先日の舞台「台風23号」で間宮さんの熱演を目にしたばかりで、まだその余韻が冷めぬなか、「劇場版ACMA : GAME アクマゲーム ~最後の鍵~」を観て来ましたよ!
今年の春頃に放送された連続ドラマの劇場版ということで、ドラマは以前当ブログでレビューしたように、過去の同ジャンルのドラマや映画と比べてもクオリティが低く、脚本も辻褄の合わない点が多すぎて本当にガッカリさせられる駄作だった。
ドラマの問題点については8話と最終回のレビューで詳しく言及しているので改めて述べないが、ドラマの出来が出来だっただけに今回鑑賞するにあたって出来るだけ期待せず、「こんなクソ脚本でも頑張って演じた出演者の努力の痕跡は拾ってあげないとな…」と、そんな感じの面持ちで映画館に行った。どんな駄作だろうと飲み込む覚悟はしていたんだよ?でもね…
意外と面白かった…!
シンプルに映画はドラマよりもスケールが大きい展開になっていたから、というのもあるけど、総合的に評価すると映画館で見るには全然問題ないクオリティだった。今年の初めに公開され間宮さんが出演していた「ある閉ざされた雪の山荘で」よりも退屈しなかったし、脚本に関してはダメな所は相変わらずダメなのだが、一方で結構感心させられた所もあって、思いのほか楽しめた。
まぁハードルを下げすぎていたっていうのもあるし、先々月鑑賞したクレヨンしんちゃんの映画が全然面白くなかったというのも多少は影響しているので、公平なレビューでないことだけは先に言っておくが、では本作の何が良くて何がダメだったのか。それをここからはネタバレありでレビューしていきたい。
(以下、映画本編に関するネタバレあり)
ゲームは相変わらずの改悪・低クオリティ
今回の映画はドラマの最終回の後のお話。グングニルのテロ計画を防ぎ組織を解体させた照朝たちは世界各国を飛び回り、悪魔の鍵の所有者(ホルダー)たちとアクマゲームで対戦を続け、世界に散らばった99本の鍵の回収をしていた。そして残るはカルト教団「アイギス教団」の黒田兄妹が所有する13本と、グングニルの残党で照朝の父を殺した崩心祷が持つ1本だけになった。
ということで今回の映画で照朝たちは黒田兄妹の兄・光輝と崩心、更に悪魔の鍵によって世界に戦乱をもたらした張本人である悪魔と戦うことになる。
まず本作の悪い所を先に言っておきたいと思うが、予想していた通り本作のメインとでも言うべきゲームは原作の劣化版・改悪版という感じのもので、ゲームだけを評価するならハッキリ言って見る価値はないと言って良いだろう。
本作で行われるゲームは「五文字戦闘」「落下真偽心眼」「冥王剣闘士」の3つ。最初の「五文字戦闘」は原作19巻のグングニル開催のトーナメント決勝戦で行われたゲーム「万中五選」の一つで、原作では照朝チーム対毛利チームによる4対4の団体戦だったが、映画では2対2とプレイヤーの数が減り、対戦相手も黒田光輝とその部下という映画オリジナルキャラのため、ゲーム展開も大幅にカット・改変されている。原作では照朝と毛利の騎士道精神とでも言うべきフェアで白熱した戦いが見所だったのだが、残念ながら今回の映画ではそういった原作の良さが活かされていない。というか、そもそもゲーム自体正味15分も経たずに終了して次の展開に移るので、映画全体で見ると前座・前哨戦的な扱いだ。
そして次の「落下真偽心眼」はドラマの初回で行われた「真偽心眼」のアレンジバージョンで、少しの衝撃で大爆発を起こすニトロが積まれた車を運転しながら相手が出題した問題の真偽を答えるという内容だ。
えーと、このゲームって爆発に気をつけながらカーブだらけの坂道を下るゲームなのに何故「落下」なの?と、それを言うなら「爆走真偽心眼」じゃないの?と、まずもうこの時点でツッコミが生じるのだが、肝心のゲーム展開もドラマみたいに相手の問いに隠された意図、その裏の裏を読み合うというドラマの初回ですらやっていた高度な頭脳プレイがなく、最終的な決着も崩心のチート過ぎる「悪魔の能力」によって決まるのだから、個人的には「落下真偽心眼」が今回の3つのゲームの中で一番酷い出来だったかな。ニトロを積んだ車という設定も緊迫感の演出のためにとって付けた感じが否めないし、本作のストーリーにおける意味合いから考えてみても、「崩心の悪魔の能力をお披露目するためだけに用意されたゲーム」という以上の意味はないので、前座の「五文字戦闘」よりも劣ったゲームを中盤の要にしたのはダメだなと思った。
そして最終戦「冥王剣闘士」は褒めたいポイントもあるが先にダメなポイントを挙げておくと実はこのゲーム、タイトルこそ映画オリジナルのように見えて実際のゲーム内容はドラマ4話の「百金争奪」とほぼ同じなのだ!
