タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

「ホグワーツ・レガシー」が歴史学的にも神ゲーであるというお話

ホグワーツ・レガシー - Switch

どうも、タリホーです。今月はあまりブログを更新していなかったが、その理由というのがこれから話すゲームホグワーツ・レガシー」についてだ。

 

ホグワーツ・レガシー」は J・K・ローリング原作のハリー・ポッターシリーズを元にしたアドベンチャーゲームで、2023年に発売された。もう1年近く経ってブームも過ぎたのに今更プレイしようと思い立ったのは、ちょうど先日ダウンロード版が7割引きの値段でセールされており、「それならやってみようかな」という感じで購入した訳である。

 

実をいうと、私は既に YouTube で他の方のプレイ動画を見ていたので完全初見ではなくある程度ストーリーを知った上でのプレイなのだが、これがこれがメチャクチャドはまりして、気が付いたら5時間ぶっ通しでゲームをしていた日もあった。それくらいやめ時を見失うはまり具合、沼のようなゲームなのだ。

プレイ動画を見ていた時は(クオリティの高さはわかったものの)実際にプレイするほどのものでもないかな?と思っていたけど、いざやってみると結構蒐集要素が多くて、敵との戦闘も色々工夫出来ることがあったり、想像以上のオープンワールドで散策するだけでも楽しいし、そりゃ人気になるのも納得の一作だった。

 

以上のように、「ホグワーツ・レガシー」にドはまりしていたのでブログ更新が疎かになっていたという訳だが、昨日ゲームをクリアしたので、ここからはプレイした感想と本作「ホグワーツ・レガシー」に対する私なりの評価をしていきたい。

 

敵やストーリー自体はさほど魅力的ではない

まず個人的な評価ポイントの前に、批判されやすいポイントを挙げておこうと思う。

本作は1800年代の魔法界を舞台にした物語で、ハリー・ポッターが生まれるずっと前、まだアルバス・ダンブルドアも入学していない頃のお話だ。本作の主人公(プレイヤー)は5年生からホグワーツに入学するという異例の生徒で、ホグワーツの教師であるフィグ先生引率のもとホグワーツへ向かうというのが物語の冒頭となる。そこから主人公はランロク率いる小鬼の反乱軍、闇の魔法使いによる犯罪組織「アッシュワインダーズ」密猟組合といった様々な敵と戦いながら、四人の魔法使いが封印したとある古代魔術の秘密に近づいていくという、そんな感じのストーリーである。

 

で、このストーリーに関しては(後ほど詳しく語るが)よく考えられているし、映画ではなくゲームだからこそじっくり描写出来ているという長所もあるとはいえ、エンターテインメントの観点から見ると、やや凡庸な展開という意見が出るのも納得だと思う。私もプレイ動画を見ていて実際にプレイしたいと思わなかったのは、悪く言えばありきたりなプロットだったというのもある。

この凡庸さの原因の一つには本作の敵がハリー・ポッターシリーズの宿敵であるヴォルデモート卿や死喰い人たちに比べて魅力的でないというのもあると思う。特に犯罪組織「アッシュワインダーズ」のリーダーであるビクトール・ルックウッドは、本作の黒幕の一人なのにもかかわらず、終始小物みたいな悪役で、結構あっさりと倒されることもあってかあまり印象に残らない。ラスボスに相当する小鬼のランロクにしても、やはりヴォルデモートとハリーの、あの映画での死闘を見ている私としてはもう一声アピールポイントが欲しかったかなという感じである。

 

ただ、これがハリーポッターシリーズの前日譚であることを考えると下手に悪役に設定を盛れないという制約があるのが難しい所で、ここでヴォルデモートやグリンデルバルドに匹敵するような邪悪を描いてしまうと原作の設定と矛盾してしまう。つまり、ヴォルデモートやグリンデルバルドが誕生する以前に魔法界を揺るがすような悪がいたとなると、「では何故原作や映画ではそんな悪の存在が語られていないのか?」という事態になってしまう。それでは歴史的にも齟齬を来してしまうから、だからこそ本作の悪役は魔法界やマグルの世界にまで影響を及ぼす悪ではなく、ホグワーツ城の周辺地域を脅かす犯罪組織や密猟者というレベルの悪にしたのだろう。エンタメ作品としてはスケールダウンしていると言わざるを得ないが、その辺りの弱点を本作は政治的・歴史的な要素を盛り込むことでカバーしているのだ。

 

