鬼太郎5期も25話の配信終了から1週間経った。一応様子見で続きが配信されないか待ってみたが、やはり配信されないので前に言った通り26話以降についての感想を述べていきたい。
準レギュラー・アマビエの登場
まずは26話に初登場し、後に準レギュラーとして何度も登場するアマビエについて。何度も言うが、このコロナ禍で再ブレイクしたにもかかわらず頑なにも東映は5期アマビエが登場した回を一切配信しないのはやはり勿体ない話だ。とはいえ、そんな愚痴をメインに言いたいのではなく、アマビエが参戦したことによりかわうそとの漫才コンビ的関係が生まれたこと、この画期性を言及しておきたいのだ。
というのも、これまで鬼太郎作品で漫才コンビといえば子泣き爺・砂かけ婆のコンビがその位置を占めており、ゆっくり怠け者の子泣きとせっかちしっかり者の砂かけという相反するキャラのコンビの対比が夫婦漫才的な効果をあげていた。何より、原作でもこの二人は漫才選手権に出場したことがあるので、この二人の関係性が漫才師のそれと似ているのはまず間違いない。
そこにかわうそ・アマビエのコンビを新たに成立させ新旧漫才コンビとでも言うべき関係性が作られていたのは、この5期を語るうえで結構重要なポイントではないかと思う。ただ重要なのはコンビというよりも新旧の対比という部分だ。そのテーマが如実に出ているのがアマビエ初登場後しばらくして放送された、あの妖怪大戦争のエピソードだろう。
西洋妖怪・ニュージェネレーションズ
5期鬼太郎における新旧の対比を象徴するエピソードとして挙げられるのが、32・33話の妖怪大戦争の回。この回ではこれまでの妖怪大戦争回ではなかった西洋妖怪の世代交代、西洋妖怪ニュージェネレーションズ(ドラキュラ三世・魔女ザンビア・狼男ワイルド)の台頭が描かれたが、リアタイ当初は当時の視聴者に迎合したキャラであまり良い印象を受けなかった。特に狼男ワイルドがいわゆるオネェキャラになっていたから、余計に話題性のための味付けだとしか思えなかったのも無理はないだろう。
しかし、この後の地獄決戦や初代ドラキュラ伯爵の登場などを合わせてこのニュージェネレーションズの三人組を見ると、5期の制作陣がただのイロモノ枠としてこの三人をオリジナルで生み出したのではなく、「虎の威を借る狐」が本物の虎として成長する過程を描きたかったのではないかと思うのだ。
彼らが初めて登場した妖怪大戦争の回では、強いとはいえそれは部下の狼やコウモリ、パンプキンといった数の暴力による強さであって、彼ら自身は決して強いとは言い難い若造集団だと言える。ドラキュラ三世の初登場時の前口上にしても、それは所詮親の威厳を借りているばかりの中味のないキザ男の語りにしか過ぎず、この点でいうと6期の西洋妖怪軍団と比べれば誰が見ても軽薄で弱く見えるのではないだろうか。
ただそれでも私は6期の西洋妖怪よりも5期の西洋妖怪の方が描き方としては好きなのよね。6期の西洋妖怪の描き方は何というかパワーだけは異常に強くファシズム的な残忍さを持った集団という独裁国家の象徴以上のものがなく、各キャラクターの面白みや旨味みたいなものがあまりなかったので、他期の西洋妖怪と比べるとどうも面白みに欠けた。
一方の5期のニュージェネレーションズは親譲りの強さ・残忍さはあるものの、自己過信気味で相手をなめてかかる傾向があり、親世代の経験が受け継がれていないという弱点を持ったトリオで、そこが実に魅力的というか伸びしろがある三人として今は評価出来るのだ。6期と違って最初から能力・技術がカンスト状態でないからこそ、物語として流れが生まれたし、鬼太郎側とは別の悪役サイドの物語としても十分面白みがあったと思うのだ。
