タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

知らぬが仏の絶交宣言、啄木鳥探偵處 第五首「にくいあん畜生」視聴

啄木鳥探偵處 (創元推理文庫)

サブタイトル「にくいあん畜生」は、北原白秋『柳河風俗詩』の中の「紺屋のおろく」の一節。『柳河風俗詩』は白秋の詩集『思ひ出』から4つの詩が選ばれ、1954年に男声合唱組曲として作曲されたもの。

hakusyu.net

www.aozora.gr.jp

 

(以下、アニメのネタバレあり)

 

「にくいあん畜生」

今回はアニメオリジナル回。2・3話で登場した女郎・おえんの身請け話とミルクホールでの文士たちによる歌合戦がメインとなっている。という訳で、今回は事件が起こらない回となっているが、次週放送される原作「忍冬」に登場する季久が登場し、京助と啄木が絶交するという原作にはない展開があるため、この回が後々原作に異なる影響を及ぼすのは間違いない。

 

物語そのものに触れる前に、今回は特に引用ネタが満載なので一つずつ拾っていこう。

まず、OP後の蓋平館の場面で啄木が読んでいたのは白秋の邪宗門の「邪宗門秘曲」の下り。

www.aozora.gr.jp

邪宗門』は1907年に白秋が与謝野寛、吉井勇、木下杢太郎、平野万里と五人で、長崎・平戸など九州各地を旅行した時に目にした南蛮文化を題材にしたもので、この2年後に処女詩集として自費出版している。

白秋は、1906年の新詩社で啄木と知り合っており、『邪宗門』出版の際に啄木にこれを届け、啄木も数日後に感想を白秋に送ったと言われている。

hakusyu.net

アニメの劇中みたいに目に隈をこしらえてまで読んだかは不明だが、感想を送った以上、読んだことは史実なのだ。

 

啄木が詠んだ「わがために なやめる魂をしづめよと 讃美歌うたふ人ありしかな」はアニメでは京助を想って詠んだ句とされているが、この句が収録された『一握の砂』ではこの句の後に「あはれかの男のごときたましひよ 今は何処に 何を思ふや」「わが庭の白き躑躅を 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ」「わが村に 初めてイエス・クリストの道を説きたる 若き女かな」と続くため、実際は渋民小学校に赴任した女教師・上野(うわの)さめ子を想って詠まれた句だとされている。

 

また、洋書購入後に詠んだ「あたらしき洋書の紙の 香をかぎて 一途に金を欲しと思ひしが」も『一握の砂』所収の句だが、前後の句から推察するに、函館の松岡蕗堂の下宿にいた頃の生活を元にした句だと言われている。つまり、句に記された「洋書」は自分が購入したものではなく松岡氏の下宿にあった蔵書であり、本を買えない程の金銭的欠乏を感じてくやしがる思いを詠んだもの。決してアニメのような清々しい情景の中で詠まれたものではないのだ。

 

東京朝日新聞の場面で詠まれた「大いなる彼の身体が 憎かりき その前にゆきて物を言ふ時」は当時勤めていた東京朝日新聞主筆池辺三山のことを指した句ではないかと言われている。

ja.wikipedia.org

入社したばかりの啄木と、ベテラン記者の三山。当時啄木は『二葉亭全集』の校正を任されていたが、上司に対する気後れの感情を体格のせいにする所に、彼なりの意地が見えるような気がする。

 

ミルクホールで詠まれた萩原朔太郎「ただ願ふ君の傍へにある日をば夢のやうなるその千年をば」明治38年(1905年)の句。アニメでは季久を想って詠まれた句となっているが、前述した『邪宗門』の出版以前の句のため、これは虚構に史実の句をあてはめた形になっている。

同様に、若山牧水「山を見よ 山に日は照る 海を見よ 海に日は照る いざ唇を君」も牧水の処女歌集海の声から引用したもの。この歌集は1908年に出版されている。※

 

※「酔へばみな恋のほこりのざれ言に 涙もまじる若人たちよ」「尋ねくれば たまたま友がほろ酔いの 恋嬉しき朧夜の月」は調べてもわからなかったので、情報提供があるとありがたい。それから、吉井の「朝ごとにかならず同じ浜辺にて会へば笑ひて ゆく少女あり」も同じく。

公式ツイートで短歌が紹介されていたが、出典元までは不明。

(2020.05.14追記)

 

季久がミルクホールを出てからの「まつくろけの猫が~」の詩は萩原朔太郎『月に吠える』所収の「猫」

また、その後の「とほい空でぴすとるが鳴る。~」は同書所収の「殺人事件」という詩。

www.aozora.gr.jp

 

啄木がおえんの前で詠んだ「ふるさとを出で来し子等の 相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし」は例の如く『一握の砂』所収。「ふるさとの訛りなつかし~」と同様、故郷を想い、同郷者へのシンパシーを感じさせる句となっている。

終盤に詠まれた「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」は言わずもがなの啄木の代表句。生活困窮の嘆きを詠んではいるものの、劇中で描かれているように人から借りた金を遊興に使っているろくでなしが詠んだ句なので、ある意味自業自得な面はあると言えるかも。

 

知らぬが故の絶交宣言

前述した通り、京助は啄木のおえんの身請け仲介を糾弾、絶交を宣言する展開となっているが、これは3話の原作改変が功を奏した展開となっている。何故なら、もし京助がおたきの死の真相を知っていたとしたら、あそこまで啄木のやり方を糾弾することなど出来ないはずだ。己の中途半端な優しさで一人の女性を死に至らしめた罪の方が、金銭目的のため身請け仲介をした罪などよりある意味ずっと重いし、五十歩百歩、目糞鼻糞を笑うも同然なのだから。

こういったバディの心理的すれ違いは現在放送延期中の「富豪刑事」でもある描写だが、脚本がどちらも同じ岸本卓氏なので、こういった趣向が好みなのかもしれない(金銭的な面での言い争いというのも奇妙なことに合致している)。

 

ただ、京助の感情的な糾弾は実際問題現実に即していない糾弾なのだ。

劇中では描かれていないが、啄木は既に妻帯者の身であり、同郷で互いに愛していたとしても所詮おえんは啄木の妾止まりにしかならないのだ。しかし、生活困窮の啄木に妾を囲う余裕などあるはずもなく、どっちにしろ金の切れ目が縁の切れ目で別れるのは時間の問題。そんな訳で「同じ別れるならば、身請けの仲介をしてけじめをつけよう」というのが啄木の思いだったのではないだろうか?

しかし、その辺りの機微や事情を知らぬ京助はいつもの様な目先の金目当ての行為だと思って啄木を厳しく糾弾、絶交を宣言した…というのが今回のいきさつだろう。「紺屋のおろく」や「はたらけど~」がこの物語で引用されたのは、生活困窮に伴ったうまくいかない人間関係に対する恨みつらみの反映として用いられた、というのが私の考えである。

 

ところで…。今回1話の殺人事件について言及され、今回劇中で語られた女中殺しとの相似や繋がりが指摘されていたが、これは今回のアニメの縦軸になってくるのだろうか?一応心にとめておこう。