タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第7話「幽霊電車」〈再放送〉視聴

 今回はシリーズ定番の「ゆうれい電車」回なので、徹底解説していこう。

 

「ゆうれい電車」

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

原作「ゆうれい電車」は昭和41年4月の「別冊少年マガジン春休みおたのしみ特大号」が初出(この時点では「墓場の鬼太郎」として発表されている)。ゆうれい電車の構想自体は貸本漫画の「墓場鬼太郎」の時に描いたことをリライトしたものだが、お化けを信じず鬼太郎に乱暴をはたらいた男二人を懲らしめるという展開は本作がオリジナル。

墓場鬼太郎」の時は関わった人間に不幸をもたらす存在だった鬼太郎が、人間を困らせる妖怪を退治するヒーローとして変わった「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズ中でも、人間の方を懲らしめるという点で「地獄流し」と並ぶ異色作。後年バトルものとしての色合いが強くなっていくアニメでも、とりわけ本作と「地獄流し」はホラーとして何度もリメイクされることになり、1期の続編にあたる2期以外の全てでアニメ化されている。

 

始まりの1期は物語の後半部分は原作と同じ展開だが、前半部はオリジナル。ねずみ男が開いた本物の妖怪を使ったお化け屋敷に、乱暴者の男二人が現れ、お化けが何もしないのを良いことに悪戯をはたらく。その横暴さに腹を立てた鬼太郎が男二人をゆうれい電車に乗せて懲らしめる、という話になっている。

当時は「鬼太郎=子供向け路線」ということもあってか、原作以上に男二人の設定を悪者にして、勧善懲悪の色が強い物語にしている。そのためか、男二人に被害を受けた妖怪の仕返しが軸となっており、幽霊の要素は控えめ。骨壺駅の駅員が砂かけ婆になっていたり、原作に出てこないのっぺらぼうやろくろ首が出て来るのも、本作が報復譚であると同時に妖怪の怖さと面白さを視聴者に伝える意図が制作陣にあったのではないかと私は考えている。子供受けを狙うなら、やはり幽霊(ゴースト)より妖怪(モンスター)を前面に押した方が良いのは現代における妖怪ウォッチのブームと同じなのだろう。

 

3期は鬼太郎に暴力をはたらいた男・黒川の回想譚という形で物語が始まる。

実は、回想譚という形式は、ホラーとしては使い方を間違えると改悪になってしまう所があって、話そのものが非常に怖いのなら別に構わないが、3期のような妖怪大集合テイストの「ゆうれい電車」回でそれをやるのは良くなかったのではないかと思っている。何故なら「回想譚=語り手が生きている」訳であり、劇中でどんな目に遭っても結局は助かることが視聴者に事前に知れてしまっている。そのため、原作におけるサスペンス性や緊張感が損なわれてしまったのが3期の欠点の一つだ。

また、妖怪に比重を置いておきながら物語終盤で幽霊電車が実在していたことが奥多摩霊園駅の駅長によって語られていることも欠点。原作のゆうれい電車は鬼太郎の霊力によって男二人が見せられていた一種の幻覚として描かれているが、3期の場合は幽霊電車の存在が駅長から語られたことで「結局あの幽霊電車は鬼太郎が作出したものなのか、元からあの路線を走っていた幽霊電車を鬼太郎が利用したのか?」という謎が残ってしまった。ホラーは曖昧な部分に怖さがあるが、この曖昧さはホラー的な部分に何ら貢献を果たしていない。元からあった幽霊電車を鬼太郎が利用したと仮定するとあんなに妖怪を乗せて乗客の迷惑になりやしないか?と思うし、鬼太郎が作出したものならば、駅長の語りの部分はハッキリ言って蛇足。

こんな訳で、3期「ゆうれい電車」回はホラーとしてはお粗末な出来となってしまったが、ドッキリ番組的視点で見るとなかなかイケる。骨壺駅で現れる死者の大群(原作に無いよ!)とか大量の妖怪に囲まれる展開などは正に「やりすぎ感」溢れるドッキリ番組そのもの。あ、でも濡れ女は出色の出来栄えで、彼女は最後までホラーだったよ。

 

4期は「原点回帰」をテーマにしただけあって、1期と3期でゴチャゴチャと追加されたものが削ぎ落され、妖怪ではなく幽霊に比重を置いた「ゆうれい電車」回として私はかなり気に入っている。これまでが具沢山のナポリタンならば、4期は出汁をきかせた素うどんみたいな、そんな感じだ。物語後半に出て来る妖怪たちは鬼太郎ファミリー(子泣き・砂かけ・猫娘・一反木綿・ぬりかべ)に限定されているし、その鬼太郎ファミリーにしても出て来たのは10秒にも満たない。あくまでもメインは乗客やゆうれい電車という場そのものになっている。

また、ホラー演出も外的な恐怖(土気色の顔をした乗客など)だけでなく、それによって内側から湧き出て来る恐怖が描かれているのも秀逸な点で、恐怖に毒された小林が安心しかけた先輩を再び不安と恐怖の底に引き戻す展開と鬼気迫る表情にゾッとするのだ(本編の16分辺り)。デジタル作画に移行する前だったのも良かったと思っている。

 

そして5期では、原作通りの展開の裏に予想外の真相を仕掛けた原作プロットの大改革が為された「ゆうれい電車」回となっており、ただでさえ異色な「ゆうれい電車」が更なる異色作としてリメイクされた。

改めて見て思うが、このリメイクはある意味必然の結果だと考えている。というのも、1・3期で妖怪を、4期で幽霊を前面に押し出した「ゆうれい電車」が作られており、既に妖怪が一般にも広く知れ渡った5期において妖怪だけで恐怖を演出するのは困難だし、かといって4期以上の恐怖を描くのもハードルが高い。そうなると、やはり定型となったプロットのどこかを崩して改変しなければならないという考えに行き着くのは当然だと思うのだ。勿論これは諸刃の剣で失敗すれば目も当てられないことになるが、結果として5期の改変は良い方向にはたらいた。

