タリホーです。

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必要なのは「導き」か「悟り」か?【ダークギャザリング #18】

セカンドシングルは「刻んでビースト666(スリーシックス)」で。

 

「彼者誰時」

今回は前半で「受胎告知の家」の決着を描き、後半は空亡と愛依に憑いた神との邂逅を描いている。この前半と後半ではとある対比が描かれているがそれについては後ほど言及するとして、まず後半パートで神の周りを囲んでいた12体の式神十二天将について紹介しておきたい。

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本来は陰陽道における占星術の一種「六壬神課(りくじんしんか)」で用いられる象徴体系であり、それぞれの神には守護する方角や干支、役割などが割り当てられている。平安京を守護していた朱雀・青龍・玄武・白虎は聞いたことがある人も多いだろうが、そんな十二天将は、本作では神に仕える部下(守護神)として登場している。

ちなみに、神の攻撃に遭いながらも空亡は十二天将の一体を討ち取ったが、討ち取られた一体は六合(りくごう)という神であり、安倍晴明が残した『占事略决』によると、平和や調和を司る神と記されている。平和とは無縁なこの作品において、六合が真っ先に討ち取られたというのは、何とも象徴的な感じがする。

 

実を言うと今回登場した十二天将だけでなく空亡も陰陽道、特に四柱推命においては重要なワードなのだ。

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四柱とは、その人が生まれた年・月・日・時刻の四つのことで、それぞれに十干十二支※1がある。例えば、今年(2023年)を十干十二支で表すと癸卯(みずのとう)であり、次に同じ癸卯の年が来るのは60年後の2083年になる。一般的に60歳を迎えた人を還暦と呼ぶのも、十干十二支が60を周期としているからであり、満60歳になった時に生まれた時と同じ十干十二支に戻るということだ。

そして、四柱から人の運命を占う四柱推命には天中殺という概念がある。

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天中殺については上の記事がわかりやすいと思うので貼っておくが、要は十干十二支を10周期で見た時に二つの十二支が十干からどうしても溢れてしまうということであって、そのため天中殺は6種類あるとされている。天中殺は12年周期で訪れ、それが訪れる2年間は天が味方しない時期とされているため、普段は起こらないトラブルが起こりやすいと考えられている。この天中殺の別名が空亡なのだ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

夜宵はあの巨大な霊体を百鬼夜行の最後に現れる太陽のような妖怪として「空亡」と名付けたが、これを天中殺の「空亡」だと考えると、あの霊体は天から見放された者だと解釈出来る。私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間に十干十二支に基づく運命が与えられるが、この霊体は生まれ落ちていないから先を示す運命が天より与えられておらず、それでふわふわと現世を漂っていた。だからこそ生まれ落ちるために母体やそのエネルギーとするための霊を求めた…という仮説が成り立ちはしないだろうか?

幼体とはいえ神の言葉を理解しているのだから、一般的な人間と同じくらいの知性・意識はあるようだし、そういう意識のある霊にとって苦しみもなければ楽しみもない今の状態はやはり嫌で、それで生まれたいという願望が出て来るのかなと(当たっている・外れているは別として)ひとまず以上の仮説を立てておこうと思う。

 

※1:十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸から成る。陰陽五行の木火土金水を表し、木の陽は甲(木の兄=きのえ)、木の陰は乙(木の弟=きのと)と表す。十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥から成り、十干十二支はこの二つを組み合わせたもので、暦や物事の順序をつける時に用いられた。

 

悟りなき家、導かれし空亡

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

先ほど物語の前半・後半が対比的な描かれ方をしていると述べたが、これは別にややこしい感じの対比ではなく、「受胎告知の家」における天使様は何の進展もないまま夜宵たちによって駆逐された一方で、空亡は神と出会ったことで今まで以上に他の霊を吸収し、より強い霊体へと進化しているという、成長しない霊と成長した霊の対比だ。どちらも同じ赤子の霊でありながらその結末は真逆となったが、この両者の違いを生んだのは「悟り」と「導き」でありそれが今回のキーワードだと私は思った。

 