違っているのは駒が剣に変更され、その剣を持つ兵士が生身の人間(サブプレイヤー)になったこと、そのサブプレイヤーはゲームで死亡した場合、終了後も復活しないという点で、要するに原作の「百金争奪」をデスゲームにアレンジしただけなのだ。しかも相手を騙すために用いたトリックもほぼ原作(ドラマ)と同じなので、最終戦が焼き直しのゲームというのは観客(特にドラマ視聴勢)を舐めているのか?と思われても当然だろう。
邦画の悪い所が詰まっている
あとドラマの延長線上として制作されたこともあってか、やはり従来の邦画と同様の悪いクセが詰まっているのも本作の残念なポイントである。
具体的なドラマの映画化におけるダメな演出・展開というのは、
・特に活躍しないのにドラマにも出ていたキャラを出す
・強引にハッピーエンドにする
・エンドロール後に続編をにおわせる描写を盛り込む
というようなもので、本作でもダメな邦画あるあるが随所で見られる。本作の場合、ドラマ5話の「隠蔽看破」で照朝と対戦した紫が正に良い例で、序盤の「五文字戦闘」の際にプレイヤーとして潜夜と共に戦うのかと思いきや、何と潜夜が悪魔の能力で照朝を呼び出して交代させたのにはビックリしたよ。だったら今回の映画で紫が出た意味は?ってなるでしょ?それなら敵側にもう一人加えて、紫も含めた3対3の形式にすれば良かったのに、何かこういうキャラの雑な扱いが気に入らないんだよな。
キャラに関してもっと言うと本作ではドラマで登場しなかった悪魔が複数登場するのだが、原作に登場したシカの悪魔・セルヴォとクジラの悪魔・バレイアが出るのは原作読者に対するファンサービスになるからまだしも、映画オリジナルの悪魔・ヴァジラを出す必要はあったのか?と、ここも納得がいかない。
原作には他にゴリラやネコ、コアラの悪魔もいるのだから、それをCGとして映像化すれば良いのにそれをしなかったのは、ゴリラやネコ・コアラは毛並みとか造形とかが複雑でCGにしづらかったから、それでシンプルなデザインの悪魔をオリジナルで作ったのだろうかと、そんな推測をした。制作側には面白い試みだったのかもしれないが、「たかだか1分も登場しないのにオリジナル悪魔を用意された所で、別にね~…」って感じで、何か制作側の独りよがりさが否めなかった。
最後のハッピーエンドに関しては、この映画がエンタメ作品寄りなので後味を悪くしたくなかったからあのような結末にしたというのは一応理解出来るし、本作の試写会に10代の少年少女を呼んでいたことを見ても、あの結末が決してダメだと完全否定するつもりはない。
でも、正直私は犠牲者はそのまま犠牲者として終わった方が文芸作品としてもう1ランク上の作品になっていたと思えてならない。せっかく最終戦で彼らは覚悟をもってこの戦いの犠牲となり、残った人々もそれを代償にこの世界の秩序を回復したというのに、それが全てチャラになるというのは、何とも勿体ない結末だ。
本作では序盤の戦乱による人々の死から描かれているように、殺人という行為自体が戦乱という混沌の中でその意味を失い、ただ人が闇雲に殺されていく。誰もその死に責任を持たず、誰もその犠牲を省みない。ただただそれは「数」としてカウントされるだけで、そんな紛争による大量虐殺を見たからこそ、黒田光輝は意味のある「死」に取り憑かれ、殺されるのではなく自ら死を選択する、そして全ての人類が滅ぶことで私たちの魂も、この地球もリセットされるという、何かそういうダークな幻想を抱いていたのではないかと私は思った。
彼が最終戦で自分が犠牲になることになった時それを恐れなかったのには、自分の死が悪魔によってもたらされた今の混沌とした世界に秩序をもたらすとわかっていたからだ。自分の死に大きな意味があるとわかった上での犠牲、そして肉親を目の前で奪うことを承知した上でその刃を振り下ろすという覚悟と責任、正にあの最終戦「冥王剣闘士」は現代の銃や爆弾を用いた大量殺人とは真逆の、殺す側も殺される側も覚悟と責任が課される戦いなのだ。それをしっかりと描いていただけに、最後の最後で全員生き返りましたというのは余りにも稚拙というか、脚本が自分で用意したお題を自分で台無しにしているように思えてならなかった。