定型を崩したことで「あれ?いつもと違うぞ。これは単なる鬼太郎の仕返し話ではないのでは…」という不安を視聴者(特に往年のファン層)にもたらし、ズシンとイヤ~な後味が残る真相を与える。どちらかというとホラー的な恐怖というより、ミステリ的な恐怖に近い。言い換えれば、これまでの未知のものに対する恐怖よりもわかってしまったが故の恐怖が5期「ゆうれい電車」にはあるのだ。そのため、妖怪の部分は正直言って怖くはない。加牟波理入道にしてもろくろ首にしても不気味でこそあれ恐怖にはならないのだ。ただ、序盤に出て来た白粉婆については、真相を暗示させる伏線としてこの回に登場したのではないかと思っている。

 

 妖怪好きなら見て損はない大映制作の映画「妖怪百物語」。この映画で白粉婆とすれ違う但馬屋利右衛門と重助は、長屋を取り壊して岡場所を作ろうとした悪人であり、長屋の取り壊し中止を求める甚兵衛を殺害した殺人犯なのだ。

つまり、白粉婆があそこで登場したことには、吉永と木下が殺人に関係があることを示す効果がある。余りにもマニアック過ぎるので、リアタイ視聴した当時は全然そんなこと考えもしなかったけど、こういう過去作からのマニアックな引用も5期「ゆうれい電車」回の魅力の一つだ。

(脚本は6期2年目に参戦した長谷川圭一氏)

 

では、6期「ゆうれい電車」回はどうだったか?

 

恐怖の源

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期も内容自体は5期の延長線上にあるが、加害者である社長本人も死者であったこと、そしてその死がパワハラで部下を死に至らしめた原因あってのことだという点が原作の「地獄流し」の変奏曲的オチとして恐怖につながったと思う。

ただ、5期の場合が自身の弱さが罪の原因だったのに対し、6期社長の罪は無自覚と無理解からきている。

「自殺するのは心が弱い負け組だからだ」「お前のためを思ってやっている」などなど、社長のパワハラ行為は相手の意思など無視して「仕事とはこうあるべきだ!」と押しつけがましい持論と暴力に基づいており、それを罪だとか犯罪だとか省みることはなかった。「自分には過ちがない」という傲慢さ、その行為がもたらす効果を想像しない浅はかさ、これが序盤の女子高生のいじめともつながり、「人間の方がよっぽど恐ろしい」という鬼太郎の言葉で締めくくられる。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

要は恐怖の源は人間そのものであって、妖怪や幽霊に対する恐怖は人間という鏡が映す虚像だというのが6期「幽霊電車」の主張なのではないだろうか?人間が恐怖の源ならば、自分も「恐怖を与える加害者」たり得るし、パワハラやいじめで恐怖を相手に与えれば、その因果が巡って恐怖を享受する羽目にもなる。

妖怪や幽霊で“肝をつぶす”程度の恐怖ではない、もっと切実で生命に関わる恐怖が日常には蔓延している。他人事だと思わずそれを自覚し、自分が恐怖を拡散していないか省みよというのが6期が描く恐怖の到達点と言えるだろう。

 

余談になるが、今回登場した妖怪は過去作の「ゆうれい電車」回でも登場したキャラクターが出てきている。

(5期のデザインになっているが)小豆あらいは1期、濡れ女とひょうすべと傘化けは3期、加牟波理入道は5期にも登場している。また、姥ヶ火は4期、お歯黒べったりは5期のデザインで登場しているのも見逃せない。

 

それにしても、この先新たに7期が出来たとして、「ゆうれい電車」を放送するとなったら、次はどういう恐怖を持ち出すのだろうか…。5・6期で「人間が恐怖の源」というある意味究極のゴールを描いているし、あまり変えすぎると「ゆうれい電車」でやる意味がなくなるし…。ハードルは高くなるばかりだな。

成長という強迫観念に抗いたい

前の職場を辞めて半年以上が経つ。

コロナ禍による自粛を利用してかなり自堕落かつストレスフリーな毎日を過ごしている一方、早く仕事に就かなければという焦りみたいなものがじわじわ滲みつつある。その一方で、前の職場みたいに性格のキツい上司にあたったらどうしよう…と、まだ就いてもいないのに対人的恐怖で尻込みしている自分がいる。

私が仕事に対して不安に感じるのは仕事内容そのものよりも、対人的なものや成長を求める社会構造の方が強い。

 

成長というのは職種によって求められるタイプが異なるが、大体の企業はコミュニケーション力とか、明朗快活な対応、マナーや上昇志向がある人を求めるだろうし、私はそういった諸々の要素を全否定するつもりはない。それで社会が円滑に回っていくのなら大いに結構である。

 

ただ、社会人一年目からそれら全てを求められる、という点には大きな疑問を感じている。採用の段階である程度社会人としてのスキルがないと採用されないし、仮に入れたとしても周りの人間は更なる成長を求めて来るのだから、ちょっとでも気を抜くと「意識が低い人間」というレッテルをはられてしまう。

 

控えめに言って、私はこういう社会構造が「しんどい」のだ。

 

例えば、まだ入社してもいないのに面接で入社してからのキャリアプランを聞く企業があるが、相手がどれくらい会社の業務内容を理解しているか把握するための目的があるにせよ、数年先の役職まで構想を広げていけるほど、心理的余裕が就活生にはないのではないかと思う。勿論、好きな職種の企業ならばそういうキャリアプランも己の楽しみになるのだろうが、皆が皆好きな企業に入れる訳じゃないし、経済状況などの理由で地元でしか働けない人も沢山いるのだから、キャリアプランがないからダメみたいなことを言われると、傷つく。

 

本来働くのは生活を豊かにするためのはずが、いつしか経済を豊かにするために働くことに論点がすり替わっているような気がするのだ。だから私みたいに「好きなことをするために働く」という考え方をする人が低俗で低意欲だという風潮になっているのではないかと思えて来る。そうやってどんどん社会は不寛容になり、意識が高く明朗快活でマナーに長けた人ばかりが「社会人」と呼ばれる。

