だったと思うし、人間だけでなく妖怪すらも翻弄されるネットの凄さ、そんな人間の文明に抗おうとする妖怪たちの姿がキチンと描かれていて素晴らしいゲームだったと今でも思っている。

 

これ以降のカプリコーン氏の文は6期において納得がいかない描写だったり、脚本の雑な部分や改悪・矛盾ポイントを指摘する内容が続く。これについてはファンによって「ゲゲゲの鬼太郎ならここはこうすべきだろ」という持論があって当然だし、いちいち否定するつもりはない。こういう技量的な部分は私だって気になっていたポイントではあるし、6期の風刺に関しては問題提起こそすれ、その解決策まで劇中で提示出来ていたようには思えない。完全にその解決策を視聴者に丸投げしているとしか思えない回もあるのだからこれに関しては6期制作陣は甘んじて批判を受け入れるしかないと言わざるを得ない。(問題提起することに意義があるという考えもあるのはわかるけどね?)

 

とはいえ6期だけが(カプリコーン氏が主張するように)「水木しげるの世界観ぶっ壊してるし、萌えキャラ出してる」と悪し様に叩かれるのは納得出来かねる。別に揚げ足をとるつもりはないが5期にしろ4期にしろ、一番人気のあった3期にだって(部分的にではあるが)「ちょっとこれはどうなんだ?」と首をひねるようなエピソードもあったし、それを主張するためにも申し訳ないがあえて歴代鬼太郎の中でもイマイチだと思ったエピソードを紹介しておく。

 

正直おすすめしづらい「歴代ゲゲゲ」

・5期40話「大フィーバー! 鬼太郎グッズ」

5期で未だに「何でこれ放送しようと思ったんだ?」と思うのが40話。この回は妖怪横丁で和菓子屋を経営している小豆洗いと雑貨屋を経営しているつるべ落としが鬼太郎グッズを販売し競い合うという、単なる商売合戦を描いただけのオリジナルエピソードで、視聴後は「一体何を見せられていたのだろう…」という何とも言えない感覚に襲われた。鬼太郎が皆の愛されヒーローであることを描きたい・伝えたいのであれば鬼太郎の日常風景や仲間とのコミュニケーションを通じてその魅力を視聴者に伝えるべきであって、グッズ販売による商戦を描くことで鬼太郎の人気を描くというのは何とも安直で中身のスカスカな脚本だなと言わざるを得なかった。

 

・4期45話「もち殺し! 妖怪火車

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4期の火車回については以前レビューしているが、感動路線の脚本と火車の設定が全然マッチしておらず、火車の最大の強みである魂の入れ替えにしても取って付けたような形で物語に組み込まれていたので個人的に好きになれないエピソードの一つである。

 

・3期12話「ざしきわらしと笠地蔵」

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このエピソードも以前レビューした通り、貧乏神という貧乏の根源を配置し倒すことをまるで正義として描いているこの脚本の乱暴さが凄くイヤだった。鬼太郎たちの正義感が独善的かつ一方的でおよそヒーローらしくないのである。

 

・脚本家によって出来が違いすぎる。ちゃんと妖怪の伝承を調べた脚本家のは面白いが改悪した話はひどすぎる。特にすねこすりの話はひどい。本来の特性は夜道で人を転ばすだけの妖怪なのに人の生気を吸うなんて伝承どこにもない。調べてなさすぎ。評価高い話だが、稚拙すぎる。

ちなみにカプリコーン氏は6期のすねこすりの回が酷いと述べているが、生気を吸う設定が伝承にないからと言って制作陣が元の伝承を調べずに作ったというのは余りにも乱暴な批判である。それを言ったら原作やアニメにおける輪入道の炭素化光線だって元の伝承にないものだし、牛鬼の不死身の設定だって伝承にはないものだ。自分のセンスや価値観に合わない設定だから評価出来ないと言うならまだしも、それを制作陣の調査不足・怠慢として捉えるのは全くもって論理的でない、印象操作まがいの批判だと言わせてもらおう。

 

さいごに

ということでカプリコーン氏の記事に関する私の返答というか意見は以上の通りだ。私だって6期を見ていて「ここは具体的な設定があった方が良かったのでは?」とか「その改変をした意図がイマイチわからんな…」という部分は少なからずある。でもそういった自分の中で消化出来ないものや納得のいかないものをすぐ制作陣の原作に対するリスペクトの無さや怠慢として批判し、東映アニメーションは胸糞悪くて、子供騙しして金を稼いでるアニメ会社と罵倒するカプリコーン氏のファンとしての姿勢は到底容認出来るものではない。私は制作陣に対しては最低限の敬意をはらった上で技術的な面のみを批判すべきだと思うし、リスペクトの有無や怠慢云々といったものは所詮主観的な尺度でしか評価出来ないものだ。6期制作陣に落ち度が全く無かったなどとは流石に私も言わないけど、50年以上にわたる長寿作品の新作を世に出すとなった時に以前と全く同じ鬼太郎を出す訳にはいかないし、色々意見が衝突したはずである。その中でファン以外の人にも興味・関心を持ってもらうにはどうすれば良いか、ファンにも納得してもらえるようなシリーズにするにはどうすれば良いか、そういったクリエイターとしての悩みやプレッシャーがあったはずである。これは見る側の私たちには想像もつかないし、毎週放送のアニメなのだから脚本をじっくり練る訳にいかなかったケースもあるはずだ。だからこそ強く主張しておきたい。

私たち視聴者は完成されたものを見ているだけであって、その過程をつぶさに知ることは出来ない、と。

 

制作陣が真摯にリスペクトを以てアニメを制作したかという点に関しては慎重に評価をしないといけないと私は思っているし、原作と違うだとか子供向けとは思えない内容だとか、そういう表層をすくい取って6期ならびに制作陣を叩いている人を見ると「ああ、自分の納得のいくものを作って欲しかったのね」という風にしか思えない。それは私にとって感想にこそなれど、批評には値しないのである。

 

 

(2025.11.07 追記)

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私が読むと思わなかったからあのような批判を書いたのかはともかく、私が引用で指摘した箇所について、私の意図を理解していただいた上で訂正されたようで何よりです。それから、上に載せた記事で追加で質問されたことがあるので答えさせていただきます。

 

・蛇足ですが一つ気になった文章がありまして、先ほど述べた「その"恐れ"を失い短絡的かつ暴力的になった人間の恐ろしさを描いたのが6期ではないか?」という文章ですが、それは"恐れ知らずの人間による暴走の恐ろしさ"をアニメで描いたと、著者は6期制作陣を評価してるわけでしょうか?では人間である犬山まなやソウマとヒロト兄弟とお化け好きの子供の裕太達はそれに当てはまりますか?6期鬼太郎は「妖怪よりも人間が恐ろしい」、「人間は自分勝手だ」などと言ってましたが、彼ら(犬山まな達)のことを本人はどう思っていたでしょうか?

ニュアンスとしては「恐れ知らずの」というより「恐ろしいから絶滅させてしまえという理屈で動く」という感じでしょうか。6期における人間対妖怪の構図というのは「妖怪は人間にとっての敵」或いは「人間は妖怪にとっての敵」という単純な敵味方の線引きをすることで一方を絶滅・殲滅させようとする、そんな純化された思想の危うさ如実に描いていると思っており、そこを私は評価している感じです。

人間にだって妖怪と友好な関係を築きたいと思う者だっているし、妖怪だって人間と平和的な関係でありたい、或いは「仲良くはなりたくないけど積極的に攻撃する必要はない」という中立的な立場の者だっているはずなのに、戦争においてはそういった中立的立場やグレーゾーンな考えが否定され、「妖怪はどんな奴だろうと私たち人間に害を及ぼすのだから滅ぼしても構わない」という極論がまかり通ってしまう。その意見こそが絶対的に正しいという風に刷り込まれてしまう。そんな善悪二元論に傾く風潮を描いたのは歴代鬼太郎の中でも6期が特に強いと思います。

 

それを踏まえた上で「人間である犬山まなやソウマとヒロト兄弟とお化け好きの子供の裕太達はそれに当てはまりますか?」という質問に答えるなら当然それは「違う」という答えになりますし、鬼太郎が「彼ら(犬山まな達)のことを本人はどう思っていたでしょうか?」という問いについては、「序盤の鬼太郎は『人間は全て自分勝手な生き物』という短絡的な発想・レッテル貼りをしていたが、徐々にその考えを改めた」という答えになります。カプリコーン氏は「最初から、上から目線の態度で思い上がった鬼太郎が胸糞悪くて嫌いになった」と鬼太郎の性格描写に対して不満と嫌悪を抱いていたし、私も6期の鬼太郎に関しては歴代の中でも特に未熟性が強調されているので、批判の対象になってしまうのも、まぁ仕方ないとは思うのですけど…。

