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嫉妬!シャウト!葛藤!「シリーズ横溝正史短編集Ⅲ」視聴

昨日放送された「シリーズ横溝正史短編集」、どうでしたか?

もう既にTwitterの方で触れたけど、昨日は関東ローカルで金田一少年の事件簿(4代目・山田涼介版)が再放送されており、(他局とはいえ)奇しくも孫とジッチャンの両方の作品を味わえる特別な日だったのだけど、関西圏に住む私は恩恵に与ることなく少年の方は配信で視聴することとなった。

金田一少年の方も一挙配信されるようなので、後日ドラマの金田一少年についても感想を書いていこうと思うが、とりあえず今回ジッチャンの方の金田一について、私見をまじえながら感想を述べていきたい。

 

(以下原作のネタバレあり。「女の決闘」に関しては、アガサ・クリスティの作品についても言及する)

 

女の決闘(クリスティ好きとしてどう見たか)

支那扇の女 (角川文庫)

最初は『支那扇の女』所収の「女の決闘」。1957年に「婦人公論」に掲載された短編で、婦人向けの雑誌ということもあってか、ドギツい死体や残酷描写はなく、比較的マイルドな仕上がりになっていると、最初読んだ時思った。

横溝作品特有の猟奇趣味や複雑なトリックがなかったこともあって、淡白に感じてしまうきらいはあるが、アガサ・クリスティ作品を愛読する私としては、この「女の決闘」は横溝作品の中でかなりクリスティらしい作品であると思った。

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まず作中で描かれる三角関係はクリスティの代表作『ナイルに死す』や短編「砂に書かれた三角形」で見られるテーマだし、毒殺に用いられたストリキニーネは処女作『スタイルズ荘の怪事件』でも使われている。藤本哲也のキャラクター像や、2回目のパーティーで前の事件の客を集める構成などは『忘られぬ死』にもあったから、これだけクリスティ作品の諸要素を集めた物語は、横溝作品の中では恐らくこれくらいではないだろうか(全作読んでないので確証はないけど)。

 

で、この「女の決闘」でもクリスティ作品同様人間関係の欺瞞が作中でトリックとして利用されており、それが明らかになってようやく金田一は犯人とその動機を明らかにするのだけど、実はクリスティ作品を読んでいればこの隠された人間関係を知らなくとも犯人が誰かという点だけは察しがつくのだ

最初の事件では多美子のソフトクリームにストリキニーネが混入されており、それで危うく夫人は死にかけたが、ここで言っておかなければならないのは、ストリキニーネは強い苦みのある毒物なのだ。これはクリスティの『スタイルズ荘の怪事件』でもポワロが言っているし、寺沢大介氏の漫画「喰いタン」(1巻所収「毒入りティーも飲む」)でも言及されているから、まず間違いのない情報だろう。

つまり、そんな苦い毒物が甘いソフトクリームに入っていたら多美子が口にした段階で異常を感じて吐き出すか、或いは近くにいる泰子に言ったりするはずだ。なのに何も言わず口にしていたのだから、この段階で多美子は毒を盛られたのではなく自分で意図的に口にしたと推測がつくのだ。

『スタイルズ荘の怪事件』の初訳は1937年に日本公論社から刊行されているから、当然横溝先生は「女の決闘」を発表した時点で読んでいただろうしストリキニーネの苦さも情報として知っていたはずだ。だからソフトクリームに毒を混入するという物語上の展開はストリキニーネの苦さを知らずにやってしまった作者のミスではなくわざとやったこと、つまりはクリスティ読者なら一足飛びで真相に辿り着けるようサービス問題として設定したことではないだろうか?