 

そして、往々にして最初から意識が高い社会人は、要領が悪く不完全な新社会人に対して不寛容かつ厳しい。出来て当たり前のことが出来ないからその責めも厳しくなるのだ。

前の職場の上司が正にそういうタイプの人で、例えばその上司が私に対して尋ねた時私が「だから〇〇で」と言うと、「私が聞いているのに『だから』という言い方はぞんざいで失礼です!」とキレられたし、被せ気味に応答すると「反抗的に聞こえる」とキレられた。仕事そのものだけでなく、言葉一つ選択を誤るとキレられるのだからこれはもうキツい。うっかりすらも許されないのだから。

 

命がかかっている職種でも状況でもないのに矢鱈と注意されたりキレられたりしたので、流石の私も精神に異変を来し、逃げるようにして会社を辞めた。辞める直前はその上司の顔も見たくなかったし声も聞きたくなかった。いっそ死んでくれたら…とかそれ位嫌いだった。仕事を辞めた今でもその思いは拭いきれてない。

 

別にその上司の言っていたことは間違ってはいない(100%正しいかというとそうでもなかったが)、ただ不寛容で攻撃的で完璧さを求める性格が私に合わなかったのだ。せめて寄り添う感情を持ち合わせていたら、もう少し長続きしたかも…とは思っている。

辞める前に数度会社の常務の人と話をする機会があったが、「いじめてるつもりはないんや」と、その上司の人を庇うような発言こそすれ、どういうことを言われたか、私が何に対して辛いと感じたのか、そういったことは一切聞かれなかった。

 

「上司は庇うくせに、私の辛さには耳を傾けず成長を求めるのですね」

私の社会人、とりわけ年齢が高い人に対する不信・不安感はこういった事情に起因している。

小さい会社だったから社長も私が受けている状況は知っており、(これも辞める前だが)「結婚して子供もいずれ出来るんやから、ぐっと我慢しなきゃならん時がある」ということを私に言った。それを言われた直後は、私の真面目な勤務態度にも触れてくれて正直なところ嬉しかったのだが、よくよく考えると私が結婚して子供をもうける前提で話をしていた点にモヤっとしてしまった。

これが身内から言われた発言ならまだ飲み込める部分がなくはないのだが、他人に「結婚して子供を作るんでしょ?」みたいなことを言われると、それが人としての幸福だと決めつけ、個人の幸福を否定されているような気がしたのだ。実際に家庭を持てば私もどんな苦痛にも耐えられる人間に変われるのかもしれないが、存在しない伴侶のために今我慢しろなど、酷以外の何物でもない。その苦痛が毎日だと尚更のことだ。

 

成長が人を優しくさせ、それが周りを高めるなら大いに結構である。しかし、不寛容で厳しい社会になる成長などいらない。成長して不寛容になるくらいだったら、自堕落でも人に優しくありたい。自分の不完全さを認め、相手も不完全で然るべしと思ってもらいたい。

 

note.com

ミステリ作品における「こんな殺され方は嫌だ」グランプリ(候補作)

突然だが、人間誰しも出来ることなら楽に死にたいものである。しかし残念ながら日本は安楽死は法的に認められていないし、ミステリという虚構の中においても楽に死ねた被害者はあまりいない。

ということで、ミステリ作品限定で特に嫌な殺され方をした人が出て来るものを列挙し、グランプリみたいなのを決められたら良いなと思う。

一応「嫌な殺され方」は殺害方法の残虐性で判断しているので、被害者死亡後の凌辱や切断などは、ここでは勘定に含まれないことをあらかじめことわっておく。死体の扱いの酷さもカウントしていると到底キリがないので。

 

「こんな殺され方は嫌だグランプリ」、自選候補作

エントリーNo.1「本陣殺人事件」

本陣殺人事件 (角川文庫)

横溝正史作品からは有名なこの作品を。殺害方法自体は特別残虐的ではないものの、あのシチュエーションで突然殺された被害者のことを思うと、肉体的な痛みに伴う辛さが身体を貫いたのではないだろうか。

 

エントリーNo.2暗闇坂の人喰いの木』

暗闇坂の人喰いの木 (講談社文庫)

島田荘司作品からはこれを。本筋となる殺人事件は殺害後の死体の扱われ方が酷いだけで殺害方法に残虐性はなかったと思うが、問題は殺害動機となったある人物の所業の方だ。その人物がやっていたアレコレが「嫌な殺され方」としてグランプリ候補となった。

 

エントリーNo.3『殺人鬼 ‐‐覚醒篇』

殺人鬼 ――覚醒篇 (角川文庫)

綾辻行人作品からは、グロいことで有名なこの作品を選んだ。基本的にスプラッター系はグロい殺し方だし、本作もそういったスプラッター系なので、当然グロい殺し方オンパレード。続編にあたる「逆襲篇」もあるが、どちらがよりグロいかはちょっとわかりかねる。何遍も読めるほどライトな作風じゃないので。

 

エントリーNo.4『碆霊の如き祀るもの』

碆霊の如き祀るもの (ミステリー・リーグ)

三津田信三の刀城言耶シリーズ中最も嫌な殺され方をした被害者が登場するのがこの作品。ノックスの「密室の行者」に通ずる変死事件が正に「嫌な殺され方」なのだが、個人的には「密室の行者」よりも嫌だと感じた本作をグランプリ候補とした。

 

エントリーNo.5人狼城の恐怖〈第2部〉フランス編』

人狼城の恐怖 第二部フランス編 (講談社文庫)

二階堂黎人の作品からは、長大なこの作品を。ドイツ編もフランス編も惨い殺し方をしているが、残虐性にかけてはフランス編の方が強め。『有栖川有栖の密室大図鑑』で紹介された密室殺人は前代未聞の残虐さだ。

 

エントリーNo.6魍魎の匣

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

京極夏彦百鬼夜行シリーズでも有名かつ衝撃度の高い作品。本作におけるバラバラ殺人が嫌な殺され方に相当するが、一部殺害動機についても「そんな理由で殺されるの!?」という点で嫌なものがある。

