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ゲゲゲの鬼太郎(6期)第7話「幽霊電車」〈再放送〉視聴

 今回はシリーズ定番の「ゆうれい電車」回なので、徹底解説していこう。

 

「ゆうれい電車」

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

原作「ゆうれい電車」は昭和41年4月の「別冊少年マガジン春休みおたのしみ特大号」が初出(この時点では「墓場の鬼太郎」として発表されている)。ゆうれい電車の構想自体は貸本漫画の「墓場鬼太郎」の時に描いたことをリライトしたものだが、お化けを信じず鬼太郎に乱暴をはたらいた男二人を懲らしめるという展開は本作がオリジナル。

墓場鬼太郎」の時は関わった人間に不幸をもたらす存在だった鬼太郎が、人間を困らせる妖怪を退治するヒーローとして変わった「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズ中でも、人間の方を懲らしめるという点で「地獄流し」と並ぶ異色作。後年バトルものとしての色合いが強くなっていくアニメでも、とりわけ本作と「地獄流し」はホラーとして何度もリメイクされることになり、1期の続編にあたる2期以外の全てでアニメ化されている。

 

始まりの1期は物語の後半部分は原作と同じ展開だが、前半部はオリジナル。ねずみ男が開いた本物の妖怪を使ったお化け屋敷に、乱暴者の男二人が現れ、お化けが何もしないのを良いことに悪戯をはたらく。その横暴さに腹を立てた鬼太郎が男二人をゆうれい電車に乗せて懲らしめる、という話になっている。

当時は「鬼太郎=子供向け路線」ということもあってか、原作以上に男二人の設定を悪者にして、勧善懲悪の色が強い物語にしている。そのためか、男二人に被害を受けた妖怪の仕返しが軸となっており、幽霊の要素は控えめ。骨壺駅の駅員が砂かけ婆になっていたり、原作に出てこないのっぺらぼうやろくろ首が出て来るのも、本作が報復譚であると同時に妖怪の怖さと面白さを視聴者に伝える意図が制作陣にあったのではないかと私は考えている。子供受けを狙うなら、やはり幽霊(ゴースト)より妖怪(モンスター)を前面に押した方が良いのは現代における妖怪ウォッチのブームと同じなのだろう。

 

3期は鬼太郎に暴力をはたらいた男・黒川の回想譚という形で物語が始まる。

実は、回想譚という形式は、ホラーとしては使い方を間違えると改悪になってしまう所があって、話そのものが非常に怖いのなら別に構わないが、3期のような妖怪大集合テイストの「ゆうれい電車」回でそれをやるのは良くなかったのではないかと思っている。何故なら「回想譚=語り手が生きている」訳であり、劇中でどんな目に遭っても結局は助かることが視聴者に事前に知れてしまっている。そのため、原作におけるサスペンス性や緊張感が損なわれてしまったのが3期の欠点の一つだ。

また、妖怪に比重を置いておきながら物語終盤で幽霊電車が実在していたことが奥多摩霊園駅の駅長によって語られていることも欠点。原作のゆうれい電車は鬼太郎の霊力によって男二人が見せられていた一種の幻覚として描かれているが、3期の場合は幽霊電車の存在が駅長から語られたことで「結局あの幽霊電車は鬼太郎が作出したものなのか、元からあの路線を走っていた幽霊電車を鬼太郎が利用したのか?」という謎が残ってしまった。ホラーは曖昧な部分に怖さがあるが、この曖昧さはホラー的な部分に何ら貢献を果たしていない。元からあった幽霊電車を鬼太郎が利用したと仮定するとあんなに妖怪を乗せて乗客の迷惑になりやしないか?と思うし、鬼太郎が作出したものならば、駅長の語りの部分はハッキリ言って蛇足。

こんな訳で、3期「ゆうれい電車」回はホラーとしてはお粗末な出来となってしまったが、ドッキリ番組的視点で見るとなかなかイケる。骨壺駅で現れる死者の大群(原作に無いよ!)とか大量の妖怪に囲まれる展開などは正に「やりすぎ感」溢れるドッキリ番組そのもの。あ、でも濡れ女は出色の出来栄えで、彼女は最後までホラーだったよ。

 

4期は「原点回帰」をテーマにしただけあって、1期と3期でゴチャゴチャと追加されたものが削ぎ落され、妖怪ではなく幽霊に比重を置いた「ゆうれい電車」回として私はかなり気に入っている。これまでが具沢山のナポリタンならば、4期は出汁をきかせた素うどんみたいな、そんな感じだ。物語後半に出て来る妖怪たちは鬼太郎ファミリー(子泣き・砂かけ・猫娘・一反木綿・ぬりかべ)に限定されているし、その鬼太郎ファミリーにしても出て来たのは10秒にも満たない。あくまでもメインは乗客やゆうれい電車という場そのものになっている。