5期鬼太郎の西洋妖怪は親世代の西洋妖怪が経験不足の子世代のニュージェネレーションズに自分たちの経験・知識を受け継いでいく、そんな文化継承の物語とも捉えられる。事実、初代ドラキュラ伯爵登場後、あのキザだったドラキュラ三世は真面目に剣術の特訓をしている描写があったから、やはり5期鬼太郎は途中で打ち切りエンドにならなければ、親世代の苦労や経験を受け継ぎ、もっと強くて賢いニュージェネレーションズ組になったのではないかと思うと残念でならない。
5期の時代を象徴する回
各期によって時代を象徴するエピソードは色々あるが5期の場合だと何が挙げられるだろうか?そう考えた時に真っ先に出て来たのが45話の「ネコ娘騒然!? 妖怪メイド喫茶」。5期といえば秋葉原のオタク文化が隆盛期(実際はもっと早かったのかもしれないが…)の頃だったからメイド喫茶が鬼太郎作品に出て来たこの回が5期を象徴する回の一つだと思っている。ちなみにこの回の脚本は「地獄先生ぬ~べ~」の作者・真倉翔氏という点でも特別な回だ。
他にも44話の「チョイ悪! 目玉おやじ」が挙げられるが、これは内容よりも「チョイ悪」という用語そのものが時代を象徴していると言うべきだろうか。もう今はチョイ悪親父なんて話題にものぼらないからね。
褌を引き締める2年目
鬼太郎5期の2年目最初のエピソードは夜道怪が登場するオリジナルエピソードだったが、この回を見た時個人的に2年目は1年目の反省を活かしたストーリー展開を行うのだろうと思っていた。というのも1年目はよく出来た回もあったが、原作のないオリジナルエピソードが多かったのと、妖怪横丁内での内輪揉めを描いただけのぬるい回があったのもまた事実だ。そんなぬるいオリジナルエピソードばかりでは古参に嫌われると思ったのか、それとも実際にそういったマイナスの意見が届いたのかはさておき、2年目はオリジナルエピソードを引き続き描きながらも、「吸血鬼エリート」や「死人つき」といった過去の有名・人気エピソードも映像化しているのが注目すべき点だ。また、2年目は新たに妖怪四十七士探しという縦軸の物語が出来たこともあり、1年目と違って物語に連続性が出て来たのも評価ポイントの一つだろう(これについては後ほど詳しく)。
未完に終わった妖怪四十七士編とその他の未決着事項
妖怪四十七士探しは100話の黒鴉で終わってしまい、結局その後の四十七士探しが描かれることのないまま5期は劇場版をもって終わってしまったが、では打ち切られることなく続いていたらどんなエピソードがあったのだろうか。
そこでアニメ本編で覚醒しなかった四十七士を挙げると以下の通りになる。
ミンツチ(北海道)・わいら(茨城)・雷獣(栃木)・かぶきり小僧(千葉)・一つ目小僧(東京)・みかり婆(神奈川)・団三郎ムジナ(新潟)・若狭の人魚(福井)・ヤカンズル(長野)・松の精霊(愛知)・一目連(三重)・鉄鼠(滋賀)・一本だたら(和歌山)・すねこすり(岡山)・おさん狐(広島)・次第高(山口)・手洗い鬼(香川)・隠神刑部狸(愛媛)・山爺(高知)・ひょうすべ(佐賀)・磯女(長崎)・セコ(大分)・やんぼし(宮崎)
以上の23体が劇場版で覚醒した妖怪だが、雷獣・一つ目小僧・磯女はアニメ本編で登場しているし、すねこすり・セコはモブ妖怪としてちょっと登場しているので、完全にアニメ本編に出てないのはざっと18体くらいだろう。残り18体全てがアニメ本編で登場する予定があった訳ではないだろうが、妖怪四十七士編は恐らくあと10話くらいはあったと推測している。
その中でも気になるのは愛媛代表の隠神刑部狸だ。隠神刑部狸は原作だと「妖怪獣」のエピソードで登場し、狸軍団を率いて日本政府を乗っ取ろうとした凶悪妖怪なのだが、もしかするとこの5期でも「妖怪獣」の映像化があったかもしれないし、隠神刑部狸が四十七士になるということから見て、過去作にはなかった鬼太郎との和解エンドが用意されていたのではないだろうか?