そういうネガティブな印象を抱かせる原因の一つとして考えられるのは、6期って「報復」や「反省」は描かれているものの、「謝罪」が抜け落ちていると感じるエピソードが結構多くて、例えば3期のさざえ鬼や万年竹、豆腐小僧の回などを見ると悪いことをした人間が妖怪や鬼太郎によって懲らしめられ、その上で「ごめんなさ~い ( ノД`)シクシク…」とキッチリ謝罪し反省しているから、後味の良い物語として見終えることが出来るのだが、その点6期って悪い奴が報いを受けたまま終わるだけの話(幽霊電車や後神の回など)とか、悪い奴が反省も謝罪もしないまま終わる話(姑獲鳥や猫仙人の回など)もあるから、やはり歴代の鬼太郎の中でも胸糞悪いエピソードが多いし、そこで心証を悪くしているのは否めない。

 

そうそう、犬山まなとソウマ・ヒロト兄弟のことで質問されたついでに、カプリコーン氏が「制作陣の欲望と依怙贔屓」だと思った6期の1話の場面についても私の見解を述べておきますね。

・ソウマの弟ヒロトが「デカマナ」と呼び捨てしたのに何故か兄貴の方に殴るのか?恐らく生意気なガキでも"可愛いヒロト"を殴って欲しくないのと、「殴ったらマナちゃんが悪い子なっちゃうから」嫌だという制作陣の欲望と依怙贔屓ではと思った。だが毎回弟の分を含めて兄のソウマばかり痛めつけたら、マナは恨まれないのか?

(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)

この場面は単に(女性であるとはいえ)年上が年下を殴るのは良くないという倫理観がまなにはあって、そういう言動を許している兄の監督不行き届きを罰した…という風に受け取れないのでしょうか?

 

あとこれは私もうっかり書き忘れたのだが、妖怪がスマホを持っていることに関するカプリコーン氏の批判について言及していなかったので、これも述べておく。

・6期鬼太郎全体に言えることだが、何でもかんでもスマホを「万能な道具」として頼る様が、妖怪が人間の文明の利器に屈したと解釈したスマホ中毒の風刺に見えた。もはや妖怪アニメとして作る必要性があるのか?鬼太郎を含めた幽霊族達にだってスマホが無くてもそれぞれ虫・動物情報網やオバケ仲間がいた筈。5期鬼太郎では「ココン」という生きた妖怪辞典がいてスマホ以上に存在感が強くて役に立った。万能的に扱われてるスマホだって電力の消費もするし、電波が届き辛い環境だってある。妖怪達はスマホの充電をどうしてるだろうか?電波環境はどうなっているのか?だからスマホ一択に依存する必要性が見られない。

(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)

別に6期本編では全ての妖怪がスマホを使用していた訳ではないし、それを使っていた妖怪がいたからと言って「人間の文明の利器に屈した」という風には思えなかった。これは単に人間の文明生活に寄り添う選択をした妖怪がいるかどうかの話であって、スマホを使った妖怪が人間の文明に屈した訳ではないだろうし、スマホを使っていない鬼太郎や目玉おやじが無知蒙昧で時代遅れという訳でもないだろう。人間の文明や生活に抵抗感がない妖怪はスマホを使い、スマホがなくても不便でない妖怪や文明を嫌悪する妖怪はスマホを使わないという、ただそれだけの話なのではないかと私は思った。

(契約とか充電とかに関しては流石の私もわかりませんが…)

 

なので、

・「妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。」と主張するなら、なぜ大首や赤舌、天狐、シーサー、大ムカデ、煙羅煙羅、毛羽毛現、だるま、中国妖怪チー、女夜叉、逆柱、丸毛、骨女などは出てこなかったのか?

(「インターネットの"恐れ"と妖怪の"恐れ"は同一?」より)

というカプリコーン氏の疑問を読んだ時「????????????」と頭を悩ませました。私が言っていた「人間と大差がない妖怪」というのは猫娘砂かけ婆、のっぺらぼうにろくろ首、ひでり神といった人間の経済・文化・仕事を受け入れた一部の妖怪であって、「全ての妖怪の生活が人間と大差がない」などとは書いてませんよ?

 

23話の「妖怪アパート秘話」や44話の「なりすましのっぺらぼう」といったエピソードを見てもわかるように妖怪が人間社会で生活したり、SNS上で人間と交流を深めるといった描かれ方をしている。ここで描かれた妖怪たちは、見た目が妖怪というだけで、生活は人間のそれとほとんど大差がないのである。

(「【ゲゲゲの鬼太郎】6期が嫌われているポイントを改めて再評価する」より)

カプリコーン氏が引用した拙文でも、「ここで描かれた」、つまり23話や44話におけるろくろ首やのっぺらぼうといった一部の妖怪たちが人間と同様の生活をしており、妖怪としてのアイデンティティが希薄になっているということを述べているのであって、「全ての妖怪が人間と大差がない」とかそんな無茶な論を展開した覚えはありませんので!単なる勘違いなら良いですけど、意図的に私の文章を切り取って批判を述べているのなら、それは悪意ある印象操作・6期を過度に貶める悪質な批評として受け取りますからね?

 

カプリコーン氏からコメントで返事をいただき「勘違い」だったとの返答をいただきました。

(2025.11.11 追記)

《最終回》【ゲゲゲの鬼太郎】5期第38話「パパになったねずみ男」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

タリホーです。色々バタバタしててなかなか執筆&更新が進まなかったが、半年にわたって放送された「私の愛した歴代ゲゲゲ」のレビューも今回が最後。最後は正源司さんセレクトの5期のオリジナルエピソード。ねずみ男が一児のパパとして奮闘するお話を紹介しよう。

 

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そうそう、前回放送された京極夏彦先生セレクトの3期幽霊電車は6期の幽霊電車回で言及済みなので、詳しくはこちら(↑)を読んでもらいたい。

 

「地獄先生ぬ~べ~」原作者によるオリジナルエピソード

今回のエピソードでまず最初に注目すべきは、脚本を担当したのが漫画「地獄先生ぬ~べ~」の原作者である真倉翔氏であるということだ。「地獄先生ぬ~べ~」と言えば今年の7月に約30年ぶりにアニメ化され話題となったから知っている人も多いと思うが、主人公の「ぬ~べ~」こと小学校教諭の鵺野鳴介が自身の左手に封じた鬼の力を武器に、様々な悪霊や妖怪から生徒たちを守るという物語で、1996年に初めてアニメ化され、2014年には実写ドラマ化もされた※1人気シリーズである。

 

「ぬ~べ~」は妖怪漫画として「ゲゲゲの鬼太郎」の次に推している作品なので、「ぬ~べ~」の原作者が書いた鬼太郎エピソードというのはファンとして非常に滾るものがあるのだけど、今回のエピソードが放送された当時(つまりリアタイ視聴していた時の私)は「ぬ~べ~」の原作者が脚本を担当していたとは全く知らず※2、単に数あるオリジナルエピソードの一つという程度の認識だったが、こうした情報を得た今改めて見ると確かに物語の終盤、ねずみ男が見越し入道に対して啖呵を切る下りなんかは「ぬ~べ~」っぽさを感じられる。特殊な能力を持った赤ん坊によって生じたドタバタ劇という今回のプロットも「ぬ~べ~」の原作65話の「雪女の季節の巻」※3を彷彿とさせるものがあるし、5期鬼太郎の世界観と「ぬ~べ~」のテイストが喧嘩することなく絶妙にマッチしている良作と言って良いだろう。

 

ちなみに、5期鬼太郎では今回の他に45話「ネコ娘騒然!? 妖怪メイド喫茶」も真倉氏が脚本を担当しているので、配信等で見られる方は是非チェックしてもらいたい。

 

※1:ドラマ版の感想は ドラマ備忘録:「地獄先生ぬ~べ~」 ~ 許せない地獄の実写化 ~ - タリホーです。 で詳しく述べているが、タイトルからお察しの通りケチョンケチョンに酷評してます。

※2:というか、当時アニメ鬼太郎の公式HPやネット記事等でも「ぬ~べ~」の原作者が脚本を担当したということはあまり宣伝されてなかったように思う。

※3:このエピソードは1996年の11月30日にアニメ「地獄先生ぬ~べ~」の第26話「戦慄の2世誕生!! ママは妖怪、パパは先生!」で放送された。

 

ねずみ男の弱み

一般的にねずみ男と言えば、常に金儲けのことを考え、金のためなら平気で鬼太郎を裏切るどうしようもない半妖怪だとか、不潔でおならと口臭が武器、猫が天敵であり唯一の弱点というイメージが強いだろう。実際このイメージは間違っていないのだが、実はねずみ男には一般的には知られていない「弱み」があるのだ。これは今回のエピソードを見た人なら何となくわかってもらえると思うのだが、ねずみ男は親だとか兄弟といった家族にまつわる事柄に弱い一面がある

