タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

成長という強迫観念に抗いたい

前の職場を辞めて半年以上が経つ。

コロナ禍による自粛を利用してかなり自堕落かつストレスフリーな毎日を過ごしている一方、早く仕事に就かなければという焦りみたいなものがじわじわ滲みつつある。その一方で、前の職場みたいに性格のキツい上司にあたったらどうしよう…と、まだ就いてもいないのに対人的恐怖で尻込みしている自分がいる。

私が仕事に対して不安に感じるのは仕事内容そのものよりも、対人的なものや成長を求める社会構造の方が強い。

 

成長というのは職種によって求められるタイプが異なるが、大体の企業はコミュニケーション力とか、明朗快活な対応、マナーや上昇志向がある人を求めるだろうし、私はそういった諸々の要素を全否定するつもりはない。それで社会が円滑に回っていくのなら大いに結構である。

 

ただ、社会人一年目からそれら全てを求められる、という点には大きな疑問を感じている。採用の段階である程度社会人としてのスキルがないと採用されないし、仮に入れたとしても周りの人間は更なる成長を求めて来るのだから、ちょっとでも気を抜くと「意識が低い人間」というレッテルをはられてしまう。

 

控えめに言って、私はこういう社会構造が「しんどい」のだ。

 

例えば、まだ入社してもいないのに面接で入社してからのキャリアプランを聞く企業があるが、相手がどれくらい会社の業務内容を理解しているか把握するための目的があるにせよ、数年先の役職まで構想を広げていけるほど、心理的余裕が就活生にはないのではないかと思う。勿論、好きな職種の企業ならばそういうキャリアプランも己の楽しみになるのだろうが、皆が皆好きな企業に入れる訳じゃないし、経済状況などの理由で地元でしか働けない人も沢山いるのだから、キャリアプランがないからダメみたいなことを言われると、傷つく。

 

本来働くのは生活を豊かにするためのはずが、いつしか経済を豊かにするために働くことに論点がすり替わっているような気がするのだ。だから私みたいに「好きなことをするために働く」という考え方をする人が低俗で低意欲だという風潮になっているのではないかと思えて来る。そうやってどんどん社会は不寛容になり、意識が高く明朗快活でマナーに長けた人ばかりが「社会人」と呼ばれる。

 

そして、往々にして最初から意識が高い社会人は、要領が悪く不完全な新社会人に対して不寛容かつ厳しい。出来て当たり前のことが出来ないからその責めも厳しくなるのだ。

前の職場の上司が正にそういうタイプの人で、例えばその上司が私に対して尋ねた時私が「だから〇〇で」と言うと、「私が聞いているのに『だから』という言い方はぞんざいで失礼です!」とキレられたし、被せ気味に応答すると「反抗的に聞こえる」とキレられた。仕事そのものだけでなく、言葉一つ選択を誤るとキレられるのだからこれはもうキツい。うっかりすらも許されないのだから。

 

命がかかっている職種でも状況でもないのに矢鱈と注意されたりキレられたりしたので、流石の私も精神に異変を来し、逃げるようにして会社を辞めた。辞める直前はその上司の顔も見たくなかったし声も聞きたくなかった。いっそ死んでくれたら…とかそれ位嫌いだった。仕事を辞めた今でもその思いは拭いきれてない。

 

別にその上司の言っていたことは間違ってはいない(100%正しいかというとそうでもなかったが)、ただ不寛容で攻撃的で完璧さを求める性格が私に合わなかったのだ。せめて寄り添う感情を持ち合わせていたら、もう少し長続きしたかも…とは思っている。

辞める前に数度会社の常務の人と話をする機会があったが、「いじめてるつもりはないんや」と、その上司の人を庇うような発言こそすれ、どういうことを言われたか、私が何に対して辛いと感じたのか、そういったことは一切聞かれなかった。

 

「上司は庇うくせに、私の辛さには耳を傾けず成長を求めるのですね」

私の社会人、とりわけ年齢が高い人に対する不信・不安感はこういった事情に起因している。

小さい会社だったから社長も私が受けている状況は知っており、(これも辞める前だが)「結婚して子供もいずれ出来るんやから、ぐっと我慢しなきゃならん時がある」ということを私に言った。それを言われた直後は、私の真面目な勤務態度にも触れてくれて正直なところ嬉しかったのだが、よくよく考えると私が結婚して子供をもうける前提で話をしていた点にモヤっとしてしまった。

これが身内から言われた発言ならまだ飲み込める部分がなくはないのだが、他人に「結婚して子供を作るんでしょ?」みたいなことを言われると、それが人としての幸福だと決めつけ、個人の幸福を否定されているような気がしたのだ。実際に家庭を持てば私もどんな苦痛にも耐えられる人間に変われるのかもしれないが、存在しない伴侶のために今我慢しろなど、酷以外の何物でもない。その苦痛が毎日だと尚更のことだ。

 

成長が人を優しくさせ、それが周りを高めるなら大いに結構である。しかし、不寛容で厳しい社会になる成長などいらない。成長して不寛容になるくらいだったら、自堕落でも人に優しくありたい。自分の不完全さを認め、相手も不完全で然るべしと思ってもらいたい。

 

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