もう一体気になるのが長野代表のヤカンズル。5期のヤカンズルは原作の四足歩行の奇妙な生物ではなく伝承通り薬缶姿の妖怪ではあるものの、もしかすると原作「悪魔ブエル」のエピソードもやっていたのだろうかとつい想像してしまう。悪魔ブエルのエピソードは個人的に好きだから映像化する予定があったのなら見たかったな…。
他にも5期で決着してないのは、ぬらりひょんファミリーとの戦い・南方妖怪の動向・中国妖怪チーとの決着・西洋妖怪軍団との決着と、ざっと四勢力との決着が未完のまま終わっているのだ。
それにしても結構風呂敷を広げていたのだな5期。
5期の個人的印象(物語の連続性とローカル色の強調など)
最後に5期の評価をしてこの感想記事を終えたい。全話を完全に覚えてないので印象で評価する部分もあるが、やはり評価する上で物語の連続性はポイントとして挙げる必要がある。3期や4期でも過去に登場した妖怪が味方として参戦するなど、物語としてのつながりがある部分があったにせよ、それは何といえば良いだろうか、関係が持続しているというだけの話で物語に連続性があったとは正直言い難い。妖怪大戦争のエピソードから地獄の鍵・地獄決戦へとつながり、妖怪四十七士探しへと物語が展開していくこの連続性は原作にも1~4期までのアニメにもなかった5期の特色の一つとして評価して良いだろう。
そして2年目後半から導入された妖怪四十七士によってご当地妖怪というローカル色が取り入れられたのも注目すべき点だろう。実は鬼太郎5期が放送される前の2006年頃、日テレで「秘密のケンミンSHOW」が特番として放送され、2007年に毎週放送される冠番組となった。この番組がどこまで日本全国の視聴者に影響を与えたかはともかく、地元の特色や県民性というものにスポットライトが当てられたのがこの2000年代の時期だと考えると、鬼太郎5期で妖怪四十七士が生まれたのは決して偶然ではなく当時改めて注目されたローカルネタというトレンドに基づいた発想だろう。打ち切りになってしまった分、制作陣の目的が完遂されていない所もあるだろうが、鬼太郎に馴染みが無い新参のファンに妖怪の面白さや親しみを感じてもらうための方法として、なかなか面白いアプローチだったのではないだろうか。
一方、物語に連続性を持たせローカル色を取り入れたことによってマイナスになってしまった部分もあるにはある。その問題点の一つがキャラの増大化で、数を増やし過ぎたことで相対的に各キャラの印象が薄くなることを避けるため、結果的に変な個性を付けて印象付けるという悪いキャラの肉付けがされている回が、全てではないにせよ一部で見受けられた。今パッと思いつくのが40話の鬼太郎グッズ回と69話の穴ぐら入道の回だが、この2つは物語の出来を評価から外したとしてもキャラの扱いがあまり上手くなかったイマイチな回だったと思う。
あとこれは鬼太郎作品に限らないが、回が進むにつれより強い敵を出さないと話が盛り上がっていかないという課題点をこの5期はあまり賢くクリアしている感じがしなかった。より強い敵が出たらそれに匹敵する必殺技を鬼太郎が体得し、それが通用しない敵が出たらまた更に強い必殺技を覚えていく…というイタチごっこの繰り返しになっており、そこがバトルものとしては単調になってしまっている所があったと批判的な言い方になるがそういう部分もあった。劇場版で登場した敵が邪神・ヤトノカミという過去最高クラスの敵になったのも、頭脳プレイ要素をなくして完全にパワーをぶつけるだけの戦闘をメインにしてしまったからではないかと私は考えているのだ。
「子供が見るヒーローものだから頭脳プレイなんて小難しい要素がなくてもいいじゃないか」という意見もあるだろうが、5期の劇場版といい6期の最終回といい、ここ最近の鬼太郎アニメはややドラゴンボール的な王道展開に頼り過ぎている部分が無きにしも非ずだと思っているので、そこはちょっと創意工夫があっても良いかなと、欲張りな古参としてちょっと物申しておく。原作だって必ずしも鬼太郎の能力だけで全ての敵が倒されている訳ではないからね。
以上、5期の26話以降を振り返っての感想・総括になったが、また26話以降の配信があったらその時は感想を書こうと思うので、またその時読んでいただけたら嬉しいです。ちなみに5期は42話のかわうそ回と50話の陰摩羅鬼回、72話の朱の盆にスポットライトを当てた回、89話のいそがし回がおススメです。