アニメでは3期以降ねずみ男の人情家としての一面を強調して描いているためさほど意外に思わないかもしれないけど、例えば原作の「おりたたみ入道」ではねずみ男の弟と称する人物が登場し、その弟の悪事を償うためねずみ男が身銭を切るという行為をとっている(勿論この弟は別の妖怪が化けたもので弟でも何でもなかったのだが)。他にも「死神」というエピソードでは死神が「自分はねずみ男の兄だ」と嘘をついてねずみ男に近づいてくる。普段は騙す側のねずみ男も兄だの弟だの、そういった話になるとコロっと簡単に騙されている所を見ると、実は家族というものに強い憧れがあるのではないか?と思ってしまうし、ねずみ男本人も好きで孤独でいる訳ではない。4期の陰摩羅鬼の回や6期の石妖の回で結婚している様子を見ても、所帯を持つことを窮屈だとか自由がなくなるといった風には思っていないのだから、こういった原作やアニメの描写からねずみ男が家族というものに対して憧れがあり、それがある意味彼の弱点でもあるということが読み取れるだろう。

 

「私の愛した歴代ゲゲゲ」総括

さて、ここからは4月から9月にかけて放送された「歴代ゲゲゲ」を振り返って総括という形で私の意見・感想を簡単に述べたい。

 

【1期】

1話「おばけナイター」(野沢)

4話「吸血鬼ラ・セーヌ」(佐野)

 

【2期】

1話「妖怪復活」(野沢)

18話「幸福という名の怪物」(松下)

 

【3期】

1話「謎の妖怪城出現!!」(戸田)

2話「鏡じじい」(ウエンツ)

6話「地獄行! 幽霊電車!!」(京極)

8話「だるま妖怪相談所」(戸田)

12話「ざしきわらしと笠地蔵」(松下)

32話「鬼太郎危うし! 妖怪大裁判」(ウエンツ)

 

【4期】

3話「ギターの戦慄! 夜叉」(京極)

16話「流浪! 妖怪あずきとぎ」(松岡)

21話「白粉婆とのっぺらぼう」(松岡)

57話「吸血鬼エリート!」(佐野)

 

【5期】

4話「男! 一反もめん」(Ado)

15話「働く! 目玉おやじ」(高山)

22話「ニセ鬼太郎現る!!」(Ado)

26話「妖怪アイドル!? アマビエ」(高山)

29話「ネコ娘の妖怪バスツアー」(正源司)

38話「パパになったねずみ男」(正源司)

95話「妖怪スイーツ! バレンタイン作戦」(Ado)

 

【6期】

3話「たんたん坊の妖怪城」(沢城)

6話「厄運のすねこすり」(正源司)

14話「まくら返しと幻の夢」(関&木内)

54話「泥田坊と命と大地」(沢城)

1~6期の中で最も多く選ばれたのは5期の7本。次いで3期が6本、4期・6期が4本ずつ、1期と2期が2本ずつという結果になった。女性でなおかつ若年層のファンであるAdo さんと正源司さんが3本もセレクトしたこともあり、やはり5期から選ばれたエピソードが必然的に多くなってしまい、反対に1期と2期がそれぞれ2本しか紹介されなかったというのは、いち鬼太郎ファンとしては残念である。勿論1期・2期は古い時代の作品なので「キ〇ガイ」といった放送禁止用語が使われたりと、今のテレビで放送するには色々難のある作品も結構あるため仕方がない面もあるが、それでも1期や2期から選ばれて欲しかったなと思うエピソードもあった(これについては後ほど言及する)。

 

選ばれた作品が25本と少ないことやセレクターの好みも大きく影響しているので鬼太郎ファンが「これぞ鬼太郎!」と思う作品が入っていたり入っていなかったりと偏りはあるものの、全体的に見るとセレクターの皆さんはあまり鬼太郎に妖怪とのバトル的な面白さは求めている感じがしなかった。女性のセレクターが8人と大半を占めていることもあるのだろうが、鬼太郎をはじめとするレギュラーメンバーの可愛い一面やカッコいい一面が見られるエピソード、或いは癒やされるような穏やかなエピソードが選ばれている印象が強い。

男性陣は京極先生に佐野さん・ウエンツさん・関さん・木内さんの5人だが、京極先生以外は自分に縁のあるエピソードをセレクトしており、佐野さんは声優として出演した作品を、ウエンツさん・関さん・木内さんは自身が出演した映画に関係したエピソードをそれぞれセレクトしている。

 

ユメコちゃんが初登場した3期の「鏡じじい」と鬼太郎の定番エピソードである幽霊電車や妖怪大裁判に吸血鬼エリート、そして水木先生お墨付きエピソードの3期だるま回は外せないマストエピソードだったので、これらの作品が放送されたのは良かったが、個人的に鬼太郎の定番エピソードだと思っている牛鬼が選ばれなかったのは少々意外だった。牛鬼は2期から6期にかけてアニメ化されており鬼太郎が自分の力で退治出来ないという屈指の強敵なので、放送が始まる前は牛鬼の回は入っているだろうと思っていたのだけどね。定番と言えば、鬼太郎の宿敵であるぬらりひょんがメインとなるエピソードも選ばれていない。Ado さんがセレクトした5期アマビエの回で一応ぬらりひょんは登場しているが、セレクターの方々の優先順位としてはぬらりひょんは高い順位ではなかったということになるのだろう。

 

あとこれを言ったら怒られるかもしれないけど、初回(1話)は YouTube で無料配信されている※4ので、出来れば初回はセレクトから外してもらいたかったなというのが欲に近い意見である。やはり鬼太郎を演じた声優さんにとって初回が思い入れの強い作品になるのはある意味当然だし、特に野沢さんは1期・2期どちらも初回をセレクトしているため、初回以外で思い入れのある作品を個人的には知りたかったなというのが正直な所である。まぁ1期の初回は記念すべき鬼太郎アニメ最初のエピソードだし、3期の初回は(以前当ブログでレビューしたが)鬼太郎アニメの大きな転換期として重要な回なので、セレクトされたこと自体は至極妥当と言えば妥当なのだけど…。

 

何だか不満が多い総括になったが、とはいえこのような形で過去の作品が注目される機会が与えられたことはファンとして素直に喜ばしいことだと評価したい。特に「ゲ謎」から鬼太郎作品に興味を持った新規のファンはどういうエピソードがファンの間で人気があって、何を見たら良いのか正直わからないと思っている人もいるだろうから、テレビでお気軽に過去の作品、それも鬼太郎作品に縁の深い方々の紹介したエピソードを見られるというのはファン層の拡大という点でも良い企画だったと思う。願わくばまた別のセレクターによる「私の愛した歴代ゲゲゲ」が見てみたいものだ。

 

※4:ただし1期「おばけナイター」だけ何故か現在非公開になっている。

 

タリホーが選ぶおすすめの歴代ゲゲゲエピソード!

セレクターの方々が選ばなかった中で、私タリホーがおすすめしたいエピソードを紹介しよう。ただ1期は流石に見てないエピソードの方が多く、6期は以前別の記事でオールタイム・ベストエピソードという形で既に紹介してしまった※5ので、2期から5期の中で2本ずつ、計8つのエピソードを紹介する。

 

【2期】

10話「アンコールワットの亡霊」

2期は鬼太郎が登場しない短編を改変したエピソードが全45話のうち半数以上を占めているが、「猫又」や「南からの招き」「イースター島奇談」「雨神ユムチャック」といった異国情緒溢れるエピソードが数多くあり、これが他期にはない独特の味わいを生み出している。そんな中から選んだのが10話の「アンコールワットの亡霊」で、このエピソードは6期でも放送されている。妖怪とのバトルが中心となる鬼太郎作品の中でも本作はカンボジアという異国の地で日本の鎧武者姿の亡霊が出るという異色の設定が印象的で、実際の歴史をもとにミステリ仕立てで展開される物語が不気味ながらも面白い一作だ。

 

30話「死神」

私が小学校に入学する前、父が買って来てくれたビデオが2期鬼太郎で、そのビデオに収録されていたのが「心配屋」「いやみ」「死神」「妖怪水車」の4本。これが私が初めて見た鬼太郎アニメなのだが、何故その中から「死神」をチョイスしたかと言うと、2期は30話以降、死神が鬼太郎の敵として度々登場しており「死神とサトリ」「隠れ里の死神」「死神と貧乏神」「死神のノルマ」といったエピソードで鬼太郎と敵対している。つまり2期の終盤は「鬼太郎VS死神」という感じの流れになっていて、2期をおすすめするなら死神が初登場する30話を外す訳にはいかないと思いこれを選んだ。個人的な注目ポイントは死神は勿論のこと、鬼太郎抹殺のため刺客として送り込まれる魔女だ。この魔女がまぁ~怖かったのよ。

 

【3期】

79話「妖怪やまたのおろち

3期は地獄編を除いても108話もあるためどれにしようか迷ったが、シンプルにカッコいい鬼太郎が見たいのならこの79話がおすすめだ。やまたのおろちは2期と4期、それから6期でも登場した敵だが、特に3期のやまたのおろち回は鬼太郎とやまたのおろちの激闘が歴代屈指の名シーンで、鬼太郎の仲間だけでなくやまたのおろちに仕えている敵の妖怪まで鬼太郎を応援するという熱い展開になっている。何故敵妖怪が鬼太郎の応援をするのかは是非とも本作を見てもらいたい。

 

88話「不思議な妖犬タロー」

このエピソードは一応原作があるのだが、原作と少し内容が違っておりアニメは鬼太郎に反省を促すことに焦点を当てたストーリーになっている。基本的に悪い妖怪を懲らしめ退治するはずの鬼太郎が本作に限っては逆に懲らしめられるという、歴代の鬼太郎の中でも非常に珍しいエピソードなので、これは一見の価値ありですよ!