悪魔との戦い
以上で本作のダメなポイントは一通り指摘したので、ここからは本作の良かった点について述べていこう。
既にご存じの通り、原作はグングニルが敵であり、ゲームのディーラーに相当する悪魔たちは中立的存在として現れる。作中の「悪魔の鍵」や「天の知識書」も、それをどのように使うかは所有者に委ねられており、悪魔が意図的に人間を操作したりそそのかすようなことはしていない。
とはいえ、「それじゃあ悪魔は自分たちに何のメリットもないのにゲームを考案して人間たちにやらせているの?」と疑問に思う。この辺り原作者のメーブ氏はどのような意図があって悪魔を作中に取り入れたのか、そこはあいにくだが私にもわからない。ただ原作を読む感じだと、原作における悪魔は特殊能力を駆使した心理戦・頭脳戦を成立させるために悪魔という超自然的要素が盛り込まれたという感じで、別に悪魔以外の妖精とか小人といった魔物であってもぶっちゃけ問題はない。なので原作のゲームそのものに対して批判するつもりは毛頭ないが、悪魔である必然性は薄いのである。
そんな小さなモヤモヤを内心抱きつつ本作の映画を観た訳だが、本作では悪魔がアクマゲームを人間にやらせ、鍵の奪い合いをさせている理由が明確に描かれているのが評価ポイントで、これが原作同様最後の最後まで「人間 VS 人間」の戦いだったら正直映画としてはショボい最終決戦になっていたと思う。それを「人間 VS 悪魔」という形にしたおかげで、ゲーム自体は問題だらけでも大枠となるストーリー自体は見応えのある作品になっていたと思う。
ドラマのガドは原作に比べてかなり挑発的であり、そこがドラマを見ていた時に少し引っかかっていたのだけど、これが人間世界の直接的な支配を目論んだ遠大な計画ならばあの態度も納得だし、悪魔たちが人間にゲームをやらせている動機としても腑に落ちる。ここは原作が敢えてスルーしていたポイントなので、悪魔にもちゃんとした思惑があってゲームを運営していたと明確に描いてくれたことは素直に評価したい。特にドラマ版のグングニルの計画はグズグズで具体性に乏しかったので、より一層スッキリと見ることが出来た。
悪魔の能力と認知
悪魔をラスボスとして描く以上、悪魔が圧倒的に優位でなければならないし、実際本作の最終戦でも悪魔ガドの手駒はこれまでのゲームの犠牲者を幽霊兵士として復活させたものだったから、手駒になる仲間を一人も犠牲にしたくない照朝サイドとは精神的にも能力的にも歴然とした差がある。そんな万能感の塊と化した悪魔ガドに照朝たちはどう打ち勝つのかが最終決戦の見所となる。
そのゲーム内容や悪魔を騙すのに用いたトリックは前述したように原作のゲームの焼き直しに過ぎないのだが、特筆すべきは織田照朝と黒田蘭の二人が持つ能力である。
ドラマと今回の映画を観た方はご存じの通り、照朝が所有する悪魔の能力「一分間の絶対固定」はガドが与えた能力である。そして蘭の読心術と巫女としての憑依体質は本作の序盤でガドが彼女に乗り移り、兄の光輝をそそのかした様子を見れば、(ガドが与えたものではないにせよ)ガドが自分のいいように利用出来る能力であると言えるだろう。
ガドにとっては照朝の能力は自分の掌中にあるも同然の能力であり、黒田兄妹は敵と味方に引き裂き「どちらかは必ず犠牲になる」状況を作り出すことで二人に苦悩を与えている。そうやって圧倒的万能さ・優位さにあぐらをかき驕り高ぶった悪魔を倒す決め手になったのが、ガドが照朝に与えた能力と蘭の読心術だったのだから、この下りは非常にカタルシスを得られる印象的なシーンだった。
まぁ「一分間の絶対固定」を拡大解釈して崩心のチート能力に対抗するという方法自体は正直強引だと思うし「そんなの何でもありになるじゃねーか!」と酷評する人だっているだろう。ただこの能力を使う前に照朝が亡き父と語った認知に関する話がその強引な展開を補強しているのは無視出来ない重要なポイントだ。