また、ホラー演出も外的な恐怖(土気色の顔をした乗客など)だけでなく、それによって内側から湧き出て来る恐怖が描かれているのも秀逸な点で、恐怖に毒された小林が安心しかけた先輩を再び不安と恐怖の底に引き戻す展開と鬼気迫る表情にゾッとするのだ(本編の16分辺り)。デジタル作画に移行する前だったのも良かったと思っている。

 

そして5期では、原作通りの展開の裏に予想外の真相を仕掛けた原作プロットの大改革が為された「ゆうれい電車」回となっており、ただでさえ異色な「ゆうれい電車」が更なる異色作としてリメイクされた。

改めて見て思うが、このリメイクはある意味必然の結果だと考えている。というのも、1・3期で妖怪を、4期で幽霊を前面に押し出した「ゆうれい電車」が作られており、既に妖怪が一般にも広く知れ渡った5期において妖怪だけで恐怖を演出するのは困難だし、かといって4期以上の恐怖を描くのもハードルが高い。そうなると、やはり定型となったプロットのどこかを崩して改変しなければならないという考えに行き着くのは当然だと思うのだ。勿論これは諸刃の剣で失敗すれば目も当てられないことになるが、結果として5期の改変は良い方向にはたらいた。

定型を崩したことで「あれ?いつもと違うぞ。これは単なる鬼太郎の仕返し話ではないのでは…」という不安を視聴者(特に往年のファン層)にもたらし、ズシンとイヤ~な後味が残る真相を与える。どちらかというとホラー的な恐怖というより、ミステリ的な恐怖に近い。言い換えれば、これまでの未知のものに対する恐怖よりもわかってしまったが故の恐怖が5期「ゆうれい電車」にはあるのだ。そのため、妖怪の部分は正直言って怖くはない。加牟波理入道にしてもろくろ首にしても不気味でこそあれ恐怖にはならないのだ。ただ、序盤に出て来た白粉婆については、真相を暗示させる伏線としてこの回に登場したのではないかと思っている。

 

 妖怪好きなら見て損はない大映制作の映画「妖怪百物語」。この映画で白粉婆とすれ違う但馬屋利右衛門と重助は、長屋を取り壊して岡場所を作ろうとした悪人であり、長屋の取り壊し中止を求める甚兵衛を殺害した殺人犯なのだ。

つまり、白粉婆があそこで登場したことには、吉永と木下が殺人に関係があることを示す効果がある。余りにもマニアック過ぎるので、リアタイ視聴した当時は全然そんなこと考えもしなかったけど、こういう過去作からのマニアックな引用も5期「ゆうれい電車」回の魅力の一つだ。

(脚本は6期2年目に参戦した長谷川圭一氏)

 

では、6期「ゆうれい電車」回はどうだったか?

 

恐怖の源

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期も内容自体は5期の延長線上にあるが、加害者である社長本人も死者であったこと、そしてその死がパワハラで部下を死に至らしめた原因あってのことだという点が原作の「地獄流し」の変奏曲的オチとして恐怖につながったと思う。

ただ、5期の場合が自身の弱さが罪の原因だったのに対し、6期社長の罪は無自覚と無理解からきている。

「自殺するのは心が弱い負け組だからだ」「お前のためを思ってやっている」などなど、社長のパワハラ行為は相手の意思など無視して「仕事とはこうあるべきだ!」と押しつけがましい持論と暴力に基づいており、それを罪だとか犯罪だとか省みることはなかった。「自分には過ちがない」という傲慢さ、その行為がもたらす効果を想像しない浅はかさ、これが序盤の女子高生のいじめともつながり、「人間の方がよっぽど恐ろしい」という鬼太郎の言葉で締めくくられる。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

要は恐怖の源は人間そのものであって、妖怪や幽霊に対する恐怖は人間という鏡が映す虚像だというのが6期「幽霊電車」の主張なのではないだろうか?人間が恐怖の源ならば、自分も「恐怖を与える加害者」たり得るし、パワハラやいじめで恐怖を相手に与えれば、その因果が巡って恐怖を享受する羽目にもなる。

妖怪や幽霊で“肝をつぶす”程度の恐怖ではない、もっと切実で生命に関わる恐怖が日常には蔓延している。他人事だと思わずそれを自覚し、自分が恐怖を拡散していないか省みよというのが6期が描く恐怖の到達点と言えるだろう。

 

余談になるが、今回登場した妖怪は過去作の「ゆうれい電車」回でも登場したキャラクターが出てきている。

(5期のデザインになっているが)小豆あらいは1期、濡れ女とひょうすべと傘化けは3期、加牟波理入道は5期にも登場している。また、姥ヶ火は4期、お歯黒べったりは5期のデザインで登場しているのも見逃せない。

 

それにしても、この先新たに7期が出来たとして、「ゆうれい電車」を放送するとなったら、次はどういう恐怖を持ち出すのだろうか…。5・6期で「人間が恐怖の源」というある意味究極のゴールを描いているし、あまり変えすぎると「ゆうれい電車」でやる意味がなくなるし…。ハードルは高くなるばかりだな。