タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ケメルマン式十円玉ミステリー【ノッキンオン・ロックドドア #06】

今回は1話完結だったので隔週感想アップの予定を破りまーす。

 

「十円玉が少なすぎる」

ノッキンオン・ロックドドア (徳間文庫)

6話は原作1巻の6話目に収録された「十円玉が少なすぎる」。依頼が来なくて暇を持て余した倒理と氷雨のために、薬子はその日の朝の通学途中で耳にした言葉を口にする。

「十円玉が少なすぎる。あと五枚は必要だ」

それは、スーツを着た三十代くらいの男がスマホで通話していた際に口にした言葉で、この不可解な言葉から、どんな推論を導き出せるのか。倒理と氷雨は推理ゲームとしてこの言葉に隠された意味を探っていく…というのが今回のあらすじだ。

 

ということで、今回は男が口にした一言から、

〈Why〉男は十円玉を使って何をしようとしていたのか?

を解いていくというストーリーだが、正直今回のエピソードはドラマ化しないと思っていたので予告でこれをやると聞いた時は「マジか!」と内心驚いた。

何故なら、今回の物語は事件現場にも行かず事務所内でただひたすら推理を進めていくだけの、ワンシチュエーションで進展する話だからであり、映像化すると単調で面白みに欠ける可能性がかなり高い。また、作中で倒理と氷雨が次々と提示する推理・仮説を映像として表現する必要があるため、そういった演出の難しさも本作の映像化のハードルの高さを物語っているのだ。

 

原作は倒理・氷雨・薬子の三人によるディスカッションだったが、ドラマは氷雨が不倫調査中のため電話経由でディスカッションに参加。また穿地や仲介屋の神保も加わっているため、原作より賑やかな推理ゲームになっているのが特徴的である。ドラマの出来栄えについては最後に言及するとして、それよりも今回は先に語っておきたいことがあある。

 

ケメルマン発祥、究極の推理問題

ちょっとした短文から出来る限りの推理・推論を導き出すという今回のような形式のミステリが生み出されたのは1947年、アメリカの推理作家ハリイ・ケメルマンが『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の短編小説コンテストへ応募した「九マイルは遠すぎる」という短編小説が始まりとされている。

 

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

ケメルマンが作品を発表する切っ掛けとなったのは、雨の中でハイキングを行ったボーイスカウトを労う新聞記事である。当時教師をしていた彼は、この新聞の見出し文を題材に、この文章からどれだけ可能な推論を引き出せるのか、それを課題として生徒に与えた。しかし生徒たちが提出した推論はどれもパッとしないものばかりで、結局ケメルマン自身がこの題材を練り上げて短編小説として応募し入選。後世のミステリ作家にも影響を与える名作短編として今なお読み継がれている。

 

そんな名作「九マイルは遠すぎる」のあらすじを説明しよう。

ニッキー・ウェルト教授は、語り手である友人の「私」に10語ないし12語からなる文章を作ってくれれば、思いもかけなかった論理的な推論を引き出してみせると言う。そこで「私」は、

「9マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ」

(A nine mile walk is no joke, especially in the rain)

という11語を述べる。ここからウェルト教授は丁寧に推論を重ねていき、遂にある真相に辿り着くのだ。

 

一般的なミステリと違い、情報は一言二言の文章のみという極限まで削りに削った、正に究極の謎解きミステリ。気になる方は是非読んでみてはいかがだろうか。

ちなみに、国内でこのケメルマン式の謎解きミステリの考案に挑んだミステリ作家は何人もいて、私が読んだことがあるのは有栖川有栖「四分間では短すぎる」(『江神二郎の洞察』所収)だけだが、他にも「待合室の冒険」(恩田陸『象と耳鳴り』所収)、「九百十七円は高すぎる」(乾くるみ『ハートフル・ラブ』所収)などがあるそうだ。

 