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前回は天使様の儀式を分析し、儀式が成就しない理由についても考察してみたが、結局儀式自体に欠陥があったのか、それとも近親相姦の末生まれた胎児を利用したから成功しないのか、それすらあの父娘の霊はわかっていないし、間違っていたとしても正しい方向へ導く者がいないから、何事も成就しない無間地獄の家となってしまったのだ。

父親の霊は天使様が単なる化け物であって救いの神にはならないと悟ってはいたものの、そもそも発端となる妻の死は彼自身が引き起こしたものであり、その時点で父親は家長から奴隷に成り下がり、魔女と化した娘の言いなりになるしかなかったという、そこもまたこの家の絶望の一つと言えるだろう。本当は妻の遺族らによるバッシングがあった時点で娘を施設か知り合いに預けて、最低限あの家にいさせないようにする方策をとるべきだったし、その判断が遅れたのが一番の過ちだったかなと思う。(それが出来ない事情があったのならホントに気の毒としか言えないのだけど)

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

だから夜宵と詠子がこの家に来なければ、あの父娘はずーっと肥大化するだけの赤子の霊を飼い続けることになっただろうし、夜宵が無限ループ状態だった「受胎告知の家」を駆逐し、導き手として父親の霊の処遇を決めたことで、この家の時間はやっと進展するようになったという訳である。本来ならあの父親の霊は大量殺人を犯したのだから地獄に落ちれば永遠に近い責め苦を味わうことになっていたと思うが、それを家に留まって罪と向き合うだけで済んでいるのだから、処遇としては破格だよね。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

そして空亡の方は言うまでもなく神との出会いがある種の「導き」となって己の成長と強化につながったが、神自身はこれを興味本位というか一種の野次馬的好奇心接触をして強くなるための忠告をしているのだから、そこが西洋の一神教の世界観とは違うと感じる部分だ。あいにく中国の神様はそこまで詳しくないけど、日本神話の神様なんか結構無茶苦茶なことしてるよ。例えば、スサノオなんて神殿にウンコをするわ、機織りの部屋に皮をはいだ血まみれの馬を放り込むわと、今風に言うなら炎上騒ぎをやらかしてアマテラスにブチ切れられたエピソード※2があるからね。だからこの神の身勝手さ・自分本位さも東洋の多神教の世界観では別におかしい話ではないし、そこが東洋と西洋の宗教観の違いにつながると私は考えているのだ。

 

西洋のキリスト教イスラム教といった一神教の世界は、人は当然ながら神にはなれないので神の教えに沿って生活し、死後の審判で神のいる世界か或いは地獄へ落ちるというのが大まかな流れである。要は「神によって我々人類が導かれる」というのが西洋の宗教のイメージなのだけど、それに対して東洋の仏教や神道は人は神仏になれるという考えが当たり前だし、特に初期仏教では自分で悟りを開くことを重視している。悟りを開くためにはこの世の悩み・苦しみの原因は何かを突き詰めて考えないといけないし、それをどう対処すれば仏のような穏やかな境地に至れるのか、そこも追求していかないといけない。

その点キリスト教は「人は生まれながらに罪を抱えている(原罪)」という観念があるから仏教における四苦八苦といった具体的な悩み・苦しみの原因や対処法みたいなことは教えとして記されてはいない。仏教は今生きている人生を重視しているという感じで、キリスト教イスラム教は死後の世界に目標を置いて今を生きていると言えば良いだろうか?だから私は西洋の宗教は「導き」を、東洋の宗教は「悟り」を重視しているというイメージがあるのだ。

 

ただ一応言っておくが、これはどっちが宗教として優れているか・劣っているかという問題ではないし、「悟り」を重視する仏教の方が意識が高いという訳ではない。西洋のキリスト教でも聖書を解釈する手続きの中で「ああ、神はこういうことを我々に示しているのか!」という悟りにつながる要素はあるし、仏教だって鎌倉時代辺りに浄土宗や時宗といった様々な宗派が生まれ、お経を唱えれば極楽浄土に行けるという「導き」をメインにした教えを布教している。