この認知の話は映画では具体的な実例を出していないからイマイチピンと来なかった人も多いと思う。なのでそれを裏付ける具体的な実例としてレントゲンとその歴史を紹介しよう。
詳細はこちら(↑)の首相官邸のページで解説されているので、ここで改めて述べないが、要はレントゲン博士が発見したX線は当時はまだ未知の存在で、博士が寝食を惜しみ研究したことで科学的にその存在が認められ、医療の現場で活用されている。もし博士や他の研究者たちがこの存在を深く探ることがなければ、X線は正体不明の怪奇現象、つまり幽霊や悪魔と同じ領分のままだったのだ。彼らの研究によって放射能・放射線は目に見えずとも存在するものとして社会に認知され、その目に見えないものを利用することで未然に病気を防ぎ治療することが出来るようになった。
これはレントゲンに限らずアインシュタイン博士の相対性理論といった目に見えないもの・手に取れないものにまつわる全ての事柄にも同じことが言える。
私たち人間はこの自然界において他の動物同様弱くて非力な存在である。自然界に存在する物質の中には放射能や有毒ガスのように目に見えない危険なものもあるし、そういった物質を認知出来ずに身体が蝕まれ亡くなった人もこの長い歴史の中では少なからずいるはずだ。私たちの五感はこの世界にあるもの全てを感知するようには作られていないのだからね。でもだからと言ってそこで感知出来ないものに怯えたままでは人類は進化しない訳であって、その目に見えないもの・手に取れないものを論理によって実体化させ、それを私たちの生活に取り込むことによって人類の文明は恐るべき飛躍を遂げたのだ。この飛躍がなければ、人間はいつまで経っても目に見えない病魔に好き放題内臓を蝕まれて死ぬのを待つしかなかった訳だし、時間・空間にしても24時間という単位や国境という線引きを生み出しそれを共通認識にしたことで今現在の秩序が生まれたのだから、人類が他の動物と圧倒的に違うのは目に見えないもの・手に取れないものを可視化・具現化させ、それを共通認識として生活に活用している点にあると言えるのだ。
ここまで言えば照朝の父・織田清司が言っていたことも何となくわかるのではないだろうか?結局の所、悪魔の能力によって操れる時間・空間、その他物理的な作用のもろもろは悪魔ではなく私たち人類が生み出した概念であって、その限界を突破出来るのも人類そのものであると、深読みしていけば何かそういう希望を感じさせるメッセージだったと思うんだよね。
これは何も科学や物理学といったアカデミックなものだけでなく、悪魔といったオカルト・宗教の分野にしても同じことが言える。
今も昔も人間の世界には悲しみ・苦しみがあって、多くの人々は何故この世界はこんな苦しみ・悲しみがあるのに生きなければならないのか、それを問い続けて来た。で、キリスト教の場合はそれを「人類は生まれながらに罪がある」と説明し、それを原罪という形で結論付けている。この考えは映画で黒田光輝が教団の信者に語っていたことと同じで、宗教はこの不条理で捉えどころのない世界を説明するために目に見えない原因を具現化させ、この世界の仕組みを独自の理論で説明してきた。勿論それは科学的・物理的には証明出来ないけれども、多くの人々の心の拠り所になっているのは疑いようのない事実であり、そんな数々の理論の中で神の敵である悪魔という概念も生まれたのだ。
昔に比べれば悪魔の存在を本気で恐れる人はいないし迷信と思っている人の方が多いだろうが、16世紀頃のヨーロッパでは悪魔の存在を本気で信じてそれを論理的に証明しようとした大人もいたのだ。※にわかには信じがたい話だと思うけど、実際「人類を作り出した全知全能の神様が人間を堕落させる悪魔まで作るなんて矛盾してないか?」とか「いや悪魔は神が作ったものではなく人間が生み出した幻想だけど?」といった議論が神学者や宗教家の間で真剣に語られていた時代があったのだ。
それを「昔の人は迷信深くて愚かだった」って言うのは簡単だけど、それは物理学者や科学者と違うアプローチでこの世界の目に見えない不条理や混沌を説明しようと努力した結果であって、決して馬鹿には出来ないことなのだ。