 

【4期】

84話「怪奇! 人食い肖像画

4期から選んだのはオリジナルエピソードのこちら。まず何と言ってもシンプルに話が怖い肖像画から出て来る得体の知れない赤い化け物に、鬼太郎たちが成すすべもなく食われていくというこれだけでも十分怖いのだが、化け物の正体と成立背景が更に怖さを引き立てている。勿論単に怖いだけの話ではく最後にはほろりと物悲しさも漂う、鬼太郎シリーズ屈指の異色作であり傑作ホラーとしておすすめしたい。

 

113話「鬼太郎対三匹の刺客!」

84話とは対称的に113話はシンプルに笑えるコメディ回。打倒鬼太郎のためぬらりひょんが例によって刺客を雇おうとする話で、刺客を雇うべく使いに出された朱の盆がねずみ男に仲介役を頼み、そのねずみ男は金だけ受け取って大して強くもない三匹の妖怪ぬらりひょんに送る。そして三匹の妖怪は「チンケな妖怪をお仕置きするだけで多額の報酬と飯にありつける」というねずみ男の口車に乗せられ鬼太郎と闘う羽目になる…というのが本作のあらすじだ。

ぬらりひょんが刺客を雇い鬼太郎を退治しようとするのは3期から始まった王道のプロットだが、本作ではそのプロットを逆手にとってコメディ劇に仕立て上げているのが脚本としての評価ポイントで、当然ながらこのエピソードにおける主役は鬼太郎でもぬらりひょんでもなく、三匹の妖怪(五徳猫・如意自在・山爺)だ。この三匹が織りなす悲喜劇を楽しんでもらいたい。

 

【5期】

42話「オベベ沼の妖怪かわうそ!」

5期は原作のあるエピソードからこの42話をおすすめしたい。かわうそのエピソードは歴代作品で何度もアニメ化されているが、特に5期では原作同様かわうそが過去に行っていたイタズラ(悪事)が改心した現在に至っても悪影響をおよぼしており、そのケジメをつけるべくかわうそが闘う姿に感動させられる。こうした原作とオリジナルとの組み合わせが絶妙なのもさることながら、鬼太郎とねずみ男の微笑ましい友人としての関係が描かれているのも本作を推すポイントの一つである。

 

50話「呪いの花嫁! 陰摩羅鬼」

陰摩羅鬼は1・3・4・5・6期でアニメ化されている定番のエピソードだが、私が一番好きなのは5期の陰摩羅鬼回だ。3期は刑事コロンボ金田一耕助といった名探偵・名刑事をパロディ要素として盛り込んだ作品で、4期は感動路線の話になっているが、この5期の陰摩羅鬼回は本格ホラーサスペンスといった感じのシリアスなテイストで、徐々に男性の身体を蝕む謎のアザや既に亡くなっているはずの女性が恋人として男性と交際していることなど、全体的にダークで緊張感のある物語になっている。キャラの可愛さ・ユニークさを前面に出しがちな5期の作風の中でも結構真面目にサスペンスを描いているという点で印象的かつ秀逸な物語としておすすめしたい一作だ。

 

※5:ゲゲゲの鬼太郎(6期)よありがとう!!(エピソード編) - タリホーです。

 

さいごに

これで「私の愛した歴代ゲゲゲ」のレビューは以上となるが、鬼太郎アニメは1期から6期まで全て合わせると536話もある長大なシリーズ作品であり、当然ながら4月から9月にかけてセレクトされた25本はそのごく一部に過ぎない。私がおすすめした作品も「強いて挙げるなら…」というもので、本当はもっとおすすめしたいタイトルがいくつかあるのだけど、それはまた別の機会にとっておくことにしよう。

 

それにしても5期が放送終了した時は次の6期が放送されるまで特に鬼太郎関連の大きな出来事はなく、その間は別のジャンルの作品に鞍替えしたり、(その当時は水木先生が存命だったから)鬼太郎以外の水木先生の著作を読んだりすることでこの空白期間を埋めていたような気がするが、6期の放送が終了して5年以上経った今、こうして「ゲ謎」だったり「歴代ゲゲゲ」といった形で鬼太郎について語れる出来事が続いているというのはファンしては結構恵まれた環境にいるなと思う。中には水木プロの炎上騒動とか「ゲ謎」をこき下ろしたブログとか、ネガティブな出来事もあったし「水木作品を摂取してよくもまぁそんな酷いことが言えたな…」と同じファンだと思えないような攻撃的かつ排他的な一部のファンの物言いに腹を立てたけど、10年以上前はそもそも「ゲゲゲの鬼太郎」について誰かと意見を交換したり共有することが出来なかったので、何だかんだ充実した推し活が出来ていることは間違いないと思う。

 

そんな訳で、アニメの放送は終わったが鬼太郎関連の推し活としては「ノロイカゴ ゲゲゲの夜」というゲームが先月から発売されているのでそれを引き続きプレイすることと、来年の1月にゲ謎の舞台が上演されるみたいなので、何とかチケットを獲得して観劇出来たら良いなと思っている所だ。

【ゲゲゲの鬼太郎】2期第18話「幸福という名の怪物」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

どうもタリホーです。今回は松下奈緒さん二度目のセレクト、2期の「幸福という名の怪物」をレビューしよう。

 

当ブログで何度か言及しているが、2期は1期で原作の鬼太郎エピソードをほとんど映像化してしまい原作のストックが枯渇状態だったため、鬼太郎の登場しない短編作品を鬼太郎作品として改変・アニメ化したエピソードが全45話のうち23話と半数を占めている。本作「幸福という名の怪物」もそのうちの一つで、原作は1967年に「週刊アサヒ芸能増刊」に掲載された8ページほどの短編作品だ。

 

【あらすじ】

豊島という男がある日町でねずみ男に呼び止められ、一個の卵を渡される。その卵は「幸福」という怪物の卵で、これをねずみ男からもらった豊島は家で孵化させる。ねずみ男によると「幸福」は生長するに従って持ち主に福をもたらし、幸福に満ちあふれた生活が送れるという。実際に「幸福」が孵化して以降、豊島の昇進が決まったり商店街の福引で一等が当たるなど、数々の幸運が豊島夫妻に舞い込む。度重なる幸運に夫妻の欲・願望も膨れ上がり、それに比例して「幸福」もみるみる生長を遂げ、ついに家の天井に届くまでに怪物は生長する。怪物は天井を突き破りとうとう破裂、夫妻は「幸福が逃げてしまった、明日からはまた不運がやってくる」と嘆息するという形で物語は終わる。

 

以上が原作のあらすじである。掲載誌が少年向け漫画雑誌ではなく芸能雑誌ということもあってか、内容もシンプルかつ大人向けで、人間の欲には際限がないということを端的に描いた作品だ。

 

地獄玉をめぐる攻防

大まかなプロットは原作と同じものの、「ゲゲゲの鬼太郎」という作品として改変する以上、鬼太郎を物語に介入させる必要があるのは当然であり、アニメでは猫娘が偶然手にした地獄玉がねずみ男を経由して中村一家の手に渡ってしまったため、鬼太郎がそれを取り返すべく動くという物語に仕立て上げている。今回の放送ではカットされてしまったが、猫娘ねずみ男に地獄玉を渡してしまったのは彼女の好物である魚(ナマズ)をねずみ男がチラつかせたからであり、猫としての本能に負けて地獄玉がねずみ男の手に渡ったと、まぁそういう感じで説明がなされている。

 

原作では巨大化して破裂するだけだった怪物が、アニメでは幸運をもたらす代わりに命を奪う時限爆弾として設定されており、中村一家の命を危ぶんだ鬼太郎たちと、幸福を奪われまいと地獄玉を死守する中村夫妻、この両者の攻防を描いているのがアニメならではの展開で、特に中村の妻が通っているビューティースクール(今で言う会員制のジムみたいなものだろうか?)での一幕は強く記憶に残っていたシーンだ。猫娘が妖怪によって酷い目に遭うというのは歴代の鬼太郎作品で何度も描かれているしそう珍しくはないのだが、贅肉のたっぷり付いたご婦人連中に猫娘がボコボコにされるというのは勿論本作だけの貴重なワンシーンである。偏見かもしれないが、こういったおデブな女性を複数描いたアニメ作品って最近のアニメでは全然見られないから、尚更貴重なシーンに思えてならない。

