タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(5期)第20話「闇からの声! 幽霊スポット」・第21話「首ったけ? 妖怪恋物語」視聴

20話は12月16日、21話は23日までの配信。

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今回は2話分まとめての感想という、特殊なやり方をするがこのやり方にした理由はまた後ほど。

 

うわん(20話)・ろくろ首(21話)

20話の黒坊主と21話のおどろおどろについては6期の感想で紹介したので今回は割愛。

tariho10281.hatenablog.com

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まずは20話のうわんについて。

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うわんは古屋敷に出没する妖怪で、その名の通り「うわん」という大声を出して人を驚かせると言われているが、絵巻には姿しか描かれていないため実際の所は謎の多い妖怪だ。原作には登場しておらず5期で初登場した妖怪だが、作中での「人間に見られたが最後、永遠の闇に封印される」という設定はアニメオリジナル。そんな宿命を背負う妖怪は世界を探してもいないんじゃないかな…。

 

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ろくろ首は言わずもがな、お化けの定番で首がのびる妖怪。小泉八雲の『怪談』にもろくろ首の物語が載っているが、これは首がのびるタイプではなく首が胴体から抜ける「ぬけ首」に属するろくろ首だ。恐らく首が胴体から離れるという点で同類としてまとめられたのだろう。海外にも似たような妖怪がいて、中国では飛頭蛮、東南アジアではポンティアナと呼ばれる。ただしポンティアナは首から下に内臓がぶら下がっていて少々グロテスクな見た目なのが日本と違う。

アニメでは1期から登場しており、メインではないにせよ何度も姿を現しているが、5期で準レギュラーとして登場頻度が増え、6期も5期ほどではないが古風で姉御肌的な美人として2・3回ほど登場している。

 

20話と21話の共通項(原作に登場した妖怪がオリジナルエピソードで脇役にされることの是非)

今回は2話分まとめて感想を書くことにしたが、その理由は主に2つあって、一つは単純に感想があまり出てこなかったというしょぼい理由だ。一応2回は見返して何とか深掘り出来るような点はないだろうかと視聴したものの、劇中で描かれたテーマ以上のものを掴むことは出来なかった。そしてもう一つの理由は20話と21話はその回の悪役がどちらも原作のエピソードがあり、原作ではメインとして描かれているにも関わらずアニメではサブ的な扱いになっているという共通点があるからだ。

 

20話で心霊スポットに来た人間を襲った黒坊主は原作だと美人画に封印された妖怪で、それを購入したねずみ男の生気を吸い、それが切っ掛けで鬼太郎たちに退治される話だった。そして21話で大学の教授になりすまし恋愛中の女性の血を吸うおどろおどろは、原作だと薬の研究から妖怪化した人間で、子供の血を吸わないと生きていけない体になったという設定だった。

どちらの物語にも原作ならではの面白さや深みがあったが、5期ではオリジナルの物語を主軸に置き、その肉付けとして原作に登場した妖怪を単純な悪役として引用してきた形になっている。今回はこれをどう評価するか語っていきたい。

 

先ほども言ったが20話も21話もテーマとしては至極シンプルで、20話は安易に心霊スポットへ行ったり、それをネタにした書籍を出版する人間の愚かさを描き、そんな人間でも救おうとするうわんの健全さや自己犠牲を感動的な形で描こうとしている。21話は妖怪と人間の恋がテーマで、ここではろくろ首の一途な恋がハッピーエンドな結末をもって描かれることになった。どちらもヒーローものの「ゲゲゲの鬼太郎」という作品において別に間違っていたり不必要なテーマではないと思っている。

ただそれでも私がこの2つの物語を素直に高評価出来ないのは、そういったテーマを描くために妖怪の設定が都合よく付け足され利用されている感じがするからだろう。

 

20話の場合、黒坊主が本に紹介されている心霊スポットに現れ人を襲っていたが、そもそも幽霊と違って妖怪は特定の場にとどまっているケースが多く、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすることはまずない。それに劇中で描かれた黒坊主はおよそ知的でないタイプの妖怪だったにも関わらず、本で紹介された心霊スポットに(まるでその本を読んで事前に情報を入れていたかのごとく)出現し人間を襲った。細かいことを指摘するようだが、この都合の良い出現の仕方が引っかかってそれが劇中で説明されないままだったので疑問点としてモヤモヤしてしまった。

うわんの「人間に見られたら闇の世界に封印される」という設定にしてもやはり愚かな人間でも自分を犠牲にして救う、うわんの健全な精神を描くだけのために付け足された設定としか思えず、その付け足し方にしてもあまり上手い出来ではないと思う。

 

21話は妖怪と人間の恋がテーマの話だが、実は敵役のおどろおどろをメインに置いた原作の方が鬼太郎作品としては重要なエピソードだと思っていて、原作で描かれたテーマより妖怪と人間の恋のエピソードを優先させてしまったという点が、ちょっと個人的には不満だったのだ。

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原作のおどろおどろのエピソードは「正義の味方でも救えない人間がいる」という勧善懲悪のヒーロー物語に一石を投じるような深くて重いテーマを扱っている。6期のおどろおどろ回でもそのテーマを扱っていたし、それを人間と妖怪の対立という形で最終回辺りの怒涛の展開に活用されていたのが良かった。

ただ今回の21話はそのテーマを放棄して、おどろおどろを恋する女の血を吸い男女の恋愛関係を破綻させる低俗な妖怪にしてしまっているので、どうしても原作のエピソードと比べると改悪に近い使い方だなと思ってしまう。ろくろ首と鷲尾との恋にしても相手役の鷲尾が聖人君子的な描かれ方をしているせいで、どうも安直というか、展開がうまく行き過ぎている感じが否めない。1話完結の物語だから仕方がないとはいえ、多少すれ違いや価値観の差がないと物語として面白くないというか燃えるような感情が湧き起こらないのではと思うがどうだろうか?

 

20話も21話もテーマや展開を重視するあまり、物語や妖怪の設定があまりにも都合よく進展・利用されていることを以上の理由から述べたが、一応断っておくと決して改変自体がダメだと言っている訳ではないし、原作至上主義でもない。今回の安直な改変や設定のいじり方にしても、技術的には褒められた出来ではないが、かと言って「袋叩きにしてやる!」みたいな思いで感想を書いているのではなく、「表面的なテーマしか読み取れなかったのは、劇中で描かれた設定が○○の理由で利用されているフシがあるからで…」ということを説明するためだ。全100話もあれば名作もあるし駄作だって生まれてしまうのは仕方ないと思っているので、そこはどうか承知してもらいたい。

 

何でこんな慎重な意見を書いたかというと、先日Twitterの方で来年放送される新作アニメの「悪魔くん」に関するちょっとした炎上事件があって、そこで古参ファンの物言いというか攻撃的な批判を見てしまっているので、鬼太郎ファンである私も面白くないと思った回を単純にこき下ろして書くのはあまりよろしくないだろうと、そういう戒めを込めて今回の感想は書いているのだ。6期でも妖怪の扱いについて批判的な意見は書いたが、脚本家に対するヘイト発言・他のファンへのマウント取りだけはしないよう注意している。あくまで作品の技量と良し悪しを主観・個人的解釈もまじえながらこのタリホーという人間は感想を書いているのだなと思って読んでいただければ幸いだ。