あ、映画本編から話が脱線したので映画の話に戻ると、悪魔にしろこの地球の物理法則にしろ、それらは人間が発見して体得した概念であるということだ。だからと言ってそれが人間の万能性を証明している訳では当然ないし、未だにこの世界は終わりのない紛争・戦争で延々悩み苦しみ続けている。映画のようにそれを悪魔の仕業にしたら話は楽なのだけど、実際はそうもいかないからやはり難しい問題ではある。難しい問題ではあるけど、私に言わせれば「戦争は人間が生み出した罪なのだから、それを人間が解決出来なくてどーするのだ?」って話なのですよ。
今はまだその糸口がないけれども、今回の映画を観ているとまだそんな限界を決めるのは早いのではないか?私たちが認知を操りこの文明を発展させた以上、何か視点を変えれば突破口はあるのではないか?その可能性はゼロではないとこの映画は教えてくれたような気がする。
※これに関してはアニメ「アンデッドガール・マーダーファルス」の人狼編でも言及したので、そちらも参照してもらいたい。
ワケありの村で人狼探し【アンデッドガール・マーダーファルス #09】 - タリホーです。
さいごに
ということで今回のアクマゲームの映画の感想は以上の通りである。実を言うと今回の映画はまだまだツッコミ所があって、ゲーム開始前の宣誓の言葉(何とかかんとかエプシミアってやつね?)がギリシャ語なのに悪魔の復活に関わる遺跡が東南アジアにあるのはどう考えてもおかしいし、照朝が映画の冒頭で「ジラーニエ」っていう兵器の制御端末を回収して日本に持ち帰っていたけど、制御端末だけとはいえよくそれ税関に引っかからず国内に持ち込めたよな!?とか、悪魔が現世に現れて全世界がパニックに陥っているのに照朝たちが普通に海外に到着しているのもよく考えればおかしい(地元の鉄道は止まっていたのに航空会社は普通に営業してたの?ww)。
なので、ゲームの件も含めて本作を駄作と酷評する人がいるのもまぁ仕方はないかなと思うし、長所よりも短所の方が圧倒的に多い作品ではある。とはいえ、今回の映画はドラマと違って頭脳戦だけをメインにした物語ではなく、人類の可能性というものにも光を当てた話だったから、そこで大幅に巻き返してくれたおかげで穏やかにこの映画を見終えることが出来た。ただ今回私が評価したポイントは映画本編の外側の知識・情報を組み合わせた結果見つけられたことであって、ただ映画を観ていたら得られるものではないので、客観的には駄作だと思う。
でも私の中では全然駄作ではなかったよ!確かに脚本は強引だったけど、終わりの見えない戦乱に対して非力にも希望を奪われた人々のレジスタンスの物語として(ある意味ベタで王道ではあるけれど)成立していたし、原作では単なる心理戦・頭脳戦のアクセント程度だった「悪魔の能力」をこのような形で発展させて描いたのは称賛に値する着眼点だと言っておこう。
一応映画を鑑賞した後に他の方のレビューもいくつか見たけど、やはりゲームが原作から改悪されているという不満が一番目立つし、アクションシーンやCG等の演出も海外作品に比べると見劣りするという意見も多かった。
まぁ間宮さんのファンとしては主演作が駄作扱いされるのは正直悔しいし、このブログを読んだ人の中には「推しの主演作を褒めるために無理やり良い所を探しているのでしょ?」って捻くれた見方をする人もいるだろう。でもこれだけは言わせてほしい。
私は少なくともこの映画からは原作を蹂躙するような悪意のようなものは感じなかった。強いて言うなら、この映画を撮影した佐藤東弥監督は理屈ではなく感覚で面白さを理解し表現する人だと思う。映画監督としてデビューした「カイジ」がヒットしたから心理戦・デスゲーム系の作品を手掛けてはいるが、正直デビュー作の「カイジ」がヒットしたのは、脚本やゲーム描写がよく出来ていたというよりも、藤原竜也さんら出演者の熱演による所が大きかったと個人的には思っている。そこをロクに分析しないで熱意の方向性を間違えたまま今回の実写化に挑んだことが、ドラマ・映画の失敗の一因だと思っている。これは監督だけでなくプロデューサーにも当てはまるので、テレビ業界の人々は、視聴者があなたたちが思っている以上に理屈っぽくドラマや映画を観ているということに、いい加減気づくべきだと思う。