 

エントリーNo.7「コロッサスの鉤爪」

ミステリークロック

貴志祐介作品からは『ミステリークロック』所収のこの短編を。溺死は肉体的には勿論精神的な恐怖感も相当あるので、恐怖度としては随一だと思っている。被害者は悪人なので殺されて当然なのだが、あのような殺され方を想像すれば、悪いことは出来ないものである。

 

エントリーNo.8『屍人荘の殺人』

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

言わずもがな、映画化もされた有名作。他ジャンルの映画ではよくある殺され方だが、ミステリでは結構珍しい殺され方なんだよな。グロい殺し方というのは、被害者の罪の重さがそれだけ酷いことを意味している場合が多い。

 

エントリーNo.9『紅蓮館の殺人』

紅蓮館の殺人 (講談社タイガ)

阿津川辰海作品はまだこの一作しか読んでいないが、吊り天井で潰されて死ぬというそうそう滅多にない殺され方をした被害者がいるため、かなり印象に残っている。絡繰り仕掛けの屋敷なんて冗談でも所有するものではないことを教えてくれる作品(違う)。

 

エントリーNo.10『悪いうさぎ』

悪いうさぎ (文春文庫)

今年NHKでドラマ化された作品(最高でしたね~)。「本陣殺人事件」同様、殺害方法自体に残虐性はないものの、やはりシチュエーションが狂っている点で嫌な殺され方として候補に入れた。

 

エントリーNo.11 探偵ガリレオ「第一章・燃える」

探偵ガリレオ (文春文庫)

月9でドラマ化された東野圭吾探偵ガリレオシリーズの第一作目。シリーズ幕開けとなる事件は殺され方としてかなり嫌な部類の焼死。しかも頭部が燃えるというハードさが印象に残る。特殊な手段を用いているため、通常の焼死と異なり被害者本人の苦痛度は低いかもしれないが、それでも嫌なものは嫌である。

 

 

さて、ここからは海外作品になる。海外の方は正直あまり読めてない作品の方が多いため、エントリー数は少ない。

 

エントリーNo.12『メソポタミヤの殺人』

メソポタミヤの殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

クリスティのポワロシリーズからはこの作品を。メインとなる殺人よりも、口封じ目的で殺された人の殺害方法がも~嫌で嫌で。あんな目に遭うならいっそ毒薬で一思いに殺してもらいたいものだ。

 

エントリーNo.13ボーン・コレクター

ボーン・コレクター 上 (文春文庫)

ジェフリー・ディーヴァーの代表作。本作では他作品では見られない珍しい殺し方がある。殺される方も嫌だが、その現場の鑑識をするのもまた嫌である。

 

エントリーNo.14「モルグ街の殺人」

黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)

ミステリ小説の始まりとされた本作は、殺され方も実に嫌な歴史的名作。グロいというよりかは人間らしからぬ無秩序と不条理によって殺される。そんな感じの嫌さだ。

 

ここからは、小説だけでなく漫画や映像作品などの候補作を。

 

エントリーNo.15 金田一少年の事件簿「蝋人形城殺人事件」

金田一少年の事件簿File(12) (講談社漫画文庫)

基本的に金田一少年シリーズは初期に嫌な殺され方が集中しているが、とりわけレアな殺され方をしているのがこの「蝋人形城殺人事件」。既にドラマ化されているから知っている人も多いと思うが、後にも先にもあの道具で殺される人は出てこないはず。

 

エントリーNo.16 金田一少年の事件簿「剣持警部の殺人」

金田一少年の事件簿 File(32) (週刊少年マガジンコミックス)

同じシリーズから何作も候補を出すのは避けてきたが、この作品は初期とは異なる残虐さがあるため、特別に候補作とした。まぁ被害者が人でなしのクズなので、殺害方法が過激になるのは当然なのだが…。

 

エントリーNo.17TRICK DS版 〜隠し神の棲む館〜」

TRICK DS版 隠し神の棲む館

知る人ぞ知るドラマ「TRICK」のゲーム版。実は本家のドラマよりもグロい殺し方が多いのがこの「隠し神の棲む館」で、圧死とか首チョンパとかなかなかのハードぶり。ボリュームが山田の胸並みなのが短所だが、ミステリとしてはなかなかの出来だったので候補とした。

 

エントリーNo.18 名探偵ポワロオリエント急行の殺人」

名探偵ポワロ 全巻DVD-SET

名探偵ポワロシリーズからはこの名作を。何故原作ではなくドラマを候補にしたかというと、殺害時のやり方が原作と微妙に異なるから。ドラマでは被害者に己の罪業をわからせるために、敢えて覚醒状態にし、口もきけず身体も動かせない薬を飲ませてから殺している。そのため、この場面は原作以上の恐ろしさを感じる。これだけでも重いのに全体を通して陰鬱な感じになっているからこれは最早イヤミスなのだ。

 

エントリーNo.19 名探偵コナン「ジェットコースター殺人事件」

第1話「ジェットコースター殺人事件」

正直私は名探偵コナンはあまり詳しくないし、有名すぎるが故の敬遠みたいなものがあるのだが、それでもアニメの初期は惨殺死体(目をクワッと見開いたまま死んでいる血みどろなやつ)がよく出て来たことだけは覚えている。そんな初期作品の中でもやはり「ジェットコースター殺人事件」が間違いなく殺され方としては嫌だ。殺される本人的には苦痛度はあまりないのかもしれないが、でもやはり普通に死にたいものである。それにしても、これをゴールデンタイムで放送していたなんて、信じられないな…。

 

 エントリーNo.20 刑事コロンボ「死者のメッセージ」

刑事コロンボ完全版 1 バリューパック [DVD]

倒叙ミステリドラマの金字塔からは、女流ミステリ作家が犯人の「死者のメッセージ」を候補とした。年老いた女性が用いる殺害方法としては理にかなったものだが、被害者にしてみればたまったものではない。とはいえ、それだけのことをされる被害者なので仕方ない。後に古畑任三郎が初登場した「死者からの伝言」でも同じ殺害方法がとられている。

