タリホーです。

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施餓鬼とは「飢えを拾う」ことかもしれない【ダークギャザリング #22】

脳がスポンジ状になるって、確か狂牛病の症状だったような…と思って調べたらプリオンというものがあるみたい。そう考えるとあの悪霊もなかなか高度でレアな霊障を引き起こす存在ですよね。(怖さを緩和するための豆知識です)

 

「旧I水門 / 炎の廓」

前回、前々回にわたって繰り広げられた旧I水門戦も今回でクライマックス。「花魁」の第三の呪い「炎上楼閣」から少年霊との対決の決着、そして「花魁」の再封印のためH城址の霊改め「千魂華厳自刃童子(以下「童子」と呼ぶ)の召喚、決着後に立ち寄った警察署内でのとある惨劇…という感じで今回は色々と見所というか注目ポイントがいくつもあるが、まずは「炎上楼閣」の元ネタとなった吉原遊廓での火災について言及しよう。

 

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吉原遊廓での火災についてはこちら(↑)の記事で詳しく紹介されているが、単に天災として起こった火災だけでなく、楼主からの虐待・折檻に耐えかねた遊女たちによる放火も何件かはあったそうだ。本来なら放火は死刑に相当する大罪であるが、遊女たちの境遇には当時の江戸幕府もある程度理解はあったようで、流罪・幽閉に減刑している。

 

tanken.com

そして有名な映画「吉原炎上」の火災は1911年に起きた吉原火災が元となっている。昼間起こった火災のため死者は8人と少数で済んだものの遊郭は完全に壊滅。1866年から吉原遊廓は度重なる火災で徐々に衰退の一途をたどり、1957年の売春防止法によって完全に遊廓としての歴史を終えた。この歴史自体はアニメ本編とは関係がないけど、一応小ネタ・豆知識として頭の片隅に入れてもらえたら幸いである。

 

真に心が欲するものがわからないと、飢えは満たされない

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

旧I水門戦における少年霊と「花魁」にはいくつか共通項がある。一つは女性が原因でどん底の人生を辿った二人であること。そしてもう一つはこの世の幸福を味わう前に閉ざされた環境下で亡くなった二人であることだ。「花魁」は最高級クラスの花魁として上りつめた時期があるとはいえ、それは遊廓という限定的な世界におけるかりそめの幸せであり、廓の外における一般社会の幸福というものは享受していないのだから、その点は少年霊と同じだと言えるだろう。

そして何よりも両者に共通するのは「飢え」である。少年霊の方はそれが明確に描かれているのに対し、「花魁」の方には飢えなんて無いのでは?と思う方もいるだろうが、個人的に美に執着するというのも一種の飢えではないかと思っていて、そこにこだわって相手の命をすすり取るというのも餓鬼道に堕ちた霊の行動だと考えられるのだ。

 

あとこれもあくまで私が見ていて思ったことだけど、両者の飢えが満たされないのは両者とも自分が本当に必要なものが何なのかわかっていない、或いは気付いていないからではないだろうか?

少年霊の場合は物理的に飢えた状態で殺されたから、直接的な飢餓状態であったのは勿論のこと、そこには継母を殺してその肉を喰らうという復讐の意図もあり、それが達成されていないから飢えが続いているというのが一番の理由かもしれないが、私としてはあの少年に一番必要なのは父親からの赦しなのではないだろうかと思っている。彼が今も苦しんでいるのは最愛の父親の肉を知らずに喰らってしまった。つまり間接的に父親を殺したという罪に喘ぎ苦しんでいるのであって、そんな彼には父親からの赦しが一番の救いになるのではないだろうか。

しかし実際はこの物語において父親の姿は全くと言って良いほど現れない。単純に父親は成仏してしまったのか、それとも殺された時のショックと怒りで父親の霊との波長が合わなくて見えない状態になっているのかそれはわからないけど、少年の飢えの原因は単なる空腹ではなく心の飢えも関係していることは多分間違いない。

