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ゲゲゲの鬼太郎(2期)第42話「死神と貧乏神」視聴

1期や2期の予告の「次回ゲゲゲの鬼太郎、〇〇(サブタイトル)にご期待ください!」っていうフレーズが何気に好きなのだ。

 

「死神と貧乏神」

今回は2期で放送されたエピソードについて語っていくが、まず2期全体の特色について言っておかなければならない。2期が放送された当時は1期で鬼太郎のエピソードの大半を使ってしまったことにより、原作のストックが枯渇状態だった。そのため同じ水木先生の短編漫画を鬼太郎のエピソードとして改変しアニメ化したのだが、鬼太郎が登場しない短編だけあって、その内容は本来の原作鬼太郎には希薄だった風刺性や怪奇性が反映されており、他期にはない独特な味わいのあるエピソードが多いのが2期の特色である。

2期で映像化された鬼太郎未登場の短編は、「死人つき」「妖怪屋敷」「足跡の怪」といった怪奇色の強いホラーもあれば、「猫又の恋」「アンコールワットの女」「南からの招き」「イースター島奇談」「雨神ユムチャック」などの海外を舞台にした異国情緒あふれる作品もある。また、「マンモスフラワー」「妖怪自動車」「縁切り虫」「幸福という名の怪物」「心配屋」「原始さん」「地相眼」などは現代社会を風刺した作品群として、子供よりもむしろ大人向けのエピソードとして印象深いものが多い。これらは原作ストックがなかった結果映像化されたに過ぎないものとはいえ、それが水木作品のバリエーションの豊かさを世に知らしめる結果となり、一部のエピソードはトラウマレベルのものとして今でもファンの間で語り草になっているほどだ。6期の脚本もこういった2期の多様な物語を意識して書かれたと思われる。

 

今回の「死神と貧乏神」の原作も、鬼太郎が登場しない「サラリーマン死神」シリーズの中の一編「枯れ葉」を映像化したもの。原作ゲゲゲの鬼太郎における死神は鬼太郎を騙してその霊魂を奪い取ろうとする悪い神さまとして描かれているが、「サラリーマン死神」における死神は魂回収のノルマを課された下っ端社員のような形で描かれている。そのためアニメでも初登場の段階では強敵として描かれていたが、その次に登場した「死神とサトリ」の回では強敵という感じはすっかりなくなって、別の妖怪や神さまと手を組んで魂回収を目論む小悪党として描かれるようになった。

そんな訳で2期の後半は鬼太郎対死神というちょっとした縦軸が生じており、これは3期以降のぬらりひょんを宿敵に置いたプロットのプロトタイプになったのではないかと私は考えている。敵だけど、どこか憎めない死神の性格は後のぬらりひょんと朱の盆の名コンビにも通じる部分があるし、そういう点でも2期が3期以降の鬼太郎アニメに与えた影響は大きいと思っている。

 

70年代、高度経済成長期の光と闇

元々の原作「枯れ葉」は死神が主人公なので、当然鬼太郎を主人公としたアニメ版とはテイストが異なっている。原作の方は読んだ記憶があやふやなのでアニメの方だけの話になってしまうが、今回のストーリーは死神と貧乏神が手を組んで一企業を倒産させ、貧乏人と自殺者を生み出そうとしたという、ざっくりまとめるとそんな感じの物語だ。本来は死神が主人公の物語なので最後の「おらぁ何て不幸な男なんだ」という死神の一言からノルマに苦しめられる男の悲哀が読み取れるのだろうが、アニメは鬼太郎を主人公にしているため、今回のエピソードだけを見ると自業自得というか「何お前被害者面してるんだよ!」と思った人の方が多いんじゃないかな?

 

それはさておき、このエピソードは放送当時の1970年代の世相、つまりは高度経済成長期の光と闇を端的に描いた話だなと私は見て思った。1970年代と言えば、まず真っ先に思いつくのが有名な大阪万博である。世界77ヶ国のパビリオンが集まり、「人類の進歩と調和」をテーマにした様々な展示物が当時の人々を感動させ、当時の最先端技術を集めたこの博覧会は、未来への希望を我々国民に与えたと言えるだろう。

そういった文明・技術の進歩による生活様式の変化を代表するのが自家用自動車であり、今回の物語でもゆりかごから墓場までという近未来型の万能自動車が登場している。赤ちゃんを育てるゆりかごにもなれば、子供の勉強机にもなったりベッドにもなる。当然自家用車としても使えるという正に近未来の、新たな生活スタイルを提供するような夢のアイテムだ。

 

しかし、70年代はそんな未来への希望や夢の裏で様々な社会問題も生まれている。公害による環境汚染、自動車の増加に伴う交通事故による死者の増加、そして資本家と労働者の間に生じた労働争議などは2期の鬼太郎でも描かれた社会問題だ。

今回の場合だと「ゆりかごから墓場まで」には死体を収める棺桶の役割だけでなく死体を燃やす火葬場、その骨を収める骨壺の機能も搭載されているというのだから、近未来の効率化した社会が生み出す不気味さというか、人が人として丁重に埋葬されず「処理」に近い形で葬られるような怖さが反映されていたと思う。車という新たな文明の道具が交通事故という新たな死を生み出したという点から見ても、今回の物語には当時の社会に対する強烈な皮肉が込められているとさえ感じるのだ。

 

便利さ・豊かさの裏でそのしわ寄せを喰らって事故で亡くなる人や、今まで以上に労働をしないといけなくなった人が増えたというのが高度経済成長の闇の部分なのだが、これは資本主義国家ならではの問題で、今回の話でも先代の後を継いだ資本家の若社長と専務・労働者の間には大きな溝があったし、実際に1970年代はストライキを伴う労働争議が活発な時期だったそうである。

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流石に劇中のような世間知らずの社長はいなかったかもしれないが、オイルショック後の不況による人員整理(リストラ)に対して「首切り反対」の声をあげた労働者が大勢いたことは確かなようで、1974年にストライキの件数がピークを迎えたそうだ。

労働者と資本家との間に溝が生じたのは、やはり資本家が労働者ではなく経済や未来に対する投資ばかりに目を向けていたというのも原因ではないかと思っていて、今回の物語でも「ゆりかごから墓場まで」を一台製造するのに八千万もの大金がかかるとされていたが、この描写も見ようによっては現在の格差を是正せず、不確定な近未来にばかり投資する資本家の愚かさを描いているという解釈が出来ると思わないだろうか?

 

このように、「死神と貧乏神」には放送当時の日本の光と闇が反映されており、最後の若社長の自殺も、労働者の生活や人生をないがしろにして現実を直視しなかった報いを受けたと(辛辣な言い方になるけど)いう解釈が下せる。ただ、これを読んでる皆さんに言いたいのは、今回のお話は70年代の過去だけではなく現代にも通じる物語であるということだ。

思い返せば、この間の二度目の東京オリンピックに続くように2025年に大阪でまた万博を開催するという計画が進められているが、それが私には悪い意味で60年代・70年代を再来させようとしているように思えてならないし、政治も経済も今現在の問題を是正せず5年後10年後に所得が増えて豊かになるだとか、先のことばかりに私たちの意識を誘導しているような気がしてならない。そうやって今を我慢し乗り越えたらこの先には豊かな未来があるという幻想にまたしても我々国民が引っかかってしまうのか。その先に待っているのは死神と貧乏神だということに気づけるのか。この物語はそれを今の我々に問いかけているように思った次第である。