 

以上の20作品が現在私が読んだ(見た)ミステリの中でのグランプリ候補だ。

いつもならば紹介するだけで終わってしまうが、折角なので上記20作品からグランプリを選んでみたい

Twitter で行われている「横溝作品クズキャラ総選挙」と同じ形式でやろうと思うので、以下に投票方法を記載しておく。

 

投票期間は本日5月13日から11月13日までとする。これは上記20作品を知らない人のための配慮であり、半年もあれば上記20作品の大半を網羅することが可能だと思ったからだ。あとは単に個人的趣味でやっていることなので、短期間の集計は負担になると思ったからである。

投票は一人5ポイントの持ち点制。1作品に5ポイント全てを投票するも良し、5作品に1ポイントずつ投票するも良しだ。ただし、0.5ポイントといった小数点以下のポイント投票は無効とする。持ち点以上の投票をした場合も同じく無効とする。

③投票先は当ブログのこの記事の下の「コメントを書く」から投票するか、私のTwitter アカウントのこのツイート(↓)に直接リプライとして投票を送っていただければ良い。

投票を見られたくない場合は、ブログのコメントからの投票をおすすめする。つまり、ブログに投票として送られたコメントはブログ上に公開されないのでご注意を。

 

以上が投票方法になる。もし質問等あればコメントで送っていただければ幸いである。

出来れば他の方が知っている「こんな殺され方は嫌だ」ミステリを募ってグランプリを決めたいところだが、私自身のミステリの知識がまだまだ広くないため、安易に募った作品を候補に入れてしまうと、殺された後の処遇が酷いミステリ(殺害方法そのものに残虐さ・恐ろしさがない)も含めてしまう恐れがあるため、今回は20作品に限定した。どうかご容赦願いたい。

 

ただ、投票に関係なく「こんな殺され方は嫌だ」ミステリは常時情報を募集しているので、コメントはお気軽にどうぞ♪

知らぬが仏の絶交宣言、啄木鳥探偵處 第五首「にくいあん畜生」視聴

啄木鳥探偵處 (創元推理文庫)

サブタイトル「にくいあん畜生」は、北原白秋『柳河風俗詩』の中の「紺屋のおろく」の一節。『柳河風俗詩』は白秋の詩集『思ひ出』から4つの詩が選ばれ、1954年に男声合唱組曲として作曲されたもの。

hakusyu.net

www.aozora.gr.jp

 

(以下、アニメのネタバレあり)

 

「にくいあん畜生」

今回はアニメオリジナル回。2・3話で登場した女郎・おえんの身請け話とミルクホールでの文士たちによる歌合戦がメインとなっている。という訳で、今回は事件が起こらない回となっているが、次週放送される原作「忍冬」に登場する季久が登場し、京助と啄木が絶交するという原作にはない展開があるため、この回が後々原作に異なる影響を及ぼすのは間違いない。

 

物語そのものに触れる前に、今回は特に引用ネタが満載なので一つずつ拾っていこう。

まず、OP後の蓋平館の場面で啄木が読んでいたのは白秋の邪宗門の「邪宗門秘曲」の下り。

www.aozora.gr.jp

邪宗門』は1907年に白秋が与謝野寛、吉井勇、木下杢太郎、平野万里と五人で、長崎・平戸など九州各地を旅行した時に目にした南蛮文化を題材にしたもので、この2年後に処女詩集として自費出版している。

白秋は、1906年の新詩社で啄木と知り合っており、『邪宗門』出版の際に啄木にこれを届け、啄木も数日後に感想を白秋に送ったと言われている。

hakusyu.net

アニメの劇中みたいに目に隈をこしらえてまで読んだかは不明だが、感想を送った以上、読んだことは史実なのだ。

 

啄木が詠んだ「わがために なやめる魂をしづめよと 讃美歌うたふ人ありしかな」はアニメでは京助を想って詠んだ句とされているが、この句が収録された『一握の砂』ではこの句の後に「あはれかの男のごときたましひよ 今は何処に 何を思ふや」「わが庭の白き躑躅を 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ」「わが村に 初めてイエス・クリストの道を説きたる 若き女かな」と続くため、実際は渋民小学校に赴任した女教師・上野(うわの)さめ子を想って詠まれた句だとされている。

 

また、洋書購入後に詠んだ「あたらしき洋書の紙の 香をかぎて 一途に金を欲しと思ひしが」も『一握の砂』所収の句だが、前後の句から推察するに、函館の松岡蕗堂の下宿にいた頃の生活を元にした句だと言われている。つまり、句に記された「洋書」は自分が購入したものではなく松岡氏の下宿にあった蔵書であり、本を買えない程の金銭的欠乏を感じてくやしがる思いを詠んだもの。決してアニメのような清々しい情景の中で詠まれたものではないのだ。

 

東京朝日新聞の場面で詠まれた「大いなる彼の身体が 憎かりき その前にゆきて物を言ふ時」は当時勤めていた東京朝日新聞主筆池辺三山のことを指した句ではないかと言われている。

ja.wikipedia.org

入社したばかりの啄木と、ベテラン記者の三山。当時啄木は『二葉亭全集』の校正を任されていたが、上司に対する気後れの感情を体格のせいにする所に、彼なりの意地が見えるような気がする。

 

ミルクホールで詠まれた萩原朔太郎「ただ願ふ君の傍へにある日をば夢のやうなるその千年をば」明治38年(1905年)の句。アニメでは季久を想って詠まれた句となっているが、前述した『邪宗門』の出版以前の句のため、これは虚構に史実の句をあてはめた形になっている。

同様に、若山牧水「山を見よ 山に日は照る 海を見よ 海に日は照る いざ唇を君」も牧水の処女歌集海の声から引用したもの。この歌集は1908年に出版されている。※

 

