どうも、タリホーです。今期放送中のアニメで海外でも話題になっている「ダンダダン」をレビューしようと思うのだが、まず先に本作のレビューが遅れた言い訳をしておきたい。
本当は初回から1話ずつ感想・解説をレビューしようと思っていたのだが、いざ原作を読み直したり本編を見ていると、今回のアニメは1話ずつのレビューがちょっと難しいと感じる理由がいくつも出て来た。
本作は幽霊や宇宙人といったオカルトをテーマにした作品であり、当然このジャンルは私の大好物かつ得意分野でもある。しかし私の専門はどちらかというと幽霊の方であって宇宙人に関してはほとんど門外漢なのだ。本作におけるセルポ星人やフラッドウッズ・モンスターといった宇宙人には、勿論元ネタとなる題材があるのだけど、その辺りの知識に疎いので、いざ初回をレビューしようとなった時にうまく感想がまとまらず、結局今の今までレビューを保留していたのである。別に単なる元ネタの宇宙人を紹介するだけの回もあって良いかな~とは思ったのだが、それは何と言えば良いだろうか、自分のブログの品質を落とすことになるし、ネットで調べたらわかることをわざわざこのブログでもう一度書くというのも気が引けた。
そして本作の特徴としてホラーだけでなくアクションやラブコメといった要素も含まれているが、バトルやラブコメ中心のエピソードとなると感想がはかどらないのだ。私は深読み・考察が好きな人間だし、そういうレビューを書く者としてはバトルが連続してくるとレビューすることも特になくなってくる。ラブコメ要素に関しても本編で描写されている以上のことを掘り下げて言及出来ないので、本作の場合は特に1話ずつレビューするのが(私にとって)困難なのだ。
以上の理由で「ダンダダン」は1話ずつレビューするよりも、ある程度「編」としてまとめてレビューを述べた方が良いかなと思ったので、ちょっと今回はイレギュラーな形で感想・解説をブログにアップしていく予定だ。やはり昨年「アンデッドガール・マーダーファルス」と「ダークギャザリング」でオカルトネタをみっちり解説して来たから、「ダンダダン」でそれ以下の味の薄い解説を公開するというのは、私のプライドが許さないのよ。
「内」の幽霊・「外」の宇宙人
©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会
本作は幽霊は信じるが宇宙人は信じないモモ(綾瀬桃)と宇宙人は信じるが幽霊は信じないオカルン(高倉健)の出会いから始まる。
オカルトを信じない人は幽霊も宇宙人もどちらも信じないが、この二人は片方は信じてもう片方は信じないというちょっと不思議な考え方をしている。その理由については初回で二人の生育環境が関係していると言及されているので改めて説明はしないが、幽霊と宇宙人、この二つはオカルトという大きな枠組みに入ってはいるものの、その質というかニュアンスは全く違っている。
基本的に幽霊は非物質的な存在で、写真やビデオなどに映ることはあってもほとんどは私たちの精神に影響を及ぼすものだ。一方宇宙人は物質的存在で、ミステリーサークルやUFOなど、現実世界に物理的に影響を及ぼしている。この両者の違いを大まかに説明するなら、幽霊は私たちの意識や精神世界に影響を及ぼし、宇宙人は私たちの肉体に物理的に影響を及ぼす、と言って良いのではないだろうか?