レガシー(遺産)を巡る物語

ゲームタイトルに冠されているように、本作はレガシー(遺産)をテーマとした物語だが、勿論これは本作のメインとなる古代魔術だけではなく、ホグワーツ城に保管・陳列されている様々な遺品・骨董品・美術品も含まれており、そんな数々の歴史的遺産を巡り情報を集めていくことが、本作をプレイする上で重要なポイントとなる。

 

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ホグワーツを散策するだけでも、そこかしこに歴史的遺産が陳列されていることがわかる)

 

一般的なマグルの学校ではトロフィーや賞状といった卒業生の偉大な功績を称えたものが飾られがちだし、実際本作でもそういった偉業を称えた遺産もあるのだが、このホグワーツではいわゆる失敗の歴史まで飾られているのが面白い所だ。一つ例を挙げると、映画本編でも登場した「必要の部屋」の向かい側にかかっている大きなタペストリー。このタペストリーにはトロールにバレエを仕込んでいる男が描かれており、その男は「バカのバーナバス」として知られている。愚かにも知能の低いトロール※1に芸を仕込もうとして失敗した男を一つの教訓として記録し、美術品として展示している。ホグワーツではこれ以外にも先人たちの失敗が至る所に展示されており、生徒の目につく所に展示されている数だけ見れば、むしろ功績よりも失敗の遺産の方が目立つように展示されている印象を受けた。ホグワーツでは道徳や国語・倫理といった授業がない分、このような形で教育を施しているのだろう。

 

こういった失敗の歴史は成功の歴史と同じくらい重要なのにもかかわらず、実際は表沙汰にされにくい。特に失敗は恥と結びつけられ、当人だけでなくその子孫の名誉や尊厳まで傷つけてしまうリスクもあるため、実際はホグワーツのように失敗の遺産を学校に飾るということは現実ではまず出来ない話だが、私たちの社会はそこを昔話や寓話・小説といったものを通して先人たちの過ちを学んでいるので、その違いが個人的には興味深く面白いと感じた。

個人的にはホグワーツのように失敗の歴史が飾られている方が、その逸話にリアリティがあって生徒には良いと思う。単に話を聞くだけだと他人事として受け取ってしまう人もいるだろうし。

 

※1:トロールの中にも簡単な言語ならば話したり理解することが出来る者もいるが、基本的には知能は低く、訓練出来たとしてもせいぜい守衛くらいの仕事しか出来ないそうだ。

【ディスカバー・ハリー・ポッター】魔法族ワールドの魔法生物たち-YouTube

 

(以下、ゲーム本編のネタバレあり)

 

秘すれば良いという話ではない

本作のメインストーリーの肝となる古代魔術は、かつてその力で人の感情を抜き取るという禁忌を犯した魔法使いがいたため、守護者と呼ばれる四人の魔法使いによってその存在は秘匿されることとなり、後に古代魔術の痕跡を見られる者が現れた場合、その者に試練を与えることにした。そして、古代魔術の管理を委ねるに値する者として選ばれたのが本作の主人公(プレイヤー)である。

 

この古代魔術にまつわる四人の守護者と、闇堕ちした魔女イシドーラ・モーガナークに関する物語は是非ともゲームをプレイしてもらいたいので省略するが、私がゲームをクリアして思うことは、四人の守護者が決めたことは8割方正しかったけど、全面的に正しかったかと言うとそうは思わないというのが正直な私の意見である

四人の守護者は古代魔術の力の危険さ、それが闇の魔法使いの手に渡ることを恐れて古代魔術とその保管所の秘匿を主人公に委ねている。この思い自体は決して間違っていないしだからこそ主人公によって守られる結末を迎えたのだけど、秘匿したことが裏目に出ている点もあったというのもまた事実であり、これが本作のランロク率いる小鬼の反乱につながる。

 

これは別に小鬼に限らず私たち人間にも当てはまることだけど、「隠されたものにこそ真実がある」という考えって、必ずしも正しいとは限らないのにそれが正しいと信じて疑わない人って一定数いるよね?俗に言う陰謀論にはまる人も大体こういった考えを持っていると思うが、私自身これまで当ブログでレビューしたり解説した作品のほとんどが、作中・劇中で明確に描かれなかったこと、隠されていることから何かしら読み解いていくアプローチをしたものばかりなので、「隠されたものにこそ真実がある」という考えを真っ向から否定する立場ではないかもしれない。

でも一応断っておくと、隠されたものから読み取れることは真実ではない。あくまでそういう見方が出来るというだけの話なのだ。しかし、現実社会では隠し事はネガティブなこととして受け取られやすいし、そこに人間の本質・本性があると短絡的に考えてしまう人がいるのもまた事実である。

 