 

1970年代の貨幣価値

ところで、今回の物語を見て「宝くじで100万円当たったからと言って、その後に一戸建ての家を購入する(≒ 購入出来る)か?」※1と思った人もいるかもしれない。これは現在の100万円と1970年代の100万円とでは貨幣価値が違うからであり、その辺りのことを考えないと不自然に思うだろう。なので、1970年代の貨幣価値を参考までに紹介しておくが、この貨幣価値を算出するにあたって消費者物価指数※2というものがあるらしく、令和6年(2024)の消費者物価指数が110だとすると、昭和45年(1970)の消費者物価指数は31.3ということで、昭和45年に1万円で取引されていたものは現在だとその約3.5倍の価格で取引されるみたいだ。勿論1970年代と一口に言ってもオイルショックによる物価上昇などもあるから、消費者物価指数も昭和45年の時点では31.3だったのが昭和54年(1979)には68.3へと変動している。今回放送されたエピソードは1972年の2月に放送されたものだから、劇中の貨幣価値も1970年代初頭のものと考えれば良いかな?と思っているので、劇中における100万円も現代価格に換算するなら300万円ほどの価値があるということになるだろう。

 

※1:宝くじ以外にも色々「幸福」が舞い込んだみたいなので、宝くじの当選だけで購入に踏み切った訳ではないかもしれないが…。

※2:昭和40年の1万円を、今のお金の価値に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan

 

さいごに

ということで、短くなったが今回のレビューは以上の通り。2期では本作以外に「原始さん」や「地相眼」といったエピソードも「人間にとっての幸福とは何か?」を考えさせる物語になっており、こういった様々な切り口で人の幸・不幸を描いているのも2期というか水木作品ならではの特色だ。水木先生は第二次世界大戦の際にラバウルで現地の部族との交流や生活を共にした経験があり、そこでの原始的とも言えるような生活こそが真の幸福につながるもので、資本主義が発達した文明社会における幸福というのは人間の欲を肥大化させ一種の中毒状態にするようなものであるという、そんな悟りみたいなものを開き創作という形で私たちに伝えた人だと思っている。なので水木先生の妻を朝ドラで演じた松下さんが本作をセレクトしたのは流石だなと感心したね。水木先生は妖怪漫画で大成したけど、生涯をかけて人間にとっての幸福とは何かを独自に研究していたお方でもあるから、そういった一面を知る上でこのエピソードは欠かせないのだから。

 

このエピソードが選ばれたこと自体は良かったとはいえ、アニメ化としては実はちょっと不満があって、本作は「怪物」とタイトルにあるように原作は卵から一つ目の怪物が生まれるのだけど、アニメは地獄玉という球体の物体として終始描かれており怪物らしさがあまりなかったのが少々残念ではある。別に原作通り卵から怪物が孵化するという形にしても良かったのに何故こういう改変をしたのか、少しばかり疑問に思う。

ただ反対に改変して良かった点もある。それは上述した地獄玉をめぐる攻防もそうなのだけど、中村一家が原作とは違い三人の子供がいる五人家族として改変されており、これによって命こそ助かったものの、家を失いこの先やって来る不運を対処しつつ三人の子供を養わなければならない中村夫妻の前途多難ぶりが想像出来て、原作以上に悲壮感に満ちたエンドになっていたのは印象的な幕切れとして良かったのではないかと評価しておきたい。

 

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ちなみに、「幸福という名の怪物」は現状2期以外でアニメ化はされていないが、それに近い物語なら6期の87話「貧乏神と座敷童子というお話がある。もし配信等で見られるのなら、今回のエピソードと合わせて見てみると良いよ。

【ゲゲゲの鬼太郎】3期第1話「謎の妖怪城出現!!」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

タリホーです。最近どうも仕事が忙しい上にパソコンのネット回線の調子が悪くブログの更新がはかどらなかったが、今回は戸田恵子さん二度目のセレクト、3期初回の妖怪城をレビューしよう。

 

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もう既に放送から2週間以上も経っているし、妖怪城に関しては先日放送された6期3話のレビュー(↑)で大体のことは語ったが、3期の初回は歴代の鬼太郎アニメの観点から見て大きなターニングポイントになった実に重要な回でもあるので、今回はその点についてレビューしたい。

 

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ちなみに、先日放送された正源司さんセレクトの6期「厄運のすねこすり」と高山さんセレクトの5期「働く! 目玉おやじは既にレビュー済みであり、新たに語ることはないのでご了承願いたい。

 

鬼太郎アニメの大きな転換となった3期

3期の初回が放送されたのは1985年の10月12日。基本的に歴代鬼太郎シリーズは約10年おきに新たな作品が作られているが、2期と3期の間は13年も空白の期間があり、この空白期間は歴代の中でも最長だ。これは2期の段階で「ゲゲゲの鬼太郎」の原作エピソードをすっかり使い果たしてしまったから、原作のストックを貯めるために空白期間が長くなってしまったというのもあるかもしれないが、3期鬼太郎のDVDボックスに付属のブックレットに収録された岩佐陽一氏の解説によると、当時「鬼太郎」のメイン出版社である講談社は「機動戦士ガンダム」や「ウルトラマン」「仮面ライダー」、そして自社コンテンツの「タイガー・マスク」「あしたのジョー」といった作品に力を入れており、とても「鬼太郎」にまで手が回る状況ではなかったのではないかと、そしてそういった作品の人気が落ち着いた80年代半ばになってようやく「鬼太郎」を復活させることが出来たのではないかと述べている。

 

当然ながら10年以上も経てばテレビ放送におけるトレンドも大きく変わっており、2期までの(良くも悪くも)原作から大きく逸脱しない「鬼太郎」ではいけないと3期の制作陣は考えたようで、当時の80年代、それも原作のような田舎ではなく科学技術によって闇が失われた現代都市に妖怪が出没するということをメインテーマにしたのが3期の最大の特徴と言えるだろう。これはOPのムービーからも顕著に読み取れるポイントで、2期までは墓場や自然の風景といったものがメインのイメージだったのに対し、3期ではビルが立ち並ぶ都会から颯爽と鬼太郎が一反木綿に乗って登場し、お馴染みのねずみ男砂かけ婆・子泣き爺といったメンバーもバンドを組んで楽器を演奏するというスタイリッシュさが前面に出たOP映像となっている。

 

そして初回の「妖怪城」は、原作だと四国山中にあった城が3期では大都会の中心、建設途中の工事現場から突如出現するという形で大幅に改変され、たんたん坊・かまいたち・二口女との戦闘も、原作だと鬼太郎が一人でこの三体の妖怪と戦う※1展開になっているが、3期では砂かけ・子泣き・一反木綿・ぬりかべが救援に駆けつけチーム一丸となって戦う様子が描かれているのも注目すべきポイントだ。

今では全然珍しくも何ともないが、原作でチーム一丸となって戦うエピソードが描かれたのは3期以前だと「妖怪大戦争」のお話くらいで、それ以外は鬼太郎とねずみ男に加えてもう一人参戦する程度の少人数での戦いが当たり前だった。こうしたチーム戦が原作でも描かれるようになったのは3期以降の話で、4期と5期の初回もチーム一丸となって妖怪を退治するというプロットになっている。

 

元々「ゲゲゲの鬼太郎」はそこまでバトルシーンに特化した作品ではなく、特に原作の「妖怪城」では鬼太郎はたんたん坊たちと派手なバトルを繰り広げてはいない(というか、鬼太郎はたんたん坊に潰されペシャンコになってカーペットとして利用されている始末だからな…ww)。原作は特殊な注連縄を妖怪城の一番上の屋根に乗せることで、妖怪たちは城もろとも岩となって封印されるというのがオチであり、アニメのように仲間が駆けつけて来てくれる訳でもないし、物語の決着も封印というある意味あっけない形でケリがついている。なので、3期でバトルシーンも見応えのある作品へとアレンジしたのはアニメ化として英断だったと言えるだろう。

勿論原作のあっけない決着は「どんなに強い敵でも封印の効力にはどうすることも出来ない」という妖怪の特性を描いたという点では評価出来るのだが、やはりアニメだと鬼太郎がやられっぱなしのまま封印によって妖怪が退治されてしまうという原作通りの展開だと視聴者のウケが悪いのは容易に想像がつくので、これに関しては改変して本当に良かったと思う。

 

3期のダイナミックなアクションシーンに大きく貢献したアイテムと言えば、アニメオリジナルアイテムのオカリナだ。このオカリナは4期でも使われたアイテムで、仲間を呼ぶ際の笛になったと思えば、短剣になったりムチになったりと様々な形で活用され、この追加要素によって原作では描かれなかった派手なアクションが生み出された。ムチと言えば、かの有名なインディ・ジョーンズを私は連想してしまうが、もしかすると3期のアクションシーンはインディ・ジョーンズといった海外の映画の影響も少なからずあるのかもしれない。※2