※その他の作品については、青崎氏のツイートを確認してもらいたい。

青崎有吾 on X: "九マイルオマージュの短編はたくさんあって、 有栖川有栖「四分間では短すぎる」(所収・江神二郎の洞察) 恩田陸「待合室の冒険」(象と耳鳴り) 松尾由美「九か月では遅すぎる」(バルーン・タウンの手鞠歌) 乾くるみ「九百十七円は高すぎる」(ハートフル・ラブ)" / X

 

日常に潜む小銭ミステリ

今回は短文から推論を引き出すというケメルマン式のミステリであることに加えて、小銭を題材にしたミステリであるのも注目すべきポイントだ。実は、小銭をテーマにしたミステリはフィクションだけでなくノンフィクション、つまり実際にあった謎として過去に推理作家の若竹七海「五十円玉二十枚の謎」と題して読者や仲間の推理作家にその謎を提示したことがある。

それは、若竹氏が池袋の書店でアルバイトをしていた時の話。その店には、毎週土曜日になると五十円玉を二十枚も握りしめた男が現われて、千円札への両替だけを済ませるとそのまま帰っていったというそれだけの話なのだが、この謎に多くの推理作家が挑み、その回答は『競作 五十円玉二十枚の謎』として一冊の本にまとめられた。

 

競作五十円玉二十枚の謎 (創元推理文庫)

実はまだ私も読んだことがないのであまりハッキリとした感想は言えないのだけど、表紙に載った名前の数を見てもわかるように、情報がシンプルなだけに回答も多岐にわたるようで、当然ながら真実は藪の中。魅力的な謎を提示してくれた五十円玉二十枚を握りしめた例の男は生死不明であるものの、実在していたことは間違いないのだから、そこもミステリとしての魅力につながっている。私たちのすぐそばに謎は転がっていることを教えてくれたのだからね。

 

そんな訳で、「十円玉が少なすぎる」はケメルマンが発明した謎解きの形式に、日常の謎の定番アイテムである小銭を取り入れた、正にミステリマニア垂涎の一作なのだ。ここまで言えば、ミステリにそんなに詳しくない人でも、本作が何故シリーズ中でも人気があるのか、わかっていただけたのではないだろうか?

 

風ヶ丘五十円玉祭りの謎 (創元推理文庫)

ちなみに青崎氏は本作の他にも「風ヶ丘五十円玉祭りの謎」という小銭テーマの短編を発表しており、これは裏染天馬を探偵役とした同名の短編集に収録されている。

 

さいごに

これまではドラマの改変ポイントを重点的に解説するような感想記事だったが、今回は先行作品の解説をメインにした。一人のミステリ好きとして、こういう機会に少しでも多くの人にミステリ小説を布教しないと、何のためにこのブログをやっているのかわかったものではないからね。(これでも某大学の元推理小説研究会の会員なので)

 

以上の解説をふまえて今回のドラマはどうだったかを評価すると、原作の三人のディスカッションからドラマは五人に人数が増えたことで、会話劇としての厚みが生まれたのが面白いなと感じたポイントの一つである。その会話劇にしても、ギッチギチに推理の応酬を展開させるのではなく謎解きに全然興味がない穿地を間に差しはさむことで見やすくしているのと同時に次々と展開される推理が視聴者の頭に入る時間を与えているという点でも効果的だったのではないかと思う。「遊び」の部分がないとやはり情報を羅列していくだけという感じになってしまうし、そこの塩梅が今回はうまくいっていたと私は評価している。

 

そして最後に「七年は長すぎる。手間だが一年でやれないことはない」というドラマオリジナルの謎解きがオマケで付いているのも見逃せないポイントだ。勿論この謎は不倫の男女という情報があるので謎解きとしては大したものではないのだけど、それでもケメルマン式の謎をドラマオリジナルでやろうとする脚本の気概は称賛に値する。だって私がこの原作でドラマの脚本を書くとして、オリジナルで追加の謎なんて書きたくないし考えるだけで頭が痛くなるもの。それをやろうとしただけで偉いなと思うし、本作が日常の謎というミステリの一形式であることを理解していないと最後に氷雨が言った「この世界は謎で満ち溢れているね」という台詞は出て来ないよ。