※「酔へばみな恋のほこりのざれ言に 涙もまじる若人たちよ」「尋ねくれば たまたま友がほろ酔いの 恋嬉しき朧夜の月」は調べてもわからなかったので、情報提供があるとありがたい。それから、吉井の「朝ごとにかならず同じ浜辺にて会へば笑ひて ゆく少女あり」も同じく。

公式ツイートで短歌が紹介されていたが、出典元までは不明。

(2020.05.14追記)

 

季久がミルクホールを出てからの「まつくろけの猫が~」の詩は萩原朔太郎『月に吠える』所収の「猫」

また、その後の「とほい空でぴすとるが鳴る。~」は同書所収の「殺人事件」という詩。

www.aozora.gr.jp

 

啄木がおえんの前で詠んだ「ふるさとを出で来し子等の 相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし」は例の如く『一握の砂』所収。「ふるさとの訛りなつかし~」と同様、故郷を想い、同郷者へのシンパシーを感じさせる句となっている。

終盤に詠まれた「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」は言わずもがなの啄木の代表句。生活困窮の嘆きを詠んではいるものの、劇中で描かれているように人から借りた金を遊興に使っているろくでなしが詠んだ句なので、ある意味自業自得な面はあると言えるかも。

 

知らぬが故の絶交宣言

前述した通り、京助は啄木のおえんの身請け仲介を糾弾、絶交を宣言する展開となっているが、これは3話の原作改変が功を奏した展開となっている。何故なら、もし京助がおたきの死の真相を知っていたとしたら、あそこまで啄木のやり方を糾弾することなど出来ないはずだ。己の中途半端な優しさで一人の女性を死に至らしめた罪の方が、金銭目的のため身請け仲介をした罪などよりある意味ずっと重いし、五十歩百歩、目糞鼻糞を笑うも同然なのだから。

こういったバディの心理的すれ違いは現在放送延期中の「富豪刑事」でもある描写だが、脚本がどちらも同じ岸本卓氏なので、こういった趣向が好みなのかもしれない(金銭的な面での言い争いというのも奇妙なことに合致している)。

 

ただ、京助の感情的な糾弾は実際問題現実に即していない糾弾なのだ。

劇中では描かれていないが、啄木は既に妻帯者の身であり、同郷で互いに愛していたとしても所詮おえんは啄木の妾止まりにしかならないのだ。しかし、生活困窮の啄木に妾を囲う余裕などあるはずもなく、どっちにしろ金の切れ目が縁の切れ目で別れるのは時間の問題。そんな訳で「同じ別れるならば、身請けの仲介をしてけじめをつけよう」というのが啄木の思いだったのではないだろうか?

しかし、その辺りの機微や事情を知らぬ京助はいつもの様な目先の金目当ての行為だと思って啄木を厳しく糾弾、絶交を宣言した…というのが今回のいきさつだろう。「紺屋のおろく」や「はたらけど~」がこの物語で引用されたのは、生活困窮に伴ったうまくいかない人間関係に対する恨みつらみの反映として用いられた、というのが私の考えである。

 

ところで…。今回1話の殺人事件について言及され、今回劇中で語られた女中殺しとの相似や繋がりが指摘されていたが、これは今回のアニメの縦軸になってくるのだろうか?一応心にとめておこう。

鍵のかかった部屋(特別編)エピソード1「佇む男」視聴

8年ぶりに帰ってきた密室ミステリドラマ「鍵のかかった部屋」。

このドラマが放送されていた2012年の私はまだミステリ小説も読んでおらず、知っているミステリドラマといえばテレビ朝日系列の「TRICK」シリーズだけだったため、1話も見ることなくスルーしていたが、2016年の再放送をたまたま見つけて視聴した際「めちゃくちゃ面白いじゃないか!」と唸り、これをスルーした昔の自分を叱りたくなった。

 

防犯探偵・榎本シリーズについて

鍵のかかった部屋 (角川文庫)

原作やドラマに初めて触れる方のために簡単に説明をしておこう。

原作は貴志祐介氏によるシリーズで、防犯ショップを経営する榎本径と弁護士の青砥純子が活躍する。現在文庫が三冊(『硝子のハンマー』『狐火の家』『鍵のかかった部屋』)と単行本が一冊(『ミステリークロック』)刊行されており、全作品が密室殺人というのがシリーズ最大の売りになっている。

 

密室殺人は古今東西のミステリ作家が挑んできた定番中の定番とでも言うべき本格ミステリの一ジャンルで、密室殺人を扱ったミステリ小説のガイドブックやムック本が刊行されるくらいバラエティ豊富で巧妙なトリックが先人たちによって案出され、トリックの分類まで為されている。もしこのドラマを視聴して密室殺人に興味を持った方は有栖川有栖の密室大図鑑』を参考に、密室ミステリの深みにハマってみてはいかがだろうか?

有栖川有栖の密室大図鑑 (創元推理文庫)

 

前述したように密室殺人はこれまで手垢が付くくらいやり尽くされた定番ネタ。それだけに新しいトリックを作り出すのが難しく、ハードルの高い分野と言えるが、このシリーズはいずれの作品も斬新かつ巧妙なトリックが用いられており、非常に高水準。そのトリックにしても、探偵ガリレオシリーズみたいに一般の人が知り得ぬ専門知識を駆使したようなものばかりに頼っていないため、読後に不満があまり残らないのも評価ポイントだ。

 

そして、物語の大半が映像化に適しているのもシリーズの長所に挙げられる。

密室ミステリの名作は数多くあるが、いざそれを映像化するとなると、映像化に適した作品は結構限られると思っている。というのも、密室トリックには物理的に部屋を密室に仕立て上げるタイプ心理的トリックで密室だったと思わせるタイプに大きく分けられ、作品によっては映像化してしまうと味気なくなってしまったり、呆気なく感じてしまう場合が多い。しかし、榎本シリーズにおける密室トリックは密室構成のプロセスそのものが鑑賞に値するクオリティがあるため、見ていて退屈しないし、小説を読む以上にカタルシスが得られる部分がある。これがまた格別なのだ。

 