で、私は制作側に問題はあったと思う一方で、視聴者側の方にも問題があると感じた場面は結構あったのよ。原作やドラマ本編を見て「駄作」って評価している人に関しては別に何も言うことはないけど、「セクシー田中さん」の一件の後から、何か原作者が叩いたら私たちも叩いて良いという風潮が生まれた気がして、個人的にこれはいちレビュワーとして静かに怒っていたことなんだよね。原作者のメーブ氏が毎回ドラマを見て Twitter でその内容にツッコミを入れていたのはもう既にご存じの通りだけど、あの頃からそれに便乗するように「セクシー田中さん」のことを持ち出して日テレや脚本家を叩く人が増え始めたし、YouTube でもそれをネタにした動画がいくつもアップロードされている。
でもさ、結局こういう人たちの中に本当に良い実写化作品が今後作られることを願って批判した人ってどれくらいいたのかな?って私は疑問に思っているのよ。
単に原作者の意見を日テレ叩きの免罪符にして正義漢ぶっているだけじゃないの?
動画の再生数を稼ぐために話題にしているだけじゃないの?
っていうか、ちゃんと原作を読んだりドラマを見た上で批判しているの?って言いたいのですよ。
そもそも「セクシー田中さん」の一件にしても、そりゃ日テレの制作陣が直接の原因なのは当然だし批判されて然るべきなのは間違いないけど、原作者の物言いをあげつらって煽りに煽って炎上させたのは私たちネット民であって、その炎上に亡くなられた原作者の方は大きなプレッシャーと責任を感じたと思うんだよね。何かそれを棚上げにしてさ、「全ては日テレや脚本家が悪い!」って声高に主張している人を見ると、一体どこまでこの人たちは自分の発言に無責任なのだろうかと、怒りを通り越して呆れるし、やっていることが本作の悪魔と一緒で、単に争いの火に油を注いでいるだけの、何も建設的でない愚かな所業だと強く非難したいくらいだ。
あと日テレのドラマの改変グセは別に最近の話ではなく、私の記憶している限り「探偵学園Q」とか「喰いタン」の頃からもうバンバン改変しまくっていたし、特に「喰いタン」とか原作とドラマを比べたらほぼ別物って言って良いからね?
こういった昔のドラマの原作改変には一切触れずに、終始今現在のドラマの改変ばかりが取り沙汰されているのを見ると、本当に真剣に原作改変について議論する気があるのかなって首をかしげたくなる。
そういった一件も含めてさ、今回のアクマゲームの実写化で「こんなの主演の間宮や田中目当てで見てるだけだろ」っていうコメントを見るとね、ちょっとカチーンと来ましたよ?
そりゃ主演の間宮さん目当てで見始めた作品だよ?でもね、入り口はそうであっても一度作品に没入したらちゃんとドラマの内容だったり原作にも目を通した上で感想は述べているし、たとえそこまでやっていないファンの視聴者がいたとしてもそういった人たちは外野からの嘲笑を一身に受けて、それでも最後までこの作品を見届けた猛者なのだ!
いつかは自分の推しが非オタの人からも評価されるような名作に出演する。そうやって毎回毎回推しの出演作品を追っているファンがいること、たとえ作品自体が駄作であってもその中で一瞬でも推しが輝いている瞬間を見出そうとするファンがいることを、ゆめゆめ忘れないことだな…。
(私にしてみれば、そんな情熱の欠片もなく正義ぶって本作を叩いている人って何が楽しいのだろうかなって思いますよ。マジで)
さて、散々言いたいことは言ったが良くも悪くも盛り上がったことは確かだし、一杯不満や文句も言ったけどこれ以上に退屈で不快感を催す酷い作品はいくらでもあるので、個人的には今回の実写化は楽しめる駄作・愛せる駄作の範疇だったかなと思う。ひとまずは制作陣を労い、この文を終えることとしよう。