タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

案の定(一部界隈が)荒れた「ミステリと言う勿れ」8話視聴

ミステリと言う勿れ(7) (フラワーコミックスα)

先週予告を見た段階で「これは次回荒れるな…」って思ってたらやはり荒れた模様。

 

8話(アイビーハウス編・前編)

今回は原作7巻に収録されたアイビーハウス編。久能が通う大学の准教授・天達の誘いでアイビーハウスで雑用バイトをすることになった久能。天達の友人や招待客が集まる中、そこでミステリーイベントが行われたが、そのイベントの裏で恐ろしい計画が進んでいた…というのが簡単なあらすじだ。

ミステリ作品でお馴染み「雪の山荘」を舞台にしたこのエピソードは、久能の人格形成に影響を与えた美吉喜和が関わる事件で、ストーカー殺人で死んだ喜和にかつて何があったのか、何故死ぬことになったのかが描かれている。先日原作の続きを注文して6~9巻までを読んでいるから既に犯人や動機も知っているが今回は真相に関するネタバレなしでお送りする。

 

※招待客にデラとパンというハンドルネームで名乗っていた客がいたが、ハンドルネームを名乗る人々が雪の山荘に集まる展開を見ると「金田一少年の事件簿」の「電脳山荘殺人事件」を思い出す。

 

何といってもドラマの最大の改変は原作で久能と同じバイトとして参加した青年・相良レンを風呂光に変更した点だ。

前からTwitterの方でちょこちょこ見かけていたが、ドラマは原作以上に風呂光を介入させ、久能との絡みを多くしている。これが原作ファンから「安易な改変」「改悪」とまぁ評判が悪い。変に恋愛要素を入れて原作のテーマ性だったり内容を阻害しているという指摘もあるくらいだ。

風呂光の感情が恋愛かどうか現状断定は出来ないし、改変自体袋叩きにするほどダメかというとそこまでではないと私は思うのだが、それでも原作既読勢として、そういう不評の声には納得する部分もある。

 

1話で風呂光は久能から「雑用係としてではなく不正をおじさん連中がしないよう監視する立ち場でいてください」といった旨の発言をしていたのに、今回は普通に雑用係として参加している。それも学生ではなく刑事だから恐らく給金なしのボランティアとして参加した可能性が高い。これでは結局男性たちのために料理をするという旧弊的な女性像と何ら変わりはないではないか、という指摘がTwitter上であったが正にその通りだと思うし、その矛盾性を脚本が気付いていないのは致命的だった。

では何故ドラマは風呂光を原作以上に介入させるのだろうかと考えたが、これは探偵と助手という旧来通りの形式に久能と風呂光を当てはめているせいではないだろうか。このドラマのスタッフはかつて鍵のかかった部屋を担当していたが、「鍵のかかった部屋」では探偵役の榎本と助手役の青砥というコンビが成立していた。榎本と青砥の関係はというと、片方は怪しい商売(セキュリティーショップ)をしているが優れた推理力のある探偵で、もう片方は身持ちがしっかりした職業(弁護士)に就いているが推理力はそれほどでない助手というコンビだ。

恐らくだが、ドラマのスタッフは「鍵のかかった部屋」における榎本と青砥の関係を引用して久能と風呂光に当てはめているのではないかと私はにらんでいる。久能は学生という社会的には宙ぶらりんな立場ながらも推理や論理で人の心を解きほぐす探偵役として配置されているし、風呂光は刑事という真っ当な仕事に就いているが、迷い真実に辿り着きにくい助手の役割を果たしている。制作陣はそうやってこれまで通りの「探偵と助手」という定石をこの作品でもやろうとしており、それが結果的にこの作品を凡庸な味付けにしてしまっていると私は思うのだ。

 

普通にドラマとしては面白いと思うし、原作を知らなかったら今までとは一味違うミステリドラマだと判断したかもしれないが、これまでの「探偵と助手」という関係性を持ち込んだせいでドラマとしては中の上的な質になったというのが個人的な評価だ。従来の定石パターンに頼らず原作の要素を拾えていれば、ミステリドラマというジャンルだけでなく日本のドラマ界で一歩抜き出でた存在になれたかもしれないのに。

 

「口先だけの論理」から「実践による論理」への成長

ところで、このドラマにおける軸というかテーマは何だろうか。もし「久能が世の中で当たり前とされることにツッコミを入れ、それによって人を救う物語」というテーマだけでドラマが制作されているとしたら実に勿体ない。

これは原作を1~9巻まで読んだから気づいたことだけど、物語を読み進めるにつれ、明らかに久能の人間としての魅力度が上昇しているのだ。最初の事件で取調室にいた久能は何というか、人間味がない来訪神というかマレビトのような存在だった。というのも、その時語られたことって言ってみれば経験に基づく論理というよりどこかから引用してきたことを自分の言葉で語っているという感じで、要は自分の感情や身体的なものがあまり伴っていない論理だった。だから正しいといえば正しいのだが、同時にどこか綺麗ごとめいている感じもした。久能が語ることは一つの「悟り」ではあるが、人と関わって得た「悟り」ではない。言うなれば、お経だけを読んで得たことを口先だけで語っているのが当初の久能に対するイメージだった。ところが、数々の事件に巻き込まれ犬堂ガロやライカといった人々を通じて久能は明らかにこれまでとは違う経験や価値観を目にしてきたし、言葉だけではどうにもならない状況だってあった。この「ミステリと言う勿れ」は途中から実践・行動による論理・気づきを久能が体得しており、そういう成長も物語の見所の一つだと私は思う。

 

これは久能に限ったことではない。私たちは学校の義務教育で効率的に知識や技術を得ているが、それだけでは得られない知識・経験もある。勿論、経験だけを重視して知識を得ると非常に偏った価値観の持ち主になってしまうが、学習と実践・行動をバランスよくやっていくことの大切さも原作には含まれていると改めて思った次第だ。

今回のアイビーハウス編の場合、頭脳労働系で陰キャ的な久能とは対照的に、行動的でハキハキとした陽キャの相良は、ある種久能に化学反応を与えるような存在だった。だからこそ、風呂光ではなく原作通り相良と久能の絡みがあれば良かったのにと、つくづく残念でならない。