幽霊と宇宙人、この両者の違いは「内と外」という言葉でも表せられる。この「内と外」に関しては初回から4話にかけて一貫して描写されている重要なワードであり、モモの実家の神社ではお札による結界で外部からやってくる魔物(宇宙人も含む)を撃退する効果があったし、3話でモモの祖母・星子が説明した結界の使い方にしても護符釘を円の内側に打つか外側に打つかで効果が異なっている。どこを内と定め、どこを外とみなすかで術の効果も変わるというのは興味深いポイントだ。
この「内と外」という考えはモモとオカルンが幽霊・宇宙人を信じる動機にもつながっているのが本作の面白い所でもある。モモの場合は祖母の教えにより幼少期から「気」という目に見えないもの、非物質的なものを自分の力でコントロール出来るよう修練を積んでいた。それが外部の人間にいじめられる切っ掛けになったこともあったが、結果的に彼女が超能力を身に着ける上で必要な鍛錬になった訳であり、祖母に対する考えを見直すことにもつながったのだから、モモが幽霊を信じるのには霊媒師の血筋による部分もあるとはいえ、モモが精神的なもの、自分自身の内側を充実させることに重きを置いている人物だという読み取れるのだ。
その反面なのか、外部からの情報に対しては無頓着だな~と思っており、恋愛対象が高倉健だからと言って、その名前だけでトキメキを感じる始末だし、初回の冒頭で交際していた男が見た目が高倉健に似ていたという理由で付き合っていたことから見ても、外部の人間に対しては深く考えず、認識が甘くなってしまうのかな~と、そんなイメージを彼女に対して抱いたのである。
片や宇宙人を信じるオカルンは、長年のいじめから受ける苦しみによって「自分の友達はもう宇宙人しかいない」という考えを抱くようになったようで、親兄弟や身近な人ではなく、より外部的存在である宇宙人に救いを求めているというのが不思議だ。高校生の割には随分ファンタジックというか、現実的な救いの求め方でないと感じた。これに関してはオカルンの過去に関する情報が少ないので、あまり詳しく深掘りは出来ないのだが、自分の窮状について(自分自身は当然ながら)親も誰もその答えを持ち合わせていなかったからこそ、人類が未だ持っていない技術を持っている宇宙人に対して希望を見出したのかもしれない。しかし、宇宙人は彼が思っているような存在ではなく、彼の運命はむしろターボババアという怪異によって大きく動かされたというのが、皮肉というか何というか。
結局彼が求めていた救いは外部からの影響も当然あるにはあるのだけど、そのベースとなる正義感や自己犠牲をいとわない精神自体は元々彼が持っていたものであり、オカルンが求めていた答えは既に彼自身が持っているものの中にあった。ネタバレになるから詳しくは述べないけど、オカルンはこの物語を通して自分の内にあるものが大きく開花していくことになるのである。
©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会
以上をまとめると、本作「ダンダダン」でモモとオカルンは、怪異や宇宙人を通じてお互いこれまで向き合ってこなかった「内」と「外」に光を当てていき、それによって肉体・精神共に大きな成長を遂げる物語だと言えるのではないだろうか?
物語の始まりは王道のボーイミーツガール(或いはガールミーツボーイ?)的展開だけど、その奥には二人が今まで向き合っているようで向き合ってこなかったものが描かれているのかもしれない。モモは外向的なようで思考はどちらかと言うと内向的だったし、オカルンは内向的には見えるけど実はそれほど自分と向き合えてなかった(現実逃避していたと言った方が正確かな?)訳だから、二人の出会いはこれまで見ていなかった・見ようとしなかった面に向き合うことになる、大きな切っ掛けになったはずだ。
ババア系怪異の大国、日本
©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会
ターボババアはジェットババア、ジャンピングババアといった高速移動する老婆の怪異の一つとして数えられている。ターボババアは現代の怪異ではあるものの、高速で追いかけて来る老婆の怪異は古くからあって、有名な所だと「三枚のお札」や「牛方と山姥」という昔話に登場する山姥(ヤマンバ)や、安達ケ原の鬼婆などが当てはまるだろう。
こういった老婆の怪異は外国にも勿論いるにはいるが、やはりその数の圧倒的な多さは日本が一番だと私は思っている。では何故日本は海外よりもババア系の怪異が多いのか気にならないだろうか?
これにはいくつか理由が考えられるが、まず海外(特に西洋)では老婆の怪異は「魔女」がその地位を大きく占めているという理由だ。日本は魔女の概念自体がなかったため、ババサレやターボババア、四時ババアという名称で老婆の怪異が細分化されたが、海外だとそういった人間に危害を加える老婆の怪異は全て「魔女」の仕業と一括りにされてしまったため、日本に比べてババア系の怪異が少ないのだろう。特に日本は自然崇拝や多神教的な世界観の国なので、怪異が細分化されやすいのもこういった事情があるかもしれない。
あとババア系怪異を考える上で棄老伝説も忘れてはならないポイントだ。
「姥捨て山」という昔話を聞いたことがあるだろう。年老いて働けなくなった老人を山に捨てるという昔の仕来りを題材にした物語だが、本当に山に老人を捨てていたかどうかはともかく、鬼婆や山姥が山に潜んでいる怪異であることや、ターボババアをはじめとする高速移動する老婆の怪異が高速道路や山道に出没していることを考えると、ババア系怪異の誕生背景には棄老伝説が少なからず影響していると考えても良いのではないだろうか?