だから私に言わせれば宗教において「導き」と「悟り」は自転車の両輪みたいなものでどっちも必要だというのが正直な意見であり、その時代の世相や社会情勢によって宗教というものも変化する。戦争や疫病・飢饉が蔓延した時代なら明日死ぬかもしれないのに悠長に悟りなんて開けないから「導き」が重視されるし、反対に世情が安定してくると人々は「悟り」を求める。そうやって宗教は一見昔から変わっていないように見えて実は流動的に変化していたのである。

 

※2:天岩戸 - Wikipedia

 

さいごに

これにて「受胎告知の家」の感想・解説を終えるが、このパートは本来おめでたいはずの生命の誕生をグロテスクかつ陰惨に描いたホラーとして優れているのは間違いないし、宗教が抱える問題を浮き彫りにする話としても興味深いパートだったと思う。あの娘の霊のように、宗教における「導き」を妄信するがあまり、非人道的行為に走るというのは現実でもよくある話で、例えばイスラム教をベースとした過激派組織が自爆テロを起こした事件が過去にはあった。私たちはどんな宗教でも生命は等しく尊いものだという教えがあって、積極的に自殺・殺生をすることを禁じていると思い込みがちだけど、実際歴史を紐解いていけばキリスト教は聖地エルサレム奪還のために「十字軍」という組織を作り、日本では戦国時代に石山本願寺僧兵を従えて武装蜂起していたのだから、宗教は結構暴力的な面もあるし、宗教組織が積極的に人を殺していた時代があったことは絶対に忘れてはならない。

 

それから、前回の儀式の下りで胎児を殺す様を見た大多数の人は「あの娘は狂っている、人の命を道具として扱っている」といった印象や感想を抱いただろうが、実は宗教において「自分の命は自分のもの」という考えが必ずしも当たり前ではなく、イスラムやキリストでは神が人間を作り出したのだから「人の命は全て神のもの」という思想が一部の過激派では常識であった。つまりそういった過激な思想を抱く人にとって生きるか死ぬかというのはさほど問題ではなく、魂が神のいる世界へ行くか地獄へ落ちるかという点を気にする。だからこそ平気で自爆テロを起こせるし人を殺せる。狂気と思える言動の裏には、こういった私たちとの根本的な思想の断絶があるのだ。

あの娘にしても、魂が楽園へ導かれるという妄信があったからこそ平気で胎児を殺せたのだと思うし、肉体は器に過ぎないと思っていたから生き死にというものに無頓着だったと考えれば、狂気とはいえそこに彼女なりの理論があったと考えるべきだろうか。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

「思想の断絶」と言えば、そもそも夜宵と螢太朗との出会いも、今思えば断絶した状況から始まった訳だが、螢太朗が夜宵の目的と手段を理解し、利他(夜宵・詠子・愛依のため)と利己(自分の呪いを解くため)の両面から判断して協力関係に至っている。これ自体は別におかしいとか間違っているとは思わないけど、霊魂を捕縛して手駒として利用するというのは、やはり人間のやる行いというよりは神や仏の領域に属するもので、本当ならばどこかで破綻が生じたり失敗するはずだけど、それがないのは夜宵が悟りを開いた仏として螢太朗や詠子たちを導く存在として常にいるからであって、だからこそブレないし生きた人間も死霊も導けるのだと私は思っている。

16話の感想記事では体癖論の観点から夜宵が闘争本能の持ち主であることを指摘したが、単に闘争本能があるだけでは動きに迷いが生まれると思う。迷いがないのはある種の悟り、すなわち空亡を倒し母の魂を取り戻す以外には真に穏やかな仏の境地へは至れないという確固たる信念があるからで、それが動きとしてのキレにも出ているし台詞にも反映されている。今シーズンではアニメ化されないけど、原作では夜宵のハードボイルド小説ばりのカッコイイ台詞がこの後の物語で飛び出してくるので、その場面もいつかアニメで見てみたいな~。

 

次回は新たなSランクの心霊スポットへ三人は向かうことに。その前準備として例によって卒業生の回収をするが、今度の卒業生は「花魁」。それも「大僧正」と同様こちら側に歯向かって来るタイプの悪霊らしいので、また一波乱あるのは言うに及ばず。