本作の場合ランロクは、古代魔術が秘匿されていること、そしてその古代魔術の保管に用いられている器が小鬼によって製造されたもの※2であることから「魔法族は古代魔術を独占し、小鬼をいいように利用している」という偏見を持ち、魔法族に反乱を起こした。勿論四人の守護者は古代魔術の独占という邪な目的でそれを封印した訳ではないので、私たちプレイヤー視点ではランロクの考えが全くの的外れ・偏見であることは一目瞭然なのだが、ランロクが過去に一部の魔法使いから酷い仕打ちを受けたことや、小鬼が魔法使いよりも劣った種族であるという差別的な考えを抱く魔法使いもいるため、彼がそのような偏見を抱くに至った社会的背景が描かれているのも本作の評価ポイントだ。

 

で、四人の守護者はこのような小鬼の反乱と、古代魔術の所有権について生前の段階から考えた上で秘匿していたのかという話になるが、本編の様子を見る限りだとどうも生前の段階で小鬼に狙われるリスクを全然考えていなかったように見えるし、意識的に差別していなかったにせよ、こういう所に魔法族の無意識の差別が読み取れるのも本作の脚本の秀逸さだと私は高く評価しているのだ。

まぁ小鬼の反乱は過去にも何度かあって特に魔法族に甚大な被害が出た訳ではない※3ので、守護者たちが小鬼の脅威を視野に入れていなかったのにも相応の理由があるのだが、小鬼族の能力(金属加工の技術を含めて)をどこかで軽んじていたのは確かだと思うし、そこも含めて四人の守護者が古代魔術を秘匿したことは、部分的には正解だったが見通しに甘い部分があった。何より秘匿したことで却ってランロクに「古代魔術の真の所有者は俺たち小鬼だ!」という考えを強固なものにしてしまったことを思えば、むしろ悪手ではなかったか?と言えるかもしれない。

 

※2:小鬼族では所有権はその物品を製造した者に権利があるという共通認識があり、たとえ魔法族に売買によって譲渡したとしても最終的な所有権は製造した小鬼に帰属する。

※3:過去に起こった小鬼の反乱については、サイドクエストの「魔法史の授業」でその一部を知ることが出来る。1752年の小鬼の反乱で甚大な被害を受けたのは"魔法使いのマント"だったというビンズ先生の言葉から推察するに、魔法族から死傷者は一人も出なかった模様。(死傷者が出ていたらそっちが優先して記録されるはずでしょ?)

 

語らないことが過ち

本作をプレイしていく中で主人公であるプレイヤーは多くの人と関わり、特にグリフィンドール生のナツァイ・オナイ、ハッフルパフ生のポピー・スウィーティング、スリザリン生のセバスチャン・サロウの三人とは苦難を共にすることになる。この三人と関わるうちに主人公は彼らが内に抱えているコンプレックスや後悔・過ちといったものにも触れていくことになるのだが、本作では物だけではなく人にも失敗の歴史があり、ホグワーツの教師陣の中には、とある失敗・過ちを経て教職に就いた先生もいる。こういった様々な人々の失敗からプレイヤーが主人公にどのような道を歩ませるのか、どのような返答をさせるべきか考えるのも「ホグワーツ・レガシー」の面白いポイントである。

 

そんな数々のエピソードの中でも、特にプレイヤーの心にズーンと重く暗い感情をもたらすのがセバスチャンのエピソードだ。あまりネタバレしたくないので詳細は控えるが、彼は小鬼の呪いで苦しむ妹を助けるために禁じられた闇の魔術に傾倒してしまうという、一言でまとめるとそんな感じの青年である。彼の親友で同じスリザリン生のオミニス・ゴーントは闇の魔術に傾倒する彼を心配し、闇の魔術から手を引くよう常に訴えているため、主人公(プレイヤー)はセバスチャンとオミニスの間で板挟み状態になりながら、物語を展開していくことになる。

 

闇の魔術が絡むエピソードということもあって、主人公が禁じられた呪文(インペリオ、クルーシオ、アバダケダブラ)を習得する機会が用意されているのもこのエピソードである。ゲームという点で考えればこの三つの呪文は戦闘面で非常に便利であり、アバダケダブラを唱えればどんなに体力の多い強敵も一撃で倒せるし、インペリオで敵を操れば同士討ちだって可能だ。私は今回のプレイで習得しなかったが、他のプレイヤーはこの三つの呪文を用いて戦闘を一気に終わらせていたから、実際便利なことには変わりない。とはいえ、制作陣もそこを見越してか、本作では闇の魔術に関わった者には悲劇的な結末しか待っていないということを明確に描いている。いかに便利であろうと、善意や正義が切っ掛けであろうと、禁じられた呪文は必ずそれ相応の理由があって禁じられており、使えば道を外れいずれは不幸な結果になると知る羽目になるのだ。