ちなみに、このオカリナのアイデア読売広告社の木村京太郎氏が提案したらしく、バンダイに継続的なスポンサーになってもらうため、アニメのグッズ(おもちゃ)商品のアイデアとしてオカリナや鬼太郎の家(ゲゲゲハウス)といったものが取り上げられたようである。前述した3期のDVDボックス付属のブックレットには当時発売されていた鬼太郎アイテムも紹介されており、その中には今回登場した妖怪城もおもちゃとしてバンダイから発売されていたようだ。

 

そして忘れてはならないポイントがもう一つ。本編で初登場する妖怪やキャラクターの名前が字幕で画面に表示されるようになるのは3期が初で、これは4・5・6期と引き継がれている。

 

このように、3期は

①原作が執筆された年代ではなく放送当時の80年代の都市部をメインの舞台としてストーリーを改変。

②鬼太郎単独の戦いよりも味方妖怪とのチーム戦を重視。

③アニメオリジナルアイテムを追加し、よりダイナミックなアクションシーンを演出。

④初登場の妖怪・キャラクターを字幕表示する。

といった、今現在の鬼太郎アニメの基礎となる原作改変やアニメならではの演出を行っており、この3期で生み出されたアイデアによって鬼太郎シリーズは何代にもわたりリメイクされる長寿アニメになり得たと言っても過言ではないだろう。

 

※1:一応目玉おやじねずみ男もいたが、目玉おやじはサポート程度の活躍しかしていないし、ねずみ男は鬼太郎の力で半ば強制的に妖怪城の封印をする羽目になったので、鬼太郎がほぼほぼ一人で頑張って妖怪を退治・封印したと言って良いだろう。

※2:ちなみにインディ・ジョーンズシリーズの1作目である「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」が公開されたのは1981年、2作目の「魔宮の伝説」は1984年に公開されている。

 

もう一度登場した妖怪城と三妖怪

実は3期では今回以外にも妖怪城が登場するエピソードがある。それが58話の「妖怪城の目目連」というエピソードで、このお話はぬらりひょんが打倒鬼太郎のためにユメコちゃんを誘拐し、目目連という妖怪をけしかけて鬼太郎を倒そうとするストーリーだ。一応舞台は妖怪城ではあるが、今回のたんたん坊たちとは一切関係はなく、城が出現した場所も今回と違って郊外の霊園に変わっているし、城にいた目目連を退治したら勝手に妖怪城は地下へと戻って行ったので、名称こそ同じものの今回の妖怪城とはまた別のものと考えた方が良さそうである。しかしそう考えると、3期の世界観では妖怪城が複数存在することになり、各地にそんな建物が点在していると思うとなかなか物騒な世界ではないだろうか?

 

ちなみに、今回退治された「たんたん坊・かまいたち・二口女」の三妖怪はずっと封印されていた訳ではないようで、91話の妖怪ハンター ヒ一族」ではたんたん坊と二口女がぬらりひょん配下の悪党妖怪として再登場し、妖怪の天敵であるヒ一族と死闘を繰り広げている。その少し前の86話「妖怪香炉悪夢の軍団」では、悪夢を具現化する妖怪香炉の力によって鬼太郎に怨みを持つ妖怪たちが実体化し、その中にたんたん坊と二口女の姿もあった。

かまいたちは74話の「妖怪万年竹」で再登場するのだが、彼は鬼太郎と和解したのか味方妖怪として参戦し、万年竹を倒すために素早く動いて対象をぶった斬る自身の能力を活かして固い竹の破壊に貢献している。今回の妖怪城のエピソードでもたんたん坊や二口女とは違い、一反木綿の締めつけ攻撃で城の封印方法をあっさり自供し、渋々地中に戻って行ったみたいなので、根っからの悪党ではなかったようである。

 

さいごに

ということで、二週遅れてのレビューとなったが、今回の妖怪城のお話は歴代鬼太郎シリーズ全体を見ても大きな転換点になった回として話を進めた。なかなかこういったことはマニアックな話になるからなのか、あまりテレビ等でも取り上げられないのがファンとしては何とも複雑で、テレビで取り上げられたとしても猫娘のビジュアルが60年の間に大きく変わりました!程度のことしか取り上げられない。今私たちが知っている鬼太郎アニメのベースとなる設定・物語の様式は3期で完成・定着したものだということはもっと知られても良いと個人的には思うのだけどな…。

 

余談になるが、今回はねずみ男が"臭い男"であるということをやたらに強調した描写が目立つ。何と言ってもねずみ男は不潔で臭いというのが彼のアイデンティティであり武器でもあるから、そこを覚えてもらうためにも初回はやたらとねずみ男の臭さを強調しがち※3で、今回の場合ねずみ男の臭いで周りにいた人々が距離をとったり、テレビ局のアナウンサーやスタッフたちがガスマスクを装着していたりと、少々やり過ぎとも思える形でねずみ男の臭さを描いているのが印象に残る。

 

※3:ただし、5期は初回ではなくねずみ男がメインとなる2話で彼の臭さが強調して描かれている。同じく6期も初回でねずみ男は登場していないので、彼の臭さがわかるのは2話になってからである。

【ゲゲゲの鬼太郎】4期第57話「吸血鬼エリート!」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

タリホーです。今回は佐野史郎さん二度目のセレクト、佐野さん自身が本編のギター曲を作詞・作曲・歌唱し、なおかつエリートの声を担当した4期の吸血鬼エリート回をレビューしよう。

(感想が遅れたのは先日観た映画のレビューを優先したからで、別に忘れてたとかではないですよ?)

 

4期エリート回の特色

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吸血鬼エリートについては6期の感想記事で言及したので、早速4期エリート回について話していくが、今回レビューするにあたって改めて原作の吸血鬼エリートのお話を読んだ。アニメでは1期で前後編として放送され、4・5・6期では単発回として放送されているが、実は原作は全8回にわたって連載された、鬼太郎エピソードの中でも長編作に相当する物語だ。吸血鬼エリートに命を狙われた国防大臣が護衛のため鬼太郎を雇い、反対にねずみ男はエリートに月給10万(勿論1960年代の貨幣価値で考えてね?)で秘書として雇われ、そんな状況の中で鬼太郎が絶体絶命のピンチに陥るものの、最終的にエリートは自身が住んでいる別荘もろとも焼け死ぬ…というのが原作のおおまかなあらすじだ。

 

この「絶体絶命のピンチ」というのはエリートが所持する薬によって鬼太郎の全身が溶けてしまうというもので、薬によって鬼太郎が溶けるピンチを描いたのは1期と5期のみ。今回の4期では描かれていない。なので原作は鬼太郎がエリートを倒したというより、目玉おやじねずみ男が倒したというのが正確だけど、アニメだと主人公である鬼太郎がエリートを退治したという感じで改変されている。今回は薬で身体が溶ける流れはカットされたものの、エリートが住む別荘や砂地獄の谷は原作準拠で、目玉おやじを助けてくれたコガネムシが原作通り登場するのは実は4期だけである(1期はカブトムシに改変されている)。ついでに言うと、猫に食べられそうになっていた所を鬼太郎に助けられたという劇中のコガネムシの台詞も原作に基づくものだ。

 

では4期ならではのポイントについて触れていくが、原作のエリートは「えらいやつを征服する快感」を味わうために世界各国の美女や名士の血を狙う吸血鬼であり、その動機は自己完結的なものだが、今回の4期のエリートは妹の吸血コウモリであるティナを自分と同じエリート吸血鬼にするためという独自の設定が追加された。この追加設定を活かすためか、エリートは原作通り別荘もろとも砂地獄の谷に落ちるものの、死亡することなく元の吸血コウモリに戻って兄妹仲良く過ごすというエンドで物語は幕を閉じた。歴代エリート回でエリートが生存する終わり方をしたのはこの4期だけである。

そして何と言っても佐野さんが作詞・作曲した劇中歌も他期にはない4期ならではの特色の一つだが、ここで注目してもらいたいのは上弦の月が館の真上にのぼった時にエリートが歌った歌詞。テレビの字幕機能をオンにしてここの歌詞を見ると、「チュチニ チオチュ チュチニ チオチュ」と歌っているのがわかるけど、このフレーズは佐野さんのオリジナルではなく原作でエリートが吸血コウモリに使っていた言葉を引用したものだ。こういった形でさり気なく原作のフレーズを歌詞に盛り込み、ゴシックロマンス溢れる曲調に仕立て上げているのは原作リスペクトが感じられて凄く良かった。

 

さいごに

ということで短くなったが今回の感想は以上の通り。原作ファンである佐野史郎さんがゲスト出演しているのは勿論のこと、4期オリジナルの描写も作中の世界観とうまくマッチしているのがこのエピソードの人気の理由の一つだと私は思っている。例えばエリートが作曲に利用しているオタマジャクシは4期のみのアイデアで、オタマジャクシが音符となって水槽に描かれた五線譜に移動するというのは何ともオシャレな演出だ。イースターならぬ「チースッター」という言葉遊びにしても、原作にあっても違和感がない語感でそこも個人的には好きなポイントとして挙げたい。