 

そしてこれは「花魁」にも当てはまることであり、彼女が自身の美貌に執着するのはそれによって金や地位・愛情といった現世でのあらゆる幸福を得られると妄信しているからだろう。自分をハメた新造の遊女・紅に対する復讐は達成しているものの、霊として現世に留まっていたのは、苦界から抜け出し新天地で本当の幸福が待っていると思った矢先にハメられ転落したことに対する未練があったからであり、身請けされていたら一般社会の「真の幸福」に浸れていたという思いがここまでの悪霊へと変えたのだ。

 

…でもね、私に言わせてみればその身請けも結局は「かりそめの幸福」だったのではないかな~?と思うんだよね。

弟切の代わりに紅が同じ男性から身請けを持ち掛けられたというのは本編で言及されていたけど、ここからわかるように結局あの伊藤という若旦那(どこかの大店の若旦那かな?)の身請け話は「これだけの最高級ランクの遊女を身請けしてもぐらつかないほどうちの家は資金力がありますよ!」という周囲への宣伝目的と、キレイな女を毎日そばに置いておきたいという下衆な性的欲求から来るものであって、別に弟切のことを特別愛していたとかではないのだ。※1あの「花魁」が執着する美貌というのは弟切本人にとっては唯一無二のものかもしれないが、あの男にとって美は代替可能なものであり、そこに気づいていたら「花魁」も今こうして悪霊となることなくあの世に行けたと思う。まぁ、ハメられたショックが大き過ぎるがゆえにその悟りを開けないという理由もあるだろうから、一概に彼女の愚かさを責めるのも違うのだけど。

 

ともかく、この少年霊と「花魁」の背景を深読みすると、自分の心が本当に欲しているものを掴めなければ、私たちだってこの二人の霊のように餓鬼道に堕ちてしまう、という結論に至った。これに関しては実際私も思い当たる経験が過去にあって、それは私が一人暮らしをしていた時の話になるのだけど、当時仕事のストレスを一人で抱え込んでいた私は、同僚とか両親といった愚痴る相手もおらず「とにかくスッキリしたい!」という感情があったのかな、炭酸飲料をやたらと飲んでいた。物理的にシュワっとするものを飲んで気を紛らわそうとしたのだろうけど、それが原因で虫歯になって歯医者さんに通う羽目になった。今は実家に帰っており、炭酸飲料も以前に比べるとほとんど飲まなくなったのだけど、やはり自分が真に欲しているものが手に入らないと代わりのもので満たそうとする。その結果ある種の中毒になったり、餓鬼の如く際限なく対象をむさぼるような境地に陥ってしまうと気付いた次第である。

 

※1:身請けされてそのまま一般社会に馴染んだ遊女もいるが、中には離縁されてまた遊廓へと戻った人もいたらしい。十代から遊廓で働かされた女性は炊事・洗濯・掃除・裁縫といった家事をほとんど経験していないため、それが原因で身請け先の家に馴染めなかったというケースもある。

 

餓鬼の呪いと「千魂華厳自刃童子」(何故彼女は「飢え」の世界に堕ちなかったのか?)

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

「花魁」の再封印のために今回H城址の「童子」が召喚されたが、夜宵たちと友好的な上に味方を巻き込まない攻撃手段を持っている彼女もまた、この旧I水門戦における「飢え」と実は関係している霊だ。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

11・12話のH城址戦を思い出してもらいたい。なり代わり陣営によって仕込まれた呪物によって悪霊化していた「童子」のドーム状の霊体は、上の画像を見れば一目瞭然、首の無い餓鬼の姿をしていることがわかる。つまり、「童子」は夜宵たちが訪れた時には飢えの苦しみを無理やり植え付けられていたのだ。そのため本来の目的――自分たちが戦乱に巻き込まれて死んだ者であることを後世の人々に伝える――とは真逆の殺りくを行う結果になったということは、原作ならびにアニメを追ってきた皆さんなら既にご存じの通りである。