 

セバスチャン絡みのエピソードでは、闇の魔術に関わることが過ちであるというのは勿論のこと、「じゃあ何故闇の魔術に関わるとダメなのか?」という根本的な疑問を説明しないことも大きな過ちであると描いているのも脚本の巧いポイントだ。

以前テレビで放送されたドラマ「ミステリと言う勿れ」では「何故人を殺してはいけないのか?」という疑問が提示され、それに主人公の久能整が答えるシーンがあった。基本的に殺人や近親婚といったタブーは「それをやったら後々ヤバイことになる」というのが理屈ではなく感覚(多分遺伝子にインプットされているのかも)的に理解しているのでわざわざ議論せずとも私たちは「やってはいけない事」として把握している訳だが、一部の人間はそういった感覚が欠如しており、理屈で説明しないといけない場合がある。しかし、普段そういったことを意識したり議論していない人は当然何故それがダメか言語化出来ないのだから、そこを論理的に説明出来る人やそういう作品があることは非常に大事なのだ。

 

本作のゲームに話を戻すと、セバスチャンの叔父であり養父であるソロモンの態度はことごとく悪手というか、闇の魔術に傾倒しているセバスチャンに逆効果なことをしているのだ。保護者としてはまぁ当然の態度なのだが、教育者としては完全にダメで、特に頭ごなしに彼のやることを否定していること、「関わるな」と言うばかりで具体的に何がダメなのかを丁寧に説明したり、お互いに議論しようとすらしなかったことが個人的には「ああ、それは余計悪化するよ…」と思わずにはいられなかった。

実際本編を見ているとセバスチャンが妹のお見舞いとして持って来た品を「妹に変な希望を持たせるな」と勝手に処分するし、彼を「あの頑固な兄の子供」と言って扱っていたことを見ても日常的に彼の癇に障るような発言をしていたことがうかがえるので、二人が険悪な関係になるのも当然である。特に思春期の青年は夢や希望の実現のために選択肢を増やしたいと思う年頃でしょ?そんな多感な時期の15歳前後の青年に「もうそんなのやっても無理だから、お前はやるべきことをやれ」みたいなことを言ったらそりゃ反抗するよ~って思ったもの。

 

一応ソロモン側の考えも自分なりにあって、闇の魔術の危険性を丁寧に説明したらより一層それに傾倒してしまうのではないか?という恐れがあったから頑なに「ダメなものはダメ」という程度のことしか言わなかったのかもと思っているけど、ここも先述した守護者の件と同様、頑なに具体的なことを言わず隠したからこそセバスチャンは「そこに突破口がある!」と思った訳で、仮に闇の魔術で妹の苦しみを取り除いたとしても、以前の彼女に戻る訳ではない、むしろ「自分は闇の魔術で生かされている」という罪悪感や苦しみを妹に植え付けることになると言って諭す必要があったと思うのだ。その説明を放棄したことが最大の悪手だったと思う。

 

…まぁ当事者でないからこそ冷静に言える話だけど、実際は頭に血がのぼってこういう考えに至ることの方が難しいのかもしれないし、病気で苦しむ人を看病していると看病している人も精神がすり減って平常時の精神状態でなくなるという状況を考えればソロモンを安易には非難出来ない。それにソロモンだけが悪い訳ではなく、セバスチャンの方も妹を助けたいという思いばかりが強くなって、今現在妹はどう思っていて何を希望しているのか、それを一切聞かずに暴走していたから、もうホントもどかしいというか、「セバスチャンはそれでいいかもしれないけど、妹さんにまた別の心の傷を与えることになるよ?」って、せめてそれだけは言ってくれ主人公!ってなったわ。

 

いや~、こうやって振り返っても本当にセバスチャンのエピソードは絶望的なまでにセバスチャンとソロモンのお互いが視野狭窄で「議論などするだけ無駄だ!」というスタンスでいるから辛いですよ…。こういうエピソードを見るとたとえ根本的に何も解決せず意見が衝突したまま終わることになっても、議論に議論を重ねるって大事だなと考えさせられるし、今その議論に何の価値がなくても後になって「ああ、あの時言っていたことってこういう意味があったのか」とか「あの人とは意見が合わなかったけど言うべきことは言えたな」ってなる瞬間がいずれ来ることを思えば無駄な議論なんてないと、そう主張したい。セバスチャンも愚かではあったが闇の魔術を理解し操っただけあって決してアホではないし、地頭はむしろ良い方だと思うので、その危険性を説けば理解出来る余地もあったと思うと尚更あの結末は本当に残念でならない。