 

原作だとエリートの出自については一切不明だが、今回のエピソードではエリートが元からエリート吸血鬼ではなく吸血コウモリから進化した成り上がり者というニュアンスが感じられるのも単なる悪役としての吸血鬼ではないことが読み取れるし、一般的な吸血鬼が苦手とする十字架やニンニクは効かないものの、最大の武器であるギターによる音響催眠はコルクの耳栓ごときで対処出来るというのも、彼が完全無欠のエリートではないことを示唆していて、これが憎むに憎めないキャラを構成していると思うのだ。6期ではエリートの出自についてより具体的な描写があり彼の行動原理について深掘りが為されたエピソードになっているので、今回のエピソードと合わせてチェックしてもらえばより一層吸血鬼エリートに愛着が持てること間違いなしだ。

 

そういやアニメ公式サイトで、視聴者お気に入りのエピソードを投票するフォームが開設されたようで、今月いっぱいまで募集しているみたいなので私のブログを今読んでいる人は是非とも応募してもらいたい。今回の募集企画は「投票の実施、作品の人気度・視聴状況の分析及び統計的資料の作成、今後の施策等の検討・活用のために利用」するらしいので、視聴者が選んだエピソードがテレビで放送されるという可能性も(募集の数によっては)なきにしもあらずという感じなので、ファンとしても積極的な投票をよろしく頼みたい。

【ゲゲゲの鬼太郎】5期第29話「ネコ娘の妖怪バスツアー」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

タリホーです。もう既にニュース等で知っていると思うが、歴代ゲゲゲは9月で放送終了ということで、この感想記事も今月を含めて残り二ヶ月。もう少しだけお付き合い願いたい。

 

さて、8月の最初を飾るエピソードをセレクトしたのは、日向坂46の正源司陽子さん。あいにく私は女性アイドルグループに疎いので、正源司さんの存在や彼女が鬼太郎作品のファンであることも全く存じ上げなかったが、今回セレクターとしてこの5期のお話を選んだことを話す様子を見るとガチの鬼太郎オタクなのは間違いなさそうですね。

あの語彙力を失った感じの語りは、オタクによく見られる傾向ですから。

(別にディスってはいないからね?)

 

※先月放送された沢城みゆきさんセレクトの6期泥田坊回の感想はこちら。(↓)

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狂骨

ja.wikipedia.org

本編の感想の前にまずは今回登場した狂骨について触れておこう。狂骨は鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に記されている妖怪で、井戸の中の白骨が妖怪化したものだと述べられている。石燕の解説では「きょうこつ」という物事の激しさを指す方言※1があるように、この狂骨もそれに関連して怨みの激しさ故に井戸から出て来て人に害を為すと考えられているが、狂骨に関する文献はこの石燕のものだけで伝承等で伝わっている訳ではないため、石燕が創作した妖怪だと考えられている。

創作と言えば、ジャパニーズ・ホラーの金字塔とでも言うべき作品「リング」しかり、「番長皿屋敷」の亡霊お菊しかり、昔から井戸と怨霊は密接なつながりがある。それに井戸はあの世につながっていると考えられていて、平安時代小野篁六道珍皇寺の井戸を通ってあの世とこの世を行き来していたという伝説があるくらいだから、狂骨という妖怪を石燕が創作したと仮に考えてもおかしくはない。既にそのアイデアとなる下地はあったのだからね。

 

狂骨が鬼太郎アニメに登場したのは今回の5期が初で原作には当然ながら登場していない。今回の狂骨は井戸に封じられていた妖怪で、いろは歌の順序に則って修学旅行中の小学生を襲う※2という完全な悪役として設定・描写されている。そして6期では映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」でこの狂骨が重要な役割を果たしたのは言うまでもないだろう。

 

※1:関係はないと思うが、岡山の方言に「きょうとい」という言葉がある。これは怖いとか恐ろしいといった意味で用いられる。

※2:この設定はアガサ・クリスティABC殺人事件を意識しているのだろうか?

ちなみに、コメントでいただいた情報によると、海外の児童文学である「ギャシュリークラムのちびっ子たち」も本作の狂骨の設定に通じる所があるそうだ。

(2025.08.06 追記)

 

意外と少ない?猫娘メイン回

今回のお話は猫娘がバスガイドを務める修学旅行で狂骨の封印が解けてしまい、狂骨に狙われた修学旅行生たちを猫娘を含めた鬼太郎ファミリーが助けるという至極シンプルなストーリーだ。

今回は脚本にツッコミを入れるようなポイントはそんなにないので、猫娘にスポットライトを当てて歴代鬼太郎における猫娘の描かれ方みたいなことを解説しておこう。

 

原作で猫娘が初登場した※3のは、1967年の別冊少年マガジン初秋特大号の「ねこ娘とねずみ男で、この時はゲスト妖怪として登場したもののレギュラーキャラとして定着するのはもっと後の方で、3期が放送されていた頃に連載された「新編ゲゲゲの鬼太郎」でようやく今私たちが知っているおかっぱ頭に大きなリボンをつけ、ワンピース姿をした猫娘がレギュラーメンバーとして定着する。

アニメの方では2期からレギュラー入りした猫娘だが、元々原作でそれほど描かれなかったキャラクターということもあってか、あくまでもサポート役という程度の役割しかなく、やはりねずみ男の強い個性の前ではどうしてもかすんでしまう所がなきにしもあらずという感じだった。3期から徐々にねずみ男に対する制裁役兼ヒロインといったポジションを確立していき、4期でようやく猫娘がメインとなるオリジナルエピソードが執筆される。それが89話「髪の毛地獄! ラクシャサ」というお話で、この回は猫娘のコンプレックスに焦点が当てられていることや、いつもと違う大人びた猫娘の姿が見られる珍しいエピソードなので、是非とも見てもらいたい。

 

そして今回の5期では猫娘人間界でアルバイトをしながら生活しているという独自の設定が追加され、これまで以上にヒロインとしての存在感が強くなっている。そのため妖怪絡みのトラブルも猫娘経由で鬼太郎に伝わるケースが増え、妖怪ポストに届いた手紙で事件を知るというケースが減ったのも5期になってからだと思う。また猫娘の出番が増えたこともあって、ねずみ男の存在感は1・2期と比べるとかなり押されて弱まった印象が強い。ただその分、猫娘と同様にねずみ男がメインとなる回もちゃんと描かれているし、決して往年の鬼太郎ファンを切り捨てるようなアレンジをしている訳ではないということは言っておきたい。

 

こんな感じで鬼太郎アニメにおける猫娘は初登場の1期から5期にかけてヒロインとしてのポジションを確立していった訳なのだが、猫娘がメインとなったエピソードは実は結構少なくて、メインと呼べるエピソードは5期になってから量産されるようになったという感じだろうか。ちなみに5期ではサブタイトルに猫娘の名を冠した作品※4がいくつかあって、45話ネコ娘騒然!? 妖怪メイド喫茶や51話ネコ娘の東京妖怪見物」がそれに該当する。猫娘の名は入っていないが先日放送された95話「妖怪スイーツ! バレンタイン作戦」も猫娘メインのエピソードとして勘定に入れても良いだろう。

 

※3:猫娘の原形となったキャラは貸本版およびガロ版「鬼太郎夜話」に登場する寝子という少女で、鬼太郎の初恋相手として描かれている。

※4:ちなみに、サブタイトルにねずみ男の名が入ったエピソードも当然ながらあり、2話「ビビビ!! ねずみ男!」や27話「地獄の掟! 走れねずみ男」、38話「パパになったねずみ男」、41話「打倒鬼太郎!! ねずみ男大逆襲」が挙げられる。なので猫娘だけが依怙贔屓されていた訳ではないということは明らかである。

 

さいごに

今回は本編について全然触れていないので一応最後に本編の内容について軽く述べておくとするが、狂骨とのバトルシーンで一反木綿がねずみ男をドリルのようにスピンさせて投げ飛ばし、狂骨の身体をバラバラにするというあの技に見覚えがないだろうか?

 

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そう、4月に放送されたAdo さんセレクトの一反木綿のエピソードで海座頭を倒す際に披露された急旋回を活かしたあの技である。同じ5期のエピソードなのだから過去の技が出て来るのは当然と言えば当然なのだが、鬼太郎の髪の毛針とかリモコン下駄みたいにハッキリとした名前がついた技ではないから、意外と気づかなかった人もいるのではないだろうか?