それに加えて、小説におけるトリックが実行可能というリアリティさが作品の魅力を後押ししている。ミステリは極端な話、どれだけトリックが凄くても説得力がないと意味がないと思っていて、特に映像化した時にその辺りのボロが出てしまうのだけど、このシリーズは現代を舞台にしているため、密室構成の目的もトリックも地に足がついたものになっている。決して「巧いトリックを思いついたから殺人に用いた」などという自己満足に帰結するようなミステリにはなっていないのだ。

 

以上、長くなったが榎本シリーズの魅力をまとめると次のようになる。

①「全作密室殺人」とテーマが決まっているため、途中参戦しやすい懐の広さ

②映像化に適したハイクオリティな密室トリック

③実行可能なトリックと、地に足のついたリアリティある世界観

 

また、ドラマオリジナルキャラとして、青砥の上司にあたる芹沢豪が登場するが、ある種道化的な立ち回りミステリに明るくない者としての役回りを果たしたことで、嵐ファン以外の中高年層にも取っつき易い構成になっており、ミステリドラマとしての間口を広くしたこの改変を私は高く評価したい。

 

「佇む男」(特別編)

ドラマ1話は『鍵のかかった部屋』所収の「佇む男」。放送当時は放送枠を拡大したバージョンだったが、特別編にあたって序盤のシーンが大幅にカットされている

まず青砥と榎本の最初の出会いの切っ掛けとなった銀行金庫に芹沢と頭取が閉じ込められてしまう場面がまるごとカットされた。この場面、今は亡き前田健さんも出演していたので、少々残念。そして、この場面をカットしたことにより、青砥が道端で唐突に榎本に話しかけるという不自然な描写になってしまった。

そして、榎本のホームグラウンドとでも言うべき備品倉庫室に芹沢と青砥が向かう下りもカットされている。原作の榎本は独立して防犯ショップを経営しているが、連ドラでの榎本は大手セキュリティ会社の社員という設定であり(スペシャルドラマで原作通り独立して防犯ショップを経営する)、変わり者としての面がより強調されているのだが、カットされているためここも不自然な描写になっている。

 

事件概要はほぼ原作通りだが、原作では割られた窓ガラスに細工がなかったこと、ドアに張られた白幕は画鋲だけでなく両面テープが貼られていたこと、ガラステーブルの下側に雑誌が積まれていたことが書かれており、より別解潰しが徹底している。

また、原作ではメインの密室トリックに加えて玄関の鍵を外部から施錠するトリックも用いられているが、(尺の都合もあるだろうが)大したトリックじゃないためカットされている。

 

(ここからネタバレ感想)死体そのものが鍵の役割を果たすというのは私がこれまで読んだミステリ小説では無かったため斬新さを感じた。徹底した別解潰しから明かされる死後硬直を利用した密室トリックが秀逸で、初めて原作未読で視聴した時衝撃を受けたものだ。トリック自体はシンプルだが、警察が気づかなかったという説得力が十分にあるのが良い。また、徹底した別解潰しが犯人の性格を裏付けているのもよく出来ている点だと言える。(ネタバレ感想ここまで)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第6話「厄運のすねこすり」〈再放送〉視聴

 今日は母の日。だけど今年はコロナウイルスの影響で花の配送が普段より大変な状況のため、花屋業界は5月まるまる母の日ってことにしているらしい。

 

すねこすり

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すねこすりは主に岡山県に現れた妖怪。アニメでは2期の「怪自動車」に初登場。原作の「妖怪自動車」は鬼太郎が登場せず、なお且つすねこすりもアニメオリジナルで登場している。そのため、大まかなストーリーは原作通りだが、事件の動機や怪自動車の正体はアニメオリジナルの設定だ。

3期では劇場版「激突!! 異次元妖怪の大反乱」で怪気象の中の妖怪の一体として登場。5期では妖怪反物の回で被害を被っているが、劇場版で妖怪四十七士の岡山代表であることが明らかになった。

すねこすりのビジュアルは水木先生によると犬の根付を参考にしたそうだが、今期のすねこすりは猫形の妖怪として描かれている。すねこすりを猫側として扱っているのは2005年版「妖怪大戦争」でも同様で、主人公のタダシは最初すねこすりを猫だと思っていた。

ちなみに、2期のすねこすりは犬形の妖怪という設定で、交通戦争の犠牲となった犬たちのために、車を持とうとする人間を襲っていた。

 

ジョハリの窓」が開く

今回は6期の名作群の一つに数えられる回。私も最終回後の振り返り企画において本作をオールタイム・ベストエピソード10選の中に入れている。

tariho10281.hatenablog.com

とはいえ、物語自体は割と結構テンプレート的で、人間と動物(ペット)の関係とか、共にいることで不幸が生じてしまうことが決まっているという「宿命論的悲劇」の物語なんかは古今東西のどの創作物においても見受けられる。まぁだからこそ共感性が高くそれだけ多くの人が心を打たれるのだけどね。

で、今回改めて見て思い出したのが、学生時代道徳か何かの授業でやったジョハリの窓というワード。

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己の性質を自分と他人の認識の差異から四つに分類したもので、自分も他人も知っている自己(開放の窓)・自分は知らないが他人は知っている自己(盲点の窓)・自分は知っているが他人は知らない自己(秘密の窓)・自分も他人も知らない自己(未知の窓)に分けて、自分の性質をどのようにコミュニケーションに用いていくかを考える手法として知られている。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回のすねこすりの場合、自分が人の気力を吸収する妖怪だと気づくことなく何百年と暮らし、鬼太郎との出会いでようやく自分が妖怪だと知ることになった。つまりジョハリの窓の四つ目「未知の窓」が開いたことになる。普通は、何も食べずとも肥えた時点でおかしいと思うはずだが、それでも自分は化け猫くらいに思っていて、「すねこすり」という認識には辿り着けなかったということなのだろう。

 

6期は「見えない世界」がテーマの一つであることは散々言ってきているが、本作では見えない世界が自分自身の内にあったというのがポイントだ。

大抵理解できないもの、見えないものというのは外の世界にあり、「自分のことは自分がよくわかっている」と考える人が大半だろうが、自己という器の中にも未知の領域は沢山ある。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