 

さいごに

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以上のように、「ホグワーツ・レガシー」は実際にプレイしてみると色々と考えさせられる要素があって、ガチのハリポタオタクでもない私も十分堪能することが出来る神ゲーだった。大学で歴史学を専攻していた私が本作を歴史学の観点から評価すると、本作におけるレガシーというものの描き方には単なるエンタメ作品以上の奥深さを感じられたし、小鬼や闇の魔法使いが古代魔術を手に入れようとするために「俺たちには古代魔術を手にする権利がある!」と、その正統性を主張している所は注目すべきポイントだ。

 

よその大学で教えているかどうかわからないが、私が大学一回生の時、歴史学(特に古代史かな?)を学ぶ時に重要なポイントとして「何故その歴史書が記録され編纂されたのか?」を教わるのだけど、例えば『古事記』や『日本書紀』といった歴史書は、当時の為政者が自分の政治活動の正統性を主張するために記録し編纂したものだとされており、つまり当時の天皇が「私はこの国を作った神々の直系の子孫なので、この国を私たち天皇家が統治するのは当然でしょ?」ということをアピールする意図があるからこそ、神々の神話やそれに連なる天皇家の政治活動が記録・編纂されたという訳である。

 

これは古代に限らずどの時代においても当てはまる話で、侵略戦争においても大抵は「私たちはこういった正当な理由・理想があるからあの国を攻めているのですよ!単なる侵略目的じゃありませんよ?」という具合にもっともらしい正当性を掲げて戦争をやっているので、本作のランロクやルックウッドといった敵役が歴史的正統性を掲げて古代魔術を狙っているというのが地味ながらも感心した。

エンタメ作品でここまで政治的なことを描き、それを一本のゲームとして成立させる(しかも魔法界というフィクションの社会で!)というのは何気に難しいと思うし、一個人に対する憎悪が種族全体に対する憎悪へと悪化する心理描写など、現実世界でも起こっている種族間のヘイトや紛争にも関わることを描いている点も含めて実によく出来た作品だと高く評価したい。

 

www.bbc.com

そういやこのゲームが発売された当初、原作者がトランスジェンダー否定論者であり、その作者が原作のゲームを制作するとは何事かという批判意見が出たそうだ。このゲームをプレイしたら原作者の懐に金が入るから購入をボイコットしようとする動きもあったみたいだし、「このゲームをプレイすることはトランスジェンダーの人の命を軽視している」という意見も出たほどだとか。

 

これに関しては正直ゲームをプレイする前は「うーん、そういう意見が出ても仕方ないのかな…」と思っていたが、プレイした後でこういった批判を見ると(言い方は悪いが)何とまぁレベルの低い批判だなと呆れてしまう。仮に作者がトランスジェンダーを否定していたとしても、別にそれが作中に思想として反映されている訳ではないし、こういった全世界で発売するゲームでは宗教や人種等の差別に配慮し、多くのスタッフによる精査を経て完成するのだから、このゲームをプレイしたからと言って作者の有害な思想を黙認しているというのは、こじつけにも程がある。そんな坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」理論を主張するのは、作中のランロクと同レベルの思考回路だ。

 

余談

・本作でイシドーラが犯した「感情を抜き取る魔法」を見てゲゲゲの鬼太郎(第3期)で放送された、とあるエピソードを思い出した。

lineup.toei-anim.co.jp

かなりマイナーでよっぽどのマニアでないと知らないエピソードだと思うので一応解説しておくと、この回では西洋の妖精が日本で労働に苦しむ大人たちを解放するためにストレスを青い涙に変えて抜き取っていくという、正に本作のイシドーラと同じようなことをやるのだ。で、ストレスがなくなったから日本は平和で幸福な社会になるのかと思いきや、ストレスがなくなった大人は働かなくなって公園で遊び始め、平和になるどころか逆に大混乱を巻き起こすという、ざっくりまとめるとそんな感じの物語だ。苦しみや悲しみを取り除けば人間は幸福になれるという短絡的な思考に対するアンチテーゼとして印象的だったからよく覚えているし、だからこそイシドーラが本編でやらかしたことの重大さも深くわかった気がする。

 

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・今回プレイするにあたって、私は主人公を知性重視型のレイブンクローにしたが、特に寮に対してこだわりがないのであればレイブンクローがおススメかも。というのもレイブンクローの生徒はサブクエストには度々登場するものの、本筋の事件にはあまり深く関わってこないので、全ての寮が満遍なく活躍する物語にしたいのであれば、主人公はレイブンクローにした方が良いだろう。