 

「女の決闘」の演出は前回「貸しボート十三号」を担当した宇野丈良氏。作品自体クセがないので比較的穏当な出来だったと思うが、冒頭の多美子と泰子の描写が最初に見た時と真相を知ってから見た時とでは意味合いが異なるダブルミーニングの効果を挙げていたことは評価ポイントとして言っておかなければならないだろう。

 

蝙蝠と蛞蝓(躁うつ的関係とお化け屋敷的演出)

金田一耕助ファイル6 人面瘡 (角川文庫)

「蝙蝠と蛞蝓」は1947年に発表された金田一耕助シリーズ初の短編。金田一の視点からではなく常に不満を抱き神経質な面のある湯浅順平という男の視点で描かれる本作は、前回「犬神家の一族」を30分でやるという前代未聞の試みをした渋江修平氏が演出を担当している。

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渋江氏の演出は何かこう極彩色の絵巻物を見ているようだと毎回思うが、今回も放送された3編の中で最も色鮮やかで、けばけばしい内容であった。

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予告で見た時、金屏風をバックに湯浅がシャウトしていたが、一体これは何だろう、両隣にいる人々は原作にいたっけか?と思ったものだが、まさか湯浅の脳内会見・脳内インタビュワーだったとはね。原作を読んだ時の湯浅の不満が映像として表現されるとここまで爆発的なものになるとは、ちょっと予想出来なかった。

ただ今回の映像化で表現された湯浅が「蝙蝠と蛞蝓」を書いている時の爆発的な気分の高揚と、その後の鬱屈とした感じが蛞蝓女のお繁に共通しているのではないか?うつ状態なのはお繁だけでなく湯浅もそうだったのではないか?と新たな発見・見方が出来たことが個人的に面白かった。

演出といえば終盤金田一が湯浅と共に事件の謎解きをするが、この際事件関係者が電気仕掛けの人形となって何度も同じ動作を繰り返す様や室内の薄暗さなどが昔の見世物小屋だったり古い遊園地にあるお化け屋敷みたいでユニークだったが、そういった湯浅の脳内妄想だったり、お化け屋敷的演出の中に真実が紛れ込んでいるのがこの作品の特徴だ。お加代が血を受けバタリと倒れこむ場面があったが、この場面は「女の決闘」の冒頭部分と同様に演出のダブルミーニングとして作用していたことがよくわかるだろう。

 

女怪(人間としての金田一

悪魔の降誕祭 「金田一耕助」シリーズ (角川文庫)

最後は『悪魔の降誕祭』所収の「女怪」。時系列的には八つ墓村の事件を解決した直後の物語で、金田一の恋愛と悲劇的な結末が印象に残る作品だ。八つ墓村の事件も死者数とかその他諸々で苦労はしただろうが、金田一にとってはこの「女怪」の事件の方が精神的ダメージがキツかったであろう。

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金田一と虹子のダンスで物語は始まったが、最後の結末が結末なだけに、せめて最初は明るくいこうということだろうか。この後の清水ミチコさん演じる私(=横溝先生)との旅行場面を見ても、嵐の前の静けさとは違うが、微笑ましい展開が続くのでそれが一層この後の悲劇を強調することになっている。

既に原作を読んでいる人は承知だろうが、この作品は特に金田一人間性がよく現れた話で、「探偵」としてではなく一人の人間として、加害者よりも被害者に対してデスペレートな発言をしたり、絶望に打ちひしがれたりと感情が忙しい。市川崑監督がかつて金田一を天使として映像作品の中で描いたが、今回はそれと真逆の金田一として描かれていた。

演出は前回「華やかな野獣」を担当した佐藤佐吉氏。また、虹子を演じた芋生悠さんも「華やかな野獣」から引き続きこの横溝作品に関わっているが、化粧の違いがあるとはいえ前の時とは全然印象が違っており、言われなければ別人だと判断してしまっていた。男性から酷い目に遭わされるし、性的な描写もあったにも関わらず今回虹子としてこれ以上ない演技を見られたのは良かったし素晴らしかった。あの悲痛な叫びの所とか危うく泣きそうになったもの(原作読んでなかったら泣いてたかも)。

 

最後の場面の金田一と先生の抱擁も清水さんと池松さんの組み合わせだからこその味わいというか感動があったと思うが、(ちょっと話は反れて)金田一が懸垂をしていた所に隠喩めいたものを何故か私は感じた。というのも以前空耳アワー「can't sleep(眠れない)」が「懸垂」に聞こえる曲があって、

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(問題の曲は4:30秒以降から)

その連想で金田一が懸垂しているのを見て「これはこの先金田一が虹子のことを思って眠れない(can't sleep)状態になることを暗示しているのでは?」と、そんな解釈を下した。流石に無理があるかもしれないが、自分の中ではしっくり来ているので、あまり深く突っ込まないでね…ww。