 

それから妖怪横丁の各所にある灯篭が全国各地の灯篭とつながっているというこの設定は今回だけの設定ではなく、47話の「妖怪大裁判」でも活かされている。47話では鬼太郎の無実を証言するため横丁の仲間が法廷へ向かおうとするのだが、灯篭の火である釣瓶火が百々爺の仲間の天邪鬼と手の目によって持ち去られてしまい足止めを食らうという場面が描かれている。この他にも灯篭の設定が本編で活用されているエピソードがあったように思うが、今思い出せるのはこの47話くらいなので、もし知っている方がいたらコメント欄の方で教えてもらえれば幸いである。

 

結局ねずみ男が企画した全国規模のデリバリーサービスは灯篭の特性によって頓挫してしまったが、では妖怪横丁に宅配サービスが全くないという訳ではなく輪入道火車・白坊主によって経営されている「ひのわや」という運送業の店が横丁にはある。これは90話「新年大暴走! 鬼太郎火車!!」※5というエピソードでこの店の存在がハッキリ言及されるのだけど、灯篭の設定と併せて考えると、宅配サービスは全国規模ではなくあくまでも横丁内での小規模な事業として営んでいると考えるべきだろうね。

 

最後に又聞きの情報にはなるが、2018年のゲゲゲ忌のイベントで脚本の三条陸氏が今回のエピソードをお気に入りとして語っていたというこちらのツイート(↑)を紹介しておこう。「放送当時の裏番組」というのは当時裏番組だったテレビ朝日のニチアサ枠、具体的には「獣拳戦隊ゲキレンジャー」や「仮面ライダー電王」「Yes! プリキュア5」といった作品群を指していると思われるが、厳密に言うと「ゲゲゲの鬼太郎」が放送された午前9時の裏番組は「題名のない音楽会21」であって鬼太郎がそういった仮面ライダーや戦隊ヒーローものの番組と時間帯が被っていたという訳ではないのだが、やはり当時の子供たちはテレ朝のニチアサ枠で1時間から1時間半もそういったヒーローたちの活躍を見てからチャンネルをフジテレビに変えて鬼太郎を見るというのは(流石に集中力が切れるのか)厳しいものがあったのだろう。

6期でも裏番組のテレ朝で「仮面ライダージオウ」が放送されて間もない2018年の10月に西洋妖怪編という通常とは毛色の異なるエピソードを描き出したのだから、ゲゲゲの鬼太郎を語る上で裏番組の影響を無視することは出来ないし、そういった当時の制作陣の苦労や創意工夫を知るのも批評する上では大事だと思っている。

 

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ちなみに私は6期の西洋妖怪編に関しては(色々とチャレンジした点は認めるものの)歴代の鬼太郎シリーズの中ではワーストレベルで欠点の目立つエピソードが多かったと述べているしその評価は今も変わらない。

 

※5:【ゲゲゲの鬼太郎】火車(2~5期)を見比べる - タリホーです。

【ゲゲゲの鬼太郎】4期第34話「流浪! 妖怪あずきとぎ」視聴【私の愛した歴代ゲゲゲ】

今回は松岡洋子さんによる二度目のセレクト。4期の小豆連合のエピソードだ。

 

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小豆連合については6期放送時にざっくり解説したが、基本的に小豆連合は人間に友好的な妖怪として描かれており、妖怪としては滅茶苦茶強い能力があるという訳でもない。5期では戦闘用に用いられる「戦豆(いくさまめ)というアイテムがあったものの彼ら自身が持っている能力自体は人間とそこまで大差はない。

特に今回放送された4期の小豆連合は歴代の中で6期の小豆連合と同程度に弱く、やったことと言えば小豆の蔓で相手を縛り付けるとか、相手に直接小豆を投げつけるという程度。この小豆連合は後に98話の「試練・妖魔城への道!」でぬらりひょん率いる西洋妖怪四天王とのバトルの際に鬼太郎たちを助けるべく駆けつけてくれるのだが、当然ながら戦闘能力は皆無であり、小豆料理の差し入れという形で支援している。(しかも私の記憶が確かなら、鬼太郎ではなく敵に小豆料理を喰わせるというのだからむしろ敵に塩を送ってるんだよね…ww)

 

心の安寧を求めて

4期の小豆連合回は原作や3・5期と違い人間の顔を畑にして小豆を収穫するという悪事は行わず、「小豆とごうか、人とって食おか」という歌を歌いながら小豆を研ぎ、その歌を人間に聞いてもらいたいがために廃村と化した村から人里へと降りる、そんなあずきとぎやあずきはかりの悲哀を描いたオリジナルエピソードとなっている。6期では人間から忘れ去られた小豆連合が「小豆の復権のためにねずみ男にそそのかされてユーチューバーとしてデビューするというお話だったが、今回のエピソードも(方向性は違うとはいえ)小豆連合が妖怪としてのアイデンティティを確立し心の安寧を求めようとするという点では6期のプロットと共通しているのではないだろうか?

 

特に4期は今回の小豆連合のエピソードみたいに、妖怪が人間の文明によって妖怪としての存在意義だとか安住の地を奪われるというプロットが多数あり、この間放送された夜叉のエピソードのような「妖怪の怖さ」を描いたお話だけでなく「妖怪の悲哀」という部分にもスポットライトを当てたお話があるのも特徴の一つで、私の知る限りだと以前レビューした22話の「蜂起! 妖怪泥田坊」に加えて、25話「古都の妖怪・おぼろ車」、107話「山の神・穴ぐら入道」などがそれに該当する。

人間の文明を凌駕するだけの力を持った妖怪もいれば、人間の文明にあえなく敗れてしまう非力な妖怪もいるというのは3期まではあまり強調して描かれていなかったように思うが、4期以降になってからそういう面を描いたエピソードが目立つようになったのは、もしかしたら当時の社会情勢の影響もあるのかもしれない。

 

今回のお話もあずきとぎたちの望みと人間の需要、双方のパワーバランスが崩れ、あずきとぎとあずきはかりは人間の欲によって都合の良い広告塔・無賃金で働いてくれる労働者として扱われ、正にあずきばばあが指摘したように「見世物」という人間にとっての娯楽・快楽の対象となり下がったという、この描写に何とも言えぬ気持ちにさせられた。

 

子供の時よりも大人になった今の方がこういった話が心に刺さるというもので、今回のエピソードを見てフッと思い出したのが、北海道の旭山動物園だ。確か2006年に「奇跡の動物園~旭山動物園物語~」というタイトルで、廃園の危機に陥った旭山動物園が入園数日本一の動物園になるまでの軌跡を描く物語としてドラマ化したと思うが、このドラマで結構印象に残っていたのが飼育員と客との間の認識のズレだ。

飼育員は常日頃動物の飼育に携わっているから、お客さんにも動物の生態系だとか人間との違いという面にも注目してもらいたいという思いがあるのに対し、お客さんの方は別に動物の生態系などどうでも良く、単に動物が行うショーが目当てで来園している。ドラマ本編でも、動物の生態系について説明しようとする飼育員に向かって客が「そんなの良いからさっさとショーを見せろ」という野次を飛ばすシーンがあるのだけど、今回のあずきとぎのエピソードを見て、そのドラマのことを思い出さずにはいられなかった。やはり一部の人間にとって自分たち以外の動物・植物は下等なものであり、娯楽・快楽のために消費しても構わないという差別的感情が(意識・無意識を問わず)あり、動物園や水族館を運営する側の人々は動物が単なる見世物とならないよう楽しく学びを得られる場にするため様々な形で工夫を凝らしている。

 

ゲゲゲの鬼太郎」は妖怪という実際には目に見えず観測できない存在を実在のものとして描いているとはいえ、根底には異種族に対するリスペクトみたいなものが作品の背景にあるのではないかと思っている。

水木先生の長女・原口尚子氏のツイート(↑)で語られた生前の水木先生の植物目線での怒りからうかがえるように、人間が自分たちの都合で別の生物の権利を侵害しているというこの発想は日常生活を送っているとどうしても抜け落ちてしまうし、だからこそ最低限のリスペクトを忘れないのは大事だ。今回のあずきとぎのエピソードは流石に教訓的なお話としては描かれていないにせよ、単に小豆連合が可哀そうだったなという程度の話でもないと思う。見方を変えれば、動物や植物といった他種族との付き合い方にある種の啓蒙をもたらすような側面もあったと個人的には評価しておきたい。

 

さいごに

ということで短いが今回のレビューは以上の通り。松岡さんが言っていたように「小豆とごうか、人とって食おか、ショキショキ」というフレーズが耳に残りうっかり口ずさんでしまいそうだが、それにしても今回のねずみ男は途中までは金儲けのためだったとはいえ、最終的には見返りなしで、あずきとぎたちの安住の地と彼らの生き甲斐となる人間との交流の助けをしているのだから、原作や2期までのねずみ男と比べると随分丸くなった印象を受ける。4期のねずみ男って何だかんだ妖怪に対して同情的な所があるというのも他期のねずみ男にはない性格設定であり、この辺りに注目してみるのも面白いだろう。あとどれだけ4期のエピソードがセレクトされるのかはわからないが、「4期のねずみ男と言えばあの回!」というお話がまだ出てないのでそれが放送されるのかどうかも個人的には気になっている。