あとババア系怪異に限らず女性の怪異の誕生背景には男尊女卑的な社会情勢も影響しており、女性が言いたいことが言えない時代であったがゆえに、怪異がその代弁者として生まれたという説もある。本作のターボババアも男性のイチモツを狙う行動の裏には性犯罪の犠牲になった女性が深く関わっており、その犠牲者を慰めつつも、遊び半分でやってくる人間に呪いをかけていたのだから、怪異の誕生には多かれ少なかれ社会の闇が絡んでいるのだ。高速移動する老婆の怪異は、その目撃者が車やバイクに乗っていることがほとんどで、その点から考察するとターボババアは1950年代から70年代にかけて起こった交通戦争にも関係しているような気もする。交通事故の犠牲になるのは歩行中の子供や老人だったことから見ても、この社会的な問題を無視してターボババアは語れないと思うのだ。
このように、一見するとターボババアはふざけたような名称ゆえに子供や若者が考えた怪異だと思う人もいるだろうが、その実誕生の要因は複合的なものであって、棄老伝説や交通戦争といった当時の社会の暗部が関係していることを是非とも覚えておいてもらいたい。
カニと精進落とし
©龍幸伸/集英社・ダンダダン製作委員会
ターボババアとカニと化した地縛霊との戦いに決着がついた後、星子はモモとオカルンにカニ鍋を振る舞っている。あの戦いの後でカニ鍋とは不謹慎ではないか?と思った人もいるだろうが、星子がカニ鍋を振る舞ったのは別に不謹慎な理由ではなく、一種の精進落としとしてやったことではないか?と私は考えた。
「精進落とし」は葬式の後に列席者に振る舞う料理のことで、昔は四十九日の忌明けに精進料理から通常の食事に戻す時に精進落としが振る舞われたようだが、現在では火葬から帰って来た後に振る舞われることが多い。
火葬と言えば、カニと化した地縛霊も星子が仕掛けた結界の内側に入ったことで燃えてそのまま成仏したのだから、そう考えるとあれは一種の火葬であり、その後で精進落としが振る舞われたのも納得である。
「でも、精進落としなら別にカニである必要はないでしょ?」と思った人もいるだろうから、その疑問についても私なりの解釈を述べさせてもらうと、今回のターボババア&地縛霊との戦いは向こうが吹っ掛けて来た戦いではなく、オカルンが彼女らの領域に半ば遊び半分で入ったことが切っ掛けだったでしょ?地縛霊やターボババアを倒したのも言ってみればモモやオカルンの都合であって、別に地縛霊やターボババアをあの場所から解放するとか、そういう崇高な理由があった訳でもないから、結局のところ霊を殺したという以上でも以下でもない行為だったのだ。
モモやオカルンの立場から考えれば、それは自分の身を守るための殺生(死んでいる相手だから厳密には殺生とは言わないけど…)であり正当防衛と言えるのかもしれないが、それはあくまでも生きた人間の都合・屁理屈であって、本来ならモモやオカルンが呪いで死ぬことになっても、それは霊の領域を侵した報いなのだから文句は言えない立場なのだ。
基本的に自然界において、相手の領域を侵しその命を奪うのは、その命を喰らい自らの糧とするためである。そのために人間は他の生物を殺さざるを得ないのだ。食べることを目的としない殺しは無益な殺生であり、宗教的にはタブーとされる見方・考え方である。だからこそ星子は、地縛霊やターボババアを倒したことを単なる殺生としたくはなかった。彼女たちを倒したこと、彼女たちの命をモモとオカルンには「糧」として受け止めてもらい、彼女たちの分まで生きることを意識してもらうためにも、カニを精進落としとして出したのではないかと、そう私は考えたのである。
まぁカニを振る舞った動機の中には、星子たち他の霊能力者があのトンネルの地縛霊を対処出来ず心霊スポットとして放置していたのを、モモとオカルンが命がけで対処しあの場所を浄化させたのだから、それに対する感謝の意味合いも当然あったと考えて良いだろう。
ちなみに、今回以上のような考えに思い至ったのには、以前読んだ『羆嵐』というドキュメンタリー小説が元となっている。この小説は三毛別ヒグマ事件という1915年に実際に起こった獣害事件を題材にした小説なのだが、確か猟師によって殺されたヒグマはその後で鍋料理として振る舞われ、ヒグマによって家族を食い殺された被害者遺族もその肉を食べたと記されていたはずだ。実際の事件ではどうだったのかそこは不明だけど、たとえ人間を食い殺した狂暴なヒグマであっても、私たち人間が動物の領域を侵しその土地を開拓している以上、その血肉を無駄にしてはいけないという、狩猟を生業とする者の思想と自然界の厳しさが克明に描かれていた。興味のある方は是非読んでもらいたい。