 

童子」も望まぬ形とはいえ飢えを経験した者であり、その「童子」が今飢えの真っただ中にいる「花魁」の再封印を助太刀するというのは、物語として実に気の利いた演出だと思うし、この二体の霊を比較すれば何故「童子」が餓鬼道に堕ちなかったのかもわかってくる。

H城址で亡くなった人々も「花魁」と同様社会の動乱の犠牲になった者であり、未来を奪われた者である。しかし彼女たちが餓鬼にならなかったのは、飢えで死んだのではなく自刃という自らの意志で亡くなったというのも勿論理由の一つにはあると思うが、自分たちにあったかもしれない希望ある未来に執着するのではなく、未来に対する執着や飢餓的感情を一種の「使命」として昇華したからではないだろうか?「童子」は、自分たちの悲劇を後世に伝えるという使命を背負ったことで、「生きたかった」「幸せに暮らしたかった」という叶いもしない欲求・願望に溺れることなく悪霊化を免れたというのが私なりに分析した結果である。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

さて、「童子」が飢えの世界に堕ちなかった理由を分析すると、少年霊や「花魁」、そして私たちが満たされない飢餓的感情を抱いてしまう理由も何となくわかるような気がする。私たちの心の飢えは、自分にこだわっているからこその飢えであり、誰かにその飢えの苦しみを伝え拾ってもらうことによって、その飢えは和らぐのではないかと思うのだ。自分の苦しみを拾ってもらうというのは、このH城址の「童子」のように自分の分身・分霊を誰かに委ねるということでもあり、それこそが自己開示(自分の内面を他者にさらけ出す)なのである。

まぁ、少年霊も「花魁」も夜宵たちに自己開示は一応してはいるけれど、それ自体が目的ではないのでそれが目的になったら飢えの感情は緩和されそうなんだけどな~。

 

少年霊、修羅の道へ

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

お互いの命を喰らい合う戦いは、手段の多さで「花魁」側の勝利となり、少年霊は夜宵の戦力として捕獲されたが、今回少年霊を収めたぬいぐるみはライオンである。このぬいぐるみについての解釈は旧Fトンネルの時のサルのぬいぐるみに比べるとまだ簡単で、ライオンと言えば親が子供を千尋の谷に突き落とすという例の話が有名だ。実際のライオンは別に子供を谷に突き落として這い上がって来た強い個体を育てる、なんてことはしないが、オスのライオンは自分がボスになった時、自分の遺伝子を残す目的で先代ボスの子ライオンを殺す習性があるようで、そういう意味ではライオンは子殺しの象徴と言えるかもしれない。

 

ちなみに、「花魁」が収容されているぬいぐるみはキツネで、これは女狐という芸娼妓の蔑称からのアイデアだろう。あのキツネのぬいぐるみは赤い前掛けをしていたが、これも遊廓で働く女性従業員を指す「赤前垂(あかまえだれ)がモチーフになっていると考えられる。

 

それはさておき、旧旧Fトンネルの霊は「捕縛」という印象だったのに対し、今回の少年霊の捕獲には夜宵なりの慈悲が込められているのは明確で、彼が無差別に人々を殺したことは間違いないのだけど、そこに至るまでの背景に情状酌量の余地があるため夜宵は少年霊を餓鬼道から修羅の道へと導くことに決めた。

一般的に仏教の世界観では親より先に死んだ子供は賽の河原での石積みの修行を経て地蔵菩薩によって新しい命として転生するというのが定石なのだが、この少年霊の場合は余りにも業が深いため、単に成仏させて解決出来る存在ではないし、それゆえ夜宵は彼を修羅の世界へと導いたのではないだろうか。やっていること自体はこれまでと同じで「強い霊を捕獲して手駒にする」という行為なのだけど、単に手駒として利用するというだけでなく、彼女なりに救いの道へと誘っていることは感じられる。

 