マサエの息子の翔も、鬼太郎が来た当初は鬼太郎任せで母親の傍にもいなかったのに、終盤で母を想い(結果的にせよ)母を苦しめたすねこすりに楯突いた。東京暮らしの孤独からくる反動なのかもしれないが、この一件で彼もまた「母親想い」という未知の窓が開いたと言えるだろう。

 

それから、本作では親子と家族の関係が描かれているが、最も身近で濃い関係なのが「家族」という共同体で、つい先日読了した京極夏彦の『塗仏の宴』の受け売りになるが、家族は日常を共有出来なければ家族たり得ない

翔はマサエと過疎化した村の日常に愛想を尽かして出ていき家族は解体され、そこに埋め合せとして入ってきたのがすねこすりである。すねこすりによって再構築されたマサエの“家族”は均衡を取り戻したものの、鬼太郎の登場によってマサエとすねこすりの関係は非日常であったことが明かされる。

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

鬼太郎が現れる前までは、マサエの衰弱はあくまで「風邪」という日常の延長線上の出来事として思っていたすねこすりは、ここで自分自身が“家族”を解体させてしまう存在だったことに気づく。そしてマサエとすねこすりという“家族”は解体され再びマサエと翔の家族が再構築される、という展開になっている。

物理的にすねこすりとの家族関係は解体されてしまったが、共有した家族としての日常は、翔との家族関係とはまた別の、しかし等しくかけがえのないものとしてマサエの記憶に残っていく。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

一方のすねこすりは、再構築が描かれることなく物語から退場する。後にゲゲゲの森で元気に暮らしていることが明らかになるが、6話終了時点では生死不明のまま幕を閉じたため、あの時のすねこすりは「“家族”という日常を共有出来ない業を背負った妖怪」というタグが付いており、それが悲劇を際立たせていたなと思う。

故に、すねこすりは6話で完全に退場させておくべきだったという意見もあるのかもしれないが、ここは賛成派・反対派両方の意見が聞いてみたいかな。

私は6話終了の時点で「家族を共有できなかった妖怪としての悲劇」が成立しているのだから、後にすねこすりが生きていることが判明してそれが解体されたからといって、その時点での悲劇の記憶がゼロになるとは思わないので、別に良いかなと考えているけど。

 

 

来週は「幽霊電車」。これはシリーズ定番作品なのでガッツリ解説していくよ。

名探偵ポワロ「砂に書かれた三角形」視聴

名探偵ポワロ 全巻DVD-SET

海外旅行、行きたいと思わない派のタリホーです。

 

「砂に書かれた三角形」(「砂にかかれた三角形」)

死人の鏡 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

原作は『死人の鏡』所収の「砂にかかれた三角形」。エーゲ海南部のロードス島を舞台にした毒殺事件で、タイトルにあるように三角関係がテーマになっている。

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現在ロードス島ギリシャ領となっているが、発表当時はイタリア領であった。原作ではその辺りの背景はあまり描かれていないが、ドラマではファシズム組織が島をうろついている描写があり、第二次世界大戦に向かう不穏さが表れている。

分量は50ページちょっとの短編。登場人物が限られており謎解きとしての意外性は薄いものの、クリスティが得意とする「人間関係の騙し」が特筆すべき点で、これが長編作品で更なる発展を遂げることとなった。

ちなみに、原作で登場するパメラの友人のサラ・ブレイクはカットされている。

 

(以下、ドラマと原作のネタバレあり)

 

個人的注目ポイント

・黒シャツ党

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前述したファシズム組織とはこの黒シャツ党(黒シャツ隊)を指す。これは1912年以前はトルコ領だったロードス島伊土戦争によってイタリア領になった影響によるもの。

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・ディリテリオ・オキアス

劇中でバレンタインを死に至らしめた毒はディリテリオ・オキアスと呼ばれる現地で伝わる蛇から抽出された毒。原作ではストロファンチンの一種だとされているが、こちらはキョウチクトウ科のストロファントゥス属の種子に含まれる毒で、毒矢の原料に用いられていたそうだ。

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植物毒から蛇毒に改変したのは、毒蛇の模様がはっきりしていることについての下りをポワロに喋らせるためだろう。

ディリテリオ・オキアスが実在する薬品かどうかは不明だが、基本的に蛇毒は血液中で作用する毒で、経口だと胃で分解されてしまうため飲食物に混入して殺害は無理なのだが、今回は経口による毒殺なため、蛇毒メインの毒薬だとするとバレンタインは死ぬはずがないのだ。

 

・三角関係の伏線について

原作では本来の三角関係を裏付ける伏線みたいなものはなく、ポワロも殺害現場にいて犯人の犯行の一部を目撃したため、裏付けとなる手がかり――毒薬を売った人物――の調査はしていない。ただドラマは一応伏線みたいなものを張っている。

ダグラスがカトリック信者だという設定は、カトリックは離婚を禁止しているという教義に基づくもので、妻マージョリーの嘘を示している。また、一同がレストランで昼食をとった際にチャントリー中佐が「このワインは何だ。まるでピンクジンだ」と憤慨しているが、バレンタイン殺害時にはピンクジンを自発的に注文しており、その不自然さも犯人特定の手がかりになっている。

容疑者が限定されている短編のため、バカ丁寧に伏線配置する必要がないとクリスティは思ったのかもしれないが、ドラマ制作陣としては尺のこともあるしミステリドラマとしての体裁は守らなければならないという思いがあったのかもしれない。

 

事件自体は別段改悪にはなってないが、正直ダグラスは原作通り「ずばぬけた美男子」の方が良かったかな~と思う。その方が夫の不貞にやきもきする妻というミスリードも効果的だっただろうしね。あと序盤でバーンズ少佐(原作は将軍)がパメラを追っかけていたのは何だったのだろう。最初は彼女にお熱なのだろうかと思ったが、別にそんな感じじゃなかったしね。

 

 

次週は海上の悲劇」。また旅行ものです。