Ⓒ近藤憲一/集英社・ダークギャザリング製作委員会

それに少年霊が修羅の道へと進むのは、ある意味彼自身が既にその姿で自分の運命を物語っていたとわかる描写がある。戦闘時、彼は鎧のように身を固め、通常の腕に加えてロボットのような四本の腕を突き出した姿に変化したけど、この姿は奈良の興福寺が所有する国宝・阿修羅像※2を彷彿とさせる。

戦闘の神である阿修羅の姿をした少年霊を修羅の道へと導くというのは、夜宵なりの施餓鬼であると同時に、魂をあるべき世界へと導いたということであり、この修羅の世界で少年霊は世に災いをもたらす霊を喰らい、その徳を積むことでようやく人間界に転生出来るのではないだろうか?

 

※2:阿修羅 - Wikipedia

 

さいごに

ということで旧I水門戦もこれにて終結。この戦いのまとめを最後にしておくが、20話から一貫してこの戦いは餓鬼道の戦いだったなというのが私の総括である。

そして「飢え」をテーマに色々と語ってみて思うのは、前の旧Fトンネル戦がある種エンタメとして線引きが出来る類のものだったのに対し、今回の戦いは舞台となった赤水門のように、フィクションとして線引きは出来るけど実は作中で描かれたことは私たちの現実世界と地続きであって、それだけに今回の深読み考察には真摯に向き合わないといけないと思ったのである。

 

花魁と呼ばれる人はいなくなったものの性風俗は未だに現実社会にあるし、大阪の飛田新地・兵庫のかんなみ新地には「ちょんの間」※3と呼ばれる違法風俗の色街がある(かんなみ新地の方は一昨年の一斉摘発で閉店したそうだけど)。前回の感想記事で触れた「鬼追い」という用語は廃れたけど、堕胎や中絶がなくなった訳ではないし、虐待も広い意味では「鬼追い」にカテゴライズ出来る。私たちの社会は過去の悪習を廃絶したように振る舞っているけど、実際は門(境界)を作って見えなくしただけであって、社会の流れ自体は変わっていない所も大いにある。それを無視してこの世界を読み解くことは出来ないし、そこを描いているからこそ「ダークギャザリング」は上質なホラーとして成立しているのだ。

 

現実社会とリンクした背景描写がこの旧I水門戦の特色ではあるが、一方で文芸的な面から見ても面白いと感じる部分はあって、それが少年霊のあの壮絶な生前の虐待から読み取れる。彼の境遇を知った時に思い出したのが、古代ギリシャの悲劇オイディプス王である。

ja.wikipedia.org

オイディプス王の悲劇についてはWikipediaの記事で詳しく記されているが、要は自分が意図せずに実の父親を殺害し、実の母親と姦通してしまう罪を描いた物語だ。今回の少年霊も実の父親から作られた肉団子だと知らずにそれを食べてしまったという無自覚の罪を描いた話だし、そこがオイディプス王の物語と共通しているなと思ったのだ。

オイディプス王は自分の罪を知って狂乱した結果、自分の両目を潰して盲目になるというオチになるのだけど、ここも今回の少年霊と関連していると思う部分で、少年霊は盲目ではないけど全ての人が継母に見えてしまうという点では一種の盲目だと解釈出来るし、オイディプス王は盲目になった後に娘のアンティゴネーの付き添いのもと諸国を旅するという後日談があるが、このアンティゴネーに相当するのが他ならぬ寶月夜宵だと考えれば、「今回の物語のプロットはギリシャ悲劇的」だと評価することだって出来るのだ。

 

※3:「ちょんの間」はあの有名なゲーム「龍が如く7」にも登場する。(↓)

「春日一番」のどこがすごいのか?【09】精神科医が分析する「龍が如く7」 - YouTube

 

さて、長くなったが以上で今回の感想・解説は終わり。次回は新たな「なり代わり」の登場と学校での事件…という感じで、また毛色の異なる恐怖が現れる予感。